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                              京都・朱雀錦
(18)世界遺産・東寺


東寺・五重塔(国宝)

  1.平安遷都と東寺

 東寺とうは、京都市南区九条町にある、空海(弘法大師)ゆかりの寺院で、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。東寺の正式名は、教王護国寺きょうおうごこくじ、詳名は金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と言います。
 延暦13794)年桓武天皇が平城京(奈良)から平安京(京都)都を移してから2年後の延暦15796)年、藤原伊勢人を東西両寺の造寺長官に任命し、建築工事に入った。
 桓武天皇が都を京都に移した理由は、(1)既存の寺院や貴族勢力からの旧(2)早良親王の怨霊おんりょうからの回避と考えられている。
 第48代称徳天皇が無くなると、後継者途絶えた、たまたま38代天智天皇(在位668671年)の孫が高齢ながら生存していた、これが桓武天皇の父光仁天皇(770781年)である。 天智天皇退官後一世紀を経過し、天皇の権力に対し、貴族勢力の勢力が強かったもようである。 
 桓武天皇は、既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置き、十分に政治力が発揮出来るよう、延暦3(784)年平城京から長岡京に遷都した。 しかし、この遷都は失敗し、遷都10年後の延暦13794)年、一先ず、平城京に撤退しています
 その一つの原因は、都市計画の失敗が指摘され、交通の要であった川の氾濫が頻繁であったこと。他の一つは、桓武天皇の側近中の側近で長岡京造都の最高責任者藤原種継が暗殺される「藤原種継暗殺事件」が遷都の翌年である延歴4(785)年に発生したことである。 実行犯や共犯者は捕らえられ死罪となり、その背後にいたとされた大伴家持一族は、家持は既に死亡しているのにもかかわらず、官位を剥奪し、その子等は流罪にした。 また、大伴家持家に関係する、桓武天皇の実弟で皇太子の早良さわら親王も嫌疑がかけられ皇太子を剥奪、流罪になり、淡路に流される途中、無罪を訴え、憤死した。 
 早良親王死後、災害や疫病、皇后や皇太子(平城天皇)の発病など、早良親王の怨霊を原因とすると占われた数々の不幸がおそった。
 桓武天皇は、都市計画の失敗と早良親王の怨霊に恐れをなし、遷都わづか10年で長岡京を棄てたその原因は以上の2つと推定されている。
 長岡京は都の中心部に大内裏置いたため、上流の都市排水の流入や河川の氾濫による洪水被害を受けた可能性がある。 平安京は、平城京と同じく中国唐の都長安城に倣い、都の最上流に大内裏を置いた。 ただし、長安城の規模が東西9.7km、南北8kmであるのに対し平安京は東西4.5km、南北5.2km(平城京は東西6.3km南北4.7km)と長安城の約4分の一の規模である。 都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街中心に朱雀大路を通し、都の正門羅生門につながる。 羅生門を中心にしてその東西に左京と右京を安んずる左大寺・東寺と右大寺・西寺の国家鎮護の官寺が計画された、これは早良親王の怨霊等邪気侵入防止の願いも込められていたものと思われる。

            2.弘法大師空海
(1)修行
 空海は、奈良時代の終わりに近い宝亀(774)年6月15日、讃岐国多度郡屏風浦に生まれ、幼名を真魚まなと呼ばれた。父は多度郡司を勤める佐伯直田公あたいたぎみ、母は学問の家系阿刀あと家娘玉寄たまよりである。香川県善通寺市の善通寺は空海の生まれた佐伯屋敷跡に建つと言う。
 空海は三男であったが、二人の兄が次々と死に、空海が郡司を継ぐ身となった。空海は、15歳で、父の命により都で伊豫親王の侍講じこう(君主に学問を講義する)を勤める叔父阿刀大足あとおおたりから儒教を学ぶため、郷里を去り新しい都長岡京にでた。 

 叔父のもとで学びながら、国で唯一つの高等学問所の大学が長岡京に来るのをまって入学したのが18歳と時であった。しかし、この大学は空海を満足させるものではなかったようである。 やがて大学を欠席し奈良の寺々を巡るようになる。
 
この頃の寺院は仏典の研究が主で、空海の関心に答えるものではなかった。 空海が仏教に入門するのを諦めようとした時、勤操ごんそうと言う僧に出会った。 東大寺で経典の研究をするのは他の僧と変わらなかったが、山を道場として厳しく修行する一面を備えていた、特に空海を引き付けたは、密教瞑想であった。 大安寺の勤操を師として葛城山から吉野、大峰山、さらに熊野三山等山岳修行をするようになると空海は19歳で大学を去った(官職を放棄)。 
 このように貴重な宗教体験を積んだ空海は、延歴16797)年に「三教指帰さんごうしいき」を著わして、仏門に入る決意を表明した。三教とは、儒教・道教・仏教の三つの教えを言い、空海はこの中で儒教おりも道教が、道教よりも仏教が優れているとのべている。これは、空海の出家宣言であった。空海が三教指帰を著わしてから延暦23804)年空海の伝記の空白時代といわれている。空海が得度とくど(国が認めた僧)して正式にしたのは延暦22803)年4月7日、30歳の時であった。ついで翌延暦23年4月9日東大寺戒壇院において具足戒ぐそくかい(僧の守るべき戒律)を受け空海と称した。

(2)唐留学
 その直後、延暦23804)年5月12日、31歳の空海は留学生として、藤原葛野麿かどのまを大使とする遣唐使の第一船で難波から唐に向った。また、九州からその第二船が伝教大使最澄が乗り込み出発した。
 空海は、山岳修行を重ねるにつれ、密教の教えと修法の全体を学びたい強く望んでいた。そんな頃の山には、砂鉄や銅、水銀といった鉱物資源の採取と精錬に取組む大陸からの技術者が以外に多くいた。 空海は修行の合間にそうした人の交流し、唐での密教等の様子を聞き出すと同時に中国語の会話力を身につけた。
 唐の都長安に入った空海は、当時の日本留学僧の溜まり場であった、西明寺に入った。そこを拠点として空海はまず近くの醴泉寺れいせんじに滞在していたインド僧の般若三蔵を訪ね密教を学ぶための基本知識とも言うべきサンスクリットの教えを受けた。この般若三蔵は必ずしも密教の専門ではなかったが、仏教の母国インドから多くの経典(サンスクリット)を携えていたため、多くの情報を得たようである。
 空海が、当時の中国密教の最高峰であった青龍寺せいりゅうの恵果けいか和尚の門をたたいたのは貞元21805)年6月初旬であった。 恵果は非常に喜び次の様に申した。
「私は以前からそなたが(密教を求めて)ここに来るだろうと思い、長い間心待ちにしていた。 今日やっと会え、大変結構です。私の寿命はすでに尽きようとしているが、私の教えを継承するに値するものがなかなか見当たらなかった。(貴方は教えを受けるのにふさわしい器であるから)すみやかに準備を整えて教えを伝える灌頂の儀にかならず入るようにしなさい」。 
 空海が受けた概要はいかの通りです。
       6月上旬 胎蔵法の結縁灌頂(入門の儀式) 胎蔵法伝授
       7月上旬 金剛界法の結縁灌頂 金剛法伝授
       8月上旬 両法の伝法灌頂(免許皆伝相当儀式) 謝礼の五百僧斉
恵果は、密教を託した弟子空海に次の様に述べた。
 「今私のこの世における寿命は既に尽きようとしており、これ以上長く生きることは出来ない。 あなたは、この両部の大曼荼羅、百部を越える金剛のごとく堅固な密教の教え及び密教の祖師方が順に伝えてきた、品々、並びに供養の道具などを本国に持ち帰って、国中に流行させてください。 ……。」
 密教は、歴史的に、初期密教、中期密教、後期密教に三分類して考えられている。 
 (1) 初期密教 呪文や呪術を使って現世利益を求める(仏教ではない)。
 (2) 中期密教 日本に伝わった密教。
 (3) 後期密教 チベットに伝わった密教
 中期密教は7世紀後半北東インドベンガル地方のパーラ朝で大乗仏教の発展形として「大日経」「金剛頂経」が成立、ここに密教が起こった。 金剛頂経はインド僧金剛智三蔵とその弟子不空三蔵により719年インドから中国にもたらされた。 大日経は、インド僧善無畏三蔵により725年インドから中国にもたらされた。 
 真言密教を伝えた系譜には「付法ふほうの八祖はっそ」「伝持の八祖」の二つの系譜があり、前者は大日如来(一祖)→金剛薩埵(二祖)→龍猛菩薩(三祖)→龍智菩薩(四祖)→金剛智三蔵(五祖)→不空三蔵(六祖)→恵果阿闍梨(七祖)→弘法大師(八祖)後者は龍猛菩薩(一祖)→龍智菩薩(二祖)→金剛智三蔵(三祖)→不空三蔵(四祖)→善無畏三蔵(五祖)→一行禅師(六祖)→恵果阿闍梨(七祖)→弘法大師(八祖)である。
 中期密教は、インドで誕生し中国に伝わり日本で完成したと言う。 完成させたのは空海であった。 誕生地インドでは5世紀から11世紀頃にかけ仏教の弾圧があり、インドから仏教徒は一掃された。また、中国では、恵果無きあと、儒教と道教に圧倒され消滅していった。

