(14-1)寿司の歴史関連食物の歴史」


平安時代の食膳

Ⅰ.縄文時代
1.時代の概説
 まだ大陸と地続きだった更新世こうしんせい(旧名洪積世;約258万年前から約1万年前)からすでに人の生活が始まっていた。 更新世後期には、旧石器時代文化が日本原始文化として登場し、さらに完新世かんしんせい(旧名沖積世ちゅうせきせい;最終氷河期が終わる約1万年前から現在まで)に入いった。
 縄文時代は今から15000年まえ即ち紀元前1万3100年から、紀元前約2300年の約1万年強続いた。 地質年代では更新世末期か完新世にかけてである。
 旧石器時代の研究は近年、その緒についたばかりで、その内容はまだ明確に知り得ないが、遺跡の立地条件や石器の種類、形態から見て狩猟生活が中心であったと考えられる。 狩猟は縄文時代においても生業の中心となった、それと共に漁労もその早期初頭から盛んであった。 縄文文化の属する新石器時代には、大陸等において有畜農耕文化であることを特徴とするが、我が国では、何千年にもわたる継続期間をつうじて自然採取経済を原則とし、わづかにその終わりころに畑作農業が副業的に存在している。

2.食糧採取技術
 食物獲得手段は、第一に自然環境、第二にその生活様式、文化程度によってほぼ決定すると考えてよい。 わが国の原始時代・縄文時代においては、狩猟的手段、漁労的手段、一般採取手段が中心を占め、一部に畑作農業手段がとのなった。 
 まず、狩猟的手段は、哺乳類動物、鳥類を対象として、それらの動物の習性に従い、種々の利器、器具、その他による方法が行われた。 
 すでに旧石器時代においても握り槌形石器や刃器形石器、槍先などの狩猟用具が使用されているが、縄文時代になると各種石器、骨角器こっかくき、木製弓などが発達し、射殺法(弓、矢)、刺殺しさつ法(槍、銛もり)、斬殺ざんさつ法(剣、斧)、撲殺法(棒、槌)、投擲とうてき法(投玉、石)、釣掛法(釣針)などが行われたと考えられる。
 猛獣に近い獰猛な動物、敏捷なものや群棲性をもつ動物、高空飛翔性の鳥類さえも巧みに捕獲していいる。 縄文時代には繊維工芸が極めて発達しているので、網取法(張網、投網、掬網)や罠取法がおこなわれたことも考えられる。 また、原始人特有のトリカブト毒に対する知識から毒殺法の存在も挙げられる。

 次に漁労的手段には、各種魚類、貝類を始め、水棲哺乳類動物、甲殻類、頭足類、爬虫類、などを対象としたが、各種海藻類も、明瞭な遺物の出土例はなくとも、主要な漁労対象であったと考えられる。 漁労具の中心は骨角製の釣針、銛であって、これらの作りと効果とは現在のものと変わりないほどであり、射殺法(弓、矢)、刺殺しさつ法(槍、銛もり)、投擲とうてき法(投玉、石)、釣掛法(釣具―釣針、浮標、沈子)や、網取法(張網、投網、掬網、網具―糸網・籠網・浮標・錘おもり)、簗やな取法、堀取法(棒、熊手様器具)、毒殺法(瘡毒法、餌毒法、流毒法)、素手法などが行なわれたと考えられる。 さらに補助方法として餌寄せ法、燈火寄せ法、汲出し法、掻寄せ法、などもあったであおう。 漁獲法には、陸上よりのものと、潜水によるものがあり、補助器具として舟がもちいられた。 遠洋性魚類や大型海棲哺乳類のクジラも捕獲している。 
 食べることが可能な動物を悉く捕獲対象としたように山野に豊富に自生する植物も食べられる範囲において一般採取が盛んに行われた。 石斧と呼ばれる石器が多く発見されるが、 これは土堀の道具に使用された形跡が強く、自然薯やまいもやクズ、ワラビ、ユリその他の球根などを掘る目的があったとおもわれる。 

3.食糧の種類
 縄文時代の人々が食糧にした動植物の種類は、貝塚を始めとする遺跡調査によりかなり詳しく判明している。 哺乳類のなかで最も多く食品となったのはシカとイノシシであった。 日本の古語で「肉」のことを「シシ」(宍)と言い、その代表的な動物に「カ」と「ゐ=い」がいた。 後に上下にシシがついて、「シシカ→シカ」、「イノシシ」の名の起源である。
 魚類ではマグロ、カツオ、イワシ、タイが多く、有毒のフグさえ食用にしている。 サケ、マスは海流の関係で現在よりずっと西の河川にも上流している。
 イカとウニも捕食されているが、このことは同時にタコを食べていたことを推測させる。 
 植物では、クルミ、クリ、トチなどの澱粉質の木の実を多く採取している。 縄文時代人は、各季節ごとに食糧の採取対象をきめ、春は貝類、夏は魚類、秋は果実、冬は哺乳類に重点をおいていた。 かた、クリの木を管理保護したり、幼獣を捕らえないという生産の前提となる知恵を以ていた。

4.調理加工法
 食糧として採取された物質の多くは、食用に最も便利なように、まず可食部分と不可食部分とに分けて、形を適当に整理し、美味に調味し、食べ易く工作する。 また殺菌消毒、消化可能にするための種々の加工が行われる。 これが調理であって、その方法で、①割裂、切断、粉砕、②加水、加熱、③保存を兼ねた各種加工法ニ大別し得る。 

5.調味料
 調理には調味料の使用が重要な役割を持つが、自然食時代の調味料はどうであったか。 縄文時代時代では明らかでなかったが、近年関東、東北地方の一部で製塩土器(塩を製造するための器;縄文時代に発生、沖浦遺跡等)が発見された。
 刺激性の辛さくをもつ山椒の実、苦い辛さをもつ巻貝の一種レイシ、キサゴなどは、単なる食品としてでなく、その辛味が特に愛用されたようである。 青森県是川泥炭遺跡から山椒を半ば充填した土器が出土したり、関東の貝塚からレイシが多く発見されている。 

6.火食と生食
 火の利用の開始は、最初の道具と認められる石器の製作使用開始とほぼ同時であった。 加熱は言うまでもなく食物を食べやすく軟弱とし、味を良くし、体温を高めると同時に殺菌消毒保存などの効果がある。

7.食器の多様性
 縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。 土器形式の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期にかけられる。 
① 草創期 約1万3千年前から約1万年前
  生活 環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。 狩猟の獲物は、
        ゾウや野牛の大型哺乳動物からイノシシの中・小哺乳動物にかわっていっ
        た。 小型の骨製U字型釣針出土
  土器 豆粒文土器・隆起線文系土器・爪形文系土器・押縄文文系土器(多縄文系
        土器)女性像を線刻した小礫がつくられる。
② 早期  約1万年前から6千年前
  生活 数個の竪穴住居で一集落を構成する。 組み合わせ式釣針。 ドングリや
        クルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立。 狩猟具として弓
        矢が急速に普及した。
  土器 圧煮炊き用の土器が出現。 縄文・撚糸文の突底土器が作られた。 日本
        最古級夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器
        という早期から終末までの土器が層位的に出土した。 小型の土偶がつく
        られる。
③ 前期  約6千年前から5千年前
  生活 竪穴住居が広場を囲んで集落を作る。 湖沼の丸木船がつくられる。 漁
        労活動開始
  土器 この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器
        が一般化する。 土器は波状縄文を施した繊維土器が盛んにつくられる。
④ 中期  約5千年前から4千年前
  生活 集落の規模が大きくなる。 植林農法の種類もドングリより食べやすいク
        リに変わり大規模かする。 
  土器 石棒・土偶などの呪物が盛んにつくられる。 石柱祭壇。 抜歯の風習が
        始まる。 気温低下はじめる。 立体的文様のある大型土器が流行する。
⑤ 後期  約4千年前から3千年前
  生活 大型貝塚。 内陸地域にも貝塚ができていた。 製塩専業団、塩媒介集団、
        塩消費集団。 伸展葬。 交易目的の漁労民発生
  土器 村の一角に土器塚が出来る。 製塩土器
⑥ 晩期  約3千年から2300年前
  生活 木製の太刀。 頭部外科手術か? 漁労の網。 東北の太平洋側に銛漁開
  土器 山の寺式土器(水田遺跡)・柏崎式土器(水田遺跡)




                     Ⅱ.弥生時代と古墳時代
1.時代概説
  弥生時代は、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までに当たる時代の名称である。 採取経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とする生産経済の時代である。
 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。 当時、弥生時代は紀元5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼった。 
 縄文時代晩期には既に水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からはずれます。
 従来、紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心ととした生活体形が伝わり、九州、四国、本州に広がった。 初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑なばたけ遺跡、福岡県板付遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。 弥生時代の始まりです。 
 弥生時代の始をいつの時点にすべきかは、諸説ある。 そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代といういみであった。 ところが、弥生式土器には、米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食糧生産に基礎を置く農耕社会であって、自然食時代とはこの点で区別されるべきだとする考えが主流になっていった。 
 弥生時代の時代区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向を踏まえて早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。 
 2003年国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比をつかった年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代mの開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。 これによると、早期の始まりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期の始まりが約500年遡り紀元前800年頃から。中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期の始まりが起原50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。
 古墳時代は、古墳特に前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰退を如何に捉えるかで議論があるが、一般に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末ころまでの約400年間を指すことが多い。 
 この時代はヤマト王権が倭の統一政権として確立し、善方後円はヤマト王権が倭の統一政権として確立していく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えている。 3世紀後半から4世紀初めころが古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている。 実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わる。 

2.農耕起源と食生活の変革。
 縄文時代の後期王帯晩年には、アワ、ヒエなどの畑地植物が副業的に栽培されまたイネも栽培ざれていた。 しかし、稲作農耕を生業としてコメを常食とする生活が展開したのはやはり弥生時代になってからである。 
 イネはアワ、ヒエなどの西北方系植物と異なり、南方系水田栽培植物つであって、その原産地の一つである東南アジアからわが国へ渡来したと考えられる。 稲作農業は九州から瀬戸内海沿岸地帯を通過して近畿地方に中心を作り、更に東北に進展した。 
 自然食時代は、食物を求めて移動生活することが多かったが、農耕生活では、農耕地近傍での集団定住が促進され、集落の規模が著しく膨張した。 このような農耕集落は、大和朝廷の出現後、つまり考古学上でいう古墳文化時代には各地にすっかり根を下ろして今日の農村のもととなった。 稲作農耕は穀物栽培中で最大の労力と労働時間を必要とするが、しかし、世界のう胞中単位面積当たり最高の多収穫法である。 

