1.下鴨神社の歴史
賀茂御祖みおや神社(下鴨神社)の主神は賀茂建角身命かもたけつぬのみこととその御子神の玉依媛命たまよりひめのみこを主神とし、賀茂別雷神社かもわけいかづち(上賀茂神社)の主神は玉依媛命を母神とする別雷命わけいかづちのみことを主神としている。
カモ社にカモ県主の一族が、古くから奉仕していた。「下鴨神社」とか「上賀茂神社」と言う名が歴史書に登場するのは、八世紀中頃からである。奈良時代の和銅6(713)年に編纂された「風土記」があり、当時の日本各地の古老等の伝える風物や伝承を纏めたものである。 それによると可茂の社というのは日向ひむかの曾そうの峰(南九州の高千穂)に天降った、賀茂建角身命かもたけつぬのみことという神をまつる。この神は神武天皇の大和国平定の折に先導をつとめ、しばらくは葛城山かつらぎさんの麓に居られたがやがて山城の国の岡田(加茂町)に居住された。 さらに木津川を下って鴨川と桂川の合流点から鴨川の上流を見渡し「狭い川であるが清らかな流れの川だ」と言われ、鴨川を「瀬見の小川」と呼ぶようになった。そして命はこの川をさかのぼり久我国の北の山麓に移られた。 この時より、この地方を「賀茂」と言う。
また、この風土記の逸文に関連する節話が社家伝わっている。 その一説は、神武天皇の大和国平定に功績のあった賀茂建角身命は葛城山麓に住んでおられたが、やがて葛城山系を北へたどりて走谷はしりだに(現在の枚方市加茂建豆美命かもたけつみのみこと神社)に達し、そこにしばらく居住の後、再びたどって乙訓(現在の長岡京市角宮すみのみや、建角身命の「角」の字から名づけられた)に定住され、丹波国の伊可古夜比売いかこやひめと結婚されたという節話である、と言う2説があり、風土記逸文の葛城―岡田―久我の移動を「東のルート説」と称し、社家の節話の葛城―走谷―乙訓の移動を「西のルート」と称している。
どちらの説も、鴨川・淀川水系の人々が糺の森を水源地として信仰し、淀川を境にした東西の鴨氏の移動である。
五世紀頃に大和朝廷は山代北部一帯を直轄地と定め、その中の葛野県が鴨県へ移動したが、その鴨県が六世紀頃にさらに大きな勢力を保ち、朝廷に薪や炭、水などを貢納しているほか主水司もんどのつかさ(宮中の飲料水担当)として朝廷に仕えていた。
しかし、東西のルートで移動してきた鴨氏より前に葛野主殿県主部かずぬのとのもりのあがたぬしべが先住していた。 この氏族と移動してきた鴨氏とは、始祖が同じ同族であったため融和が急速にすすんで鴨氏として同化してしまったとされている。
鴨氏はその後もどんどん勢力を拡大し、鴨社の官営化が進んでいった。 白鳳6(677)年2月4日に山代国司が賀茂神宮を造営したおりには、それまでの茅葺の社殿が檜皮葺に改造される一方、禰宜・祝を朝廷から補任された。
その後の鴨社の事歴は次のとおりである。
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神亀3(726)年7月17日官幣大社となる。
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宝亀11(780)年賀茂県主姓を賜う(上賀茂神社と同格となる)。
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延暦3(784)年6月13日奉幣、長岡京遷都を告げる(安全祈願)。
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同年6月20日賀茂両者に従二位を贈られる。
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延暦12(793)年2月2日平安遷都を告げられる。
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延歴13(794)年10月18日賀茂両者へ正二位を贈られる。
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同年 12月21日桓武天皇が賀茂両者へ行幸参拝される。
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大同2(807)年5月3日賀茂御祖社へ正一位を贈られ、賀茂御祖大社としょうせられる。
* 参考文献;下鴨神社と糺の森(賀茂御祖神社編)、下鴨神社・糺の森(四手井綱英著)
2.遷宮と造替
賀茂社の造替に関しては、仁治3(1242)年に行われた下鴨社の遷宮に際して「下鴨社は20年に一度の式年遷宮の制度があったが、上賀茂社には式年遷宮の制がなく、破壊をもって造替の機会としたとある」と記されているという。
平安時代後期から鎌倉時代中期までの記録「百錬抄」によると、長元9(1036)年4月13日に式年遷宮の制度についての宣旨せんじ(天皇の命を伝える文書)が下され、これを受けて第一回の式年遷宮が天喜4(1056)年に行われたが、戦乱の時代には経済的混乱もあって20年が延び延びとなり、再三通達が出ている。
去る昭和48(1973)年、平安時代から32回目の式年遷宮がおこなわれた。 しかしながら、明治35(1902)年下鴨神社社殿70余棟のうち33棟が特別建造物に指定されているため、解体することができなくなり、以後の式年遷宮は修造をもってかえられている。