(3)帰国後の空海
 空海は、師恵果の葬儀をすませ、大同元(806)年10月唐から博多湾に帰着するが、入京の許可が下りず、大宰府観世音寺に長く足止めされてしまう。実は空海の留学期間は20年だったが、早く日本に正統密教を伝えたい宗教的情熱から2年で帰国してきた。こうした期間の短縮は死刑に相当する「闕期けつごの罰」(軍隊の脱走罪相当)に問われかねない立場にあっった。しかし、空海が唐で学んだ、金胎両部の体系的な真言密教と請来した豊富な密教資料は罪科を打ち消すほどのものであった。 叔父の阿刀大足にとりなしを頼もうにも、つき従っていた伊豫親王が謀反の罪を問われて自害したため、その力はなかった。 やむなく唐から請来した四百余点に及ぶ品々の目録「御請来目録」を都へ届け入京許可をまった。 
 最澄のとりなしもあり、ようやく入京許可が下りたのは、空海36歳の大同4年で、しかも許された定住地は平安京から遠い高雄山寺(神護寺じんごじ)だった。
 空海の生涯で最も陰りの濃い時期です。密教を広げるにも、一足先に唐から帰った最澄が、この寺で、密教灌頂を行なっていた。 また諸宗派高僧の集う場所で、空海が唱える「即身成仏そくしんじょうぶつ」の教えは煩悩の巣くうからだをそのまま肯定すると集中砲火をあびる。 
 しかし、空海は唐から持ち帰った経典や注釈書を書写しながら「大日経」と「金剛頂経」を根本経典とした教義を整え、密教と顕教けんぎょう(一般仏教)の違いをはっきりさせた「弁顕密二教論べんけんみつにきょうろん」を著し、真言教団の原型を作りながら、弟子の集るのを待った。 この状態は高野山道場に着手する弘仁7(816)年まで7年間続く。この間、空海は弟子に向って大日如来の子らしく仏法を守り、大衆に利益を与えよと告げた。
 平安仏教を二分する空海と最澄の両頭は、奇しくも同じ第17次遣唐使団に加わって唐へ渡った。 しかし、乗り込む船が違い、着地の浜もずれていたから、二人が顔を合わすことはなかった。 しかし、最澄から空海に唐から持ち帰った経典の借用の申し入れがしばしばあつたが、空海39歳、最澄が46歳の時、最澄が弟子の礼をとり、空海から密教の灌頂を受けることとなった。 二人は密教のよき同志になるかとおもられたが、それを妨げる出来事が発生した。 同じく灌頂を受けた最澄の弟子泰範たいはんが比叡山を総括する重い役にありながら、比叡山に帰らず、空海の弟子になってしまい、それ以来両者は反目することになった。
 高雄山寺在住の頃、若い嵯峨天皇の所望で宋の文人劉義慶りゅうぎけが撰した「世話新語」の文章を書いた屏風を届け非常に喜ばれた。 これは同じ留学生の橘逸勢たちばなのはやなりが嵯峨天皇の妃嘉智子のいとこだったことから私的に行なわれたが、これをきっかけに空海と嵯峨天皇との交流が始まった。 空海は当時では外国帰りの芸術家で、高い文化を楽しみたい貴族から歓迎された。 始めは文化交流であった。 
 しかし、当時の貴族は仏教に見識をもつのも素養の一つだったから、空海を前にすると密教が話題になった。 こうした中で、空海は、唐朝の宮中内道場での例を挙げ、鎮護国家のため密教修法を高雄山寺で行なわんことを熱心に訴えている。 嵯峨天皇は、空海が主張する考えに理解を示し、この異能な密教僧に東寺の造営と経営を任せ、官寺である東寺を鎮護国家の修法を行なう真言密教の道場とすることを決断した。
 自然環境に恵まれた高野山が人材を育てる道場ならば、社会環境に恵まれた東寺は教えを広げる道場であった。 高野山は山中とは思えぬ広い平地は心の集中が出来最も安らぎを得やすいと「大日経」が説く場所と一致することから、空海は真言密教の道場用地として朝廷に申請し弘仁7(816)年嵯峨天皇から許可を賜った。


                        南大門(重要文化財)

                        3.東寺の歴史
(1)空海の東寺造営
 東寺が空海に任された弘仁14823)年、朝廷は東寺に50人定員の僧を常任させ、しかも全て真言僧とするよう命令する。 従来の南都の寺院では六宗兼学と言うように諸宗の僧が共に住むのが原則であった、東寺は雑任を禁じ、純粋な真言密教の寺院とすると言う画期的な措置が行なわれた。 翌年天長元(824)年、空海は造東寺別当となった。 平城京(奈良)から平安京(京都)都を移してから2年後の延暦15796)年、藤原伊勢人が東西両寺の造寺長官に任命され、建築工事が開始されたが、金堂完成後工事は中止状態であった。 空海は翌年天長2(825)年講堂の建設に着手する。 講堂内には中央に大日如来を中心とする五智如来、その向って右に金剛波羅密多菩薩を中心とする五大菩薩、左に不動明王を中心とする五大明王など合計21体の密教像を整然と安置した立体曼荼羅が形成される。この立体曼荼羅は真言宗の根本経典である「金剛頂経」と鎮護国家のための経典である「仁王経」などに基づいた空海独自の思想を表したものと言われる。 空海は、講堂着工の翌天長3(826)年には更に五重塔建立に着手した。
 空海は寺院の造営を飛躍的に進展させたが、在世中に諸堂は完成しなかった。最初に手掛けた講堂は在任中におおむね完成するが、講堂内諸仏の開眼供養は承和6(839)年6月15日空海入寂4年後に行なわれた。 
 金堂の前(南側)に東塔と相対して西塔の建立が予定されていたが、空海はその西塔の位置に真言密教にとって最も重要な灌頂院の建設を意図していたが、在世中にはできなかった。 その完成の年月は明らかではないが、承和10843)年灌頂院で最初の灌頂が行なわれた。同時期講堂の北側に食堂も建設され、そこで8代東寺長者聖宝が丈六の先手観音四天王像を安置することになる。そして着工から実に50年ほど経た元慶年間(877884)五重塔がようやく完成しここに、東寺の主要な堂宇が整った。
 空海の願いは東寺の真言密教の道場建設ばかりではなかった。かねてから唐の宮中で行われているような密教の修法を宮中で行うことを願っていた。承和元(834)年正月、空海は勅命により宮中で息災増益の修法を行なった。そして同年11月、朝廷に「宮中真言院の正月の御修法みしほの奉上」を提出し、宮中に真言院を設けて神事が毎年正月の一日から七日までの前七日ぜんしちにちに行われるのに続いて、八日から十四日の後7日ごしちにちに宮中で行なわれる御斉会ごさいえの期間、密教修法を行うことを求め、認められる。
 かくして承和2(835)年正月、新に設けた宮中真言院で、」玉体安穏、五穀豊穣、万民豊楽を祈る修法を行う。 これがいまも東寺で行なわれている御7日御修法みしほの始まりである。 この宮中における御7日御修法みしほを成し遂げた、同年3月21日空海は高野山で入寂する。