3・古代日本米
 弥生式文化の遺跡から発見された日本古米には、現代と同じ丸味をおびた物が多いが、同時に縦長のコメも共存している。 そこで従来は。前者は既に何処かで温暖化されて日本種(Japonica)で後者は熱帯圏から来たインド種であろうと考えていた。 しかし、最近の遺伝子さで同一のものであることが判明した。 
 日本米の故郷として中国東南部でかないかと考えられている。 前述の広東福建省奥地の野生種は赤味をおびたやや長手の米を結実する。が、この赤米が日本へ渡来し、変異によって丸みのある日本米になった可能性がある。 日本では丸味を帯びた白米が特に好まれて選択され、現在の日本米が誕生したと解釈することができら。
 もしこの赤米が日本米の親型であるなら、現在でも古い伝統をもつ古代的祭事や祝事に「赤飯」としてわざわざ白米に小豆で着色した物を作るのは、古代米が赤く赤飯を食べていたと考えらてる。 
 米は弥生時代以来少なくとも2千年の歴史をもっているが、国民が米を常食にしていたわけでない。 皮肉なことに直接コメの生産にたずさわる農民自身、常時米食を取ることが非常に困難であった。 一般農民は米よりアワ、ヒエなどの雑穀食を取るのがふつうであった。

4.米の調理法
 米の調理法には、蒸す、煮る、焼く、炒めるの方法がある。 穀物調理法には、粉飾と粒食があり、欧州では石器時代にすでにパンが作られていたが、東洋では米や麦の伝播に伴い粒食が好まれた。 
 中国新石器時代土器に袋型をした三脚を有する鬲れきや底部に若干の少孔を穿った甑こしき、また鬲と甑を結合させた甗こしきなどがあり、これは明らかに穀類を粒のまま蒸すのに使用したものである。

 この様な穀物を蒸す技術は、米の流入と共に日本に伝わったらしく。弥生式土器の前期にすでに甑が存在している。
 わが国の甑の用法は、この中に布で包んだり、籠・笊に米を入れ蓋をし、甕かめ鉢形土器の上に載せ、水蒸気で蒸した。 甑の底の蒸気孔の上には木の葉(主としてカシワの葉が用いられた)を敷いた場合も多く、そのことからカシワは炊事の代名詞となり、その専従者を膳部ぜんぶ・かしわでと呼ぶようになった。
 蒸す方法は古代米の調理法の代表とされ、蒸した米を飯いいと呼んだ。 飯いいに対して固粥かゆとよぶ、今日の炊飯に当たる水を入れて煮る方法もあった。 今の粥かゆに当たるものは「みずがゆ」または「ひめかゆ」などと呼ばれた。
 米の調理法の一種として、一度蒸した物を掌で固く握り潰して薄い円形にした持飯もちいひと呼ぶものが作られており、その円形のもの二枚の間に副食(果実や肉)を挟んでサンドイッチ状にし、木の葉で包んで紐で縛って外出の際の携帯食として持ち歩いた。 これは当時の祭事などの行事の多くは野外であったので、祭祀用にも用いられ、ひいては現在の正月の重ね餅として形を残している。 

5.食糧の採取法
 静岡市登呂遺跡(弥生時代)の水田遺跡の調査によると、低湿地に木枠を打って築いた畔により。ほぼ一定の面積に区画された田の字型の水田(四百坪から六百坪の広さ)が集落の近傍に展開していた。 稲代はまだ作られていなかつた。
 農具は木製の鍬くわ、鋤すきを用い、深田ふかたでは田下駄えお履いて作業し、肥料には緑肥や灰を鋤き込む程度であった。 収穫は包丁(扁平な研磨石器)で穂だけを摘んだ。
 農業経営は、古墳時代に入ると、渡来人により大陸からもたらされた高度な農法の採用や鉄製農具の普及、牛馬の使用などにより耕作能率が上がった。 このころから稲代法も発達した。 稲代法は、籾もみを密に播いて発芽させ、田植えが出来る大きさまで育てる方法である。 労力はそれだけ多く必要となるが収穫は増加するため次第に一般化していった。 
 畑農業もアワ、ヒエ、大麦、小麦、キビ、豆、ソバ、などを始めマクワウリ、ヒサゴ(瓢)、桃、オオネ(大根)、アオナ、ニラ、ヒルなどの果樹野菜の栽培に及んだ。
 古代遺跡から出土する主なものでは右の他に野モモ、カキ、スイカ、クルミ、コウメ、ソラマメ、うずらまめ、シロエンドウ、インゲン豆、アンズなどがあるが、実際に栽培種と共に野生植物の採取も縄文時代とかわらぬほど盛んであったとおもわれる。 
 狩猟漁労手段は農耕の発達につれて従属的産業化したいき、古墳文化のころには、一部に遊戯化の傾向が現れたが(鷹狩、鵜飼)、狩猟・漁労は石器時代おどではないが相当自由に行っている。 哺乳類動物おうちではシカ、イノシシがやはりもっとも多く捕らられた。
 なお、家畜では馬、牛、犬、豚、鶏などの渡来動物あ飼育されたが、食用以外の目的で飼うことがおおかった。 

6、調理加工法と調味料
 この時代に入ると調理加工法に進歩が見られ種々の加工食器が加わった。 生食はこの時代には少なく、動物性では貝類に限って行われた。 一方、加熱調理は前代に続いて盛んであった。 
 弥生時代の登呂遺跡からは摩擦発火法による発火器が発見され、水の採取には井戸の設備が行われている。 調理具にも鉄製刀子とうす(現代の小刀)などの金属器使用がはじっまった。 
 米の加工品として酒、飴が早くから作られた。 初期の酒はモチ米を原料にした甘味をもつ一夜酒、即ち今の甘酒であった。 後には渡来人による醸造法の輸入などにより、ウルチ米を用いアルコール分の高い酒で、古典に醴酒こさけ、醇酒からきさけ、八塩折酒やしおりのさけ、甜酒たむさけなどの種別が書かれているが、いずれも濁酒である。
 この時代にようやく塩が広まり、重要な調味料となった。 飴、密は甘味調味料とされ、その他、酢、乾燥果実、果汁、干魚なども調味の用にされたようだ。 香辛料にはハジカミ、カラナ(辛菜;カラシ、ノビル、オオネ、カブ、タデなど)、キサゴなどがあって、香辛は塩味による生食が好まれた。 当時オオネと呼んでいた今の大根は初め辛い小さな野草であって辛味が愛されたが、のち根を太く改良栽培されrて辛味は失われた。 当時このような十字花科植物は同時に薬草的意味を合わせ考えて食べられた。 
 調理法の一種として発酵食品の増加したことが注目される。 それは酒以外の醤ひしおと呼ぶ、いわば発酵塩蔵食品であって食物保存、調味料も兼ねた有能な食品である。 醤にはおもにおよそ次の様な種類がある。 後の味噌、醤油の元である、米・麦・豆などを発酵させて塩を含ませた穀醤こくびしお、魚介や鳥獣の肉に塩を含ませた肉醤にくびしお(後の塩辛や鮨)、十字花科植物や果実、海藻を塩で付けた草醤くさびしおの三種である。


7.塩の登場
 自然食時代には動物の臓器食によって、塩分補給を行ったと考えられるが、農耕社会に入ると、内臓器官を嗜好する習慣は急速にきえた。 従って穀食生活では当然塩分が不足する。 そこで、海水から塩分をとる製塩が始まった。
 古くは製塩のことを「藻塩焼く」といった。 ところでこの「藻塩焼く」とは、海藻を焼いて出来た灰塩に水を加え、釜で煮詰めて蒸発させる方法と説かれている。 しかしこれは文字通りに藻を焼くのでなく、藻を利用して濃厚な鹹水かんすいを作るため水分を蒸発させる方法なのであって、要するに後の製塩法と変わらないのである。  
 塩はこうして登場したが、大量に生産できない当時にあっては非常な貴重品であった。 

8.食器と竃
 弥生式土器は縄文式土器に比べ焼成がよく、良質の粘土を原料として、薄手で形が整い文様も洗練されている。 用途によって形態、製作手法、文様の差違が明らかであった。
 古墳時代になると、弥生式土器の系統を継いだ無文様の土師器が用いられた。 また大陸から進歩した製陶技術が輸入され、還元焔で焼いた固い質の耐久性を有する須恵器も現れた。 
 この時代には木製容器も盛んに用られた。 これは鉄製工具普及によって盛んになったと思われる。 
 この時代には室内に厨房が出現したことが注目される。 弥生時代ではなお竪穴式住居の中央に炉があり、暖房、照明を兼ねて炊事用にされたが、古墳文化に入ると庶民の土師器を伴う竪穴式住居址のうち古いものはやはり炉を有するが、後にはほとんど炉を欠く代わりに方形住居の一方の壁に竃の設備をもっている。 この竃は壁面を掘り込み、粘土で焚口を造り、その奥から屋外へ向けて煙突を儲けた。
 中央に炉が無くなり空間が広まったことは居住の機能の進歩を示すが、同時に竃の出現は食物文化の進歩した証拠でもある。 

9.箸と匙の出現

            (若狭取箸)古式箸形
 食膳用具が次第に整ってくると、箸や匙を使用することもはじまった。 現在の二本箸は、唐箸からはしと呼び、その使用が一般化したのは奈良時代からと考えられ、正倉院宝物には、銀台に鍍金し中央部をやや太くした金銀箸があるが、通常は木製箸で同様なものが使用されていたと見られる。 ところでそれ以前の箸については、古典にその名称が見えるが、まだ遺物の発見はない。 しかし大嘗祭において古来の箸が使用されている事実がそんざいする。 この古式の箸とは、竹などを用い丁度ピンセット状に二つに折り曲げた形をしている。
 木製の匙や瓢は木製食器の出現と共にあらわれた。 正倉院の宝物には貝匙がある。 食事の際に箸と共に用いたことが知られる。 

10.祭祀と食物
 古代生活における最も重要な行事として祭祀があった。 祭祀は神霊を呼び寄せて神と人とが交わる機会であると考えたのが我が古代人の神観は、全く生きた人に対すると同じである。 人の食物は同時に神の食物であり、神の食物は同時に人の食物であると思ったため、神饌には当時の食物の主な物が全てそなえられた。



                         Ⅲ.奈良時代
1.時代概説
 国内における階級の成立、資本の偏在を背景として、高級文化受容のために盛んとなった大陸との交通は、仏教文化伝来によってさらに拍車がかけられ、随,唐との正式国交が開始されるに及び、ついに大陸国家の影響は我が国に社会的変動や文化革新を起こさせることとなった。 七世紀なかば(645)の大化改新による中央集権国家の実現及びそれに前後する隋唐文化の模倣が即ちそれである。 
 大化改新の結果できた強力な中央政府は、藤原京についで八世紀初頭に平城京を造営、天皇を中心として律令政治を推進した。 班田制、税制の施行は政府の財政を豊かにし、貴族階級を一層富裕にして、唐風の生活様式が奢侈的に受容され、貴族インテリ階級の信奉した仏教は、華やかな芸術、文化となって都を中心に開花した。 
しかし、こうした都市文化の繁栄をよそに、地方農民の大多数は貢租、労役、兵役の過重な義務負担に苦しみ、ますます貧窮化し、その生活水準はほとんど前代のままに留まっていた。 

