京都・朱雀錦
(14)「寿司の歴史



ニゴロフナ

Ⅰ.すしのルーツ
 篠田統氏は、古代中国大陸では歴史時代に入ってから前漢(前202~後8年)の頃までの間には全く「すし」と言うものは見られないと説明している。
しからば、「すし」はどこで発祥したのであろう。現在、日本以外で「すし」を食べている処はあるのであろうか。山中武吉著「酢とすしの話」に現在「すし」を食べている処しして、ビルマ(カチン族)、ラオス(ラオス族)、タイ(ルー族と中部地区)、カンボジア(プノンペン付近)、ボルネオ(ダヤク族、ダイヤ族、イバン族)、インドネシア(スマトラ島ランボン)、フィリピン(ルソン)、中国貴州(苗ミャオ族とトン族〉、台湾(高砂族、タイヤル族、アタヤル族)が挙げられている。この本によると中国大陸の雲南省に接している貴州省の苗ミャオ族は、紀元前に鯉を燻製にした後に内臓を取り出して飯を詰めてから壷に漬け込んで保存し、発酵させて「馴ずし」を作っており、トン族は、現在我が国の滋賀県で作られる「鮒ずし」と全く同じ方法で川魚を生のまま米飯と交互に詰めている。 また、台湾の原住民高砂族は、滋賀県の「鮒ずし」とそっくりの馴ずしを「トマメ」と称し結婚式必ず出す習慣がある。さらに米を使った「馴ずし」はタイ、ビルマ、ラオスで現在も伝承されていると言う。
 人類学者石毛直道氏は、「すし」の発祥地として東南アジアの稲作地帯を候補地に挙げている。 この地域は雨季と乾季が明瞭で、雨季には池沼状態になる水田において捕獲された魚を乾季まで保存しておくために、ふんだんに採れる米の中で魚肉を熟成させることが行われている。これがすしの原型だと述べている。
この東南アジアの発酵食品が中国に伝わった時期は、明確ではないが、3世紀に編纂された辞典「説文解字」に登場することより、3世紀以前に伝わったものと推定されている。 
 中国の秦の時代、西暦前3400年頃、東洋最古の辞書と言われている「爾雅じが」に食品としてこの「鮨」が最初に現れる。「魚謂之鮨、肉謂之醢」とある。魚はこれを鮨と言い、肉はこれを醢カイと言うと読む。醢とは、“ししひしお”のこと、つまり豚肉の塩辛のことである。従って魚の塩辛を鮨ということになる。鮨という文字そのものはもっと古くからあったのだが、魚を調理した食品としての意味の文字としては、ここで始めて出現している。
後漢の西暦100年頃許慎が作った「説文解字せつもんかいじ」と言う辞書に「蔵魚也。南方謂之[魚今]キン、北方謂之鯗」とある。魚を保存すること。南方では[魚今]キンと言い、北方では鯗と言うの意。北方の鯗が鱃となりその俗字が鮓である。 
さらに鮓を説明して「魚[x]ほう醤也」とある。魚を塩で醸したものだという。そしてこの調理法は蜀の国(四川省)から輸入されたものだとある。もう少し経った後漢末期、西暦200年ころ劉熙りゅうきの著した「釈名せきみょう」に「鮓滓也。以塩米醸之如葅、熱而食之也」とある。鮓滓さしなり。塩米えんまいを以ってこれを葅のごとく醸し、熟してこれを食す。つまり、塩と米を使って魚を葅(つけもの)のようにつけて終わってから食べると言う意味である。ここで「すし」と言う食品が誕生を見ることが出来た(吉野曻雄ますお著「鮓・鮨・すし」より)。
現在の滋賀県名産「鮒ずし」の原型とも言える食品ないだろうか、米と塩で魚を漬け込む料理法が出現した。鮒ずしと同様、飯は捨て、魚だけを食べていたようである。
ところが中国の三国時代(220265年)に魏の学者張袖揖ちょうしゅうが編纂した「広雅こうが」と言う字書に「[x]しん[y]鮨は鮓なり」あり、吉野氏は字書の中で、鮨と鮓の混同の始まりと見ている。また晋時代(300年)頃郭かくぼく璞が「爾雅」の註釈である「爾雅註」を作った。彼は「鮨鮓属也」つまり鮨と鮓は同じであるとした。吉野氏は鮨は塩辛を意味し混同から生じた誤りであるとした。これに対し中山氏はもともと中国には「すし」に相当しる字はなかったのだ。鮨も鮓も「すし」の当て字であり自然の成り行きであるとしている。 
西暦530年頃中国の南北朝時代賈思勰かしきようが当時の農政書と言うべき「斎民要術せいみんようじゅつ」を著した。これは世界最古の農政書である。当時の産業は農政が中心であるから、この本は田畑の耕し方、穀物の栽培法、果物の育て方、養魚法、当時外国から輸入されていた産物の紹介まで農政に関する全てを網羅した一大農政技術、農政の書である。 
 この本の第74章に鮓の作り方が基本的なものを入れて8種類をあげている。まずはじめに基本的な鮓の作り方が挙げられて次のように説明されている。
「鮓は春、秋に作るが言い。夏、冬はよくない。新しい鯉魚リーコイ(1尺半以上の痩せたのが良い)の鱗をとり、長さ2寸(6cm)、広さ1寸(3cm)、厚さ5分(1.5cm)の皮付きの切り身にし盆水の中で血をとって洗い、盤(中国古代の洗面器状手洗い容器)の中に入れ、白い塩をふり、籠の中に盛り入れて、平な板石の上でおして水を取り去ってしまう。
 