(2)東寺、西寺の衰退と宣揚門院
 延喜9(909)年聖宝が没するとその弟子観覧が九代東寺長者になった。このころ真言宗の大寺院として空海在世の時開かれた東寺、高野山金剛峰寺、神護寺などに続いて醍醐寺、大覚寺、仁和寺、勧修寺、などが次々と建立され全盛期を迎えていた。こうした中で、空海入寂から70年以上過ぎて、真言宗の宗祖に対する追慕の念はいよいよ強くなり観覧が長者になった翌年3月21日灌頂院で空海の御影に報恩の意を表し遺徳をしのぶ御影供みえくを営む。 これが今日毎年4月21日に東寺灌頂院で行われている正御影供の始まりである。
 観覧が空海の御影供を東寺灌頂院で営んだことは、幾多の大寺院がひしめく真言宗において、東寺が中心であることを示そうとしたと言える。 観覧は東寺全盛の時代を築いた。
 しかし、全盛期は長くは続かなかった。平安中期以降、中央集権的な律令制が衰え、諸国には次々と荘園が形成され、荘園制へ移行していった。原道長の法成寺や白河天皇の法勝寺など、身族や皇室の御願寺の造営が盛んで、しかも皇室や貴族と深い関わりを持つ仁和寺や延暦寺などは荘園が次々と寄進され隆盛を保ち続けるのに対し、律令国家の官寺として建てられた東寺、西寺は衰退を余儀なくされる。
 天喜3(1055)年東寺の五重塔が落雷によって焼失し、再建しようにも東寺にはその資力がなかった。ようやく村上源氏の右大臣源顕房の発願によって承暦4(1080)年着工、応徳3(1086)年に再建された。
 東寺を中世寺院として甦らせたなは、後白河法皇の第6皇女宣揚門院せんようもんいんであった。 宣揚門院は法皇の寵妾丹後局を母として生まれ両親の寵愛を一身に受けて、建久3(1192)年12歳の時法皇の死に際し膨大な長講堂領荘園を譲り受ける。 熱心な弘法大師の信者であった宣揚門院は、行遍から伝法灌頂を受けており、東寺の復興に力を尽くすことになる。
 生活の上では何一つ不自由のない女院が元久2(1205)年24歳の若さで突然御剃髪され、建長4年(125272歳でなくなるまで仏教、特に真言宗に帰依された。
 女院は、延応2(1240)年3月21日、不動堂に安置されていた弘法大師像が不動堂の北西、現在の御影堂に移され、そこにおいて御影供が営まれた。 これが御影堂の創建であり、いまも毎月21日に「弘法さん」として多くの信者が参拝に訪れる御影供の始まりであった。 宣揚門院は、寛元(1243)の霊夢によって弘法大師に生前同様に食事などの給仕をする生身供しょうじんくが始まった。 これらの法会や寺院運営のために、宣揚門院は、次々と荘園を寄進していたのである。 ここに東寺は荘園経営によって経済的な基盤を固め、さまざまな法会の充実によって弘法大師進行の場として広く信仰を集める中世寺院として再生をはたすことになる。
 東西両寺のうち西寺な廃絶して今はない。 記録によれば正暦元(990)年に伽藍がほぼ全焼した後、天福元(1233)年にも消失し、荒廃していった。 
 それにしても東西両寺の寺運はどこからきたのか、一口に言えば、空海に下賜された東寺に対し西寺は官大寺まま推移したことにある。 官寺であることは必要経費を官庫で賄うことになるが、その国家財政は9世紀後半になると破綻を見せ始める。 元慶がんぎょう3(879)年紀内5ヶ国に4千町歩の官田を設け、それからの収入を中央財源に当てるとした、之を「元慶官田」と称した。 そもそも中央財源は地方国衙こくがから運京された租税で成り立っていた。 国衙の財源はこれを三分し、正税稲しょうぜいとう(主に中央財源)、公廨稲くがとう(国衙官人の給与)及び雑稲ぞうとう(官舎や国分寺諸経費)と称しそれぞれ運用されていたが、九世紀末には、地方財政の破綻を承知で「正税為本、雑稲枝葉(正税の確保が大事で、雑稲は後回しでよい)」の方針を打ち出した。 この結果多くの国分寺や国家的保証を受けていた官寺は廃絶した。

(3)後醍醐天皇と足利尊氏
 宣揚門院の東寺復興事業を受け継いで発展させたのは御宇多法皇とその子後醍醐天皇であった。法皇が力を入れたのは、修学僧を充実させ長らく中絶していた伝法会を再興して、密教教学の振興を図るとともに寺僧組織を整備し、平安時代以来の鎮護国家の寺院として東寺を復活させた。後醍醐天皇は鎌倉幕府討幕を計画したが元弘の変でやぶれ、隠岐島に流罪となった。 しかし、足利尊氏と新田義貞が挙兵し鎌倉を陥落し北条氏は滅亡した。 元弘3(1333)年隠岐から京都に帰った後醍醐天皇はまず東寺に入り弘法大師の加護に官舎した。
 しかし、建武新政は短期間で崩壊した。 建武3(1336)年6月14日光厳上皇を奉じて東寺に入った。 翌15日に「天下泰平、家門繁栄」を祈って、楠木正成跡河内国新開庄を寄進した。 東寺を本陣とした尊氏軍は市内各地で壮烈な市街戦が繰り広げられたが、義貞は破れ、ここに足利幕府が誕生した。 本陣となった東寺は尊氏にとって「武運開佳」の地となったのである。 翌7月1日山城国久世上下地頭職を鎮守八幡宮に寄進し「天下泰平、国家安寧」をいのらせた。

                      4.東寺の建造物
(1)南大門 (重文)
 東寺の伽藍正門で、南にめんし、これから北へ一直線に金堂、講堂、観音堂(食堂)と並んでいる。 この三伽藍は実は仏・法・僧に値する。 仏法僧とは三宝といい、仏教で大切な三つの宝を表す。 即ち、金堂で仏に出会い、講堂で法に出会い、食堂で僧に出会うこということである。現在の南大門は三間一戸の壮大な八脚門であるが、創建当時は五間に二間の二階のものであったらしい。 それが炎上復興を繰返して最後に明治元(1868)年に焼失、その後、京都東山蓮華王院(三十三間堂)の西門を移築したのがこの門である。
 造営年代は慶長6年桃山様式の傑作である。 桃山時代だけに一つの様式にこだわらない、自由大胆に意匠された優秀大作である。 正面の雄大さもさることながら側面をみる柱頭をつなぐ頭貫かしらぬきとの間には内部彫刻の活気に満ちた蟇股かえるまた、その上の組み物、さらに大小の虹梁こうりょう(やや弓形に反った梁)や大瓶束たいへいずか(短円柱の束)で壁面を構成し、大小いくつものき鼻が立体感をふかめている。 桃山様式の特徴をもった傑作です。


         蓮華門(国宝)

      東大門(重要文化財)

1-1 蓮華門 (国宝)
 東寺の外郭は築地塀で囲まれるが、主な門は南に最大の南門、東には慶賀門と東大門、北に北大門、そして西には蓮華門が開かれる。 これらは形式から言うと八脚門に属するが南大門は特大で桃山時代、その他はおおよそ似たような大きさで細部も類似し、中世の建築である。 その中で蓮華門は最古最優の国宝である。 造営については建久年間(119098)。 構造形式は三間一戸の八脚門、即ち正背面の柱間が三つで戸口が一つの一重の門である。
 蓮華門は、本瓦葺切妻造であるが、特に両側側面の構造において他の門と共に古様をよく伝えている。 即ち二重虹梁蟇股式という型で、上に反った梁を二重に重ね、その間に厚い板を削った板蟇股を用いた構造でこれは奈良からの伝統である。 
 門の内部も組入れ天井が作ってあり、これも古式であるが、上に板を張ってなく、東大寺の転害門と同様である。
 この蓮華門と言う名前の由来についてであるg、弘法大師空海が死期をさとり、高野山に隠棲するためにこの門から出ようとしたとき、不動明王が空海を見送るために現れ、涙を流して別れを惜しんだそうです。その時、不思議なことに空海の足元にハス(蓮華)の花が咲いたと言われています。このようなことがあって以来、この門は「蓮華門」と呼ばれています。
1―2 東大門 (重要文化財)「不開門あけずのもん
 東大門は固く閉ざされていて、「不開門あけずのもん」と呼ばれています。延元元年(13366月、足利尊氏の同母弟である足利直義 ただよしが率いる軍勢は、比叡山にいる後醍醐天皇軍を攻めましたが、天皇方の反撃により大打撃を受け、その知らせを受けた尊氏は直義にいったん東寺まで退却するように命じ、尊氏自身も東寺に陣を構えました。
 天皇方の新田義貞にった よしさだらの軍勢は東寺へ攻め入り、その攻撃は激しく、足利軍の兵は東大門から東寺の境内へ逃げ込んでいきました。そして、兵がすべて境内に入ったところで、すぐさま東大門は閉じられたのです。
 この戦いの後、この扉は閉じたままになり、不開門といわれました。それでは一度も開かれたなかったのか?、実は一度だけ開いたことがあるようなのです。記録によると応永30年(142359日に、今で言えばゲリラ豪雨のような大雨が降り、突風が吹き、その風のせいで不開門のかんぬきが折れてしまい、扉が開いたそうです。