2. 貴族食と庶民食の分離
 前代の貴族の権力と富力とは、大化改新による天皇制の集権国家実現達成により、さらに増大し、貴族と庶民との間には大きく隔てられていった。 天皇及び貴族は政治権力と豊かな財力とを把握し、その支配階級としての地位を自ら律令制定によって確立したのである。 
 この様な階級社会の確立は、食物文化の上に明瞭に現れ、従来はさほど開きのなかった貴族と庶民との食生活の差が著しくなった。 貴族の生活様式は豊かな経済力の下にすべて前進的であって、奢侈てき高級文化として大陸から輸入した異国要素の模倣に熱中し、ここに中国食即ち唐様食の採り入れが俄かに盛んとなった。
 貴族が米を常食にしたのに対し、庶民のほとんどは、租米の余剰では常食に足らず、雑穀を多くとった。 
 貴族食と庶民食の分離は、食器の上にも現れた。 例えば漆器、青銅器、銀器、ガラス器、彩釉陶器などが、須恵器と共に用いられていた。 しかし、これに反し庶民は前代同様の須恵器や土師器、それに木製食器の範囲を出ていなかった。 

3.税制及び貨幣としての食物。
 律令社会の成立は、国民に強制的に納税義務を負わせ、それによって国家財政がまっとうされることとなったが、唐の精度に倣って租・庸・調と名ずけられ、労役以外は全て現物税がおこなわれた。 
 税の重要な位置を占めた食品は、物品貨幣的にも利用され、食品を仲介する品物交換を発達させた。 

4.食糧の採取法と種類
 当時の水田耕作は、猪苗代法が一般化したが、なお直播法もあったらしい。 収穫に至るまでの除草、施肥、中耕などの過程はまだ十分に発達しておらず、当時上田1段の収穫高は、頴稲えいと(穂首で刈取った稲)50束(1束は5升、現在の約4合)であった。 これを太閤検知時の上田と比較すると下記となる。
   大化改新時の上田の収穫量=50×4合=200合=2斗
   桃山時代の〃      =1石5斗
 野菜の栽培種が急に増え、宮中はじめ各家でも付属の蔬菜園を儲けて直栽培をおこなった。 一方古来の習俗の一つである菜摘み(野草採取)もやはり、盛んであった。
 狩猟は全く従属産業と化し、漁師のみが専ら弓矢の業を営んだ。 しかし、鷹狩と鵜飼などは貴族の間に遊びとして残り、また薬猟と称して、シカやイノシシ狩りを年に何回か行い、その肉を薬用として食べる行事もあった。 従って仏教文化」隆盛の時代とはいえ、特定の仏者や斉会さいえ以外は動物性食品のタブーは厳しくなく、上流階級でも表面上ははばかったのみであることが知れる。

5・栽培植物と家畜の増加
 律令国家の中心は国都にあり、唐の都長安に倣って造営された平城京は我が国未曾有の大都市として、発展を遂げたのであるが、このような都市の発達は、非生産生活者の集中という現象をもたらし、食糧生産上に少なからぬ影響をもたらした。 平城京はその盛時には二十万人の人口を擁したと推定され、この大消費都市を支える食糧は諸国より集まる物品税、貴族、寺社所有地よりの収納の他に、後背地から輸送され、市の商品となった物の量も多かった。 都市人口の増加に対処するためには栽培植物、飼育動物の増加を当然必要とした。 ここに、栽培品種や家畜の普及を促すこととなった。 
 野菜は言うまでもなく野草の中から選択栽培されて、栽培品種となったものであるが、実はこの選択されたものの多くは、元来薬草的意味に扱われていた植物であった。 

6.食器の多様性
 食器は前代同様に堅焼きの須恵器(陶)と素焼きの土師器が一般に使用されそれに木製食器が併用された。 盤さら、坏つき、高坏たかつき、鉢、甕かめ、提瓶さげべ、瓶子へいしなどと呼ばれる各種の器が作られた。 食膳具においては飯類、膾なます。焼き物、汁もの、羹あつもの、調味料などを盛る用途、食品毎に器形が分化する傾向をしめした。
酒は酒壺に入れ杯を用いて飲んだので杯さかずきの名が起きた。 二本の唐箸からはしの使用が始まり、食事には箸と共に匙の使用もはじまった。 食物の収蔵、貯蔵には桶、御櫃おひつも使用され、料理には包丁を用いた。 薪とともに木炭の使用が始まった。

7.儀式及び接待食の成立
 この時代には、我が国古来の信仰上の行事と大陸中国風の習慣とが合わされて、年中行事が定型化してきた。 神祇令には祈年祭を最初とする各月の祭りが規定されており、新嘗祭、大嘗祭などには宮中で宴がはられ、また正月元旦の朝賀に始まる朝儀も各種行われ、群臣に饗宴を賜る正月七日の節会、三月上巳じょうしの節会、十一月の冬至のい賀苑などのような改まった饗宴が盛んとなった。 
 饗宴食のための儀式用調理法もでき、貴族階級の間でもしばしば宴が開かれ、丁重なもてなしを示すのに食品の量を増すこことをもってした。 出席者の官位によって食品の数量に差があることも判明した。

8.調理法の進歩
 貴族を中心とする食生活の主食は、米を蒸した飯いひをもっぱら常食としたもので「召し物」の代表となり、「めし」と呼ばれるようになった。 その他に水煮した固粥かたかゆ(今の飯)や汁粥しるかゆ(いまの粥)もあり、米以外の雑穀も同様にして食用された。 当時の食事は一日朝夕の二回が定まったものであって、その中間に間食もおこなわれた。 
 副食は加熱調理を原則とし、植物性食品においても生食は少なくなっていたが、しかし、貝類は例外的に生食が喜ばれた。 
 「万葉集」によれば薬猟によって得たシカの肉や臓器を膾なますにすることこともあったらしい。 当時の膾は酢に浸したものと限らず、塩や醤ひしおをつけたものも指したらしい。 
 この時代には乾燥食品が普及し鳥獣肉の乾燥物や干魚は都会に住む貴族の主要動物性蛋白源となった。

9.保存食の増加
 保存食は貢租こうそ物品として、地方から中央へ輸送され、また市での取引の仲介物とされたもので、全国的に普及した。 保存食の大部分は乾燥食品又は塩蔵食品である。 動物性食品の保存には鳥獣肉を乾燥した腊きたい、干魚、魚肉を細く割り塩を付けて乾かした楚割すはし、鳥獣魚貝肉を発酵塩蔵させた宍醤ししびしお、宍醤の一種にあたる鮨などがある。 干しアワビ、熬海鼠いりこ(ナマコを炒ったもの)のような海産物の保存加工も盛んであった。
 植物性食品の保存では、海藻類の乾燥保存が多く行われ、野菜や果物は草醤、いわゆる漬物にして貯えることがおおかった。

10.醤と乳製品
 前代に起った発酵塩蔵食品である醤は、この時代に発達期を迎え、大別して草醤、宍(肉)醤、穀醤の三種が作られた。 草醤は、ウリ、ナス、アオナ、カブ、ダイコンなどの野菜や青果を用い、食塩や酢糟、粕などで付け込んだ、宍醤は、鳥・獣・魚・貝の生肉、用いた。 この宍醤の一種に鮨がおこった(寿司の歴史参照)。 穀醤は、米、小麦、豆などの穀物を主原料に発酵させたもので、ある。
 この時代に新たに登場した食品に乳製品がある。 記録に見える蘇、酪らくがそれであって、輸入加工食品として貴族のみに知られた。 蘇はコンデンス・ミルクの一種とかんがえられ、酪はバターに当たるとかんがえられる。 

11.菓子の登場
 中国の食品加工技術輸入に伴って、加工菓子が現れた。 菓子は「くゎし」であって、元来果物を乾燥した物(カキ、ナツメ、ウメ、)を指した。 この自然菓子(木菓子)とは別に、澱粉性の加工菓子が現れ、これも「かし」と呼びやはり「菓子」の字を当てたため、両者が混同視された。




                             Ⅳ.平安時代
1.時代概説
 あおによし奈良の都を去ってから山河襟帯おのずから城をなす平安京へ遷都が行われたのは、8世紀の終わり(794)のことで、それ以来次第に人心の一転と、政治経済の変動、文化の変化を起こし、世に平安時代と呼ばれる一時代を画するに至った。 
 遷都から一世紀後、唐の衰退と海路の危険から遣唐使が廃止されると、従来の輸入模倣の政治文化は我が国の実情に調和した和風化が著しくなった。
 都において平安中期の貴族文化が隆盛した頃、貴族の政治怠慢から秩序が乱れた地方には荘園保護の必要性から武士が興起した。 

2.貴族食の形式化へ
 平安時代には極度に高い生活を営む貴族と、反対に低い生活段階に取り残された庶民との階級差が従来に増して顕著となり、貴族生活は地方庶民の多大な犠牲の上に展開された。 貴族にとって長い泰平の時が続いたのと、遣唐使の停止によって国際的に孤立したので貴族の生活文化は固定形式化し、前時代に輸入された異国風の諸要素を和様化していった。 
 貴族生活の形式化は前例を重んじ、これを故実として旧慣を反復するのみであった。 従って食膳はもはや栄養や味覚と関係なく、ただ先例の踏襲のままに食品が並べかざられ、目で見るものという性格がまさいた。 

3.食事作法の成立
 前代以来隆盛となった仏教寺院には、多数の僧侶が起居を共にして修行していたが、この寺院生活では食事の作法も修行の一つであった.。 そこではおのずから食事作法の観念が生じ、食膳に並ぶ料理を食べる順序も定まってきた。 その影響は貴族階級にも及び、この時代にはすべてにわたって形式化、儀式化の表現の一つとして食事作法がうまれた。 食事を大量に摂ることや所定の時間より早くたべはじめないこと。 たべながら話をしない事を礼とする風もあった。 平安時代の食事作法は、後の茶懐石からひいては和食の料理法に影響をおよぼした。
 魚鳥ぎょちょうを料理する者を包丁といい、後に将軍から天皇に鶴が献上され、天皇の前でこの鶴を料理するこいとを儀式化した。 

4.調理法
 この時代の調理法は、日本料理の基本が全て出揃った観がある。 粳米うるちまいを蒸した強飯こわいひが常食で、おこわとも称した。 釜で水煮した固粥かたかゆは姫飯ひめいひと呼び(現在の飯)、その他に粥(汁粥)、餅や米にアワ・ヒエ・豆・野菜を混ぜて炊いた飯、胡麻油で炒めた油飯などがあった。 寒暑に応じて湯飯、水飯が行われ、これは飯または糒ほしい(天日に干した飯)をお湯や水に浸し柔らかくして食べるものであった。 糒は焼米と共に携帯用保存食とされた。 また。この頃から、屯飯とんじき(握り飯)があり、客を招待した時に従者に食べさせた。 

