(19)世界遺産・清水寺


清水寺・仁王門(世界遺産)

 清水寺きよみずでらは京都市東山区清水にある寺院で、山号を音羽山と称する。 本尊は千手観音、開基は延鎮上人で、宗派はもともと法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。 また、石山寺、長谷寺などと並び日本では有数の観音霊場として古くから知られる。 西国三十三箇所観音霊場の第16番札所であり古都京都の文化財の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。

                        Ⅰ・清水寺の創立
 広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史を持つ、京都では数少ない寺院の1つである。 清水寺の縁起にはさまざまな説がある。 大和国子島寺の僧延鎮上人は、ある夜夢の中で金色の霊泉を見た。 延鎮は夢のお告げに従い、北に向って進み淀川を上り辿り着いたのが今の清水寺の地、山城の東山、八坂郷の音羽山である。そこにには黄金の滝と滝の畔に一草庵があった。 そこにはこの山に篭って数百年修行を続けていると言う修行者行叡居士ぎょうぎこじ(観音の化身)がいた。 行叡は「自分はこれから東国に旅立つので、後を頼む」と言い残し去っていった。 延鎮は行叡が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した、宝亀9(778)年これが清水寺の始まりだと言う。 音羽の滝は音羽の山中より湧き出す清泉で、金色水とも延名水とも呼ばれ、わが国十大名水の筆頭に上げられている。 これより「清水寺」がつけられた。
 その2年後の宝亀11780)年、鹿を捕らえようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の延鎮に出会った。 田村麻呂は妻高子の病気治療のため、薬になる鹿の生血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれた。 田村麻呂は殺生の罪にきずき射止めた鹿を山中に埋葬し、その後、妻とともに延鎮に帰依した。
 その後、坂上田村麻呂は征夷大将軍となり、東国に下るが、蝦夷を完全に平定する大偉業たて帰国した。 これも観音菩薩の加護のおかげと塔堂や仏像の造立に協力する。延暦24805)年に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元(810)年嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となった。

                Ⅱ・坂上田村麻呂
 4世紀後半に百済から渡来した阿知使主あちのおみを祖とする渡来系の氏族で絵隅から高取町域に定着し、その後多くの氏に別れ、それらの氏は住み着いた所の地名を氏としてそれぞれ発展した。
 坂上氏は高取町大字観覚寺小字坂ノ上一帯に居住し、坂上氏と称して飛鳥時代から平安時代にかけて武門の氏族として発展してきました。 坂上氏が歴史の舞台に現れるのは壬申の乱で東漢氏一族がこぞって大海人皇子に味方し、その中で坂上氏の軍事的活躍が目覚しく、例えば大伴吹負と共に飛鳥古京に攻め入り、古京を落し大友皇子(近江朝)の有力な拠点を逆に大海人皇子側とした。 この功により坂上一族は昇進し、田村麻呂の祖先坂上老おゆは正四位下の位を与えられた、祖父犬養いぬかいは大和国府の長官に任命され、父苅田麻呂は従三位の地位に達した。
 桓武天皇になってから未開お民を律令政府に屈服させ、律令政府拡大のため積極積極的に東国(蝦夷)討伐をおこなった。 しかし、蝦夷の族長阿弖流為あてるいは、普段は森に隠れ、相手の隙に乗じて森のなかから攻撃する神出鬼没の騎馬による弓矢の戦いで翻弄され、2度の東国征伐は失敗した。
 田村麻呂は第三次蝦夷討伐の準備を命ぜられると、東国に赴き兵員の確保や食料の調達を図る一方で、陸奥の開拓や民生の安定化をはかるための稲作や養蚕の普及に力をいれた。 伊勢、三河など六カ国から養蚕技術をもった女性を2名づつ選んで陸奥に派遣しまた武蔵、常陸など8カ国から9000人を派遣し平時は土地の開墾と稲作の指導を行いことある時は武装して兵士として戦う屯田兵の性質をもった農民派遣を行い、みちのく農村も次第に活気を示すようになってきた。
 797年田村麻呂は最初の征夷大将軍に任命され四つの要職を兼務した。 しかし、田村麻呂は戦闘の準備よりも行政面や民生への配慮に重点を置き蝦夷を討つに当たって、膨大な軍隊を動員してがむしゃらに攻め込むのではなく治安を回復し産業を盛んにし、民生を安定することに重点をおいた。 蝦夷に対してもむやみに敵視するのではなく帰順してくる者に対しては、土地を与え生活を保証し、律令農民との間の交易も認めた。 ただし、抵抗する蝦夷に対しては断固として容赦しない態度で臨んだ。 それは国家の兵士の損害を最小限に食い止めるのに役立ち、部下の信望を多く集めることにもなった。
 田村麻呂は俘因ふいん軍(現地軍)を大量に巧みに使用し、また蝦夷の帰順者があいつぎ、胆沢地方を律令国家の掌中に納めた。 胆沢を開拓し、稲作の普及に努めるなか、蝦夷の族長阿弖流為が投降したため、第3次蝦夷征伐の目的は達成され終了した。 田村麻呂は敵ながらにあっぱれな男と、朝廷に対し阿弖流為の除名を嘆願したが、許されず処刑された。 田村麻呂は蝦夷討伐において武功を立てただけではなく、帰降する蝦夷の取扱いに誠意を持って当たり、俘因でも戦功あったものは昇進叙位を取計らい、蝦夷の身分的差別解消に配慮した。 このため、田村麻呂は東北の人々にも偉大な将軍として神格化され後々まで尊敬された。 805年には参議の職に任ぜられた。 参議は、現在の内閣を構成する大臣に相当する職である。 平安京の東(京都市山科区勸修寺東栗栖野町)に将軍塚(坂上田村麻呂墓)がある。甲冑を付け立ったまま埋葬されたと伝わる。死後も平安京の守護神であるようにと。


                             Ⅲ子嶋寺

 
    将軍塚(坂上田村麻呂)
 
