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                              京都・朱雀錦
(16)世界遺産・上賀茂神社
 」


上賀茂神社・細殿(重要文化財)

    上賀茂神社
 賀茂別雷神社かもわけいかずちじんじゃは、京都市北区上賀茂本山にある神社で、上賀茂神社かみがもじんじゃの通称で知られる。式内社、山城国一宮、二十二社の1社で、旧社格は官幣大社。 賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社と総称される。 賀茂神社両社の祭事である葵祭で有名である。 
1.歴史
 上賀茂神社は、京都の北、京都市北区上賀茂本山に祭られ、正式名は、賀茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃと言い、京都で最古の神社であり、下鴨神社と共に全国に分布するカモ社約1200社の総本社である。「日本書紀」の神武天皇即位前紀に「頭八咫烏やたがらす」(3本足の大きな烏)が神武天皇の軍を熊野から大和へ先導したとされており、また、鴨家の史書「新撰姓氏録」に鴨建耳津身命かもたけみみつのみことが大鳥となって先導した功によって「葛野県を賜り居れり」とあると言う。「山城国風土記」によれば、賀茂建角身命かもたけつみのみことを祖神とする賀茂県主族が大和の国葛城の賀茂より山城国に入り、さらに山代河(現在の木津川)から葛野川かどのかわ(現在の淀川か)をさかのぼり、加茂川の合流点に達した。加茂川を見て小さい
が流れが清らかであると、「石川の瀬見の小川」と名付けてさかのぼり久我国(現在の上賀茂地域)に定着して土地の開発経営に従事したとされている。 そのため、これらの事業に最もふさわしい守護神をお祀りし、その恩頼を仰ごうとして神の降臨をお願いした。
 賀茂建角身命は、丹波国神野かんぬの丹波伊可古夜比売命にわいかこひめのみこと結婚し、玉依比売命と玉依彦命がうまれた。ある時、玉依比売が石川の瀬見の小川(現在の加茂川)で川遊びをしていると上流から丹塗矢が流れてきたので、その矢をこれを拾い、持ち帰って、床にさしておいたところ、玉依比売命は懐妊し、男の子を産んだ。やがてその子が成人した時、祖父の命は、広く大きな家を建て酒を醸して、子の父神を知るための祭事を行い、「お前の父と思う人に酒杯さかづきを捧げよ」とおっしゃった。父神は天上の雷いかつち神であったので、その子は、酒月杯を捧げて天に昇られた。祖父はその子が雷神の子であることを知り、その子を賀茂別雷かもわけいかづちと名づけた。そして、後に上賀茂神社の祭神となった。 

2.上賀茂神社の概要
 酒杯を捧げ天上に上った賀茂別雷は、そのまま、天上に留まり、地上には戻ってこなかった。御祖神は大変悲だ。ある夜の夢に、「吾に逢わんとすれば、天羽衣、天羽裳あまのもを造り、火を焚き、鉾を擎ささげ又走馬を飾り、奥山の賢木さかきを採りて阿礼あれ(神霊の出現の縁となる物)に立て、種々くさぐさの彩色いろあやを垂らす。また葵の蔓を造り、厳いかしく飾りて吾をまたは来む。」と仰せられたので、夢の教えのままに神祭が行われたところ、現在の本殿より北北西の神山こうやまに御降臨になったと伝えられている。これが賀茂祭り(葵祭)の原型といわれている。
 神山は円錐形の美しい神奈備かんなび山(神の鎮座する山)で信仰の対象として禁足地となっている。「賀茂縁起」によると欽明天皇の御代(539571)に国中に風吹き、雨降り、天候不順で作物が実らず庶民が大いに愁たので、朝廷は卜部うらべ伊吉若日子いきわかひこに命じ占わしめたところ賀茂大神の祟りであることがわかった。 
 そこで、4月吉日を選んで、馬に鈴をかけ、人は猪突をつけて走って祭祀を行った結果、五穀成熟して天下泰平になったと伝えている。これが賀茂祭(葵祭)の起源ともいわれている。賀茂神社の御威は水の徳を初めとして、農業、林業、醸造、養蚕、機械の守護・育成に及ぶと共に、天災、地災、人災などの諸諸の厄を祓い除ける。いわゆる「厄払やくよけ」の信仰である。
 この賀茂祭が行われたのは現在の上賀茂神社である。下鴨神社が成立するのは天平末年(740)から天平勝宝2年(750)にかけてと推定されている。ついで、桓武天皇の平安遷都(794年)以来皇城鎮護の神、都を守る鬼門の神、即ち方位徐災の神として広く信仰をあつめた。 
 また平安時代末期より鎌倉時代以降、関東方面に広まった雷神信仰は「雷除け」に
結びつき、近代科学産業の発展にともなって電気産業の守護神として崇あがめられた。
 このように人々の信仰を集め、中でも皇室の崇敬は篤く、桓武天皇は延暦13794)初めて賀茂神社に行幸になり、その後、歴代天皇の行幸は60余年に及んだ。ことに佐賀天皇は弘仁元年(810)、皇女有智子うちこ内親王を斉王と定め、天皇の御杖代みつえしろ(名代)として奉仕される斉院の制をしかれた。 
 江戸時代中頃から、上カモ神社は「賀茂」、下カモ神社は「鴨」と書き分けられるようになった。両神社をあらわす場合は「賀茂」である。行政上、明治初期「鴨」に統一した様であるが、現状は混乱している。例えば、カモ川も架かる橋は賀茂大橋であるが賀茂大橋より上流は賀茂川、下流を鴨川その川右岸を通る道は、加茂街道である。 
 主な古書に現れる「カモ」は下記のようになってる。
 
風土記 ;「加茂」「可茂」「賀毛」「賀茂」「鴨」
 古事記 ;「迦毛」            日本書紀;「「甘茂」「鴨」「賀茂」
 続日本紀;「鴨」「賀茂」「賀母」      和名抄 ;「加毛」
 万葉集 ;「賀茂」

3.上賀茂神社の建物等
 上賀茂神社は京都市北区上賀茂本山339番地にあり、境内の面積は23万坪(約く69万m)の大部分が歴史的風土保存地区であり、史跡に指定され、イチイガシ、スダシイ、シダレザクラなど京都の巨樹銘木に数えられる植物と約70の建造物(う
ち2棟が国宝、34棟が重要文化財)があり自然と文化財が」共生し、平成62年(19871217日「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録された。

(1)一ノ鳥居

 
   一ノ鳥居(明神鳥居)
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      二ノ鳥居(明神鳥居)

 正参道は一ノ鳥居からはじまります。鳥居は神社の陣域と人間が住む俗界を区画するもの(結界けっかい)です、帽子をかぶっている人は帽子を脱ぎましょう、神様へ「これからお邪魔します」というきもちで一礼して鳥居を潜ります。真ん中は神様の通るみちですから、右側か左側をとおります。右を通る人は右足から、左側を通る人は左足からはいります。鳥居は、一種の門です。
鳥居を建てる風習は、神社の建物が造られるようになる前から存在した、古来日本では、屋根のない門と言う意味で「於上不葺く御門うえふかずのみかど」とも言った。
 鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源についてははっきりしたことは分からないが、単に木と木を結んだものが鳥居の起こりであると考えられている。文献に徹すれば「於上不葺御門」(皇大神宮儀式帳)と称して、奈良時代から神社建築の門の一種としている。いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立している。その外主要な説として天照大神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥とこよのながなきどり」に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起原であるとする説や。日本の冠木門、インドの仏教やヒンドゥー教寺院に見られる門・トーラナ」を起源とする説がある。
 鳥居をくぐると、まず目に止まるのは開かれた芝生の神苑の広がり、そしてその中央北の方向へ二ノ鳥

(2)斎王桜と御所桜
 向かって左。参道の西に馬場が広がり、反対の右側、参道の西には見事な桜の大木である「斎王さいおう桜」と「御所桜」が鎮座しています。他にも境内には「みあれ桜(神または貴人の生まれること、賀茂神社の異称)」「風流桜」など、葵祭に因んだ長付けられた桜があり、上賀茂神社は桜の名所でもある。斎王桜は遅咲きで八重の紅しだれ斎王とは、伊勢神宮または賀茂神社に巫女とし40て奉仕した既婚の内親王(皇族女子)または女王(親王の娘)のことである。賀茂神社の斎王は斎院とも称され、平安時代から鎌倉時代まで継続しました。豪華で美しいことから斎王のこの名がつけらようです。名が付けられたのか。
 なお、斎王代は、上賀茂神社と下賀茂神社の最大の祭り葵祭の主役です。斎王代は斎王の約を行う役者名です、
居に通ずる幅6m、長さ160mの白砂の直線の参道であり、その左右に広大な芝生が広がっています。

 
        御所桜
 
          斎王桜

 斎王桜の北側にある「御所桜」は早咲きの白の枝垂れ桜で、樹齢140170年の大木です。この桜は孝明天皇(明治天皇の父)から、御所の桜を頂いたため「御所桜」の名がついたようです。桜は木に傷をつけるとそこから腐れやすい性質をもち、昔は選定した部分の消毒もむつかしかったため、「桜切るバカ、梅切らぬバカ」と言う諺もある、比較的枯れ易く平均寿命の短い木とされているが、古木もある、日本三大桜・五大桜は数百年以上の長寿が存在します。
 日本三大桜
 ・福島県三春瀧桜   樹齢 1000年 国の天然記念物
 ・山梨県山高神代桜  樹齢 2000年 国の天然記念物
 ・岐阜県根尾谷薄墨桜 樹齢 1500年 国の天然記念物
  日本五大桜
 ・埼玉県石戸蒲桜      樹齢  800年 国の天然記念物
 ・静岡県狩宿下馬桜  樹齢  800年 国の天然記念物
 御所桜は早咲き、斎王桜は遅咲きで、同時に2本の桜を観賞できませんが、逆の見方をすれば2回花見ができます。
  桜は日本を代表する花です。正式には日本の国花は存在しません。しかし、国花の代表れるよう例として桜と菊がつかわれています、
  桜は春を象徴する花として日本人になじみが深く、春本番を告げる役割をはたし、桜の開花予想、開花速度はメディアを賑わすなど、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒しています。
 そんな桜も古代では一番ではありませんでした、万葉集で梅の花をうたったものが118種あるのにたいし桜の歌はわずか44首にすぎません。当時、単に「花」と言えば梅の花を指していました。
 宮殿の庭に植える花は、右近の橘にたいし左近は梅でした。桓武天皇が平安京に遷都した際、紫宸殿の右近には橘、左近には梅が植えられていました。ところが第54代仁明天皇(在位833~850)の承和年間(834~847)に始め植えた梅が枯死しました。
その後仁明天皇は梅に替えて桜を植えました。これが左近の桜の始まりです。
 第59代宇多天皇も桜を愛した天皇でした。仁和2年に、仁和寺を創建した際仁和寺本殿の左近には桜を植えています。この当たりから花の人気は梅から桜に変わったと考えられます、
 サクラ(桜)は、バラ科モモ亜科すもも属(サクラ属)の総称である、現在ヨーロッパ・西シベリア、日本、中国、米国、カナダなどおもに北半球の温帯に、広範囲に分布している。サクラの果実はサクランボまたはチェリーとよばれ、世界中で広く食用とされている。日本では主に花を変化させるために多くの努力がはらわれたのに対し、西欧ではみをより有用な食品にするための努力が払われた。
 サクラの花は日本人に非常に親しまれ、多くの園芸種がつくられてきた。ソメイヨシノは。その代表である。のみならず、野生種、自生種だけで100種程度のサクラが存在する。

 
         神馬舎
 
        旧祭場跡

(3)神馬舎しんめしゃ 
 芝生の北端に神馬舎があり、神馬しんめが住む馬小屋である。
神馬は神が人間世界にやって来る際の乗り物としで、神聖視された馬で、しんめ、じんめ、かみうまなどとも言われます。神社に生きた馬や獣類などを奉納することは、天皇・公卿・武家などの間には古くから行われていた。これを幣馬獣進へいばじゅうしんと言った。多くの大社には神馬舎があって、他の馬とは区別して飼育されている。
 奈良時代から祈願のため馬を奉納する習わしがありました。奉納者は一般の民間人から皇族様々です。しかし、小規模な神社ではその世話などが重荷となり、また奉納する側も高価なため負担となったことから絵馬に変わりました。
 「延喜式」3巻26条では、雨を願う時は黒毛の馬を、晴を願う場合は白毛の馬をい献納するという記述がある。中世の武士は戦争での勝利を祈願するため神馬を奉納した古くからの神社の中には、馬の存在如何を問わず神馬舎を設置する設置する「習慣がある。
 上賀茂神社の神馬は白馬であることも重要な条件になります。なぜならば、当神社では毎年1月7日に白馬奏覧神事があり、これは白馬でないと務まらないためです。
 現在の意上賀茂神社にいる白馬の名は7代目神山号です。以前はメダイヨンという名前を持ち、競走馬として活躍していたようです。神馬の定年は20歳です。それは神様にお仕えしている間に命を落とすことがあってはならないというのが理由です。
 神馬の御勤めは日曜日と祭日の9時半から午後3時までで神馬舎にいて、神様のお傍のに仕えている姿を参拝客に見てもらうのが主な仕事です。この業務は2011から行っています。それ以外の日は京都産業大学馬術部で過ごしています。

(4)旧祭場跡
 神社はかって神が降臨されたとされた樹木や岩、山などが信仰の対象として本殿を持たなかったといわれる。神が宿る岩や樹木は「磐座いわくら」、「神樹しんじゅ」と呼ばれ、これに囲いなど若干の手が加わった物が「岩坂いわさか」「「神籬ひもろぎ」とされた。
 こういった建築的施設を持たない信仰の形態は原始時代まで遡り、現在も奈良県桜井市の大神おおかみ神社、長野県諏訪市の諏訪大社上社すわたいしゃかみしゃ本宮などにみることが出来る。これらの神社はいずれも背後にある山を信仰の対象とし、その山麓に奉拝ほうはいのための施設をおく。現在は本殿をもつようになったのです。
 やがて農耕がはじまりますと、人々は豊穣を祈るための催事を執り行い、神を迎える仮設の社殿を造るようになる。祭りの時にのみ造られる臨時の社殿は天皇の即位後初めての新嘗祭にいなめさい・しんじょうさいである大嘗祭おおなめさい・だいじょうさいの大嘗宮にその習慣が残っていると考えられている。大嘗宮は祭りの際に使われた「神籬」で現在の神社建設のモデルになったと考えられている。
 神社本殿と寺院本堂はどこがちがうのか、神社建築は日本古来の宮殿建築の一種であり、中国伝来の宮殿建築を祖とする寺院建築とは当初はほとんど共通点を持っていなかった。平安時代以降になると両者は互いに歩み寄りともに日本の伝統建築文化の中心となつたのです。
 上賀茂神社(賀茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃ)の起源は明確ではありません。上賀茂神社の社伝によると、神代の昔に賀茂別雷命が現社殿北北西にある秀峰・神山こうやまに降臨したのが起源とも言われている。その後天武天皇7年(678)本殿殿が造営されたと言われています。従って678年頃までは社殿はなく、このような(旧祭場跡)のような場所で祭事か行われていたと考えられます。

(5)外幣殿(重要文化財)
 神社建築は本殿・拝殿・幣殿が中心である、本殿は神がいるとされる神聖な場所、拝殿は、祭礼や拝礼を行うための社殿である。通常神社を訪れた際に見るのはこの拝殿で一般の参拝は拝殿の前で拍手を打っておこなうが、祈祷などの際は拝殿にのぼる。
 幣殿は、祭儀を行い。幣帛を奉る社殿である。上賀茂神社では。幣殿が二つあり、二つある場合は、遠くにあるものを外幣殿と呼びます。また、二ノ鳥居の外にありますので天皇や上皇の御幸の際の到着殿、摂政関白の賀茂詣での際の到着殿として使用されます。ここで少休憩した後、装束を改め、二ノ鳥居を潜り本殿へすすまれます。また、馬場内にあるため馬場殿とも言われ各種のイベント例えば競馬くらべうま神事、葵祭等のイベント運営の事務所棟として使用されています、

 
                   外幣殿(重要文化財)