 副食の調理では、生食、焼物、煮物、「汁物、蒸物、嘗なめ物(塩辛等)、漬物、鮨、煮凝り、塩漬などの各種の方法が存在した。 そのうち蔬菜類の調理は生菜のまま、ゆでる、蒸す、あつもの、醤、葅にらぎ(外国の漬物;キムチ、ザーサイ)とした。 
 以上のような食品と調理法は、大典盛儀の際」のみで、日常普遍の物でなかった。

5.菓子の発達
 朝夕の食事、及び間食に供するために菓子類の発達が著しくなった。 じゅうらいからのしぜんかしも、干菓子、木菓子として饗宴にも用いられている。 
 唐菓子はいよいよ盛んとなり「和名抄」には、ちまき、くさもちひ、ぶと、べいたん、せんべいなどの名称が挙げられている。 ちまき、くさもちひ、せんべいなどはなどは現在までその名が残っており、ぶとは今も古社の神饌に用いられている。 べいたん(餅腅)のように鶏肉や野菜を餅の中に入れて煮たものは、肉食禁止の風によってその後断った。 その他いずれも米粉や麦粉を原料に種々の形を作り、油で揚げたり煮たり蒸したりした物である。 

6.食器の種












    台盤と高坏           懸盤             衝重(三方)

 食器も食物の典礼化に連れて従来の実用本位を離れて内容物と季節或いは儀式の種類や身分によって分化し固定していった。 古代からの伝統である陶製品に変わって、この時代には新たな漆塗食器が加わり時代と共に量をました。 漆器しっきは前代にも一部に用いられたが、この時代に普及したのは仏具の影響からであった。 
 外側を黒く内側を赤く塗った漆器は贅沢品であって、一般庶民にまで及ばなかった。 貴族の食膳においては、食卓に当たる台盤を始め、膳に当たる高坏たかつき(略式一人膳)、懸盤かけばん、衝重ついかさね(折敷の下に台をいれた物)、折敷おしきなどはすべて漆器となり、酒坏、盤、坏、椀類にも漆器が用いられた。 
 箸は二本の唐箸が普通となって、当時の庶民集落の址から発見されている。 容器に箸壺、箸箱がある。

7.仏教の影響及び食事迷信
 仏教信仰は奈良時代の旧6宗に代わり、天台、真言の両密教が貴族に重んぜられ普及したが、これはその本質に庶民性を包蔵したのと、時代の固定化と共に末法思想の普及欣求浄土思想の登場を見たので、信仰はより通俗的、現世的になっていた。 こうした中で殺生禁断の思想の通俗化は、動物性食品(特に哺乳類動物)の禁止となって現れた。 肉食の禁止は初め僧尼に、のち貴族の斎日いみび・さいじつへと及ぶのであるが、当時はまだ貴族の斎日にとどまっていた。 その斎日の数が時と共に増加するので、結局平安時代も終わりに近ずくと貴族の食膳からは動物性蛋白と脂肪が追放された。 
 貴族は働かざる階級であって、野外生活が皆無に近く。屋内で動きの少ない生活ばかりしていたから運動不足であり、さらに衛生状態よくなく、その上食生活において栄養状態の偏在が著しかったため、体位の低下という結果を招いた。 ことに家の奥深く物静かに暮らすのみであった女性の体位の低下ははなはだしかった。 早婚、多産による母胎の弱体化は乳幼児の死亡率増大を招き、当代の平均死亡年齢を極端に低くした。 死亡年齢が判明する平安朝貴族二百数十名の平均寿命は、男性60歳余、女性52歳余であっあ。 

8.庶民食の古代性
 貴族がうわべは華やかながら不自然な食生活を営んでいたのにひきかえ、地方庶民はまだ仏教信仰による戒律も知らず、食品も自由であり、古代の延長として健康な食生活を送っていた。 彼らの生活はいたって質素であって、食器や食品加工には古代的な面が多かった。 庶民の食物は常に手近に得られるものを簡単に煮たり焼いたり、汁物、酢漬、塩漬にするのが普通であった。 




                          Ⅴ.鎌倉時代
1.時代概説
 広大な荘園を手中に収めて安易逸楽の生活を続けた平安貴族も、地方武士団の台頭に連れて斜陽化し、自ら頽廃していって、単なる社会の寄生的アクセサリーに転落してしまったが、建久3年(1192)鎌倉幕府の成立と共に武家支配の中世封建制の世は到来した。 貴族の荘園は平安後期に既に実質的に中世封建所領と同じ性格を有しており、源頼朝のとったより完全な封建制実施のためなされたものである。 その指導の下、地方土着の兵農一致生活を営む武士は、簡明実用的な生産生活を行って封建制度の基盤を形成した。 
 源氏の将軍職はまもなく執権北条氏に委ねられることとなったが、幕府中心の御家人の結束は固く、承久の変、文永、弘安両役の困難を良く切り抜けた。 その間、民衆的簡明実行的な特徴をもつ新仏教が興起し、力に溢れる建築彫刻が残されるなど、武家支配にふさわしい健康な鎌倉文化が建設された。 

2.古代的庶民食をもつ武士の登場
 封建領土の直接支配を行って一躍時代の新勢力となった武士は、元来地方庶民であった。 武士団の棟梁は旧貴族階級の出身の地方貴族であったが、武士団を形成した一般武士は荘園保護の目的で備われて武器を持つこととなった農民出身者であった。 従って武家支配の世となっても、地方に土着して土地を実際に所有し農業生産を経営するという条件はあくまで変わらなかった。 
 武士は地方庶民の間に残っていたところの古代的な簡素な生活様式をそのまま受け継ぎ、形式と華奢を拝した実際的な生活をむしろ誇りとした。 食物文化もまたこいの武家生活の特徴を体して、簡素と実際的、合理化をその性格としていった。 彼らは前代の貴族のごとき形式的な食事や食品タブーの観念にとらわれず、古代と同様の主穀副肉の時代を再現した。 
 この時代に起った新仏教のうち禅宗は特に教養と修養のために武士生活に受容されたが、その厳
格な戒律はかならづしも俗人の食生活にまでは持ち込まれなかった。 

従って十分な肉体の鍛練と、簡素ではあるが各食品の自由な選択とが十分な栄養を与え、ここに健康な肉体と、それから来るところの健康な精神生活が鎌倉時代を支えその文化を特徴づけた。

3.食糧生産法
 武士と農業とは荘園を背景として深い関係を有し、実際の荘園の経営管理は武士の手に委ねられたので、武士の世と共に発達を見た。 幕府は各地の地頭に命じて開墾を奨励し水利を図った。 この時代の中頃から水田の裏作に麦の栽培が行われるようになった。 農業字術、農具も進歩して農作物の収穫が増大した。 牛馬の使用が増え、肥料の種類に従来の緑肥や堆肥、厩肥に加えて人糞肥料の使用もはじまった。 

4.調味料
 醤ひしおのうち穀醤は、いよいよ重要な調味料としての性格を備え、ひしお、味噌みそなどと呼ばれてそれ自身嘗物なめものとされた。 この時代に禅僧心地覚心が経山寺味噌の製法を中国から伝え、紀州岩佐っでその槽底に沈殿した液で食物を煮ることを発見し、紀州湯浅でたまり醤油のごときものを売り出したという伝えがある。

 「庭訓往来」に鳥醤、蟹味噌などの名が見える肉醤系にものは、調味料としてよりそれ自身を食品とみるようになっていった。 また草醤も、漬物とよぶ食品として独立してきた。 大根を生干しにして塩漬けにするのに糠や麹を加えると味を増すことを知ったのもこの時代で、これが沢庵漬の始まりであって、江戸時代に沢庵和尚が創始したというのは単なる伝説にすぎない。 さらにウメ、アンズ、スモモなどの未熟な果実を漬ける事をしり、武家の食膳にも梅干むめぼしが出されている。 「世俗立要集」に「梅干は僧家の肴也」とあるように、果実の漬物は仏家の寺院食の中におこったものであった。 梅干にシソを入れることもおこなわれ、シソは毒消し作用があるところから薬として加えられたのがはじまりである。
 奈良漬けの名は、江戸時代、奈良中筋町に住む漢方医糸屋宗仙が、慶長年間にシロウリの粕漬けを「奈良漬け」という名で売り出して、幕府に献上したことや、奈良を訪れる旅人によって普及した。

5.調理法
 副食の調理法は、のちの禅宗の影響を受けた精進料理の登場と普及化が見られるまでは前代から一歩も前進しないのみならず、武士生活に保たれた素朴古代的なものがおおかった。 保存食がやはり多く、干しアワビ、干しタコ」などの乾燥品や、マスの楚割すはやり(魚肉を細長く切って干した保存食)、サケの塩引、サバの塩漬けのような塩魚が好まれた。)アジの鮨、蟹みそ、このわた、鳥醤などの発酵食品も作られ、鳥獣の肉は)焼いたり煮たりする他に塩を加えて乾かし食べた。 野菜や海草も古代以来のものが広く採用され、茹物、吸物、煮物などにされた。 
 新仏教の起りに伴って、やがて肉食を避けた精進料理が寺院を中心に発達したが、のち、民間にもこの調理法が伝わって、仏事の際に用いられ、さらに日常の食膳に加わったののもある。 
 なお、この時代には包丁師とよぶ魚鳥調理専門の特別な職人も現れた。 

6.新渡来の食品と調理法
 この時代は南宋及び元と交通して宋銭が国内流通した。 また栄西、道元によって臨済、曹洞の禅宗が伝えられた。 この禅宗に中国風食品と調理法および食法が伴って渡来したが、それが禅寺で行われると、禅が武家に信奉された関係からしだいに世にひろまった。 この時代に普及し始めた茶のごときも、栄西が南宋から帰朝の折に種子を持ち帰ったと伝えられ、彼が記した「喫茶養生記」はその飲用の広まるもととなった。 
 豆腐という文字が最初に現れたのは中国で965年の「清異録」である。 一般に豆腐は中国から日本へ伝えられたとされるが、空海によるという説、鎌倉時代の帰化層僧によるとする説もある。 ゆばやこんにゃくなどとともに鎌倉時代ぬ伝来したとみる説もある。 ただ寿永2年(1183)の奈良・春日神社の供物帖の中に「唐府」という記述がある。 鎌倉時代末期頃には民間へ伝わり、室町時代には日本各地へひとがっった。
 各種の羹あつもの類(魚・鳥肉や野菜を入れた熱い吸物)や麺類、餅類の輸入があった。 これは禅寺院で点心てんしんまたは茶子といって、労働者の間食と同じく勤行ごんぎょう疲れをいやすために随時摂るところの軽い食物とされた。 「庭訓往来」などには次の様な品名がみえる。
水繊すいせん、温糟うんそう、糟雞そうけい、鼈羹べっかん、羊羹、猪羹ちょうかん、箏羊羹しゅんようかん、砂糖羊羹、饂飩うどん、饅頭、索麺そうめん、基子麺きしめん、巻餅けんびん、温餅、鮮羹。海老羹、寸金羹、月鼠羹、駱駝蹄、魚羊羹、水晶包子、砂糖饅頭、乳餅、打麺、冷麺、竹柴麺、水団
 これらは羊羹、饅頭の名によって想像される今のような甘味菓子ではなく、元来中国では魚鳥獣肉、野菜や穀粉、葛粉を原料にして作ったものであった。 しかし、伝来してから禅僧の間で肉類を避けた精進料理に改められ、のちさらに普及通俗化すると、羹の固まった姿に似せて寒天で固めた羊羹が出来たり、野菜や豆を入れて塩味の中味だった饅頭が甘味飴に代わっていくのである。




