京都・朱雀錦
(20)「延暦寺


延暦寺根本中堂

      1.概要
 延暦寺えんりゃくじは、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。 延暦寺の名よりも比叡山と呼ばれることが多い。
 最澄の開創以来、高野山金剛峰寺と並んで平安仏教の中心であった。 最澄は当初顕教の天台法華宗と密教を合わせ持つ顕密二教を行い、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。 特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
 「延暦寺」とは比叡山の山頂から東麓にかけた境内に点在する東塔とうとう、西塔さいとう、横川よかわなど、三塔十六谷の堂塔の総称である。 延暦7年(788)に最澄が一条止観院という草庵を建てたのが始まりである。 当初比叡山寺と呼んでいたが、最澄没後の弘仁14(824)嵯峨天皇より「延暦寺」の寺号が下賜かしされ、以後延暦寺と言う。
延暦寺は数々の名僧を輩出した。 日本天台宗の基礎を築いた慈覚大師じかくだいし円仁えんにん、智証大師ちしょうだいし円珍えんちん、延暦寺の危機を救いた又は建て直した、慈恵大師じえだいし良源りょうげん、慈眼大師天海てんかい、新興仏教の拠所となった「往生要集」を記した「恵心僧都えしんそうず」と呼ばれた源信げんしんがいる。 天台宗教学の特徴は、自宗の拘らず幅広く、円(法華経)・密・禅・戒・修験の五法門教えるのが特徴で、あたかも仏教の総合大学の様相を呈していた。 このため浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮など、新仏教の開祖が出たことから、「日本仏教の母山」とも称されている。
延暦寺は、過去崩壊の危機が2回あった。 1回目は、織田信長による焼き討ち、2回目は、明治維新の廃仏毀釈であるが、いずれも天海や村田寂順等によって復興し現在に至っている。


                             2.歴史
(1) 伝教大師最澄
 最澄は神護景雲元年(767)8月8日に、近江国滋賀郡三津ヶ浜(大津市下阪本辺の湖岸)で誕 生した。 父は300年程前に中国から帰化した後漢の孝献帝の一族であると伝えられる三津首み つのおびと百枝、母は妙徳、幼名を広野と呼んだ。 12歳の時、近江国分寺の行表ぎょうひょう法師の門に入って唯識学を学び、宝亀11(480)14歳の時に国分寺の僧最寂の死欠を補って得度した。 師僧行表法師の恩愛・期待も篤く、勉学・修行の成果をえて19歳にて東大寺戒壇院において大戒(具足戒ぐそくかい)を授かって、最澄は国家養成の僧侶として、いわゆる一人前の大僧となつたのである。
 しかし、最澄は栄達の道を捨て、郷里比叡山に籠つた。 最澄は、①無
数の衆生をさとらせよと誓う、②無量の煩悩を断ち切ろうと誓う、③無限の法門を学ぼうと誓う、④最高の仏道を悟ると誓うと言う「四弘誓願しぐせんがん」を発し山籠りの目的と決意を表した。 
  比叡山に登った最澄は、ささやかな草庵を建て、草庵に籠つて中国天台宗の開祖智顗ちぎが著した天台三大部といわれる「法華玄義ほっけげんぎ」「法華文句ほっけもんぐ」「摩訶止観まかしかん」 などの研究に没頭した。 やがて草庵の近くに小堂を建てて薬師如来を本尊として安置し、仏前 に法灯をかかげ、一条止観院いちじょうしかんいんと名づけた。 延暦7年(788)の頃である。 この時詠んだ和歌には、最澄のあつい真情ががこもる。
  あきらけくのちの仏のみ世までも光つたえよ法のともしび  最澄が比叡山に分け入った年は 、長岡京遷都の立役者藤原種継が暗殺され、桓武天皇の新都建設が挫折した年であった。 
  桓武天皇はほぼ十年毎に皇族を巻き込んで繰返される政争の都・平城京を捨て新しい都を造ろ うとする強い意志を持っていた。 しかし、長岡京遷都の失敗で、新たな都が模索され、延暦 13(794)年ついに都は京都に遷都された。 この平安遷都の直前に一条止観院の落慶供養が行われ ており、桓武天皇が願主になって営まれたと言う。 比叡山は都の鬼門、すなわち北東の守るこ とになった。 
  最澄が没頭してきた天台法門の研究成果は延暦17(798)年に比叡山で行われた法華十講で明ら かにされ、これを聞いて和気清麻呂の子広世と真綱まつなは京都の神護寺に最澄を招き法華会を 開いて講演させた。 この席には奈良諸大寺の高僧たちも加わり、講演の優秀さが桓武天皇にも 伝えられた。
  最澄はただちに入唐求法の還学生となることが許され、延暦23(804)年藤原葛野麻呂かどのまろを 遺唐大使とする遺唐船に唐に渡った。 留学の目的の第一は、中国天台宗の本山、天台山に参り 天台の教えを受けることにあった。 天台宗第7祖の修禅寺座主導随邃どうずいから天台法門と菩 提戒を受け、仏隴寺ぶつろうじ座主行満ぎょうまんから天台教学を学んだ。 そればかりか天台山禅 林寺の儵然しゅくねんから禅を、越州の順暁じゅんぎょう阿闍梨あじゃりから胎蔵界・金剛界の灌頂かん ちょうを受け密教を学んだ。 在唐わずか9カ月ではあったが、最澄はこの円禅戒密えんぜんかいみつ という多彩な法門の伝授を受けたことが「日本仏教の母山」と呼ばれる延暦寺の豊かさと広大さ につながっていく。   延暦24(806)年帰国した最澄は、桓武天皇に帰朝報告し、翌年1月26日 南都の諸宗と並んで天台宗の修行者の年分度者ねんぶんどしゃ二人が勅許された。 これにより日 本天台宗が朝廷から正式に公認され開宗されたのである。 
  最澄は東国と西国へ布教の旅にでて国家の安穏あんのんと人々の幸福を願って全国に六箇所の宝 塔を建て塔のそれぞれに「法華経」一千部を安置して、日本を一乗の仏国土とする願文を立てた 。 そして東西南北の中央に位置する山城宝塔院を比叡山西塔に、全国の総元締の総塔として近 江宝塔院を比叡山東塔に置くことを企画した。
  関東の布教の旅から戻った最澄は、国の立派な指導者となる菩薩僧を養成するためには、南都 の東大寺戒壇院で行っている小乗戒では不十分と考え、新たな教育方針に基づく教育(大乗戒) を行うため、比叡山に大乗戒壇院の設置を願いでた、しかし南都七大寺が激しく反対し、大乗戒 壇の独立は容易ではなかった。
  従来、全仏教界が得度とくどの後5年間律学を勉強して戒(延暦寺では小乗戒と言う)を受け ただけでただちに一人前の大僧として取扱われていた。 延暦寺では得度の前に6年の修学期間 を定め、得度の後に大乗戒を受けて菩薩僧になり引続いて山に籠って12年の修学生活生活に入る ことが定められている。 従来の仏教界の教育期間が僅か5年であったのに対し、延暦寺では前 後18年と長期にわたって充実した教育が課せられることになったのである。 
  弘仁13(822)年6月4日最澄は、56歳で一生を終えられたが、初七日朝廷より大乗戒壇院許可 の勅書が届き、最澄の願望が達成された。 

(2)     慈覚大師円仁第3代座主
  次に比叡山を支えたのは第3代座主円仁である。 円仁は師最澄の遺志を継いで、天台教学を 承け、これを大成させるとともに、最澄畢生ひっせいの願いであった大乗戒を軌道に乗せた。 ま た在唐十数年苦辛の結果得られた真言密教、念仏など各種の法を比叡山に移植され、延暦寺千年 の発展の基礎を樹立した。
  円仁は、794年関東下野国に生まれ、15歳の時比叡山の最澄の許に弟子いりされた。 天台宗 では、止観業しかんごう(法華・顕教)と遮那業しゃなごう(真言・密教)との二つの専攻科目があ り円仁は止観業を専攻した。 30歳の頃師最澄の遺志を継いで12年間籠山ろうざんの誓いを立 て比叡山より一歩も外に出ることなく、昼は後輩のために天台法門の講義を行い、夜は自らのた めの行としてもっぱら常座三昧(座禅)に専念した。 
  円仁42歳の時、最後の遣唐使の報せが円仁にあった。 天台学の請益僧しょうやくそう(短期間 の入唐研究僧で長期滞在の留学僧とわ異なる)として推薦された。 二度目の出帆の後、承和 (838)年6月唐国への航海が出来た。 ところが、いかなる理由か天台山の旅行許可がどうしても 下りなく、任を終えて帰国する遣唐使一行とも別れた。 円仁は、村の長老で世話役の王訓らの 献身てきな働きで唐での残留が可能になり、単身五台山へ巡礼の旅にでた。 異郷での放浪の旅 は艱難を極めたものであったことが彼の日記「入唐求法巡礼記」から知らされ、「入唐求法巡礼 記」はマルコポーロの「東方見聞録」に匹敵する旅行記として世界的に高い評価を受けていると 言う。 ようやく五台山に到着し、念願の天台宗を学び、更に都長安に入って大興禅寺、青龍寺 をはじめ真言密教の宝庫とも言うべき地で貪欲に勉学に励んだのである。 
  ところが円仁の長安滞在中、武帝の言語に絶する廃仏法難が起こった。 身の危険を察した円 仁は、世俗の姿になって長安を脱出した、円仁52歳であった。 再び放浪の旅が始まった。 
  迫害の中を帰国する船を求めて転々とすること2年余、ついに乳山にて船を見つけ帰国の途に ついた。 円仁が帰国できたのは、彼の不屈の精神と、人望があったのであろう、常に協力者が 現れ、無事帰国することができた、しかも厳しい検閲を潜りながら経典類584部、802巻、胎蔵 ・金剛両部に大曼荼羅及び諸尊の壇像、舎利並びに真影合わせ背合わせて50点を持ち帰っている 。 円仁等はこれらの土産を購入するため日本から相当量の砂金を持ち込んだものと推定されて いる。
  円仁が比叡山に帰着したのは、嘉祥元年(848)3月、円仁55歳であった。  円仁は帰国後、 真言密教の法を世に広めるために灌頂儀式を修することを願い出た。  一方、この頃安徳天皇 即位に際して、即位式の大典が無事に、円仁に対し大般若を修するよう勅命があった。 しかし 、円仁は、唐から将来しょうらい(求めに応じて持ち帰った)真言密教の中で特に日本に初めて伝 えた熾盛光しじょうこう仏頂法を修する強く勧めた。 ここにおいて朝廷の援助により灌頂と熾盛 光法とをそれぞれ修することが出来る灌頂堂と総持院の二つの堂が完成した。
  円仁は、止観業の顕教に比してやや劣勢であった遮那業密教を盛り立てて、比叡山教学がこの 後千年間、顕密二業両輪両翼の如しと称されるまでになった。
  円仁は、在唐中五台山竹林寺で行われた念仏三昧の法お弟子たちに伝授した。 竹林寺法照和  尚の音曲化された念仏を参考に、音曲化した念仏を取入れた。