創建の時期は不明であるが、現在の建物は寛永5年(1628)に建替えられている。桁行五間、梁間、梁間三間、一重、屋根は入母屋造で檜皮葺ひわぶきである。

(6)本殿・権殿 (両殿とも国宝) 
 本殿の創建は何時か、社伝によると、神武天皇の御代に神の降臨があり、欽明きんめい天皇の御代に賀茂祭が始まったとある。神武天皇は、未確認の天皇であり、従って上賀茂神社の創建時期は不詳である。しかし、欽明天皇(在位539571)の御代に賀茂祭が始まったとされているから、遅くとも、欽明天皇の在位539571年には存在していたと考えられる。
 古代の神社には神社という建築物が無かったのです。大きな石や山、巨大な木に神が宿ると考え、それらの巨大な石や山、巨大な木を御神体として崇めたのです。現在でも拝殿はあるが本殿の無い神社が幾つかあります。代表的な物は。奈良県桜井市の大神神社おおみわじんじゃや長野県の諏訪大社です。大神神社は。拝殿の先にある三輪山を御神体すなわち本殿としています。諏訪大社の上神社は拝殿の先にある守屋山を御神体にしています。大神神社と諏訪大社の上神社は、三輪山や守屋山が本堂で両神社には本殿という建築物は存在しません。
欽明天皇13年(552)10月、百済の聖明王が使者を遣わし。仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したとされている。これが仏教の公伝とされていますが、実際の仏教伝来はそれより早かったと考えられています。
 当時、朝鮮半島には三つの国がありました。中国に最も近い高句麗国には西暦372年に、仏教は伝来しています。お隣の百済にはそれよりやや遅れ384年に仏教は伝来しています。新羅には両国よりさらにやや遅れて伝来しています。

 
                   左権殿・右本殿(国宝)

 近年遺伝子学の発達により、日本人の遺伝子DNAを調べると日本民族の履歴が分かるようになった。日本人のDNAの特徴は、D2Ob1が多いことである。D2は 縄文人の遺伝子で38%ある、Od1は弥生人の遺伝子で21%、両方合わせると59%≒60%になります。残りの40%は大陸系主として中国人の遺伝子です。
朝鮮半島を通って日本列島に流入する民族多く、彼らが仏教を持ち込んでいた、仏教の公伝より、50年~100年早く仏教は伝来していたものと推定されています。
 蘇我氏は用明天皇2年(587)に和名飛鳥寺(漢名・法号法興寺)の建立を発願し、翌年崇峻天皇元年(588)、百済から僧侶と8人の技術者が派遣されてきた。その内訳は、寺工2名、鑢やすり博士1名、瓦博士4名、画工1名である。このうち鑢盤ろばん博士ほは、屋根の相輪の部分を担当する技術者とみられた、また、百済が僧侶を派遣したのは日本には僧侶がいないと判断したためである。
 崇峻天皇5年(592)「法興寺の仏堂と歩廊とを起つ」とあり、この年に飛鳥寺は完成したと解釈されている。
 古代の寺院には複数の名前があります。和風名と漢風名です。飛鳥寺が和風名で法興寺が、漢風名です、それから法号の登録が義務付けられており、漢銘の法興寺を法号としましたので、飛鳥寺は単なる呼称になってしまいます。後に都が藤原京から平城京に遷都すると、飛鳥寺も平城京に移設し、漢名を元興じ変更しました。飛鳥寺は三つの名前を持ったことになります。
 飛鳥寺の創建は神社側(神道)に大きな刺激を与えたものと思われます。
 上賀茂神社の社伝によれば、飛鳥時代(538710年)の白鳳6年(678)に山城国賀茂神宮を造営となっていますので、最初の神社建築はその頃創建されたものと推定されます。しかし、現在の上賀茂神社の建築様式は流造ですが、流造を採用するには野屋根の技術が完成していなければなりませんが、野屋根の技術が完成したのは平安時代の後期で、飛鳥時代の屋根の技術は完成していませんでした。
 現在、神社造分類は、8分類が提案され定説になっているようですが、そのうち、神明造、大社造、住吉造の3造が、日本古来の建築様式掘立柱が基礎になっていて 、が最も古い様式であり、上賀茂神社初期の本殿はこの三造のいずれかと推定されます。
 流造は賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)に代表とされ、伊勢神宮に代表される神明造と同様平入建築の平入神社系統である。
 日本建築の建物へ出入りする場合の出入り口の設置場所については、基本的地に平入と妻入りの二通りがあります。平入とは、建物の平側(棟に平行する側)に出入口設ける形式であり、妻入りとは建物の妻側(建物の端、棟と直交する側)出入口を設ける形式がある。
 建物のどちら側に出入口を設けるということは、単にその建物の設置場所の問題だけに留まらず、素の建物自体の用途、構造、意匠並びに外観、さらには全体の建物群との調和と配置に関わる重要な問題なのです。 例えば、弥生時代の登呂遺跡の竪穴住居などの出入り口は妻側にあった。これは雨垂れのない妻側に入り口を設けたと考えられる。その他、平入神社系には、日吉造、八幡造、権現造がある。
 平入、妻入という建物の構造による分類方法と日本古来の建築方法とその後中国から伝来した建築技術及びその関連技術による建築様式に分類する二つの分類方法がある。
 流造神社は、構造的には平入建築神社であるが。日本古来の建築様式と中国から建築様式が導入された。導入前後に分類した場合、流つくりは後者に属します。
 神明造、大社造、住吉造は日本古来の建築様式グループに、流造以降は仏教建築の影響を受けたグループ大別している。ただし現在の出雲大社の柱の下には礎石があり、屋根にも曲線がある。これは明らかに仏教建築の様式である。しかし、柱に関しては江戸時代の式年造替しきねんぞうたい時に、掘立柱建築から礎石式柱に変更した記録まあり、証拠としての遺跡も存在している。掘立柱建築の屋根には反りは無いから、現在の屋根の反りは後の変更と考えられる。
 流造の特徴は美しい曲線を描いた屋根である。この美しい屋根は日本で開発され日本固有の技術である。飛鳥時代及び奈良時代建築は主中国技術の模倣であった。日本人は平安時代になると、奈良時代に貴族や僧侶の間で試みられていた中国風の椅子やベッドの生活を捨て、もっぱら座る生活に徹した。そうなると床板をはり、周囲に縁側を設けることになる。また座る生活には、高い天井よりも、ずっと低く。座って落ち着く室内空間が好まれるようになり、自然、柱も短くされたが、そうなると軒先のさがってくるのは目障りになって、なるべく垂木の傾斜を緩くしたくなる。しかし。あまり緩くすれば、雨の始末にこまってくる。特に我が国の様に強い風を伴う雨に見舞われる地域では、緩い勾配の屋根二することは許されない。また、寺院や宮殿は実生活以上に外観の美しさが重要視されています。中国伝来の技術では美しい曲線出すことが出来なかったが野屋根の開発でそれが可能となった。
 こうして工夫されたのが、下から見える垂木勾配を緩くし、その上に別に実際に水を流す屋根を載せること即ち野屋根の誕生であった。

 
        一部の屋根

            野屋根

 それでは野屋根は何時誕生したのか、国宝宇治上神社は、我が国最古の神社でありかつ流造である。年輪年代測定の結果平安時代の中期から後期に掛かる1060年頃に伐採された木材を使用していることが確認されている。それ以前はどうであったか? だが、平安時代前の建物は、ほとんど遺構がないため、どのように架構が変遷していったか、その経過を知ることは非常に難しかったが、幸い平安時代中期の建築である、法隆寺大講堂を解体修理した際屋根の一部、屋根全体でなく庇の部分だけが野屋根になっていました。法隆寺大講堂の再建は990年ですから、平安時代中期には野屋根が誕生していたと考えられます。
 野屋根は中国からの伝来でなく、中国から仏教伝来いご日本で開発した日本発祥の建築技術です。


                   本殿廻り境内図

 流造は神社の典型的な建築様式の一つで、特徴は非対称の切妻屋根、平入で正面入口が輪の「前流れ」が、曲線状に反りながら長く伸びる。本体部分を身舎もや、長くのびた部分を庇ひさしまたは向拝こうはいと呼ぶ。桁行(正面)の柱間が1間(柱が2本)出あれば、一間社流造いっけんしゃながれづくり、3間(4本)であれば三間社流造さんげんしゃながれづくりと呼ぶ。参拝客を迎え入れ、階段部などを風雨から守るため、屋根を伸ばしている。神明造、大社造、住吉造の日本古来の建築様式系列とことなり、千木や鰹木はない。普通の民家との違いは、建築物の骨格である身舎の柱は丸柱、付帯施設である向拝の柱は角柱、土台のたかさに浜由香、階段上に母屋床をはる。屋根の形状と高床にするという単純な操作だけでも、神社としての象徴性が付加されます。
 全国で最も多い神社本殿形式である。 
 正面柱間三間、側面柱間二間の切妻造で母屋もや(主柱に囲まれた部屋の中心部)部分の周囲に回縁と跳高欄(隅で張り出した部分が上に反る高欄)をつけ、向拝を出した建物である。
本殿は亀腹基壇上に据えた井桁土台に母屋と向拝の柱が一連に立ち、「そこに低い浜床を張る。
  屋根は正面屋根の流れをそのまま前に葺き下ろした構造で、その葺き下ろした屋根の形式に特徴がある。この本殿の造りを流れ造と呼び、正面の柱間により一間社いっけんしゃ、三間社さんげんしゃと呼ぶ。本殿は三間流造、檜皮葺である。本殿、權殿とも所y面の扉両脇の嵌板に狩野風の獅子・狛犬の絵を描く他は素木造

6-1 本殿權殿取合廊 (重要文化座)
 創建年代不詳 現在の建築は文永3年(1863)造替したもの
 桁行1間、梁間1ま、1重、唐破風造、檜皮葺、昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-2 本殿・東渡廊取合廊 (重要文化座)
 創建年代不詳 現在の建築はに造替したもの。桁行1間、梁間1間、1重、西橋唐破風造、東端切妻、檜皮葺、昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-3 東渡廊ひがしわたろう (重要文化座)
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの。桁行6間、梁間1間、1重、切妻造、東端東御供所に接続、檜皮葺。昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-4 東御供所ひがしごくしょ (重要文化座)
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの。桁行5間、梁間2間、1重、切妻造、檜皮葺。御供え物を調える場所 昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-5 西渡廊にしわたろ (重要文化座)
 
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628造替したもの。桁行3間、梁間1間、1重、東橋唐破風造、西橋西御御供所に接続。檜皮葺、昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-6 楽所及び西御供所にしごくしょ (重要文化座)
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの。桁行8間。梁間2間、1重、北端切妻造、南端直会所屋根を「超えて入母屋をつくる。檜皮葺。御供物を調える場所、昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-7 祝詞屋のりとや(重要文文化財)
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの。桁行5間、梁間2間、1重、東端から破風、西橋透廊に接続、檜皮葺、拝所から見て、右奥に本殿、左奥に権殿ある、拝所から見えないが本殿の前にあって神職が祝詞奏上の場所。 昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-8 透廊すいろう 重要文化座)
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの本殿・権殿は神の専属で、通常神事が行われる拝殿かなく、本殿と厳殿の前にあって壁のない透廊が神事を行う場所である。桁行3間、梁間1間、1重、」南蓮唐破風造、北端切妻造、檜皮葺昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-9 透廊・西局取合廊 (重要文化座)
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-10 渡廊(重要文化座)
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの。桁行折れ曲がり三間、梁間1間、1重、両下造、透廊及び直会所に接続。檜皮葺。昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-11 西局(直会所なおらいしょ)(重要文化座)
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの。桁行8間、梁間2間、全面1間通り庇付き、1重、東端切妻造、西端楽所に接続、庇葺きおろし、檜皮葺。
 直会所とは、神事の最後に神饌としてお供えしたものをおろし、参加者で頂くという行事である。仏教の原点であるバラモン教の儀式の中で、酒は神への最高のお供え物であるとしている。そして儀式が終わるとお供え物を引きおろし、参集者と共に飲食をするとし、その際、酒の一部を燃え盛る火に降り注ぎ、火の神と共に飲食するとあり、これは直会とほぼ同じである。こところより、直会は日本古来の伝統ではなく、バラモン教の儀式を取り入れたものでないかと考えています。 また、通常拝殿で行われる昇殿参拝がの直会所で行われています。昇殿参拝は以下のとおりです。

 ① 拝殿へあがります。
   受付で許可をうけ、所定の位置でまちます。
 ② 修祓しゅぱつの儀 神様が来られる前に身心の罪穢つみけがれのお祓いをうけます。神
職が祓詞はらい
   ことば
を唱える時は深く平伏します。

 ③ 祝詞奏上
   神主によってお願いぼとの祝詞が奏上されます。祝詞奏上ちゅうは軽く頭をさげたままの姿勢になり
  ます。

 ④ 玉串礼拝
   祈願者は、玉串を神職より受け取り、拝礼します。
 ⑤ 直会なおらい 
   お神酒を神前にむけて頂きます。

 ⑥ 授与品の授与
   御札やおまもりなどの授与品を頂き終了となります。
  昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-12 東局(御籍屋ふみだなや)(重要文化財)
 創建年代不詳 現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの。桁行8間、」梁間」2間、全面1間通り、庇付き、1重、東橋入母屋造、西端切妻造、庇葺きおろし、檜皮葺。現在は、結婚式の披露宴会場等に利用されている模様である。昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-13 神宝庫
 創建年代不詳 現在の建築は文永3年(1863)造替したもの。桁行3間、梁間2間、1重、切妻造、檜皮葺、昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-14 唐門からもん (重要文化財)
 創建年代不詳 現在の建築は文永3年(1863)造替したもの。1間藥医門、唐破風、檜皮葺左右袖壁2棟。西側にあり、新宮神社、山尾社に通ずる。昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。
6-15 ㈣脚中門 (重要文化財)

 
                   四脚中門(重要文化財)

 創建年代不詳 現在の建築は文永3年(1863)造替したもの。1間中門。板葺き。昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。
 一般の拝観者が自由に立ち入ることが出来るのはこの門まで。門から中は神様の領域でから、門から中を覗き見ることは出来ますが中に入ることはできません。また本殿に最も近い場所であり、略式参拝の場所となっています。略式参拝は以下のとおりです。
 ① お賽銭を入れます。
   お賽銭もお供え物ですので、丁寧に扱い静かに入れます。
 ② 鈴を1回~3回ならします。
   鈴の音には邪気を祓い、神様を呼ぶための意味があります。
 ③ 拝礼は二礼二拍手一礼を行います。
   姿勢を正し、深くお辞儀を2回します。
   胸の高さの位置で、両手で「パンパン」と2回拍手をします。
   手をあわせ、神様へ日頃の感謝の気持ちと御願いをお祈りします。
   最後に両手を下ろし深いお辞儀を1回します。

 拝礼の仕方は、通常二礼二拍手一礼ですが神社によっては異なります。たとえば、出雲大社の正式な拝礼は、一拝祈念二拝四拍手一拝(参拝者には強要していません)。
 一拝は深いお辞儀をします。祈念は、拝と同じように深いお辞儀をして、まず自分が今ここに生きている感謝のこころを捧げます。一拝祈念二拝は四拝に見えることから。四拝四拍手一拝と説明する記もある。
 四脚門よつあしもん、しきゃくもんとは日本のの建築様式のひとつで、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて控柱4本と正門柱2本合計6本の門柱の門で、重要文化財として残る日本の門の建築様式の中では最も多いものであり、正門に配されることの多い格式の高い門とされる。

6-16 摂社新宮神社(別祥:貴布祢神社)
 祭神高龗神たかおかみ 本殿の東側、屏に囲まれた神域の東南隅に鎮座する境内摂社で、拝殿(切妻流造・檜皮葺)と本殿(切妻流造・檜皮葺)が南北に並ぶ。通常は、拝殿南にある新宮門は締まっていて一般参拝者は入ることはできません。
 古くから、上賀茂神社と貴船神社(左京区鞍馬貴船町)との関係は深く江戸時代までは上賀茂神社の境外摂津社とされ、貴不祢社と呼ばれていた。それは朝廷の特別な庇護のもとで勢力を拡大した賀茂賀も神社が、貴不祢社を支配下に収め摂社化したのだろうが、その裏には、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷大神カモイカズチノオオカミの父神(丹塗矢の神)が賀茂川の上流から「流れてにたことから、丹塗矢を、その上流に鎮座する貴不祢の神の化身とみて、貴不祢社の摂社化が図られたとおもわれる。
 しかし、独自の創建由緒をもつ貴不祢社としては、摂社化を不本意として両者間で紛争が繰り返えされ、上賀茂神社からの離脱を試みるここ見られたが、成就せず、寛文4年(1664)江戸幕府により、貴布祢社は上賀茂神社の摂社とするとの裁決が下された。
 だが、貴不祢社は、明治3年に勅祭社となり、同4年官幣中社に列せられて上賀茂神社から独立し、社名を貴船神社と改称し現在にいた。