                            Ⅵ.室町時代
1.時代概説
 室町時代は、広義では足利尊氏が建武3年(1336)に建武式目を制定し征夷大将軍に補任されてから幕府を開き、15代将軍義昭が元亀4年(1573)に織田信長によつて京都から追放されるまでの237年間としている。
 狭義では、建武親政を含む最初の約60年間を南北朝時代といい、1392年南北朝合一から室町時代とする。 両朝合一によって一応形の上では終息し、中世後期の室町時代が中世脱却と近世胚胎の時として展開することとなった。 
 乱後、将軍の威信は地に落ち、財政困難となった。 義満の金閣を模した義政の銀閣はそのため銀箔を貼ろうとして果たせなかった。 しかし、こうした中にも東山山荘を中心とする逃避趣味が禅と茶を中心として東山文化を形成し、長く日本趣味の根底を養うことになった。 また、室町時代後期を占める戦国戦乱の世にかえって大名支配の地方へ文化普及をもたらし、民衆の文化向上や自覚が促された。

2.唐様貴族食の日本化
 奈良時代に貴族の間に行われるようになった唐様食は、平安時代の宮廷食を代表する貴族食となって形式化し、我が食物文化の中心的位置を占めた。 勿論唐様食の取捨選択が行われ、和様化はしたが、大饗の形式のごときは中国風宴会の模倣を多分に示すものであった。 乾燥食品や唐菓子。、食器などの点を見ても、まだ唐様食模倣時代を出ていない。
 しかし、鎌倉時代以後、武士が古来の主穀副肉食を再現し唐様を同化した。 そして、貴族食は逆に武家食膳の影響を受けて中国風食膳から日本風食膳に進展した。 以後日本料理の主流になるべき懐石料理が登場すると共に、従来の調理法を形式化した料理流派が生まれた。
 日本人の主食は古代以来、米を立て前としてきたが、米は税の対象であり、物価の基準であってたので、次第に階級に別れ、米食を上味として扱うようになり、庶民は他の雑穀を混ぜたり、雑穀のみが常食とされていた。 従って米のみを常食とし得る」のは。廷臣、僧侶、神官、武士や商人の類であったが、前代以来農業の進歩がいちじるすく、米の多収穫がもたらされたため、支配階級の武士の米常食の習慣が一般化した。 それはあたかもこの時代を風靡した下剋上の思想と一致し、武士と農民との差別はあっても、下級武士が上級武士をしのぎ。農民がか下級武士をしのぎ得るようになったことが、食生活の面にも現れた。 このため貧困の場合を除き、米飯の常食は還って普及し、食事とは米食をとることという観念が確立していった。 
 米は純白の精米も行われたが、多くは黒米と呼ばれた玄米又は半搗米であった。 これを蒸した我が国本来の飯いい(強飯)はなお行われたが、今の飯に当たる炊いた姫飯の常食化も進んだ。 姫飯や水粥は禅寺院食んで行われた関係でその影響を受けて普及した。 当代の終わりには姫飯を食する風が上下に広がった、強飯は儀式行事のみに残るほどになった。

3.茶懐石の影響
 将軍義政の時に東山芸術を代表する芸道として興起した茶道は、飲料である茶の普及のみでなく、食物料理の発達の上に大きな影響を及ぼした。 即ち懐石料理がそれである。  
 茶は空海が中国から茶の種子を持ち帰ったとつたえられ、平安時代初期に栽培されていた。 鎌倉時代、僧栄西が新たに中国から茶の種子と製法を伝えたのを始め、禅宗の渡来と共にその飲用が一般に普及していく、その栽培も盛んとなった。 
 茶はことに禅院において禅僧の間で好まれたが、一方武家、公家の間に茶会が起こった。 当初の茶会は闘茶であった。 しかし、この時代になると、茶具を観賞しながら静かに茶を喫する風が盛んとなった。 茶の湯は将軍義政の茶会を代表として一層の流行を見ることになった。 
 茶の湯は、将軍義政から、武野紹鴎を経て千利休によって完成されるが、この芸道に伴って起こったのが懐石料理である。 懐石とは温石おんじゃくを懐して腹を温める法の代わりという意味で、禅林風の簡素な料理であった。 
 懐石料理は、一汁二菜また三菜にすぎなかった。 しかしこれはけっして粗末なものではなく、十分に工夫をこらしたものであった。 つまり自然の山水風物を愛し立つ華を好み、聞香を尊び、視、味、仁、嗅、聴覚と、いわゆる耳鼻舌身意の唯美主義を流行させた当時の逃避趣味によって、料理も見て美しく味わって奇なるものえを求めるようになったのである。 
 懐石料理は禅寺院風の食事であったが、精進物とは限らず魚鳥も使用し、食品も増えていって、安土桃山時代には茶道の興隆に伴って大いに発達をみた。 そして懐石が会席と書かれるようになり、会席膳という語がいまも残されているごとく。懐石料理は以後正式な日本料理の主流となっていった。 

4.食品調理法の増加
 室町時代は我が国の食物史上で、日常食品の種類を増す時期であった。 調理法は近世(江戸時代)に入って急に変化していくが、その素材はほとんどこの時代に揃えられたものであった。 それは古代以来の長い年代の経験によって知った各種の食品が集積した上に、禅宗が食品と加工法の新しい要素を持込み、普及一般化したからである。 
 この頃は、陸海の動物が広く食べられた。 そして上味の順位をコイを最上とする淡水魚、次が鹹水魚、次に貝類、鳥類、哺乳類終わりに植物性のものとなっていた。 これは京を中心として鮮度の高い淡水魚が鹹水魚より入手し易く、したがって味も上であったことと、獣食の蔑視が仏教の影響で行われたこと、野菜の大量入手が容易であったことなどのためと思われる。 
 調理法では、生物なまもの、汁物。、煮物、熬物いりもの、炙物あぶりもの、蒸物、漬物が出そろった。 まず生物では、膾なます、刺身、和え物があり、これらの間にはさして区別あなかった。 即ち膾あ今の刺身に近く、刺身は必ずしも生魚にかぎらず、鳥やクラゲもあった。 汁物には、鶴汁、塩鳥汁、鶉うずら汁、ふぐ汁、むじな汁、納豆汁、コンブ汁などがり、集汁あつめじるといって豆、豆腐、干しアワビなど各種のものを集めて煮た汁ものもあり、海老の吸物も作られた。
 豆腐の使用がこの時代から普及し、麩やこんにゃくと共に精進物とされ、油で揚げたり、和え物、汁物に使われた。
 煮物には、魚の丸煮、衣煮や太煮、黒煮などの名が料理書に見え、鯉こごり、小鮒のこごりのような煮こごりもつくられた。 タイの身を鱗形に切り湯びきして、垂味噌で煎る松笠煎とか、イカ、タコを使った桜煎、サケなどの皮を煎った皮煎、魚鳥を使った醤煎などの煎物も各種ある。
 焼物には魚の丸焼、焼鳥、包み焼、クリから焼、苔焼、鴫しぎ焼などがあった。 また、ウナギの蒲焼の名がすでに当代の初めに現れている。

5.醤油と砂糖の登場
 現代の調味料の代表である醤油と砂糖がこの時代の末に登場した。 醤油は元来穀醤を主とした醤に端を発し、それが調味料として使用されている中に味噌が独立したごとく、醤から摂れるたれ、あるいはたまりと呼ばれえる液体が醤油の起りとなったと考えられる。 醤油の名が出現する前にも、垂味噌たれみそ、薄垂うすたれをしばしば調理に使用しており、「四条流包丁書」には垂味噌で煮たるものをこごりというとで注明されている。 醤油は次の時代に入ると各地で醸造が開始され、遂に調味料の主体となった。
 砂糖は、すでに奈良時代に唐僧鑑真の来朝と共にもたらされたと伝わるが、当時は薬用であって調味料ではなかった。 この時代末に中国や琉球から比較的多く輸入され上層階級へ普及した。

6.禅風食品の普通通俗化
 前代に始まった禅風食品と調理法及び食法が、当代にはいといよ普及し通俗化した。 ことに禅林において勤行の疲れをいやすために食した点心と呼ぶ軽い食物、すなわち羹類、麺類、餅類などは、禅林で行われた非時ひじ(正規の食事でない正午以後にとる間食)と共に中間食の意味を得て、日本人の三度食を習慣づける基礎ともなった。 
 点心の他に、茶子ちゃのこという今の茶漬けのようなものが喫茶と共におこなわれた。 つまり点心は食べ方を重んじ軽い空腹をみたすものであり、茶子は喫茶の際のつまみ物である、

7.食器の変化
 前代に誕生した釉薬陶器はこの時代になって普及し、形態や機能による分化が見られた。 陶器の製造はことに茶の勃興に伴って著しい発達をとげ、前代の各窯に加えて戦国時代には尾張瀬戸から美濃多治見に美濃焼別れ出て、茶道の茶碗を始め食器の類も焼いて有名となった。
 この時代には前代の質素な食膳から、武家も食事に関する礼法や料理を重んずるようになり、懐石料理などの発達にともなって膳立が改まってきた上に、次に述べるようなり、会席料理などの発達に伴って献立があらたまってきた上に、次に述べるような料理流派の成立に平安朝以来再び食物文化が形式化したので、食器の上にもおのずから変化が現れた。 本膳、二の膳、三の膳におよぶ各膳の上に置く皿や椀の並べ方、各食器み盛る食品の種類なども形式づけられ、食器の使用が実用の範囲を出た。

8.新渡来食の普及
 大陸との貿易は前代に続いて盛んであり、西国大名の商人の手によって唐物を主とする輸入が行われて高価で売買されたが、それに伴って中国伝来の食品も新たに流行普及した。 先に挙げた饅頭や羊羹、豆腐はその代表例である。 なかでも豆腐は料理法が多く珍重され、前に挙げた他に、これを串に刺し、味噌をつけて焼いた田楽もよく食べられた。
 一方、天文12年(1543)の火砲伝来、天文18年(1549)キリスト教伝来(フランシスコ・ザビエル)を契機とする南蛮船渡来は、さらに新しい食品を我が国にもたらした。 