(3)     智証大師円珍第5代座主
  円珍は、最澄、円仁に続いて中国に渡り、天台教学はもとより長安の青竜寺法全から灌頂を受 けるなど大いに密教を学び多くの密教経典、儀軌ぎぎ(儀式規則)、曼荼羅などを将来、また経 典の注釈論書を撰述し、空海の密教(東密)に匹敵する台密の基礎を築いた。
  帰国後も天台教学の研究に心血を注ぐ一方、清和、光孝、陽成三天皇の護持僧として、あるい は藤原良房、基経の帰依をえるなど、天台宗の布教に努めた。
  仁和3(887)年には草創以来、薬師堂、文殊堂、経蔵の三棟に分かれていた比叡山根本中堂を 今日の原型となる1棟に改築するなど比叡山延暦寺の基礎を固め、天台宗の興隆に尽力した。
  一方、大友氏から園城寺おんじょうじ(三井寺)を託され、これを天台別院とし円珍が初代長史 となった。 また、貞観8(866)年には、真言(含修験道)・止観両宗の弘伝を勅許され、自ら の教法が正式に認められるや三井寺を密教修学の中心道場とした。 円珍が天台座主であるこ 23年、円珍のもとに多くの秀な門弟が育った。 しかし、これが後ほど円仁・山門派と円珍・寺 門派に分裂する原因となった。 

(4)     慈恵大師良源第18代座主
  最澄・円仁流の山門派と義真ぎしん(第1代座主)・円珍流寺門派が以後激しく対立する原因が 生まれ、そして寺門派は比叡山を降り、三井寺を拠点として争った。
  いまだ円珍派が主導権を握り、円仁派が勢力を一気に盛り返したのは第18代座主良源の活躍に よってからである。 この時延暦寺は創建以来、未曽有の困難に直面していた。 承平5(935) 年3月6日根本中堂をはじめ山内の諸堂40ヶ所が焼失する大火災に見舞われた。 伽藍の再建は 遅々として進まず、延暦寺は荒廃を極めた。 こうした中で良源は諸堂を復興したばかりでなく 学問、修行の興隆を見事になしとげ、延暦寺中興の祖といわれ、比叡山三千坊と言われる最盛期 を築き上げた人である。
  良源は延喜12(912)年近江国浅井郡に生まれ、12歳のとき比叡山に登り西塔の理仙りせんの弟子 となった。 円珍門流が主導権を握っているときに師の理仙は円仁流であるうえにその傍流でし かなかった。 良源は東塔の法会で学才を発揮し、また奈良の興福寺で行われた維摩会ゆまに 威儀僧いぎそう(行事の進行役)として参加し南都の学僧を相手に法論して脚光を浴びたが、良源 を延暦寺の第一線の地位に推薦する師僧をもたなかった。 
  ところが、藤原師輔もろすけの娘安子が天暦4(950)年村上天皇の子憲平のりひら親王を出産する 際、良源が安産祈願をした縁で師輔の篤い信任を得た。 更に、憲平親王が生後二ヶ月で村上天 皇の皇子になると良源は東宮護持僧に抜擢された。 摂関家師輔の外護を得て諸堂の再建は順調 に進み、師輔の寄進で横川の法華三昧堂が出来た。 そして康保3(966)55歳で第18代天台座 主になった。 良源が座主になった年に二度目の大火に見舞われたが、見事に再建された。 
  良源は、最澄が南都仏教の小乗戒の制度から離脱し、比叡山独自の大乗戒を更に発展させた、 それが広学堅義こうがくりゅうぎと言う論議大会である。 堅義とは義理道理を立てることである。
  
広学とは、自宗の教義を研究するだけでなく進んで他宗の教義も広く八宗にわたって考究しな ければならないとの観点から広学と名付けた。
  かくして延暦寺は良源以後、論議が急速に発展し、学問の攻究に拍車がかかるにいたって千年 間、学山の名称をほしいままにするようになった。

5)     元亀の乱と天海
1)叡山の組織
   比叡山当時の組織は、院家、学生、堂衆、公人の四つに区分している。 院家とは、上級の
 公卿の家柄から出身した僧を言い、その住する堂舎を院と称した。 院には付属の荘園や領地が
 あり、その収益によりその院の維持がまかなわれていた。 従って院の管理維持運営は公卿出身
 の僧、すなわち坊官がおり、院内で行われる仏事、仏儀を準備用意する僧侶、経営事務を行う役
 人など多数を擁していた。 

 門閥に関係ない僧侶以下が、学生以下で、学生以下は上方、中方、下方に分かれている。 学生
 は衆徒とも言われ大部分が上方に属し、堂衆は中方、公人は下方に属していた。 学生とは、阿
 闍梨等を含む専ら勉学修行に励む僧侶である。 上方には衆徒学生の外に山徒と称される人々が
 いた。 山徒は、はじめは、清浄独身の学匠が住んでいた名家の出であったが中世以降厖大にな
 った延暦寺領の管理を任されたのである。 時代が下るにつれ院内の蓄財が大きくなると、隠然
 たる勢力を得て、多くの同宿僧侶の旗頭になり山麓に住坊を持って自然に妻帯世襲を習いとする
 ようになった。 

   中方には堂衆、所司、維那などがあった。 堂衆は上方の衆徒学生の下風に立って諸堂の謹行を勤
 める清僧である。 所司は諸堂堂内の供花、供物などをする役であり、維那は中世以来妻帯者となっ
 た者で、天台座主が外出すると
中世以来妻帯者となった者で、天台座主が外出するとき先駆け等
 する役。下方は公人くにん階級で法師原といわれ、頭は剃髪して丸坊主であるが妻帯している下
 法師である。こ の法師原の中で長者から選ばれた者が延暦寺の財物の出し入れを司る出納、山
 上各谷の宝蔵や文庫の番や、日々のお供物を用意する政所、比較的若輩の者は白木の八角の杖持
 って諸堂の警護にあたる。

) 僧兵
  武装した僧侶を僧兵と言う。 京都、奈良の大寺院の雑務に服する大衆(公人等)が自衛武装
 したもの。 平安時代末期には強大な武力集団とない、興福寺、延暦寺、園城寺、東
大寺などの
 寺院を拠点として寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家にたいして強訴を繰返し
た。 特に、興
 福寺は衆徒、延暦寺は山法師と呼ばれた。 白河法皇は、自分の意のままに
ならないものとして
 「賀茂川の水・双六の賽・山法師」を挙げており、僧兵の横暴が朝廷の
不安要素であった。
  比叡山の僧兵が朝廷の強訴に日吉神社の神輿を担ぎ込んだことで有名であるが、この神輿は桓
 武天皇が寄進したもので、重量五百貫(2トン)あったと言う。 この重たい神輿を平
安から室
 町時代にわたる
370余年間に海抜850mの比叡山を越え40数回運んだと言う。
  第5代将軍足利義量が急逝し後継者が無くなり、第4代将軍の弟で第153代天台座主義円が還
 俗げんぞくし第6代将軍足利義教よしのりとなった。 もともと天台座主であった義教は還俗
後す
 ぐに弟の義承を天台座主に任じ、比叡山勢力の取込をはかった。 また、満済をはじめ
多くの僧
 を顧問として宗教勢力の懐柔、掌握しようと試みた。 

  ところが、永享5(1433)年に比叡山が幕府に十二か条からなる要求を行い、義教は応じたのそ
 れにもかかわらず僧兵が暴動を起した。 ここに至って義教は激怒し、自ら兵を率いて
比叡山を
 攻撃、比叡山側は降伏して一旦は停戦する。 しかし、翌年には足利持氏(義教の
弟)の依頼で
 義教を比叡山が呪詛じゅそしているとの報を受けるに及んで再び出兵、最澄以
600年の歴史を
 誇る根本中堂を焼き、比叡山の高僧を数人斬首するに至り、永享7
(1435)年2月には僧侶を焼身
 自殺に追い込んだ。 そして、比叡山について噂する者を斬罪に処す
るとした。 これにより最
 大宗教勢力は室町幕府に屈したのである。

) 元亀の乱(比叡山焼き討ち)
  「天下布武」を掲げ、徐々にその版図を広げる織田信長であったが、その障害となったのは武
 家勢力だけではなく、寺社勢力も含まれていた。 当時の寺社勢力は、農民層をはじめとして多
 数の信者を抱えるだけでなく有力大名と結び、更には僧兵集団を形成し、各地で勃発する一揆の
 後ろ盾となって武器の供給や軍事指揮者の派遣を行うなど、自衛力を超えた軍事力が組織的に展
 開されていた。 延暦寺もその一つである。 比叡山は仏教信仰の「聖地」とされ、比叡山その
 ものは多くの人々にとって神聖不可侵の地として崇められ、それと同時に山全体が要害でもあり
 、
800年来の俗権不可侵の特権を持つ数百の坊舎は、宗徒が籠もれば数万の軍勢に耐える力を持
 っているといわれていた。 