6-17 摂社若宮神社本殿(重要文化財)
 祭神;摂社若宮 (重要文化財
 若宮神の具体的神名を含めて詳細仔細不明。本殿が鎮座する中門内の神域東よりに鎮座する摂社。一般者の参詣不能。現在の建築は寛永5年(1628)に造替したもの。一間社流造、檜皮葺、官幣神社。鳥羽天皇保安元年(1120)行幸の時、幣帛(供え物)が掲げられている。 昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

6-18 末社杉尾社 (重要文化財

 祭神;杉尾神 本殿が鎮座する神域内に祀られる小祠で、中門内にあるため一般者の参詣は不可能末社。創建年代不詳。林業の神として信仰が篤いというが、由緒・神格共に不明。現在の建築は寛永5年(1628)に造替したもの。昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。


                    楼門(重要文化財)
 
                   玉橋(重要文化財)

6-19 末社土師尾社(重要文化財)
 祭神;賀茂玉依比古命カモタマヨリヒコ 本殿が鎮座する神域に祀られる小祠で、中門内にあるため、一般者の参詣は不可能。重要文化財。祭神・賀茂玉依比古命は建玉依比古命たけたまよりひこのみこと建玉依比売命たけたまよりひめのみこと2柱の御子神での2柱の御子神で、賀茂県主氏と西埿部氏ニシハニベしとの祖神である。
 加茂県主氏が賀茂の地に定着して上下社に奉祀するようになって以来、西埿部氏も賀茂・幡枝・木野・岩倉等(京都市左京区)等に定住して陶器の制作にあたっていた。
 西埿部氏は、賀茂社の発展にともなって陶器の制作もさかんいなり、その祖神・タマヨリヒコの神霊を上賀茂神社の境内に奉斎したのが当社である。
 西埿部氏は、新饌姓氏禄に「山城の国、西埿土部、鴨県主祖、鴨建玉依彦命之後也」とあり、陶磁器政策に携わっていた部族と推定されるが、新饌姓氏禄は。畿内に住む1182氏しを氏の出目により「皇別・神別・初蕃」に分類してその祖先を明らかにしたもので、分類が中心で詳細は記されていないため、西埿部氏の創建年代を含め不詳である。現在の建築は寛永5年(1628)に造替したもの。昭和28年(1953)3月重要文化財の指定を受ける。

7楼門 (重要文化財)
 創建年代不詳。現在の建築は寛永5年(1628)造替したものである。三間一戸さんげんいっこ楼門、入母屋造、檜皮葺です。三間一戸とは、柱と柱の間あいだが2つに、人の通る通路が1つの門をいいます。人の通らない2つの柱間は何に使うか。通常寺院では仏教の守護神である仁王を左右に安置します。 
 た、建築物では1階建物を1重、二階建物を2重と言います。門の場合。1階、2階共に屋根がある場合二重門といいますが、1階には屋根が無く、2階のみ屋根がある場合、2重門とは言わず、楼門といいます。 神社建築で門に相当するのが鳥居です。門は仏教建築様式ですが、更に、仏教建築の特徴の1つに装飾物組物の使用がある、楼門及び二重門は組物を大量に使用するため、典型的な仏教建築になります。 昔、寺院のことを瓦といいました。
 古代の神道には社やしろと言右建物は存在しなかったのです。仏教が伝来し、寺院という建物が出現し、その寺院を見て驚き、刺激され、現在の神社建築が開発され、誕生したと考えられています。従って初期の神社建築は非仏教的建築であった。
 瓦を用いた建築物は寺院と宮殿だけでした。一般人が瓦葺の建築物を視れば、それは寺院であった。であるから、瓦葺建築物をみれば。寺院と考え、瓦葺=寺院となったのであろう。
 日本の神社建築は、瓦いがいの屋根材は、瓦以外の全ての屋根材を利用した。例えば神明造の伊勢神宮は萱葺である。日本で最も有名な建築物の1つである金閣寺・銀閣寺は板葺の一種である、杮葺きである。  茅葺と板葺が最もポピュラーな屋根材であったと思われる。その板屋根も時代と共に、技術も進み板の厚さが薄くなり、高級化進んできます。屋根板材の代表的な分類法下記のとおりである。 栩葺とちぶき  厚さ;13㎝  法隆寺金堂・五重塔裳階、室生寺御影堂
 木賊葺とくさぶき 〃  47mm 修学院離宮、福皇子神社

 杮葺こけらぶき  〃  23mm 金閣寺、」銀閣寺、桂離宮古書院

   室生寺御影堂・栩葺
 
 修学院離宮殿・木賊葺
 
     無名・杮葺

 奈良・平安時代以降、仏教建築と公的なものは瓦葺きとしたが私的なものの最高位は檜皮葺とした。また、檜皮葺は他国に霊を見ない我が国固有のものである。
 ところで上賀茂神社の楼門の屋根は檜皮葺である。楼門は代表的な仏教建築で屋根は当然瓦葺であるが、日本建築様式の檜皮葺になっています。

7-1東回廊 (重要文化財)
 創建年代不詳 建材の建築は寛文5年(1628)に造替したもの。桁行9間、梁間1間、1端切妻造、他端楼門に接続檜皮葺、昭和283月重要文化財の指定をうける。

7-2西廻廊(重要文化財) 
 創建年代不詳 建材の建築は寛文5年(1628)に造替したもの。桁行9間、梁間1間、1端切妻造、他端楼門に接続、檜皮葺。 昭和283月重要文化財の指定をうける。

7-3玉橋(重要文化財)
 江戸時代寛永5年(1628)架橋された。楼門の前で、御物忌川おものいがわにかかる、高欄、擬宝珠付き。朱塗りの美しい木造反橋である。神事で神主が渡る際にのみ使われ、普段は注連縄が張られて一般人は通れないようになっています

8.幣殿(重要文化財)
 神社の境内にある建物は目的に拠ってそれぞれ建てられています。神社の沢山の建物のことを総称して社殿とよびます、その社殿と呼ばれる神社の建物には、それぞれ重要な役割があり、本殿、拝殿、幣殿、神楽殿。御饌殿等」で、ほとんどの神社にあるのが本殿と拝殿で、次に重要なのが幣殿です。社殿の基本的な構成はm社殿の中心となる、たてものであるのは本殿・拝殿・幣殿ですが、それは繋がるよ、に「建てられているのが一般的です。そしてそれぞれの建物には重要なやくわりがあります。
本殿は神霊を宿した御神体を安置するたてものである。拝殿は、神殿で、御神体を本殿に納めるようになり、その御神体を祭祀・礼拝を行うための社殿である。
 御神体は直接見ることは出来ないと言う神道の考えにより、参拝者は拝殿から祈ることになる。拝殿の役割は見ることのない神様を心で感じる、そして感謝を伝える大切な場所になります。

 
                   幣殿(重要文化財)
 
                 高倉殿(重要文化財)

 拝殿での参拝方法には、正面に設置された賽銭箱の前から自由に参拝する略式参拝と、拝殿に上がって行う昇殿参拝があります。
 幣殿とは、基本的に拝殿と本殿をつなげるための中間のたてものです。拝殿のに祀られていた神饌や旗などを置くように廊下が造られ、さらに幣殿と呼ばれる建物になった。神社にある社殿は基本的に、手前から拝殿・幣殿・本殿がつながった構成で建てられています。3つの建物がそろっていない場合もあります。上賀茂神社の場合、細殿が拝殿となぅていますが、細殿は本殿の前になく、しかも楼門の外にあります、しかも拝殿には必ずある、略式参拝に必要な賽銭箱や鈴もないが、逆に中門前には、賽銭箱も鈴もあり、ここで略式参拝がされている。拝殿で行うべき昇殿参拝は直会初でおこない、拝殿で行う神事は透廊で行っている。上賀茂神社には拝殿はないと考えてよいのではないか。拝殿の無い神社は他にもある。主要なものは以下の通りである。
 ・伊勢神宮(三重県)
 ・春日大社(奈良県)
 ・宇佐神社(大分県)
 ・松尾大社(京都府)
 幣殿へいでんの創建年代不詳 建材の建築は寛文5年(1628)に造替したもの。桁行4間、梁間3ま、1重、入母屋造檜皮葺、昭和28年4月重要文化財の指定をうける。

8-1 忌子殿いこでん(重要文化財)
 参道から見ると幣殿のうらにある。忌子いごは、斎祝子いむこともいい、賀茂氏より選ばれた子女であり巫女をを意味し、賀茂斎院にほうししていた。現在は祈祷殿として利用されている。
 忌子いごと似た言葉に「忌み子いみこ」がある。忌子いご神様に仕える聖純な巫女であるのに対し、忌み子いみこは正反対に、①望まれてききたわけでない子、②嫌われ者、③不吉な子のいみがある。忌子殿の説明に、整理中の女性が籠る屋としたもんがある。これは校舎の意味と取り違えたものと思われる。創建年代不詳 建材の建築は寛文5撚(1628)に造替したもの。桁行4間、梁間3間、1重、入母屋造、檜皮葺、 昭和28年4月重要文化財の指定をうける。

8-2 幣殿忌子殿取合廊(重要文化財)
 創建年代不詳 建材の建築は寛文5年(1628)に造替したもの。桁行2間、梁間1間、1重、切妻造、檜皮葺、 昭和28年4月重要文化財の指定をうける。

8-3 高倉殿(重要文化財)
  かっては祭事用の保管庫として使われていた。その後神職や参拝者が参加する直会(祭祀の最後に、祭祀に参加した者一同でお神酒を戴き神饌を食する行事)の場所となったが現在では㈣脚中門の西にある西局な直会所となっており、高倉殿は、神宝・神器・古文書等の展示場となっている。
創建年代不詳 建材の建築は寛文5年(1628)に造替したもの。桁行6間、梁間2間、一重、入母屋造、檜皮葺。昭和28年4月重要文化財の指定をうける。 

 
                    細殿(重要文化財)
 
                   橋殿(重要文化財)

8-4 末社棚尾社 (重要文化財)
 櫛石窓神くしいわまどのかみと豊石窓神とよいわまどのかみは神道では合わせて天石門別神あまのいわとわけのかみとの呼ばれ、宮殿の四方の門を守る神であって、上賀茂神社では玄関守護・家を守るかみとして祀られています。昭和28年重要文化財にしていされています。

9.細殿ほそどの(重要文化財)
 参道から二ノ鳥居を潜ると、正面に細殿ほそどのとその前に盛られた一位の立砂たてずなが目に入ります。細殿は、「拝殿」ともいいます。細殿は古くから天皇、上皇などの貴人が参拝したときに装束を整え得る着到殿ちゃくとうでんとして使われました。葵祭では斎王代の到着殿として使われています。月3日の土解祭どげさいでは、手前の長方形の台地「「坪ノ内」で土解祭神(稲種占い、豊作祈願等)がおこなわれます。
 細殿の前に一対の白い砂山があり、立砂たてずなと呼ばれ、盛沙もりずなともいう。
ともいう。「立たつ」とは神様の出現に由来した言葉であり、神代の昔(神武天皇の御代)御祭神(賀茂別雷)が最初に降臨された、上賀茂神社の北2㎞さきにある神山こうやま(標高301.5m)をかたどったものと言われ、依代よりしろ則ち、神が下りてこられる形の整った円錐形の山です。立砂に接近してみますと、左右の立砂の先端に松葉が刺さっているのが見えます。そして、左右では松葉の本数が異なります。細殿に向かって左が3本、右が2本です。陰陽道では奇数を陽とし、男性を意味します。偶数は陰で女性を意味位します。男女が会うことにより夫婦円満で世の中が静まり安定するというのが陰陽道の思想です。そして立砂から細殿に向かって拝礼するとその方向は鬼門になり鬼門封じになるというのです。余談に。

 
      方位図
 
    立砂と鬼門
 
   立砂先端の松葉

尚、余談のなりますが三葉の松について考えてみましょう、普通の松、赤松も黒松は2枼です、五葉松は五枼です、植物分類には三枼の松は 存在しません。多分個体変異と考えられます。個体変異というのは、遺伝子や染色体に関係なく、環境の影響によって生じた個体の形質変化です。三枼の松は二ノ鳥居を潜って左の玉垣沿いに一本るそうです。
ここで陰陽道ついて考察してみましょう、陰陽道は中国からきた思想とお考えの方が多いかも。実は10世紀こと日本で誕生した思想なのです。
陰陽とは、中国の思想に発し、神羅万象、すなわち宇宙に存在し生起するすべての事物及び現象は、相反する陰と陽の2つのカテゴリに分類思想で、陰と陽とは互いに対立する属性を持つ他2つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって消長盛衰し、陰と陽との二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。重要なことは陰陽二元論が、この世のものを、善一元化のため善と悪に分ける善悪二元論とは異なる。陽は善でなく、陰は悪でない。陽は陰が、陰は洋画あって初めて、一つの要素となりえる。あくまで神羅万象を構成する要素にすぎない。戦国時代(14671590)末期に五行思想と一体に扱われるようになり、陰陽五行説となった。
 陰陽道では、丑寅うしとらの方向、すなわち北東方位をを鬼門、その逆に羊申うしとら則ち南西方向を裏鬼門と呼ぶ。鬼門の由来については様々な説があります。古代中国の書物「山海経せんがいきょう」等に北東を鬼が出入りする「鬼門」としたことによるとの説がある。後漢の王充おうじゅうが「論衡ろんこう」には「山海経」からの引用の形で下記の記述があるという。
「山海経」に曰く【滄海そうかい(青々とした広い海)の中に、度朔どさくの山あり。上に大桃木あり、その屈蟠くつばん(複雑にいりこむこと)擦ること三千里、その枝間の東北を鬼門と曰ひ、万鬼の出入する所なり。上に2神人あり。一は神茶しんとと曰ひ、一は欝壘うつりつと曰ひ、万鬼を閲領するを主つかさどる。悪害の鬼は、執とらふるに葦索いさく(網)を持って虎に食わしむ。】と記してあるという。このお経の文の中に東北を鬼門と曰ひ、万鬼の出入する所なりの文、があり、万鬼が出入する鬼門が東北の方向にあると明記されている。
 しかし、現在の「山海経」にはこの文章は存在しないのである。事実。インド(現在仏教徒ほ殆ど皆無)は勿論のこと、中国でも朝鮮でも鬼門は信じられていないことは、鬼門説が海外からの伝来でないことは明白である。そして沖縄を除く日本だけ信じられていることから、東北鬼門説は日本で誕生し日本固有の信仰と考えるべきであろう(イワクラ学会会報23号参考)。
 風水害対策でよく、住居や敷地の鬼門方位や運の入口げある玄関に置いて祈願する習慣がありますがその起源は細殿の立砂にあると言われていますが、この立砂は何時何の目的で造られたのであろう。
 平安京鬼門において、真っ先に思い浮ぶのが延暦寺であろう。伝教大師最澄は、延暦7年(789)、小規模な寺院を比叡山に建立し、一条止観院と名付けました。桓武天皇は最澄に帰依し、この寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として朝廷の支持を得、次第にさかえました。延暦寺と名乗るようになったのは。最澄没後、弘仁14年(824)のことである。百人一首で知られる鎌倉時代の天台」座主慈円の歌に
  我山は花の都の丑寅の鬼いる門をふたぐとぞきく
 細殿の所見は正暦5年(994)5月23日の「大風の後の修造にかんする官符」である。立砂が何時頃できたかに直接答える資料はないが、賀茂斎院跡の碑が立つ櫟谷七野いちいたにななの神社の蔵書「雍州府誌」(山城国に関する総合的な地誌、善10巻)につぎのような記述が残されている。
 「宇多天皇之后困失籠祈其社依霊夢以白砂築大和三笠山之状遂得籠如初自是諸人有祈願則置白砂於社前依之俗或称高砂山神職奥西氏守之」
 多天皇の皇后が天皇の寵愛を取り戻そうといのり、夢告により砂で奈良の三笠の山を築いたら天皇の寵愛が戻り、その後、白砂で造る山を「高砂山」と呼ぶようになったと伝える。