9、階級的食事の解放
 日本人の生活文化を長い間拘束し、社会の上下に別々に流れ続けた貴族階級と庶民階級との別れは、この時代になってようやく著しい差をなくした。 公家は朝廷の衰退につれて困窮化していき、武士の間では下級武士が目覚めて身分や家柄に拘らぬ実力の世界を生んでいたっし、庶民も社会の下済みになって虐げられてばかりおらず、農民は武士への反攻を示す一揆を行い、商人の力も台頭した。 このことはとりもなおさず階級の解放を意味したが、それにつれて従来階級的に差別のあった食事も解放され、貴族階級と庶民との食事が類を同じにした。 ここに従来の古代、中世的食習慣は解体されて新しく近世への過程をたどることとなったのである。




                         Ⅶ.安土桃山時代
1.時代概要
 室町幕府の弱体化が将来した戦国時代の破壊と混乱の中で、中世的秩序は次第に崩れ去り、貨幣経済の台頭と武士の消費階級への転化が、近世社会を生む因子となって表面化してきた。 打ち続いた混乱の末に生じた統一と建設の機運に乗って登場した織田信長は、旧社会を打破し新社会の発生を促した破壊の英雄であり、続いてたった豊臣秀吉は近世的秩序建設の英雄と称される。 両雄の天下統一事業は封建制再編成を意図したものであって、ほぼ永禄11年(1568)の信長入洛より慶長8年(1603)の徳川幕府創設に至る安土桃山時代は、中世末期というより近世揺籃期と呼ぶにふさわしい。
 戦国混乱の世にはかえって文化が地方下層民へ普及し、また銅銭を中心とする貨幣経済の台頭によって商工業者の生活と地位が高まったため、文化全般にも近世的性格が多く現れてきた。 ことに茶の湯の流行、浄瑠璃、歌舞伎の勃興は町人が文化のになしてとなって行く兆しを示すものであって。華麗雄大な建築、絵画とともにこの時代の特徴となった。 戦国時代末に開始された南蛮貿易は日を追って盛んとなり、いち早くアジアに進出したポルトガル、イスパニアに加えてオランダ、イギリスの船も訪れ、わが朱印船の活躍がめざしくなった。

2.食生活の近世化めの動き
 近世的性格が現れてきたこの時代の飲食物は前代とさほど変化わないが、前代の料理流派の研究成果が一般に知識として普及し、近代に登場した醤油が調味料の主体となり、それに新伝来の香辛料や砂糖が加わって、調理法の発達が促され、和食に確立があきらかとなった。 清酒が従来の濁酒に代わって登場するのもこの頃であり、白米や三度食も顕著となってきた。 
 前代に発生した詫び茶の趣味は、庶民性を目標としながらも奢侈的であって、貴族的性格を加えてこの時代に完成した。
 遠近の諸国から舶来された食品、香辛料は我が国の食生活に変化をもたらし、南蛮料理も加わった。

3.三度食の成立
 元来朝夕の二度食を原則としていた日本人の食習慣は、中世に入って変化を生じ、寺院における非時、点心や戦国武士の多忙、米常食の確立などが原因して三度食が普遍化いていった。 

4.食卓料理
 前代末にも中国料理を珍重し、当時茶飯と呼ばれそれは後のしっぽく料理のさきがけをなすものであった。 元来中国の膳立は、和風の膳立のごとく各自別個の膳や食器に食品を盛り付けするのでなくて、何人かが大きな食卓を囲み各自で適宜に食品を皿に盛り分けて食するものであった。 当時の当時の日本人には甚だ珍奇であった。 その上中国料理は鳥獣魚貝の肉と野菜を主として油を加えて料理し、香辛料を強く効かせたものであったため、比較的淡白な食味に慣れている日本人にはエキゾチックな興味を引いた。 ことに貿易港の代表であり、鎖国後の唯一の門戸となった長崎では、中国人や中国通訳の家に出入りする日本人の料理人によって中国風料理が早くから発達して、中国料理の本場となった。 そしてこれが日本人家庭に普及し取り入れていくと、料理法や食器は中国風であっても、材料や味覚は日本風に淡白化された和風中国料理ができあがり、それを卓袱しっぽく料理と呼んだ。
 和風中国料理となったしっぽく料理は、普及していくうちに西欧風の南蛮料理も取り入れられ、魚肉を多く使ったりして本来のものから甚だしく離れたものが出来ていった。 そして後にしっぽくといったり、ネギを入れて南蛮、ネギとカモを入れて鴨南蛮といった。
 なお民間に伝わった中国料理とは別に禅寺院に新たに伝来した普茶料理とよぶものもあった。 これは宇治の黄檗山万福寺の開祖隠元が他の食品と共にもたらしたといわれ、いわば精進のしっぽく料理にあたるものである。

5.南蛮食品
 南蛮貿易の盛行は、時計、ガラス細工、織物など、いろいろな珍品を我が国にもたらしたが、それと共に食品の輸入も目立った。 すなわち、スイカ・カボチャ・ジャガイモ・トウキビ(モロコシ)・ナンバンキビ(トウモロコシ)・トウガラシ・ザボン・イチジク・マルメロなどが渡来したのはこの時であった。 
 当代舶来の南蛮料理の中で日本化したものに「てんぷら」がある。 これはイタリア語のtenpora、ポルトガル語のtemporrasから来たもので、キリスト教の金曜日の祭りを意味する語であsる。 たまたまその日は鳥獣の肉を禁じて魚のフライを食べるので、日本では魚のフライのことをテンプラと呼び始め、それが「てんぷら(天婦羅、天麩羅)」になったといわれる。 牛肉の食用も南蛮人などによって教えられた。 わが国では牛の飼育は古くから行われたが、その食用は少なくとも公然と行われることはなかった、 

6.砂糖菓子の普及
 この時代の流行として砂糖の盛んな使用があった。)当時の西国大名の献上物や贈答品に砂糖が用いられた。 また。調味料や菓子の材料に多く使われ、ことに南蛮菓子とも言われたキャンデー類が渡来すると、砂糖菓子の普及がひろがった。 
 砂糖は饅頭などに使用されたが、さらに南蛮人によって、コンペイトウ(金平糖)の名はポルトガル語のConfeitosによるもので、当時は改まった贈答品の部類にはいった。 南蛮菓子にはその他カステラ、ボウロ、ビスケットもあった。 パンが伝来したのもこの時代である。 

7.食器の複雑化
 茶道の発達に伴い、茶器が高価で売買されたり、武士に褒賞として与えられたりするようになったため、陶器の製法が一層進んで朝鮮陶器の影響を受けてきた。 それは朝鮮の役に従軍した諸将がかの地の陶工を連れ帰り各領内に窯を開かせたからで、萩、薩摩、平戸,八代、上野焼などは有名になった。 さらに李参平は江戸時代初めに肥前有田の泉山に白磁石を発見して。我が国最初の磁器を焼くことに成功した。即ち有田焼です。 また、酒井田柿右衛門が有名な赤絵を焼いたのは、その三十年後である。 




                         Ⅷ.江戸時代
1、時代概説
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦によって豊臣・徳川領家の社会的地位が転倒し、その3年目には家康に征夷大将軍の宣下が行われて、ここに260余年にわたる徳川政権発足の基礎が出来、元和元年(1615)の大阪落城を境に徳川政権の基礎は完成した。 
 江戸時代前期の封建制度の徹底と、鎖国(1639)による海外交通の途絶は、太平の世を将来したが、しかしそれは外形上のみであって、内部には貨幣経済の圧力のもとに土地経済に立つ武士階級の転落、町人階級の台頭があり、階級の混乱が次第に激しくなっていった。 この間、学問の興隆があり、元禄年間、上方を中心としていた文学、演劇、風俗画を代表とする民族文化が起った。
 幕府歴代の努力にもかかわらず、武家階級の支配的地位よりの転落は表面化し、時代の進展に逆行する諸矛盾の糊塗に追われ、混本的な社会の立ち直りをおこなえないうちに、我が国を取りうまく世界史的動きが見えない力として波及し、後期の混乱と不安の世相を現出した。 ペリー来航(1853年)による開国を契機に、尊王、倒幕、攘夷の所論が封建制度否定のために唱えられ、所変相次ぐ中で江戸幕府は慶応3年(1867)政権を放棄することになった。

2.歴代食事の選択と集大成
 徳川政権の樹立によって時代の形成は整ったとはいえ、江戸時代初期の文化の中心は上方にあった。 したがって食物文化も上方を中心に、宮廷風の有職諸流料理や懐石料理の普及、醤油砂糖など新調味料による味覚の改革が行われ始めた。 
 江戸食物史は、一見して泰平の世に、従来歴史的に変化発展のあった食事習慣を取捨選択すると共に、その集大成が行われたことを最大の特徴とする。 その要素を挙げれば、まず日本古来の食品と租の調理法があり、次に平安朝以来の貴族の有職料理の通俗化したもの、禅林料理から出た茶懐石の通俗化したもの、そして前代の中国料理の和風通俗化及び南蛮食品と料理法の参加を数えることが出来る。 この時代の食物文化発展は、各藩の殖産興業政策による食品の品種改良と大量生産、調味料および加工法の進歩と在来のものの集大成、国内交通の発展と各藩蔵屋敷の積極策による食品の交流、商業資本の成長と武士及び町人の消費生活の伸長による食生活の奢侈遊戯化、旧貴族的儀礼と食習慣の下層への浸透などによって進んだ。 ことに従来の食品調理法、食法の集大成は都市町人の嗜好と生活様式を基準として完成に向かい、江戸時代の上方文化が江戸文化へ移っていった文化文政頃にはほとんど日本料理は完成の域に達していた。 