上賀茂神社の造替ぞうたいは延宝9(1681)年8月の「賀茂注進雑記」よると30年から50年以上に及んでいる。 近世の数ある造替のなかでも、寛永度の造替は最も大規模なもので、本殿以下すべての社殿が復旧された。
寛永度造替の作業奉行は五味豊直と中坊秀政、作業現場を担当した職人は正大工左衛門浜好、権大工清右衛門定正、正棟梁清次郎、権棟梁太郎左衛門、長大工山三郎、左介等5人、鍛冶左衛門二郎で当時京都で一流の職人が担当している。
寛永度造替は寛永4年10月1日に手斧ちょんな始めが行われた。 嘉元3年の古例を参考にすると称し23日に南部の陰陽寮内膳から手斧始め、地曳き、柱立棟の日取りの勘文が到着し、26日には正大工以下の諸職人に衣装の銀子が渡される。
手斧始めは10月1日の巳刻(午前10時)に行われた。 正大工の左衛門と権大工清右衛門定正は烏帽子・狩衣かりぎぬ(公家の普段着)・指貫さしぬき(動き易いように裾を絞った袴)に太刀と扇子を持ち、正棟梁と権棟梁、五人の長、鍛冶、桧皮師は烏帽子・浄衣じようえ(白色無紋狩衣・指貫=神職衣装)で参加、まず、正・権大工が墨壷と曲尺で作法をし、次いで手斧を打つ作法を行い、以下正、権棟梁、長の大工が順番に同様の作法を行っている。 次いで、鍛冶と桧皮師が作法を行い、最後に左官が右手で壁を塗る真似をし、全員退出する。
* 参考文献;下鴨神社と糺の森(賀茂御祖神社編)、下鴨神社・糺の森(四手井綱英著)
3.下鴨神社の建築
西本殿・東本殿(国宝) |
祝詞屋(重要文化財) |
下鴨神社が成立したのは天平末年(740)から天平勝宝2(750)年にかけてと推定されている。 祭神を奉安する寝殿は上賀茂神社が東本殿と西権殿、下鴨神社は東西二本殿からなる。 下鴨神社の本殿は、平安時代の長元9(1038)年の造替から式年遷宮の制がとられ鎌倉時代の末期元亨2(1322)年まで続いたが、その後は戦乱のため廃れていて、江戸時代になって寛永6(1629)年に再興され本殿以下全ての社殿に及ぶ大規模造営が実施され、今日みるような社頭景観が成立した。 その後江戸時代の間何度か造替・修復が行われて、現在の本殿は文久3(1863)年に造替されたものである。 なお、本殿以外の社殿は寛永に造替されたものを修復して今日に持続されている。
東西本殿は上賀茂神社の本殿と権殿と等しく流造ながれづくりの形式をそなえる。 桁行けたゆき柱間三間、梁行はりゆき柱間二間の身屋もやとその前面に付属した一間通り庇からなる。
規模のうち柱間寸法が、上社と下社で少し相違している。 桁行柱間は両社とも六尺五寸(1.97m)であるが、梁行柱間は上社が六尺3寸(1.91m)に対し下社は、六尺4寸、上社が3.36mに対し下社は3.69mで下社本殿がやや大きくなっている。
屋根は身屋(=母屋)もやが切妻造り桧皮葺でその前面の屋根の流れを庇へ葺き下ろす流造りで、流造形式の祖形といわれている。
東西本殿は、南を除く三方に玉垣をめぐらし、前方中間に祝詞屋のりとやがあり幣殿に接続する。幣殿へいでんは左右に回廊が取り付きその東西両端は東西御料屋ごりょうやに取り付く。
西本殿の西、玉垣の外に末社印社いんしゃ、その西北隅に叉蔵あぜくらが置かれる。これらの本殿とその周辺の殿屋を囲んで練り築地ついじがめぐらされている。 幣殿の前方に四脚中門が所在し、その左右に東、西楽屋が添えられ、さらに回廊が左右に延び、東回廊は北へ折れて東御料屋に、西回廊は預り屋へ取り付く。 西御料屋と預り屋の中間に西唐門と左右の透塀すきかべがあり、摂社三井神社の連絡口に当てられている。
西練築地の外、玉垣で囲まれて三井神社が存在し、三殿からなる本殿が左右に並び南方に拝殿
が建つ。 なお、この拝殿の西側に諏訪社すわやしろ、小杜社こもりやしろ、白鬚社しらひげやしろの各末社本殿が左右に置かれる。 そして南側を棟門と左右廻廊で仕切られている。
前出の中門の前面は白砂を敷き詰めた前庭になり、その南側を仕切って楼門と左右の廻廊が連なる。 中門と楼門の中間に舞殿がある。 舞殿の北東に末社井上社と御手洗池があり、池から御手洗川が流れが南へ東廻廊の東端を経て廻廊外へ出て奈良の小川になる。
この御手洗川の中程、川を跨いで橋殿が建ち、その東側に細殿が建つ。舞殿の西に神服殿しんふくでんが建ち、その西に供御所と参集殿が存在する。また、三井神社の北と西は練り築地で仕切られ、その西外に御井みい、大炊殿おおいどの、御車舎おぐるまのやが存在する。
殿及び廻廊(重要文化財)
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中門(重要文化財)
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(1) 本殿(国宝)
江戸時代前期、文久3年(1863)造替、三間社流造、亀原の上に井桁を汲む7高床式で古代様式の遺風がみられる。流造は八種の神社建築様式の一種で、おの建築様式が完成したのは平安時代後期と考えてられている。。奈良時代後期に下鴨神社は成立したと考えられています。下鴨神社が成立したのは奈良時代の後期、従って上賀茂神社か下鴨神社のいずれか又は同じな流造建築様式を採用したと考えられています。
本殿二棟はいずれも国宝で、東殿は玉依媛命たまよりひめのみこと、、西殿には賀茂建角身命かもたけつむみのみことの両御祭神祀られている。