 この故事に倣い、社全に白砂を積むと「浮気封じ」の願いが届くという信仰が生まれ、今でも丼鉢一杯程度の白砂を拝殿の前に置く習わしがある。
 創建年代は不詳、現在の建物は、寛永5年(1628)に造替いたもの。桁行5間、梁間21重、入母屋造、檜皮葺。昭和28年(19533月重要文化財の指定をうける。

 
   「返祝詞」を申す場所「岩上」
 
      夏越大祓・茅輪潜り
 
       人形ひとがた 
 
        人形流し

10 橋殿(舞殿)(重要瓶家財)
 橋殿はしどのは舞殿まいどのとも言われる。橋の下は「奈良の小川」が流れており、この建物があたかのはしのようになっているので、橋殿の別名称がある。
 川や谷や海或いは道路や線路の上にかけて通路とするための「橋」は、世界のあらゆる地域に存在する。しかし、橋であると同時に祭祀施設でもあるというような建築物は、ごくごく限られた文化圏でしか見られない、その1つが日本に古くから「橋殿」である。御手洗川みたらしがわを間邸で立つのが、入母屋造り妻入りの橋殿であry。創建年代は不詳だが、1000年に以上前から存在したことをは間違いな。現在の橋殿は寛永5年(1628)造替したもので、間口が1間(1.8m)、桁行5間(9.1m)の小ぶりの建物だが、檜皮葺の屋根を頂く姿が平安時代のおもかげをとどめ、国の重要文化財の指定を昭和28年(1953)3月31日に受けています。
 橋殿の内部には、前方正面の1間分を除いて板床が張られ、両方の側面には高欄の付いた縁が設けられている。賀茂祭はもともと、上賀茂神社(賀茂別雷神社かもわけいかづちじんじゃ)と下鴨神社(賀茂御祖神社かもみおやじんじゃ)の例祭だったが、やがて天皇の勅命でおこなわれる国家的な祭礼と発展した。この賀茂祭の祭儀天皇によって派遣された勅使が御祭文(神仏に対する天皇のお言葉)を奏上する場が、橋殿なのである。
 そして御祭文を授けられた宮司は、それを神前に供えた後、橋殿の北側にある岩上(神の拠りつく石)の上に蹲踞そんきょして、神からのメッセージともいえる返祝詞を橋殿の勅使に向かって奏上する。この神事が端的jにしめしているように橋殿の真下を流れる御手洗川は神域と人間界を区分する「境界」であり、その境界線上に立つ橋殿はまさに、神域と人間界をつなぐ「交流の場」である。

10-1 岩上がんじょう 
 「岩上がんじょう」は賀茂祭(葵祭)に際し皇室から遣わされた勅使に宮司が蹲踞そんきょし、返祝詞かえしのりとをもうしあげる場所とされている。「岩上」は神山ごうやまとともに賀茂信仰原点であり、古代祭祀のかげを現在に伝える場所で、「気」の集中する場所と言われている。

10-2 夏越大祓と人形流し
 、大祓は、我々日本人の伝統的な考え方に基づくもので、常に清らかな気持ちで日々の生活にいそしむよう、自らの心身の穢れ、そのほか、災厄の原因となる諸々の罪・過ちを祓い清めることを目的としています。
 この行事は、神話に見られる伊弉諾尊いざなぎのみことの禊祓いを起源とし、宮中においても、古くから大祓いが行われていました。中世以降、各神社で年中行事の一つとして普及し、現在では多数の神社の恒例式となっています。年に2度おこなわれ、6月の大祓いを夏越なごしの祓と呼びます。大祓詞おおはらいのことばを唱え、人形ひとがたなどを用いて、身についた半年間の穢れを祓い、無病息災を祈る為、茅かやや藁を束ねた茅の輪を神前に立てこれを3回潜りながら「水無月の祓いする人は千歳の命のぶと言うなり」と唱えます。また。12月の大祓は年越の祓とも呼ばれ、新たな年を迎えるために身心を清める祓いです。
 上賀茂神社の夏越大祓は、午前10時から開始。まずは、神職が立砂前に設けた茅の輪を潜ります。その後、参拝者が潜って、無病息災きがん。茅の輪を潜る際に、以下の言葉を唱えながらくぐります。「ちとせのい後のぶおいふなり」6月30日、

 
                    土屋(重要文化財)
 
                   楽屋(重要文化財)

午後8時から人形流しも行われます。人形は「ひとがた」と読みます。人形流しは、知らず知らずの内におかした罪や、積もり積もった身心の汚れを取り除くための儀式です。人形で神体をなでます悪い所は念入りに、人形に息をふきかめます、人の罪や穢れを付着させた人形を清流に流します。
 上賀茂神社の人形流しの様子は、小倉百人一首98番目にある従二位藤原家隆(11581237)の歌に詠まれている。「風そよぐならの小川の夕暮れは禊ぞ夏のしるしなりける」、そよそよとふきわたる吹きわたる六月の風に、ナラの葉がそよげば、この「奈良の小川」のあたりの夕暮れは、もうすっかり秋の気配が感じられる。だが、あのかわのほとりでおこなわれている6月の祓の行事だけが、まだ夏の印なのだ「」なと自覚させられる。神事は、この和歌の朗詠にはじまり、お祓いの後、宮司の大祓の詞ことばを二唱されるなか、二人の神職により。数千枚の一般参詣客が汚れを清める契りの願いの人形ひとがたを一枚づつ神業のような速さで「奈良の小川に流

11.土屋 「着到殿」(重要文化財)
 土屋は着到殿ともいわれている。土殿には床が無く礎石の上の柱が丸見える外観からこの名があると思われる。創建年代は不詳であるが、現在の建築は寛永5年(1628)造替したもの。桁行5間、梁間2ま、1重、入母屋造、檜皮葺、昭和28年(19533月重要文化財の指定をうける。現在は、祭典奉祀のお祓所と名っカラス相撲のちびっこ力士たちも出場前にここでお祓いを受けていた。
 土屋は着到殿ともいわれるが、着到殿という建物はたの神社にもある。例えば春日神社の着到殿は、縁起6年(916)の創建。三勅祭の一つ、春日祭で勅使が着到の儀を行う建物として建造されたとある。
 上賀茂神社と下鴨神社が行う賀茂祭(江戸時代から賀茂神社の門徒徳川目の家紋がともに葵であることから徳川家に敬意を表し葵祭となった)は、石清水八幡宮の石清水祭と春日大社の春日祭と共に三勅祭といわれた。
 勅祭は、天皇の勅使(使者)が派遣されて執行される神社の祭祀のことである。春日大社では、勅使が着到すれば、着到殿で着到の儀を行ったとある、それは、上賀茂神社行っていたはずであり、それは土屋で行っていたものと思われる。現在の三大勅祭日は以下の通りです。 
 春日大社   春日祭  3月13
 賀茂神社   加茂祭  5月15
 石清水八幡宮 石清水祭 9月15

12.楽屋 「旧一切経所」(重要文化財)
 神事に額人が楽器を演奏するである。神仏習合の時代に供僧が用いた建物である。一切経楽屋ともいう。創建年代不詳。現在の建築は寛永5年(1628)に造泰し、明治13年(1880)に改修された。神仏習合時代に供僧方が用いていたもの。桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺。昭和28年(1953)3月重要文化財の指定をうける。
 一切経は大蔵経ともいわれます。お経はお釈迦様が話したお話しを後の人文書にした物で膨大な数量の書類になります。その膨大な数量の書類(お経)を何時誰が纏めるかかにより一切経、大蔵経にかわります。この一切経又は大蔵経を収納する建物を経蔵と言い、現代で言えば図書館に相当するもので大寺院では七堂伽藍の1つで重要な建物です。昔は印刷技術は進んでなくお経は手書き又は木版であり書物(お経)は高価で貴重なものでし、風雨に晒すことは厳禁で倉庫のように頑丈な建物で保管されています。楽屋は膨大な書類を保管する施設にしては狭すぎ、また㈣方は壁がなく、貴重な書類(お経)を保管する場所とは考えrされない、一切経所ほは、蔵書を保管する場所ではなく、僧侶が、一切経の読書、調査、写経等日常業務の事務所として使用していたと考えられる。

 
          手水舎
 
       樟橋(長寿橋)
13.手水舎

   ①左手を洗う

   ②右手を洗う

 ③左手に水を溜める

  ④口をゆすぎます

   ⑤右手bを洗います

    ⑥柄杓を洗う

普通神社の手水舎は鳥居を潜って最初の施設が手水舎である場合がここでは、一ノ鳥居、二ノ鳥居を潜って主要な建物群、細殿、橋殿、土屋、楽屋を通り過ぎて、楼門を潜る経前にある。これは、細殿と外幣殿が皇族。公卿等高貴な方の到着殿となっていりためこれら2殿で装束を改められた後に、拝殿に向かわれるよう企画されたものと考えられる。

手水の作法
  まず神社ほお参りの第一歩は手水から、先ず、手水舎ちょうずしゃの前に立ち、水盤に向かい、「心身の浄
  化」のために手水を行うことが最も大切です。

 
  右手で柄杓を取ります。

     水盤の水を汲み上げ、左手にかけて洗います。
·         柄杓を左手に持ち替え、水を汲み上げ右手を洗います。
        
 
再び柄杓を右手に持ちかえて、左手のひらに水を受けて溜めます。
·         口をすすぎます。柄杓に直接口をつけないようにしましょう。静かにすすぎ終わって、水をもう一度左手に流
  します。

 日本では外から帰り、家に着いたら手を洗い、トイレが終われば手を洗うのが普通です。家に着いたら手を洗う人は少なくても、トイレが終われば手を洗うのは常識でしょう。しかし日本の常識は世界の常識ではありません、トイレが「終わってから手を洗うのは少数なのです、手洗いの普及率は恐ろしいほど低いそうです。アフリカでは産婆が手洗いをしなかったため、多くの子供が伝染病で亡くなっていたため、「世界手洗いの日」が設定され、手洗い運動がおこなわれています。日本で手洗い運動が普及しているのはもしかして、神社での手水が影響しているかもしれません。
 日本では毎日風呂に入るのはふつうですら、世界的に見れば日本の方が異例のようです。ヨーロッパでは普通の家庭で月1回程度のようです。さらに一昔であれば貴族で年3回程度であったから、庶民はほとんど一生風呂に入らなかったと推定されています。日本では風呂場は浴槽と洗い場が分かれ、洗い場で体を洗った後、浴槽にはいりますがこれは世界的に見れば異例で、ヨーロッパも中国も朝鮮も風呂場
は浴槽のみで、洗い場はなく、浴槽で洗い、入浴後の湯は排水しています。大衆浴場(銭湯)が存在するのは日本だけです。このように日本の清潔感は世界の中で飛びぬけています。この清潔感は神道の影響を受けているかもしれません。
     手洗いが終われば、拝殿の方に進みます。拝礼の方法は以下の通りです

·          拝礼の作法

      
     ①二礼
 
       ②二拍
 
      ③一礼
一礼、賽銭、鈴
① 拝殿では鳥居や参道と同じく正面からほんの少しずれて立ちます。軽くお辞儀(15度)をしてます。

② 賽銭箱に静かに賽銭を入れます。賽銭はもともと海の幸や山の幸、また白米を白紙に包んでお供えしたが、賽銭にはお供えの外に罪穢つみけがれを銭に移して祓う意味がありますので、遠くから投げたりせず、近くから、そっと入れるのが正しい作法です。
③ 鈴はその音でその場のお祓い清め、神様を及びするという意味があります。となります。

④ 腰を90度位までしっかり折って、深く頭を下げて二度お辞儀をします。
⑤ 次に拍手を二度うちます。拍手は柏の葉のように両手を揃えて打ち合わせます。打つ際のポイントは
 左右の手を少し上下にずらして打つと、境内に響くいい音がでます。 手を打つ意味は、自分が素手であ
 ること、何の下心もないことを神様に証明するためです。身元、祈願内容などを心の中で神さまに述べま
 す。

⑥ 最後に一拝、深くお辞儀をします。

玉串拝礼の作法

 
    玉串の回転
 
    玉串奉納
 
   高千穂・天安河原

玉串拝礼の作法
 日本神話では、天照大神が岩戸隠れした際、玉や鏡などをつけ五百津真賢木いほつのかさかき(榊)をふとだまが捧げ持ったとある。天照大神が岩戸に御隠れになった際、榊に鏡や勾玉をつけた、これは神事に玉ぐしを使う由来であるとしている。神社で祈願するときやお祭りをおこなうときには、神さまに玉串という榊さかき
・ 玉串
玉串はみずみずしい榊の枝に木綿ゆう、紙垂しでと言われる麻や紙を取り付けたものです。私たちの祖先は遠い昔から、榊に神々を招き、また神前に榊を備えてお祭りを行ってきました。
 ・私たちは神前に進み、玉串を通して自らの誠に心を捧げるとともに、神様のお陰いただきます。
・右手で榊の元(根本)の方を上から左手で先に方を下から支え胸の高さに、やや左高に少し肘を張っても
 ちます

・玉串の先を時計回りに90度まわします、
・左手を下げて元を持ち、祈年をこめます。
・右手を放して、玉串を更に時計回りに回し、玉牛の中ほどを下からささえます。

13-1.樟橋(長寿橋)
 手水舎で手を清め拝殿に向かう途中2枚の石板で造られている石橋がある、橋に名は樟橋といいます。じつはこの石橋は大木だった樟が化石になったものです。樟という気は、有機物です、有機物は水と炭酸ガスからからできています。則ち水素(H)、酸素(O)、炭素(C)の3つの元素を主成分としそれに窒素(N)、リン酸(P),カリ(K)等の微量成分から合成されています。有機物は生物(含微生物)により食されますし、太陽エネルギー等により分解されます。
 しかし、化石は有機物ではないのです。機物の主成分(HC.,O)が無機物の石の主成分のケイ素(Si)に代っているのです、元素は不と変です。炭素(C)はケイ素(Si)に変わることわありません。(H,C,O)が(Si)と入れ替わったのです。これを置換といいます。なぜ置換が起ったのか、現代の科学では解明されていません。 樟橋は木造橋ではありません、石橋です朽ちることなく、永遠にもちます、正に長寿橋です。

 
       末社橋本社
 
        末社川尾社

13-2. 橋本社一衣通姫ソトオリヒメ 
 細殿の左(西)、楼門に至る樟はしの南西に鎮座する、一間社流造・檜皮葺の小祠、ソトオリヒメは、容姿絶妙で並ぶものなく麗しい体の輝きが衣をとおして外に現れる美女という一般名詞で固有名詞でない。
 古事記と日本書紀では説明がことなる。古事記では、允恭いんぎょう天皇の皇女・経太郎女の別名で、同母兄・軽太子カルノヒツジノモコトと情を通じるというタブーを犯したことから、允恭天皇崩御後、群臣に背かれ失脚、伊予国(愛媛)にながされ、軽太郎女も後を追って伊予に赴き共に自死した。
一方、日本書紀では允恭天皇の皇后・忍坂大中姫オシサカオオナカツヒメの妹・弟姫おとひめの別名で、姫を敬愛する允恭天皇は頻繁に通い詰めたが、皇后の諫めによりかよわなくなった。上賀茂の神社では「和歌・芸能の神として信仰があるとしている。

13-3.川尾社 祭神;罔象女神ミズハノメ・ミツハニメ 
 楼門から右へ、御物忌川おものいがわの西北岸に鎮座する一間社流造・檜皮葺の小祠。御物忌川の守護神で、御物忌川を神格化した神。
 御物忌川は、本宮を中心とする最初の神地の境界をなすかわで、神聖な川として信仰されたという。ミツハノメ神とは、火の神・カグツチを生んだため瀕死となった伊邪那美イザナミがもらした尿から生まれた女神で、水の神とされている。

