\
                              京都・朱雀錦
(21)世界遺産・醍醐寺


世界遺産・醍醐寺金堂(国宝)

    1.醍醐寺の歴史
 醍醐寺だいごじは京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐寺派総本山の寺院。 山号を醍醐山と称し、本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝しょうほうである。
() 理源大師聖宝(832909)の誕生
 醍醐寺の開祖聖宝しょうほうの諡(贈り名)を理源りげん大師と言う。聖宝の家系は天智天皇の皇子で光仁天皇の父でありまた万葉集の歌人としても有名な施基王しきおうから5代目の子孫になる。聖宝は兵部大丞へいふたいじょう(正六位下相当)葛声王くずなりおを父に右大将金実利麿の娘綾子姫を母として天長9年(832)2月15香川県本島ほんじま丸亀市塩飽諸島本島)の泊浦で生まれ、幼名を恒蔭王ねかげおうと呼ばれた。
 一説に葛声王は政治的問題で筑紫の防人さきもに左遷され、悲運を嘆きながら26歳の若さで亡くなったと伝えられる。綾子姫は身ごもったまま夫のあとを慕い瀬戸内海を筑紫に向け航海中に産気をもようし、本島に上陸して泊浦の漁師の手厚い庇護をうけながら恒蔭王を産み落したと伝えられる。
 恒蔭王は16歳まで不遇の少年期をこの島で過ごしており、その間の学業については、島々の学僧を尋ねたと伝承されている。16歳で京都に上った恒蔭王は、縁あって深草にある貞観寺じょうがんじに入り弘法大師空海の実弟で真言の巨匠真雅僧正に従って剃髪し名を聖宝と改め、求道の第一歩を踏み出した。22歳まで師の導きを受け、仁寿3年(853)東大寺の戒壇に登った。その後天安元(857)年まで南都に遊学し華厳、法相、三輪を修めた。貴顕社会との交流を重視した師真雅に対して、華美や権勢と一定の距離を置き、清廉潔白・豪胆な聖宝は、この点からも真雅との確執がいわれている。
 宗学を東大寺等において研鑽し、27歳で貞観寺に帰ったが、坐の暖まる暇も無く托鉢の旅に発つ、やがて出生の地本島に渡ると母のためにと一寺を開き懇ろに菩提を弔った。その後、丸亀に渡り弘法大師の足跡をたどることになる。 この旅で童子出会いその童子を弟子に迎えた。 この童子はのち醍醐寺第一世坐主で、東寺長者、金剛峰寺座主を兼ねた観賢かんげ僧正である。約2年後の貞観元(859)年にこの童子を伴い京都に帰ってきたが、貞観寺に戻らず、洛西の鳴滝のほとりに草庵を得て、そこを住家として托鉢の日々を過した。
 この草庵に雌伏すること2年、貞観寺の壇主太政大臣藤原良房の計らいで聖宝は愛弟子を伴い貞観寺真雅僧正の許に帰参した。その後の動きは活発である。 吉野の金峰山きんぷせんで山岳修行を行い、また役行者に師事して、以降途絶えていた修験道、即ち大峰山での修験道修行を復興した。また、貞観11(869)年には南都興福寺の奉請によって維摩会ゆまえの講師となり南都学僧を驚かせた。 このころから聖宝の名は、清和天皇の耳に届くようになった。

(2)        醍醐寺の草創
 聖宝は三論教学の拠点を築くため東大寺に東南院建立すべく精力的に活動を続けてる一方、真言宗の独自の道場を機会をうかがっていたと推定される。弘法大師が、高野明神の誘引によって高野山に登ると、中国唐にて発願して空に向かって投げた三鈷杵さんこしょ(密教法具)が巨松の梢引っ掛かっているのを発見し、この場所を聖地と決め嵯峨天皇の勅許を得て高野山開創に着手したのは弘法大師43歳の時であった。
 貞観16年は聖宝が43歳になる年であった。聖宝が住坊のした普明寺ふみょうじは醍醐寺から東山を越えた深草の墨染当たりであった。その普明寺で聖宝は、17日間を期して日夜「我に密教相応の宝所、令法、久住の勝地を示し給え」と祈り続けたところ、満願の夜明けころ東方に聳える笠取山の頂に五色の瑞雲ずいうん(めでたい時に起こる兆しとして現れる雲)が棚引くのが見え聖宝は法悦した。
 「ああ、あの峰に登ろう」聖宝は座を立った。ただ瑞雲を目指し、大亀谷を越え、小野の里をすぎ、聖宝が笠取山の山頂にたどりついたのが、昼近くであったろうか。その時、何処からとなく白髪の老翁が現れて、聖宝の前に佇んだかと思うと目の前の落ち葉を掻き分け、そこから湧き出た泉を両手で掬い飲み終わるや「ああ醍醐味なるや、醍醐味なるや」といった。聖宝はその老翁が化人であると察知し、「我この山において伽藍を建立し、秘密の法門を広めんと思う.その方、久しくすむべけんやいなや」と言うと。老翁は「この山は、古仏転法輪(教法を説くこと)」の勝地、諸天常に擁護したまう霊山なり。我はこの山の地主じしゅ横尾の明神なり。されば山を永く和尚に献ずべし。和尚よろしく密教を広め、群生ぐんせい(多くの民衆)を利せられよ。われも我もまた擁護せん」と言って消えた。 
 泉の上手に群を抜く一本の柏樹はくじゅ(ヒノキの類)が聳えていた。聖宝は吉祥を宿する柏樹を伐った。そして百日間秘密真言を誦し、加持を行ったあと、自ら仏工を指揮して六道能化の仏である如意輪観音菩薩と人界化道の本誓を表する准胝じゅんてい観音菩薩の2尊を彫った。両観音菩薩の開眼供養が貞観16(874)年6月18日に行はれたが、その時不思議な事態が生じた。如意輪観音が自ら東方に飛行して岩上に止まり、准胝観音は座を立って歩行し、草堂の壇上に立ったと言う。この神変を目の当たりに拝した天台の巨匠や並み居る群参の驚きは一方ならぬものがあったと縁起は伝える。

() 聖宝の晩年
 醍醐天皇は寛平9(897)年7月3日、13歳で第60代の帝位に昇られたが、宇多天皇の遺言により、右大臣菅原道真と左大臣藤原時平が天皇を助け政務をあずかつた。菅原道真は学者で政治家、特に漢詩に優れ33歳で文章博士に任じられる。宇多天皇に重用され右大臣まで登った。しかし、時平とほ道真が次第に対立し、延喜元(901)年時平は大納言源光と謀り、道真を讒言ざんげんし、醍醐天皇はこれを信じて道真を大宰府に左遷した。道真は2年後大宰府で病死した。菅原道真の死後、京都には異変が相次ぎ、道真を諮った時平と源光の急死し、醍醐天皇の皇太子保明親王、慶頼王も次々に病死した。更に朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷の要人に多くの死傷者でた。これが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を許すと共に贈位行った。子供達も流罪を解かれ、京に呼び返された。
 清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ。火雷天神が祭られた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとしておそれられた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。やがて、各地に祭られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになった。
 聖宝は、道真がなくなると醍醐寺の山内に供養塔を建てて追善の儀を行うとともに、普明寺にも道真の像を祀ってその菩提を祈った。聖宝は継体皇子の祈願を尽くしその結果穏子皇后は延長元年に寛明親王(朱雀帝)を次いで延長4年には成明親王(村上帝)が生まれた。
 
聖宝の晩年に絶大な外護を下された醍醐天皇は、穏子皇后と共に御帰依を厚くされたのであるが、その御子、朱雀、村上の両帝も醍醐寺に力をよせられ醍醐寺1100年の基盤を確立されたのである。
 聖宝は、師真雅が入滅すると貞観寺の座主も兼ね寛平6(894)年には第8代東寺長者兼東大寺別当に成り、延喜9(909)年普明寺で78歳で入滅した。

() 聖宝の後継者観賢
 聖宝には数多くの優れた門弟がいたが、その中で観賢かんげんが師の後を継いだ。 観賢は、真言宗の興隆に務めた空海に大師号を賜りたいと奏上して弘法大師の名が送られたが、更に醍醐寺を定額寺じょうがくじ(奈良・平安時代、一定数をかぎり官寺に準じて特典を与えられた私寺)に列せられるよう願い出て、延喜13年にその願いが叶うと、寺内の組織を整え、延喜19(919)年に初代の醍醐寺第座主となった。
 こうして醍醐寺の寺格が上がって行くと、山上の観音堂に詣でて尊像を礼拝する人々が増えて言ったが、山上には大きな堂塔を建てる平地が無く、多くの人々が儀式行事に集まる広場も無かった。また、山上の急な坂道を登ることが困難な人も少なくなかったので、延喜19年に笠取山の西麓に宿院が立てられ、次いで下醍醐の建設が始まった。 
 延長4(926)年、醍醐天皇の御願堂として下醍醐の金堂となる釈迦堂が完成した。醍醐天皇が延長8(930)年薨去こうきょされ、その後を継がれた朱雀天皇は、父天皇ゆかりの醍醐寺に帰依した。

() 醍醐寺と小野流
 真言密教を学んでいくうえで、教相きょうそうと事相じそうが重要視されている。 教相は真言密教の理論であり、事相は真言密教を実践する方法である。 真言宗の主要経典「大日教」は教相の経典、金剛頂経は事相の経典である。
 9世紀半ばから、事相の研究が盛んになり小野流と広沢流の2流派が誕生した。小野流は、聖宝が元祖で口伝くでん口訣こうけつ(口述で奥義を伝える)を重視した。これに対し広沢流は益信やくしんが元祖で儀式規則を重視する。