(2) 祝詞屋のりとや(重要文化財) 寛永
(3) 幣殿(重要文化財)及び廻廊(重要文化財文化財)
(4) 中門および回廊
神服殿しんぷくでん(重要文化財)
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舞殿ぶでん(重要文化財) |
(4) 神服殿 行幸の節に玉座となる社殿。夏冬の御神服を奉製する御殿であったため、その名が
ある。古代祭祀の神殿様式を伝える貴重な社殿。古くから御所が災害にあった時、臨時の御所
と定められている。開けずの間」が伝わる。
(5) 舞殿 賀茂祭の時勅使が御祭文を奉上され、東遊が奉納」される。御所が災害に遭った時、
臨時の内侍所(律令管制における役所の一つ。 女官のみで構成される)と定められている。
橋殿はしどの(重要文化財)
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細殿ほそどの(重要文化財)
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(6) 橋殿 御蔭祭の時、御神宝を奉安する御殿。 古くは御戸代会みとしろえ神事、奏樂、 里神
樂、倭舞が行われていた。 また行幸の際、公卿、殿上人の控え所と定められていた。
(7) 細殿 歌会、茶会等が行われる殿舎。歴代天皇の行幸、上皇、関白の賀茂詣でには、歌会な
どが行われた社殿。また天明大火災時には内侍所と奉安所となり、文久回録の時には裕宮(明
治天皇)の安座所となったほか、文久3年孝明天皇行幸の際、徳川家茂の侍所となった。
東・西楽屋がくのや重要文化財)
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東・西御料屋ごりょうや(重要文化財)
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(8) 楽屋 年中神事に雅楽を奏すると共に、本殿昇殿の最初の解除所。 中門の左右に在り、
何れも重要文化財。
(9) 御料屋 神饌しんせん(御供え)の準備や盛り付けが行われる社殿で、幣殿の左右に在る。
「鴨社古図」になく、古図制作(1184~96)以後の建設と考えられている。
預屋あずかりや(重要文化財)
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叉蔵あぜくら(重要文化財)
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(10) 預屋あずかりどころ (重要文化財)
寛永5年(1628)造替 桁行五間、梁間三間、入母屋造、檜皮葺、古くは、神官が神前奉仕のための控えている社殿。現在は、儀式殿。
(11) 叉蔵さそう (重要文化財)
寛永5年(1628)造替 桁行三間、梁間二間、校倉(倉庫の一形式)、入母屋本瓦
校倉は、断面が三角形の横財を蒸籠せいろ組に積み上げて壁体とした建築様式で、横材の稜角部が外壁に、平面部が内壁になり、従って壁体の木口は鋸歯状となる。日本では奈良時代から平安時代の初期にかけて国府、寺院の倉の様式として各地に建設されたそれ以外に例はない。
供御所くごしょ(重要文化財)
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大炊殿・井戸屋(重要文化財) |
(12) 供御所くごしょ(重要文化財)
寛永5年(1628)造替 桁行九間、梁間三間、入母屋造、檜皮葺、御殿の中は、東(供御所)、中(贄殿にえどの)、西(侍所)の三間に分かれている。 供御所は、神饌を料理するところ。 贄殿は魚、鳥類を料理する間、侍所は神官など参集し、直会なおらい、勧盃の儀などを行う。
(13) 大炊殿 おおいどの(重要文化財)
寛永5年(1628)造替 桁行五間、梁間三間、切妻造、本瓦葺、旧斎院御所宮城贄殿にえどのを継ぐ殿舎である。 神饌の御料を煮炊きし、調理する社殿。入口の土間に竈おくどさんがあり、中の間は、御供えの材料や用具を洗ったり、調理する台所。 奥の間は盛り付けをし、神前へ御供えする順に並べておく配膳棚がもうけてある。 神殿建築の中でこの種の社殿が現存するのは非常に稀で貴重な建造物である。
(14) 井戸屋いどや(重要文化財)
寛永5年(1628)造替、桁行二間、梁間一間、切妻造、桟瓦葺、若水神事や神饌御料の神水が汲み取られる所。 井戸井筒の井戸屋形。 上屋を井戸屋と呼び全体を御井と称している。 井戸が文化財に指定されているのは他に例をみない。
中門及び廻廊(重要文化財)
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楼門ろうもん(重要文化財) |
(15)中門ちゅうもん(重要文化財)
寛永五年(1628)造替、四脚門、切妻造、檜皮葺。
(16)楼門及び廻廊 (重要文化財)
寛永五年(1628)造替、三間一戸楼門、入母屋、桟瓦葺。桁行十六間、梁間一間、東西二廻廊、橋切妻造、檜皮葺。神社の門は通常鳥居で楼門は仏教建築の門である。仏教建築の屋根は通常の
楼門は瓦屋根であるが、ここは神社であり、瓦が檜皮葺に代っている。また二階建ての門で一階に屋根のあるものを二重門、一階に屋根の無いものを楼門とよんでいる。
西唐門(重要文化財)