14.片山御子神社(片岡社)(重要文化財)
 楼門に向かって右手・御物忌川を隔てて川の左岸(南側)・片岡山の西麓に鎮座する第一摂津社で、延暦式新値胃腸に「山城国愛宕郡片山御子神社大月次相嘗新嘗」とある式内古社。略称。片山社。また片岡社とも記す。
 タマヨリヒメは、上賀茂神社の祭神・ワケイカヅチの母神で、下鴨神社の祭神だが、神霊が依り憑く巫女、神につかえる巫女をさす一般名称でもあり、「玉依比売命」は瀬見の小川で川上から流れてきた丹塗り矢を持ち帰り、寝床の近くに挿して置くと、みごもって男の子を生みました。これが、賀茂別雷大神の誕生であり、子授けのご神徳のよりどころなのでしょう

 
         摂社片山御子神社本殿及び拝殿(重要文化財)
 
                片岡橋(重要文化財)

 このことにより、片山御子神社の祭神は平安時代の昔から縁結び、恋愛成就、家内安全、子授け、安産の神様として著名であり源氏物語の作者である紫式部も参拝されています。

14-1 片岡橋(重要文化財)
 創建は不詳。現在のはしは、寛永5年(1628)架橋された。桁行一間、梁間一間、御物忌川にかかる木造唐破風造、檜皮葺の屋根付きの橋である。片山御子神社(片岡社)の西側。玉橋の東側にある。

 
      摂社須波すわ神社
 
        紫式部歌碑

14-2 摂社須波神社
 祭神 阿須波アスハ神、波比祇ハヒキ神、生井イマイ神、福井サカイ神、綱長井ツナナガイ
 楼門の右手、御物忌川を隔てて片山御子神社の右手(南側)の高台に鎮座する一間社流造・檜皮葺の小祠で、延喜式神名帳に「山城国県郡須波神社」とある古社である。
  当社は明治以前には諏訪社と呼ばれる境内末社だったといわれ、江戸末期にお国学者・伴信友(17731846)が、これを「式内・須波神社」に比定し(神名帳考証・1813)、明治10年(1877)内務省によって末社・諏訪社が、」境内摂社に指定され、須波神社と改称した

14-3 紫式部歌碑

ホトトギス声まつほどは片岡の杜もりのしつくに立ちやぬれまし

 (ほととぎすの声が聞こえるというけれど、ちょっと時間がかかりそうだ、朝霧に濡れて恋人を待つまつという古歌にあるように、いっそのこと片岡の杜もりで)露に濡れていようか)
 この歌は、紫式部の和歌集「紫式部集」に「鴨に詣でたるに、ほととぎす鳴かむいふあけぼの、片岡の梢おかしう見えけり」という詩書のある一首で、歌碑は奈良の小川のほとりにある。

 

                   渉渓園(中根金作作庭)
 
       賀茂曲水宴
 
       賀茂曲水宴

15. 中根金作作庭「渉渓園しょうけいえん 
 ならの小川のほとりに中根金作作庭の「渉渓園」があります。渉渓園は、昭和35年(1960)、浩宮徳仁ひろのみやなるひと親王誕生を記念して、賀茂曲水宴を再開するため作庭されたおよそ500坪の庭園内には緑豊かな自然が広がり、楓やツツジみ馬酔木アセビなどが植えられ、わけても樹齢300年のスダシイの巨木(別名「睦睦の木」)の存在感は圧倒的です。

 古代中国では、民衆の間で3月3日に川で水浴びをして身を清め、無病息災を祈る契りの風習がありました。やがてこれが、詩歌を作り川に杯を巡らす宴「曲水」として上流階級の間で行われるようになります。
日本には古墳時代に伝わり、奈良時代に書かれた正史「日本書紀」には、第23大顯宗けんぞう天皇(458)3月に宮中儀式として行われたことが記されています。 

 平安時代、一時的に行われない時期がありましたが、嵯峨天皇の時代に再開されて以降、藤原道長ら貴族たちは屋式でも私的な歌会として盛んに行っていました。その後、戦乱の世になると再び途絶えますが、江戸時代の元文2年(1737)には中御門上皇が京都の仙洞御所で曲水の宴を再興、現在全国数か所で行われておりm京都では上賀茂神社(4月)、城南宮(4月、11月)、北野天満宮(11月)で一般公開されています。
 現代によみがえる宮中行事曲水宴、美しい平安装束をみにまとった人々が登場する曲水宴。「曲水の宴」の主な流れはいかのとおりです。
 *7人の歌人が小川のほとりの席に着くと、白拍子しらびょうしが舞を奉納します。
 *舞が終わると、童子が酒を注いだ杯を羽觴うしょう(もともと雀に似せた頭部と羽のある杯であったが、
  後に盃を指す言葉となる)に載せて、小川に流します。

 *この間、歌人らは歌を短冊にしたため、目の前に流れてきた羽觴をとり、酒を飲みます。
 *全員が歌を書き終えると同時が短冊を集め、神職が歌を読み上げて神様に奉納します。
 上賀茂神社賀茂曲水宴は平安時代末期の寿永元年(1182)当時神主賀茂重康かものしげやす1516名の歌人を招いて行った曲水宴が」紀元と言われています。賀茂曲水宴は昭和35年(1960)の浩宮徳仁親王誕生を「記念して再興たが、その後中断しました。平成4年(1994)の皇太子成婚・平安遷都1200年・」大41回式年遷宮の奉祝行事として改めて復興されました。
 賀茂曲水宴はならの小川が流れる庭園・渉渓園で行われます。斎王代さいおうだいが和歌のお題を発表します。賀茂曲水宴は斎王代最後の御勤めとなります。歌人が和歌を詠み、その後羽觴うしょうをつかって杯を運び、歌人にお酒が振舞われます。その後和歌を帰した短冊が回収され、冷泉家時雨亭文庫れいぜいけしぐれていぶんこの方が和歌を披露します。
 中根金作(19171995)は、「昭和の小堀遠州」と言われ、日本は勿論世界的に知られた作庭家です。静岡県磐田郡天竜村(現・磐田市)に生まれる。県立浜松工業高校を経て、一時外資系の企業に就職したが、東京高等造園学校(現・東京農業大学造園科学科)に進学し卒業後京都府の園芸技師に任用され、文化財保護課課長補佐等を歴任後自主退職し、昭和41年(1966)中根増援研究所設立する。その他大坂芸実大学学長・浪速短期大学学長等を歴任した。日本国内及び海外で300近い庭園を作庭し、昭和44年(1966日本造園学会賞(社団法人等多数の賞を受賞する。代表作には、足立美術館、城南宮楽水苑、退蔵院余香苑、ボストン美術館天心園、ジニー・カーター・プレジデントセンター日本庭園等がある・

 
        奈良の小川
 
      藤原家隆歌碑

15-1 ならの小川 
 朱塗りの巨大な鳥居を潜り北進すると左右に芝生が広がります。この広場は日頃市民の憩いの場として、また55日には京都市登録無形民俗文化財「競馬会神事くらべうまえじんじ」の馬場にも使われます。
 また参道の東側には斎王桜や御所桜がある。参道を進み、二ノ鳥居を潜ると主面付近に橋殿が見える。橋殿の下を小川が流れている、奈良の小川である。
 本殿の東側を御物忌川おものいがわ西側を御手洗川みたらしがわが流れて、橋殿の手前で合流して奈良の小川となる。奈良の小川は奈良にある小川ではない。奈良の小川の流域に摂社奈良社や傍らに楢の木がその名の由来である。
 小倉百人一首の藤原家隆(11581237)が詠んだ歌には、公家達が人形ひとがたの紙を川に投げ入れ、罪や穢れを祓い清めた「夏越祓式なごしはらえしき」の情景に登場します。
     かぜそよぐ奈良の小川の夕暮れは  みそぎぞなつのしるしなりける
                                       従二位藤原家隆

16.摂社賀茂山口社 祭神 御歳神
 奈良の小川から東へ文流する小川の畔。片岡山の南側山裾に鎮座する摂社で、延喜式神名帳にいう「山城国愛宕郡賀茂山口神社」に比定される古社である。別称(古称)澤田社という。小川の山側に。朱塗りの簡単な瑞垣に囲まれて本殿(一間社流造・檜皮葺)が鎮座、その対岸に拝殿(切妻造・檜皮葺)が建つ。 社頭に掲げる案内には
 「祭神 御歳神 本宮の御田を初め神領地。田畑守護の神」
 賀茂祭神考(昭和初期・座田司著)には「本宮」年内行事の御田植祭の場合、必ず当社にも祭典を奉祀して御田に参行し、御田植の儀をおこなうこととなっている」とあり、いまでも、当社前で五穀豊穣を祈願するという
 なお御歳神とは、スサノオの御子・大歳神オオトシの御子で、穀物守護の神とされる。延喜式によれば、○○山口神社とよばれる式内社は当社を含めて14社を数えるが、当社のみが山城国にある小社で、13社は大和の国にあって月次・新嘗の奉幣を受ける大社となっている。
 山口神社は、延喜式・祈年祭の祝詞に「山の口に座す皇神等の前に曰さく…」とあるように、山の入り口に祀られた山の神の社であって、式内山口神社の主祭神は大半が大山祇命という
 大山祇命オオヤマツミのは伊邪那岐イザナギと伊邪那美の子であるが神話の説明は複雑である。伊邪那美が伊邪那岐と伊邪那美の子である軻具遇突智カグツチ(火の神)を産んだ時、伊邪那美の陰部を火傷させ、それが原因で伊邪那美が死んだ。怒った伊邪那岐は火の神をきった。この時生まれたのが大山祇命であるという。
 神名の「ツ」は「ノ」の意味で「大いなる山の神」のいみである。大歳の神も同系の神になるという。

 
      摂社賀茂山口神社
 
        末社岩本社

16-1.末社岩本社
祭神 底筒男神そこつつのかみ、中筒男神なかつつのかみ、表筒男神わつつのかみ 
 奈良の小川から分かれれ東へ流る小川の畔、数個の岩塊の上に鎮座する小祠、
祭は所謂住吉三神で、祓いの神、海上安全守護神、皆との神、河瀬の守護神の信仰がある。
 俗信として平安時代の貴族・歌人の在原業平ありはらなりひら(825880)を祀ったたとも言う。平安時代~鎌倉時代比叡山延暦寺の僧正慈円(11551225)が「月をめで花をながめしいにしえの優しき人はここにありはら」と詠んだ。この逸話は、『徒然草』中にも取り上げられている。古くから歌人の守り神としての信仰が篤い社であった。
17。北神饌所「庁の舎」(重要文化財)
 北神饌所きたしんせんしょは、中古の頃、政所として兼用していたため「庁屋ちょうのや」と
もいう。江戸時代、寛永5年(1628)に造替された。桁行13間、梁間4間、1重、入母屋造、檜皮葺である、 かつての神饌調進所であり、神への供え物を調理した御殿だった。競馬会神事では乗尻のりじりの勧盃の儀、御戸代能みとしろのうでは能の奉納される。

 
                 北神饌所(重要文化財)

 一年の節目に行われる日本の祭りは神事と祭礼から成立ち、神事の際にはその土地の人々が特別な恩恵を享受した食べ物を神饌として掲げ、神迎えを行ってきた。掲げられる神饌は主食の米に加え、酒、海の幸、山の幸、その季節に採れる旬の食物、地域の名産、祭神と関係のあるものなどが選ばれ、儀式終了後に捧げたものを共に食することにより、神との一体感を持ち。加護と恩恵を得ようとする「直会なおらい」と呼ばれる儀式が行われた。
 神饌の調整は大炊殿おおいどの(下鴨神社)など専用の建物がある社はそこで調整をおこなうが、特別の施設を持たない社では社務所などを注連縄を用いて、外界と分かち、精進潔斎した神職や氏子の手で作られる。火は忌火いみび(火鑽りで起こした清浄な火)が用いられ、唾液や息が神饌にかからないよう口元を白紙で覆う、また近親に不幸がある場合は調整に携わることが許されないなど細心の注意が払われる。
 日本人は稲作の伝来以来、米の収穫を得る生活を社会の基盤とし、米には稲魂が宿ると考え、飯や、餅、酒など米から作られる食物は神饌の中心としとなる。穀類いがいでは海産物や野菜が多い。そのた土地の特産物か古事にあやかった神饌がおおい。奈良県の牛蒡喰ごぼう神事、島根県の茄子なす神事、滋賀県の胡瓜きうり祭り、京都府の山葵わさび祭り、イタドリ祭り、福島県の生姜しょうが祭り、秋田県の牛尾菜しおで(ユリ科多年草若芽を食用にする、アスパラガスの風味)祭り、長野県のウドまつり、東京都のスモモ祭りなどがある。

 
         校倉造り
 
       摂社奈良神社

18.校倉造り
 上賀茂神社の北神饌所の南側に高床式の校倉が建てられ、北神饌所が神への供え物を調理していた時に、米倉として使われていました。京都で校倉を見るのはすくないが、北神饌所が江戸時代、寛永5年(1628)造泰されており、そのころできいたのではなかろうか。校倉造は奈良の正倉院が有名です・。
 校倉造の構造は、柱が無く、井桁いげたに組み上げて壁とした構造の建物で、日本では弥生時代ころから倉庫などに用いられていた。奈良時代に建てられた東大寺正倉院は現存する代表的な建物で、同様な工法は、中国・北欧・ロシアなど世界各地で古くからみられる。
 日本では三角形の木材を平な面を内側にして積み上げる方法が発達した。多くは古代に倉として建てられ、東大寺正倉院や唐招提寺経蔵などが現存する。
 教科書では、湿度の低い時は材木の水分は蒸発して材木は収縮して材木の接合に間隙が生じ、乾燥した外気を室内に取り込む。外気の湿神が門度が高くなると材木が水分を吸収して膨張し、間隙を、背っsy閉鎖して、湿度の高い外気の流入を防止するという。
 しかし、実測してみるとこの理論は間違いであったことが実証されたと言う。実測してみると屋根の荷重が大きく、材木の収縮運動はみとめられないとのことである。しかし、実際には若干の吸湿効果があり、これは材木の檜材、杉材にわずかであるが吸湿効果があり、これが効いているものと推定されている。

19.摂社奈良神社 (重要文化財) 祭神、奈良刀自神
 奈良刀自神ならとじのかみ は、学業や料理技術の神だというが、神話に登場しないため性格は定かでない。摂社奈良神社の神である。上賀茂神社には北神饌所があり、奈良神社の拝殿は北神饌所引っ付き、本殿はそれに隣接して建っている。社名「奈良神社」は奈良刀自神からきている。
 国学院大学名誉教授田中亘一氏の「鳥勧請および御鳥食神事―祭祀の成立と雑神の祀りにかかわらせて」という論文が公開されているが、その中で、 例えば、上賀茂神社の例祭賀茂祭(葵祭)の時、本殿の賀茂別雷大神への献饌に先立って、早朝に、境内摂社の一つである奈良社に神饌が供えられれている。奈良神社は奈良刀自神を祀るとされているが、奈良刀自神の性格はもう一つ定かでない。この奈良神社に權禰宜が楢製四角い搔器そうきと呼ばれる器に強飯二升を盛って参り、閉じられている門の外から長い柄の掻器を差し入れるようにして供える。その後すぐまきちらし散飯さばと称している。

 
        末社山森社
 
        末社梶田社

19-1.末社山森社 祭神;素戔嗚神・奇稲田姫神・田心姫神
 素戔嗚尊サノオノミコと奇稲田姫クシナダヒメは大蛇退治の神話でよく知られています。
祭神;須佐之男命スサノノミコト、奇稲田姫クシナダヒメ神、田心姫神タキリビメ
 須佐之男命は伊邪那岐イザナギの子で天照大神アマテラスオオカミ、月読命ツクヨミノミコトと共に「三貴子」と呼ばれている。父伊邪那岐は須佐之男に海原をまかせるが、まったく言うことを聞かない。それどころか、死んだ母伊邪那美いざなみに会いたいとと泣き叫んでばかりいた。あきれた父は、わが子須佐之男を追放し、自分そのまま隠居していまいます。
 素戔嗚は母の下に行く前に、姉の天照へ挨拶しようと高天原(天界)へ行く。その時、その時高天原の神々を困らせる事件を起こしてしまい、今度は葦原中国(地上)に追放されます。高天原から追い出された須佐之男は、大蛇に命を狙われ怯えている親子に遭遇します。
 この親子の話を聞いた須佐之男は「では、私がその大蛇を退治してやりましょう」と役目を引き受けたのです。 その大蛇は頭が八つある「やまたのおろち」だった。須佐之男命は見事に大蛇を退治して一躍英雄になりました。退治した大蛇の尻尾から三種の神器の一つである「草薙の剣」を手に入れました。そして大蛇の犠牲にされようとしていた娘奇稲田姫を助け結婚しました。これが山森社の祭神の一人奇稲田姫です。 田心姫神は、素戔嗚と天照の誓約によって誕生した「宗像むなかた三女神」の一人であり、素戔嗚の子である。
 素戔嗚は、姉の天照にあってから根の国へ行こうと思い。天照が治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆振動したので、雨テラスは素戔嗚が高天原を奪いに来たと思い、武具を携え彼をむかえた。 素戔嗚は天照の疑いを解くために、誓約をしようといった。二神は天の川を挟んで誓約をおこなった。まず、天照が素戔嗚の持っていた十挙剣とつかのつるぎを受け取って噛み砕き、噴き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生れた。
 この三姉妹の女神は、天照の神勅しんちょく(神の与えた命令)により海北道中かいほくどうちゅう(玄界灘)に降臨し、宗像大社の」興津宮、中津宮、辺津へつ宮、それぞれ祀られている。 多紀理毘売命(田心姫たごりひめ神)沖津宮に祀られる。 
多岐都比売命(湍津姫たきつひめ神)中津宮に祀られる。
 