  元亀元年浅井・朝倉連合軍は比叡山に逃げ込み抵抗した。 信長は山門宗徒に対して、味方に
 なればこれまで召し上げた山門領を返還するし、味方しないのであれば宗教者として中立的立場
 をとるようにと交渉したが、宗徒側はこれにおうぜず、つまり浅井・朝倉に
味方するということ
 で交渉は決裂した。 信長は比叡山山麓を包囲して連合軍を「干し殺し」
にする目算であったが
 、山門宗徒の援助を受けいまだ健在だった。 一方、伊勢国長島の一
向一揆蜂起など織田側の環
 境が悪化し、窮した信長は、
1213日将軍と天皇に働きかけて勅命を得て、連合と講和した。
 連合軍もこれ以上滞陣が長引くと兵糧の欠乏や積雪で帰国
が妨げとなる憂慮があり、双方に利が
 あり和睦が成立した。

  信長は年が明け元亀2年比叡山征伐を決意し準備にかかる。 まず正月2日近江国横山城を守
 る羽柴秀吉に命じて、姉川から朝妻に至る交通を海陸とも遮断させ、比叡山と浅井・朝
倉勢力が
 再び結びつくのを防いだ。 2月には近江国佐和山城に重臣丹羽長秀を置き止め、
本拠である岐
 阜から湖岸への道を確保した。 5月信長は長島一向一揆を攻めて苦労するが
その頃羽柴秀吉は
 、浅井と手を結ぶ近江国北部の一向一揆を箕浦の合戦で破り敗退させた。 

 8月18日信長は岐阜を出陣、近江国北部に向かった。 横山城にてしばらく滞在し、26は横
 山を出て中島に着陣し、その翌日は越前国に近い余呉、木の本を放火して横山城に戻っ
た。 28
 日今度は一転して南方に軍を進め佐和山城に入った。 9月1日、信長は、浅井に
通じた新村城
 、小川城を落とし、続いて江南の一向一揆の拠点である金ヶ森城(守山市金森)
を攻め開城させ
 瀬田に入った。 そして三井寺で短く休息した後9月
12日早朝、突然に海陸から阪本に迫った。
 
この信長の動きに、山門側は完全に虚を衝かれた。 織田勢は坂本の街を荒らしまわり、日吉山
 王二十一社や比叡山の象徴として諸人を畏怖させた神輿にも火がかけられた。 炎や
兵に追われ
 た人々は、ひたすら山頂を目指して逃げた。 織田勢は素早く比叡山の全ての出
口を封鎖した。
 合図とともに鬨の声を上げながら3万の織田軍がせめ、見つけられた者は
僧侶、老若男女構わず
 無差別に殺された。 山頂においても徹底的な破壊と殺戮が行われ、
根本中堂をはじめ、4,5
 百と言う堂塔坊舎の全てに火がかけられた。 殺された者は3、
4千人にものぼり、比叡山は死
 体で埋め尽くされたと言う。 この放火と殺戮は
15日までの4日間つずけられた。
) 延暦寺の復興の天海
  信長が天正10(1582)年6月京都本能寺にて明智光秀に殺されると、比叡山から逃れ各地に散っ
 ていた、高僧や僧侶達が続々と山に戻ってきて、探題正覚院豪盛しょうかくいんごうせいが中心
とな
 り延暦寺復興運動を開始した。 梶井宮、青蓮院、妙法院の三門跡をとおして朝廷に復
興を願い
 出る一方、信長亡き後、天下の実権を握った豊臣秀吉にも再三復興を要望した。 秀
吉もその熱
 意に促され、延暦寺再建の許可状を延暦寺に与え、山門三塔の寺領として山麓坂
本の田畑1500
 を与え堂舎の維持に当てた。 しかし、その被害はあまりに大きく、遅々
として進まなかった。 そこに現れたのが天海である。
   織田信長により比叡山が焼き討ちになると、武田信玄の招聘をうけて甲斐国移住する。 そ
 の後武蔵国の無量寿寺北院に移り、天海を号した。 北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠
豪と
 ともに家康の陣にいた。 関が原の戦いでは、参謀として家康に近侍した、その後展開
は、家康
 の参謀として、朝廷との交渉等の役割を担う。 
1607年にた探題に就任し、南光坊に住して比叡
 山を復興にした。 ただし、信長の焼き討ち前の延暦寺は3千坊と言われてい
たが、実際には四
 百坊程度であったが、現在は約百坊程度で焼き討ち前の4分の1程度の規
模であ。 寺領も1600年に、3500石加増してもらい、合計5000石となる。

6)廃仏毀釈と村田寂順
 一般に廃仏稀釈とは明治維新後に成立した慶応4(1868)年年3月13日に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3(1870)年1月3日に出された詔書「大教宣布」など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。
 神仏分離令や大教宣布は決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏稀釈運動とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。 神仏習合の禁止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。 祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏教・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制など急激に実施したために大混乱となった。 明治4年頃収まったが、長い間回復は困難であった。
 日吉神社は、日吉山王権現社とも呼ばれ、比叡山の地主神であったが、最澄が比叡山に一乗止観院(現根本中堂)を建立すると、守護神として崇敬した。 仏教色彩が極めて濃厚であったが、1868年神官が乱入し、日吉神社内にある仏像、仏具、その他仏教的色彩のあるものは、ことごとく追放したり、焼いてしまった。 そして旧社名山王権現社も日吉神社と改めた。 こうじた暴挙に対し、支配寺である延暦寺は上訴し、首謀者などは処分された。 しかし、この事件を契機に全国的に廃仏稀釈の動きが起こった。
島根県出雲鰐淵寺の住職村田寂順等が本山の危機を感知し、延暦寺に立ち返った時には、政府により、徳川幕府からの寺禄5000石は召し上げられた上、山林は勿論の事、軒下までの地面を除く全ての境内地は没収され、寺は貧乏のどん底に喘いでいた。 主な僧は四散し、世間知らずの老僧と小僧3~40人が残り、食材の確保にも窮していた。
 寂順は同じく本山を心配して駆けつけた兄弟子唯我韶舜と善後策を相談し、延暦寺復興には明治天皇の行幸を仰ぐのが一番と宮内庁に願いでた。 しかし、すでに行幸の予定が一杯で、大蔵参議の大隈重信が代参された。
 明治11(1878)1018日、この日はすさまじい大雨で人力車で京都から坂本まで来られた大隈さんは、蓑笠わらじ履きで根本中堂へと上った。 中に入ると破れた天井から雨が吹き込み、内陣は水浸しで机が浮いていた。 これを見て大隈重信はびっくりした。 東京に戻ると朝議にかけ、14年には宗叡会を組織して募金を始めた。 この結果同年末金千円、二年後には滋賀院禄と呼ばれる永世禄が下賜され、ようやく延暦寺の先も見えるようになった。 
  明治4年(1871)廃仏稀釈の嵐の中で国に召し上げられる前の延暦寺の所有境内地は1800歩である。 行政訴訟によって上地した旧境内地のうち1580町歩が変換され、さらに、大正(1920)120町歩が延暦寺の保管林とされ、維新前には及ばないが約1700町歩が延暦寺の境内・山林と認められた。 しかし、これは宗教活動や営林事業をするうえでの使用権を認めるもので、土地の所有権は依然国にあった。 昭和16年になってようやく国有地内地の処分に関する法律が作られ、延暦寺に変換された。  村田寂順は、明治29(1896)年第236代天台座主寂順となる。


                            3.修行
) 行院ぎょういん
 天台宗の僧になるのには、この行院で僧としての基礎を学び僧の資格を取らなければならない。 得度を済ませた学生や社会人達が60日間、修行に明け暮れする。 尼僧も例外ではなく、作家瀬戸内寂聴も行った。 
 ここでの生活は、朝2時、木鉦もくしょうの音で起される。 全員沐浴場に行き水をかぶり、いそいで衣に着替える。 玄関前に下駄を履いて整列し真言をあげながら5分ほど歩いて井戸まで列をなして行きます。 作法にのっとり、清らかな水を汲み、その水を仏に差し上げる。 一斉に始まる読経は比叡山の山々に響き渡ります。 毎日毎日カリキュラムに従って宗門の教えを学び、そして読経の仕方から仏前での作法まで学びます。 
「オン ソバハンバシュダサルマタラマソバハンバシュドウカン」これは護身法といい、身を守るために使う四つの真言の最初のもので、数十の真言を暗記しなければならない。 2ヶ月の行院生活のうち前半は、天台宗の教義や歴史、また教祖である伝教大師の考え方を学び、後半は四度加行しどけぎょうといって密教独特の仏さまの祈り方を学習します。 これが天台宗では千年続いている修行だとか。

2)法華大会と広学堅義
 法華大会ほっけだいえは5年に一度大講堂にて行なわれる。 午前の「法華十講」と午後の「広学堅義こうがくりゅうぎ」からなり、6日間行なわれ中日の4日目の正午に大講堂前で探題の行列、己講いこうの行列、勅使の行列が出会う「三方出会いの式」が華麗に行なわれる。 法華十講は、最澄が延暦17年に南都7大寺の名僧を招いて法華経の講義を行なった故事に因み、己講が法華経について講演をこなう。
 広学堅義とは法華経などを中心に広く仏教思想について考察を述べるもので、天台宗の僧侶として修めなければならない仏教全般に関する知識を堅者りとしゃと呼ばれる受験層に対し、己講いこうと呼ばれる試験官に諮問され、高僧探題たんだいと呼ぶ試験官によって合否を判定される。 
いわゆる天台宗学僧の卒業試験である。 康保3(966)18代座主良源が制度として定め、現在のように、5年に一度の法華大会に組み込まれてたのは、慈眼大師天海で自ら山門復興後の慶長14(1609)年の法華大会広学堅義で探題を務めている。堅者は、5人の己講から質問を受け、それを探題が判定する、それを5回繰返す。 広学堅義は深夜まで続くため別名夜義やぎと呼ばれている。
 天台宗では、行院で前行と四度加行を終了して正式の僧侶になり、更に入壇灌頂にゅうだんかんじょう、開壇伝法かいだんでんぽう、円頓受戒えんどんじゅかい、など3年におよぶ厳しい修行をおこなって堅者となり、広学堅義に合格すると己講、探題等の高僧に進む道が開ける。