別に普通の米を炊いて糝あじめし(塩を入れて炊いた飯)を作り、それに茱萸しゆゆ(かわはじかみ。サンショに似たもの)と橘皮きかわ更に酒を混ぜ合わせる。
 
さて、かめの中に、魚の切り身を一段並べ、その上に糝を1段更に切り身を8段重ねるが、切り身には竹の葉を横交にのせておく。竹を削ってかめの口に差込、内で横交いにこれをかみ合わせておく。これを屋内に置き、赤い水が出たら、かめを傾けて捨てる、白い水がしみ出るようになったら熟している。食べるには手でむしる。刀で切ると腥なまぐさい。」これが基本である。 
 
ここで注目しなければならないのは、切り身の段階ではおしをしているが、糝に漬け込んでから特別におしはしていない。食べるのは切り身だけである。
 さて、ここにはっきりと姿を見せた鮓は、やがて時が経つにつれ、次第に衰退し同時に飯の使用量が減少し、終いには杯に1杯だけと言う、ほんのおまじない程度のものになってしまった。そして明時代になると、極地的な例外を除き中国大陸の殆どの地域からわずか残った鮓も消えてしまった。
 その原因として元という漢民族と違った北方民族が支配し、生活習慣が大きく変化したことにの起因しているのではないかと推定されている。

             Ⅱ.日本の寿司の歴史
1.日本のすしは何時生まれたか
 大化の改新から73年目元正天皇の養老2(718)年に制定された法典(「大宝律令」の修正)の巻十「賦役令」(現在の租税法に相当)に租・庸よう・調ちょうの定めがあって、世に「田(土地)あらば租()あり、身()あらば庸(労役)あり、戸()あらば調(貢献物質)あり」と読んで、そのまま国民の義務と成ったのである。そしてこの調の現物の一つとして「鰒あわび鮓2斗、貽貝いがい鮓3斗、雑鮓5斗」と記されている。これが我が国の歴史上に食品として鮨、鮓の文字が現れた最初である。当時の1斗は今日の約6升(10.8ℓ)ぐらいになる。
 9世紀の終りから10世紀にかけて10数年の歳月を費して成ったという僧昌住しょうじゅうの著した字書「新撰字鏡」に始めて鮓の字お訓よみを「酒志すし」と万葉仮名で書いている。承平初(9356)年頃字鏡よりやや遅れて源順したがうによって著作された字書「和名類聚抄」となると鮨は「須之すし」であり、「爾雅註」の「鮓は鮨の属なり」を引用している。 
 
なお、平城京跡から種々の貴重な遺物が発見されているが、その中に多くの木簡(荷札などに使用か)があり、「多比(たい)之鮓」「貽貝鮓」などと書かれたものがあり、時代的にみても養老令にある鮨、鮓の貢献に各地方からそえられて来た荷札であると考えられるので、その意味ではすしの最古の現物資料と言えるのである。 つい最近(平成元年3月)も長屋王ながやおう684729)邸宅跡から発見された木簡にも「若狭国遠敷おにゅう郡木津御贄にえ貽貝いがい鮓一堝なべ」 字鏡ではじめて「すし」なる訓よみがはっきりしたが、これは果たして日本語なのだろうか。その後、約750年経ってようやく徳川中期に、海原益軒が「日本釈名にほんせきめい」(1699年)で「鮓 味すし」、つまり味が酸っぱいから、味すしだと簡単に説明している。
それから20年経った享保4(1719)年に新井白石が著「東雅」で鮨の字を見出しにして「スとは醋也。シは助詞也。」としている。醋は酸と同義であるから、酸っぱいのすで、しは助詞である。つまり、甘い、辛い、と言うように「酸し」が鮨の語源であるとした。 
 これに対し吉野氏は「すし」は日本語ではないとし下記のように説明している。
「釈名」、養老令、正倉院子文書のそれぞれから関係のある文字を引き出して見ると、鮓滓(釈名)、鮓鮨(養老令)、酢滓(正倉院子文書)となる。
これらの音は、みな、サシ → スシとなり、サからスへの転化は他にも例が多いとしている。第一に考えなければならないのは、古代から我が国へ中国、韓国からの帰化人の数は大変なものであるし、奈良から平安時代初期にかけて、その上流貴族階級における中国文化(唐文化)への心酔ぶりは、あだかも明治時代における西洋文化への傾倒ぶりを思わせるものがある。こんな時代に帰化人の多くが故国の保存食的料理を持ち込んで紹介した。まして中国の唐時代は、鮓という料理の最盛期でもある。
 いずれにしてもサシ、叉はスシと異国の料理名として、つまり先進国の人々が食べるハイカラな食品として、たちまち上流社会から一般人まで広まって、やがてこの食品は「すし」と呼ばれるようになったのではあるまいか。

2.馴すし
 「すし」と称される料理は、酢をあてて酸味を呈するもの(早ずし)と、酢を使わずに自然発酵によって酸味を得るもの(発酵ずし)とに大別される。形式としては後者の方が圧倒的に古く、前述のごとく中国を経由してまず初めに入ってきたのが発酵ずしで、これを「馴ずし」と読んだ。前者は渡来した後者が日本国内で改良された結果であり、日本特有の料理である。
 延喜5(905)年後醍醐天皇の命により藤原時平が編纂を始め、時平の死後忠平が引き継ぎ延長5(927)年完成した「延喜式」にすし関連資料があるという。家永泰光著「穀物文化の起源」によれば、すしの食材としては、あゆ、鮒ふな、鮭さけ、雑魚ざこ、鰒あわび、貽貝いがい、海鞘ほや、鹿しか、猪いのししの9種、産地は大宰府(福岡)、豊前(大分)、豊後(熊本)、肥前(佐賀・長崎)、肥後(熊本)、筑後(熊本)、伊予(愛媛)、阿波(徳島)、淡路(兵庫)、備前(岡山)、美作(岡山)、大和(奈良)、河内(大阪)、播磨(兵庫)、丹波(京都・兵庫)、但馬(兵庫)、近江(滋賀)、伊予(和歌山)、三河(愛知)、尾張(愛知)、美濃(岐阜)、伊勢(三重)、志摩(三重)、若狭(福井)、越中(富山)25ヶ国である。 
この資料を見ると食材は淡水魚が中心で特に鮎が多い。これは、元々雨季に池状態になる水田において漁獲された淡水魚の保存方法ほして開発されか加工・保存方法であったことに起因していると思われる。地域的には西日本が圧倒的に多く、東日本では、東海及び北陸の西側に限定し、関東以東には全く見当たらない。
            「延喜式」(927年)に見る「すし」の種類と産地