市寸島比売命(市杵島姫いちきしまひめ神)辺津宮に祀られる

 古くは北区西賀茂山ノ森町(上賀茂神社の西北約1.1㎞附近)にあった境外末社が当社の前身である。

19-2..末社梶田社 祭神 瀬織津姫
 祭神瀬織津姫は神道のお祓いに登場する神である。 神職が、祭祀に先立って称える祝詞では「伊邪那岐大神筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓給ひし時に生り坐せる祓戸大神等」と言っている。祓戸大神とは日本神話の神産みの段階で黄泉よみから帰還した伊邪那岐命が禊をしたとき誕生した神々の総称である。これらの神々は葦原中国のあらゆる罪・穢れを祓い去る神で、「大祓詞おおはらえのことば」にはそれぞれの神の役割がきされれいる。



Ⅲ.上賀茂神社の年中行事
1.年中行事一覧
 上賀茂神社では、古来より受け継がれております恒例祭に広く一般の方の参列を受付しています。祭典名の右側に『参列可』と表記しております祭典であれば、初穂料3,000円(祭典により異なる場合有り)にてだれでも参列できます。
御希望の方は30分前迄に社務所へお申し込み下さい。また、御参列の際には 失礼の無い服装(スーツ・上着着用)のこと。

1月 元旦 歳旦祭さいたんさい(中祭)午前5時 新年を寿き古式による神饌を供し本年の安泰を祈祭典
1月 5日 新年意宴祭しんねんきょうえんさい 午前9時 場所;馬場殿 新年の祭事を締めくくる饗宴の祭典、音楽。
        参列可

 15日 舞楽奉納 午後4時30分 新年を寿ぎ、境内「橋殿」で篝火の焚かれる中に平安雅楽が奉納されます。
       見学自由

17日 昭和天皇遥拝式 午前10時 選定で在らせられた昭和天皇御崩御の日にご聖徳を偲び奉り境内土屋で
       武蔵野陵を遥拝する式。見学自由

1月 7日 白馬奏覧神事 引続き 年の初めに白馬を見ると1年の邪気が払われるという故事に則った宮中の儀式
        である「白馬節会」が神事化されたもので、神前に七草粥を供え。神馬「神山号」を神覧に供する祭典こ
       の日は正午・午後1時・2時にも牽馬の儀がある。見学自由*当日、上賀茂神社敬神婦人会会員奉仕に
       よる「厄除7草粥」の接待があります(有料)。

1月10日 摂社太田神社 御内儀祈願祭(正五九祭)午前10時 古来より159の月は重視され、その月に国家・
       皇室の繁栄、天皇・皇后両陛下の御身体の安泰を祈念祭典する

114日 御棚会神事みたなしんじ 午後2時 古来当神社の神領であっ賀茂六郷より御棚にて私幣を奉と魚類の神
       饌を奉った古例に倣い、現在神社に1台を調整し供する

1月15日 御粥神事みかゆじん 午前10時 小正月であるこの日に、小豆を食せば邪気が祓われるという故事に則り、
       当神社では春の木である樒しきみで造られた「粥杖」と共に供え、年中のお除災を祈る祭典。参列可 

115日 月次祭 引き続き 月毎に国家安泰・皇室と国民の平安を祈願するさい
116日 武射神事 午前10時 年中の除災の神事に、宮中の射礼の影響が加わった祭典で、祭典終了
      後芝生にて神職が裏に「鬼」と書かれた的を後仁小笠原近畿菱友会による大的式・百々子規が
      奉納される。見学自由

1月初卯日 初卯神事 午前104時 正月初卯日に当神社特有の「卯杖」を奉る祭典:で、祈願した卯杖は
      宮中へ献上する習わしである。

      *厄除「卯杖」は節分までの期間に授与所でお授けします。初穂料3000円 参列可
1月2日月曜 成人報告祭 午前10時 当神社氏子の上賀茂・柊野両学区の新成人が大前に参列し、成人
      を迎えたことを奉告し、祝う祭典
2月1日 月次祭つきなみさい 午前10時 国家安泰・皇室と国民の
      平安を祈願する祭
典 参列可 
22日 梅の花 献上奉告祭 午後1時30分 和歌山県みなべ町の「紀州梅の会」一行による梅道中の後
、     梅の花を堅持牡牛安泰と豊作を祈願する。祭典。

節分    節分祭 午前10時 季節の変わり目であるこの日に神前に様々な供え
      物に福豆を添え、災いを除く祈願をする祭典。当日夕刻まで福豆を200円で授与します。 参列可
節分    古神札焼上祭こしんさつしょうじょうさい 午前11時 本日までにお持ち頂いた各家庭で一年間お祭りさ
     れた御神札やお守り・矢等を芝生内の特設火炉にて焚き上げます。合わせて祈願木に記入の祈
     願成就を記念いたします。
見学自由
211日 紀元祭 午前10時 初代神武天皇が橿原の宮でお即位された日を建国記念の日として奉祝し、
     皇室の弥栄・国家安泰と国民の平安を祈願する
 祭典。参列可
223日 天長祭(中祭)午前10時 今上陛下の御誕生を奉祝し、御代の弥栄を記念する祭典以前は「天長
     節」と言い、呼応する皇后陛下御生誕日は「地久節」と言い両日共に国民挙って奉祝の誠を掲げる
     日です。 参列可

224日 幸在祭さんやれさい 正午頃 上賀茂で古くより行われている今でいう成人祭です。当神社、摂社太
     田神社、田の神と山の神に15歳の元服を奉し見学自由

2子日 燃灯祭ねんとうさい(乙子神事おとねのしんじ)古に行われた子の日の遊びを神事化したもので、神職
     一同狩衣姿で御阿礼野みあれのに出て、小松を引き、それにを玉箒草たまほうき(燃灯草ねんとうそう)を添えて
     神前に献する神事です。
参列可
31日 月次祭つきなみさい 午前10時 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する祭典 参列可
3 3日 桃花神事とうかしんじ 午前10時 古来疫病や災いを祓い除く為に川辺で禊をして身を祓い心も清め神
      々を祀る日で、当神社では神前に桃花・辛夷こぶしの花や草餅等を供え、国家安寧と各位に家庭の
      疫病や災いを祓い除く祈念する祭典である。参列可

春 分  春季皇霊祭遥拝式しゅんきこうれいさいようはいしき 午前10時 参列自由 宮中恒例殿で行われる皇霊祭に併
      せ、遥拝します。参列自由 

41日 月次祭つきなみさい 午前9時30分 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する祭典 参列可 
4 1日 摂社久我社春祭午前11時紫竹下竹殿町鎮座の当神社御祭神賀茂別雷神の外祖父である賀茂
      建角身命かもたけつぬみのみことを祀る摂社久我神社の春の祭典で、当神社神馬「神山号」の牽馬の儀が
      行われる。

4 3日 神武天皇遥拝式 午前10時 初代神武天皇御崩御の日にご聖徳を偲び奉り、境内「土屋つちおや
      で奈良県橿原市の畝傍山うねびやま東北陵を遥拝する式。 参列可

4 3日 土解祭どげさい 引き継き 本年の稲作を始め、あらゆる事業の隆昌を祈願する重要な祭典である
      解は春の日差しにより土地が作付けに適してくる事を言い、予め魂年に蒔く最適の稲種をト占
       
くせん
で決定し、祭典後その稲種のお祓い等もおこないます。 参列可 

410日 摂社太田神社春祭午前10時 かきつばたで著名な摂社太田神社にて祭典の後、夕刻頃まで御
      祈祷を受付、京都市登録無形民俗文化財の「里神楽(チャンポン神楽)」を奉奏致します。生花展
      を開催し、茶菓接待行います。

421日 摂末社春祭 午前10時 既に春祭りが行われた摂末社を除く、5摂15末社に神饌を供え祝詞
      を奏上します。

421日 摂社奈良神社春祭 午前11時 境内奈良の小川添の料理飲食守護の神を祀る摂社奈良神社の
      春の祭典で、料理業界の方が多数参拝される。

425日 献香祭けんこうさい 1030分 賀茂祭(葵祭)に先立ち、香道志野龍の蜂谷宗家により大前に香を
      奉る祭典で、境内に香席が設けられ香道関係者多数参拝されます。 参列不可 

429日 昭和祭 午前10時 昭和天皇生誕の日に当たり、激動の昭和の時代に想いを馳せその聖徳を偲
      び奉る祭典。参列可 

429日 植樹報告祭 引き続き ことの他緑を愛された昭和天皇にちなみ、境内緑化・環境保護を願い祭
      典終了後に植樹行事を行うに際し合わせて植樹の奉告もおこないます。

4月第2日 賀茂曲水宴 午後1時 その起源は平安時代に遡り、当日境内の「渉渓園」にて葵祭の斎王代
      が当年の歌題を披露し当代一流の歌人が即興で和歌を詠み披講されるに先立ち本殿大前に開
      催を奉告する。 有料

51日 月次祭 午前10時 月次祭つきなみさい 午前10時 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する祭典
       参列可 

5 1日 競馬足汰式くらべうまあしぞろえしき 午後1時頃 5日の賀茂競馬の行事の一環で、先ず馬を1頭づつ
      走らせて乗尻のりじり(騎手)の馬上姿勢・鞭の差」し方・馬足の優劣等により当日の番立ばんだて(走る順
     )を決定し番つがい2頭)の競争を試みる儀式。拝観有料

5 4日 斎王代御禊 午前10時 5月の賀茂祭(葵祭)奉仕に先立ち、その年選ばれた「斎王代」以下女人
     列が御禊(祓)を執り行う儀式、平安の昔に「斎王」が院より賀茂川の河原に赴かれて行われた「御
     禊」が復興されたもので、下賀茂神社と交互に斎行する。往時の如く、この日より祭り当日にいたる
     まで精進潔斎に努められ、ひたすら祭りの無事を祈願する日々をすごされる。

5 5日 賀茂競馬 午後2時頃 平安時代堀河天皇寛治7年(1093)に天下泰平五穀豊穣の御祈祷のため
     、宮中武徳殿で行われていた競馬会を当神社移されたことに端を発する「賀茂競馬」を斎行するに
     先立ち、賀茂の大神様に通常のお供えものに加え菖蒲に蓬やちまき等もお供えし、競馬斎行の奉
     告と無事を祈願する祭典を斎行する。

510日 摂社太田神社午前10時 御内儀祈願祭(正五九祭)古来より一・五・九の月は重視され、その月
     に国家・皇室の繁栄、天皇・皇后両陛下のご身体の御安泰を記念する祭典。
512日 摂社御掃除祭 午後1時 当神社の摂社(8社の内の7社)の内陣等を清め奉る春秋恒例の祭典
       不可

512日 神御衣献進祭かんみそけんしんさい 引き続き 御掃除祭に引き続き御祭神の御神服を冬服から夏服へ献
      進する、他の神社の「更衣祭」に類する祭典 
不可
515日 賀茂祭(大祭)午後1時 当神社年間最大の祭典で、賀茂の大神様に「葵桂」を初め古式に則り様
     々な神饌を供し国家の安泰・国民の平安を祈願する。招待者のみ

515日 勅祭賀茂祭(葵祭)午後3時30分 京都御所から下賀茂神社を経て勅使(天皇陛下のお使い)が参
      向の上、御祭文を奏上、御幣物が供えられ同じく国家の安泰・国の平安を祈願し、東遊びの舞や走
     馬が行われる。招待者のみ

517日 午前10時 賀茂祭斎行を奉祝して表・裏両千家の隔年奉仕にて家元お点前による濃茶薄茶各一
     服を賀茂の大神様に奉り御心を和ませ奉る祭典で、境内に服席が設けられる。

6月 1日  月次祭 午前930分 月次祭つきなみさい 午前10時 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する
     祭典 参列可 

6 6日 新梅献上奉告祭 午後130分 「梅の日」に因み、和歌山県「紀州の会」一行による梅道中の後
     、新梅を献上し、安泰と梅の豊作を祈願する祭典

610日 御田植祭おたうえさい 午前10時 43日の土解祭で今年蒔く最適の稲種を卜占で決定した、田植
     えを行う報告の祭典で、引き続き摂社賀茂山口社にて奉幣を行い、奈良神社前神事橋で早苗を川
     中に投じる。 参列可 。

610日 日供講会員安泰祈願祭 正午 賀茂の大神様に毎朝お供えするお食事(口供)を献上する費用
     を納めいただく会員各位の安泰を祈願する祭典 
会員のみ
630日 御禊の儀ぎょけいのぎ 午前10時 宮司以下奉仕神職は二の鳥居内の茅の輪を潜った後、「橋
     殿」においてお祓いの行事・御禊を行います。
見学自由
630日 夏越神事なごしじんじ 引き続き 上半期の罪穢を祓う夏越大祓を斎行の由を奉告する。*茅の
     輪は神職に引き続きご自由に潜って頂くことができます。参列可

630日 夏越大祓式なごしおおはらえしき 午後8時 大祓式は年2回(6月、12月)に行われ古来より半年間の罪穢
     を祓い清めて来る半期を無病息災に過ごせ事を願い全国神社でも行っています。当神社では「橋
     殿」にて宮司が中臣祓詞を唱え氏子崇敬者から罪穢れを託され人形を「奈良の小川」に投流し祓
     いを行います。式中に伶人(神心流)により、当神社の大祓式の情景を詠まれた下記の和歌が
     朗詠されます。
       風そよぐ奈良の小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける。

                                                   藤原家隆
7 1日 御戸代会神事みとしろえじんじ 午前10時 43日の土解祭、610日の御田植祭と一連の神事で、
     五穀豊穣と稲穂の害虫駆除を祈願する祭典で「神歌」奉納もありまする。特に烏扇草うおうそうや滋賀県
     安曇川産の鮎を供する。参列可

71 賀茂御戸代能かもみとしろのう「薪能」 午後6時 奈良時代孝謙天皇御代に新領地として御戸代田
     一町を寄進せられた、農民の労をねぎらう意味で田楽・猿楽等が行われたのが始まりと言われ、往
    古は田楽・猿楽が行われ、現在は観世流能・大蔵流狂言が奉納される。別途有料

715日 月月次祭つきなみさい 午前9時30分 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する祭典 参列可
7月第4日曜 賀茂水まつり 午後5時 水を司り竜神と唱えられる摂社新宮神社の神様を、境内の「橋殿」
     に招きし、水に感謝し酷暑を無事に過ごせる事を祈る祭典と神楽「賀茂の舞」奉納の後、絵馬神
     輿と樽御神輿が境内を巡行して「奈良の小川」をわたりま。

8 1 月次祭つきなみさい 午前930分 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する祭典 参列可
9月 1日 月次祭つきなみさい 午前930分 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する祭典 参列可
9 8日 烏相撲討取式からすすもううちとりしき 午後8時 9日の相撲に先立ち、烏鳴き等の所作をする刀禰
        ね
や相撲をとる児童達が当日と同じ細殿前の土俵で