()  建武の中興
 当時、皇位の継承権には、持明院じみょういん統(北朝)と大覚寺統(南朝系)の両統があり、両統が交代で皇位を継ぐしきたりになっていた。ところが、1318
年後天皇が皇位につくや、他の系統の親王を皇太子にせず自分の系統の者を皇太子にしようとした。他の系統の宮廷人は、鎌倉幕府に働きかけて、その後援を得て無理やり皇太子をたてたところ、後醍醐天皇は憤慨し、ついに倒幕計画をたて王権による天下統一を考えた。
 一方、仏教界の流れも大きく変わっていた。藤原氏が栄華を極めた時代を経て11世紀の半ばを過ぎると、譲位した上皇が政治の実権を握る院政の時代が始まった。摂関政治の時代に比叡山が摂関家の支援をえて仏教界で君臨していたが、醍醐寺は村上源氏の人々との関係を深めて寺院の活動を続け勢力を伸ばしていった。村上天皇の孫に当たる源師房もろふさは摂関家と組んで村上源氏の政界進出の基礎をつくり、その子俊房としふさは貴族として活動した。俊房の子勝覚(10571129)は醍醐寺に入って座主となり、三宝院政治家をひらいた。その後、上下の醍醐寺には源氏の人々によって子院が開かれその維持のため多くの荘園所領が寄進され、その勢力は比叡山を上回っていた。 
 後醍醐天皇の御代、醍醐寺は報恩院の院主文観房弘真ぶんかんぼうこうしんが座主を務めていた。文観房は当時の傑僧の一人で、野望も人並み以上であった。報恩院はもともと天皇家に密着していたが、文観房も内供奉ないぐぶ(天皇の側近の僧)に任じられ、逆に文観房は後醍醐天皇に印可いんか(仏教者としての免許状)を与え、秘法も授けている。自分は臣下だが、仏教の世界では逆に師弟の関係にあり、後醍醐天皇を助けたことは容易に考えられる。文観房の背後には厖大な所領があり、そこには幕府の支配を受けない、精悍な武装兵力が控えていた。 更に寺に連なる修験者・山伏も支配化にあった(永井路子著)。
  後醍醐天皇の討幕計画は1324(正中元)年の正中の変、1331(元弘元)年の元弘の変と二度までも発覚して失敗し、後醍醐天皇は捕らえられ、廃位の後、隠岐へ、文観房も逮捕られて硫黄島へ配流はいるされ、幕府のバックアップで代わって皇位についたのは、持明院統の光厳こうごん天皇である。
 しかし、後醍醐天皇の討幕運動に呼応した河内の楠木正成や後醍醐天皇の皇子で天台座主から還俗した護良親王、護良を支援した播磨の赤松則村らが幕府軍に抵抗し、さらに幕府側の御家人である上野国の新田義貞や下野国の足利尊氏らが幕府から朝廷へ寝返り、諸国の反幕府勢力を集めた。
 1333年(元弘3/正慶2年)に後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆国で名和長年に迎えられ、船上山で倒幕の兵を挙げた。京都で足利尊氏の兵が六波羅探題を滅ぼし、新田義貞が鎌倉を攻め、北條高時ら北条一族を滅ぼし鎌倉幕府が滅んだ。
 後醍醐天皇は光厳天皇の即位を廃止し、再び天皇に復帰した。しかし、論功行賞が不適切で、特に武士階級から人心が離れていく。1334年1月年号が建武と定められる。1335年北条高時の遺児時行きが挙兵し鎌倉を占領した。足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま武士団を引連れ北条軍の討伐に向う。北条時行を倒し、討伐に参加しなかった新田義貞の領地を没収、後醍醐天皇に無断で論功行賞を行った。
 
これに対し、後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏追悼を命じたが、新田軍は敗北した。その後、一時的に勢力を盛り返すが、1336年5月足利尊氏は、湊川で新田義貞・楠木正成軍を撃破し、光厳上皇を奉じて入京し、ここに新政(中興)は2年半で崩壊した。

() 足利尊氏と醍醐寺
 後醍醐天皇を支持した醍醐寺は、足利尊氏にとっては敵方になるはずである。 しかし、尊氏は醍醐寺を潰すことはしなかった。醍醐寺は必ずしも一枚岩ではなく、特に、三宝院の院主賢俊けんしゅんは報恩院の院主文観房弘真の横暴を快く思っていなかったため、尊氏と賢俊は急速に接近した。賢俊は公家日野氏出身で廃位された前帝光厳太いパイプをもっていた。後醍醐天皇側から逆賊呼ばわりされることを避けるために賢俊は光厳に尊氏の正当性を保証する院宣いんぜん(上皇又は法皇の出す公文書)を要請した。
  賢俊がもたらした印宣で歴史てきな大転換を見せた。尊氏は北条氏滅亡後と惑っていた武士たちは、我も我もと尊氏の元に集まってきた。賢俊は醍醐寺の座主となった後、尊氏の護持僧となった。 

() 豊臣秀吉と醍醐寺
 戦国時代の長い戦乱で荒廃した醍醐寺の復興のために奔走したのは義演ぎえん准后じゅごう(経済的に優遇する目的で天皇の夫人、皇族、公卿に与えた三后に準じた称号で、準じた優遇が与えられる)であった。義演は関白二条春義はるよし子で、12歳で出家し、上醍醐寺で修行を重ね、天正4(1576)年19歳の若さで第80世の座主となり、21歳で大僧正になる。義演の兄である二条明実が天13年7月10日に従一位任ぜられると、どうしたことか、その翌日11日には 辞してれを秀吉に譲った。従って秀吉は即日関白に任ぜられた。更にその12 には義演は兄明実の引退に変わるかのように義演は僧官の極位である准后に任ぜられ、封1千戸、年官、年爵を賜る、破格の優遇を得た。このことがあって以来二人の関係は次第に深まっていった。
 
義演は晩年の豊臣秀吉の帰依を受け、朝鮮出兵のための祈祷や方広寺の大仏開眼供養の呪願師を勤めたが、驚くべき事務能力を発揮して、醍醐寺の復興事業を推進した。かねて醍醐寺境内の景観に見せられた秀吉は、慶長2(1597)年、醍醐寺を訪れた際に、この地で大々的な花見の会を催すことを思いついた。 
 翌慶長3年の年明けから花見の準備が始まり、女人堂から少し登った所にあ
る槍山やりやまと呼ばれる場所から西大門の辺りまで350間(約630m)の道の側に、3月15日と決めた花見の日に咲く桜を700本植え込むことが命じられ、近江、河内、大和、山城の諸国から運び込まれた。
 慶長3(1598)年3月15日 豊臣秀吉が京都醍醐寺で催した花見は、日本史上最も豪華で盛大な花見であったと言われる。 秀吉の正室、側室とその侍女そして秀吉側近の武将の妻女たちをなんと1300人も招き贅沢をつくした絢爛たる花見の宴であった。
 秀吉の花見にかける意気込みが感じられる。五重塔の修理がはじめられたのはすでに前年のことで、その後三宝院の寝殿(表書院)の新築を命じ、庭園の指図も行なっている。下醍醐寺から山手上醍醐寺に至る山道を花見会場の園路とするため途中の「槍山」まで畿内各地から桜700本を集めて新たに植えさせた。さらに、趣を凝らした八箇所の茶屋、仮店を建てさせた。 一方、女達が着る衣装を島津氏に負担させた。参加する女たち1300の2回の着替え、つまり一人あたり小袖、帯、髪飾りを3組づつ合計3900着用意させたのである。

                       2.醍醐寺の伽藍

 
      准胝堂(現存せず)
 
      閼伽井舎(醍醐水)

A.    上醍醐の伽藍

() 准胝堂
 上醍醐には、西国第11番の札所霊場として知られる准胝堂じゅんていどうがある。この堂は聖宝上人が醍醐寺の開創にあたり、自刻(企画監督)の准胝観音を祀った草堂を以って最初とした。度々の火災により、炎上しており、江戸時代に再建され壮麗な堂もまた、昭和14年の山林火災により焼失し、昭和43年に新造された。本尊准胝観世音菩薩は准胝仏母尊、七倶胝仏母、とも称せられ、六道能化(六道即ち天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の分岐に現れ、衆生を救う)の中で「人界」を掌る観音とされている。その慈悲の顔は、他の菩薩と異なり3目で、何と無く厳しさを漂わせている。それは差別即平等の場において叡智と慈愛を秘めた誓いを示している。この尊の功能は「聡明、夫婦敬愛、他人愛、求児安産、延命治病等を祈るに験あり」とされ、古来よりこの尊の霊験談は枚挙するまでもないと言われている。特に求児については醍醐天皇の御願より祈祷したところその験により朱雀、村上の両帝が御誕生したことを嚆矢こうしとして、以来現代まで求児・安産・育児の願をかける人が後をたたない。その准胝堂は2008年8月24日の落雷による火災で全焼し再建待ちである。

() 閼伽井舎
 准胝堂の前崖の直下に閼伽井舎あかいしゃ(醍醐水)がある。聖宝が横尾明神の影現によって感得した霊泉で、以来醍醐寺の象徴として千年を経た今も滾々と湧き続けている。その左側参道にそって地主神、横尾明神を祀る小社がある。室町時代に再建と言う。

 
    上醍醐清瀧宮拝殿(国宝)
 
       上醍醐清瀧本殿

() 上醍醐清瀧宮拝殿 (国宝)
 醍醐寺は開創以来地主神として横尾明神が祀られていたが寛治2(1088)年鎮守の神として清滝の神が勧請かんじゃく(神仏の霊みたまのうつしを他の所に請い迎清滝権現は唐朝において密教の巨匠と仰がれた恵果阿闍梨の住寺である青龍寺の鎮守であったが、それを空海上人が恵果和尚から密教の法灯(釈迦の教えを闇を照らす灯火にたとえて言う語)を伝えて帰朝する際に、密法の守護神として、わが国に持ち帰った霊であるが、青竜が遠く海を渡って日本へ来たのでサンズイをつけて清滝宮とした。現在の清滝本殿は昭和に再建されたものであるが、その下にある国宝の拝殿は永享6(1434)74世座主満済准后まんぜいじゅごうにより再建された。
 
妻を正面とし、軒唐破風をかけ、広縁のうち板扉の出入り口に横連子窓よこれんじまどと言うこの装いは、中世の絵巻物から抜け出して来た貴族住宅そのままの姿である。平面7間三間、一重であるが、地勢に関係で南側は懸造かけづくりに成っている。内部は板敷きで、中の間を広く左右の列柱で内外陣のように分けられ、中央三間は母屋の扱いをしていて天井も一段高めである。側回りは蔀しとみのほか、格子戸と障子などの建具を用いて、当初のは残っていない。しかし、いずれにしても全体として中世の貴族住宅の面影を如実につたえるものとして例の少ない貴重な傑作である。

 
       薬師堂(国宝)
 