 

九州

中国・四国

近畿

東海

北陸

大宰府(福岡)

豊前、豊後(熊本)

筑後、肥後(熊本)

美作(岡山)

阿波(徳島)

紀伊、播磨(兵庫)

丹波、但馬(兵庫)

大和(奈良)

美濃(岐阜)

伊勢(三重)

伊賀(三重)

 

大宰府、筑後(福岡)

 

近江(滋賀)

美濃(岐阜)

 

 

 

 

 

越中(越中)

雑魚

 

阿波(徳島)

備前(岡山)

淡路(兵庫)

河内(大阪)

尾張、三河

伊勢、志摩

若狭(福井)

肥前(佐賀・長崎)

阿波(徳島)

 

 

若狭(福井)

貽貝

 

伊予(愛媛)

 

三河(愛知)

 

海鞘・貽貝

 

 

 

 

若狭(福井)

鹿

大宰府、豊前(大分)

 

紀伊(和歌山)

 

 

 

 

紀伊(和歌山)

 

 

(1)重石おもいしの使用
  現在、我が国のすしで最も原始的な作り方を残すすしと言えば、近江の鮒ずしであろうか。こ
 の鮒ずしはあくまで重いし、つまり、塩フナを飯に漬け込み、その蓋の上から適当な期間重いし
 をすることによってフナずしは出来上がる。しかもこの重石の加減一つで、そのすしの味が左右
 される。この意味で重石の効果のない中国のすしは、塩辛の類といえそうである(吉野氏)。糠
 味噌ぬかみそ漬け以外重石を必要としない漬物は日本にはまず存在しない。隣国の韓国はどうで
 あろうか。

  大正3年朝鮮京城斯道館発行の今村靹著「朝鮮風俗集」の蔬菜の項に「朝鮮の漬物が日本と異
 なる点は、圧石おもしを加えざること、漬物の汁を飯用する点に在り」とある。

   重石を用いる熟れすし調理法は、中国にも韓国にもない。ヒマラヤ山麓の原住民や広く南方地
 域にわたっての焼畑民族が、飯と淡水魚を重ねて乳酸発酵させた熟れずしに似たものを保存食と
 していることが調査報告されている。また台湾の高砂族に、近江の鮒ずしに似たトマメと言う食
 品があり紹介されているがいずれも重石を必要としていない。すし類(馴れずし、生なれずし、
 早ずし)や漬物に重石(叉は押す)を用いるのは我が国独特の方法の用である。延喜(
901
 923
)年間の選出と言われる養老令の注釈書「令集解りょうしゅうげ」惟宗直本これむねなおもと著賦役令
 中の雑鮨の注に
「…重碑其上、熟食之名鮨肉…」とある。重碑其上は重石のことであり、平
 朝期のすしは重石を用いたことが分かる。

(2)フナずしの作り方
  琵琶湖のフナは場所により、大きさにより呼び名が変わるようだ。一般にすし用には細長くて
 大型のフナを用い、ニゴロ(煮古呂)、イオ呼ばれ、料理用には、体
の扁平なもものでコブナ叉
 はヘラと呼ばれるものを用いるようだ。

  このフナが5,6月頃産卵のため海岸に来るところを捕らえる。熟した卵を持った雌が喜ばれ
 る。5月に捕ったフナをまず包丁で鱗をとり、腹を開かずに先の曲が
った針で鰓えらと腸はらわ
 た
特に卵は崩さないように取り除く。次に口から塩をいっぱ
い詰める。それから桶に塩、魚、塩
 と言う式に漬け込み、押し石を載せる。

  塩は多い方が良く、石も重い方が良い。これを塩切りと言うが、この期間は、10日から1ヶ月
 くらいである。塩切りができたフナを塩フナというが、この塩フナを
次に水に漬け、塩出しする
 。時間
15分~1時間。漬け桶は、醤油樽を少し深くした様な円筒の桶である。これにはまず人肌
 ほどの温度の飯を入れ、次にフナを並べ、また飯を入れていく。一番上を飯で覆い、木の落とし
 蓋を置き、その上に押し石を載せる。 

 こうして漬けて、日数がたつにつれて桶の上に生臭い水が溜まってくるので、これを常に取って
 やる。この手入れ次第でうまさが決まると言う。翌年の正月には食
べられるが、本当にうまくな
 るのは3月を過ぎてからである。