 
       慶賀門(重要文化財)
 
        慶賀門の懸魚

1-3 慶賀門けいがもん (重要文化財)
大宮通に面する東側には、東大門よりきたにもう一つ門があります。鎌倉時代前期建立の、切妻造、本瓦葺、三間一戸の八脚門の慶賀もんです。境内の北東角にあり、京都駅に近く、現在では参詣者入口のメインゲートの様になっています。
 慶賀門には珍しい懸魚げぎょがかけられています。懸魚は屋根の切妻、すなわち三角形の頂点にある装飾です。三角形の上が頭、くるっと巻いた渦の先が尾です。木造建築では火災が多く、火事を最も恐れ。火災防止のまじないを兼ねた屋根飾りです。最初の懸魚に近い物を現在も中国の少数民族が使用しています。古いものほど細長く。時代が経つと、短く、丸くなります。慶賀門の懸魚は数少ない珍しいものです。

1-4 北大門 (重要文化財)
北大門は寺の周囲を囲む土塀の北側にあり、南大門、金堂、講堂、食堂の南北直線の延長線上にある。鎌倉時代前期再建、慶長6年(1601)修補、切妻造、本瓦葺、三間一戸の八脚門・

 
     北大門(重要文化財))
 
      北総門(重要文化財)

1-5 北総門 (重要文化財)
 北大門から北総門までの参道は櫛笥小路くしげこうじといい、平安時代以来のそのままの幅で残っている京都市内ただ一つの小路です。この道の東側には宝菩提院、観智院などの東寺の塔頭たっちゅうが並び、西側には洛南高校があります。


      五重塔(重要文化財))
 
         五重塔内部

(2)五重塔 (国宝)
 東寺と言うよりは京都のシンボルとなっている塔である。 創建は天長3(826)年、空海によって始められたが、完成したのは、そして着工から実に50年ほど経た元慶年間(877884)であった。 その後何回と無く焼失復興を繰返し現在の塔は五代目寛永181641)年着工、同211644)年入仏されたものである。 総高約55m、各重方三間、壇上積(石材を組んだ本格的基壇)の上に建ち、縁はなく、軒まわりに当時の一般様式である装飾的技巧を凝らさず、よく創建当時の古式を現在につたえている。
 遠くから全体を仰ぎみると堂々とそびえていて、幅もあり、上層への落ち(上へと小さくなっていく割合)も大きく、古寺の巨塔としての貫禄を備えている。
 軒は各重三手先みてさき(柱から前に三段に出る組方)の和様斗栱ときょう(斗ますと肘木との組合せたもの)、二重以上高欄付きなどは型通りである。 
 初重内部の中心に方形の芯柱が通り、前の金剛界四仏その他の菩薩を安置する。 柱、天井周りなどは一面極彩色が施され、四天柱は円分内に金胎こんだい両部諸尊、側柱に八大竜王、四方腰長押上の板壁には真言八祖像をその他長押や天井板などには草花文や幾何学文が描かれて美しく荘厳である。須弥壇は高欄とともに黒漆塗の上に金具が装われている。 


        金堂(国宝)
 
     木像薬師三尊(重要文化財)

(3)金堂 (国宝)
 南大門の北に金堂、講堂、観音堂(食堂)と一直線に大伽藍が並ぶが、なかでも雄大な建築物が金堂である。 平面は五間三間に裳階きこしが廻っているので外観は七件五間、二重屋根である。 その創建は延暦15796)年であるが、永仁3(1295)年、文明171485)年に炎上し、近世になって豊臣秀頼が慶長111606)年復興した。 
 現金堂は一重裳階付とは言うものの、京都でも有数の大仏殿で同時に名建築
である。正面は桁行きが大きいだけに二重の屋根はのびのびとし、下の屋根は正面中央を一段切り上げている、これは奈良時代からの伝統を受け継ぐもので、京都では平等院鳳凰堂などに見られる。 こうすることによって長大な軒に変化をつけ、上の扉を開けば本尊の顔が明るく拝されると言う効果をもっている。正面七間の柱間は三ヶ所に扉を付けるが、それが、窓・扉・窓・扉・窓・扉お交互になっているのも珍しく、扉の前には石段が設けている。 
 日本建築は軒が深いのが特徴であるが、そこには複雑な木組みがある。斗栱ときょう・組物・枡組などと呼ばれるもので、当金堂の場合、それが上下の軒で違っている。下の方は挿肘木さしひじき(柱に差込んだ肘木)を用いた三手先である。この挿肘木を用いる斗栱は大仏様または天竺様と言い鎌倉初期に奈良の大仏殿が再建される時、重源上人等によって南中国の様式が移入されたものである。これに対し、上の軒は奈良時代以来の古い様式である和洋の四手先斗栱をくんでいる。東寺は歴史が古いだけに各建築にも奈良時代以来の伝統を残しているのが多い。この金堂でも外周りに縁がなく内部も石敷で一般の密教堂と違って内外陣を格子戸などで厳重に区切ることもない。だから平面的には奈良建築である。ただ桃山時代の復古建築であるために、細部様式には各種が混意されて当時の気風をしめしている。しかも各様式が無理なく巧みにまとめたところにもこの堂の優秀性があらわれている。
 内部は林立する壮大な柱で、内陣の五間三間とまわり一間通りの裳階とをわけている。外陣は天井から屋根勾配なりになった化粧屋根裏で横に太い螺虹梁を架け、その上に四斗樽ほどの大瓶束を置く。しかし、内陣の天井まわりは雄大豪壮で、一面に細かく組んだ組入天井から前後に渡した大虹梁とともにく仰がれ広々とした空間を作っている。 
 本尊薬師如来その他仏像は土壇の外側に木造の須弥壇を築き高欄を付け、親柱には時代をよく表した擬宝珠をもちいている。 

 
      講堂(重要文化財))
 
       五大菩薩像(国宝)

(4)講堂 (重文)
 金堂の北にある一重の低平な建築で、天長2(825)年鎮護国家の道場として空海により着工承和2(835)年完成した。現在は白壁のところが多いが、当初は正面中央五間が戸口、その両脇が連子窓、両端の間が壁という姿であった。しかし、この堂も文明181486)年土揆のために炎上した。その後復興したが文禄5(1596)年7月の地震で大破、慶長3(1598)年北政所が復元修理をしたのが現在のものである。ところが、昭和26年から3年間の解体修理の結果、現講堂は天長創建時の旧礎石の上に室町末再建されたもので、文禄の地震後、慶長には旧材を可及的再用、また部分補修などをしていたことが明らかとなった。
 この講堂は、九間四間、正面中央三間戸口、その両脇壁という仏堂で、側背面も通じて壁面が多いが創建当初は窓も多かった。和様系の建築で隅柱が少し伸びていたり軒まわりの様式が古風を示したり、側面の破風(屋根の三角部分)が小さかったりするのは中世建設の特徴である。 堂内に入ると内陣には長い須弥壇が築かれ21体の密教仏像が安置されている。 背面には一部創建当時の姿ものこされている。床は四半敷しはんじきでまわり一間通りが外陣、天井は内陣が折上格おりあげこうし天井、外陣は棹縁天井で、古調な蟇股で天井を受ける。 

 
          食堂
 
       灌頂堂(重要文化財)