          五大堂

() 薬師堂 (国宝)
 准胝堂の前を東の方向に向かって緩やかな坂を上がると国宝の薬師堂がある。 そのさっぱりして気の利いた佇まいは過ぎし日を偲ぶに十分である。この堂は、聖宝によって延喜7(907)年に五大堂と時を同じくして建立されたが、現在のものは保安2年(1121)15世座主定海によって再建された。現在では上伽藍最古の建築であると共に、数少ない平安時代の遺構を現在に伝える貴重な存在になっている。
 山中の僅かな平地に乱石積の基壇を築いて営まれた五間四間、一重、入母屋桧皮葺の低平穏和な建築である。外部組物は三斗みつと、正面三間板扉、両脇連子窓、側面は前の間が板扉、残りは壁である。全体として建ち低く、水平感があり、側面に回れば屋根の破風がごく小さく落ち着いたおとなしい感じがする。 それと同時に柱間四間のうち、中の二間が両脇より狭い、日本では、室生寺金堂に先例があるが珍しい。しかし、韓国の例は多い。
 内部に入れば3間2間が内陣で、その回りを幅一間の外陣が囲む。側面中の間が脇より狭いのはこの外陣を幅広く取ったためであり、しかもこの幅は前後が広く、左右が狭い。内陣の3間2間は、正面三間が格子戸と菱格子欄間、側背面は壁又は菱格子欄間で、外陣と厳重に隔てられる。中央後よりに和様須弥壇がつくられている。
 
内陣は一面に組入天井とし、せいの高い斗ますや肘木、それに中備なかそなえ(組物の間に置く部材)に蟇股かえるまたを上に、間斗束けんとづかを下に重ねた明朗な手法はそれまでの遺例に見なかったものである。蟇股は二材が山形に上部で接がれた原始的装飾用透かし蟇股で、中尊寺金堂、宇治上神社本殿、一乗寺(兵庫県)三重塔のと共に有名であるが、上の斗大に脚先が細く最も優美である。
 
本尊の「薬師如来坐像」および「両脇侍像」が祀られていたが防火等保管上の理由により、2000年秋に下醍醐寺の霊峰館に移つされた。

() 五大堂
五大堂は仁王護国般若波羅密多経に基づき、鎮護国家、万民豊楽を祈願する道場として聖宝が建立したものであるが、度々火災により消失している。慶長10(1605)1221日再び炎上して金剛夜叉明王、大威徳夜叉明王の二尊を残すのみとなってしまった。だが、幸い、豊臣秀頼の力添えもあり、慶長13年再建された。しかし、昭和に入ってまたもや炎上し多。一宗挙げて協力し、篤信の浄財の寄進を持って昭和15年現在の新堂が再建された。
 幸い本尊5大明王は炎上の難を免れた。五大明王に対する大衆の信仰は厚く、その信仰は時代によって移り変わり、自然に大衆の間に浸透して言った。その利益りやくについても各人各様の願意に随い多面にわたるのである。たとえば一時期においては芸能界において芸能成就ということで多くの帰依者があったという。現在では、盗難除け、災難身代わりの霊尊として全国的に信仰され、毎年2月23日に行われる仁王会にんのうえは「五大力さんのおまつり」と宣伝され親しまれている。醍醐山開創千年を機縁に、昭和51年から仁王会結願法要のみ一山の根本道場である下醍醐の金堂で行われる。

 
    如意輪堂(重要文化財)
 
     開山堂(重要文化財)

() 如意輪堂 (重要文化財)
 五大堂からやや離れた尾根の高所に如意輪堂がある。堂下の岩は開眼の日に、如意輪観音が飛行してその上に立ったと言う奇瑞きずいを伝える場所である。 
 如意輪堂も聖宝が建立されたもので、最初は三間4面の桧皮葺きであった言う。何回か火災焼失し、豊臣秀頼の寄進で再建した。
  この堂は、大阪で木作こづくり(各部材の工作)を一切仕上げ、それを山に運んで組み立てる方式をとっている。かくして慶長1112月上旬に完成した。時代の好みを反映して建ちの高い建築となっている。まわりの縁は懸造りのとこ

ろでは大仏様の挿肘木さしひじき(柱に挿込んだ肘木)に近世式の皿板を繰り出した皿斗さらどの三手先で支えられ、軒は和様の二手先ふたてさき(柱から前へ肘木が二段に出る)組物で支えている。正面は桟唐戸さんからど、横は板扉と、各様式が交じり合っているのも大きい感じの屋根とともに近世以後の一般方式である。

内部は前方三間三間と後方三間二間とに大きく分かれ、前の方は外回り全部戸口、中央方一間を区切って後方の仏壇側を除き三方蔀しとみを吊る。後方は正面に仏壇をつくり、まわりは板壁である。天井は周囲一間通りは、仏壇部を除き化粧屋根裏、その他は小組格天井こぐみごうてんじょうで中央仏壇前は高級な折上小組格天井になっている。

() 白山権現
 如意輪堂の隣にこじんまりとした白山権現の小社がある。 この堂も豊臣秀頼により新造されたものである。 最初のものは、寛平9(897)年聖宝の発願により建立され、山上の鎮守として観請されたが、その後の変遷は不明である。

(8)    開山堂 (重要文化財)
 最初御影堂と称し、延喜11(911)年観賢座主によって創建され、自作の聖宝像を奉安した、三顕面の小堂であったと言う。何度と無く消失している。慶長10年如意輪堂、五大堂と共に消失した。当時の坐主義演が豊臣秀頼に再建寄進を願い出、再建されたのが現在の堂である。
 開山堂も慶長11年の建築、如意輪堂と同じく妻を正面とする五間八間の規模で、前に軒唐破風のある三間の向拝を付ける。外回りで珍しいのは前から二つ目の戸口方式で、この板扉は床を超えて縁より低くつくられており、これを開ければ外から直接堂内の土間に入れるようになっている。内部は廂に相当するところは化粧屋根裏、その中が母屋で正面は柱間を三分した軒唐破風付きの壮麗な厨子とし、中央は開山理源大師、向かって右に第一世座主観賢僧正、左に弘法大師の御影を祀る。

  B. 下醍醐の伽藍
() 総門
 奈良街道の面し西側の最初の門が総門で、である。前を通る道(旧奈良街道)が狭く、正面の道も決して大きくないので、総門を入ると、仁王門までの太くて長い直線的な道に圧倒されます。道の左側には、庭園で有名な三宝院が、右側には文化財が並ぶ霊宝館があります。仁王門の奥には本格伽藍が並ぶ伽藍エリアがあります。
 上醍醐寺も含め醍醐寺の境内入り口となる総門である。総門は風格はあるが、広大な寺院の規模からするとちいさな感じがする門である。

 
           総門
 
        西大門(仁王門)
 
      金剛力士像(阿像)
 
       金剛力士像(吽像)

(10) 西大門(仁王門)
 醍醐寺の西大門は豊臣秀頼が金堂再建の後、慶長10年(1605)に再建した建物です。仁王像を安置しているので仁王門とも呼ばれます。当初は東大門、南大門、西大門の3つの大門があった。入母屋造り、本瓦葺きの三間一戸の楼門で、昭和59年(1984)に京都府の有形文化財に指定されています。
 西大門に安置されている仁王像は、南大門にあった仁王像で、豊臣秀頼が醍醐寺再興の際に修理し、慶長10年(1605)に移されています。平安後期の長承3年(1134)に仏師勢増・仁増によって造られたことが醍醐雑事記に記されています。平安時代の仁王像で、造像年のわかるものは本像と京都峰定寺像(1163)の2つだけで、国の重要文化財にも指定されています。

11)金堂(釈迦堂) (国宝)
 釈迦堂(後の金堂)は下醍醐に最初に建立された堂。延長4(926)年醍醐天皇の御願により観賢上人が建立した。金堂建立当時の規模は、堂の左右から出た六十間の回廊が前庭を包んで八脚門の中門に達しており、その中には経蔵、鐘楼が建てられ、その北裏には講堂が構えていたとされ、外郭をなす、築地には四面に門を開き、南と西には八脚門、東と北は四脚門があって青丹におうばかり壮麗な物であったと言う。しかし、これらの諸建造物は永仁3年の火災で焼失した、以来130年間伽藍は荒れるに負かしていた。
 再興」の時は、慶長3(1598)年3月15日、太閤秀吉が醍醐寺境内で生涯の最後を飾ることとなった醍醐大観桜を催す前後である。大成功に終わった大観桜会の後、かねて企画していた醍醐寺再興事業が進められ、まず金堂の再建にかかった。 
 それは新築ではなく、紀州湯浅満願寺の金堂を解体し移築した。工事執行中秀吉が死亡し、工事は一時中断したが、その後秀頼が醍醐寺の再建工事ほ引継ぎ完成させた。
 堂は七間五間、一重、入母屋造本瓦葺。外観上、屋根が高く、大きいのが目立つが、これは慶長移築の際の変更と見られるし、外回りの連子窓なども後世のものに変わっている。平面的には三間二間の母屋(内陣)に一間通りの廂をめぐらした五間四間のものに更に左右と前に廂を付けた形になっている。それで母屋のすぐ外まわりは内陣に対して中陣とでもいうべき部分である。
 鐘楼が建てられ、その北裏には講堂が構えていたとされ、外郭をなす、築地には四面に門を開き、南と西には八脚門、東と北は四脚門があって青丹におうばかり壮麗な物であったと言う。しかし、これらの諸建造物は永仁3年の火災で焼失した、以来130年間伽藍は荒れるに負かしていた。
 再興」の時は、慶長3(1598)年3月15日、太閤秀吉が醍醐寺境内で生涯の最後を飾ることとなった醍醐大観桜を催す前後である。大成功に終わった大観桜会の後、かねて企画していた醍醐寺再興事業が進められ、まず金堂の再建にかかった。 
 それは新築ではなく、紀州湯浅満願寺の金堂を解体し移築した。工事執行中秀吉が死亡し、工事は一時中断したが、その後秀頼が醍醐寺の再建工事ほ引継ぎ完成させた。
 堂は七間五間、一重、入母屋造本瓦葺。外観上、屋根が高く、大きいのが目立つが、これは慶長移築の際の変更と見られるし、外回りの連子窓なども後世のものに変わっている。平面的には三間二間の母屋(内陣)に一間通りの廂をめぐらした五間四間のものに更に左右と前に廂を付けた形になっている。それで母屋のすぐ外まわりは内陣に対して中陣とでもいうべき部分である。

 
                     五重塔(国宝)

12) 五重塔 (国宝)
 この塔は、日本有数の名塔として、現在遺る五重塔では法隆寺、室生寺に次ぐ三番目の古塔として、また京都府では当時の宝蔵(校倉)に次ぐ古建築である。昭和三十年代初めの全解体修理を経て、いま丹塗の色も鮮やかになっている。まず全体の姿を見ると、屋根の各重が上程狭く、下ほど広く、お互いの間は詰まっているので、細さがなく安定感がある。この迫った軒下には型どおりの三手先みてさきの組物(斗栱ときょう)があるが、これがこの塔では非常に目立つ。 そしてこの塔の最大の特徴は相輪そうりん(日本一)長いことである。相輪の高さは12.83m、塔総高(38.16m)の約38%に当たる。