         子嶋寺本堂

 子嶋寺は奈良県高市郡高取町にある。 当初は子嶋山寺、平安時代中期以降は観覚寺、江戸時代は子嶋山千寿院、明治36年に子嶋寺と改称した。 現在の宗派は高野山真言宗である。
 寺伝によれば752年他孝謙・桓武天皇の疾病を癒した僧報恩が子島神社(現存)の畔に国家鎮護のため伽藍を建立し、一丈8尺の巨大な観自在菩薩と四天王像を安置する大寺院で、子嶋山寺と称した。 当時の宗派は中国創始の仏教宗派の一つである法相宗であった。 日本の法相宗は南都六宗の一つとして入唐求法僧により数次にわたり伝えられた。 653年道昭が入唐し、玄奘に師事し日本に持ち帰ったものを元興寺伝又は南伝と言う。 717年義渕とその弟子玄昉が智周に師事し日本に伝えたものを興福寺伝又は北伝と言う。 子嶋寺の法相宗は興福寺伝であった。 しかしこの時代の仏教宗派は後世の宗派とは異なり、学派的なもので、寺が固定されたり教団となったりすることはすくない。
 初代報恩がなくなると、清水寺を創設した延鎮が本山に戻り二代目を継ぎ、清水寺は子嶋山寺の末寺となった。
 平安初期には長谷寺、壺坂寺に次ぐ大和国の観音霊場として信仰された。
 その後子嶋山寺は衰退したが、983年興福寺の僧真興来住、子嶋山寺に子院観覚寺を建て真言宗子嶋流を興した。 真興は藤原道長が帰依した人物で、もと法相宗の興福寺の僧であった。 後、吉野の仁賀から密教を学び、伝法灌頂、密教の秘法伝授の師である阿闍梨を受けた。 関白藤原道長も参詣しており、当時は南都10大寺に勝るとも劣らない興隆を極め、本堂、御影堂、三重塔など223棟の建物が並ぶほか子院や子坊が21箇所あり、真言宗子島流お拠点として栄えた。 高野山は10世紀末に落雷による火災で諸堂が焼失してから衰退し11世紀初頭復興に着手し、観覚寺は高野山の復興に参与した。
 真興が一条天皇の病気平癒を祈願しその恩賞として観覚寺に空海が唐から請来した「紺綾地金銀泥両曼荼羅図」及び大般若経典、十三重塔を下賜された。 「紺綾地金銀泥両曼荼羅図」は、京都の東寺と神護寺の曼荼羅図とともに日本の三大曼荼羅図と称されている。
 南北朝時代に戦火で寺院坊舎を失って衰退した。 その後、興福寺一条院の支配下に入り本堂や諸堂が再建される。 江戸時代になると藩主の本多家及び植村家の庇護を受けた。寺号は子嶋山千寿院と称した。 千寿院とは木造千手観音像を本尊にしていることによる。
 明治維新後、一乗院の所轄が解かれ、植村家の庇護がなくなり、無壇、無住の寺になりましたが、明治36年有志の尽力により田畑山林を買い戻し、庫裏を再建し、高取城の二門を移し表門とした。 以後千寿院を子嶋寺と改称した。

                      Ⅳ・清水寺その後の歴史
 清水寺は幾度か災に遭い、今日の建物は、江戸初期寛永6(1629)年に全焼した後、徳川家光の寄進により寛永101633)年に再建された。 
 音羽の滝は音羽の山中より湧き出す清泉で、金色水とも延名水とも呼ばれ、わが国十大名水の筆頭に上げられているところから、「清水寺」と言われる。 また奈良の子嶋寺が「南の観音寺」と言われるのに対し「北の観音寺」といわれる。
 京都で一番古いのは、聖徳太子の建立になる太秦の広隆寺で、その次に古いのが清水寺になる。 草創後の清水寺の歴史については度々の火災で資料が焼失し甚だ不明瞭であるが、幕末に月照、信海と言う二人の名僧がでた。 江戸時代の三百年の鎖国政策は大きく転回せんとし、王政復古に協力した両上人は安政の大獄で非業の最期をとげた。
 月照、信海は兄弟で父を宗江と言い代々医を業とする家庭で大阪平野の出であった。 月照は幼名を宗久といい文政101827)年15歳の時叔父に当たる蔵海上人の下で得度し中将房忍鎧にんかいと命名された。 蔵海亡き後、22歳で清水寺住職本願24世となった。 約20年間住職を勤め成就院の本願として法務に励みつつ、長く絶えていた密教の子嶋流の再興に努めた。 安政4(1857)年6月子嶋寺千寿院に伝わる紺綾大曼荼羅図の写得をしたが国事のため完成半ばで筆を置いた(安政5年11月死亡)。
 安政5年勤王の志士達が捕らえられ、月照の身も非常に危険となり、近衛忠熈は西郷隆盛に護衛を託し、西郷は島津藩に月照を連れていった。 しかし、主君斉彬亡き後で、先代の藩主斉興が藩政の実権を再び握り、斉彬の進めた改革をことごとく潰していた。 月照の殺害を命ぜられた西郷は月照だけ死なせないと1115日の夜、月明るい錦江湾に供に入水した。 しかし、西郷は奇跡的に助けられ蘇生した。
 月照の実弟信海は18歳の時密教学の本山高野山にのぼり学僧霊明の住持する大聖院に寄寓し、ひたすら精進し、安祥流の伝授を受け、倶舎、唯識、華厳などについて修学している。 30歳の時、高野山修学院の住職に任ぜられた。
 月照が喜永4(1851)年に隠居した後、清水寺成就院の本願25世となった。 青蓮院宮のため攘夷祈願したが、尊王攘夷運動として捉えられ江戸で獄死した。
 清水寺は、平安時代には霊験あらたかな観音霊場として庶民や貴族の広い信仰を集めた。 平安中期には奈良・興福寺に属し、法相宗と真言宗を兼学兼宗。 明治181885)年に真言宗兼宗を排し、法相宗に復した。 更に昭和401965)年法相宗からも独立し北法相宗を立宗、今日に至る。
 「今年の漢字」 
 財団法人漢字能力検定協会が、その年をイメージする漢字一字の公募を日本全国より行い、その中で最も応募数の多かった漢字一文字を、その年の世相を現す漢字として、毎年1212日の「漢字の日」に清水寺で発表する。 選ばれた漢字を「今年の漢字」と呼ぶ。
 1995年から始まった。 発表時には、清水寺の奥の院舞台にて、貫主により巨大な半紙に漢字一字が書かれる。 その後、本尊の千手観音菩薩に奉納される。

                        Ⅴ・清水寺の建築物

 
      仁王門(重要文化財)
 
      本堂(重要文化財)