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さざれ石
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(17) 西唐門にしからもん(重要文化財)
寛永五年造替、一間一戸向唐門、檜皮葺、屋根の唐破風の形式からその名が付いた。また、欄間にブドウの模様が彫刻されているところからブドウ門とも呼ばれる。「古
事記」や「日本書紀」にイザナギノ命が黄泉よみ国から逃げ帰った時、追いかけてきた鬼に髪飾りを投げつけると、鬼はエビカズラの実に変わったと言う神話がある。 エビカズラは野生のブドウのことで、また薬草の一種とされていた。 このことよりこの門を潜ると御祓いする意味を表しているという。
(18)さざれ石 君が代にうたわれたさざれ石です。
もともと、君が代は古今和歌集に収録されている短歌の一つひとつだったのです。明治2年(1869年)、薩摩藩歩兵隊長だった大山巌が天皇陛下が臨席する儀式用の歌として「君が代」を選びました。 その後、明治13年(1880年)に宮内省式部職雅楽課の雅楽師が曲をつけ、ドイツ人の音楽家が編曲しました。
そして、11月3日の天長節で初めて演奏され、以後、国歌として用いられています。
摂社河合神社(重要文化財)
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鴨長明の「方丈庵」
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19) 摂社河合神社
古くから本宮に次ぐ大社として歴史に登場し、女性の守護神として信仰されている。「方丈記」の著者鴨長明はこの河合神社神官の家に生まれた。 末社には、任部社とべやと呼び八咫烏やたがらすを祀る社があり、昭和6年(1931)日本サッカー協会設立時より、現在のJリーグに至るまで御祭神の姿をシンボルマークとしている。
長明は、50歳で引退し、方々を転々として58歳のころに大原に落ち着いた。各地を移動している間に「庵」として仕上げたのがこの「方丈」である。移動が便利なように全てが組み立て式になっていて、広さは、一丈(約3m)四方(2.73坪、5.5畳)であることから「方丈」の名がついた。
摂社三井神社棟門(重要文化財)
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摂社三井神社(西・中。東殿)(重要文化財) |
(20) 摂社三井神社 (重要文化財)
本宮の若宮(若々しい御神霊)として信仰があり、賀茂建角身命、伊賀古夜日売命、玉依日売命の三神が祀られている。
摂社言社(一言、二言、三言)
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同左(重要文化財)
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(21) 摂社言社ことしゃ(一言、二言、三言)(重要文化財)
言社の通称名は大国おおくにさま。 大国主命はその働き毎に異なる7つの名前を持ち、その名前毎に7つの社が鎮座する。 それぞれが十二支の守護神であり、10月9日の秋祭りには多くの参詣者でにぎわう。
一言社(東社)大国魂神(巳末歳守護神)、一言社(西)顕国魂神(牛)、二言社(北)大国主神(子)、二言社(南)大物主神(丑、亥)、三言社(北)志固男神(卯、酉)、三言社(中社)大己貴神(寅、戌)、三言社(南社)八千矛神(辰、申)
2」
末社相生社
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摂社出雲井於神社(重要文化財) |
(22) 末社相生社
縁結びの守護神としてもあがめられている。また、相生社の縁結びの霊験の表れによって二本の木が途中から一本に結ばれる「連理の賢木」れんりのさかきという不思議な神木がある。あまりの珍しさに「亰の七不思議」にあげられている。この木がかれると、糺の森の何処かに後継が出来ると言い伝えがある。 現在の神木は四代目にあたる。
(23) 摂社出雲井於いずもいへの神社
通称比良木ひらぎ社。 この神社の周囲にどのような木を植えても、柊の葉の様にギザギザになることから比良木神社と呼ばれている。
末社印璽いんじ社(重要文化財) |
末社印納社いんのうしゃ(重要文化財) |
(244) 末社印璽社いんじしゃ(重要文化財)
印鑑、契約守護の神様として篤い信仰がある。
(25) 末社印納社いんのうっしゃ(重要文化財 重要文化いんのうしゃ
本宮末社印璽社の分霊。 古印を納め守護を仰ぐ社である。()
末社井上社
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摂社貴布祢神社
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(24) 井上社
瀬織津姫命を祀っている。 病気や怪我、さまざまな災難除けの神様。お社は井戸の上に建立されており、社の前がみたらしの池と呼ばれ、下流を御手洗川みたらしがわと呼んでいる。みたらしの池の南庭はお祭りの時の御祓いの場所である。葵祭りに先立って斎王代が禊をされるところ。