) 四種三昧行
 天台大師智顗ちぎが説いた「摩訶止観まかしかん」にある。 顕教の奥義を習得するための止観行 には、常座、常行、半行半座、非行非座の四種三昧しじゅざんまいである。 仏道修行のポイントは念仏、座禅、歩行にあり、その組合せで精神統一図ろうとするものである。
 一期を九十日とし、専ら座り続けるのが常座三昧といい、眠気を覚ますための歩行と食事や排便以外は、座禅を続ける行で、西塔の法華堂で行なっている。
 常行三昧は経も読まず、睡魔に襲われた時だけ仏の名を誦ることが行で、西塔の常行堂で行なわれている。 非常に厳しい修行で、明治の頃、「もう常行三昧はしないでほしい」と言い残し修行中に倒れて死に、それ以後行を行なうものは絶えていた。 ところが、千日回峰を達成した酒井雄哉阿闍梨が、昭和47年延暦寺の住職になるためには必ずしなければならない三年間の籠山中に取入れ行なった。 常行三昧とは、堂内に籠って九十日間、「南無阿弥陀仏」と唱えながら、日夜本尊阿弥陀仏のまわりをめぐる行。 座ることも、体を横たえることも許されず、1メートル四方の縄床の椅子にもたれるように日に2時間ほど仮眠が許されているだけで、一20時間以上歩きずめの荒行である。 日を重ねるうちに酒井阿闍梨は感覚が麻痺し、やがて眠っているのか起きているのか定かでなくなり、幻聴、幻視などの幻覚症状も出てくるが終始自分を見失うことはなかったと言う。七日を一期として摩訶担持陀羅尼呪まかたんじだらにじゅを唱えながら道場を120回行道した後、十仏十王子を礼拝し、座禅冥想したりするのが、半行半坐三昧。 日常生活全てが止観の修行と言うのが非行非坐三昧だと言う。

) 行法
 行法とは、厳密に定められた礼拝、真言などの所作を通じ、仏の姿を感じることを指す。 坐ったまま、法具や念珠、香炉などを用いて仏との出会いを象徴している。 一日、7,8時間かけて本尊の元三大師や如意輪観音など七仏の姿を感応するまで行法は続く。 それを終えると、法華経の解釈について自問自答する。 元三大師堂にて3年間一日も休むことなく続ける。 
「看経地獄かんきじごく」と呼ばれて、千日回峰行などと並ぶ比叡山の「三大地獄」の一つに挙げられている。

) 籠山行
 最澄の著した「山家学生式」には、国家の宝である菩薩僧を養成するために学生は12年間比叡山の境界から出ず、止観、遮那両業を修行して学識ともにそなえさせると定めている。 修行を終えた学生には大乗戒授け、鎮護国家と国民福利のための祈念させると朝廷に対し約束した。
これに基づいて伝教大師の御廟である浄土院で大師の霊に使える「侍真じしん」制度「開山堂侍真条制」を定めたのは江戸時代元禄12(1699)年である。 
更に、その侍真になるためには、仏の姿をまざまざと見る「仏の好相」を得るまで一日三千仏を一々五体投地して礼拝し続ける。 毎日続けると膝や肘が赤むけになり、 日が重なって礼拝が何十万遍となると、意識が朦朧となり、魂だけ抜けだして礼拝してる状態になるが、何年たってもやめることが出来ない、首尾よく「仏の好相」が得られると、侍真僧の資格が得られる。 「好相行」は言語に絶する厳しさで、元禄12年侍真に挑戦した5人の一人が病死したと言う。 
侍真僧は、12年間世間から断絶し、伝教大師が今も生けるがごとくお守りし毎日給仕しつつ、修学に専心している。 12年籠山とは、朝2時の勤行、明け方の伝教大師への供膳、日中の勤行、日中の供膳、夕方の勤行を行い、合間には境内をくまなく掃除し、聖域を「一塵、一草をとどめず清掃ならしめる」、行は「掃除地獄」ともよばれている。 など12年間一日の如く変わりなく一人静かに勤めつづけなければならない。 

) 千日回峰
 千日回峰行は、「回峰地獄」と言われ、浄土院の「掃除地獄」、元三大師院の「看経かんき地獄」とともに延暦寺の三大地獄の一つで、延暦寺で最も過酷な行である。千日回峰行は、慈覚大師円仁の弟子相応が創りあげた、山岳修行を基本とする天台修験道が「千日回峰行」である。相応は山岳巡歴の苦行を通じて行者の精神力を鍛え上げ呪術力を養おうとした。 
 比叡山の回峰行が現在のような形に整備されたのは元亀2年の兵乱以後であり、東塔無動寺谷の玉泉坊流、西塔の正教坊流、そして横川の恵光坊流の3つのコースがあるが、酒井阿闍梨の師箱崎阿闍梨からは天正18(1590)から途絶えていた横川恵光坊流を使用している。 
 日回峰行は、
12年籠山行及び百日回峰行を終了し且つ許可を受けた特別の人しか行えないことになっている。 この行を終えた行者は延暦寺の記録では、僅か47人である。 また、この行を2回終えた者が3人おり、その中には現存の酒井雄哉大阿闍梨も含まれている。
昭和50年4月7日酒井雄哉氏は午前零時に起床、真言を唱えながら不動の滝に入り、身を清め、朝の勤行を終える。 「死に装束」と言われる純白の麻の浄衣に野袴、手甲脚半を身にまとい、草鞋を素足に履いた。 首吊り用の死出紐しでひもを肩にかけ、降魔の剣と自害用の短刀を腰にさした。 三途の川を渡る時の六文銭が入った「未敷蓮華みふれんげ」の笠を左に抱える。 さらに手文等を入れた袋えお肩から吊るし、右手に桧扇、左手に念珠を持った。 懐中には行き倒れになった時の備えに十万円の葬式代を携えた。
 朝1時30分、千日回峰行のスタートを切った。一周の距離はマラソンコースとほぼ同じ約40km。 ただし、直線の平坦な道は全くない、まがりくねり起伏の連続する山道である。 途中、古くから定められている260礼拝所で礼拝を行う、歩くと言うより、小走りに走り抜けなければならない、約8時間で40kmを踏破しなればならない。 修験道でよっぽど鍛えていなければ不可能である。9時半帰宅。 それから、師匠の食事や風呂の支度、掃除、洗濯、雑用、お勤め、来訪者の対応などの日課がある。 食事は2回、夜8時就寝、回峰行中の睡眠は4時間である。
 回峰行者は満行の日数によって身に付ける者が違ってくる。 素足に草鞋履きの姿が、300日目以降は足袋を許され、またそれまで手に持っていた未敷蓮華の笠もこの日から被ることも許される。 500日目から護法の杖の携帯も許される。回峰行は千日を7年かけて満行する。 千日だから3年で終わりそうなものだが7年である。
 酒井僧は6年目の赤山苦行の直前に怪我をしてしまった。 回峰行の道の中で最も嶮しい赤山禅院の道を歩まねばならない、行が進むごとに怪我は悪化し山中で歩けなくなった。 歩けなければ死ぬしかない、酒井僧は、一時は死ぬことも考えたと言う、しかし、なんとかその日の行を終えることが出来たと言う。 
 回峰行は、山中を激しく駆け巡る動の日とその行に出るために整える静の日がある。 この動と静のバランスか回峰行を満行できる基本になっている。 千日回峰行のうち、700日までは、自利行と言う自分が不動明王に近づくための修行である。 そのうち100日につき1日だけ利他行といい、人のために祈る修行をする。 75目のこの日、「京都切廻り」をする。 この日は比叡山を下り、京都市内45kmを行をしながら歩く。 多くの人が沿道でひざまずき、首を垂れて阿闍梨山の加持を待つ。
 700日を満行すると、回峰行発祥の霊場である明王堂にはいる。 これを「堂入り」と言い九日間絶食、断水、不眠、不臥の行。 回峰行中で最も過酷で激しい行である。 堂入り前、親しい人との今生の別れの儀式をする。 それから明王堂に入る。
 
堂内は内陣と外人に仕切られ、内陣では午前3時、10時、午後5時と日に3回、それぞれ1時間、法華経を読経する。 九日間で法華経全巻を読み終えなければならない。 外陣の籠所では禅定の形にすわり十万遍の真言を唱え、さらに日に一度「水取」といって不動明王に供える水を汲みに行く。 深夜の2時、200m程離れた閍伽井あかいまでの往復だ。 初日は15分で済んだ水汲みが八日目は45分もかかる。
 行の後半になると体から死臭が漂い、意識は朦朧とし、ふわふわと雪の上を歩いている感覚に包まれる。 堂入りを終了し、出堂した阿闍梨の頬は窪み、やせ衰えていたが、瞳は輝いていた。
 一般に的に普通の人間は1週間水を断つと死亡すると言われている。 人間の身体の約3分2が水で、成人男性は体重の6065%、女性は5060%が水である。 人間は毎日体重の2%水を放出し、8%(4日目)失うとめまいを感じ、思考力が鈍くなる。 1420%(7~10目)生理機能か停止し、死亡する。 更に通常の人は3日が限界と言う、不眠・不臥を9日間続ける、超人的な行である。
 普通であればとっくに死亡するところであるが、酒井阿闍梨は生きていて、意識もしっかりいて、以後の修行も続けることができた。


                           4.境内

 