1・仁王門 (重要文化財)
  奈良時代の仏寺建築は平地伽藍配置方式であったが、平安初頭以降、寺地が深い山の中に求められるようになると整然とした平地伽藍配置ができなくなり深山幽谷の地勢に応じて堂塔が配置された。 いわゆる山岳伽藍配置である。 それ故こうした仏寺は都市の俗世を離れた清浄な境地に営まれるものが多い。 清水寺は大都市の中にある山岳寺院である。 まづ仁王門は高い石段の上に特立する。 寺地は」これから置(東)へと次第に高く、門の後ろには西門と三重塔などが控えている。 地勢の関係で一般形のように回廊は持たない。 構造形式は三間一戸の二階建ての楼門で1回には屋根がなく縁だけの形式である。 総円柱、縁下と二階の軒の組物は共に三手先(柱から前へ3回でて桁を受ける組み方)で、柱、組物、軒などの細部様式は全て和洋で統一されている。 
一階左右には金剛柵と菱格子で囲まれた中に仁王像が安置されている。 遠く離れて門の全形を見ると一階は高く、二階は低くその軒は深く、屋根は桧皮葺で均整の取れた美しい姿である。 建築年代は室町時代と推定されている。 
2・本堂舞台 (国宝)
 この清水寺は古く宝亀11780)年に創建されたと伝えられるが、本堂は最初何時出来たか明らかでない。 その後、何回も火災による焼亡と再建が繰返され、復興の度に規模も大きくなったようだ。 江戸初期の寛永6(1629)年9月10日に諸堂と共に焼失し、同8年かさ復興工事を始め、同1011月頃出来たのが、今の本堂である。
 本堂は中心的建造物で桁行九間、梁間四間、ただし、前方九間一間は「相の間」あるいは外陣と見るべく、この九間四間部分は天井も水平でなく勾配のある化粧屋根裏である。 そして相の間にあたる部分の床は板敷、内陣部分は土間である。 その前に、7間二間の礼堂らいどうがあり、此処は小組格子天井こぐみこうしてんじょうで、その東西南の三方に一間通りの廂及び孫廂をつけ、また本堂の東北と西北に裳階もこし(飾り屋根)をつけた姿となっている。 礼堂の東西には南(正面)に向かって翼廊を出してその間を「舞台」としている。 このように平面も複雑であるが、立面もこれに応じて複雑である。 本堂は礼堂に対し「正堂」とも言うべきこの部分は水平な地面に立っているが、礼堂の辺から前方は土地が急斜面をなしている。 すなわち清水寺の本堂は峻険な崖の上に建てられているのである。 それを支えるのが「舞台造り」の構造で崖っぷちに太い柱を並べて連結材の貫ぬきを縦横に差し通して、柱の強度を高めたものである。 
 平安時代になると密教が伝えられ、山岳仏教として山中に寺が造られるようになった。 山中では広い平地は求め難く、そこで足場を組んで「舞台造」が行われるようになった。 いわば「舞台造」による「寺地造成」である。 そういった中で「清水寺の舞台」は全国最大、最美と言われている。
 清水寺本堂は江戸初期の復興とは言え平安時代の面影を伝え複雑な姿をもち、巧みに纏められた大傑作である。 正堂の内陣が土間(花崗岩敷)で天井が化粧屋根裏であるのは、平安系統をそのまま伝えるものである。 そこには正面五間、奥行柱一間分の須弥壇が築かれ、三基の宝形造の、ちょっと鳳輦ほうれん(天皇が乗る輿)をおもわせる厨子が安置されている。 本尊は秘仏千手観音、左右には地蔵菩薩と毘沙門天、その他28部衆などが祭られて森厳な気分が漂う。 一般の参拝者は西翼廊から舞台の方向に向かうが、礼堂正面で礼拝し後天井を眺めると、立派な彫刻を入れた蟇股がずらりと並んでいる様もすばらしい。

 
      馬駐(重要文化財)
 
       鐘楼(重要文化財)

3・馬駐 (重要文化財)
 馬駐うまどめは仁王門に向かって左、すなわち北側にあり、昔参詣者が乗ってきた馬をこの中に繋いだものである。桁行五間(最前面3間)、梁間二間、切妻造、本瓦葺で、この種の建築では最古の珍しいものである。内部は土間で、柱により五つに仕切られ、馬を繋ぐ設備や縄を結ぶ金具なども打れている。柱から前に出た木鼻なども古い面影をとどめ、室町時代のものと認められている。
4・鐘楼 (重要文化財)
 鐘楼は、西門の北の緩い石段を登って行く途中に南に妻を見せて建つ。桁行一間、梁間二間、切妻造、本瓦葺の建築。この鐘楼も普通の鐘撞堂かねつきどうのように傾いた四本柱でなく、正背面は二間とし、大きい虹梁こうりょう(上に反った梁)を架けその中央に短柱(大瓶束たいへいずか)を立てて棟を受ける形式となっている。柱頭の貫ぬき(柱を繋ぐ水平材)とその下の貫の間には菊花を彫った桃山様式をよくあらわす蟇股をいれえる。 造営は慶長12(1607)
5・西門 (重要文化財)
 仁王門の東南、高い石段上に立つ門で、地の利を得たところに営まれた特殊形の門の傑作である。三間一戸、八脚門、正面に一間の向拝(階段上の廂の部分)付、背面軒唐破風(中央部分が弓形に反曲がり左右なだらかに流れる破風)付き、切妻造、桧皮葺と言う、門では他に例のない構造形式。 門であるから正面三間のうち、中の間を通路とし、前方は吹放し、後方両脇の間は菱格子又は板壁で、それぞれ持国天、増長天の二天を安置している。 この安置方法は、丹後方面に見られるが、市内では極めて珍しい。 しかも中の間通路上の天井は、柱割りに従って前後に二分すれば狭苦しいものなるため、思い切って四角い天井とし、折上小組格子天井おりあげこくみこうしてんじょうと言う宮殿等に用いる高級とし、扉を設けない、独創的な門でしかも大傑作である。
 細部では簡単な三ツ斗みつど組物(柱の上に大斗を置き、その上にう肘、巻斗を三つ置いて桁を支えるもの)の間に牡丹、花鳥などの優れた彫刻を入れた江戸初期の先駆的輪郭を持つ蟇股、向拝部は雲の手挟たばさみ(柱上内側のほぼ三角形の彫刻材)などが飾られる。この造立年代は寛永8年(1631)で本堂その他の一連の造営工事の一つである。
 左右に京都最大の仁王像が安置されています。また、藤原行成直筆の減額が掲げられてます。行成は能書家として著名です。

 
      西門(重要文化財)
 
     中門(轟門)(重要文化財)

6・ 中門(轟門) (重要文化財)
 轟門とどろきもんと言うのが中門に相当し、三間一戸の八脚門である。正面に金剛柵と菱格子を造り、内部には広目天、持国天の二天を背面に狛犬を置く。内部天井は前半と後半が別々の山形の化粧屋根裏天井になっている。この形式は俗に「三つ棟造」という。これも寛永10(1633)年の造営である。

 
     三重塔(重要文化財)
 
      経堂(重要文化財)

7・ 三重塔 (重要文化財)
 構造形式は三間三重、本瓦葺の型通りの塔であるが、西門、経堂、開山堂といずれかと言えば低平な堂門の間に合って一きわ高く聳え立ち、重要な伽藍要素となっている。外観は全景細部とも江戸初期を良く表し、和洋の古式を保った建築で各重の組物も和様の技法を守った造りである。 初重内部は、彩色が殊に美しく荘厳である。 すなわち、四天柱には横帯で区切った中の円形内に仏、菩薩、明王などを描き、まわりの側柱には雲中に龍や珠などを、長押なげしや頭貫かしらぬきなど水平材には雲、幾何学模様など、さらに天井周りには花模様等を極彩色で描き、また四隅の窓裏には八祖大師像が描かれ、中央には本尊の大日如来が東向きに安置されている。
8・ 経堂(講堂)  (重要文化財)
 三重塔の東にある。五間四間、背面廂付、一重、入母屋造、本瓦葺の簡素なお堂で、内部は、一室で須弥壇前に二本の円柱を立てるが外間周りはみな方柱に三方蔀戸しとみどで落ち着いた感じである。内部天井は板を平たく張った禅宗様系の鏡天井とし、そこに岡部信基筆の丸龍が描かれている。須弥壇上には釈迦三尊や西に愛染明王、東に宝塔などが安置されている。