夏の土用の丑の日の「足つけ神事」、立秋前夜の矢取神事(夏越神事)は有名である。また、みたらし団子は、下鴨神社の葵祭や御手洗祭の時に、神前の御供え物として氏子の家庭で作られたのが始まり。 説には、後醍醐天皇が御手洗池で水をすくったところ、最初に泡が一つ浮き、やや間を置いて4つの泡が浮き上がったところから、その泡を団子に見立てて作ったという。もう一つの話では、みたらし団子は、人間の頭と胴体を象つたもので、これを神前に供えてお祈りし、それを家に持ち帰って醤油をつけて火にあぶって食べ、厄除けしたとも言われる。現在の形になったのは、大正の頃で、この頃までは、生醤油の付け焼きだったものを、加茂みたらし茶屋のご主人が醤油と黒砂糖を使ったたれを考案した。これが当たり関西一円に広まったとい
(25) 摂社貴布祢神社 水の神様として有名
境外摂社御蔭みかげ神社
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境外摂社賀茂波爾かもはに神社
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(26) 摂社御蔭神社 比叡山の西方、東山三十六峰二番目の御蔭山に鎮座し、古代からの祭祀、御生みあれ神事、現在は、御蔭みかげ祭りが行われる。 御生神事がこの御蔭の地で古代より行われていたが、度重なる山崩れや高野川の氾濫により、天保6年(1835)遷宮より現在の地に移動御された。
(27) 外摂社賀茂波爾神社 御蔭祭は、葵祭の先駆として神霊を下鴨神社に迎える神事で、早朝に、祭官たちが下鴨神社を出発して御蔭神社に向かいます。 御蔭神社で神移しが行われたあと、神様とともに賀茂波爾神社(赤の宮)に立ち寄り、休憩や儀式があります。その後、下鴨神社に向かいます。
末社愛宕社と稲荷社
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末社祓社はらいしゃ |
(28) 末社愛宕社と稲荷社
愛宕社は、賀茂斉院守護神として御所内に祀られていた。稲荷社は忌子女庁屋の守護神。文明の乱後、両社を相殿としてこの地に祀った。(29) 末社祓社 祓戸神はらえどのかみ 災害除け、山病難除けのお祓いの神
(30)六社(右端が諏訪社(重要文化財)
4.賀茂祭(葵祭)
賀茂祭(葵祭)は古来4月の酉とりの日に執り行われるが、祭日を前にした午うま又は未ひつじの日に斉王が加茂川の川原で行う厳粛な御禊ごけい儀と祭りの当日、斉王が朝廷からの奉幣使以下のお供を連れて下鴨神社(賀茂御祖神社)ついで上賀茂神社(賀茂別雷神社)に詣でて行う参拝とからなつている。
当時は、内裏より出た蔡使(近衛中将・少将)、内蔵くらの使、検非違使けびいしの使、中宮使等は、一条大宮で斉王の行列を待ち、斉院より出立した斉王の一行とそこで合流し、斉王を中心にした美しい行列は、一条大路に美しいパレードを展開する。 葵橋を渡って下鴨神社に到着する。 斉王は輿から降り、神館かんだちに入って浄服に着替え、今度は腰輿おうよ(前後2人で運ぶ手輿)で三の鳥居まで行って下車し、社殿の前まで」歩き、そこで寿詞よことばを述べて奉幣し、社頭の儀を終える。
斉王は下鴨神社がすむと賀茂の旧道を通って上賀茂神社向かい、やはり寿詞奉幣の後、上賀茂神社に宿泊される。 翌朝は、斉王の一行だけが神館を出、御園橋みそのばしを渡り、知足院や雲林院の前を通り、大宮末路を通って斉院に還御する。 これが「枕草子」に「見るものは祭りのかへさ」と記した環立かえりだちの儀であって、派手な一条大路の行列よりも、優美で趣のあるものとされていた。
元来、葵祭りは、紫野の斉院より出発し、翌日この斉院に戻るのである。 現在のように京都御所から出発するのは、斉院が廃絶してからである。 賀茂祭りは、斉院の制が途絶えた後も続けられたが、応仁の乱後中絶した。 元禄7(1694)年再興されたものの、明治3(1870)年以降は旧儀が保たれなくなった。 明治17年にようやく再び復興され、祭日は新暦の5月15日に改められた。 現在の行列は、平安時代の衣装を再現し、検非違使尉けびいしのじょう、検非違使志けびいしさんが、山城使やましろのつかいなど警護列、幣列、勅使等順で参加し、戦後に女人列が加わった。 葵祭りの名称は、葵蔓を勅使、斉王を始め祭りに参加する者全てが身に、その他の飾りにも用いたことに
由来する。
* 参考文献;下鴨神社と糺の森(賀茂御祖神社編)、下鴨神社・糺の森(四手井綱英著)上賀茂神社(建内光儀著)
5.斉院制と斉王
嵯峨天皇が弘仁元(810)年に斉院を置いたのは、即位後まもなく、兄平城上皇の寵愛を受けた藤原薬子とその兄藤原仲成が起こした「藤原薬子の乱(後に「平城太上天皇の変」と改名される)」で悩まれた折りに、賀茂の大神に自分の方に利あらば、皇女を「あれおとめ」として奉仕させるという誓いを立てたことによる。
皇女有智子うちこ親王を初代の斉王として賀茂祭に奉仕させて、以来、建歴3(1213)年の第35代礼子内親王(後鳥羽天皇皇女)に至まで、歴代の内親王が斉王となるのが慣例であった。後鳥羽上皇は、礼子内親王の退下後、次の斉王を置くこと考えていたが、鎌倉幕府を倒すことを優先し、承久3(1221)年、鎌倉幕府討幕の兵を挙げた(承久の変)。しかし、計画は失敗し、戦いに敗れ、後鳥羽上皇は捕らえられ、隠岐に流され、後鳥羽上皇が領有していた広大な荘園は没収された。その後即位した後堀河天皇は財政上、斉院の維持が困難になり、斉院廃絶を余儀なくされた。斉王一方のみ任命ではすまず、斉院司と言う役所に勤める大勢の官人、女官の給料だけでも膨大な費用を要したためである。