3.生成すし
奈良時代の木簡などに記録された日本のすしは「熟れずし」である。 魚を米や粟などの澱粉質のものと共に漬け込み、自然発酵によって生じる乳酸の酸味で魚の腐敗を抑える。一種の保存食品である。永く保存する間に飯は粥状になってしまうから、それは捨てて魚だけを食べる。現存する近江の鮒ずしは代表的な熟れずしである。
 やがて熟れずしは、貯蔵性よりも料理性の方が重く見られるようになる。 時代が進むにつれ、旨い物が求められるようになるのは世界共通の現象である。 そこで米の飯が発酵して酸味を帯びるが魚の法が生々しいうちに食べるようになる。 これを生成れと呼んだ。漬け込みは短時日で、飯も捨てずにともに食べるようになった。 およそ室町時代から始まったと思われる。
この室町時代から次の安土・桃山時代にかけて日本人の食生活に大変化があった。 炊飯方法が、蒸すから煮る現在の方法に変わり、朝夕二度の食事が一日三食に増えた。 更に、酢もこの間に作られるようになった。 
 熟れずしから生成りすしへの変遷は日本のすしの歴史上極めて重要な転換であつた、すしの飯の部分が更に増えて「飯いいずし」と呼ばれるすしが誕生した。 鮒すしの腹に飯をいっぱい詰め込んだものや、さらに飯の上に魚の身(或いは乾物やがては野菜)を並べて押す「棒すし」に変化し、飯の上に魚の切り身を薄く平になると杮こけらずしと呼ばれ、やがて飯を箱に詰めてその上に具を置いて押す「箱ずし」が誕生した。
(1)将軍へ献上した生成の鮎ずし
   鎌倉時代から室町時代、公家や武家に残った諸記録、日記類に数多く登場するのは生成なまなれ
 のすしである。その生成なまなれすしには、鮮魚を漬けたものが多い、なかでも多いのが鮎ずしで
 ある。その伝統を引いたものと思われるが、徳川幕府の将軍も代々鮎ずしの献上を受けていた。
 献上鮎ずしを作る御用達のすし屋ができ、あのお茶壷道中と同じ用に鮎ずしの送達が行われた。
 
慶長8(1603)年尾張の郡代大久保石見守長安が本巣郡馬場村の河原屋喜右衛門に命じて鮎鮨
 を調達させ、徳川家康、秀忠に献上したという記録が最初で、以後鮎鮨献上の仕事は尾張藩の所
 管となり、鮎を提供する長良川の鵜匠もその支配と保護を受けた。 献上鮎鮨は毎年5月から8
 月まで月5度、年
20度、一荷4桶(1桶鮎大は10尾、小は20尾)、三荷ずつ。 後に年10度に
 減るが幕末まで続く。

  これが尾張の「宿継しゅくつぎ鮎鮨」である。 宿継とは宿場から宿場へリレー式に逓送すること
 。鮎元は鮎を本漬にしてから江戸に到着するまでの
10日とした。 鮨苗すしなえ(鮨に漬ける材料)
 を常備し、必要に応じ塩出しいた。 つまり一番食べ時、将軍の口に入るよう、逓送していた。

(2)諸国名産献上品
       「諸藩献上物集」(18世紀半ば)に見るすし献上

山城国 淀藩(稲葉家)

フナずし

和泉国 岸和田藩(岡部家)

タイずし

紀伊国 和歌山藩(徳川家)

釣瓶ずし(生成)

近江国 彦根藩(井伊家)

紅葉フナずし(本ナレ)

近江国 膳所藩(本多家)

紅葉フナずし(本ナレ)

近江国 大溝藩(分部家)

春フナずし(本ナレ)

近江国 市橋藩(仁正寺家)

フナずし(本ナレ)

近江国 小室藩(小堀家)

フナずし(本ナレ)

尾張国 名古屋藩(徳川家)

フナずし(生ナレ)

美濃国 加納藩(安藤家)

フナずし

美濃国 大垣藩(戸田家)

フナずし

若狭国 小浜藩(酒井家)

フナずし

加賀国 金沢藩(前田家)

フナずし

越中国 富山藩(前田家)

フナずし

  諸大名から将軍家に対する各領国の名産品献上は、江戸初期の元和年間(161524)には、
 概ね公式行事の体裁を整えていた。献上品の中には鮨もしばしば散見
され、これを送っていた藩
 は全国で
10数藩(時代により変動がある)をかぞえる。
  授受される者の階層を考えれば、その調製には細心の注意が払われたことは言を待たず、製造
 場所や調理人、更には材料の調達者や輸送管理者までが厳しい管理体制の下に置かれたことは、
 尾張徳川家の献上鮎鮨資料に明らかである。

   近江の献上フナすしは本ナレすしであるが他は生成と思われる。延喜式では25ヶ国が熟れすし
 を献上しているが、近江以外の熟れすしは生成すしと思われる。 日比野光敏著「すし事典」で
 は近江のフナすしは現在残った唯一の馴れ鮨となっていつ。

() 釣瓶ずし
  上皇に献上したもう一つの献上鮎鮨「釣瓶つるびんずし」がある。奈良県吉野郡下市町「釣瓶
 ずし」の現店主宅田たくた弥助は平重盛に仕えた人の
40代目とか、この下市の「釣瓶ずし」は京
 都の仙洞せんどう御所に毎年鮎鮨を調進したすし屋です。宅田弥助が献上鮨調進責任者になった
 のは慶長4~6
(16513)年。こちらの方は、幕府と異なり十分に保護されていなかった模様で
 ある。初めは下市村の他6村がその大小、遠近により按分していたが、辞退者が多く継続が困難
 になったため、責任者の宅田弥助が全てを引き受けた。「院の御所様の御用を承る御上り鮨屋」
 の誇りを代々の弥助はかたくなに守り抜き時代の荒波をくぐり平成の今日まで盛業をついづける
 「釣瓶ずし」はすし屋の史上唯一軒と言ってもいい驚異的な存在だ。

   この宅田家の歴史を知らなくても「釣瓶ずし」を知るものは多い。平家没落にまつわる悲恋物
 語としての人形序瑠璃芝居の題材に下市「釣瓶ずし」が取り上げられたからです。
 
浄瑠璃「義経1千本桜」で釣瓶鮨屋はその三段目 …雲井に近き御方に、鮨屋の娘が惚れらりょ
 か…と言う悲恋に泣く娘お里の血を吐くような口説きの一節は、戦前まで最も人口の膾炙かいしゃ
 していたものである(吉野曻雄著より)。