 
     開山堂(重要文化財)
 
     朝倉堂(重要文化財)
 

9・ 開山堂 (重要文化財)
 経堂の東にある。開山堂は、大本願の坂上田村麻呂夫妻像、開基の行叡居士坐像、開山の延鎮上人坐像を祀る堂である。三間三間、檜皮葺の堂である。様式的には和様系で、正面三間は蔀戸、その他は板扉か板壁である。組み物も簡素で、出三ツ斗でみつど、軒は繁垂木しげたるき(垂木を密に並べたもの)としている。内部は禅宗様の厨子があり、坂上田村麻呂が祀られている。 現在の建物は1633年(寛永10年)の再建。
 別名を「田村堂」と呼ばれ、謡曲「田村」に謡われている。
10・ 朝倉堂 (重要文化財)
 中門を潜った北側、本堂の近くにある。寛永10年に越前守護代朝倉貞景の寄進にかかるのでこの名があるが、法華三昧堂とも言う。五間三間、総円柱、組物二手先ふたてさき(出組に更に手先の組物が増えたもの)、本瓦葺の仏堂である。内部は経堂と同じように広い一室であるが、中央正面に須弥壇とその上に厨子が安置されている。厨子は方一間、出組(一手先)の組物を組んだ禅宗様の優れた作である。その隅木が鳳輦ほうれんのように蕨手わらびて型に巻き上がっているのは、当寺の厨子の特徴である。堂内の天井は、二重折上小組格天井にじゅうおりあげこくみこうしてんじょうの手の込んだものである。
11・ 仏足石
 釈尊入滅後直ちに釈迦像は造らず、釈迦の足跡を石に刻み信仰の対象とした。 仏足石ぶつそくせきもその一つで、薬師寺に日本最古のものがある。 足の裏には、普通に無い花文、金剛杵、双魚などが線刻されるのが普通である。

 
     釈迦堂(重要文化財)
 
     阿弥陀堂(重要文化財)

12・ 釈迦堂 (重要文化財)
 本堂から東に出ると、右へ音羽の滝に下りる石段があるが、その前に石崖を背にして立つ檜皮葺、寄棟造りのお堂が釈迦堂である。桁行三間、梁間三間、一重背面一間通り廂付で、これも寛永の火災後、本堂以下諸堂復興の一連の工事として復興された建築である。現在は、昭和47年7月豪雨のため、裏の崖が崩れて倒壊し、その後復興され、当初の姿に整備された。 正面全部蔀で、内部は広い一室、四天柱のように立つ来迎柱と、その前の柱は円柱であるが、外回りは全て方柱である。中央須弥壇上に釈迦三尊像を安置している。
13・ 阿弥陀堂 (重要文化財)
 奥の院の左()に並ぶ西向きの建築で、三間三間、入母屋造だが、現在は桟瓦葺さんかわらぶきである。後方に一間通りの廂や出たところが付いていて、全体は凸字形平面をなしている。西正面一間通りは、柱間を特に広く取り、吹き出しの土間として奥の院へ行く通路のように造られている。 この部分の天井は、奥の院外陣と似た通りであり、各建築部材も極彩色を施したものである。内陣は、奥の方に出っ張って、其処に本尊阿弥陀如来が祀られている。なお外陣の格天井裏板には各種の草花や模様が描かれている。

 
     奥の院(重要文化財)
 
        音羽の滝


14・ 奥の院 (重要文化財)
本堂から東に出ると、大小とりまぜて多くの仏堂が軒を接して西向きに並んでいるが、左()から、妻入りで小さな西向き地蔵、檜皮葺の釈迦堂、桟瓦葺の阿弥陀堂、そして最も右()に本堂と同じように、前方に舞台を持った檜皮葺の大きな奥の院(千手堂)がある。
 構造形式は五間五間、一重、寄棟造で、本と同時の造営,細部様式も本殿と共通した特徴をみせるが、軒の組物は三ツ斗なのに、奥の院は、出組である。 前方2間通りは吹き放しで、天井は勾配になり、化粧屋根裏と組み入れ天井(格子状に広く組んだ天井)を虹梁こうりょう上に載せた蟇股で受けている。 次の五間二間は外陣、天井は鏡天井である。 一番奥の五間二間分が内陣で、三間に亘って、須弥壇を設け、その上に三基の厨子を置き本尊十一面観音・毘沙門天・地蔵菩薩及び二十八部衆を祀っている。 前の舞台から外陣の天井を見ると今は古色を帯びているが、蟇股かえるまたや虹梁こうりょう、長押なげしや組物などに極彩色が施されているのが見える。
15・ 音羽の滝
 古来、「黄金水」「延命水」と呼ばれ、日本十大名水の筆頭に上げられる有名な水。清水寺の名の由来はこの清らかな清泉が音羽の山中より1000年以上、沸き続けていることに由来している。 この三つの筋から音羽の滝には、それぞれ効用があり、右から、健康、美容(学業)、出世(縁談)に聞くとされている。

 
     子安塔(重要文化財)
 
       アテルイ・モレ碑

16・ 子安の塔 (重要文化財)
  本堂の南方にあり、舞台から遠くに見える可愛らしい塔である。 これは明治の末ころまで仁王門の下、西南にあった物を現地に移されたものである。 三重塔で初重に千手観音を祀っている。 小塔ながら各重の落(上方が次第に小さくなること)も適当で美しい姿をしている。 軒の組物は小型である関係もあるので普通の三手先と違って簡略な形をしている。 安産を願う人の信仰が篤い。
17.アテルイ・モレ
 アテルイ・モレは、平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑強にていこうした「蝦夷えみし」の酋長と副将で、征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍に帰順、将軍が両雄の武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷経営に登用すべく朝廷に助命を嘆願したが、許容されず両雄は処刑された。

 
     北総門(重要文化財)
 