斉王は伊勢斉王(斉宮)と同じく、天皇即位の初めに、占定ぼくじょう(占で定める)され、加茂川で禊を行い、宮中の便所じんしょ(大膳職等の役所)を初斉院として二年ばかり潔斎けっさい(神仏に仕えるため酒、肉を避け、穢れたものに触れず、心身を清らかにしておくこと)に勤め、三年目の4月上旬、再び加茂川で禊えおしてから斉院(本院)に参入し、仏事・不浄を厳しく避けながら、院内での祭儀や賀茂祭に奉仕する。但し、実際には斉宮の様に厳密に天皇の代替わりごとに交替しているわけではなく、四代27年務めた怡子よしこ内親王や五代57年勤めた選子のぶこ内親王のような存在もあった。
歴代の斉王が常の住居とした斉院は、内院と外院げいん(150m×150m)からなる二重構造で、正面を南とした。内院には斉王の寝殿(東の対、西の対、北の対及び汗殿あせどのが付属する)、賀茂両社の祭神を祭る神殿があり、その後方に客殿、膳部殿かしわどの、大炊殿おおいどのなどの、舎屋が配されていた。外院には斉院司や警護の武士達が詰める武者所がある。
紫野の斉院は神祇じんぎ史の上でも重要であるが、同時に平安文学にも重要な役割を果たした。伊勢の斉宮と異なり、京都にある斉院には来訪者も多く、女流文学サロンの様相を呈していた。初代の有智子うちこ内親王は漢詩人として名をなしていた。選子のぶこ内親王、禖子みわこ内親王、式子のりこ内親王等は「大斉院前の御集」、「大条斉院歌合」、「式子内親王御集」などからも伺えるそうそうたる閨秀けいしゅう歌人が輩出した。
* 参考文献;下鴨神社と糺の森(賀茂御祖神社編)、下鴨神社・糺の森(四手井綱英著)
6.下鴨神社の年間歳時記
下鴨神社は上賀茂神社と並び平城京遷都以前から存在する古い神社で多くの祭りがあるが、その主なものについて取り上げてみる。
蹴鞠はじめ
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流し雛
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1.蹴鞠はじめ 1月4日
古くから御所に伝わる京の伝統行事「蹴鞠」が奉納され、一般に公開される。蹴鞠けまりは、平安時代に大流行した競技の一つ。
中国の蹴鞠の歴史は紀元前300年以上前の斎(戦国時代)での軍事訓練にさかのぼるとされ、漢代には12人のチームが対抗して鞠を争奪し「球門」に入れた数を競う遊戯として確立し、宮廷内で大規模な競技が行なわれた。 唐代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に1個設けられるなどの形になった。
この時期、鞠は羽を詰めたものから動物の膀胱に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。蹴鞠競技はその後、中国本土では次第に廃れていき、宋代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落さないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。やがて貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事をおろそかにするものが多く、明初期には蹴鞠の禁止令がだされ、さらに清における禁止令で中国からほぼ完全に姿を消した。
日本では、蹴鞠は600年代、仏教などと共に中国より日本へ渡来した。中大兄皇子と藤原鎌足が、蹴鞠をきっかけで親しくなったと伝えられている。蹴鞠は日本では独自の発達を遂げ、平安時代には、蹴鞠は宮廷競技として貴族の間で広く親しまれるようになった。蹴鞠は、貴族だけに止まらず、武士、神官はては一般民衆まで親しまれた。蹴鞠に関する種々の制度が完成したのは鎌倉時代で、以降近代に至るまでその流行は衰えることはなかった。
蹴鞠は、懸かかりまたは鞠壷まりつぼと呼ばれる、四隅を元木(鞠を蹴り上げる高さの基準となる木)で囲まれた3間程の広場の中実施される。 1チーム4人、6人または8人で構成され、その中で7~8寸の鞠をいくたび「くつ」をはいた足で蹴り続けられるかを競った団体戦と、鞠を落した人が負けという個人戦があった。
2.流し雛 3月3日
流し雛ながしびなは、雛祭りの大元ととなった行事です。雛祭りの源は、旧暦3月3日の上巳じょうしの節句の薬草摘みでしたが、やがて人の形をした人形かたしろで体を拭又は息を掛けそれを川に流すことで穢れを祓い、厄払いを願いました。やがてこの行事が宮中の雛遊びへと発展し、雛祭りへと変わっていきました。京都下鴨神社では、さんだわらに乗せた人形を御手洗川にながし、子供たちの無病息災を祈願する神事である。 今での各地に流し雛が残っている。 奈良県五條市「吉野川の流し雛」、鳥取県八頭郡用もちがせ町の「流し雛の館」、兵庫県播州龍野の「西の小京都龍野の流し雛」、埼玉県「人形の町岩槻の流し雛」、岡山県笠岡市の「北木島大浦の流し雛」、山口県下関の「壇ノ浦の流し雛」、東京の「隅田川の流し雛」、長野県「信濃路の流し雛」等がある。
流鏑馬神事