(4)早ずし
  発酵期の短縮により調整時間を飛躍的に短くしたナマナレであるが、次なる課題は、さらにそ
 の期間を縮めることであった。 

  「料理物語」{寛永201643)年}各種の方法が提案されている。 その後の「料理塩梅集」
 (
1668年)、「合類日用料理抄」(1689年)に糀こうじの混和がある。 
 これは、今日の東北・北陸地方に広く見られる発酵ずし「北海道・青森の飯し、秋田のハタ
 ハタずし、山形の粥ずし、富山・石川のカブラずし、福井のニシンずしなど」 にも見られる技
 法で糀の作用で発酵は促進される。 

  今ひとつの方法は酢を混ぜることである。こうなると、発酵を促進させて酸っぱくなるのを待
 つ必要はない。勿論当時は、酢を使ったとしても「一晩寝かす」(
1771年)、「成形させたすし
 の上から振り掛ける」(
1802年)と言う具合で、現今の酢の使い方とはいささか異なるものであ
 ったが、作ったすぐから酸っぱくなっていることには変わりがない。長期保存の意味合いは完全
 になくなり、それまでの概念とは全く異なるすしの誕生だった。

 1)コケラずしから箱ずし
   コケラずしは「料理物語」(1643年)に登場する。杮こけらは、杮葺き屋根に用い木片。その
  製法は「鮭をおろし、身をひらひらと大きめに切、飯に塩かげんしてかきあわせ、そのまま押
  しをかけるなり」と紹介している。 

   それから約70年経つとはっきりと箱ずしが登場する。「和漢三歳図会」には「…一種有
  杮鮨者鯛鯧まなかつおあわびたこ烏賊いかはまぐり
X(薄切りのこと)加之、以紫蘇しそたけのこ
  木耳きくら醸之最為上品」とある。当時の箱ずしを伺う唯一の資料である。

   それより少し後の享和3(1803)年に刊行された「素人包丁」と言う料理本に、コケラ鮨の作
  り方が見事にスケッチされている。当時の上方のすし調理の具体像が残された唯一の貴重なも
  のである。四つの図かコケラずしのケラ身の切りつけから盛り方、箱ずしの押し箱、重石、小
  鯛と鯖の丸ずしまでよくスケッチされている。ほぼ同じ頃喜多川守貞の著「守貞謾稿」巻之六
  、生業の条に次の文がある。 「…京阪にて、方4寸
(12cm)ばかりの箱の押しずしのみ。一
  箱
48文は鳥貝のすし也。叉、コケラずしと言うは鶏卵やき、鮑、鯛と並みんなに薄片にて飯上
  に置くを言う。飯中椎茸と独活うどを入る。京阪の鮨普通以上三品を専もっぱらとす。亦また
  も、異製をなす店も稀に有レ之。また、鮨には梅酢漬の生姜一種を添える。赤き故に紅生姜と
  言う。この文で注目は、箱すしとコケラすしが区別され、コケラすしが上級としている。つま
  り、最初の杮コケラすし → 箱ずし → コケラすしの発展過程が伺える。このコケラすし
  が今日の華麗な大阪ずしに完成させたのが「福本鮨」と言う店で、「守貞謾稿」巻之六、には
  次の記事もある。「…文政末か、大阪心斎橋通大宝寺町南に福本と言う酢店を開く。杮鮨の鶏
  卵、鮑、鯛等厚く二分
(6ミリ)ばかりにて売之。大に行れ、衆争て買之。是、従来の製は極
  めて薄きを用いし故也。同価にて初めて肴を厚く、味よき故に大に行れ、忽たちまち他店にて
  擬製之するあれども、大に行わず、蓋けだし、此店在て後、京阪の酢店改革して同之也
  。鮨製一変す。」文政末とは
1829年のことである。また、著者不明だが、明治25281892
  ~
5)年に書かれた「浪華百事談」の巻六「福本鮨並早鮨という事」として「今は福すしと称
  し、心斎橋筋大宝寺町にある鮨見せは、近年まで、福本鮨といい島の内にて有名のものなりし
  。此福本の此処に開店せんには、文政中の事なりと聞く。此家に製し売ものを昔は早鮨と言い
  しとぞと。其事を聞くに、鮨とよべるものは、総べてすし桶に製して、早くも一日一夜或いは
  二日経て後食用とす。然るに酢桶に飯を入れ、魚肉精物(上等品の意)を置き圧板おしいた
  置き両手にて良く押して、直ただちに売るのを斯く言い、また暫時、重石を置きて売るもま
  た、早ずしと言いしとぞ
」とある。2通とも福本の非凡さを伝えている。それまで箱すし(
  コケラずしも含む)の熟れ時間をなくし製造時間を極端に短縮したこと。上張の種を厚くして
  高級感を出し、大阪ずしの基礎を作り、同時に早鮨が誕生したのです。