3.食事文化中心の動き
 江戸時代前期に上方を中心に行われ始めた食事文化は、中期に入る17世紀末には「人間万事金の世の中」と言われた貨幣経済に裏づけられながら、町人が生活的、文化的には事実上の支配となったため、町人の嗜好を受けて京、大阪を中心に大いに栄えた。 このころには将軍家自身の家系や生活様式に上方との同化が試みられ、武家文化はこぞって上方の公家文化の模倣摂取に進んでいたが、一方民衆文化として成立した元禄文化が華やかに開花したのであつた。 江戸や地方城下町はこの上方に咲いた文化の花の余光を受けて利他と言える。 食事文化の上でも、上方の淡味に対して江戸の塩厚味が、武士や庶民に愛されていたが、調理法の各種や加工食品、保存食品が上方から非常な勢いで地方、特に江戸へむかって流下しつつあった。 
 この元禄元禄文化を過ぎると、約一世紀の間に上方文化はすっかり江戸および地方へ普及した。 久しい泰平の世が続いたので、遂に文化の中心は江戸に移り、19世紀初頭にはいわゆる化政時代の江戸文化隆盛期を現出した。 それまで上方文化の所産は下りものと称して、程度の高い物、基準となるものと考えられていたが、このころには、江戸ものこそ程度が高く基準になるものと思われ出した。 そして、飲料文化も、豊富な町人経済力の裏付を以て奢侈的享楽的要素をもちながら発展し、味覚の発達は食通を生み、専門料理店の発達は調理法と食器の一層の分化をもたらした。
 この文化文政時代は文化の爛熟期であると同時に、既に多分の頽廃的要素を含んでいた。 あたかも世は幕末の混乱と不安に向かう折であったが、しkさし、一方、商品経済の伸長は町人生活を完全に武士から引き離し、上方や各城下町、地方都市の町人生活をたかめえていた。 そして食事文化もそうした町人の嗜好と自由な選択に合致して、中央と地方との断層の幅を狭め、今度は「大阪の食い倒れ」と評されるような国内最大の町人の街大阪における味覚の通俗化が行われることとなった。 亰の着倒れと並び称される大阪の食い倒れは、こうして起ったのであって、当代における食事文化の中心は上方から江戸へ、そして再び江戸から上方へと移って、近代へ引き継がれていくのである。 

4.食味の変遷
 江戸時代初期、生活がまだ不安定で粗野であったころは、前時代的なものがすくなくなかった。 料理の食味は塩味を主とした濃厚なものが一般的の好まれていた。 家康は武士階級の食膳は質素であることを旨とし、自らも麦飯を食べて範を示した。 
 しかし、元禄の上方文化期に入ると、上方を中心に発達した味覚が、総合され始めた調理法や食品と共に江戸へ流れ込み、懐石から会席料理ができたのも原因して次第に濃い味から淡い味へと食味が変遷していった。 獣肉食も穢れとして忌むことが著しくなり、精進料理がこれに代わって人気を得てきた。 やがて上方文化が江戸に消化せられて江戸中心の文化が創造されていくと、天婦羅、大蒲焼、切りソバなどがすっかり民衆化し、料理屋は軒を並べ、従来の粗野な塩味のものから甘味への変化も行われた。 食道楽は特に江戸に発達し、食味を食べ当てたり、初物、珍味を好んだりして、味覚の奢侈化が進んだ。 

5.武士・町人・百姓の食事の文化
 再編成された近世封建社会においては、いわゆる士農工商の身分階級の分化と、さらにそれぞれの階級の間における身分的差別が厳然としており、従ってこれをもととして生じた生活習慣の分化は、食事の上にあらわれた。 
 封建制度の頂点に立つ徳川将軍の食膳は。全て大奥の御膳所において、御膳奉行指揮のもとに材料を吟味し、調理された飢えで毒見がおこなわれ、次の間ですでに冷めているものをあたためないしてから懸盤にのせ将軍の居間へはこぶ。 その献立は御膳所で決める定まったももも他に、将軍の好みを聞いて調理することもあったが、その生活は形式主義に縛られ極めて不自然であった。 例えば毎朝の食膳に必ずキスが加わっていつが、これはその字が鱚つまり、喜ばしい魚という延喜によるものであった。 鳥獣はツル・カモ・ガン・ウサギだけを用い、魚貝ではマグロ・イワシ・サンマ・カキなどは食用に充てず、天ぷら・油揚・納豆ももちなかった。 
 幕末における将軍の食膳の例を挙げてみる。 朝は味噌汁(落玉子)、豆腐の淡汁つゆ、蒲鉾。クルミの寄物、金糸昆布、タイの切身、寒天の口取、それに二の膳にホウボウの焼物、玉子焼きに干海苔を巻いたお他の物、煎豆腐、香の物。昼は。シジミ汁、コチの切身、長芋、ゼンマイ、寒天、クリ・クワイのきんとん、犠牲豆腐、金糸昆布、タイの焼物、エビのお外の物、蒸玉子のお壺、夕は鯉こく(鯉の味噌煮込み)、タイの刺身、蒲鉾、切身、羊羹、玉子焼き、ガン・カモの口取、キスの焼物、アワビのお外物、からすみのお壺。
 将軍の食膳調製は京都御所を真似たものであったが、地方諸大名は徳川家に倣い、初期の簡素を旨とした食事からしだいに格式を重んじ、奢侈的になった。 
 一般武士も城下町に定住し、あるいは主君にしたがって江戸へ赴くなど、年消費生活に慣れるにつれて飲食を奢るようになり、その結果はしばしば幕府の倹約達しの令が出された。
 町人生活の発展は当代中期の特色で合って大阪の淀屋辰五郎、京都の難波屋十右衛門、江戸の紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門らの服装飲食の豪奢は時の人の語り草であった。 町人生活への武家の抑制は概して少なかったので、自由な思考力と、半貴族的、半形式的趣味により、真の味覚と食膳の美を発見するに至った。 その結果、食道楽、食通などを生み、遂に力余って食事の遊戯化や味覚の奢侈化を招き、社交の具に供されるまでになった。
 一般町人の食膳も、二世紀半余にわたる間に、食味の変遷、軽飲食店の登場、食品店、物売り。仕出し屋の発達などと共に進展を重ねていったが、なおつつましい食生活に明け暮れる者も多かった。 ことに奉公人などは、月のうち肴がつくのは三日だけで、朝は味噌汁、昼はヒジキに油揚、夜は香の物といった程度の食事が普通であった。
 農民は、土地経済に立つ武士階級の生計を支える存在であったから、その生活が厳重に取締られた。 農民に対しては飲酒、喫煙や豆腐、饅頭。うどん、そば切り素麺お製造にまで制限が行えわれた 村落生活は自給経済を旨とし塩や肴を行商人から得る他は、食糧、味料の自家栽培、製造を行ったが、長い時代生活のうちにおい甥変化を生じ商人の出入りがまして、茶や醤油おかう家もふえた。 

6.調理法の多様性
 米の炊飯としての食用が固定した。 副食の調理法も急に多様化した。 まず汁では冷汁がなくなり熱い汁に定まり、通常は味噌汁を用いた。 
 生物なまものでは室町時代から盛んになった刺身や膾なますがあります。 膾は魚貝類や野菜を刻み調味料を合わせて食する料理で江戸時代までのメインディッシュとしてあつかわれていた。 膾の一種、和え物には豆腐、生姜酢を用いた白和えがつくられた。 刺身は当初は酢の類を付けて食得ることが多く鳥の刺身あ野菜の刺身おあったが、後はもっぱら魚肉のみになった。
 煮物には、柔らか煮、駿河煮、定家煮、五菜煮、鍋焼、煎煮、煮浸にびたし、従弟煮などいろいろの料理方がある。 鯛駿河煮あ、鯛を白焼にして、だしたまり(醤油)に酢を少し加へ、よく煮る。 鍋焼きは、鍋に鯛,ぼら、こちなどをいれ、味噌汁を入れて煮る。 また、煎鯛、煎鯉、煎鳥といった熬物も行われた。
 従来炙り物と呼ばれら焼物には当代半ばから、炮烙焼、鋤焼、鉄砲焼、かすてら焼、 付焼、白焼、塩焼などの各種が増加した。 鋤焼は、雁、鴨類のつくりをたまり(醤油)に漬けて置き、古びた鋤を火の上に置いて。にくを焼く。 かすてら焼は、すり身に玉子を入れ、焼き鍋で上下より焼く。
 従来丸のまま串に刺して焼き、後にぶつ切りにし、その形が蒲の穂に似ているので最初は蒲焼と呼んだが。やがていまのように骨を取って身を開き、角に切って串にさすようになり、大蒲焼または骨抜き蒲焼と言われた。 
豆腐・麩・こんにゃくを油で揚げたものが精進物として作られたが、揚豆腐、豆腐あぶらげ、「あぶらげ」の名がこの時代から用いられており、揚げ物ではその他に天麩羅、金ぷら、つけ揚げ(薩摩揚等)、胡麻揚げがやがて流行するようになった。 
 発酵塩蔵食品の醤ひしおの一種に起源をもつ付ものもこの時代にはすっかり独立して、塩漬、浅漬、糟漬、味噌漬、沢庵漬、奈良漬、麹漬、酢漬け、梅干など各種に漬物がみられる。

7.食器の複雑化
 前代に盛行し始めた陶器は、新たに有田焼をさきがけとする磁器の登場とあいまって、当代には非常な発達をとげた。 柿右衛門を出した鍋島藩は領内産業振興の目的で陶磁器の生産を大いに奨励した。 ことに文化文政以後は一層盛行し、何々焼の名でよばれる陶器は実に二千以上にたっした。 
 漆塗り食器も陶磁器に押されたものの、会津、日光、輪島、奈良、根来などでは日常容器が地方独自の特徴ある技術で作りだされた。 また食膳具の他に弁当箱、提重のようなものも、漆器で豪華に作られた。 

8.会席料理の完成
 町人の嗜好と生活様式に基づいて和食が完成に向かっていく中で、武家や公家の間では前代的な正式料理が行われていた。)公武の正式料理とは七五三膳、五五三膳、五三三膳および本膳を指し、これらは当初公家社会が行われていたのを室町時代ごろから武家も採用したもので、式三献、献五つ、献七つまで出すのを七五三膳と呼び、以下それを各々簡略化したかたのものである。 しかし。その煩雑さは時代の好みから遊離していた。 そこで、前代茶道の興隆に伴って発達を見た懐石料理に工夫を加えることとした。 そしてここに会合の席における料理という意味で会席料理とよぶ饗膳が登場することになったのである。
 懐石料理が正式のものに代わって饗膳として行われるためには、本来の懐石調理のままでは不適当であったので最初は式正料理の本膳の形式に倣って膳数は三つを原則とし食品についてはせいしきなものや、その他のものを自由に取り入れて発達させた。 やがてこの時代の半ばの安永、天明年間に(17721787)本膳はさらに本膳を略して膳2つになり一般に流行した。 その献立には自由な魚鳥野菜の料理に知る)、香の物を添え、時には中国や南蛮の調理さえ加えた。 「料理早指南大全」には会席料理の形を、 
 一飯、二汁、三膾、四附合、五平塩皿香物、六平皿、七大ちょく、八茶碗
とあげている。

