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歩射神事
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3.流鏑馬神事 5月3日
流鏑馬やぶさめとは、疾走する馬上から的に鏑矢かぶらやを射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。 馬を馳らせながら矢を射ることから、「矢馳せ馬やばせうま」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったと言われる。
下鴨神社では、流鏑馬とは言わず「騎射きしゃ」と明治初年まで呼んでいた。 この騎射がいわゆる流鏑馬の原形である。 「続日本記」の「天武天皇2年(698)賀茂祭りの日に民衆を集めて騎射を禁ずる」とあり、葵祭のひの騎射に大勢の見物人が集るために3度も禁止令が出るほど有名になっていたから、古くから行われていた事が伺われる。
文亀(1502)年、葵祭りの路頭の儀が中断したことによって騎射もまた中絶した。 神事は中断したが、武家は各地で流鏑馬として盛んにに行うようになり、さまざまな流儀や作法が派生した。 元禄7(1694)年、葵祭りが再開された時、騎射も伝統の作法により再興された。 ところが、明治2(1869)年東京遷都祈願行幸の時に行われた後、再び中断するに至った。
去る昭和48年、下鴨神社式年遷宮の記念行事として、名称を流鏑馬神事と改め、100数年ぶりに復活した。 馬場の長さは約350m、その間に100m間隔で3ヶ所に的が設置してあります。 的は1尺5寸の桧か杉の正目板。 当たっても当たらなくても毎回交換します。 馬の走る速さは早く、的から的までわずか5秒、その間に矢を取り、弓構え、打ち起こし、引き分け、放つ、全く無駄な動作は許されない。 15,6回騎射するが、最初の3回は平安時代の公家の衣装装束、その後は武家様式である。
4.古武道奉納 5月4日
午後1時から神事に引き続き関東から沖縄まで外人も交えた10数余流派が衆参し、日頃の研鑽の成果が披露される。騎射、薙刀、剣術、居合をはじめ珍しい棒術や鎖鎌などの古武道を直接拝見できる。
5.歩射神事 5月5日
弓矢を使って葵祭りの沿道を清める魔除けの神事である。歩射神事は、三日に同神社で行われる馬上の流鏑馬にたいして、地上で矢を射ることに由来しており、平安時代に宮中で行われていた「射礼しゃらいの儀」が始まりと伝えられている。射手が弓を鳴らす「基目式ひきめしき」で四方の邪気を祓い、鏑矢を楼門の屋根を越えて飛ばす「屋越式やごししき」、大きな的を射る「大的式おおまとしき」、連続して矢を射る「百々手式ももてしき」がそれぞれ行われる。 また、この四式をもって「鳴玄基目神事めいげんひきめしんじ」と呼ばれ、賀茂祭の安全祈願とされている。
女人列
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斎王代禊の儀
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6.斉王代禊の儀 5月初旬
葵祭りの斉王代以下女列に参加する四十人の女性が身を清める神事。毎年上賀茂神社と当下鴨神社の交代で行われる。十二単を着て神社の御手洗池で川の水に手を浸し、身を清める御禊みそぎを行う。古くは鴨川の河原で行なわれたが、鎌倉前期に斉院の廃止とともに中断した。昭和31年の斉王列復活により、両社の隔年交替で行なうことになった。
日時は一定しないが5月初旬、御手洗川のほとりで、葵祭りに先立ち斉王代と女人列が清流に臨んで祓いを受ける。
御蔭祭
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御蔭祭・東遊び |
7.御蔭祭
御蔭祭みかげまつりは賀茂御祖皇大御神の若返りを願うため、御蔭山において御生みあれされた御神霊を再びお迎えし御本宮の和御魂にぎみたまと御一体におなり頂く祭儀です[賀茂御祖皇大御神はおとなしい和魂の神さまであり、御蔭神社は荒々しい荒魂の神様である、この和魂と荒魂の神が合体すると、若々しい神になる] 。
平安時代になると「源氏物語」などに「みあれ詣で」とあるように、新しい生命の息吹を受けて身も心もよみがえるという御生の思想が信仰されていました。賀茂祭に先立って神様の御神威の甦りをいのる、それが御蔭祭です。
御蔭神社は、下鴨神社の摂社で比叡山山麓の八瀬御蔭山に鎮座し本宮御祭神の荒御魂を奉斉します。 四月中の午うまの日に御祭神の荒御魂の御降臨を仰ぎ、神馬じんめに錦蓋きんがいを装飾して本宮に神幸します。これを御蔭祭または御生祭と称します。
本宮において午前9時より、神事が始まります。勧盃かんぱいの儀(神職が神酒を拝載して祭儀の成功お祈る)と樹下じゅげ神事(お祓いの神事)が終わると9時40分ころから本宮進発の儀にはいる。神職より行列奉行かいして、鉾,槍、矢、盾等多くの神宝がそれぞれの役へと授けられる。それが済むと陪従ばいじゅう(樂人)の演奏に合わせゆっくりと進発する。行列は糺の森の途中で車に乗り換え御蔭山にむかって進む。
午前11時頃行列は、御蔭神社に到着する。御蔭神社では御蔭山の儀と昼休みを挟み御生神事がおこなわれる。御蔭山の儀が終わると参列者に神酒の振舞い酒がある。 御生神事は非公開の神事である。