 比叡山の山内には「東塔とうとう」「西塔さいとう」「横川よかわ」と呼ばれる3つの区域に分かれている。これらを総称して三塔と言い、さらに細分して三塔十六谷二別所と呼称している。 この他に、山麓の阪本地区には本坊の滋賀院、「里坊」と呼ばれる子院群、比叡山とは縁の深い日吉大社がある。三塔十六谷二別所とは、東塔―「北谷、東谷、南谷、西谷、無動寺谷」、西塔―「東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、北谷」、横川―「香芳谷、解脱谷、戒心谷、都率谷、般若谷、飯室谷」、別所―「黒谷、安楽谷」を言う。
   A東塔
(1)根本中堂(国宝)
 根本中堂は、静かな北谷の底に巨大な銅板葺の屋根がど っしり構えている。 いかにも一山の象徴と言う風格だ。根本中堂の当初の名称は、一乗止観院と言う。 鎮護国家を祈る道場として延暦寺の中で最も重要な施設だ。延暦7(788)年伝教大師最澄が建てた薬師堂、文殊堂、経蔵の三棟が始まりで、慈恵大師良源の時現在の形になった。 現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19(1642)年に徳川家光によって再建されたものである。 入母屋造 りで幅37.6m、奥行き23.9m、屋根の高さ24.2mの大建築である。
 「コ」の字形をした回廊には曲線も美しい唐破風の出入り口がる。 中堂正面は木の骨組みに薄板を入れた桟唐戸さんからどで上下に開いて把手で吊り下げる二枚の半蔀しとみ格子が嵌められている。 外陣と中陣の間には、太くて高い柱が立ち並び、壮麗で厳粛な雰囲気を漂わせている。 柱などの主要部には特殊な朱漆塗、柱上には和様、三手先組物、組物間には彫刻入り蟇股を飾り、いずれも極彩色である。 垂木や尾垂木おださき木口緑としたのは類例が少なく珍しい。 天井廻りも勾配なりに外側は化粧屋根裏、奥の方は格天井になっていてその裏板(天井板)は200枚、それぞれ違った草花が極彩色で描かれ極め て豪華である。 続く回廊のを入れると250枚に及び最も数の多い百花天井である。
 内陣の土間は外陣の床より3mも低い、独特の構造になっている。 内部には3基の厨子が 置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を安置する。 本尊厨子前に釣灯篭は最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。 この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に至っている。
 尚、根本中堂建造物及び須弥檀と厨子は国宝に、回廊は重要文化財に指定されている。
   
               文殊楼                       大講堂(重要文化財)
(2)文殊楼
 根本中堂の前にある急峻な石段
を上ったところが文殊楼である。丹塗りの残る立派な山門で、左右の火灯窓かとうまどがアクセントになって清楚な美しさを漂わせている。
 慈覚大師円仁が中国五台山の文
殊菩薩堂に倣って創建し彼の死後870年完成し、4隅には天台山から運んだ霊石が埋めてある。当初の建物は桧皮葺五間で高さ五丈三尺(16)、広さ五丈三寸(15.2)の二階建てだった。上楼には香 木の文殊菩薩坐像、脇侍として文殊菩薩立像、普賢文殊童子像などが安置されている。 急な梯子段を登った楼上は香華の絶える時がなかった。
 現在の建物は寛永
19(1642)年に再建されたもので、東を正面に、三間二間のどっしりした二 階建ての重層門となっている。 下層は禅宗様式、上層は入母屋造りで、和様と混合様式だ。

(3)大講堂(重要文化財)
 大講堂は、根本中堂の西南の平地に建つ。現在の建物は、昭和31年旧堂が焼失したあと,寛永11(1634)年に建立された日吉東照宮の讃仏堂を昭和39(1964)年に移築したもので、鐘楼と広い庭を持っている。
 現在の建物は、七間六間の入母屋造り、銅板葺の屋根で表面は桟唐戸や蔀を用いている。大講堂の本尊は胎蔵界大日如来、脇侍には弥勒菩薩と十一面観音菩薩を祭ってある。左右の脇陣には比叡山で修行して後に一宗一派開いた各宗宗祖の木造が祭られている。外陣の長押なげしには天台宗開祖の智頴ちぎや釈迦・十大弟子、聖徳大師、桓武天皇などゆかりの人々の肖像画がかけられている。大講堂は5年に1度の法華大会の舞台となる。

(4)法華総持院 
 法華総持院は、東塔院とも呼ばれ、総持とは、密教を合せ持つことで、その修業、修法のための堂塔である。鮮やかな赤色の柱や欄干と白壁が美しいコントラストをみせている。総持院は、昭和55(1980)再建されたもので、上から見ると正方形の多宝塔である。
上層には仏舎利と法華経1000部が収められている。下層には須弥壇法華総持院東堂を設け、胎蔵界大日如来を中心に五体の仏像と般若心教50万巻、1000万編の念仏名号が安置されている。
 伝教大師は、法華経で全国を平和にしようと発願した「六所宝塔」の内、近江宝塔院として 国中安鎮の願いを込める計画であった。 最澄が生きている間には実現しなかったが、第三代坐主円仁は嘉祥3(850)年総持院を建て密教の呪法熾盛光法を行ったと伝えられる。

(5)戒壇院(重要文化財)
 伝教大師の祈願だった一乗(大乗)戒壇設立許可は、最澄の死後七日目に下り、戒壇院は天長4(827)年頃建立された。何度も焼失し、現在の建て元は、延宝6(1678)年の建造。正方形の基壇に、柱間3間で大きな裳階もこしをもつ一階建ての戒壇院が建つ。屋根は栩葺とちぶき(板葺きの一種, 杮葺こけらぶきは5mm前後、栩葺は1cm以上の板を使う)で頂上一点に集まる宝形造りになっている。上の屋根には、軒唐破風があり、和様、唐様、禅宗様の混合した建て方となっている。
 正面中央に両開き桟唐戸があり、両側に釣鐘の形をした火灯窓がくり抜かれている。朱の跡が残る壁と黒塗りの扉を持つ建物は端正な佇まいを感じさせる。内部は、石敷で中央にある須弥壇には釈迦如来、文殊菩薩、弥勒菩薩が祭られている。 天台宗の僧侶はここで受戒して国のために尽くす菩薩僧になることを誓うのである。


           法華総持院

        戒壇院(重要文化財)

(6)灌頂堂
 このお堂は、法華総持院の中の一堂で、元亀2年織田信長の焼き打ちのため焼失したが、昭和59年5月、佐川急便グループ佐川清会長の御寄進によって復興された天台密教の伝法道である。 灌頂とは、お釈迦様が誕生になったとき甘露の雨が降ってお釈迦様の頂きに注がれた故事に始まり国王の戴冠式には四大海の水を頂きに注いで王位証明したことからその名がある。
 
この道場では、伝法灌頂、結縁灌頂など伝教大師が桓武天皇の勅命によって中国から伝承した秘法が僧侶や信者に伝えられている。 堂内には中央に祀られた大きな曼荼羅が香華燈明によって荘厳せられ受者(灌頂を受ける人)が天台声明てんだいしょうみょうの梵音に導かれながら曼荼羅に華を投じて御仏と当来成仏の縁を結び、大日如来の五智の法水を頭上に注がれて仏の知恵を身に受ける儀式が行われる。僧侶の伝法は毎年9月に、信者のための結縁灌頂は年中適当に執り行われる。結縁灌頂は、どの仏に守り本尊となってもらうかを決める儀式。 投華得仏とうけとくぶつといい、目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、華の落ちた所の仏と結縁する。 

(7)阿弥陀堂
 この堂は昭和12年(1937)に行われた、比叡山開創千五百年を記念して建立さたもので、滅罰回向の道場おして全国信徒各家の御霊を祀り、日々不退に念仏回向する道場です。建築様式は大きさ方5間(柱間が5つの正方形)で、鎌倉初期の手法を凝らした純和様式がとれれ、内部の彩色は藤原時代に模してあでやかで、殊に内陣天井廻りは 美しい極彩色を施し、御本尊は彫刻界の権威者、内藤光石氏によって彫られた、丈六の阿弥陀仏坐像が祀れれています。

8)国宝館 
 山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示する。

9) 大書院(非公開)
 日本屈指の名刹・比叡山延暦寺の迎賓館である大書院は、“たばこ王村井吉兵衛”の東京赤坂の邸宅「山王御殿」を、昭和3年に移築したものでr、建築界の大御所武田五一の設計による近代御殿建築の代表作としてしられる。 

(10)無動寺(明王堂)
 無動寺は、根本中堂から南へ1.5km程はなれたところにあり、千日回峰行の拠点である。無動寺谷は、標高550m、比叡山の中腹、坂本ゲーブルの延暦寺駅の南に位置している。無動寺谷は、回峰行者の拠点であり不動信仰の谷になっている。無動とは、不動、不動明王を意味し、不動明王は大日如来に代わり、回峰行者を守護するとされている。無動寺谷は、東塔の5谷(東谷、西谷、南谷、北谷、無動寺谷)の一つに属する。
 平安時代、相応和尚は比叡山で等身の不動明王像を仏師仁算に刻ませた(または自作)という。 貞観7年(865)、相応は明王堂(無動寺)を建立し、その不動明王像を本尊として安置した。 以後、無動寺たいは、千日回峰修験の中心地になる。 1571年、織田信長の比叡山焼き打つで焼失したが、天正年中(158492)に明王堂など再建された。

(11
)大黒堂
 伝教大師最澄が比叡山に登ったおり、この地において大黒天を感見したところであり、日本の大黒天信仰の発祥の地といわれている。 本尊の大黒天は「三面出世大黒天」と言われ、大国天と毘沙門天と弁財天が一体となつた姿をしている。

12)万拝堂
 日本全国の神社仏閣ん0お諸仏諸菩薩諸天善神を勧請し、合わせて世界に遍満する神々をも共に迎えて奉安して、日夜平和と人類の平安を祈願している平成の新堂である。

   B西塔

 

 