13)三宝院
 三宝院(さんぼういん)は、京都市伏見区醍醐にある寺院。真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭、大本山、門跡寺院である。また、真言宗系の修験道当山派を統括する本山であった(現在は修験道当山派なる宗教法人はない)。三宝院門跡は、醍醐寺座主を兼ね、真言宗醍醐派管長のしし座にある。

[]三宝院庭園

 
              三宝院庭園(特別名勝・特別史跡)

三宝院はもと醍醐寺塔頭たつちゅうの一つで、創立当初は金堂西側にあった。
 しかし、室町時代、現在の五重塔を残しほとんどの建造物は消失した。その後、桃山時代に、座主義演によって再建されたのが現在の三宝院で、寺地も旧金剛輪院の敷地が用いられた。義演は豊臣秀吉に尊崇され、秀吉が自ら工事を指揮し復興を図ったという。 
 桃山から江戸初期にかけての日本庭園の興隆期に多くの名園が生み出された が、なかでも三宝庭園がひときわ高い評価され数少ない国の特別史跡・特別名勝に指定されている。慶長3(1598)年2月20日秀吉は自ら縄張りを行い聚楽第じゅらくだいから名石「藤戸石」を移すよう命じた。 
 3月15日の花見の後、4月7日から作庭に着手、翌8日に庭者にわもの仙が300人の手によって大石を引入れ、9日には藤戸石を主人石として庭の中心に据えた。その後工事は順調に進められ、5月7日に初めて滝に水を落としている。 作庭が終了したのは、5月13日、19日に鯉を入れ25日には池水が満々と湛えられた。その間わずか36日の突貫工事であった。それから3ヶ月後の8月18日に秀吉は63年の生涯を閉じた。
 慶長4年から義演の作庭が始まる。庭者与四郎によって常御所の南庭が作られた。慶長7(1602)年から後陽成院から「天下一の上手」と讃えられた賢庭けんていが担当、以後元和9(1623)年までの21年間作庭に携わった。 
 名石「藤戸石」は第8代足利義政の東山殿に置かれていた。のち、第12代将軍義晴が細川高国に送った。織田信長が第15代将軍義昭のために二条城を建設した時、細川氏が所有するこの石を二条城に移し使用した。この時、綾綿で包み花々を飾りたて、太い綱を何本もかけて、笛や太鼓を打ち鳴らしながら運ばせたという。 

 
      表書院から見た庭園
 
         正面藤戸石

豊臣秀吉の時代になり、秀吉が京都に豪華な住宅(迎賓館)聚楽第を建設すると、二条城からこの石を移動し使用した。秀吉が秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で政を行なった。秀次を自害させ、聚楽第が不要になると秀吉はその名石「藤戸石」を三宝院に使用した。
 この庭を前にして玄関から北及び東に向けて殿堂がたてられ、棟を連ね多くの室が続いている。これらの殿堂も慶長3年から江戸初期にわたり出来たものが大部分である。いま玄関から東へと略記すれば、まず葵の間、秋草の間、次に表書院(国宝)、純浄観(重文)、護摩堂(重文)と続き、またこれらに連なって北に宸殿、北西に庫裏その他の殿舎があり、この一郭だけで大建築群をなしている。

 
        唐門(国宝)
 
      大玄関(重要文化財)

 門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの使者を迎える時だけに門を開いたとされる門(勅使門)が唐門で、豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」の翌年、慶長4年(1599)に再建された建物である。桃山時代を代表する木造建築物で、構造は三間一戸の平唐門ひらからもんである。
 平唐門(唐破風が両側にあるものを言い、前後にあるものを向唐門と言う)として大型のもので、各部に桃山様式がよく現れ、細かな細工にこだわらない、おおらかさがある。正面意匠の中心は大きい「五七ごしちの桐きり」を付けた二枚の扉とその両脇の「十二弁の菊」で脇の方も扉と同じ割符がしてあり、扉のように見えるがこの方は嵌殺はめごろしで動かない。 
 このように扉は中の間だけで、脇の間は壁となるところを扉と同じ取り扱いとし、扉と共に当代最も賞用された「菊と桐」を思い切り大きくしたところに桃山の面目躍如たるものがある。側面を見れば唐破風の内側に束をたてて、女梁めばり、男梁おばり、冠木かぶきを型どおりに組、一間入ったところに板蟇股を置く。冠木の先にも五三の桐の装飾がある。唐破風は割りに深いが形よろしくその懸魚げぎょ(屋根の破風に取付けて棟木や桁の木口を隠す装飾)も桃山の代表的なものである。
 
建設当時は、門全体が黒漆塗で、「菊」と「五七の桐」の四つ(裏にも四つある)の大きな紋に金箔が施されていました。
 [3] 三宝院大玄関(重要文化財)
 玄関という建築形式が出来たのは、江戸時代末期と考えられている。「玄関」という言葉は、仏教用語であり「真理を求める人」の意味である。「玄関」には人の出入り口の意味は無い。昔「書院」を玄関と呼んだ、それは真理を求める人の集まる場所であったかもしれない。江戸時代末期人の出入り専用の施設ができそれを玄関と呼ぶようになった。
 三宝院の大玄関は規模の大きい雄大な優れた建築であり重要文化財の指定を受けています。大玄関から三宝院の各殿堂すなわち、葵の間、秋草の間、勅使の間を経由して表書院に入ると、目の前に広大かつ華やかな庭園がその姿をあわわす。 

 
     葵の間(重要文化財)
 
     秋草の間(重要文化財)
 
     勅使の間(重要文化財)
 
 
     表書院(重要文化財)

[4] 葵の間(重要文化財)
 葵祭は、祇園祭と並ぶ京都三大祭りの一つである。 襖絵には下鴨神社から上賀茂神社へ向かって行列している葵祭の様子が描かれている。
 [5] 秋草の間(重要文化財)
 襖絵には秋の七草が点在する広々とした風景が描かれています。 
 [6] 勅使之間(重要文化財)
 この襖絵は竹林花鳥図である。 桃山時代の作品で、長谷川等伯に連なる一派の作と思われる。
 [7] 表書院(国宝)
 表書院は秋草の間から南へ出張った形で、南に鍵型の「泉殿せんでん」が突き出た形で、この辺は寝殿造の中門廊の残りと見られ、西側には階段とその上に軒唐破風を付けて車寄せの扱いをしている。 このように表書院は古い面影を伝えるが、内部は前面に畳がしかれ、華麗な障屏画を飾る襖や張付壁、三室並ぶ東端の一の間は床棚をもつ書院造の典型で等伯派の作と考えられる柳の図は特に有名である。
 この表書院の東に茅葺の純浄観があり、両者の中間の北にあるのが宸殿である。殿は田の字型の間取りで、主室上座の間は、床棚書院及び帳台構ちょうだいかまえ(武者隠し)を完備し、違い棚は、修学院離宮の棚、桂離宮の桂棚と並び三棚と呼ばれ著名である。江戸時代になって「遠州好み」と言われる系統の透かし彫りがある。

 
     純浄観(重要文化財)
 
     奥宸殿(重要文化財)
 
     本殿(重要文化財)
 
     庫裏(重要文化財)

[8] 純浄観(重要文化財)
 太閤秀吉が槍山で花見をしたときの建物を移築したものと言われ ている。 襖絵の桜・紅葉は、平成に入って浜田泰介画伯が描いたものである。
[9] 奥宸殿(重要文化財)
 奥宸殿は、江戸初期に建てられたといわれている。 田の字型の間取りをしており、主室の上座の間は、床棚書院及び、帳台構(通常;武者返し)を備えている。 棚は、「醍醐棚」と呼ばれる有名な違い棚で、修学院離宮の「霞棚」、桂離宮の「桂棚」とともに「天下の三大名棚」と称されている。
[10] 本堂(重要文化財)
 本尊が快慶作の弥勒菩薩であるため、別名「弥勒堂」と言われている。脇仏として向かって右に宗祖弘法大師、左に開祖理源大師が安置されている。本堂の裏に護摩壇があり、「「護摩堂」とも呼ばれている。
[11] 庫裡(重要文化財) 寺院の僧侶の居住する場所、

 
       成身院(女人堂)
 
          弁天堂

(14) 成身院(女人堂)
 上醍醐への登山道(参道)は、この「女人堂」から始まる。 かって上醍醐は女人禁制であった時代には、女性はこの場所から上に登ることは出来なかった。従って、女性はこの女人堂から山頂の仏を拝んだといわれている。
 現在の建物は江戸初期の再建。本尊は、山上の准胝観音の御分身である。

15)弁天堂
 弁天堂には弁財天がお祀りされています。弁財天は音楽や芸事の上達、さらに学芸、知識の女神として七福神に加えられ一般によく親しまれています。
 醍醐寺の弁天堂へは朱塗りの輪橋を渡ってお参りできます。紅葉やイチョウが色づく晩秋には、朱塗りの弁天堂と赤い輪橋、それに周囲の紅葉が弁天池に写り込み、紅葉の名所となっています。

 
       観音堂(旧大講堂)
 