   また、その大阪鮨を、現在の大阪鮨に完成したのは大阪市淡路町にある老舗「吉野寿司」の
  三代目であると言う。

 2)江戸の箱ずしと稲荷ずし
  「料理物語」の初版(1643)に原初の杮コケラずしが登場した。その後、110年余 りたった宝暦
  3
(1753)年の改定版に浮世絵師西村重長が描いた「絵本江戸土産」の挿絵「両国橋の納涼風景
  」が描かれている。小さい四脚台に「はこずし」と書いた行灯あんどんを立て、角形のすしを
  並べた通い箱を前に正座したすし売りに客が中腰で注文する様子が描かれている。「嬉遊笑覧
   きゆうしょうらん
」の天明6
(1786)年版に歌麿の「絵本江戸爵えどすずめ」があり、に日本橋のすし売り
  風景画描かれている。此処は屋台で箱ずし風の商品が大量並べられている。二枚の絵から古く
  から江戸には箱ずしがあったことがわかる。宝暦4
(1754)年市村座の正月芝居「皐需曽我橘
   つきまえうそがたちばな
」の2番目狂言中で坂東三八がすし売りを演じた時の「すし売りのせりふ」と
  題した版本がある。それには「サアサア鮨めさい 〃 …昔つるぎ今井鮨、なぎなた変わって
  包丁、げに長らえば、またこの頃やしのばれん、すしと見し世ぞ、今は鯉、鮒の鮨、また前方
   まえかた
な拙者めが、舌廻らぬ長口上、なれすぎたとやおぼされん、とはいいながら辛口過ぎ、
  売らねば成らないすしあきない、さらばここらで売り掛けろうか…これ漬け、加減押し加減、
  舌打ち至極の鰺の鮨、一切れあがって御覧なれ、うまいというは、いそのかみ、古いせりふも
  新しく、今漬けたての鮨の数、お望み次第に揚幕から橋懸かかり本舞台、たでの花道にこやか
  に、老若男女の御見物、これあきないの下市村、羽左衛門芝居の人の鮨、ゑいとう、ゑいとう
  、ゑい、薮入りの女中方、どれにしようなもし目移りがいたしやす…ひいてしゃくるが合図の
  袖、ちょっくいちょっくいと釣瓶鮨、枕二つに蚊屋かやつらせ、二人抱かれて角力、いざ見え
  たか、見えたは…そりゃこそ、ころころコケラ鮨、さてその上の睦言には、いんぞお忘れなさ
  んすな、必ず今度あいの鮨、そんならさばへ、あい、さばえ、さんさ鯖の鮨は、押されて開い
  てひらく君とわれとは、付紐つけひものおぼこの鮨の時分よりかわるぞかわるぞ君のこはだ、わ
  れはちろりに鮭のすし、神酒奉る年毎に、結ぶ神の大社おおやしろ、その須左之男の後新造さま
  、出雲八重垣いなだ鮨、または手名てなずし足名あしなずし、かの神代の諸白髪、こしのかがん
  だ海老の鮨、比翼連理ひよくれんりの蓼たでの枝まことにおめで鯛の鮨、おしのきいた旦那衆へこ
  う投げかけて売るからは、いよいよえ世上ねごひいきをおっかさねたる鮨桶の、たがどのしょ
  うに申そうとも、やれ買えやれ買え坂東鮨、拙者がすしの御評判、今日おいでの歴々様、必ず
  頼みますの鮨、さてもしゃべるといづれさまも思召をもかえり見ず、やっぱりしゃべるはわれ
  ながら、きつい鮨さと、ホホうやまって申す。」中には語呂合わせの架空のすしもあるがまさ
  にこの時代のすしオン・パレードである。後年このすし売りを美化して「坊主だまして還元さ
  せ、コハダすしでも売らせたや」と唄われた。ところがこの唄は替え歌で、元唄は下の句が稲
  荷ずしでもう売らせたやとなっている。いわば、新興宗教だった稲荷信仰をふまえて堕落しき
  った既成宗教に対する揶揄である。 このことから当時江戸では稲荷ずし(早すし)が売られ
  ていたと様子が伺える。喜多川守貞の著「守貞謾稿」に「天保(
183044)末年、江戸に油
  揚豆腐、一方を裂きて袋形にし、木耳、干瓢等を刻み交ヘタル飯を納めて鮨として売る。 日
  夜売之ドモ夜ヲ専らトシ、行灯あんどんに華表とりいヲ画えがき号なずけテ稲荷鮨、アルイハ篠田鮨
  ト言い、トモニ狐に因ちなみアル名ニテ野干やかん(狐の異名)、油揚ヲ好
ム者故に名とす。最も
  賎価鮨也。尾張ノ名古屋等従来有之。江戸も天保前より、店売ニハ有之與。蓋けだし両国
  等田舎人ノミト専ラトスル鮨店ニ、従来有レ之與也」とあり、これが、今のところ、稲荷ず
  しの発生から店売りまでの唯一のよりどころである。 守貞謾稿によれば、天保年間末期には
  稲荷すしを売る者あったと言うが、名古屋でも、江戸でもその前から売る者がいたとのことで
  。稲荷鮨の発祥は江戸が先か、名古屋が先か不明のようである。稲荷ずしは全国に分布してい
  るが、西日本と東日本では形態も内容も若干が異なる。西日本は油揚げの形が三角で中のすし
  飯は五目飯を入れる。 これに対し東日本は油揚げは四角に切、具のないすし飯を入れる。 
  双方は岐阜県滋賀県の境当りで分布を分ける。 面白いことにその棲み分けは雑煮餅の形
  (西は丸餅、東は角餅)の分布とほぼ同じである(日比野光敏)。

3)握りずしの誕生
   握りすしの創始者には、2説があり、1人は柏屋松五郎、もう1人は與兵衛である。「嬉遊
  笑覧」に「文化のはじめ頃、深川六軒ぼりに、松がすし出来て、世上すしの風一変し…」とあ
  ること事よって「松がすし」が握りずしを創案したので世間のすしの有様が一変したとする説
  である。 
 この店の店主は柏屋松五郎とも堺屋松五郎とも言う。名前から泉州堺の出身の
  能性がありうる。当時関西では箱すしがすでに出来ており、関西箱すしを基としたすしを引っ
  さげて江戸へ出店したことも考えられる。 