(5)食道(観音堂)
 講堂の北側に建つ。初代の食堂は空海没後の9世紀から10世紀初め頃にかけて完成した。文禄5(1596)年の地震で崩壊。 寛政21800)年再建されるも昭和5(1930)年に火災で焼失し、現在の建物は昭和9(1934)年完成したものである。
 食堂じきどうは読んで字の如く食事をするところだが、必要な知識を取込むことを「食しょく」とも言う。 いい音楽を聴いたら耳の食事、美しい絵を見たら目の食事言う。 食堂で一つの目標を持った者たちが互いに切磋琢磨して自分を磨き、安らかな思いやりのある世界を築くためいわば運命を共に生活する「運命共同体」を形成する。 その世界を「僧伽そうぎゃ」と呼び、この「僧伽」を略して「僧」と表し、即ち食堂で「僧」にあうことになる。
 896年理源大師聖宝により6mの千手観音(現在宝物館に安置)と四天王像を造立。 千手堂又は観音堂とも呼ばれる。 足利尊氏もここに居住した。

 
    灌頂院北門(重要文化財)
 
     灌頂院東門(重要文化財)

(6)灌頂院 (重文)
 伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法ごしちにちのみしほなどの儀式をおこなうための堂。 空海没後、実恵が意思を受け継ぎ承和10843)年完成した。 その後5度目の修造がなされ徳川三代将軍家光公が弘法大師八百年御遠忌の寛永111634)年再建したものである。 
 平面は桁行七間,梁間七間、寄棟造、本瓦葺であるが、その中で礼堂は七間二間、正堂は五間二間の母屋(主要な柱に囲まれた家屋の中心部)に四方廂そう(母屋の外側に付設拡充された空間とそれを覆う屋根)がまわった形で、外回りから言えば、七間四間で桁行は」礼堂と同じである。 この両堂の間に七間一間の「相の間」が付く。 このような堂は昔は別棟が並び両方の軒が相間の上で接していたが、雨仕舞や構造上などの関係から後には前後両堂にわたる大きな屋根を架けた。
6-1 灌頂院北門 (重文)
 灌頂院は古代の伝統を伝えながらも江戸初期の建築であるが、その外周り築地塀には北及び東に鎌倉時代の優れた四脚門よつあしもんが開かれている。 なかでも北門は平安・鎌倉時代の絵巻物などに見られる門そのままの古風をもっている。 
 北門は本柱(扉筋の円柱)上に短い女梁を前後に架け、その上に男梁を重ねその間に本柱をつなぐ冠木かぶきを挟み、男梁上には板蟇股を置くが本柱はその中程まで伸びて蟇股を噛んでいる。 この形式は古い絵巻物には多く描かれている。 扉は枠組みに板を張った板扉であり、破風には古い梅鉢懸魚が下がっている。屋根は本瓦葺である。年代は建久か建長年間の頃だろう。6-2 灌頂院東門 (重文)
 東門も四脚門である。 細部も共通したところが多いが、北門よりやや大きく、また柱頭には頭貫をまわし斗を置いて桁をうける。 そのため本柱は蟇股を噛まず、妻飾つまかざりは虹梁蟇股となっている。 垂木も細かく配置した繁垂木となり正背面中央には閻斗束けんとづか(斗栱と斗栱の間に設けた)をいれる。 このように東門の方が一般に見る四脚門の形に近い。 

 
      大師堂北側正面(国宝)
 
     大師堂南側後面(国宝)

 (7)大師堂 (国宝)
 東寺の伽藍の西北に門と塀で囲まれた西院の一部があり、その中に、不動明王と弘法大師尊像とを安置する大師堂(西院御影堂みえいどう)があり、大師の住房と伝えられるきわめて洗練された住宅風の建築である。 創建は明らかでないが、現在の大師堂は康暦元(1379)年12月の火災で焼失した直後の翌2(1380)年に、まず南半分の不動堂(後堂うしろどう)が出来、その後10年を経て明徳元(1390)年に増築された。 大師堂の平面は七間八間、前堂、後堂、中門の各部からなり、屋根は入母屋造りの棟違いで、桧皮葺、実に低平穏和な姿の名建築である。 四方みな姿が異なり、西側は後堂の北廂の縋破風すがるはふうと差継がれた中門が見え、南側は不動堂の古い姿、北へ回れば前堂とこれに続く中門、その後には不動堂の棟が高く見え変化に富みながら巧みなまとまりを見せている。
 現在堂の平面は、五間二間の母屋に一間通りの廂がめぐりさらに北に孫廂のついた後堂に東側の柱に揃えて五間三間の前堂を北側に付け、中門を延ばして西側の柱列を揃えたやや複雑な形で、それが立面に影響している。 内部では後堂の東南が伝法院と呼ぶ三間三間の一室で、「」その西と北に不動尊と大師の御影像などを安置する宝が続いている。 内部では板扉のほか障子・襖・舞良戸まいうども使われるが、外回りは蔀・格子戸・板扉を用い特に蔀ほう(格子を組み間に板を挟んだ戸)を盛んに使っていて、低く落着いた軒は垂木も粗く配置した、軽快なつくりであり「住房」の伝える通りに寝殿造りの住宅そのままの表現である。

 
      宝蔵(重要文化財)
 
         大日堂

(8)宝蔵 (重文)
 平安後期建立の校倉造倉庫。 東寺で最古の建造物。 構造形式は、三間三間、寄棟造りで、奈良あたりの古い校倉と同型である。 床下は短い円柱でその上に台輪を渡し校木を蒸篭せいろの様段違に積上げて壁体を造る。 これが校倉の特徴で、校木は鋭角三角隅を削った形をなし隅で交互に組み、上方のを長くして軒桁を支える構造で正倉院宝庫などと同方式である。 戸口は南面一方だけで、二重の板扉を内側は内開き、外側は外開きに釣り込み、内部を拭板敷ぬぐいいたしきの床を張る。

)大日堂
 東寺の中で一番新しい御堂。江戸時代は御蔭道の礼拝所であったが、その後、桓武天皇、嵯峨天皇等の位牌を納める尊牌堂となり、更に大日如来を本堂としたことで大日堂となった。

(10)八幡宮
 明治元(1868)年に焼失後、1世紀以上経た平成4(1992)年再建された。 東寺の鎮守神である僧形八幡神像と女神像2体を安置する。

11)観智院 (国宝)
 塔頭寺院であるが別格本山となっている。 東寺に帰依された後宇多法皇発願で延文4(1359)年創建され、杲宝ごうほうを開基とする。 代々学僧が暮らし、最も格式の高い塔頭である。 膨大な聖教類を南都北嶺から集め、またそれらを書写した。 これらの聖教類は1万5千点以上にものぼり、重要文化財に指定されている。 
 客殿(国宝)は文禄5(1596)年地震で大きな被害をうけた。 慶長101605)年北政所(ねね)の寄進により再建された。 客殿は書院造の代表的な住宅建築で襖絵は宮本武蔵の筆と伝えられる。長者の庭、四方正面の庭、楓泉観、坪庭の四つの庭がある・。本尊は木造五大虚空菩薩像。

 
       観智院客殿(国宝)
 
   五大虚空菩薩像(重要文化財)

 
        長者の庭
 
        四方正面の庭


                5.東寺の文化財
 東寺には文化財は国宝2678点、重要文化財5323,592点がある。
(A)   国宝
[建造物]
      金堂 五重塔、大師堂   蓮華門観智院客殿
[彫刻]

 
   金剛宝菩薩(国宝))
 
   金剛業菩薩(国宝)

 
 金剛法菩薩(国宝)