       3つの石碑

18. 北総門(重要文化財)
 北総門(きたそうもん)は、江戸時代初期の寛永に再建された薬医門で、国の重要文化財に指定されています。もとは、清水寺の塔頭(たっちゅう)であった成就院(旧本坊)の正門でした。一間(間口4.12メートル)の潜りつきの薬医門です。屋根は切妻造り、本瓦葺きで、鉄製の飾り金具や鉄帯を取り付けた大きな扉(二枚)があります。右下に脇戸(潜戸)が設置されています。これが「藥医門」の特徴です。急病に罹っても医師が簡単に入ってこれるという意味があります。200910月に訪れた時は修復工事中で「1年半後に出来上がる」とのことで、2011年春ころの完了らしいです。
19 .北総門前の3つの石碑
北総門前の石碑は、成就院の第24世月照上人と、実弟で成就院25世信海上人の歌碑、そして西郷隆盛の弔詞碑。月照は幕末の尊皇攘夷派の僧で、大老井伊直弼から危険視され、安政の大獄で追われる身となり、西郷隆盛の手引きで薩摩に逃れたが、薩摩藩では受け入れを拒否され、1858年(安政5年)11月16日、死を覚悟して隆盛とともに錦江湾に入水した。隆盛は助けられたが月照は非業の死を遂げている。その翌年には、弟の信海も尊皇攘夷祈祷の嫌疑で逮捕され、江戸で獄死している。のちに隆盛は、弔意の漢詩を詠んだという。
・大君のためにはなにかお(惜)しからん薩摩の迫門(瀬戸)に身は沈むとも:月照
・西の海あずま(東)のそら(空)とか(変)はれどもこころ(心)はおなじ君が代のため
 :信海

・相約して淵に投ず、後先無し。豈図(あにはか)らんや波上再生の縁。頭(こうべ)を回らせ
 ば十有余年の夢。空しく幽明(ゆうめい)を隔てて墓前に哭(こく)す

 
     成就院庭園(名勝)
  
     春日社(重要文化財)

20・ 成就院庭園
 清水寺の主要伽藍の北にあり、今は本坊となっている。 文明年間(146986)の創 立と伝えられる。古来より庭園が知られている。 江戸時代初期の作庭で、書院の北と西にあり、北庭が中心で、池を前にした借景庭で、池には二つの島を造る。 庭内の石造遺宝には、蜻蛉かげろう灯籠、三角の珍しい三角灯籠、それに書院の火灯窓前の「誰が袖そでの手水鉢」などがあり、後者は素晴らしい名品である。 但し非公開である。
21・ 春日社 (重要文化財)
 清水寺は、西門から東へ三重塔、経堂、開山堂など伽藍が並ぶが、西門から左()、これ等の堂塔の裏に静かに立つ西向きの小さな社殿がある。 これが春日社で、その名のように、「一間社春日造」である。 檜皮葺の均整の取れた美しい社殿で造営年代は不明であるが、細部様式から近く慶長2(1607)年の記録を持つ鐘楼もあることから桃山時代と推定される。 

                         Ⅵ・清水寺の寺宝
1・ 御正体
 像高 本尊 192.0cm   脇侍毘沙門天156.0cm   脇侍将運地蔵163.0cm
 仏像とは、仏教のおける信仰の対象として造られたものである。このため像を堂内に祀り、荘厳にして、僧も信者も共に親しく礼拝する為のものである。ところがこれ等の像の中には特定の期間内は堅く扉を閉ざし人目を避ける場合がある。 
  これを秘仏と呼んでいる。秘仏にする理由は色々あるが、その第一は、密教では何人も心内に具有する先天的な仏性がある。しかし、煩悩の扉で自仏を見ることが出来ない。だからこれを浄化すれば即ち心の扉を開けば直ちに厨子内の秘仏と同じ仏性であることを悟るであろう。この行法を秘密荘厳心といって密教では、仏像を拝む神秘的な方法の一つとなつている。
 しかし、信者達は、その厨子内に何様が祀られているかを知りたいであろう。そこで、一般に多く見られる形は、内仏と同じ形の縮尺像を扉の前に祀る。これを前立仏まえだちぶつと言い、一般には前立まえだちと言っている。 更に内陣と外陣に別れた堂には、その厨子内状況の説明資料として薄肉又は半肉彫りの像を外陣の欄間に吊るしている。これを御正体みしょうたいとか懸仏かけぶつなどといっている。 
 この清水寺も、宝亀11(780)年に造られたと伝えられる五尺二寸の本尊十一面千手観音とその両脇侍、即ち毘沙門天と将運地蔵は秘仏となっている。従って本尊の厨子の前に三尺の前立物と外陣には大型の御正体が祀られている。 清水寺は数度火災で本殿を焼失しているが、その都度、秘仏の仏像は必死で救出されている。

 
  十一面観音立像
 
       十一面千手観世音菩薩前立仏     

2・ 十一面千手観音菩薩立像
 十一面千手観音像は、千本の手を持つものと42本のものがあるが、圧倒的に後者が多い。清水寺の本尊も後者である。42本の手を持つ千手観音は正面で合掌する真手の二臂(手)のほか、数珠や宝鏡、宝弓などの手を持った40臂にはそれぞれ25の法力が宿るとされている。つまり、40×251000で千手を表わしていることになります。そもそも千手の「千」とは無量・無限を意味し、観音様の大悲利他があらゆる方法を使い、どの方向へも行き届くことをさしています。  また清水寺に十一面千手観音様は他の一般的像と異なる点は、両脇の手の内で最上部の各1本を頭の上に伸ばし如来形の化仏1体を両手で捧げていることで、これが世に言う「清水型観音」である。
 清水寺の本尊は秘仏で前立仏が大小十数体存在する。本像はその内の一体であるが、現在は山内定性院の本尊となっている。本像は檜材の寄木造、金箔仕上げ、藤原末期から鎌倉初期にかかるものでやや童顔に似た愛らしい表情は、長身の躯体と引き締まった肉体の表現とに良く調和し、風格を最もよく発揮した優作である。

 
      二十八部衆の1
 
      二十八部衆の2

 
摩睺羅伽王像
 
 迦楼羅王像
 
     風神像
 
     雷神像

3・本堂内陣
 内陣の須弥壇上に三基の厨子がありその中央は本尊、向って右に毘沙門天、左に将運地蔵菩薩が安置され、いずれも秘仏となっている。 さらに本尊厨子の両側と前面に千手観音の守護神である二十八部衆と風神、雷神、計三十体の天部形が祭られている。これらは、いずれも約1mの檜材、寄木造、漆箔、彩色像である。 作者は不明であるが、京都三十三間堂に安置される二十八部衆及び風神、雷神像とよくにている。 
 三十三間堂の像は鎌倉中期慶派の仏師たちによる仏像彫刻史上屈指の名作であるが、清水寺の像もその形だけではなく内面的な心の問題まで良く似ていることから、これもやはり慶派の流れを継ぐ仏師たちの作であろう。 また、三十体の内、室町期の製作と思われるものが大半であり、その他桃山期と寛永頃である。
・摩睺羅伽王まごらおーは、二十八部衆中の異形いぎょうの天部である。大蛇神の化身で、上半身は裸、二重の両眼と眉間の縦眼との五眼を持つ。音楽の神となり、琵琶を弾き、口を少し開けて歌を歌っている。その異様な容貌を巧みにまとめた表現技術は面白い。
・迦楼羅王かるらおーは、摩睺羅伽王と同様二十八部衆の異形の天部である。金翅鳥こんじちょう(龍を食べる怪鳥)の化身で、鳥の頭を戴き、口は嘴、両羽を持ち、鎧をを付ける。好んで毒蛇を食い、その威力で人間の根本煩悩である貪とん(むさぼる)・瞋しん(怒り)・痴(愚か)の三毒を食いつくすと信仰され、横笛を吹く音楽神となる。
・風神像 青黒い肌に、まとうのは上半身の肩布かたぎぬと下半身の短いスカート状の衣だけ・大型の螺髪らほつ、大きく見開いた玉眼、四角に尖がらせた上唇。口を開いて両端から上に出す牙など、物凄く恐ろしい顔つきで、大きな風袋を担ぎ、右膝をつき左足を立て岩山の頂に渦巻く雲に乗り、下界を睨みつけている。
・雷神像 風神と対になって二十八部衆の左右両端に立つ。真っ赤な肌で、身にまとうものは風神に順じ、体の向きや足の構は風神とほぼ左右対称。頭髪を逆立て、眉は鋸歯形。玉眼を大きく見開き、口を開け4本の牙をむき、8個の太鼓を背をって右手の撥で打ち鳴らし、稲妻の電光を放ち、渦巻く雲上より下界於見下ろしている