          祖師堂

16)観音堂(旧大講堂)
 西国三十三所観音霊場(醍醐寺は第11番札所で参拝は観音堂)、日本で最も古い霊場で、33カ寺、番外3カ寺で成り立っております。 養老2年(718)、徳道上人が62歳のとき、病で仮死状態となりました。冥土の入り口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりに多いことから、三十三箇所の観音霊場をつくり、巡礼によって人々を救うように託宣を受けて三十三の宝印を授かって現世に戻されました。この宝印に従って霊場を定めたが、なかなか広まらず、機が熟すまで摂津国・中山寺の石櫃に納めました。
 それから270年後、花山法皇が熊野権現から託宣を受けて宝印を探し出し、三十三箇所を巡礼したことから、徐々に人々に広がっていきました。三十三という数は、観音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化することに由来し、この観音霊場を巡礼・参拝すると現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽浄土に往生できると伝えられています。ご朱印帳は、亡くなった方の極楽往生を願って棺の中へ入れてあげたり、笈摺は亡くなった方へ着せてあげ、旅立ちの衣装にしたりします。掛け軸は、表装して法事のときに掛けたりします。
 更に東の方向に参道を進むと北側に「観音堂」が見える(左の写真)。ここに、西国三十三所の本尊の他、多くの仏像が安置されている。
 現在平成208月の落雷が原因による火災により准胝堂が焼失したため、下醍醐・伽藍内の観音堂に、准胝観音を安置し、参拝、納経、朱印をお受けしている。尚、毎年515日から21日の間、准胝観音総供養として秘仏をご開扉する。開白の15日は准胝観音曼荼供法要、18日に中日法要、21日に結願法要が厳修される。
 西国三十三所をはじめ、醍醐寺が関連している諸巡礼の朱印はこの「観音堂」で受けることが出来る。西国三十三所の朱印は上醍醐寺の本堂「准胝堂」が再建されるまで、この「観音堂」で受けられるが、「准胝堂」で朱印が受けられるようになる時期については不明という。
17)祖師堂
 真言宗の開祖・弘法大師(空海)と醍醐寺の開基・理源大師(聖宝)を祀るお堂。1605年(慶長10年)、座主義演准后ぎえんじゅごうによる建立。
「不動堂」の東南側、参道の北側に「祖師堂」が見える(左の写真)。堂内には弘法大師、空海と空海の孫弟子で醍醐寺を開いた理源大師、聖宝が祀られている。弘法大師の誕生日である615日には、降誕会が行われます。
18)真如三昧耶堂
もとは朱雀天皇の御願により法華三昧堂として天暦3(949)に創建されましたが、文明2(1470)に焼失。現在の堂は平成9(1997)に真如苑の開祖・伊藤真乗が興した密教法流「真如三昧耶」を顕彰するために真如三昧耶堂として建立されました。
 真如苑は、伊藤真乗を教祖とあがめる新興宗教。もとは「まこと教団」と称していたが、教祖が暴行傷害で逮捕されると、イメージダウンの影響を抑えるために「真如苑」と改称した。教祖は執行猶予付きの有罪が確定している。教祖が戦時中に醍醐寺で修業した関係で、真如苑は醍醐寺との関係が深い。

 
        真如三昧耶堂
 
          不動堂

19)不動堂
 不動明王を中心に大威徳夜叉明王、軍荼利夜叉明王、降三世夜叉明王金剛夜叉明王の五大明王が並んでいます。不動明王は密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証を表現したものであると見なされており、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれています。また、堂前の護摩道場では、修験道の柴燈護摩が焚かれます。

 
     清瀧宮下伽藍拝殿
 
  清瀧宮下伽藍本殿(重要文化財)

(12) 清滝宮下伽藍本殿(重要文化財)
 総鎮守清瀧権現せいりゅうごんげんを祀る社。 清瀧権現は醍醐寺を守護する女神で、本地仏は准胝観音と如意輪観音である。 弘法大師(空海)が唐・長安の青龍寺から勧請した密教の守護神上醍醐に祀られていたが、第14世座主・勝覚が 承徳元年1097)山上と山下に分祀した。
 現在の下醍醐の清瀧宮本殿は慶長4年1599)の再建で重要文化財上醍醐の清瀧宮拝殿は年永享6年1434)の再建で国宝である。
 
清瀧権現せいりゅうごんげん は、醍醐寺の守護女神。清瀧大権現とも呼称され、清滝権現とも書く(「瀧」は「滝」の旧字)。
  清瀧権現は経軌(経文と儀軌)には説かれておらず、空海の御遺告によると、インド神話に登場する八大竜王の一、沙掲羅しゃがら、サガーラの第三王女(一説には第四王女とも伝えられる)である善女(善如)龍王で、無熱地に住していた。龍に善悪あるが、善女龍王は害を加えない善龍であり、真言の奥義を敬って出現した8寸(2.5cm)の金色蛇で9尺(3m弱)の蛇の頂上に位置するという。空海が神泉苑で請雨修法の際に出現したという。 善女龍王は密教を守護していた中国・青龍寺に飛来して同寺の鎮守(守護神)「清龍」となった。後年、弘法大師空海が青龍寺を訪れ仏法を学んだ際、三昧耶戒を授けてほしいと懇請したが許されなかった。空海が帰国する際に船中に現れて密教を守護することを誓ったため、京都洛西の高雄山麓に勧請された。 その際、海を渡ったので龍の字に「さんずい」を加えて日本では「清瀧権現」と敬称するようになった。高雄山麓の川も清滝(きよたき)と改称した。また恵運も迎えて安祥寺に勧請した。
 清瀧権現は日本に飛来し複数の寺を巡った後昌泰3900)ころに聖宝により現在の安置所である醍醐寺山頂に降臨し留まった。
  以後同寺に伝えられる真言密教を守護する女神となった。
承徳元年1097)、勝覚が醍醐寺の山上と山下に分祀。それぞれに本殿と拝殿を持つが、清瀧権現が降臨したと伝えられる醍醐水泉の正面に建つ「上醍醐」の「清瀧宮拝殿」は室町時代の建立で国宝、醍醐山麓「下醍醐」境内に建つ「清瀧宮本殿」は国の重要文化財となっている。

 
          霊宝館
 
        霊宝館内部

(21) 霊宝館
   霊宝館に安置されている「薬師如来及び両脇侍像」(国宝)は平安時代の作品で醍醐寺の本尊である。醍醐寺は、建造物や仏像を含め、百数十件の国宝や重要文化財が所蔵されてその多くが霊宝館で保管及び一部展示している。 


                  3.醍醐寺の寺宝

   A.彫刻
() 木造薬師如来及び両脇侍像 (国宝) [霊宝館]
   像高  薬師176.5cm、 日光菩薩120.1cm、 月光菩薩120.9cm

 
 日光菩薩(国宝)
 
    薬師如来坐像(国宝)
 
  月光菩薩(国宝)

上醍醐薬師堂の本尊であるこの三尊は、延喜7年に醍醐寺が醍醐天皇の勅願寺になった時、醍醐寺開山聖宝によって造立ぞうりゅうされた。制作にあたった仏師は聖宝の弟子会理僧都りえそうず852935)である。会理は、東大寺講堂の千手観音(二丈)等の巨像の制作に当たったと言う。その制作活動の範囲が東大寺と東寺を中心にしているのは、会理の師聖宝が東大寺に東南院を建立し、南都教学の重鎮であり、また東寺長者でもあったことからかんがえても当然であろう。会理の作る造る仏像もこの影響からか、天平彫刻の名作を生み出した東大寺造仏所の伝統を継承し、法隆寺伝法堂諸像等につながる作風が伺われる。それは像の中心部を木で大まかにつくり、表面の微妙な凸凹は乾漆かんしつ(木屑を漆で練って粘土のようにしたもの)を盛り上げて仕上げる、いわゆる木心乾漆という表面の修正が自由な技法から生まれた作風で、両脇侍の均整とれた優美な姿勢に特にそれがあらわれている。
 しかし一方では、この三像に八世紀後半から盛んになる純粋な木彫の伝統が流れていることもたしかである。それは檀像といって堅く緻密な香木を材料とし、小像でありながら肉身や装身具の細部を驚くべき技法で一木から彫りだす大陸請来の木彫技術に学びながら、木心乾漆の心木の彫刻が次第に発達する過程でうまれてきた。
 それを宗教史との関連でみると。奈良時代の都市仏教が、その末期に次第に山林仏教へ移行し、平安時代になると、空海と最澄によって山林に根拠を持つ宗派が成立する過程と対応している。従来の銅、乾漆、塑土(粘土)による仏像制作が、山林ではその設備や材料が得がたいところから、材料を手近に得られる木材とする方向へ転換した。
 聖宝が会理にこのような仏像を作らせたのは、当時の社会情勢と深いかかわりがある。当時、国家の安全を脅かす自然・人為双方の災害は、全て政争に破れ無実の罪を負って非業な最後を遂げた政治家の怨霊おんりょうの祟りと信じられていた。光背に六体の小薬師像を付けた七仏薬師はこの祟りを鎮圧してくれることを期待した。七仏薬師の造立は、天平17(745)年商せい聖武天皇が重病にかかった時創立された奈良の新薬師寺の本尊から始まる。その後、主要な寺院の本尊はほとんど七仏薬師となった。当時、道真の怨霊におののいた醍醐天皇が、聖宝に命じて上醍醐に七仏薬師を造立したであろうと創造できる。

 
   閻魔天像(重文)
 
   帝釈天像(重文)
 
    吉祥天(重文)

() 木造閻魔天像 (重要文化財) 像高 93.4cm [旧薬師堂・霊宝館]
 鳥羽天皇の中宮待賢門院の御願で造立された。女性的な美しさをもった定朝風の仏像である。定朝様とは十一世紀に名仏師定朝が始めた仏像の様式で、寄木造による平安貴族好みの優雅な仏像を指す。閻魔天は地獄を支配する閻魔王を密教像としてあらわした仏像だが、顔つきはふっくらとして優しく、体の肉付けも細く柔らかで、手足はしなやかに作られている。また閻魔天が乗る水牛のような厳つく悪魔的な霊性は消えて、和牛を手本にした穏かな形に変わり、何処を見ても地獄の支配者としての面影はない。上醍醐の薬師堂も、当初のたくましい七仏薬師にすがる御霊信仰から、物怖じしやすい平安貴族のもののけに対する加持祈祷へと、次第に変遷していったのである。

() 木造帝釈天騎象像 (重要文化財)  像高 105.5cm [薬師堂]
 このように象に乗る帝釈天は密教像をあらわし、空海請来の図像十天形像や西大寺十二天画像の帝釈天と同形である。彫刻としては、他に東寺講堂と清涼寺本堂にあり、これらの寺がいずれも東大寺と関係が深いのは、この仏像が密教像でありながら、南都仏教の影響も受けていることを暗示している。 丸顔の穏かな表情で、体の肉付けも均整が取れているので、薬師三尊より少し遅れた十一世紀頃の作品と思われる。

() 木造吉祥天立像 (重要文化財) 像高 167.2cm  [旧薬師堂・霊宝館]
 大治5(1130)年座主定海じょうかいによって造立されたが、その3年まえ造立した鞍馬寺の吉祥天と大変良く似たやさしく美しい女神像で、この時代の趣向が現れている。このような姿の吉祥天は、奈良時代以来、福徳を願い5穀の豊饒を祈る吉祥の本尊として、国分寺をはじめ南都仏教の影響の強い寺院に安置されている。

 
    如意輪観音(重文)
 
   阿弥陀如来(重文)
 
 地蔵菩薩(重文)