(1) 木造五大菩薩像 [ 講堂安置 ] (国宝)
   像高(cm):金剛薩埵94.6、金剛法95.8、金剛宝93.4、金剛業96.4 
  講堂に並んだ密教像は、中央に金剛界大日如来を中心として、五仏、その向って右(東側)に金剛波羅密菩薩を中心とし、東南に金剛宝、西南に金剛宝、西北に金剛業、東北に金剛薩埵を配した五大菩薩を安置する。 中尊は当初の像ではないが、その両手の構え方は、当初の形を踏襲しているのであろう。 四菩薩の材質はたの講堂諸仏と同様クサマキだろうと推定されている。
 その構造は、金剛法を除いて、頭、両手上膊までを含む上半身、両足とそ れに台座の蓮肉までを一材から掘り出すという、一木造でも古い掘り方を採用している。金剛法だけは、像と蓮肉を別材にするが、その表現はたの三仏とまったく同じ時である 四像とも干割れを防ぐために後頭部と背に孔をあけて木心を除いて蓋をしている。
 このような一木造は、頭と上半身だけを一木で作って膝を別材とし、内刳ちぐりも大きく、一般の一木造りに比べると、一木造りとして純粋でありまた古式であるように思われる ところで一木造りと言えば一木から彫りだすために縦に長い材木の性質に拘束されて硬直肥満の姿勢になり易いが、この四菩薩天平彫刻のようにのびのびとした姿に作られている。体の肉付けも適当だし、足も腰の先が蓮肉からはみ出るほどに率直に長く伸びている。その容姿は奈良時代の観音像に一脈通じながら、その男性的力強さを和らげ、女性的な優しい容姿としなやかな体つきに変わっている。 ここで注目しなければならないのはこの一木造りの四菩薩が頭髪や体の各部に乾漆を盛り上げて表面の仕上げをしていることである。その乾漆の層は薄いが、最後の仕上げの面が彫下げていた木の表面でわなく盛り上げていた乾漆である点が重要である。 
木造や石像の場合は材料を削って物の形を作るが、朔像や乾漆像の場合は材料を盛り上げて作る。 前者は彫りすぎを警戒する緊張感が作用して、おのずから形式化されやすいが、後者は修正が自由なので、ゆとりのある自然の形に作られる。
  このように、四菩薩は天平彫刻の伝統を踏まえながら、天平彫刻にはない密教像として官能的な姿態を表現したものと思われる。

 
    不動明王(国宝)
 
 金剛夜叉明王(国宝)
 
 軍茶利明王(国宝)

(2)木造五大明王 [ 講堂安置 ]像高(cm):不動明王175.1、降三世明王178.7
 大威徳明王141.軍茶利明王203.1金剛夜叉明王174.2中央五仏に向って左(西側)に不動明王を中心に東南に降三世明王、西南に軍茶利明王、西北に大威徳明王、東北に金剛夜叉明王を配した五大明王が安置されている。講堂諸像のうちでこの五大明王の保存状態が最も良好で、当初の姿をよく残している。五大菩薩に比べるとその形が複雑なので、すべて一木造りとはいかないが、頭と体の大部分を一木で造り、後頭部と背に孔を空けて内刳する。大威徳明王が、頭、胴、大腿部と、大腿部に続くその下の牛座の胴まで一材造るのは、五大菩薩の蓮肉までを一材で作るの技法と通じるものがある。像の表面の一部に乾漆を盛り上げる技術も五大菩薩とどうようである。しかし、五大菩薩が天平彫刻と良く似た姿であるのに対して、五大明王のそれは天平時代には見れなく、真言密教独特の新様である。その裸形の肉体は、同じ忿怒像でも仁王像の様に筋肉隆々の力強さを表すのではなく、あたかも女体のようなふくよかさで、しかも、それを青黒く塗るのが、見る人に何となく気味の悪い官寺を与えずにはおかない。さらに、さらに不動明王を除く四明王の奇妙さは異常で、降三世明王は四面八臂しめんはっぴ(頭が4個、腕が8本ある像)で各面とも額に縦に一眼を入れて三眼とし、」牙をむき出し、左足下にインド教の最高神シバ神、右足下にウマ妃を踏みつけている。軍茶利明王は一面八臂、大威徳明王は六面六臂六足、金剛夜叉明王は三面六臂本面5眼でそれぞれ各手に武器を持つ。頭や腕がこのように多い仏像を多面多臂像と呼び、インド教に起源をもつ密教象の大きな特徴になっている。その中央の二臂で結んだ印がその像のシンボルとなり、行者がこの像の前でこの印を結んで呪文を唱えると行者自身が直ちにこの像そのものとなると信じられていた。これを即身成仏と言い、この点密教が他の仏教と異なるてんである。

 
   梵天像(国宝)
 
     帝釈天(国宝)
 
兜跋毘沙門天(国宝)


(3)木造梵天・帝釈天―[ 講堂安置 ]

須弥壇の東端に梵天、西端に帝釈天が安置されている。その構造は五大菩薩と同様である。 梵天は四面四臂で両像とも三眼で密教像の特徴を備えている。また梵天は四羽の鶴、帝釈天は象に乗るいわゆる騎獣像である点に密教像としての一層はっきりしている。梵天像(約1.1m)は21体もある講堂諸像の内で一番すばらしい仏像である。天冠台、髪、腕飾り、顔、胴、足の一部に乾漆を盛上げ、この天平彫刻依頼の技法によって、瞑想的気分をたたえ、ふくよかな表情、みずみずしい豊満な体、ゆるく組んだのびやかな足など、インド的感覚のあふれる密教像を創造することに成功している。
 帝釈天(約1.m)も短かく括った袖や鎧の服装には天平彫刻と共通する表現がみとめられる。
(4)木造兜跋毘沙門天立像 [宝物館安置]
 兜跋毘沙門天立像とばつびしゃもんてんりつぞう 像高;189.4cm 唐時代
 唐の玄宗皇帝の時代に西方の国境を守る安西城にサラセンの大軍が攻めてきた。そこで玄宗は、僧不空に命じ祈らせたところ、安西城の北東に兜跋毘沙門天が出現し、たちまち敵を追い払った。 その後安西城の楼門に兜跋毘沙門天像が安置するようになあと言う。当兜跋毘沙門天像は、唐の伝承に習い平安京の正門である羅生門に安置されていたものが、羅生門崩壊後東寺に移ったものと伝えられる。
 頭が小さく下半身がすらりと伸びスマートでエキゾチックで、一般の毘沙門天と異なる。顔ははりのある若々しい青年のようで、目尻は吊り上り、目は大きく開け、歯をわずかに表した口から鋭い怒りの声がきこえそうである。 

 
 木造四天王立像
 持国天(国宝)
 
 木造四天王立像
 多聞天(国宝)
 木造四天王立像
 増長天(国宝)
 
 
木造四天王立像
 広目天(国宝)

(5)木造四天王立像 [ 講堂安置 ]
 像高(cm):持国天187.7、増長天182.5、多聞天162.0、広目167.7
 四天王に見られる重厚で激情的な表現は、講堂の他の諸像が天平彫刻の木心乾漆像につながるのに対し、奈良時代の純粋な木刻と極めて近い。 この四天王のうち、持国天の表現が最も優れている。 この像は、激しい顔、武器を振りかざして仏敵に一撃を加えようとする激しい姿勢には、1分の隙も無く、重厚な太造りのうえ裳を後に長くなびかせて、下半身は、いよいよ重く、二頭の邪魔を完全に押さえ込んで無類の迫力を表現している。
6木造不動明王坐像 [大師堂安置](非公開)
7木造弘法大師座像 [大師堂安置]
 通常厨子の中にあり通常見ることは出来ない。
(8)木造僧形八幡神 [八幡宮安置](非公開)

[絵画]

 
    真言七祖像・龍智(国宝)
 
   真言七祖像・不空(国宝)

(1)絹本著色真言七祖
  帰国にあたり師恵果が唐の都長安でその人あり知られた李真等十余人の画家を集めて描かせ空海に授けたもの。 真言宗の祖師7人の肖像画。 7幅のうち5幅は空海が唐から持ち帰ったもので、損傷甚大とはいえ、唐時代絵画の数少ない遺品として極めて貴重。

 
 絹本著色五大尊像
 不動明王(国宝)
 
 絹本著色五大尊像
 不動明王(国宝)
 絹本著色五大尊像
 不動明王(国宝)
 

(2)絹本著色五大尊像
  宮中で正月の8日から14日までの間行なわれた後7日御修法ごしちにちのみしほ の際に道場に掛けられた仏画。 当初の画像は年が経って朽損が甚だしくなったので、長久元(1040)年新に描いた五大尊像にあらためられた。 ところが大治2(1127)年火災で焼失した。 
  東寺長者勝覚は覚仁僧に命じた。 覚仁は始めに宇治御経蔵にあった五大尊像を模写したが、鳥羽院のお気に召されず。 改めて仁和寺円堂後壁に描かれていた五大尊像を模写し、やっと三代目の五大尊像が出来上がった。

 
  著色両界曼荼羅胎蔵界(国宝)
 
   著色両界曼荼羅金剛界(国宝)