   高橋仙果と言う人の随筆「よしな言」[天保5(1834)]に下記のように書かれている。「江戸
  安宅の松が鮨の精製…
10もんめ37.5g)くらい買えば詰めて後、火打ちかけて出す(厄落とし
  のため、火打ち石で火を放つ)。清火に清むる心地なり。また、蓼たで、生姜など、別に小折
  に入れそれを水引に結わえ、熨斗つけ、札はりて、重などにのせて遣つかわす事なり。また、
  この家の海苔ずしは、飯と魚と海苔と、渦巻きに作るなり。他のは、海苔を衣に巻くのみなり
  。この松五郎は、鮨を売り出し始め、処々の控所に行き、わが手製の鮨也とて遣わし、もし麁
  品そひん故歯に当る事もやある、心つけたまいしぞ。鮨の中に壱朱銀などを入れて置きしなり。
   これよりその闊達かったつをののしりあいて、一時に名を高うしたり。すべて功名を尊む人、
  少しは、山心なくては、一生涯、名はいでがし、驥尾きび(自分の仕事を謙遜)にでもつき、
  さて自らの職を精出すべし…」「松が鮨」は「與兵衛」、「毛抜き鮨」と並んで江戸の三大す
  し屋として評判をとり、明治の末なで続いた名店であった。

   第二は「初代花屋與兵衛」が握り鮨の創始者だと言う説である。この與兵衛17991858
  )は福井藩出入りの八百屋の倅。 父は泉藤兵衛、祖父は泉茂右衛門、両人とも泉姓を持って
  いることから福井藩の下級武士であった可能性がある。彼が生まれた年に母が
45歳で死亡、9
  歳の時、江戸蔵前の札差板倉屋帰清兵衛に下男奉公にだされる。恵まれぬ人生のスタートであ
  った。 

   彼は20数歳で板倉屋を退いたが。古道具屋、菓子屋等何度か商売替の末、 握り鮨を創案し
  たと伝えられている。 文政年間
(181830)本所横綱の長屋に 住んでいた。
   毎晩我が家の近い松井町界隈の岡場所(私娼窟)を夜明けごろまですしを売り歩いて小金を
  ため、尾上町に小さな持って「與兵衛ずし」の看板を上げた。これがれが握りずしの元祖だと
  言う説である。
この店が当りに当って江戸中の評判になり、「松が鮨」と同じく武家屋敷から
  注文が多く「武総両岸図抄」に「こみあいて、待ちくたびれる與兵衛鮨、客ももろてをを握り
  たりけり」などの狂歌があるくらい、與兵衛の努力が報われた。 

   果たして、「松が鮨」の松五郎か「與兵衛ずし」の與兵衛の何れかが握りずしの創始者であ
  ろうか、彼らの何れかが握りすしの創始者であると言う証拠がない。
昭和40年の「嗜好」(明
  治屋の宣伝誌)に東洋大学増田義一教授が
「徳川幕府の黒幕、中野磧翁せきおうの例引き、すし
  は政治的贈答品中の雄なるものであったから数多い注文にすし屋各店がその技術を競っている
  中で創り出されたのが握りずしではなかろうか」と述べられている。また篠田統氏は「当時の
  すし屋の広告を見ても、すしの種類がまことに多い。 いわば、すし調理の過度期とでも言う
  べき時代であったと思われる。こうした繁忙のなかから必然的に手業てわざ的食品ではないか
  」とのべている。両氏の説を合わせて、握りすしの創案のきっかけは、あるいはそうではなか
  ったかと思われる。

   「松が鮨」、「與兵衛ずし」の繁盛に影響され江戸のすし屋のすべてが握りずしにしたよう
  である(吉野曻雄)。

   a) トロの命名
    マグロが捕獲され、船の甲板などに横にした場合、最初に下側にした方が輸送中は勿論の
   こと、市場に入荷しても下側で、切断しても「下身」といってその価格が割安になる。 そ
   の反対に「上身」は高値になる。中でも現在は脂の多い腹側に最高の値がつけらけている(
   最近は腹部に限り上下の差が接近している)。

    大正7,8年頃東京京橋に「幸寿司」、「吉野鮨本店」の2つの有名店があった。「幸寿
   司」は、当時最高の値段がつけられ一流の店しか使わないマグロの上身の背中使い高級鮨と
   して販売していた。それに対し「吉野鮨本店」は、当時マグロの腹側は人気がなく背中より
   2~3割安かったが、「吉野鮨本店」の2代目店主は、腹の方が筋が柔らかいし、腹の方が
   旨いと「幸寿司」に逆張りで対抗した。「吉野鮨本店」の読みが見事に当り、連日客が満員
   で、店に入りきれず店の外に順番待ちの長い行列が出来たという。 

    すし屋仲間ではマグロの脂身を「アブ」、脂の多いところを「大アブ」、少な いところ
   を「中アブ」呼んでいたが、客はマグロの脂身の呼び名がなく、見た目、感じたまま各人各
   説で注文していた。ある時、毎日のように食べにきていた常連客の1人(三井物産社員)が
   5,6人の同僚を連れてやって来た。これでは面倒だから直ぐに通じる符丁を我々で作ろう
   じゃないかとなり、
そこで決まったのが「トロ」であった。 当初「トロ」は「吉野鮨本
   」の看板メニューの商品の名前「固有名詞」であったが他の店もそう呼ぶようになり「トロ
   」は何時しか普通名詞に変わった(吉野曻雄)。

   b) 鮨の大きさ
    太平洋戦争が始まる直前、食料統制が厳しく多くのすし屋が営業をやめなければ成らなく
   なった。当時の東京市内の約
3100店、屋台すし店約800店あった。昭和22(1947)年の「飲食
   営業緊急措置例」は更なる決定打であった。 これは、戦後の食料難により、飲食業を事実
   上禁止したものである。
    先の見通しが付かぬまま、多くのすし屋が不安な日々を送っていた。そこ」へ、」起死回
   生の妙案が生れ、すし屋を救うことになった。