 
    左 吽形「密迹金剛力士みっしゃこんごうりきし」
    右 阿形「那羅延堅王ならけんごおう」
 
 
   大隋求菩薩像(秘仏)
    慈心院(隋求堂))

4・ 金剛力士像 (仁王門) 
 像高 阿形 365cm、  吽形 365cm 京都で最大の金剛力士像である。本像は檜材の寄木造で、よく均整が取れた骨格と躍動的な姿態、特に胸部から両脛に至る間の造形は見事な立体感を出している。 また裳前半のひだの表現も力強い動きを良く出している。作者不明、鎌倉末期から南北朝初頭の制作と考えられる。
 力士像の胸に注目。乳首に乳輪が彫られています。清水寺の7不思議の一つに挙げられています。
5・ 大隋求菩薩像(隋求堂)像高 110cm  隋求堂の本尊。
 大隋求菩薩像は、清水寺の塔頭慈心院(隋求堂)の本尊である。随求堂は盛松権師せいしょうごんりっしが享保20年(1735)に再興した。
 現在では暗い空間を歩いてお参りする「胎内巡り」で知られています。
 大随求菩薩坐像は江戸時代に作られた高さ約1.1メートルの坐像で、通常は非公開の秘仏です。8本の腕を持ち、円形光背には金泥(きんでい)の梵字(ぼんじ)が施されていて江戸時代中期の美術工芸の華麗さがうかがえます。随求堂で公開するのは1796年以来222年ぶり!公開は、318日までと、10515日。
 秘仏。八臂の持ち物に衆生の全ての求めに随う絶妙の法力を表す。 ふくよかな顔、華麗な宝冠・豪華な七重獅子座蓮台、そして円相の光背には「大隋求陀羅尼だらに」の梵字を蓮台に乗せて金泥で書くなど、元禄の美術・工芸の粋を尽くしている。  檜材、寄木造、玉眼入り、金箔仕上げである。 

 
     坂上田村麻呂坐像(開山堂)
 
     三善高子夫人坐像(開山堂)

 
     行叡居士坐像(開山堂)
 
     延鎮上人坐像(開山堂)


6.開山堂
・坂上田村麻呂坐像 江戸時代、木造彩色、像高 78
 坂上田村麻呂(758811)は、夫人の安産薬を求めて山城国東山で鹿を狩り、音羽の滝で修行をしていた延鎮上人に会い、滝の清水の功徳と殺生の非道を説教され、深く観音と上人に帰依し、行叡居士の遺命による上人の観音像彫刻と寺院建立を応援して清水寺創建の本願となり、やがて延鎮師の祈祷と清水観音の加護によって東夷征討に勝利し、清水寺の創建をはたした。像は贈従二位・大納言・征夷大将軍として正装衣冠束帯し、木笏もくしゃくを持ち太刀を帯びている。
・三善高子夫人座像 江戸時代、木造彩色、座高80
 三善高子夫は、坂上田村麻呂夫人。安産のため夫に鹿狩りの殺生の罪を犯させたことを痛く懺悔して、夫と同心合力して延鎮上人の千手観音造仏・寺院建立の念願成就を積極的に応援、金色の四十臂千手観音像を造立、自邸の殿舎を寄進して清水寺の開基に尽くした。像は貴族女性である命婦みょうぶの正装をし、右手に団扇だんせんを持って威儀を正し、学問・文筆の名家三善氏の出身者らしい理智・聡明な容顔である。
・行叡居士坐像 室町時代、木造彩色、像高    65cm (開山堂)
 行叡居士は「清水寺縁起」に永年、山城国東山の音羽お滝上の草庵に宿泊して千手観音の真言を称え、滝で水垢離みずごり(水行)の修行を続けて延鎮法師の来訪を待ち、ようやく法師の訪問をみて、観音力を祈りこめた霊木を授け、千手観音像を彫像して寺院を創建するように遺命し、東方へ飛び去った。という白髪白衣の老仙人である。
延鎮上人坐像 室町時代、木造彩色、像高    62cm (開山堂)
 清水寺の開基延鎮が夢のつげにより、金色の水源を求めて山城国東山の山中に入り滝の下に至る。そこ白髪の居士行叡に合う。
 行叡居士の遺命を受け、坂上田村麻呂夫妻の後援を得て、清水寺を創建した。像は、法相唯識ほっそうゆいしきの学問を究め、山林跋渉ばっしょう(行脚)と水垢離の修行を積んだ厳しい清僧の容顔に、観音行の大悲の心を秘め、緋色の法衣をまとい、右手に三鈷杵さんこしょを握り、左手に数珠を持ち、ゆったりと座り、行叡居士と並んで開山堂に祀られている。

 
        阿弥陀如来(阿弥陀堂)
 
  法然上人坐像(阿弥陀堂)

7.阿弥陀堂の仏像
 法然上人は平安時代末期の僧侶です。比叡山で修行に励み、後に浄土宗を開いた人物です。その法然上人は、文治4年(1188)に修行した後、僧尼たちを堂内に集めて念仏,常行三昧の修法を説いたことから日本で最初の「常行念仏の修行道場」として定められています。後、この由来からこの阿弥陀堂は「法然上人二十五霊場」に数えられています。
 本尊阿弥陀如来坐像は、江戸時代の僧侶「源信」(通称恵心僧都)の手による造立とされている。 本尊阿弥陀如来坐像は、定印を結ぶ堂々たる見事な風格を示す丈六の坐像である。おおらかな鼻と口の形、頬のふくらみ、がっしりした上腕部の表現に対し、やや撫で肩で胸部の狭い形、彫の浅い衣文の表現など、寛永期の阿弥陀堂再建時に制作されたと推定される。
 本尊阿弥陀如来坐像の脇には法然上人像が厨子の中に安置されています。 また本尊の脇仏として伝観音菩薩立像 (重要文化財)像高 105cmと 伝勢至菩薩立像(重要文化財)    像高 104cmがありましたが現在は、京都国立博物館に寄託されています。