(3)
絹本著色両界曼荼羅
  日本に伝わる両曼荼羅の内最も著名なもの。 空海が唐で李真等に描かせた両曼荼羅の転写で、東寺ではこれを真言院曼荼羅と呼び、宮中真言院の後7日御修法に用いたと伝えられる。

 
 絹本著色十二天像水天・風天(国宝)
 
 絹本著色十二天像日天・月天(国宝)

(4)絹本著色十二天像
  詫間勝賀作:時期建久2(1191)年。平安時代十二天画像は坐像が普通であるがこの屏風形式の十二天画像は全て立像になっている。東寺では昔灌頂会のとき十二天画と同じ装束を着けて行列していたが、それらの衣裳が次第に無くなってしまったので、略儀としてこのような十二天屏風を立てるようになったという。
[工芸品]
(1)密教法具
  銅鋳造鍍金 唐時代(9世紀)、空海の請来品
  現在も後7日御修法に用いられている。 力感あふれる雄大な本法具を模倣した「弘法大師請来様」は、その後盛んに製作され、密教寺院には今も遺例が残る。

(2)健陀穀糸袈裟・横被
  健陀穀糸袈裟けんだごくしけさ・横被おうひ 唐時代の染織工芸品

(3)海賦蒔絵袈裟袋
  海賦蒔絵袈裟袋かいふまきえけさばこ 平安時代(10世紀)木製 38.9×47.8×11.5
  空海の請来品と伝わる健陀穀糸袈裟・横被が納められていた箱である。全体に黒漆を塗り、粉を散らしている。 海原や魚・亀・海獣・水鳥などの文様は金銀の研出蒔絵とぎだしまきえになっている。
(4)紫檀塗螺鈿金銅舎利輦したんぬりらでんこんどうしゃりれん
  鎌倉時代舎利会しゃりえ(仏陀の遺骨をたたえる年中行事)において舎利を納めた舎利塔(弘法大師請来)安置するための輦れん(手押し車)である。 屋蓋は宝形造で降り軒先には蕨手わらびてを伸ばし、頂の路盤上には火焔宝珠を安置している。 形も良く整い、当時の工芸技術の粋を集めた優品です。

[書籍、典籍、文書]
(1)弘法大師筆尺牘(風信帖)こうぼうだいしひつせきとく・ふうしんじょう 
「尺牘せきとく」とは漢文体の手紙のこと。 「牘とく」とは文字をしるす木札のこと。空海自筆の手紙3通を巻物に仕立てたもので、日本書道史上極めて重要な作品である。 1通目手紙(最澄あて)の冒頭の「風信雲書」という句にちなんで「風信帖」と通称される。

(2)弘法大師請来目録
  空海が唐から持ち帰った四百四点に及ぶ品の目録で、筆者は最澄である

(3)後宇多天皇宸翰東寺興隆条々事書御添状ごうだてんのうしんかんとうじこうりゅうじょうじょうことがきおんそうじょう 
 「宸翰しんかん」は天皇の自筆のこと。 弘法大師に帰依した後宇多天皇が、出家の 翌年に東寺の発展をねがって書き記したもの。

(4)(東宝記
  南北朝から室町時代に成立した東寺の公式記録書

                 (B)   重要文化財
[建造物]
      講堂、②慶賀門、➂東大門、④南大門、⓹北大門、⑥北総門、⑦宝蔵灌頂院、同北門、同東門、⑨ 五重小塔

(1)木造薬師如来及両脇侍像 [金堂安置]
    像高(cm) 中尊288.0、日光菩薩290.0、月光菩薩289.0
  見上げるように高くて広い金堂の内部には、この巨大な薬師如来三尊とその台座下の小さな12神将あいか安置されていない。 いずれも慶長8(1603)年に七条大仏師康正法印が治部法眠等と共に製作した仏像で、桃山時代の仏像の内では屈指の作品に数えられ、その作風には運慶の流れをくむ鎌倉彫刻の名残りが伺われる。 この薬師如来は光背に七仏をつけた七仏薬師如来である。
 創建東寺の金堂は、平安遷都と同時に造営されたから、空海に下賜されたあとの東寺とは違い、建物も仏像も、またその信仰も全て奈良時代の延長であった。 即ち七仏薬師如来とは、天平17745)年聖武天皇が病気になったとき、光明皇后の発願によって造営された新薬師寺の本尊から始まる。 薬師の功徳は、勿論衆生の病気を救ってくれることであった。 
 西寺と共に平安京にただ二つだけの国立の寺として造営された東寺としてはその設立の目的が当然国家の無事平和を祈ることにあった。 そして本尊七仏薬師如来は、いったん発生したら止まることのなく広がった流行病や国家と同意義に解されていた天皇の病気を鎮めるための仏であり、さらに拡大されて、戦争・飢餓・地震・火災などを含む自然・人為のすべての災害の原因となる怨霊の祟りを沈める仏であった。
 これらの広く社会的な規模で発生する災害の原因になった怨霊は無の罪を受けて非業なさ以後を遂げた政治家たちの怨霊と信じられ御霊ごりょうと呼ばれていたていた。 この頃最も恐れられた御霊は桓武天皇の弟でその皇太子となった早良さわら親王の御霊である。 親王は藤原種継暗殺事件に連座して皇太子を廃され、淡路に流される途中、自ら食を絶って自殺したが、その祟りの恐ろしさはついに桓武天皇をしてせっかく建設した長岡京をわずか十年ほどで放棄し、平安遷都を決意させたほどであった。
 このような時代背景があったからである。 人々はこの薬師像に対して薬師悔過けか(仏・僧に対して自分の罪を懺悔すること)と呼ばれる儀式を行なって、御霊に謝罪すると共に、薬師の威力によって御霊の怒りを静めようとした。 東寺は西寺と並んで平安京の入り口である羅生門を挟む東西に位置し、御霊が帝都に侵入するのを防ぐ役目を担っていた。

(2) 木造大日如来坐像、附金剛界四仏坐像 [講堂安置]
  作者 康珍

 
  千手観音立像(重文)
 
   聖僧文殊座像(重文)
 
 地蔵菩薩立像(重文)
 

(3)木造千手観音立像[宝物館]
   像高:593.3cm この巨大な千手観音は食堂じきどうの本尊であった。 醍醐寺の開山で且つ東寺第8代長者聖宝によって造立された。作者会理像都えりぞうずは聖宝の弟子で、聖宝に従って醍醐寺や東大寺など多くの仏像を製作した。 それらのほとんどが千手観音のような木造の巨像である。 
 空海以来、真言宗と奈良の東大寺は親密な関係にあり東寺長者は東大寺別当を兼ねることが多かった。 聖宝も例外ではなかったので、聖宝のもとにあった会理の仏師としての系譜はやはり東寺の金堂と講堂を手掛けてきた東大寺造仏所にあり、国営の造仏機関が解体して、康尚や定朝の率いる平安時代後期の民営仏所が生まれるまでの過程に現れた仏所の一形態であったとおもわれる。
 会理の集団がつくるこの巨像は、頭と体の中心部を一材が彫り出し、胸、腹、裾などの出っ張るところに木材の小片をあてて巨像を形成している。 この仏師集団の巨像製作の技術にはまだ未熟な点があり、これは定朝時代の寄木造へ発展する過度的性格をしめしている。

(4)木造聖僧文殊坐像 [食堂]
 寺院の食堂に老僧の姿をした文殊菩薩安置することは、不空の進言により 唐の大唐4(769)年から始まったと言う。 この聖僧文殊は空海在世当時からの像と伝え、聖僧文殊としては最古の作品で、胸の肋骨が現れた老人の相をみせながら、胸を張った毅然たる姿に無限の厳しさを表している。 
 かって食事時、食堂に参集した一山の僧たちは、この姿を拝して粛然として箸をとったであろう。しかし、後に食堂に巨大な千手観音と四天王が安置されると、食堂はその本来の機能を失い、食事は住房ごとに摂られることになった。
 普通一木造の坐像は頭と胴を一木で造り両手と膝前を別材で造るが、この像は頭と両上膊までの胴を一材で造り、それ以下の胴を別材で造る変わった構造になっている。

(5)木造地蔵菩薩立像 [宝物館]
  この地蔵菩薩はもともと西寺にあったと伝えられる。この地蔵菩薩は桧の一木造りで鼻筋の太い顔と、下半身が極めて長い点に特徴がある。下半身の衣のひだの流れは股間に沿ってx字形に描くが、このような形は、平安時代初期(9世紀)の薬師・地蔵などの立像に良くあらられ形ばった深いひだの線がボリュウムのある大股の隆起するさまを一層誇張して見せるのに役立っている。