午後1時前に御蔭神社を出発、途中境外摂社賀茂波爾神社で休憩後、下鴨神社に向かい、午後4時前に下鴨神社に到着、午後4時ころから切芝神事が始まります。
神馬の前で祝辞に代わる舞の「東遊」が奉納されます。 御蔭祭りは上高野の御蔭神社から若々しい「荒御魂あらたま」を迎え、下鴨神社の神霊「和御魂にぎみたま」と一体になる祭儀です。
8.賀茂祭(葵祭) 略
9.蛍火の茶会
蛍火の茶会は、糺すの森に蛍が飛び交う、初夏の夕暮れ(6月初旬)、糺の森財団が始めた恒例の納涼茶会です。楼門前には「糺の森納涼市」が開かれて、京都の有名菓子店が午後1時より開店し、処狭しと二十店舗余りが出店し、午後5時より中門前において奉告祭が斉行されると同時に橋殿と細殿にて茶会も開催され、境内には蛍の篭があちこちに置かれています。 午後6時頃には神服殿において十二単の着付けと王朝舞や筝曲の演奏が行なわれ、午後8時ころには、約600匹の蛍が大篭より御手洗川に放たれる。訪れた参加者は、初夏の夜空に蛍火が舞う幻想的な雰囲気に酔いしれる。
下鴨神社とお茶は、古くから関係が深く、寛正年間(1460年頃)以来、内裏の御門前に桧垣茶屋を開き、参内の公卿にお茶を供したり、行幸、御幸等の行粧ぎょうそう(外出や旅に出る時の服装)に供奉し御休憩所で御茶を献上するなど茶の座を持ち江戸時代には「担い茶屋」と称して都も風雅ともてはやされた。担い茶屋」と言うのは、風炉、釜、茶道具を天びん棒で担い、縁日や行楽地の人々の集る所へ行って茶を売っていた。当時せんじ茶が称した茶がどのような茶であったかは明確でないが、慶長4(1599)年3月古田織部の一行が吉野で花見の宴を開いた時、「利休亡魂」と額を打った「担い茶屋」は抹茶であったと言う。桧垣茶屋は、下鴨神社の社職で西村姓の家が代々つぎ、糺の森の泉川のほとりに茶所を構えていたのが本家である。
10.御手洗祭(みたらし祭)
平安期の頃、季節の変わり目に貴族は禊祓いをして、罪、穢れを祓ったものが御手洗祭の前身で、土用の丑の日に御手洗池の中に足を浸せば、罪、穢れを祓い、疫病、安産にも効き目があるといわれていた。元々糺の森は水の豊富な地で、御手洗池では懇々と水が湧き出し御手洗川に注いでいたが、多分高野川の改修工事が行なわれたのではなろうか、それ以降糺の森の水位が低下したと推定されており、普段御手洗川の流れはわずかですがこの日(実際には4日間くらい)だけは水は豊富に流れて、京都の七不思議の一つとされています。
楼門を潜り、靴を脱ぎ備え付けのビニール袋に靴をいれ、お灯明料200円を払いローソクをもらいます。そのローソクに火を灯し御手洗川を奥へ進みます。灯明台にロウソクを立て、お祈りをすませて、水から上がるとご神水を頂ます。
矢取神事
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大国祭秋祭り
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11. 矢取神事 8月7日
矢取神事は夏越祓神事の一つです。境内の御手洗池に斉竹いみだけが立てられていて、御手洗池の中央に50本の斉串が立てられます。 矢取神事は。白装束になった氏子が、御手洗池の中央に立てられた斉串を取り合います。 この斉串を手に入れれば、厄払や長寿などの後利益がいただけます。
18時30分頃、本殿で神事が終わると19時頃に御手洗池で神事が行なわれ、井上社の前で神職が御手洗池と斉串のお祓いをおこないます。 合図と共に御手洗池の左右で待機していた白装束の氏子が一斉に斉串を取り合いまっす。 矢取神事が終了すると氏子は斉串を持って退場します。 その後、松明を先頭に神職が楼門の前の茅の輪を潜って退場します。
この神事は、下鴨神社の祭神玉依媛命が川遊びをしていると一本の矢が流れ着き、これを持ち帰ったところ懐妊し、賀茂別雷神を生んだと言う故事にちなみ矢取神事と呼ばれている。
12.名月管弦祭
昭和38年から一般に公開された管弦祭は。平安時代以来の伝統を持っている。 ススキの穂を飾り、かがり火が焚かれた舞台で荘重な雅楽に乗って舞楽が演じられる。 祭典は午後5時30分頃から橋殿でおこなはれる。 神事の後、古式ゆたかな舞楽や十二単ひとえの平安貴族の王朝舞など二時間に渡って奉納される。
13.大国祭秋祭り 10月9日
大国様は出雲神話の「因幡の白兎」の話で有名な神様ですが、この神様は数多くの名前を持っておられることでも知られています。 昔の人々は、神さんのお力を四つ(四魂)に分けて考え、勇猛な魂の働きを荒魂、柔軟な魂の働きを和魂、不思議な働きをする魂を奇魂、幸福をもたらす働きをする魂を幸魂と称しました。 それゆえ一人の人格の神様でも四魂の別によって名前を異にするする場合もあります。 下鴨神
社の言社と呼ばれる7つのお社は大物主神と称する場合は和魂の現れ、八千矛神と称する場合は荒魂の現われとなるそれぞれ異なった名前の大国様をおまつりしています。 それぞれの神様は干支えとの守り神としても有名で下鴨神社の干支詣りとして古来から信仰を集めていました。 10月9日の大国秋祭りは豊かな秋の実りを感謝する年に一度のお祭りで、模擬点や福引、舞楽の奉納など境内は終日多くの参拝者で賑わう。
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