() 木造如意輪観音座像 (重要文化財) 像高49.6cm [旧清滝宮・霊宝館]
 この像は寛治3(1089)年に創建された上醍醐清滝宮の神体で、昭和14年の山火事の時社殿を消失し、以後下醍醐の霊宝館に安置されるようになった。腕が六本あって、左第二手は蓮華、左第三手は輪宝、右第二手は如意宝珠、右第三手は数珠を持つ。右第一手で頬杖をついて冥想し、左第一手は台座について上半身を支え、右膝を立て、足の両裏を合わせて座り、いかにも安らかな気分を漂わす。光背の頭の傾きに応じて、右に傾けているがほほえましい。ふくよかな容貌や飜波式ほんばしき(波状模様)の名残を留める衣の襞などは清滝宮の創立より古い十世紀頃の作品である。

() 木造阿弥陀如来坐像 (重要文化財)  像高 86.4cm [旧東谷阿弥陀堂・霊宝館]
 典型的な定朝様の阿弥陀像で、まるで眠っているような穏かな丸顔、細かい粒をきれいに並べた螺髪らはつ、優しい撫で肩、ゆるやかな起伏を見せる衣の襞など、どれを見ても丸みのあるふっくらとした肉付けが施されている。醍醐寺のような密教寺院では、両手を膝の上で組む定印じょういんの阿弥陀像が一般的だが、これは浄土教関係の寺院で制作された来迎らいごうする姿の阿弥陀像である。醍醐寺でも平安時代後期になると、密教僧でありながら浄土教に取り付かれた僧がたくさんでた。

() 木造地蔵菩薩立像 (重要文化財) 像高 163.6cm [旧地蔵堂・霊宝館]
 浄土教が発展する過程で、極楽浄土の阿弥陀を慕うのと対照的に、地獄に落ちるのを恐れるあまり、地獄の救済者である地蔵を信仰することが流行した。 しかし、地蔵は単に来世の救済者であるだけでなく、現世においても、人助けをしてくれるという信仰が広まって信仰は一層盛んになった。  この地蔵は、目が本当の目のように見える玉眼ぎょくがん(水晶で作った目)であるうえ、肉身の抑揚や衣の襞の起伏にも、写実的な自然らしさが現れ、鎌倉時

() 木造聖観音立像 (重要文化財)  像高 51.5cm [旧三昧堂・霊宝館]
 下醍醐寺の仏像のうちで最も古いのはこの聖観音である。その出来栄えの優れていることは醍醐寺諸像中随一と称されている。頭から蓮肉まで一本で造り、白木のままで彩色しない像高わずか50cmほどの小像で、このような仏像を檀像と呼ぶ。もともと檀像は、南方産の白檀びゃくだんなどの堅く緻密な香木を材料とし、一木から頭と体だけでなく装身具まで細かく掘り出した彫像である。そして材料が高価であるところから、30cm前後の小像が多く、香木の香りや緻密な木肌を生かすため、表面は白木のままで彩色しない。このような檀像が大陸から日本に請来され、八世紀後半から発生する日本の木彫に大きな影響を与えたが、日本ではその後まもなく桧など他の材料を使った場合でも、白木の一木造像はすべて檀像と呼ぶようになった。この像はこのような意味での日本的檀像なのである
 押しつぶしたように横幅が広く、厳しく引き締まった秀麗な顔、両上白膊を大きく外に張り出してみせる豊かな胸、細く締めたウェスト、軽く腰を左に捻り、右足を浮かせながら安定感を見せる下半身、条帛じょうはく(左肩から右脇にかける帯状の布)や天衣てんね(肩から両腕にかかって両脇に垂下する帯状の布)や裳に刻まれた深く複雑に交差する襞などには、請来檀像にはみられない雑密像特有の強烈な精神的表現と神秘的な雰囲気がみなぎっている。 

 
   聖観音立像(重文)
 
     不動明王坐像(重要文化財)

 
  軍茶利明王     降三世明王
 
   金剛夜叉明王     大威徳明王


(9)木造五大明王像 (重要文化財)   [旧三宝院・霊宝館]

   像高 不動明王86.3cm 降三世明王122.3cm 軍茶利明王125.8cm
          金剛夜叉明王116.7cm、大威徳明王80.3cm
 もと三宝院護摩堂に安置ししていた五大明王で、現在は霊宝館に移されている。 目がひときわ大きく、体がカマキリのように細身で、姿勢にも極端な誇張があるが、一木造で角ばった衣の襞などに、十世紀頃の作風があらわれている。 不動の張り裂けるような目、 降三世、軍茶利、金剛夜叉の上半身を前にかたむけ、細く長い片足を大きく踏み出す姿、大威徳の蟹のように左右直角に開いた足や立っている牛などは、滑稽ともみえる表現である。 しかし、もしこれを灯火だけの光で拝したとしたら、その精悍な表情姿態に生気が吹き込まれ、東寺講堂の五大明王にも劣らぬ悪魔的迫力が見に迫るのを覚えることであろう。 五大明王を本尊として修する加持祈祷は、このような恐るべき姿が暗示するように、怨霊からの祟りから身を守るため、あるいはその反対に自らの怨念を晴らすために、しばしば貴族の間で行われた。藤原時代の造立であることを物語っている。

 
 日光菩薩(重文)
 
   薬師三尊像(重要文化財)
 
 月光菩薩(重文)

(10) 木造薬師如来及び両脇侍 (重要文化財)   [金堂]
   像高 薬師如来 128.8cm、 月光菩薩 185.1cm、 日光菩薩 190.9cm
   文明2(1470)年に消失し、二度目の復興は慶長5(1600)年に豊臣秀頼によって行われた。しかし、それは新造するのではなく、紀州湯浅の堂を移建して済ませ、本尊もこの時一緒に持ってきた薬師三尊を当てることになった、これが現在の金堂本尊である 三尊とも白木の仏像で衣の装飾に切金きりがね(細く切った金箔を貼り付けて模様とする技法)を用いている。平安時代初期檀像の影響があることを想像させる。 玉願を使った顔はまことに生々しく、写実的な衣のひだの彫法とともに鎌倉時代の彫刻の特色を示している。両脇侍の衣の襞は左右均斉を乱し、複雑を極めるが、特に日光菩薩は裳の中央に結び目を作り、ひときわ念入りで、鎌倉時代の名仏師定慶の作品をお思い出させる。

 
 千手観音像(重文)
 
  銅造阿弥陀如来(重要文化財)
 
   弥勒菩薩(重要文化財)

(11) 木造千手観音立像 (重要文化財)  像高 192.6cm [薬師寺]
 顎の張った幅広い顔は、ぶ厚い唇を突き出し、いかにもごつい感じを覚えさせるが、目を三日月形の伏目とし、瞑想的な気分をたたえている。貞観彫刻(平安初期の彫刻)の盛期に現れた量感のある厳つい体付きは弱まり、衣の襞に見られる飜波式ほんばしき衣文は幾分穏かになっているものの、太い42本もの腕にはおのおの持ち物があり、当然見る人にわずらわしい印象を与え、その顔付きとともに重苦しい雰囲気を漂わせている。 
 千手とか十一面とかの観音は雑密(空海・最澄以前の密教)の説く観音で、奈良時代以来の伝統を受け継いでいる。

12)銅造阿弥陀如来坐像 (重要文化財) 像高 19.2cm 
  20cmに満たない小像だが、定朝様阿弥陀如来像を銅で鋳造した平安時代後期の優品である。言うまでも無く定朝様とは、十一世紀に名仏師定朝が始めた仏像の形式だが、それはこの像のように定印じょういんを結んだ阿弥陀坐像に典型的に現れる。定印とは、両手を膝の中央で組む形で、その左右均整の安定が平安貴族に好まれたのであろう。浄土教が流行した平安時代後期には、各地で阿弥陀堂が造営されたが、その中尊の多くはこの定印をむすんだ阿弥陀であった。しかしこれは本来密教像としての阿弥陀の姿なのである。円い童顔のやさしい表情や、流麗な衣のひだの流れは、定朝様の特色を正確に写しているし、光背、台座も極めて精巧である。奈良時代までは銅像の優品が多かったが、平安時代以後は銅像が少ないうえ、このような優品は極めて稀である。 

(13) 木造弥勒菩薩坐像 (重要文化財)  像高 112.0cm [三宝院]
 真言宗における弥勒信仰は、空海の時代から盛んだったので、来世への関心と言う点では、阿弥陀信仰よりも歴史が古い。 この弥勒は建久3(1192)年に座主勝賢しょうげんを願主にして、名仏師快慶が制作した三宝院の本尊である。 しかし、この仏像はもと勝賢が創立した上醍醐の岳洞院の本尊で、のち転々として三宝院に移ったことが明らかである。その造立の由緒を尋ねてみると、平治の乱で後白河法皇に加担して戦死した藤原通憲の子である願主勝賢が、後白河法皇の崩御の年に、法皇の追善のためにこの仏像を制作したことがわかる。
 この弥勒像はたくさん残っている快慶の作品の中でも、ボストン美術館の弥勒像に次ぐ古い作品で、頬や胸の肉付けに新鮮は気分があふれている。しかし、玉眼を入れた目は現実を見据えるかのように冷たく光、細く高く結い上げた髻もとどりや、体の前面を覆う衣に刻まれた複雑な襞の流れに、宋時代の影響がうかがえる。 これらの特徴は、甘美な平安時代後期の彫刻様式を一掃して、新しい冷厳な時代の到来にふさわしい表現が確立されたことを明確に示している。

 
   不動明王 快慶筆(重要文化財)
 
    理源大師(重要文化財)

(14) 不動明王坐像 (重要文化財)快慶作
   鎌倉時代(建仁3年) 木造、像高53.3㎝ 霊宝館安置 
 この仏像も快慶の作品である。 兄弟弟子の運慶が豪快な仏像を作るのに対して快慶は、安阿弥様あんなみようと言われる優雅な阿弥陀や地蔵を作るのが得意だった。これは東寺講堂の不動にその起源を持つ弘法大師様不動だが、さすが快慶のつくった不動だけかって、憤怒の形相を型通り作りながら、全体のまとまりが大変よく、その形は優美であるとと言ってもよいほどである。
 両眼を見開き、上歯をむき出した東寺講堂の弘法大師様不動の流れを汲む像で、快慶が、憤怒尊ふんぬそんの制作を手掛けたことは珍しい。像内の内刳うちぐり部には、「建仁3年(1203)5月4日」の日付があり、この年の7月から運慶と共に東大寺南大門の金剛力士像の造像に着手することから、快慶最盛期の作品といえよう。なお像内には、快慶の名と共に造立の関係者の名が記されている。