(6)木造観音菩薩・梵天・帝釈天立像 [宝物館]

(7)木造五大虚空菩薩像(伝恵運将来)[観智院]
  像高(cm);法界虚空菩73.5、金剛虚空75.4、宝光虚空75.0、業用虚空70.1 蓮華虚空70.6 この鳥獣座に乗る虚空菩薩はクスノキの一木造りで入唐八家の一人恵運が承和14847)年に唐の都長安の青龍寺から持ち帰り京都山科の安祥寺に安置した仏像。安祥寺滅亡後、観智院の二世賢宝が、持ち帰り、観智院の本尊とした。
 肩をいからし、膝の梁が小さく窮屈そうな姿だが、その大陸的な茫洋たる面長の顔を少し仰向けて遥かかなたの虚空を望む表情は、虚空菩薩の名にふさわしい広大無辺の仏徳が素朴に表現される

 
 木造五大虚空菩薩像
 業用虚空菩薩像(重文)
  木造五大虚空菩薩像(重文)
 金剛虚空菩薩・法界虚空菩薩像
 
 
 弘法大師像
 (重要文化財)
[ 絵画 ]
(1)弘法大師像(重要文化財) 縦横;111.0㎝×61.0㎝   
  弘法大師像は、大まかに分けて、床几の上に座る八祖様と、椅子の上に座る真如法親王様との二通りがある。 何れも角ばった奥行きの深い頭の弘法大師が、斜め右向きに座り、右手は五鈷杵を持って胸の前にかまえ、左手は膝の上において数珠を下げる姿である この画像は、八祖様で、その上下に書いてある贊は後宇多法皇の筆と伝えられ、正和しょうわ2年(1313)に東寺西院御影堂の談義の本尊として施入された。 
  後宇多法皇は大覚寺統からでた天皇で、和様書道に長ぜられた持明院統の伏見・後伏見天皇の対して、唐様書道に長ぜられたことで知られている。 法皇は大師を信仰すること極めて厚く、東寺・醍醐寺・大覚寺などに多くの筆跡を残しているが、この画像は、弘法大師の二十五箇条遺告ゆいごう(遺言に相当)のうちから東寺に関する句を、冒頭、第1条、7条などから選んで、特に大
師流の書風で書写されている。
(2)紙本著色弘法大師行状絵詞12巻(重要文化財)
  全長(m) 巻一15.59、 巻七17.97、 各縦34㎝
巻二19.46、 巻八19.15、
巻三20.19、 巻九11.60、
巻四19.40、 巻十12.70、
巻五17.62、 巻十一19.87、
巻六13.70、 巻十二26.00、
  このように開祖に対する中世人の振興は、開祖の伝記を絵巻物  弘法大師像(重文)とする風潮を生んだ。 法然の48巻伝、親鸞の康永本四巻、一通聖絵12巻などがある。
  空海伝は数種制作された。応安7(1374)年から康応元(1389)年にいたる15年間を費やして完成した弘法大師行状絵12巻は、東寺を中心にして再編成された空海伝であり、先行する空海伝が伝記や物語を主にしているのに対して、著しく東寺の宣伝布教の態度を鮮明にしている。その絵は南都絵師裕高法眼(第1~第4前半)、総師中務少輔久行(第4後半~第10)、絵所大蔵少輔行忠(第11)、絵師大進法願(第12)の4人によって書かれた。 以下十二巻五十九段のうち主な場面について拾ってみる。


     45図 存問勅使(巻三第4段)(重要文化財)

 延暦23年(804)に空海は唐に渡った。まず福州に着いて都長安に上る希望を奏上すると、長安から存問(慰問)の勅使が来た。 その後、迎えの使が来て飾り鞍を賜り、行粧美々しく長安城に入り、宣陽坊の官舎に宿泊した。


      46図 青竜受法(巻三第5段)(重要文化財)

 空海は在唐中、長安青竜寺東塔院に恵果和尚を訪ね、金胎両部の曼荼羅を授けられ、伝法阿闍梨の灌頂を受けた。 図は恵果が大師を迎え、密教の伝授を約束するところ。 


      図48 図像写経(巻四第3段)(重要文化財)

 空海の帰国の時が近づいたので、恵果は李真等に命じて金胎両部大曼荼羅や真言五祖像等十幅を描かせ、また経生に20余人に経論等を書写させ。これを大師に賜った。机上に五鈷杵を置き、座して書写の様子を眺めるのが空海である。


      図51 門人遺会(巻10第2段)(重要文化財)

  承和元年(834)11月15日、空海は諸弟子を集めて、明年3月にこの世を去るにつき高野山は真然禅師に、東寺は実慧じちえ大徳に、弘福寺ぐふくじは真雅僧正に神護寺は真済しんぜい僧正にそれぞれ後事を託する、と遺戒ゆいかいした。 また翌年3月15日、重ねて御遺告あり、来る21日寅の刻に入滅し、兜率天とそつてんに往生して弥勒菩薩のもとに侍り、五十六億余年の後、弥勒とともに下生するであろうと、申し渡した。


       図53 真影図画(巻10第3段)(重要文化財)

  空海の御入滅が地か近づいてので、後世のために真如法親王が大師の御影を写され、大師自ら瞳を入れられた。高野山御影堂に安置する影像がこれである。 


      図54 東寺灌頂(巻11第1段)(重要文化財)

  東寺の灌頂院は空海在世中には完成できず、高弟実慧の時完成した。承和10年(843)12月13日、実慧が真紹に授けたのが灌頂の始めで、このとき空海が影現ようげん(空海の幻が現れる)すと奇端があった。 図は灌頂院に」向かう行列で、輿に乗るのが実慧である。
(3)絹本著色十一面観音像(重要文化財)
(4)絹本著色不空羂策観音像(重要文化財)
(5)絹本著色両面曼荼羅図4点(重要文化財)
(6)絹本著色両面曼荼羅図(敷曼荼羅)(重要文化財)
  胎蔵界(cm);277.6×279.74 金剛界281.8×284.8 この両界曼荼羅は、普通の両界曼荼羅のように全ての尊像が頭を上に同じ向きに並ぶのと違って尊像が中心の大日如来の方向に向くように配置されている。 これはこの曼
荼羅が掛けるのではなく、しいて用い
(6)紙本墨画蘇悉地儀軌契印図(重要文化財)
蘇悉地そくつじとは金剛・胎蔵両界で極地に達するための種々印相(両手の構え方)を説いた図で、図に色を施さないいわゆる白絵図像である。
(7)紙本墨画胎蔵曼荼羅略記(重要文化財)
(8)密教図絵10点(重要文化財)
  火羅図、仁王経法本尊像5幅、聖天像、大元帥明王像(六面八臂)、大元帥明王像
(4面八臂)、大元帥曼荼羅図(16面36臂)、大元帥曼荼羅図(4面八臂)、請雨経曼荼羅
 六大黒天像
[工芸品]
① 鈸子ばっし(楽器の一)一対(重要文化財)
② 金銅大鋺えん(金属の椀)2口、金銅鋺7口、金銅皿5枚、金銅鋺蓋8枚、(重要文化財)
③ 金銅舎利塔(重要文化財)
④ 金銅鉢5口(重要文化財)
⑤ 金銅羯磨こんごうかつま(密教法具)(重要文化財)
⑥ 刻文脇息(重要文化財)
⑦ 漆皮箱(重要文化財)
⑧ 水精念珠(重要文化財)
② 法会所用具類39点(重要文化財)
③ 木造彩色大檀(重要文化財)
[書籍・典籍・古文書]
① 絹本著色弘法大師像(重要文化財)
② 悉曇蔵巻3、巻8(重要文化財)
③ 宋版一切」経6087帖(重要文化財)
④ 宋版大般若経642巻(重要文化財)
⑤ 大般若経597巻(重要文化財)
⑥ 大般若経(視線縁)(重要文化財)


* 参考文献 古寺巡礼京都(1)「東寺」著者 砂原秀編
   古寺巡礼京都「東寺」著者 鷲尾隆輝等
   空海密教と四国遍路 大法輪閣編集部編


 

 






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