 
    釈迦如来。普賢菩薩、文殊菩薩三尊坐像(釈迦堂)
 
 十一面観音(宝蔵)

 8・ 釈迦如三尊像 
 釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩三尊座像 平安時代、鎌倉時代、木造漆箔・彩色。
 本尊釈迦如来像は、大型の肉髻部に小粒の螺髺らけい、円形に近い顔、両眼を細め、笑みを含んだ口元、丸みのある肩のせん、僅かな脹らみを出しながら張りのある胸部、やや水平に広く張った薄い膝前、流麗な衣文などに平安末期の様式を典型的にしめしている。 尚、光背は、雲中供養菩薩と迦陵頻伽かりゅうびんが(上半身が人で下半身が鳥だと言う想像上の生物)を精巧・華麗に彫り出して、桃山様式の木彫美を示している。
  中尊像高さ89cm、文殊・普賢脇侍32㎝の木像。脇侍の普賢ふげん・文殊両菩薩像は、丸顔で若々しく、均整の取れた体躯、流動的な衣文、截金きりがね文様など鎌倉時代末期の優作である。
 普通、普賢菩薩と文殊菩薩は白象と獅子の背に乗るか蓮華座にめり込んでいる。他にはない構図である。
9・ 十一面観音菩薩立像 (重要文化財)[ 宝蔵殿 ]          像高 168cm
 本像は楠材の一木造りで頭上の化仏と左肘の矧付はぎつけの他はすべて一材から彫り出している。また一般的に干割れを防ぐため、背面から像内を内刳うちぐりし、そこに蓋板をするのが多いが、この像は内刳りがない。 このことは原木が良く乾燥した良材であることを物語っている。
 造形的には頭頂の如来形をいかにも高々と持ち上げるような髪の形、美しく整髪されながら豊かな脹らみを感じさす地髪部、そして、半眼で張りのある頬や唇、がっしりとしたやや太目の三道さんどう(頚の形)、それにひきしまった体躯、その他各所の形などに、藤原中期の初頭を思わせる古様が多分にある。

 
  三面千手観音坐像(本尊)
 
  三面千手観音坐像(前立像)
 
   大日如来坐像

10.三面千手観世音菩薩
 奥の院の本尊は密仏である。作者不明となっていますが、鎌倉時代に大活躍した「慶派」の仏師「快慶」か「その他の慶派の仏師」であると考えられている。三面とは、本面と左右両側面を持ち、過去・現在・未来を観察する。頭上の二十鹿面と合わせると二十七面になる。通常拝観できるのは前立像であるが、前立像は本尊より1回り小さいが、脇手が2本少ない36本である以外は、本尊を忠実に写している。
 通常の千手観音(42臂)は、定印を結ぶ左右の2本と合掌する2本の手を加えるて42本で造られていますが、清水寺奥の院の三面千手観音は密仏、前立とも、
                 36440
と他の千手観音像(42臂)より、2本少ないのです。手が40本しかない千手観音(42臂)は日本広しと言えども清水寺だけなのです。
11. 大日如来坐像 (重要文化財)[ 宝蔵殿 ]                         像高 233cm

 門前二丁目に建つ大日堂の元本尊。 形状は、智挙印ちけん引を結ぶ、金剛界の大日如来で、檜材の寄木造り、漆箔仕上げである。 製作年代は不明であるが、頭上の髪型は平安初期に見られる螺髺らけい(ほら貝型)様なで古形である。 しかし、やや丸顔で、伏目の温和な面相、張りの少ない体躯の肉付き、ゆっくりと大らかな張りのある膝などの形からみて藤原末期の作品と推測される。江戸時代中期に補修された台座の天板の全面に、京中の大きな地名と大日講中、その他多くの寄進者名が墨書されていて、京都市民の深い信仰をうかがわせる。

 
   広目天立像(轟門)
   持国天立像(轟門)
毘沙門天立像(重文)(宝蔵) 

12.轟門二天像(広目天立像、持国天立像)
 平安時代、木造彩色、像高 広目天、170㎝、持国天、192㎝。 正面を向いて、殆ど直立不動に近い姿勢であるが、内面的に天部として毅然たる気品が込められている。鎌倉時代の院派系(定朝の一門は幾つかの派に分裂するが、定朝の孫院助が開いた派)仏師の作品ではないかと思われる。 共に檜材の寄木造りで、元来は彩色像であった。
13・毘沙門天立像(重要文化財) [宝蔵殿安置](非公開)
 像高 77.5cm 檜材の寄木造、截金きりがね文様入りの極彩色像で清水寺の仏像中最も華麗なものである。 造形的には、面相には凛々しい若者のようにがっしりした体躯に豪華な鎧に包まれている。また左手に持つ蓮台上の小さな如来は、左腰のかまえと力強く踏み出して赤邪鬼を踏み、力動感を漲らせている。
 製作は藤原中期の末頃と思われるが、浄土教美術の盛んな当時としては、この像こそ正に貴族好みの天部像といえよう。 本像で特に注目すべきは、左手上の如来形である。一般的には宝塔が乗っている。 

 
   月照上人(成就院)
 
    信海上人(成就院)
 
不動明王立像(宝蔵)

13.月照上人座像 明治時代、木造彩色、像高25㎝、(成就院)
 月照げつしょう上人(18358)は雅号。実法名は忍向にんこう。成就院住職の叔父・蔵海上人に弟子入りし薫陶を受け、真摯な律僧として仏道精進、23歳で清水寺本願職成就院の第24世になり、成就院と清水寺全山の改革に努力した。また、和歌をよくし、左大臣近衞忠煕たでぃろに師事した。その関係で勤皇活動に入り、安政の大獄のため九州に逃れたが、西郷隆盛と薩摩潟に入水し非業の死を遂げた(西郷は蘇生)。
14.信海上人座像 明治時代、木造彩色、像高、25㎝、(成就院)
 信海上人(181859)月照上人の実弟。兄に続いて蔵海上人に入門、その遺志により高野山に登り、清水寺が兼宗する真言宗小島流の復興の学行に励み、寛永6年(1853)に兄の隠居により。成就院第5世住職・清水寺正官となり、近衛忠煕の歌道に入門した。兄の勤皇活動を裏面から支援した。近衛忠煕らの要請で尊王攘夷の祈祷をした嫌疑で、兄の死後直ぐに逮捕され江戸小塚はらの露と消えた。
15・ 不動明王立像 鎌倉時代、(宝蔵殿)                
 像高 114cm 彫眼ちょうがんの天地眼(不動明王の目は天地眼と呼ばれ、左目は薄開きで現世の真実を見据え、右目は見開き邪な者を睨んでいる。 又は右目で天、左目で地を睨むとも言う)、胸部に密着した条帛じょうはく(絹製の帯状の着物)、腰から下脚に纏いつく裳など美しく藤原時代を思わせるが、均整の取れた成人の体躯をし、巻き毛、頬や顎、そして胸や腹部の脹らみなど写実的で、鎌倉初期の力強さを感じさせる。 檜材、寄木造の彩色像である。