(15) 木造理源大師 (重要文化財)   [開山堂]
 醍醐寺は聖宝理源大師が貞観16(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、延喜7(907)には醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。それに引き続くように下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4(926)に釈迦堂が建立。ついで天暦5(951)に五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。
 理源大師は、上醍醐開山堂に祀られる本寺の開山聖宝僧正の肖像である。構造は、頭・体の躯幹部を大略前・中・後の三材で構成し、像底は十数センチ高に刳り上げ、そこに本体材から造出しの蓋をする、いわゆる上げ底式の内刳法を用いている。  頭・体部ともに奥行を充分にとり、膝も分【ぶ】厚くつくる体貌はなかなか重厚な趣きがあり、体側に垂れる袖の扱いも自然で、鎌倉中期の写実の風を示している。『醍醐寺新要録』等によれば、弘長元年(一二六〇)報恩院本画像に拠って木造御影が再興されたが、本像こそ正にこれに相当すると考えられる。現存する聖宝像中最も古く、出来のよい遺例として注目される。 


     B.絵画
() 紙本著色絵因果経 (国宝)  縦 26.4cm 全長 1536cm 

 
  絵因果経(国宝)

 過去現在因果経四巻を各巻上下二巻に分け、下段に経文を書き、上段にその経文を絵解きする絵を描いたのが絵因果経で、全八巻で完結し、その内容は釈迦の前世の物語と前半生の物語とからなる。醍醐寺報恩院に伝来したこの一巻は、その巻3上にあたり、釈迦の苦行時代を説く部分である。城を出て出家した釈迦を父王が尋ね求める段、父王が釈迦と会う段、釈迦が二人の仙人と問答する段、太子が六年間苦行する段、苦行が悟りを開くために無駄だと知って山を下りる段、菩提樹下で冥想をこらす段、太子の冥想を妨げようとした悪魔を降伏させる談が描かれている。 
 料紙は黄麻紙で、経文は奈良時代独特の謹厳な楷書で書かれている。 絵は素朴な墨線と、赤、橙、緑、青、黄、白のわずかな色を用いて、明るく親しみやすい画風を見せている。報恩院本は欠落の無い完本で、最も古風をのこしている。 奈良時代の数少ない絵画資料として、極めて重要な作品である。 この本はげんわ4年に報恩院十六世寛済が、その父前大納言中山慶親から寄付を受けてから、同院に伝来する。

(2)五重塔壁画(国宝) 

 
 参宿
 

 昂宿・火天后 参宿婆藪仙
 
柳宿・日曜 彗星熒惑天

  五重塔壁画(国宝)
 創建当初の下醍醐の金堂は、釈迦像を本尊としていたので、密教寺院の金堂としてふさわしくなかった。 しかし、天暦てんれき5年(951)に造営された五重塔に至って、その初重に両曼荼羅を描くことにより、密教寺院としての体裁を整えたことは、ちょうど東寺の金堂と講堂との関係に似ている。 東寺の場合、金堂は薬師像を本尊としたが空海が東寺を賜ってから講堂に大日如来を中心とする21体の密教像を安置することで、真言宗の根本道場としての実を備えたのであった。 両界曼荼羅とは、大日経の説く胎蔵界、金剛頂経の説く金剛界の両界の諸尊を、幾何学的に配置することによって、大日如来を中心とする密教の根本理念を表した図である。醍醐寺五重塔初層の場合は、まず芯柱の4面のうち、北・西・南の三面に胎蔵界曼荼羅、東側一面に金剛界曼荼羅の各中心部の諸尊が配置されている。 また北西隅と西南隅の連子窓羽目板に胎蔵界の外金剛部院、東北隅と東南隅の同羽目板に金剛界の外院、すなわちともに一番外側に配置される地位の低い諸尊が配置されている。当初四天柱に、西側二本に胎蔵界、東側二本に金剛界の各心柱の諸尊と外側連子窓羽目板の諸尊との中間に位置する諸尊が描かれたものらしい。 腰羽目板には真言八祖像が描かれている。 そのうち空海を除く七祖は、寺伝来の七祖(国宝)を写したかのように、像形がぴったり一致し、空海像は現在見ることができる空海の画像では最古の作品である。 

 

 閻魔天像(国宝)
 
 訶梨帝母像(国宝)

(3) 絹本著色閻魔天像 (国宝)  縦 126.1cm 横 65.4cm 
 地獄の支配者閻魔大王を密教像として画いた閻魔天の画像である。しかし仏画でありながら、この画像はいかにも型破りである。まずこの閻魔天は普通の仏画のように正面向きではなく、斜め右を向き、左足を垂れ、右足をまげて牛の背に乗る。その姿には仏画の堅苦しさが見えず、その表情にも仏画としての神聖な表現が忘れ去られ、世俗画で良く見られる可愛らしいとでもいうべき軽妙な感じが現れている。牛も首を持ち上げて、今にも動き出そうとする気配をあらわし、とても東寺講堂の大威徳明王の乗る牛のような魔性を持った水牛とは違う。 このような閻魔天と牛とを練達した淡い墨線で、柔らかくのびのびとえがいて、独特の仏画が出来上がっている。 
 そこで思い出すのが鳥獣戯画の牛である。この牛と鳥獣戯画の牛とは、形やせんの性質が良く似ているからである。ところが、鳥獣戯画の筆者と推定される鳥羽僧正覚猷は、今昔物語の著者源の隆国の子であり、源氏の寺である醍醐寺とはまずこの点で関係がある、その上、醍醐寺座主定賢とは兄弟の関係にあり、天台寺門派の鳥羽僧正と醍醐寺は親密なかんけいにあった。
 その上、宮廷貴族のため世俗画を描いた絵所画師と仏画専門の絵仏師との画風の相違も、御所と御堂とが院の一区画に相接してたっているところでは、必然的にぼかされ、相互の技術交流が盛んになっていった。この絵の閻魔天に現れた世俗画的特徴は、仏画の領域に大和絵が進出した結果である。

(4)  絹本著色訶梨帝母像(国宝)  縦 127.2cm 横 77.9cm 
 訶梨帝母かりていもとは鬼子母神のことである。はじめは子供を取って食べる鬼だったが、釈迦に自分の子供を隠されて改心し、かえって子供を守護神となったという俗信仰で良く知られた神である。 この訶梨帝母像は吉祥を表すザクロを右手に持ち、左手で赤子を抱いて半跏はんか(片足を曲げ、片足を垂れる座り方)の姿勢で座る。画面いっぱいに斜め右を向く姿には、なみの仏画とは違った味があり、彩色も白濁した色調で、中国風の服装と共に宋画の写しであることを創造させる。 訶梨帝母の座る床座の側面に彫られた格座間の形は、この図画が鎌倉時代の制作であることを示している。

 
 五大尊像不動明王(国宝)
 
 五大尊像金剛明王(国宝)
 
 降三世明王(国宝)
 
 大威徳明王明王(国宝)
 
 軍茶利明王明王(国宝

(5)  絹本著色五大尊像(国宝)  各縦 177.9cm 横 126.5cm 
   不動明王、降三世明王、軍茶梨明王、、金剛夜叉」明王、大威徳明王、
 画像で最も古い作品のは大治2(1127)年制作東寺所蔵の五大明王尊である。しかしこの画像は表現方法が東寺本とたいそう異なっている。まず第一に、東寺画では装飾的傾向が強く、手を振りかざし、片足をあげる憤怒の形相が、まるで歌舞伎役者が大見得を切るような格好で、とても恐怖心をそそる体の姿ではない。 彩色も白群びゃくぐんの肉身に白緑びゃくろくによるハイライトの効果が鮮やかで、特に条帛じょうはくや天衣てんね、裳におかれた切金文様の美しさがきわだっているし、火炎光背も渦巻文様と化している。それに対して、この五大尊は躍動するような姿勢を描き出し、彩色も渋く単純化し、文様も裳の表側に僅かに見えるだけで、装飾的な傾向を減じている。火炎は朱の濃淡に墨をところどころに加えて、迫真的なバックを形成し、明王、の憤怒の姿を効果的にしている。 東寺本が平安後期の五大尊の典型とすれば、これは鎌倉時代の典型と言えるだろう。

 
 文殊渡海像(国宝)
 
 普賢延命像(重文)
 
 地蔵菩薩像(重文)

(6)  絹本著色文殊渡海(国宝)  縦 143cm 横 106.4cm 
 獅子に乗った文殊菩薩が、善財童子を先頭に優填王うてんおうに獅子の手綱をとらせ、最勝老人(後方老人)、仏陀波利(前方老人)、を従えて、雲に乗って海を渡る図である。中国の五台山にこのような群像の文殊があり、円仁がこれを伝えて比叡山に文殊楼を造営したと言う。知恵の文殊と称せられる文殊は、凛然とした美少年の姿で、頭に五つの髻を結ったいわゆる五髻文殊ごけいもんじゅである。眷属や獅子の輪郭線には筆勢があって、いかにも鎌倉時代の仏画らしい潑刺はつらつとした動きが現れ、合掌して振り返る可憐な童子と、左足を踏み出して見えを切る優填王の対比がおもしろく、渋い色調と渦巻く雲や波の描写には、宋画の影響を受けた鎌倉時代仏画の新傾向がうかがわれる。 

7) 普賢延命像(重要文化財) 108.0㎝×64.0
 普通延命ふげんえんめい菩薩は、除災、長寿などを祈念する修法「普賢延命法」の本尊として造像され、真言系の20像と天台系の二臂像がある。菩薩の乗る蓮華座は、20臂像では4頭の白象によって支えられ、2臂像では、3つの頭を持つ1頭の象がさっさえている。この像は前者である。このように多臂像で獣座に乗るのは、密教像の大きな特徴である。
 普賢延命も五仏宝冠を戴き、周囲に短い火炎を廻らす二重円相の光背を負い、月輪に収まるのは、平安時代以来の伝統を引き継いでいるが、その顔は眉目麗しく、若々しい男性美を表している。おそらく制作念だしは鎌倉時代初期であろう。