            釈迦堂(重文)                       常行堂・法華堂

(13)釈迦堂(重要文化財)
 正式には転法輪堂てんぽうりんどう法華延命宝幢院ほうとういん釈迦堂という。 この和風の建物が西塔の中堂で、創建は承和元(834)年第二代坐主円澄和尚による。 
 現在の建物は、文禄4
(1595)年に山麓の円城寺にあった貞和3(1347)年建築の弥勒堂=金堂を移築、改修したもので、7間(22.7)×7間(23.0)入母屋造りの大きな屋根は栩葺とちぶき模した銅板葺、正面には高い12段の石段がある。丹塗りの縁が側面まで巡らされて、正面は前面板戸。 側面には連子窓が切ってある。 後方5間の内陣には根本中堂と同様の土間で外陣より2m程低くなっている。中央に据えられた大宮殿には本尊釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩が祭られている。

(14)常行堂・法華堂 (重要文化財)
 堂、左に常行堂じょうこうどうという二つの同形のお堂が並び間を渡り廊下が繋いでいるので、荷を担う「担にない堂」と称される。 武蔵坊弁慶がこれを担いで比叡山に登ってきた、などという俗説もある。 バランスの取れた左右対称の美しい建物で、常行堂は寛平5(893)年第十代坐主増命ぞうめいが創建したもの。
 現在の建物は、信長の焼き討ちで焼失後、文禄4(1595)年に再建された。 どちらも5(12.5)×5(12.5)の正方形で、栩葺とちぶき(板葺きの一種)の屋根は宝形造り、渡り廊下は中央部が高くなっている。 
 丹塗の柱は全て丸く出入り口は黒塗りの板扉。 半蔀を吊ってあり、がっちりした建物の周囲の老杉の緑に映えて美しい。 内部は板敷きで丸い柱で区切った中央三間は須弥壇を築き安置している。 常行堂には阿弥陀如来、法華堂には普賢菩薩を祭ってある。 厳しい修行の場として使われ、常行堂では常行三昧じょうぎょうざんまいが行われ、法華堂では常坐三昧が行われる。
 常座三昧は、90日間座り続ける修行。 常行三昧は、90日間、昼夜24時間阿弥陀仏の周りを念仏を唱えながら歩き続け、疲れたときは立ったまま仮眠は許されるが、横になることは許されない過酷な修行である。

15)浄土院
 浄土院は、延暦寺の開祖伝教大師のご廟所で、比叡山中で最も清浄な聖域である。大師は一生を大乗戒坦院の独立に捧げられ、弘仁こうにん13年(822)6月4日中道院において、586歳で入滅された。
 弟子の慈覚大師円仁が、仁寿にんじゅ4年7月(854)この地に中国五合山竹林院を模してご廟所を建立し、大師の御遺骸を祀り、以来ご廟を守る僧侶を侍真じしんといい、一生山を降りない覚悟で昼夜を分かたず、厳しい戒律のもとに心身を清浄にして、生身の大師に仕えるように、今も霊前の御給仕に明け暮れしている。
 侍真は、早朝より薄暮まで勤行と掃除勉学修行に励んで、12年間山を降りない籠山修行の内規に則って、生活しています。

(16)相輪橖(重要文化財)
 釈迦堂はら細い山道を5分程登った所にある。 五重塔などにある九輪に柱をつけたもの。正式には浄菩薩心無垢じょうぼさつしんむく浄光摩尼幢相輪橖じょうこうまにどうそうりんとうと呼ぶすっきりした姿の塔である。 伝教大師が鎮護国家を祈念して各地に建立し、法華経1000巻を奉納し、国民利福を願うと発願した六所宝塔のうち、比叡山上に建立した物の一つであった。
 現在のものは明治28(1895)年に鋳造された青銅製で高さ14m、法華経や大日経などの大乗経58巻をおさめている。

17)瑠璃堂(重要文化財)
 西塔地区から黒谷へ行く途中にある。信長の焼き討ちを免れた唯一の堂と言われている。 三間四方の優雅な小堂で、入母屋造り桧皮葺きの屋根が美しい。 本尊は薬師瑠璃如来、左右の火灯窓、中央の桟唐戸など、細部に唐様と禅宗様式を残した建築で室町時代のものと考えられる。

13)黒谷青龍寺
 西塔地区から1.5km程離れた黒谷にあり、法然が修行した場所として有名である。

     C横川

 


             横川中堂
 
  四季講堂

9)横川中堂
 横川よかわは、西塔から北へ4kmあり、慈覚大師円仁が開いた修行の地。 横川中堂の開創は嘉祥3(850)年、円仁が入塔後、ここに建った首榜厳院しゆりょうごんいんを始めとする。 
 その後榜厳三昧院りょうごんさんまいんなどを建てて横川を整備発展させたのは慈恵大師良源である。 横川中堂は、何度か焼失した。 昭和17(1942)年落雷で焼失したが、昭和46(1971)年、開祖1150年大遠忌を機に原型通りに再建された(鉄筋コンクリート)。 2mばかり下がった内陣中央の須弥壇に本尊聖観音菩薩、不動明王、毘沙門天の三尊が祀られている。

(20)元三大師堂
 慈恵大師良源は、永観3(985)年正月三日に入滅したので、元三大師とも呼ばれる。その良源が住んでいた定心坊じょうしんぼうが後の四季講堂、現在の元三大師堂である。建物は五間四間の瓦棒入り銅板葺で砂利を敷き詰めた石庭の中央を石畳が真直ぐ伸びている。 もともとの本尊は弥勒菩薩であったが、元三大師の護符が庶民の信仰を集め、元三大師が本尊となった。
 この堂が四季講堂と言われたのは、5年に一回行われる広学堅義と言う口頭試験の準備として春夏秋冬の四季に法華八講を行ったことをさしている。

21)根本如法塔
 法華経を納めた多宝塔で、横川中堂の向かいの尾根中腹にある。 天長十(833)年頃円仁は法華経を書写し、これを轆驢塔ろくろとうとよばれる小さな塔に納め安置した。 その後、覚超かくちょうらによって長元4(1031)年、その轆驢塔を納める銅製の外筒が作られおよ130年後の承安年間(1173)に根本如来堂の地下に埋めた。 この外筒と上東門院彰子の寄進した金銅の経筥きょうばこは対象12年の回収時に発見されたが、納められていたはずの経と轆驢塔は消失していた。
 現在の塔の高さは15m。 上層は円形で下層が正方形の二重の塔で屋根は銅板葺。


                       5.文化財宝物
   A 彫刻

     
   木造聖観音立像(重文)       木像釈迦如来立像(重文)      木造千手観音立像(重文)

 (1)     木造聖観音立像 (重要文化財) [横川中堂] 像高 171cm
 観世音菩薩は、梵名をアヴァロキテーシュヴァラと言い、観世音菩薩とも観自在菩薩とも訳される。前者は、世間の衆生が救いを求めるのを聞くと直ちにそれを救済するの意。後者は、一切を観察しながら衆生を自在に救済するの意で、人々の世俗的な願望をかなえてくれる現世利益げんせりやくの仏として、中国、朝鮮、日本を通じて広く信仰された。日本では白鳳時代(7世紀中葉)から信仰され、それ以後顕教・密教の別なく信仰された。
 
この場合、人々の観音にたいする要求は多様で限りないが、それらの要求に答えて、十一面観音、千手観音、如意輪観音などいわゆる変化へんげ観音が観音菩薩を元として派生してくる。 変化観音が成立してからは、元々の観音を聖観音と」呼んで変化観音と区別する。そのうち、観音信仰の中心が横川中堂の聖観音像である。
 この観音菩薩については伝説がある。承和14(847)年慈覚大師円仁は入唐求法の帰路、海難に遭遇したため心に観音を念じて救いを求めたところ、毘沙門天が現れ、その導きで無事帰国することができた。それで大師は帰国後、聖観音を造立して横川中堂にまつり、毘沙門天を左脇侍に安置した。その後、慈恵大師良源がさらに不動明王を観音の右脇に追加安置して三尊形式にした。
 その後、仁安4(1169)年横河中堂は火災で焼失した。その時当初の三尊像も消失しその後、作られたものと推定される、この観音像は、宝髺ほうけいを三角形の形に結いあげ、腰を軽く左に曲げて立つ。手印(印相)は左手に未敷蓮華みぶれんげをとり、右手は第一指と第二指を接して左手の蓮に添え、その一花を開こうとする姿である。プロポーションも量感も良く均整が取れている。 比叡山に残る彫刻のうち屈指の名作であるばかりでなく、叡山草創期の円仁時代の彫刻の面影を伝える遺像としてその価値は極めて高い。寄木造、彫眼、全身には檀像たんぞう(紫檀したん、白壇びゃくたん等の香木を用いた像)に似た精緻な木肌えお見せる。

2) 木造釈迦如来立像 (重要文化財)[釈迦堂] 像高 78.4cm
 西塔釈迦堂の本尊で二重の厨子内に秘仏として安置されている。 現存の本尊は清涼寺式釈迦像である。 京都嵯峨清涼寺の釈迦像は、寛和2(989)年、東大寺の僧奝然ちょうぜんが太宗皇帝の宮中に秘蔵されていたインド伝来の「優塡王うてんおうの釈迦像」を模刻し請来したものである。 奝然請来の釈迦像は「三国伝来の霊像」として当時から人々の信仰を集めていたが、特に平安末以来、仏教の復古的運動を背景として多くの模刻像が作られた。 この模刻像を清涼寺式釈迦像と詠んでいる。 この模刻像は通常の釈迦像と違い頭部には縄目状の髪形を結い、白豪びゃくごう(額から生えた白色の施毛)がある。
 
著衣は通肩の形式で表面に装飾的な流水文の襞をたたみ、膝部には杓子文しゃくしもんと呼ぶスプーン型の襞を刻んでいる。 顔立ちは頬が平たく、切れ長の目をもち手首の細さに比べて手が異常に大きいことが特徴である。 
 釈迦堂の清涼寺式釈迦像の顔立ちは丸顔にかわり、表情も穏かな印象をみせ、外来の異国的な彫刻を日本人の趣向に作り変えた日本的消化を示すものであろう。 鎌倉前期の製作と考えられる。