       しっぽく料理                会席料理

9.菓子の多様化
 江戸時代の飲食文化の中で菓子類は目覚ましい発達をとげた。 従来菓子とは自然菓子と加工菓子のいずれをも呼んだが、当代には果実は水菓子(江戸)、果物(上方)と言われだし、菓子といえば加工菓子をさすこととなった。 その種類は儀式用、献上用、神仏前用、冠婚葬祭用、家庭用などの別があり、食べるだけでなく見るのを目的としたり、淡切飴のように薬を兼ねたり、姉細工のようにもてあそぶ菓子ができた。 江戸、京都、長崎を始め地方の名物菓子も知られた。
 菓子は元来食膳に載せられ、加工菓子のごときは主食の一部をなしていたほどであるが、茶道の勃興に伴って茶味を引き立てる趣味深い菓子が京都を中心に発展し、その銘まで花鳥風月にちなんでもっぱら上菓子と認められるに至った。 
 人々に最も嗜好された蒸菓子の饅頭は、従来の菜饅頭(野菜類を入れ塩味)は消えて、小豆を用いた甘味飴の砂糖饅頭となり、江戸の塩瀬、大阪の虎屋のものが著名であった。 初め腹太餅と呼んで下賤の者の食物であった大福餅がその頃人気になった。 植物の葉で包むという古い伝統をもつ柏餅や椿餅、桜餅、笹餅がもてはやされ、江戸浅草の金流山餅ごとき名物もできた。 はじめ銀つばと呼んだ金つばも町人に喜ばれた。 蒸菓子ではその他きんとん、求肥糖ぎゅうひとうなどが知られ、求肥(玄米粉を蒸し砂糖と水飴を加えて練り固めた菓子)を用いた菓子の種類は多かった。 饅頭と共に点心に元を発する羊羹は、各種の羹類の中でこれのみ砂糖菓子として余命をたもった。 
 干菓子では、おこし、せんべいが代表である。 大阪名物岩おこしにたいし江戸に田舎おこしがある、その類には落雁らくがん、白雪糕はくせつこうなどがあつた。 せんべいの名は唐菓子として古くから知られ、その名残りは塩せんべいとなってのこった。 近代に入って盛んとなる最中は種皮がセンベイと同じ製法であって、当代中期に現れた。

10.食事習慣の変遷
 自然食時代に始まる日本人の食事習慣には、これまでいろいろの変遷があり、雑色から米食へ、玄米食から白米食へ、蒸飯から炊飯へ、二度食から三度食へ、などの移り変わりが江戸時代以前に行われた。 そのあとを受けて、展開された江戸時代はこれら変転してきた食事習慣の固定化した時代である。 即ち食事回数は上下階級ともに3回おなり、白米炊飯の常食が通常の食事とみなされるようになった。
 通常農民は白米食でなく、雑穀食お食事が普通行われていた。 食事は町家でも農家でも、家族、奉公人が一か所に集まって、いわゆる一つ鍋を食べるのを習慣としたが、また一面では、主人は米食、奉公人は麦飯と食物を階級づける風があり、副食でも家族の尊卑によって魚の頭、尾を盛われるなど、食事を通じて家族の秩序と規律のしつけが行われた。   

11.精進食
 日本人が仏教の影響で獣肉食を忌むようになってからすでに久しいが、その間武士による獣肉食復活や。南蛮人渡来に伴う牛肉食が行われたりした。 また、前述の如く初期の江戸市内で相当に獣肉がたべられているし、彦根藩主伊井家では代々将軍家と御三家へ養生肉と称して牛肉の味噌漬けを献上するのを慣例としており、長崎当たりでは外人の出入りの影響で肉食が流行したらしい。
 江戸時代はキリスト教禁止の目的で全国民に仏教寺院所属の檀家となることを強制したため、仏教徒庶民の生活の中への進入が著しくなった。 葬式や法事、彼岸や盆のような物日のための精進食が発達した。 肉食を不浄と見たのは獣肉にたいしてであって、魚や鳥は普通に食べられていたが、精進調理では魚鳥も用いず、蔬菜を主とした。 

12.儀式食
 室町時代に成立した料理流派は、江戸時代に入って世の安定と共に武家が武家諸流をはじめ芸能万般にわたるい一流の家元を重んじたため、料理包丁の道も重要視され、中では四条派は有力であった。 儀式や饗応の知識として料理流派の研究成果が求められた。 「四条流包丁書録」には、節供、元服、嫁取りなどの正式料理について、学問的に古事を引用して由来と料理は流派によって様々である。 
 従来儀式食を最も尊重してきた京都の公家の間ではなお平安朝さながらの有職料理が残されていて、強飯こわいひを盛り上げ、調味料を食膳に用意した盛饌の形式が存した。 

13.備荒食びこうしょく
 江戸時代の農民の食生活を苦しめたものに、度重なる大飢饉があった。 寛永1920年(164243)、享保17年(1732)、天明2、7年(178287)、天保4、10年(183339)の大飢饉は中でも最大であって、天災、農村の疲弊に加え大名支配の領地間の交流不能のため、東北地方を中心とした農民は目をおおわせるような悲惨な状態においこまれた。 餓死の死者の増大には塩不足も原因の一つとしてあげられている。 また飢餓の時には病原菌への抵抗が劣るので、疫病を併発して落命する者が多かった。
 こうした荒凶が度重なると、幕府や藩でもその対策として備荒食物びこうしょくもつの栽培や貯蔵を奨励した。 サツマイモの栽培が享保の大飢饉を契機として大いに奨励されたのもこの時期である。

14.軽飲食店、料理屋の登場
 当代には飲食店、料理屋が現れ、後半に盛行を見た。 江戸時代初期に江戸や京都・大阪にまず登場したのが煮物屋であって、大道で煮物や餅を売ったが、さらに江戸では、そば切りを売る店が現れ、大衆によろこばれた。 しかし、料理商売はまだなく、茶屋と称するものはあっても、茶や菓子を出して休息の座敷を貸すだけであった。
 江戸に一種の料理屋が従来の煮売屋の座商化という意味で登場したのは明暦の大火」(1657)の後で、浅草に初めて出来た奈良茶飯(一種の炊込飯)を売る店は、茶飯に豆腐汁、煮しめ、煮豆などを出して珍しがられた。 やがてそば切りを売る店と、奈良茶飯の店とは次第に数を増していき、街道の宿場や峠の茶屋でも茶菓子の他に簡単な食事を出す家が増えた。 文化文政頃の江戸にはことに飲食商売が繁昌して「五歩に一楼、十歩に一閣。皆飲食の店」と形容されるまでに至った。
 うどん・そば・すし・かばやき・天麩羅・茶湯飯・でんがくなどの軽飲食店の増加は、食生活を軽便敏速へと導いた。

15.木賃から旅籠へ
 五街道を始め国内の主要路が整備され、街道筋は大名行列や一般の旅人の往来で賑わい、宿場には旅宿が軒を連ねて客を呼ぶようになった。 ところで当初の宿場屋は、木賃宿と呼び、食料を持参の上、薪木賃として炊事代を支払って泊まる宿であって、食事は用意されていないのが普通だった。
 大名の参勤交代の道中のごときも、持参の膳部を本陣へ持ち込み、幕を巡らせれて台所をつくり。家来が調理を調えたのである。 しかし、物詣や名所見物の旅客が増え、都市に飲食店が出来て、茶店でも食事を出すようになったのにともない、食事を用意する宿屋、つまり旅籠があらわれてきた。 こうして宿場や社寺門前、遊覧地の宿屋で食事を出すもが全国的になっていくと、おのずから献立も定まった形が出来あがったが、この事は軽飲食店、料理屋とともに、調理法や食品を家庭へ普及することとなり、人々の食事習慣を均質化する役割をもつとめた。 




                        Ⅸ.明治・大正時代
1.時代概説
 慶応3年(186710月将軍慶喜が江戸260年に亘る政権を奉還すると、明治維新の幕は切って落とされた。 少壮の公家と雄藩の大名、志士は、明治天皇を中心に新政府を編成した。 やがて翌年(明治元年)正月に発布された五ヶ条の誓詞の主旨に従い、諸般の政治と国内改革の事業が起こされた。 それまで倒幕のために、幕府の方針である開国に反対し攘夷を訴えた志士たちの樹立する新政府がいち早く開国世界化をさけんだのはいかにも皮肉であったが、これこそ日本の当然たどるべき世界史的運命であった。 諸制度の制定、風俗の改変、封建制度の威風の払拭などの諸運動は、優れた警世指導家の力と相俟って、着々とすすめられた
 当時の日本の文明は即ち欧米化を意味したが、これは鎖国による従来の孤立化、立ち遅れを取り戻すと共に、旧幕府が締結した安政条約の不平等条件を改めるためには当然必要であった。 交通通信、建築、服装、行事などすべての生活様式を欧風に改めることが盛んで、ことに鹿鳴館時代はそれが最も甚だしかった。 政治経済の近代的進展に伴い、国民文化の向上は目覚ましく、従来は特定の階層の上のみにとどまっていた文化が広く各階層に解放されて、国民の知識教養を高めていった。 

2.階級解放と食生活の近代化
 明治維新における重要な社会改革に、四民平等、即ち封建時代の階級的制度廃止があった。
 開国及び明治維新を契機として怒涛のように押し寄せた欧米文化は、食生活の上にも当然強い影響を与え、近代化への道を促進させる力となった。 日本人の食事習慣の中にしこりとなって長く存在した食品タブーも、文明開化の世の中ではもはや通用しなくなった。 明治5年(1872)に明治天皇が前例を破って始めて牛肉を食用された。 世間でも牛肉食はそのまま文明開化の象徴であると信じられ、文明の薬剤と呼ばれたのは、従来の根強い不当な肉食禁忌を一挙に打破するものであった。 
 さらに輸入された数々の食品や料理法は世界的水準に入ろうと努める世の傾向に伴って、洋食店から次第に一般家庭へも及んでいき、洋風の食事礼法が近代生活の中における必要な知識とされていた。 鹿鳴館時代が過ぎると一時国粋主義が盛んとなったが、食生活に関する限りかえって時代と共に西欧風のものが日常化する傾向にあった。 洋風食品の普及は和食にも影響を与え、和風食品の洋風調理が行われたり、洋風食品の和風調理が現れて、食生活を複座化していった。 
 またこの時代の食生活の発展は、旧来の味覚、視覚、習慣、儀礼などに基づいた食生活に、科学的な根拠と合理性に基づいた批判を加える機会をもたらし、食生活の合理化が強調されて、真の近代的発展をとげることになった。 
 新時代の到着と共に、文明化開化にあこがれる人々は、今度は牛肉食をあたかもその象徴であるかのように信じたため、またたく間に牛肉屋、牛料理屋が数を増して、牛肉を食べない者は文明人に非ずとまで言われる世の中となったのである。 当初の牛肉は西洋料理風ではなく、江戸時代に肉料理として行われた味噌で煮る鍋焼きを踏襲し、ついで醤油と砂糖で調味したすき焼きが行われて、牛鍋と総称した。 
 パンは中世末に南蛮人が伝え、長崎では江戸時代に製造されていた。 パンやビスケットは携帯に便利なことから、幕末に薩摩藩などで、兵食として採用した例がある。
 横浜の牛肉商の中川屋嘉兵衛は、すでに幕末にパンの製造販売を始め、日本最初の新聞広告をだしている。 東京にパン屋が増え、明治15年(1882)には116軒を数えた。 


参考文献
*日本食物史 著者樋口清之  発行所 柴田書店













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