(8) 地蔵菩薩像(重要文化財)119.1㎝×54.8 
 地蔵菩薩は、もともと六道のうちの地獄に落ちた衆生を救済する仏であった。しかしあまたの菩薩のうち、僧形を地蔵は最も庶民に親しみやすく、地蔵信仰の流行はとうとう地蔵を六道全ての救済者にまで拡大させてしまった。 この図は、地蔵の左肩あたりからでた雲が地蔵の頭上に広がり、ここに向かって左から、牛頭ごずの鬼に釜ゆでにされる罪人、白馬(畜生)、人、天、六臂の阿修羅王、餓鬼をえがいて、六道の救済者であることを示している。さらに、台座の下辺に群がる雲で地蔵來迎を表している。來迎ははじめは阿弥陀だったが、後に弥勒・観音などの來迎信仰が起こってきた。  この図は、半跏の地蔵が二重円相の光背を背負い、またその背後に月輪を描いているてんから、密教像としての地象とわかる。 地蔵の女性的な美しさの裏に潜む冷ややかな表情や、袈裟を飾る細かい幾何学文の切金文様は、鎌倉時代仏画の特徴を表している。

() 大日経開題 (国宝)
 インド僧善無為ぜんむいの口述を唐僧一行が筆受した大日経疏(大日経の注釈書)20巻の抜粋で、現在六紙を残すのみだが、仁和寺所蔵30帖冊子の書風と良く似 ているところから、寺伝のとおり空海の直跡とみて良い。大小さまざまな紙を繋ぎ足した紙に、大日経疏を読みながら、重要な箇所を書き記したものらしく、字の配列が不整で、後日の書き入れもあり、その苦心のさまは空海のたゆまざる研鑽のほどを偲ばせる。 
 を大日経開題と呼ぶのは、外題げだい(表紙に画いてある書名)にかく書いてあるからだが、現存する数種の大日経開題とはいずれとも異なる。文書中「蘓ゝ婆ゝ羅ゝ」と大日経開題(国宝)あるのは、「蘓婆羅、蘓婆羅」と読むらしく、仮名の反読符「々」の古い形で、国語史上重要な資料だと言われている。

 
 大日経開題(国宝)
 
 狸毛奉献表(国宝)
 
 理源大筆(国宝)

(10) 狸毛奉献表(国宝)
 空海が筆生坂名井清川に命じて、狸の毛の筆四本を作らせ、弘仁3(812)年6月7日に峨天皇に献じた時の上表文である。その筆は真書(楷書)、行書、草書、写書(写経用あるいは筆写用)の4本である。諺に「弘法は筆を選ばず」というのとは裏腹に、空海は在唐中、求法中の傍ら、筆の製法や書体による筆の選択について、詳しく研究している。 
 なお、現在九行を残しているが、四行目と五行目の間に三行分不足している。 この不足分のうち、二行は醍醐寺座主義演が切り取って、後水尾天皇に献上したことが奥書でわかるが、もう一行分の欠失の事情はわからない。

(11) 理源大師筆処分状(国宝)
 これは延喜7(907)年に書かれた理源大師聖宝自筆の処分状である。 その内容は、去年老僧寛蔵師を別当に任じたが、適当ではないので、別当と御願所行事を解任し、醍醐、成願両寺は延ちん法師の処分に委せる、と言う意味のことがかいてある。聖宝が歿したのはこれから二年後だが、すでに病気だったのか、字がはなはだ乱れている。自分が亡き後の醍醐寺の将来を憂え、この処分を断行したものらしく、聖宝の決意のほどが文面に歴然とあらわれている。

 
  醍醐花見短冊(重要文化財)

 
  舞楽図屏風 俵屋宗達筆(重文)

12)醍醐花見短籍(重要文化財)各約36.5㎝×5.5
 豊臣秀吉は慶長3年(1598)3月15日に、醍醐寺で史上に名高い豪華な花見をしたが、花見に先立ち秀吉自ら寺に来て、新たに建築や庭園を造営した。 また山城・大和などの諸国から七百本の桜を、上醍醐の山頂に至る道の両側に移植するほどの熱の入れようであった。 
 秀吉はその5か月後の8月7日に他界するが、醍醐寺はこの花見をきっかけに、応仁の乱後の荒廃していた寺を再興することができたのだから、醍醐寺にとって忘れることのできない事件であった。 その時、秀吉はじめその側近の侍女、側近の妻女などが歌を詠んだが、秀吉は十数人に命じて、金銀泥で花鳥山水を描いた美しい短籍たんざくにそれらの歌を書かせた。これを錦の表装を施した帖に、一頁三葉ずつ貼付け、秀吉から寺に寄進した。それがこの醍醐花見短籍で、ここにあげたのは、「松」と署名した秀吉の歌と、「にしの丸」の歌各二葉で、「あらためて」の歌のみ秀吉の自筆と確認されている。「にしの丸」とは淀君と推定される。
  あらためて なをかへてみむ 深雪山みゆきやま(醍醐山)
    うづもるはなもあらはれけり            松
  深雪山 かへるさを(お)しき けふ(きょう)の雪
     花のおもかげ いつかわすれん           松

13)舞楽図屏風 俵屋宗達筆 (重要文化財)
 俵屋宗達の筆になる総金地の2曲1双の屏風である。左隻左上方に松と桜を、右隻右下方に楽太鼓幕を描き、画面いっぱいに右から舞楽の採桑老さいそうろう・納曽利なそり・羅陵王らりおう・還城楽げんじょうらく・崑崙八仙こんろんはっせんを演じる楽人を描く。対角線の構図を巧みに用いた画面構成は律動感があり、舞楽の持つリズム感をいかんなく表している。

14)その他の絵画
  ⑦ 絹本著色阿弥陀三村像(重要文化財)

   ⑧ 絹本著色大日金輪像[1909指定、98.2×60.9cm](重要文化財)
  ⑨ 絹本著色大日金輪像[1941指定、96.4×83.3cm](重要文化財)
         絹本著色虚空蔵菩薩像(重要文化財)
  ⑪ 絹本著色地蔵菩薩像(重要文化財)
  ⑫ 絹本著色普賢延命像(重要文化財) 
  ⑬ 絹本著色弥勒菩薩像(重要文化財)
         大元師法本尊像[絹本著色大元師明王像・3幅、毘沙門天像、
          伝釈迦曼荼羅図、虚空蔵曼荼羅図]  (重要文化財)
  ⑮ 絹本著色愛染明王像(重要文化財)
  ⑯ 絹本著色金剛夜叉明王像(重要文化財)
  ⑰ 絹本著色大威徳明王像(重要文化財)
  ⑱ 絹本著色五秘密像(重要文化財)
  ⑲ 絹本著色山水屏風、六曲屏風(重要文化財) 
  ⑳ 絹本著色仁王経曼荼羅図(重要文化財)
 (21) 絹本著色般若菩薩曼荼羅(重要文化財)
 (22) 絹本著色弥勒曼荼羅図(重要文化財)
 (23) 絹本著色両界曼荼羅図(重要文化財)
 (24) 絹本著色六字経曼荼羅図(重要文化財
 (25) 紺絹金泥六字経曼荼羅図(重要文化財)
 (26)  紙本墨画不動明王像 5幅(重要文化財)
 (27)  紙本墨画密教像(重要文化財)
 (28)  紙本著色十巻抄像(重要文化財)
 (29)  紙本著色調馬像 六曲屏(重要文化財)
 (30)  紙本墨画芦鴨図(重要文化財)
 (31)  金地著色扇面散図 伝俵屋宗達筆 二曲屏(重要文化財)
 (32)  金地著色舞楽図 俵屋宗達筆 二曲屏(重要文化財)

C.工芸品
() 金銅仏具[如意、九鈷杵、五鈷鈴、金剛盤]  (重要文化財)
() 金銅両曼荼羅    (重要文化財)
() 線刻阿弥陀五仏鏡像  (重要文化財)
() 線刻如意輪観音等鏡像 (重要文化財)
() 石灯篭         (重要文化財)
() 鍍金輪宝羯磨裳紋戒体筥 (重要文化財)
() 沃懸地螺鈿説相箱いかけじらでんせっそうばこ一双 (重要文化財)
() 螺鈿如意      (重要文化財)

D. 書籍・典籍・古文書
() 大日経開題 (国宝)
() 狸毛奉献表(国宝)
() 理源大師筆処分状(国宝)
() 後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡とうりゅうしょうりゅうきょうかい(国宝) 
(5)    後醍醐天皇宸翰(国宝)
() 浄名経集註 巻第9 (重要文化財)
()  紺紙金泥般若心経 後奈良天皇宸翰(重要文化財)
()  孔雀経音義 真法親王撰」3帖(重要文化財)
()  江談抄(重要文化財)
(10)
  諸寺縁起(重要文化財)
(11)  多羅葉記 心覚撰 3帖(重要文化財)
(12)  大唐西域記巻第11,12(重要文化財)
(13)  仏制比丘六物図(重要文化財)
(14)  法華経釈文 仲算撰 3帖(重要文化財)
(15)  理趣経 足利尊氏筆(重要文化財)
(16)  中阿含経 巻第14残巻論語 巻第7(重要文化財)
(17)  悉曇字母[飛雲紙金銀箔散料紙](重要文化財)
(18)  随仏念誦要訣 淳祐筆(重要文化財)
(19)  性霊集 法助准后跋 10帖(重要文化財)
(20)  菩提荘厳陀羅尼・無垢浄光根本陀羅尼 (重要文化財)
(21)  宋版一切経 6,096(重要文化財)
(22)  醍醐花見短冊(重要文化財)
(23)  醍醐雑記事 巻第7(重要文化財)
(24)  醍醐雑記事 慶延記 15帖(重要文化財)
(25)  醍醐根本僧正略伝(重要文化財)
(26)  醍醐寺新要録 義演自筆本 22帖(重要文化財)
(27)  醍醐寺聖教類 16,441(重要文化財)
(28)  東大寺要録巻第1,2(重要文化財)
(29)  本朝文枠 巻第6残巻(重要文化財)
(30)  遊仙窟(重要文化財)
(31)  弘法大師二五箇条遺告(重要文化財)
(32)  義演准后日記 62冊(重要文化財)
(33)  賢俊日記 2冊(重要文化財)
(34)  満済准后日記 38帖(重要文化財)
(35)  後宇多天皇宸翰御灌頂御諷誦 (重要文化財)
(36)  僧網牒(重要文化財)
(37)  東南院院主房起請(重要文化財)
(38)  醍醐寺文章 16,403(重要文化財)

参考文献
1)「古寺巡礼京都。醍醐寺」 井上靖・岡田宥秀著
2)「古寺巡礼京都。醍醐寺」 永井路子・麻生文雄著
3)日本古寺美術全集14巻醍醐寺・仁和寺・大覚寺 浜田隆等著
4)「探訪日本の古寺」 相賀撤夫編著
5)「週間古寺をゆく9醍醐寺」 株日本アート・センター編集

 

 

 

 

 





.












                       [前へ]     [トップページ]     [次へ]