    それは、客が持参した米一合と、握りずし10個(海苔巻きを含む)と交換し、すし屋はタ
   ネ代と加工賃何がしかを得るという方法で、これは「飲食業」ではなく「委託加工制度」で
   あると主張し当局に認めさせた。誰のヒントか不明だがこの方法を関西の人であるが東京で
   永い間手広く営業していた八木輝昌氏を中心とした有志のすし屋何人かが、
GHQと熱心に交
   渉し、許可を得、握りすし業だけは営業可能となった。 

    他の業種の飲食店が闇でしか商売することが出来ない時に、いち早く正当に 商売が出来
   るようになった。さらにこの委託加工制度の対象は握りずしに限られているため、全国のす
   し屋が営業するためには握り鮨組合に加入しなければならなかった。このため、東京中心の
   握りすしは全国に普及することになった。

    一人前が海苔巻きを含め10個と言う基本数は、1個の大きさを規格づけたわけで、かって
   1口半とされてきた大きさの規準が捨てられて、握りずしはずっと小ぶりなものになったの
   である。以後ずっと今日に至るまで当然のこととしてまもられている。

 4)海苔巻きと巻きずし
   元来、すしは歴史からいっても上方が家元格であるが、握りずしと海苔巻きずしは江戸の方
  が家元である。ことに、形が鉄砲に似ているので鉄砲巻きと言われる細巻き(海苔1枚を半分
  に切たもので芯に具をいれて巻いたもの)と鉄火巻きの2つは完全に江戸創案のもの。同じ海
  苔を使ったすしでありながら関西と関東では違う。 

    まず第一に呼び名が違う。関西は、「巻きずし」というが東京では「海苔巻き」 と言う。
  昔は関西には細巻きはなかったからすべて「巻きずし」呼んだが、東京には細巻きの考案から、  1枚巻き以上の太い海苔巻きを「太巻き」と呼んだ。

   もう一つの違いは、関西は焼かない海苔で巻くが、東京では焼いた海苔で巻く。言うまでも
  なく、東京の海苔巻きは、焼いた海苔の香りと、パリッとした歯ざわりが味の決め手である。

   a) 巻きずしの歴史
 安永5(1776)年佐伯元明の料理書「献立部類集」を見ると「浅草海苔、すぐの皮叉は紙をすだれに敷きて飯を重ね、魚をならべ、右のすだれ木口(簾の両端に付いている棒)よりかたく絞め巻きにして四角な内に入れよく重しかけ置くなり」とある。
 これはまさに巻きずしである。 享和2(1802)10月刊「名飯部類、付録」
に「巻ずし、浅草海苔を板上にひろげて前の如きコケラすしの飯を置、加料かぐ には鯛、鮑、椎茸、みつば、紫蘇芋めじその類を用ひ堅く巻く、布を水にてしめして、上に覆い、しばらくして切る。紀州きしゅう和布わかめにて右のごとくして和布巻すしという」とある。ここではっきりと巻すしと言っている。 この巻すしは明らかに1枚まきで、今日に続く関西型の巻すしである。 注目したいのは、海苔をいきなり板の上に広げておいて簾を使わないで手巻きにするてんである。
関西の1枚巻とは、「守貞謾稿」に「椎茸と独活うどを芯にした巻ずし…」とある通り、その呼び名と同じである。ただ歴史的にこの1枚(関西型巻ずし)が半枚(細巻)早かったかどうかである。宮下章氏が「海苔の歴史」で江戸の笹巻ずしは海苔巻を熊笹で巻いたものとあり、これが事実とすれば、江戸の細巻ずしが先行していたことになる。しかし、現在、宮下氏の資料が紛失し確認が出来ないない(吉野曻雄)。
  b) 海苔巻きの歴史
 天明7(1787)年刊「七十五日」に江戸中のすし屋25,6軒出てくるが、その 中志き嶋勝三郎の店で色々と商品名を挙げている笹巻きずし、玉子巻、ゆば巻と並べて海苔巻ずしの名が出て来る。 
c)     大巻、新香巻、磯巻
    握りずし出現までの江戸のすしは関西風であった。握りずし前後に考案された大巻ずしが一枚鮨の影響がないとは言えない。 
この江戸風の大巻はなかなか立派に巻く海苔ずしで、海苔も1枚半が普通で、2枚も3枚も使って美しく(切り口を)巻き上げたもので、芯には、時にはいろいろと異なったものを使う場合もあるが、玉子、オボロ、干瓢、椎茸などは欠く事ができない。
 新香巻は東京細巻の関西からの逆輸入。戦後では磯巻きと称して芯に鯖、あなごなどをいれる海苔巻き。
  d) 鉄火巻
    鉄火巻の芯はマグロであるが、マグロ巻きと言う人はいない。 鉄火巻は、江戸末期、東京のすし屋によって工夫された海苔鮨の一種。鉄火場(バクチ場)で鉄火者が食べるから鉄火巻は俗説。  西沢一鳳(180152)の「皇都午睡こうとごすい」に、江戸で味噌の中に種々の加 かやくを入れたものを鉄火味噌と言うが、京大阪では泥棒漬と称するのと同じものであると前置きして「芝海老しばえびの身を煮て細末にし、鮨の上に乗せたるをて鉄火鮨と言うは身を崩しと言う謎なるべし」とある。 身をもちくずしたやくざ者のように、芝エビならぬマグロの姿を細かくして くずすからと言うわけで、やくざ巻、すなわち鉄火巻なのであって、鉄火丼も同じことである。



   参考文献「日比野光敏著;すしの辞典」、「吉野曻雄著:鮓・鮨・すし」
         「中山武吉著;酢とすしの話」

   



 





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