     所作の確認・取り組み順を決定する儀式 見学自由 。
9 9 重陽神事ちょうようしんじ 午前10時 99日は、九という「陽」の数字が重なることから「重陽」とも言わ
     れ、宮中他で「重陽の節句」として菊
酒を飲んだり、菊花に付いた朝霧で肌を拭う等して災厄を祓っ
     た日であ
り、、当神社では神社前に菊花を供え延命長寿・災難除を祈願致します。内では烏相撲終
     了後菊酒の接待もあります。

99日 烏相撲 引き続き 神事に引き続き、細殿前の土俵にて先ず刀禰とねによる烏鳴き等の所作を行い
     、禰宜方ねぎかた(左)と祝方いわいかた(右)に分か
れた児童により相撲の取り組みが奉納され、葵祭の斎
     王代が陪覧され
る。烏のの由来は当神社御祭祭祭神の画磯である賀茂建角身命が神武天皇御
     東征に際し、「八咫烏」となられ先導された。見学自由

910日 摂社太田神社御内祈願祭「正五九祭」午前10時 古来より一・五・九の月に国家・皇室の繁栄、
     天皇・皇后両陛下の御身体の御安泰を記念す
る祭典。
秋 分   秋季皇霊祭遥拝式 午前10時 宮中皇霊殿にて行われる皇霊祭を遥拝する式。参列自由
交通安全期間 交通安全祈願祭 午前10 9月に実施される秋の全国交通安全週刊に際して、氏子崇敬
     者各位の交通安全を祈願する祭典です。北警察署
交通指導員による「交通安全教室」も開催さ
     れます。

現元号気数年 賀茂の馬祭り 馬と緑の深い問い当神社と下鴨神社で隔年にて、JRAや馬主の方々と共
     に馬事安全祈願と慰霊をする祭典。氏子小学生達に
よる「馬の写生展」を楼門内で実施。
仲 秋   賀茂観月 午後5時 芝生内「馬場殿」にて十五夜に仲秋の月を愛でる祭典を行います。祭典
     後様々な奉納宸殿行事が執り行われます。行
事終了後月見団子、濁り酒の接待もあります(先
     着順)。 見学自由

10月1日 月次祭つきなみさい 午前930分 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する祭典 参列可
101日 安曇川謙信祭 午前11時 当神社の御厨みくりあであった滋賀県安曇川町より古例により、水鮭あめ
     びわます)・鮎を献上する祭典。

1010日新梅干献上奉告祭 午後130分 和歌山県南部町「紀州梅の会」一行による梅道中の後、今年
     の新梅干しを献上し安泰を祈願する祭典。
 見学自由
1017日 神嘗奉祝祭かんなめほしゅくさい(中祭)午前10時 伊勢神宮で、その年の新穀などを祀り奉る「神嘗祭」
     斎行を奉祝する祭典。

第3日曜日 笠懸神事かさかけしんじ 午後1時 境内芝生にて。武田流弓馬道奉仕により流鏑馬に匹敵する勇壮
     乗馬術をご覧頂きます。拝観席有料

10月    崇敬会隆昌祈願祭すうけいかいりゅうしょうきがんさい 神社崇敬会下院の家内安全と隆昌を祈願する祭典。
11月 1日 月次祭つきなみさい 午前930分 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する祭典 参列可
111日 久我神社秋祭り 午前11時 秋の実りを感謝する祭典。当神社神馬山号」の牽馬の儀がおこな
     われる。 参列可

11 3日 明治祭 午前930分 現在「文化に日」は明治天皇誕生日で、我が国の近代文化発展の基礎
     を気付かれた明治天皇の御聖徳を偲び称える
祭典です。参列可
11 3日 摂社久我神社神幸祭 正午 氏子地域を3基の神輿が巡幸します。
1110日 摂社太田神社秋祭 午前10時より「チャンポン神楽」を奉奏します。
1112日 摂社御掃除祭 午後1時 摂社8社の内7社の内陣等を清めます。
1112日 御禊の儀 午後230分宮司以下奉仕神職は橋殿に置いて祓いの仕事「御禊」を執り行い身を
     清め茄子。不可

1112日 御掃除祭 引き続き 摂社と同じく本殿の内陣等を清め奉る。不可
1112日 神御衣献進祭かんみそけんしんさい 引き続き 御祭神の御神服を夏服から冬服へ献進する。
     他の神社の「更衣祭」に類する祭典。不可 

1113日 相嘗祭あいなめさい大祭) 午前10時 相嘗祭あいなめのまつり、あいんべのまつり、あひにんへのまつり
     
とは、「相新嘗祭」であり。相嘗祭はその略語といわれている。古来は11月最初の上卯の日に斎
     行され、伊勢神宮の神嘗祭に次い
20で特に全国71座の神々に新嘗祭に先立ち新穀と新酒を奉
     られた故
に依る祭典。参列可  
1123日 新嘗祭にいなめさい(大祭) 午前10時 現在勤労感謝の日は、春の祈年祭(当社では土解祭)に対し
     こちらは秋の収穫祭に当たる神事、我が
国では古くから五穀の収穫を神様に捧げて収穫を感謝し
     祝う風習があ
り、祈年祭同様きわめて古くから行われている祭典です。もとより、新穀・新酒を奉り
     秋の実りを感謝する祭典日で、当神社を初め全国神
社でも祭典が行われ、毎年氏子中より新穀・
     野菜の奉献が多数ありま
す。参列可 
12月1日 月次祭つきなみさい 午前10時 国家安泰・皇室と国民の平安を祈願する祭典 参列可
129日 皇后陛下御誕辰祭 午前10時 皇后陛下の御誕生日を祝い、更なり弥永を祈願する祭典。
     参列可

1213日 宝船御飾清祓式 午前10時 事始め当日に際して明年の参拝者各位のご多幸を願い中門前に
     飾られる宝船の祓・取り付けを行う行事
見学自由
1231日 御禊の儀 午後4時 宮司以下神職は橋殿にて祓行事・御禊挙行
1231日 大祓式 引き続き中臣祓詞を唱え氏子崇敬者各位の1年下半期の罪穢れが託された人形を奈
     良の小川に投流し、新年を清々しく迎える行事
を執り行います。見学自由 
1231日 除夜祭 前に引き続き、本殿にて1年間賜った恩恵に感謝を申し上げ,来る年も良き年であるよ
     うに祈願する祭典。参列可


 上賀茂神社は、京都最古の神社でなく。水の神、農業、林業、醸造、養蚕、機械の守護神として天皇から庶民まで広く、深くしんこうされていた。このため、年間やくb60もの祭事・祭典がおこなわれている。そこで、l上賀茂神社の代表的祭典競馬神事、賀茂祭、烏相撲を紹介します。


2.年中行事各論
(1)競馬会神事 「京都市無形民俗文化財」 祭日、5月5日

 5月5日上賀茂神社で行われる競馬会神事くらべうまえじんは、現在JRA日本中央競馬会が行う「競馬」の元祖であると同時に、5月15日に行われる賀茂祭(葵祭)の前儀でもある。
 「競馬会神事くらべうましんじ」は、五穀成就、天下泰平を願うため宮中武徳殿で行われていた節会の競馬会式を、堀河天皇の寛治7(1093)、上賀茂神社にうつしたのが始まりで年中行事として定着した。五穀成就、天下太平の祈祷きとう(神仏にその加護・恵みを求めて祈ること)として行われたのが最初で、将軍足利義満や織田信長の観覧した古い伝統と歴史を持つ神事である。 

 
       足汰式あしぞろいしき
 
      菖蒲の根合わせの儀

 
   競馬(左方・赤-右方・黒))
 
       念人(審判員)

 賀茂祭に前儀があるように、競馬会神事にも前儀がある。5月5日の本番の4日前のの5月1日に足汰式あしぞろえしきがある。
 本番では2頭の馬が左右にわかれて走りますが、先んじて足汰式で馬の優劣を見定めて、当日の組合わせを決めます。まず1頭づつ走る「素駆そがけ」が行われ、出走順を決める「番立ばんだて」が行われると、本番さながらに決まった組み合わせごとに2頭ずつ走り、本番に備えます。
 5月5日午前8時45、馬場に設けられた頓宮(仮の宮)に祭神を御迎えする「頓宮遷御の儀」が行われます。 5月5日午前930分 「菖蒲の根合の儀」が行われた。勝負の根合の儀はかって内裏の女房によって行われていた菖蒲の長さを競う遊びに由来する。競馬会は、平安時代、1093年までは宮中武徳殿で行われていた。この時、殿上人の女房は左右に分かれ、左方は上賀茂神社に、右方は石清水八幡宮に勝利祈願をしたという。
 当日、2人の乗尻は、浄衣に浅黄差貫の衣装を身に着け、頓宮の前に進み出、蓬と菖蒲を束ねた互いの根を合わせる。互いの根の長さを比べ勝敗を確認した後、交換し、それぞれ菖蒲を頓宮の屋根に投げて載せ、頓宮の屋根をきよめる。菖蒲は「勝負」に通じ、引き続き行なわれる競馬の勝敗を予祝する
 5月5日午後1時 競馬会の儀はじまる。
 境内に設けられた芝生の馬場(約200m)で行われる。「出社の儀」「奉幣の儀」の後、南から北へ向けて競駆きょうち(馬を走らせる)がおこなわれる。
 馬場には勝敗の目印となる木々が植えられている。「馬出しの桜」(出走点)、「見返りの桐」(騎手が姿勢を調える)、「鞭打ちの桜」(馬に鞭を入れてる)を経て「勝負の楓」(勝敗が決する地点)で争われる。
 競馬会は2頭の馬が出走する。乗尻は、狛桙こまぼこの装束の赤い袍ほう(上着)を着た左方(赤)、打毬楽だきゅうらくの装束の黒い袍の右方(黒)がいる。これらはいずれも舞楽の衣装であり、かっては、乗尻により、競馬後に舞楽「蘭陵王(左前)」と「納蘇利(右舞)」が奉納されていたという。
 馬はかって、荘園から贈られ馬が使われた。その名残から現在でも、馬には「能登国」「加賀国」などの荘園名が用いられる。その中でも美作国倭文庄みまさかのくにしどりのしょうの馬が最も重視され、馬装も豪華なものとなっている。
 競駆は、「三遅」「巴」「小振」の儀により、手綱を引かれた馬が、馬場元(スタート付近)から馬場を7往復半する。続いて競馬会でに入ります。倭文庄の馬が必ず勝つ約束になっているため現在は2頭は単独ではしります。最初左方の倭文庄の馬が、続いて加賀国金津庄の馬が走ります。次から2頭がはしります、これからが本番です。
 二番以降の勝敗は、迫馬、先馬の競駆となり、二馬身先に出た先馬と追馬の差が広がれは前の馬が勝ちとなり、その逆は後手の馬の勝になる。左方が勝った時は太鼓が打たれ、右方が勝った時は鉦が鳴らされる。また、左方が勝つた時は朱の日の丸の、右方が勝ったときは、白い日に丸の扇が際出される。
勝った乗尻は、念人ねんにんの前へ進み賞の禄ろく(白絹)を鞭で受け取り、頭上で2回まわしてかえす。さらに、頓宮前で報告する。 古来は2010番であったが、現在は減少し10頭5番である。なお、「埒らち、があく、埒らちがあかない」の語源は、この競馬会にあるという。埒らちとは競馬場の柵、
仕切りのことである。埒があかないと、競馬ははじまりません。イライラした観光客が言ったことばでしょう。

(2)賀茂祭り(葵祭り)
 賀茂神社(神がm神社と進下鴨神社)の賀茂祭りは、石清水八幡宮の石清水祭、春日大社の春日祭とならんで日本三勅祭の一つであり、八坂神社の祇園祭り、平安神宮の時代祭と並んで京都三大祭りの一つでまる。

 
               4月4日斎王代「御禊の儀」


 5月15日に行われる賀茂祭は、 当日、神前に葵(フタバアオイ)をお供えし、すべての社殿に葵を飾り、奉仕員もみな飾った。 葵は徳川氏の紋(三つ葉葵)であるところから、幕府の奨励により江戸時代から葵祭と呼ぶようになった。
 この祭の起源は、「賀茂縁起」によると、欽明天皇の5年(545)まで遡ることができる。 当時暴風雨が吹き荒れて農作物の収穫が出来ず、疫病が流行するなど長期にわたって世情不安が続いたので、朝廷  徳川家紋  賀茂神社紋
は、卜部伊吉若日子いきわかひこに命じて占わせたところ、賀茂大神の祟りであることがわかった。
 そこで四月吉日を選んで馬に鈴をかけ、人は猪頭いのがしらをつけ馬を乗りまわして祭祀を行った結果、五穀も実り、天下泰平になった。 以来賀茂祭りは、単に賀茂一族が行う氏の祭であるのみならず、山背国全域の人々が集うので山背国国司が管掌する国の祭にまで発展をとげた。 その後、平城天皇大同元年(806)4月中の酉の日に官祭として賀茂祭りが行われた。 これが官祭の初めてである。
 しかし、戦国時代の混乱期には、祭りの存続は経済的に困難となり、文亀2年(1502) 
の乱から江戸時代の元禄6年(1693)なで約200年間にわたり中絶した。 また、その後も明治2年(1869)から16年(1883)の間は、東京遷都のため、昭和18年(1943)から27年(1952)の間も戦乱により再び「路頭の儀」は中絶されたが賀茂両神社では社頭の儀だけは行われ、祭りの伝統は継承されていた。 昭和28年になって葵祭行列協賛会などの尽力により、12年ぶりに復活された。 また昭和31年より斎王代を中心とした女人列も加わりことになった。
 賀茂祭の儀式に先立ち、5月の始めには、斎王代以下女人列奉仕者(40数人)のお清めの儀である「斎王代御楔みそぎの儀」が上下社隔年交替で行われる。 また5月12日には神職の御禊、御内陣等の御掃除祭、上賀茂神社では「御阿礼みあれ神事」、下鴨神社では御蔭祭り等、神霊が憑り座する神御衣奉献祭かんみそうけんさいを賀茂祭の前の前儀として各社の旧儀式に基づいて厳修される。
 賀茂祭の儀式は「宮中の儀」(勅使発遺の儀)、「路頭の儀」「社頭の儀」に区分される。
 当日5月15日の朝8時半。京都御所にて近衛使このえつかい代や内蔵使くらのつかい代が小御所こごしょの南廂なんそうへ集まり、奉行から祭文と御幣物を受ける儀式から始まる。 これが「宮中の儀」である。午前10時。主たる参役の奉仕者が塀守門へいしゅもんより出発し、御車寄みくるまよせで列見をする近衛使代と奉行代に一礼して進発の挨拶を行う。 そして宣秋門ぎしゅもんの外にある椋の木の前で、他の供奉ぐぶ者が行粧ぎょうそう(行列)の順に列を整えているところへ、行粧の先頭を行く検非違使代などの主な参役が加わり、最後に近衛使代が行粧の位置に着くと、いよいよ「路頭の儀」が始まる。 「路頭の儀」とは、華やかな装束の文官や武官が牛車の音ものどかな都大路を練り歩く儀式のことである。
 行粧は、検非違使代と山背使代の列から始まる。これは平安時代の警視庁官に当たり、行粧を先導して勅使を護衛する役である。葵祭は和銅4年(711)より山背国司が検察するようにという詔みことのりが発せられ、それ以来山背使と称して介すけ(次官)が供奉ぐぶすることになった。この列までを第1列と呼んでいる。
 第2列は御幣櫃ごへいびつつまり、下賀茂神社への御幣2合と上賀茂神社の分、合計3合の辛櫃からびつとこれらを預る責任者の内蔵寮生くらのりょうのしょう代(大蔵省の役人)からなる。のちに社頭の儀で行われる走馬そうめの儀に献上される御馬2頭を預かる馬寮使めりょうのつかい代もこの列でさる。
 第3列は、行粧の中心近衛使代の列である。近衛使とは、近衛中将(四位)から選ばれて勅使となる役である。この近衛使に武官として付き添い先導する舞人は、社頭の儀で東遊びを舞う役を兼ねる。 
 第4列で近衛使の後に付き添う陪従べいじゅうは、社頭の儀で行われる東遊と牽馬ひきうまのときに樂を奏する役を兼ねる武官である。それに祭文を棒持ほうじ(ささげ持つ)する内蔵使代(内蔵寮の次官)が続く。 以上を「本列」あるいは「勅使列」と呼んで位る。
 本列の後に、昭和31年(1956)に再興になった女人列が続いて行粧に加わる。 再
興当初は、斎王代をはじめ女官役の命婦代2人、女嬬にょじゅう代4人、騎女むなのりおんな代2人の計11人であったが、現在の女人列は、斎王代以下46人の女人に、火長、蔵人所くらんどころ、陪従など90人がつき、更に行列を世話する列外召具を加えると総勢142の壮麗なものとなる。本列と女人列を合わせると、512人、720mに及ぶ行粧となり、都大路で路頭の儀を繰り広げる。
                路頭の
①午前10時30分半行、京都御所の宣秋門を進発した行粧は、近衛使代を中心に牛車、花笠、斎王代列など総勢五百名、列の長さは八百メートルにも及ぶ。堺町御門 → 丸太町→河原町通り→午前中に下鴨神社で社頭の儀があり、午後再び行粧を整えて鴨川堤を北上し上賀茂神社に到着する。これより先、午後1時から本殿祭が斎行され、五穀豊穣、風雨平穏が祈願される。勅使は、上賀茂神社に到着するろ正参道を1ノ鳥居からニノ鳥居まで歩まれ、祓いを受けて橋殿にて御祭文奏上、ついで牽馬・東遊、社頭の儀は2時間に渡り執り行われる。 
 社頭の儀が終わると勅使以下諸役は馬場殿に移動し、「走馬の儀」を観る。 走馬の儀は賀茂県主の子弟によって奉仕される。