 
   絵馬・角倉渡海船図(重文)(宝蔵殿)
 
    絵馬朝比奈草摺曳図(重文)(宝蔵殿)

16・ 角倉船 (絵馬)江戸時代(重要文化財) (宝蔵殿)
 本図は、京都の豪商、角倉氏が東京トンキンに派遣した朱印船を描いたものである。 角倉船は、唐船造りの大船で四百人近く乗組員がいたとされる。本図も末吉船に比べて構造が大きく、多数の人間が描かれている。甲板の中央で若衆が太鼓小鼓に合わせて舞い、周囲には双六を打つもの、カルタするもの、三味線を弾くものなどが描かれており、平和無事な航海にお様子を伝えている。
 清水寺には寛永九(1632)年、寛永十年、及び寛永十一年銘の絵馬があり、三点とも重要文化財に指定されている。大阪の豪商末吉孫左衛門吉安は、呂宋ルソン・東京トンキンなどの交易に朱印状を得て従事した。 本図は、吉安の子長方の代の絵馬で、東京トンキンから無事帰朝したことを謝して奉納したものである。  船中では、酒宴が行われており、中央では若衆が舞い、船首では双六を打つ者がいる。 
 17・ 朝比奈草摺曳図 ( 絵馬)桃山時代(重要文化財) (宝蔵殿)
  天正20(1592)年に奉納された、長谷川等伯の子・久蔵(15681593)25歳の絵である。彼は桃山画壇の巨匠長谷川等伯の実子で、25歳時の作品ながら力強く躍動感に満ちた表現は素晴らしく、父等伯に勝ると言われる天才画家であったが25歳の若さで死亡した。図は、勇猛で聞こえた朝比奈義秀が、好敵手の蘇我時致ときむねの鎧の草摺くさずりを力一杯引っ張っている様を描く。清水寺最古の大絵馬である。 願主は信州諏訪の休庵。

 
 清水寺参詣曼荼羅(京都府指定文化財)(宝蔵)
 
     子島寺曼荼羅(宝蔵院)

18.清水寺参詣曼荼羅 室町時代 (京都府指定文化財)(宝蔵殿)
 応仁の乱の兵火で文明元年(1469)に全焼した清水寺が復興・再建を成就して参詣で賑わう様子が描かれている。左下から中之島に架かる五条大橋を渡り、六波羅蜜寺→八坂塔→産寧坂さんねいさか→清水寺門前町(経書堂→大日堂と茶店)→子安塔こやすのとう)→馬駐うまとどめ→仁王門→西門→三重塔→成就院・本願院(田村堂)→轟門→朝倉堂→本堂・舞台→鐘楼→地主社→釈迦堂→阿弥陀堂→奥の千手堂と参詣する。下に音羽の滝が流れ落ちる。武家、男女庶民から西国巡礼・高野聖ひじり・琵琶法師などが群参し、桜見・遊宴も見られる。子安塔と鐘楼の位置、朝倉堂の舞台造りの変更以外は、現在とほとんど変わらない。右下の開山・延鎮上人と創建者・坂上田村麻呂将軍が」ガイド役を務める格好になっている。なお、本堂と朝倉堂・子安塔で男女が安産を祈願する姿がみられる。
19.子島曼荼羅 江戸時代 300×300㎝ (宝蔵殿)
 子島曼荼羅は、弘法大師が中国・唐から請来し、真言宗子島流の開祖真興しんごう9341004)が天皇の病気平癒祈祷の効験により下賜され飛行して子島寺に帰ったと言われる、子島流を象徴する至宝である。子島流の再興を悲願した月照上人は安政4年(1857)6月、大和の子島寺に籠って、この曼荼羅を謹写した。しかし、幕史の追補の手が及び清書の中途で都落ちしたために。この胎蔵界の中台八葉院図だけが観自在菩薩を欠いたまま未完成で遺った。

 
         清水寺境内図屏風」(宝蔵殿)

20.清水寺境内図屏風 江戸時代 104.6×302㎝ (宝蔵院)
 寛永6年(1629)にはほとんど全焼した清水寺が見事に再興され、桜花爛漫の境内の様子が金泥満々に描かれている。門前の茶店・馬駐から奥の千手堂・音羽の滝に至る堂塔の配置は、鐘楼の仁王門東隣への移転以外、「清水寺参詣曼荼羅」と変わらない。しかし、男女衆庶の游山ゆさん的参詣が一段と盛んになっている。

 
   清水寺遊楽図屏風(宝蔵殿)

21.清水寺遊楽図屏風 江戸時代、85×262㎝ (宝蔵院)
この図は、清水寺境内図屏風より一層、清水寺への信仰の賑わいとともの、物見遊山の名所として遊楽の様子が強調して描がかれいます。すなわち、馬駐・子安塔や朝倉堂・釈迦堂などが省略され、三重塔が四重塔に描かれ、阿弥陀堂の裏では幔幕を張り毛氈を敷いて盛んな酒宴を催しているだけでなく、本堂の舞台まで、宴席になっている。桜花は縮小し、人物表現を大きく描き出している。まさに元禄時代を迎える「清水寺遊楽図」屏風であろう。

 
    大黒天半跏像(宝蔵殿)
 
      文明の梵鐘(宝蔵殿)

22.大黒天半跏像 平安時代~鎌倉時代 像高76㎝ (宝蔵殿)
 四方嘉文付の宝冠を冠り、ひれ袖付きの上衣に肩掛け布を付け、腰布をまとい、沓先を花型にした華麗な服装で、右手に宝玉袋、左手に宝棒を持ち、左足を下げて座る非常に珍しい古式の姿をする大黒天像である。
23.文明の梵鐘 室町時代、金銅製 (宝蔵殿)
 高 210㎝、外口径124㎝、重量2365
 応仁の乱の兵火で文明元年(1469)に溶解焼失したぼん鐘に代って、願阿上人が大勧進募財活動を行い、堂0年(1478)、清水寺復興の第一号として鋳造。寄進し、11年戦乱の終息と京都の平和復興の合図を響かせた。銘文に「天下泰平国土安穏」とある。鋳物師は藤原国久。530年の間に金属疲労が進み、清水寺門前会が結成20周年を記念して平成2年に新鐘を鋳造寄進して交代し引退した。

 

 

参考文献
 ・大西良慶著「古寺巡礼京都“清水寺”」
 ・森清範著「古寺巡礼京都・清水寺」
    小学館編集「古寺をゆく清水寺」
 ・  探訪日本の古寺京都・洛東 
 ・  音羽山清水寺「公式ホームページ」等

 





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