3) 木造千手観音立像 (重要文化財)[旧山王院]  像高 51.2cm
 千手観音関係の経典は、奈良後半になると雑密ざつみつ(空海が密教を導入する前の密教)の浸透を背景として次第に信仰を獲得し、以後平安、鎌倉を通して広く信仰され遺品も多い。形姿は正面の合掌手を除いて実際に千本の手を背負うのが正しくその違例は唐招提寺金堂の千手観音像に見ることができるが、通常は40本を背負い、一手がそれぞれ25本を代表すると説かれている。
 山王院に伝わる千手観音は一木作り、彩色仕上げの像。 頭部が大きく、眼は切れ長で鋭い、眼、鼻、唇の造作は面部のやや下に集まる。 この種の像は普通、檀像で香木を用い緻密な木肌を生かし鮮やかで動きに富んだ彫法を見せ、素木仕上げが特徴でる。 
 ところがこれを受け入れた日本の場合、彫法には類似の特徴が見られるものの檀木が得られないので多くの場合、桧を用い、後彩色を加えた。 

4)木造四天王立像 (重要文化財) [旧釈迦堂]
 像高 伝多聞天 144cm, 伝広目天 150cm
 延暦寺には優れた四天王を三具残している。 第一は、もと根本中堂に安置されていて、今横川秘宝館移された四天王四躯(平安末期)、第二は、西塔釈迦堂須弥壇前方左右に立つ二躯の四天王(持国、増長、鎌倉末~室町初頭)、残る一具は、同じく釈迦堂の後方左右に安置されていた多門天、広目天と伝える二躯の四天王で製作年代は平安前期(九世紀末)までさかのぼる力強い彫刻である(現在横川秘宝館)。
 多聞天像は、右手を右脇に構え、左手を高くさし上げて戟げき(槍に似た武器)をとるかたち、広目天像は、両手を腰のあたりに構えて持ち物をとる形姿である。 ともに一木造りの彩色像で、両像とも肩から腕部にかけて後世の修理があるが、体躯は重量感に富み腕や足も太く、頭部を肩で埋めるように表すなど全体にどっしりとした重量感を感じさせ、腰をねじって身構える姿態にはたくましい動性もあふれている。 顔立ちや著衣の彫りにも鋭さがある。 延暦寺に残る数少ない平安前期の遺像である。
 伝広目天像の頭部前面に翼をひろげた鳥形を彫りだすのも興味をそそう。これと類似のものに兜跋とばつ毘沙門天の宝冠がある。 

(5)木造不動明王二童子・五大明王像(重要文化財) [無動寺明王堂]
 木像像高 不動明王 69.0cm、 制多迦せいたか童子39.9cm、矜羯羅こんがら童子37.4cm
          軍茶利明王 84.1cm、大威徳明王 73.1cm、 金剛夜叉明王 86.8cm
          降三世明王 80.7cm
 密教は大日如来の説く体系的な教えのことである。 その密教神のなかで最も信仰を集めたのは不動明王である。 不動明王は大日如来の使者と言われ、大日如来の憤怒の姿を象徴すると説かれる。 造形的には、普通独尊像として作られるが、制多迦童子と矜羯羅童子を左右に従えた三尊形式で現れるのも多く、また、四方に降三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉の四明王を配し五大明王像として安置されることも少なくない。
 明王堂の不動明王三尊像と四大明王四躯はもともと一具の像ではなく、製作年代が異なる。前者は江戸時代、後者は室町時代と推定されている。 不動明王は左眼を半眼とし、左右の牙を上下に噛み出すおどおどしい姿で現れ、右手に利剣、左手に索をとる。 
 
体の色は青である。 制多迦童子は、岩座に坐して棍棒を握り、矜羯羅童子は同じく岩座に坐して右手に蓮華、左手に経巻をとる。 いずれも姿態は形にとらわれない、自由さを持ちながら全体を良くまとめ、近世の遺像としては佳作ぞくする。
 四明王ともに定型にしたがい、軍茶利は一面八臂で身に蛇がまきつき、降三世は三面八臂の像、金剛夜叉は三面六臂で金剛鈴をとり、大威徳は水牛の背にまたがり四面六臂六足の像である。 表現は室町彫刻の例にもれず、たくましい力強さはないが、ここではプロポーションや量感など全体の構成を破綻なくまとめ、また著衣の襞には写実的手 法を用いるなど作者の工夫のあとがうかがえる。

(6)木造阿弥陀如来像 (重要文化財) [] 像高 1cm
 平安・鎌倉を通して全山に阿弥陀仏を安置したが、近世の戦火でそのほとんどを失い、今山内に数体の阿弥陀仏を伝えるにすぎない。 最も」ふるいのは旧阪本滋賀院の阿弥陀仏像である。 
 
像は、胸部にU字形の襞をたたみ、下半身にはY字形の構図で襞を直線的に刻み、両肘にかかる袖はゆるやかなひるがえりをみせて垂下する。顔立ちは切れ長い眼を半眼とし、いかにも端正で理想化された表情を見せている。螺髪らぼ(タニシ状髪形)は大粒でやや額にかぶさる感じである。 この阿弥陀仏は鎌倉初頭の著名な仏師である快慶が創始した「安阿弥様あんなみよう」と言う理想化した彫刻様式である。 ただし製作年代は快慶より一時代降った鎌倉中期(13世紀)と考えられる。寄木造り、玉眼入り、彩色仕上げ。著衣に截金きりがね文様が見える。

(7)木造大黒天立像(重要文化財) [旧律院] 像高 76cm
 大黒天はインド宗教・ヒンドゥー教シバ神の化身であるマハーカーラがインド密教の取入れられ密教の神となった。 密教の伝来とともに日本にも伝わったが、「カーラ」が黒を意味したため、日本仏教では「大黒天」と呼ばれ三宝(仏・法・僧)を守護し、飲食を司る。 また、福徳の神として信仰をあつめ、近世以降は七福神の一つとなった。
 形姿は、鎧を著けた天部形と烏帽子かたの二種がある。
  () 天部形(武人姿)で床坐に半跏坐はんかざ(右足を左腿の上に乗せた姿勢)とし、両手にそれぞれの金袋と宝棒をとるかた。()烏帽子、狩衣姿で袴をはき、左肩に大きな袋を背負う形()の烏帽子姿は後に、右手に打手の小槌持ったり、、俵の上に載ったりする。延暦寺の大黒天は三の顔を持つ変化大黒天像である。 大黒、毘沙門天、弁天の合体と称する三面大黒である。 鎌倉末の正安2(1300)年に造立、現存する在銘像の内最古の遺例である。
 体躯は重感に富み、顔には微笑を浮かべるなど施福の神にふさわしい印象をみせる。

(8)木造維摩居士坐像(重要文化財) [旧青龍寺] 像高 34.8cm
 維摩は維摩経に登場する主人公。その維摩が「衆生が病むから私も病む」と言い病気にかかり床に伏してるところに文殊菩薩が見舞いに訪れ、いろいろ問答し…大乗仏教の思想が説かれるのが維摩経の内容である。維摩は普通やつれた病身の老僧で現れるが、青龍寺の維摩は異形に属する。像は曲机に両肘をついて座り、左手の二指をたてて説法のさまを表す。 頭にかぶる頭巾や著衣も他に類例がない形式で、維摩が豊かな体躯の壮年で現れるのも異例である。
 制作は平安中期の初めである。 一木作り、彫眼、彩色仕上げである。

9)木造慈恵大師坐像 (重要文化財) [旧本覚院] 像高 84.0cm
 栄盛が慈恵大師の本地(本来の姿)である観音の三十三身説(慈恵大師等は観音の化身)に基づき三十三体の肖像造立を発願しその第5番目としてこの像を作った。 完成は文永2(1265)年である。 像は鎌倉時代の作らしく上人のたくましい風貌を写実的に描写しており、衣文の襞も大ぶりな動きを見せる力強さにあふれている。 寄木作り、玉眼入り、彩色仕上げ。

10)その他の像
 ① 木造光定大師立像(重要文化財) [旧所在山麓大指堂]
 ② 木造不動明王立像(重要文化財) [旧所在飯室不動堂]
 ③ 木造慈恵大師像(重要文化財) [旧黒谷青龍寺]
 ④ 木造吉祥天立像(重要文化財) [旧滋賀院]
 ⑤ 木造千手観音立像(重要文化財) [明王院]
 ⑥ 木造不動明王立像(重要文化財) [明王院]
 ⑦ 木造毘沙門天立像(重要文化財) [明王院]
 ⑧ 木造薬師如来両脇侍像(重要文化財) [蓮台寺]
 ⑨ 木造阿弥陀如来坐像(重要文化財) [旧寿量院]
 ⑩ 木造阿弥陀如来立像(重要文化財) [旧乗実院]
 ⑪ 木造慈眼大師坐像(重要文化財) [旧恵日院]
 ⑫ 木造慈恵大師坐像(重要文化財) [旧求法院]
 ⑬ 木造地蔵菩薩立像(重要文化財) [旧妙行院]
 ⑭ 木造不動明王二童子立像(重要文化財) [旧玉蓮院]


   B 絵画

1)絹本著色文殊菩薩像 (重要文化財)  90.2×44.0cm2
 慈覚大師は、五台山巡礼を果たして帰国の後に、貞観2(860)年比叡山に文殊楼を建て五山文殊を安置した。これがわが国の文殊信仰の始まりと言う。
 図の文殊も通例の形式に従って月輪を背にした文殊が獅子の背中で左足を乗下げて半跏坐はんかざとし、右手に利剣、左手に青蓮華をもっている。頭上に五髺を結い、表情や体 つきは若々しい稚児の姿である。 恩寿菩薩の描法は細い張りのある鉄線描で精緻に描 き、それに対して、獅子は太々した肥痩の強い線でどっしりと描くなど主題に合わせて手法と表現を巧みに使い分けながら、多彩な装飾模様や截金きりがねを用いた月輪光背の輝きなど色彩の効果も洗練されている。