 
 ①10時30分御所宣秋門ぎしゅうもん進発
 
       ②平安騎馬隊
     ③看督長かどのおさ・火長・如木
 
    ④検非違使志けびいしのさかん

 ①行列を先導するのは、②京都府警察平安騎兵隊(乗尻)は、上賀茂の競馬の騎手で、左右各3騎が並ぶ。 古くは、六衛府の衛士えじがこれに当たっていた。
 ③看督長(検非違使の下級職員で、身分は火長)、火長(律令の軍制で、10人毎に1火と言う単位で編成され、その長)、如木(召使)が続く。 ④検非違使志は、検非違使庁の役人、警察司法の担当で、6位の武官、舎人の引く馬に騎乗している。

 
  ⑤検非違使志の調度係と鉾持
 
    ⑥検非違使尉けびしのじょう

5)遺検非違使志の弓矢を運ぶ調度掛(弓矢を持つ役)と鋒持ち。 (6)検非違使尉は、検非違使庁の役人で、5位の判官。 志の上役で行列の警備の最高責任者。 舎人の引く馬に騎乗

   ⓻検非違使尉の調度係と鉾持
 
          ⓼山城使

(7)検非違使尉の弓矢を運ぶ調度掛と鋒持。  
(8)山城使は、山城介すけで山城国司の次官、5位の文官。 賀茂の両社とも洛外になり、山城国司の管轄区域になる為、督護の任についている。 舎人が馬の口を取り、前後に馬副おまぞい(乗馬の付添人)がつく。

 
    9-1手振(山城使従者)
 
    9-2手振てふり(山城使従者)
 
         ⑩御幣櫃ごへいびつ
 
       ⑪内蔵寮史生くらちょうししょう


9-1.2)手振てふり(供の者)、童わらわ(貴族の家や寺院で雑用につかわれる童)、雑色ぞうしき(天皇の秘書的役目を果たす蔵人の職位の1つで、雑用をこなした。)、舎人とねり(皇族や貴族に近侍し護衛を任務とした下級官人)、白丁はくちょう(無位無官の良民)など従者が山城使いの用品を携えている。ここまでが第1列である。
(10)御幣櫃ごへいびつは、賀茂両社の神前に供える御幣物をお納めた櫃で白木の唐櫃に注連縄をかけ、白丁が担ぐ。 第2列は御幣櫃。 つまり下賀茂神社の御幣物2合と上賀茂社の分1合、計3合の唐櫃とこれを預かる責任者の内蔵史生代からなる。 後に社頭の儀で行われる走馬の儀に献上される御馬2頭を預かる馬寮使代もこの列である。
(11)内蔵寮史生くらりょうのしょう、内蔵寮の7位の文官で、御幣物を管理する業務です。 騎乗し、両社に各1名が参向し、商品を携えた雑色、白丁を携えています。

 
        ⑫御馬みま
 
      ⑬馬寮使まりょうのつかい
 
         ⑭牛車ぎっしゃ 
 
          ⑮替牛

(12)御馬 走馬そうめとも言われ、両社の神前で走らせ、神々にご覧頂く馬で、2頭の馬の頭と尾には葵、柱、紙垂れを付けている。 1頭に4人の馬部めぶが付きます。
(13)馬寮使めりょうつかい。 走馬を司る左馬允さまのじょうは、6位の武官で騎乗する。
(14)牛車ぎっしゃ 御所車との言われ、勅使の乗る車で、藤の花などを軒に飾り、牛に引かせます。 現在は、勅使が乗ることはなく、行列の装飾です。 牛童うしわらわ、車方、大工職などの車役が従います。 
15)替牛 牛車の交替用です。 ここまでが第二列です。     

 
          ⑯和琴
 
       ⑰舞人まいにん
 
        ⑱勅使
 
        ⑲随身ずいじん

16)和琴わごん 御物ぎょぶつ(天皇所有)の和琴で「河霧」の銘をもっている。 車で運ばれず、手持ちです。 神前の奏楽用として2人交替で運ばれます。 ここから三列目に入る。 
 第3列は、行粧の中心近衛使代の列である。 近衛使とは、近衛中将(4位)から選ばれて勅使となる役である。
(17)舞人 近衛府の5位の武官で、歌舞の堪能者が舞人を務めます。 6人が騎乗でお供し、それぞれ雑色、舎人、白丁が従う。
(18)勅使 天皇の使いで、行列中の最高位者である。 4位近衛中将がこれを勤めるので、近衛使ともいわれる。 当時の様式通り、飾太刀、騎乗する馬も美々しい飾り馬で御馬役人の朧くとりが口を取り、舎人、居飼いかい(牛馬等を取扱う下級の役人)、手振が従う。
(19)随身ずいしん 勅使の場合は4人が随行し、護衛にあたる。 随身は、左右近衛府の官人で、将曹以下をこれに当て、番長以上の随身には騎乗が認められた。 (20)風流傘 大傘の上には牡丹などの季節の花(造花)を飾り付けたもので、行列の装いとして取物舎人が交代で持つ。 これが第3列の終わりである。

 
       ⑳内蔵使くらずかい
 
        ㉑風流笠
 
      ㉒-1陪従ばいじゅう
 
          ㉒-2陪従

(((20)内蔵使 内蔵寮は天皇家の財産の管理,官人への下賜や調達など天皇家関係の出納業務で、内蔵使いは、内蔵使は、内蔵の次官で5位の文武兼官で職名は内蔵助。 勅使が神前で奏上する祭文を奉持する。 騎乗し、馬副うまぞい(馬に乗った貴人に付き添っていく従者)、白丁らが従う。 
(21) 風流傘 先の風流傘とは造花が全然違う。 この風流傘が第4列の終了と同時に本列の終了である
 本列の後に、昭和31年の再興に加わった女人列が続きます。
(22) 陪従 第4列は近衛使の後に続く、陪従の列から始まる。 陪従は、近衛府の5位武官で、この日は賀茂両社の社頭で歌を歌い、楽器を奏する役である。 7騎が各種
楽器を携え、それぞれ雑色、舎人、白丁が従う。

 
      ㉓火長ばいじゅうと命婦
 
      ㉔命婦列みょうぶれつ

23)火長と命婦 女人列は4人の火長の先導で命婦がまず進行する。 命婦は、5位以上の官人の妻で官職ではなく、所属官庁の職務に奉仕する地位である。 命婦の奉仕の対象は、内侍司の務めであるが、天皇の儀式あるいは神事に限られるようになる。 命婦の服装は小袿こうちぎ、単、内袴着用し、花傘をさしかける。 
(24)命婦列 斎王代の前に4人、後に2人、合計6人が、女嬬や白丁に囲まれながら断続的に続く。
     ㉕童女わらわめ 
     ㉖斎王代さいおうだい

 
       ㉕童女
 
         ㉖斎王代

(25)童女 行儀見習いとて奉仕する少女。 斎王代の前に4人、後ろに4人合計8人が参加している。 
(26)斎王代 斎王は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂列雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の両賀茂神社に奉仕した。 両賀茂神社では祭祀として賀茂祭り(通称葵祭)を行い、斎王が奉仕した時代は斎王が祭りを主宰してきた。 その後も葵祭は継続されたが戦国時代、明治維新、戦後と三度祭りが中断した。 その後昭和28年(1953)に祭りが復活したことを契機として、昭和31年(1956)の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。 斎王に選ばれた女性は唐衣裳装束からぎぬもしょうぞくを着用し、舞台化粧と同様の化粧に加えお歯黒も施されている。
 平安時代の初期、平城上皇が弟嵯峨天皇と対立して、平安京から平城京へ都を戻そうといた際、嵯峨天皇は王城鎮守の神とされた賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を「阿礼少女あれおとめ」として捧げると祈願をかけた。 そして弘仁元年(810)薬子の変で嵯峨天皇側が勝利した後、誓い通りに娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まりである。 
 此れにより伊勢を「斎宮さいぐう」、賀茂を「斎院さいいん」と区別されるようになった。 嵯峨天皇以後、即位の度占いで決められ、天皇が上位又は崩御された際、退下するのが習わしとされた。 平安時代弘仁元年(810)の嵯峨天皇皇女有智子うちこ内親王に始まり、鎌倉初期建暦けんりゃく2年(1212)の後鳥羽天皇皇女礼子内親王まで35代、およそ400年間続いた。

 
        ㉗女嬬にょうじゅ 
 
       ㉘女嬬列

27)女嬬 女嬬とは、後宮こうきゅう(江戸時代の大奥に該当)において内侍司ないしのつかさ(後宮十二司の一つであり、女官のみで構成されている)に属し、掃除や照明をともすなどの雑事に従事した下級女官。 内侍司の中でも階級があり、上位から、尚侍ないしのかみ(4等官における長官に相当、多く摂関家の娘が選任された)が2名、典侍ないしのすけ(4等官における次官相当。 大・中納言の娘が選らばれた)が4名、掌侍ないしのじょう(4等官における判官じょうに相当する)が正官4名、権官2名の計6名、その下に女嬬が100名いた。 (
28)女嬬列 女嬬の服装は小袿こうち0ぎ、単、内袴着用している。 女嬬は、斎王代の前の命婦列の前後に、4人、4人の8人、斎王代の後の、騎女列の前に4人、女別当の前後に4人、4人の8人、合計20人が参加している。

 
        ㉙騎女むなのりおんな 
 
       ㉚女別当おんなべっとう 

(29)騎女むなのりおんなは 斎王付の巫女みかんこで、騎馬で参向するため、その名がある。 斎王代の後、童女、命婦、命婦、女嬬の続いた後、白丁、雑色、舎人を従い、6騎が連続して続く。
(30)女別当おんなべっとう 斎院司さいいんしで、内侍以下を監督する女官である。 女人列では斎王代を除けばし最高位の女官である、内侍に続き、女嬬、采女を従える。

 
       ㉛内侍ないじ 
 
      ㉜采女うねめ 

31)内侍ないじ 内侍は近代以前の日本の女性職の1種である。 内侍司の内侍は、天皇に近侍して、常時天皇への奏上や、天皇からの宣下を仲介する等を職掌とした内侍司の総称である。 
(32)采女 采女は、日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。 平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの官職となった。 飛鳥時代には地方の豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があった。 一種の人質であり、豪族が服属したことを示したものと考えられた。 
 天皇の側に仕えることや諸国から容姿に優れた者が献上されていたため、妻妾としての役割を果たす事も多く、その子供を産む者もいたが、当時は母親の身分も重視する時代であったたため、地方豪族である郡司層出身の采女出生の子供は中央豪族や皇族出生の子供に比べ低い立場に置かれることがほとんどであった。 
 こうした律令制に組み込まれた時代の采女は、天皇の妻妾という性格がうすれて後宮での下級職員としての性格が強くなっていく。
 平城天皇の改革により采女献上の制度は」廃止されたが、嵯峨天皇の時代に采女制度が復活した。 以後は采女は中央貴族の子女から選ばれることがおおくなり、形骸化してゆくことになった。 江戸時代以降は天皇の即位式の時にのみ女官から選抜されるようになった。 
 行粧では、女別当の従者として女嬬の後に4人参加している。 采女も斎王代と同じく額の両側に日蔭糸ひかげのいとを垂らしています。

 
      ㉝陪従ばいじゅう 
 
        ㉞牛車ぎっしゃ 



㉝ 陪従ばいじゅう 賀茂祭り。石清水・春日の祭に舞人と共に参向し神前で行われる東遊あずまあそびのマイで管弦や歌の演奏を行う地下じげの楽人。 ばいじゅう。 行粧では、采女の後に、一鼓いちこ、笛、篳篥ヒチリキ、笙しょう、太鼓、鉦鼓しょうこ、と続く。
(34)牛車ぎっしゃ
 牛車は馬車と共に中国から伝わったと推定されます。牛車は大きく分けて荷車ようと乗用2つの要素があります。牛車は速度が遅い反面。大量の物資を運ぶのに適していたため、荷車として活用されていました。
 中国では、後漢の献帝が、長安から洛陽へ脱出する途中、車を破損した献帝が農民の牛車に乗って洛陽にたどり着いたという故事から、貴人が牛に乗るようになったという。中国の律令制を取り入れた日本もこの影響を受けたと言われている。
 日本の平安時代では、牛車は貴族の一般的な乗り物であった。移動のための機能性よりも使用者の権威を示すことが優先され、重厚な造りや華やかな装飾性が求められた、
斎王の牛車で俗に女房車と言われる。 この牛車には、葵と桂のほか桜と橘の飾りがつく。 牛車にも色々あって、最高級車は、唐庇車からびさしのくるま。 葵祭では勅使用の牛車がそれである。上皇、摂政関白などが、晴れの舞台で使う。屋根が唐破風からはふうのような形状になっている。網代車は車箱の表面に、桧や竹などの薄板を張った車の総称である。 
 斎王代用は八葉車はちようのくるまで網代車の一種で、大臣から公卿、地下と広く用いた車である。 網代を萌黄色(黄緑)に塗り、九曜星(八葉/大きな円の周りに小さな円を八つ書いたもの)の模様を描いたくるま。 牛車の後には、替牛が続く。

(3)烏相撲からすすもう 

 
   烏相撲・京都市民族文化財
 
   烏相撲・京都市民族文化財

神武天皇が東進された時、上賀茂神社の祭神の祖父賀茂建角身命が頭八咫烏となって先導をつとめ、大きな功績をたて、論功行賞として山城国の北部一帯を賜った。
 この頭八咫烏伝説と稲などに不作をもたらす悪霊退治の信仰行事である相撲が習合して烏相撲という神事が生まれたと言う。
 この相撲神事は、平安時代から続く伝統行事で、現在も昔のしきたりと寸分たがわぬ衣装を付けて執り行われている。 当初は、歴代の斉王が烏相撲を上覧したが、斉院制度が途絶えた後も、あたかも斉王がいるかのように御帳台みちょうだい(貴人の座所)をしつらえて相撲神事が続けられてきた。 平成3(1991)年からは、葵祭で知られる斉王代が800年ぶりに斉王に代わって相撲を上覧するようになった。
 主役を務める相撲童子は、例年烏相撲保存会重陽社が氏子区域内の小学校3年生から6年生までの児童約20名を選抜する。
 相撲童子達は、禰宜方ねぎかた(細殿に向かって左)(西)と祝方ほうりかた(細殿に向かって右)(東)に分かれる。 最初は地取りという神事で、禰宜方の禰宜代と祝方の祝方代の神職2名が交互に土俵に呪いをして必勝を祈願した後、差札(相撲童子の名簿)を斉王へ差し出す。 次に、弓矢を持った禰宜が、弓矢・太刀を立砂に立てかた後、烏が跳ねるように3々九度横飛をした後、カーカーと烏の真似をする。 次に行司と相撲童子が三度立砂の周りを回り、いよいよ相撲が始まる。 東西10名づつに別れ白熱した相撲が展開、引き続き勝ち抜き戦も行われる。 

 







 

 

 


  



 


 



 


 




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