2)絹本著色毘沙門天像 (重要文化財) [旧実蔵坊]  105×50cm2
 図はまず中央,二鬼の背上に毘沙門天が立ち、右手に宝棒、左手に宝塔をとる。身には袖の長い著衣と鎧をつけ円形頭光の3つに火炎が燃えている。 毘沙門天の下方左右に吉祥天、善膩師童子ぜんにしどうじの二脇侍をやや小さく表す。 吉祥天は右手施無畏の印、左手に如意宝珠をもち、善膩師童子は両手で金篋きんかね(経篋)をさげて立つ。毘沙門天は毘沙門天は力強い憤怒像、それに反し二脇侍は穏かな慈相で、両者の性格を対比させ、それに合わせるように両脇侍は左右対称の構図で、画面内側を向き毘沙門天は正面を外して右向きの構図である。しかも、著衣の袖や裾、あるいは光背の火炎が風に吹かれて左方にひるがえるなど、画面は動感にあふれている。 いくつかの異質な要素を有機的にまとめ上げ、動的で力強い画風を創造したところに画家の非凡な技量が伺える。

3)絹本著色地蔵菩薩像 (重要文化財) [旧明徳院]  119.2×54.2cm2
 画面中央、雲上に踏み分け坐に立つ地蔵が右手に錫杖しゃくじょうをとり左手に宝珠を下げながら、正面向きの構図で大きく描かれる。 白雲の背後が風にたなびき、地蔵菩薩が画面奥の浄土から往生社の眼前に真直ぐ飛来したことを暗示する。 技法は細かい文様が描かれる。 白雲の描写も聖地である。 鎌倉中期の制作である。

4)絹本著色不動明王二童子像 (重要文化財) [旧大林院] 
 
不動明王を大きく描き、左右に小さく腰をかがめて不動を見上げる制多迦、矜羯羅二童子をはいする。基本的には、五大院安然の「不動明王立印儀転修業次第」以降、不動明王の定型となった図像に依存しているが、不動明王の利剣がすこぶる長く、その中ほどをしっかりと右手で握っている点が異例である。 それだけに不動のたくましさが、見る人にひしひしと感じられ、思い切って量感を強調した体躯の表現とあわせて、画面に悠揚せまらぬ力強い迫力をかもし出すのである。 不動の背負う光背の焔も、強調された不動の量感と呼応して悠然ともえさがっている。 鎌倉時代前期の製作。

5)絹本著色天台大師像 (重要文化財) 
 
最澄は帰朝に際し、智顗ちぎの後継者である章安大師の弟子法鉄から天台大師画像一幅を贈られた。 日本に現存する天台大師図の多くは、いずれもこの最澄請求本が原本として模写されたものであるが、本図は原本である。

6)絹本著色相応和尚像 (重要文化財) 図  1158×80.4cm2
 図は床座に坐る和尚が両手で数珠をまさぐりながら何事かを念ずるところである。 右脇の高机に五鈷杵ごこしょを置き前に草履1足が何儀なく脱ぎ捨てている。背後に三枚折の屏風をたてて背景にする。像にほとんど肥痩のない細目の墨線で的確にかたどられ、色彩はあっさりした淡彩、僅かに裾の襞を濃淡の変化で表すのに過ぎない。面相の表現は特に優れ単純な墨線によって和尚の老いた風貌を見事に描写する。

7)紙本著色光明真言功徳絵詞(重要文化財)[旧明王院] 
   幅;27.5cm,  全長;上巻155.2cm、中巻136.4cm、下巻106.1cm
 大日如来の真言である光明真言を読誦すれば、仏の光明を得て、諸々の罪障を除くことが出来ると言う光明真言の功徳を図説した絵巻で、三巻によりなる。 内容は光明真言の功徳により貧者が大富豪となる話、女性が男性に転身して成仏する話など19の挿話を収録。…のびやかな描線が対象の形姿を誇張なくとらえ、彩色も淡彩にとどめて描線の効果を高めている。応永年間(1394428年)作

8)紙本著色山王霊験記絵詞 絹本著色(重要文化財) 図 31.4×951cm
 当初は15巻よりなる大部の絵巻であった。 内容は比叡山の僧侶にまつわる日吉山王の霊験譚を絵画化したもので、生源寺1巻には四段が収録されている。 
 例(第一段)後伏見上皇の女御である広義門院が正和2(1313)年皇子出産に際して安居院法印覚守を日吉社に参籠させた功徳により無事安産を得た話。

9)その他の絵画  
 ① 絹本著色不動明王三大童子五部使者像 (重要文化財)
 ② 絹本著色山王本地仏像 (重要文化財)


   C 工芸品
1)金銅宝相華唐草文経箱 (国宝)
 平安時代、銅鍛造、彫金、鍍金・銀、長元4(1031)年覚超ら叡山僧円仁書写の如法経を銅筒に納め直した。その際、藤原道長の娘で一乗天皇中宮の上東門院彰子も法華経を書写し同時に如法堂の北西隅に埋納した。それを納めたのがこの金銅宝相華唐草文経箱で大正12(1925)年に同地から出土した。上東門院が信仰心を注ぎ、善美を尽くした平安時代金工の最高傑作である。

2)宝相華蒔絵経箱(国宝) 平安時代 木製漆塗 蒔絵 cm×20.3cm×17.0cm
 天台大師智顗ちぎ筆と伝える法華経を納めていた経箱。黒漆を塗り、粗い金粉を蒔いた平塵地へいじんじに金銀と青金(金を銀の合金)の粉を蒔いて、宝相華唐草文様の団だんか文様表し,研ぎだして仕上げる。平安時代後期の様相が色濃く、11世紀後半頃の制作と考えられる。

3)七条刺納袈裟、刺納衣、(国宝)唐時代 麻刺納(刺子)丈132cm、幅260cm
 裏に「荊渓和尚納」、「荊渓和尚納鎮仏隴」と墨書され、最澄自筆目録にも同様の袈裟が見えるので、中国天台宗六祖の荊渓大師湛然けいけいだいしたんねんから弟子の仏隴寺行満ぶつろうじぎょうまん、そして最澄へと相伝された袈裟と知らされる。 麻布地に色々の麻繊維と紫の麻製を散らし、上から刺子さしこに縫う。 これはぼろ製れを縫い合わせた粗末な糞掃衣ふんぞうえが最高に尊い、という本義に基づいた意匠技法である。

4)刺納衣 (国宝)
 中国天台宗の始祖智顗の所用袈裟と伝え、日本にある最古の衣服として名高い。最澄請来とされる。

5)その他の工芸品
 ① 水晶舎利塔 (重要文化財)
 ② 長尾鳥繍縁花文錦打敷 (重要文化財)


   D 書跡典籍、古文書、歴史資料
1)伝教大師請来目録 (国宝) 紙本墨書 28.6cm×359.3cm 
 本書は、最澄が越州で得た102115巻及び経巻や法具を日本に持ち帰るため作成した目録。 

2)羯磨金剛目録 (国宝) 紙本墨書 28.0cm×37.0cm 
 帰国した伝教大師は唐から請来品を弘仁2(811)年に比叡山に納めた。 本巻はその際の目録の断簡で、11行分が伝存するのみであるが、最澄自筆の目録として、その重要性はこの上ない。 現存する1行目に記された「羯磨金剛」の名から羯磨金剛目録と呼び鳴らされてきた。 

3)天台法華宗年分縁起(国宝)最長自筆
 最澄が華厳、律、三論、法相、倶舎など南都六宗の後継者を育成するため年分度者(一年間に許される得度者)の数を定めることを願い、同時に新たに天台法華宗にも二人の年分度者を願う文章。

4)六祖恵能伝(国宝)唐時代 紙本墨書 26.1cm×38.1cm
 中国禅宗の開祖・達磨禅師から数えて6代目で・六祖大師と呼ばれた恵能(638713)の伝記。  現広東省韶州しょうしゅうの曹渓山そうけいざん宝林寺を拠点に活動し、大緘鑑禅師と諡号された。 貞元19(803)年に書写が完了したと記されている。 最澄が越州で収集し日本へ請来したもの。

5)伝教大師入唐牒(国宝)
 最澄は入唐に訳語僧義真、行者丹福成を伴い天台山へ巡礼する。これは、最澄が明州と台州を旅行した際、官に提出した二通の文章を合わせて一巻としたもので、いわばパスポートに相当するものである。 

6)光定戒牒こうじょうかいちょう(国宝)紙本墨書 26.1cm×38.1cm
 最澄の弟子光定こうじょうが比叡山一乗止観院において菩薩戒を受けたことを証明した牒。
 設立に尽力した光定の功績に対して嵯峨天皇が自ら染筆し下賜したもの。 三筆の一
人嵯峨天皇の最も信頼できる真筆で、中国書法と空海の書の影響を受けた雄渾ゆうこんかつ整った格調の高い書は日本書跡の至宝として名高い。

7)その他の書跡典籍、古文書、歴史資料
 ① 紺紙金銀交書法華経8巻 (重要文化財)
 ② 紺紙銀字法華経8巻 (重要文化財)
 ③ 華厳要義文問答 行福筆 (重要文化財)
 ④ 悉曇臓8帖 (重要文化財)
 ⑤ 伝述一心戒文 上中下 3帖 (重要文化財)
 ⑥ 延暦寺楞厳三昧院解 (重要文化財)
 ⑦ 山門再興文書 (重要文化財)
 ⑧ 道邃和尚伝道文 (重要文化財)
 ⑨ 宗存版木活字 (重要文化財)




参考文献
* 誉田玄昭著「古寺巡礼京都・延暦寺」
* 半田孝淳著「古寺巡礼京都・延暦寺」
* 講談社編集「比叡山歴史の散歩道」
* 酒井雄哉著「ただ自然に」
* 梅原猛著「最澄冥想」
* 山田恵諦著「山田恵諦100歳を生きる」
* 市川覚峯著「修行壱千弐百日 真の自己を求めて」
* 京都新聞社編「霊峰比叡」
* 比叡山ホームページ

 













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