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                              京都・朱雀錦
(22)世界遺産・仁和寺


世界遺産・仁和寺御室桜金堂(名勝)

    1.仁和寺の歴史

1.創建と宇多天皇
 第58代光孝こうこう54代天皇は仁明にんみょう天皇の第三皇子である。第57代陽成天皇は9歳で即位し、在位のはじめは摂政藤原基経もとつね(天皇の伯父)が協力して政務を見た。しかし気性の激しい天皇と言われた陽成天皇と基経の関係が悪化し、陽成天皇は基経により廃位された。替わって元慶がんぎょう8年(884)陽成天皇の跡をついで光孝天皇が即位された。時に55であった。もともと皇系から遠く、皇位に就く望みが薄かったこの天皇が、太政大臣藤原基経もとつねの推挙によって皇位につかれたから、政務はすべて基経にゆだねられた。
 仁和寺は、はじめ光孝天皇が国家安泰と仏法の興隆を願い大内山山麓に伽藍を建立しようとされたが、竣工を見ないうちに、在位僅か3年、仁和3年(887)8月御年58歳で崩御された。光孝天皇は皇子を多く臣籍降下させていたが、病気になり急遽、第7皇子であった源定省さだみを仁和4年8月25日親王に復し、翌日8月26日に立太子、8月27日崩御、同時に宇多天皇が即位した。宇多天皇は父帝の意思を継ぎ仁和寺の造営を始め、翌年4年秋には金堂が竣工し大内山仁和寺と称した。等身大の阿弥陀三尊を安置し、8月17日東寺長者(東寺の最高責任者)真然しんぜん大徳を導師として落慶供養を行い併せて先帝一周忌の御斉会ごさいえを行った。これが仁和寺の起こりである。
 仁和寺と言う寺号は、天皇ご自身が在位の年号をとって命名されたもので、わが国随一の寺である。建仁寺や延暦寺は、その創建時の年号をとって名付けられた寺であるが、その後絶対に寺名に年号の使用ができなくなった。
 在位僅か10年、寛平かんひょう9年(897)7月、31歳の若さで皇太子敦仁あつぎみ親王(醍醐天皇)に譲位し、翌年昌泰しょうたい2年10月、東寺長者益信やくしんを戒師として当道場にて落飾らくしょく(貴人が髪を剃り落として仏門に入ること)された。初めの法名を空理と号されたが、後に奈良の東大寺で菩薩戒を受け、更に延喜えんぎ元年(901)東寺で灌頂かんちょう(菩薩僧とな儀式)受け金剛覚と号された。
 その後延喜4年、法皇は境内に御室(室は上代の僧房、高貴の方の住む室を御室と言う)と円堂を建立し、落慶供養が行われた。 円堂とは八角円堂と経蔵とからなり、御室が御所の役割を果たしているのに対しこれは仏事を営む場所である。

2. 法流とその繁栄
 仁和寺は、真言密教の寺院となったのは、金堂の落慶供養に導師を勤めた真然が時の東寺長者であり、宇多天皇が落飾し、伝法灌頂でんぽうかんちょう(阿闍梨あじゃりと言う最高指導者の位を授かる儀式)を受けた時の戒師も同じく東寺長者益信であった。
 平安時代は、病気や天変地異等の災害を死霊の祟たたりり、物怪ものけの仕業しわざによるものと考えられたから、その調伏ちょうふく(内外の悪を打破すること)を願って人々は競って密教の加持祈祷の力に頼った。
 真言密教の法系は何れも空海を宗祖と仰いでいるが、空海の門下に実恵じちえと真雅しんかが出、後の真言宗の二大分脈の基を作った。下って宗叡しゅうえいが実恵の真然しんぜんが真雅の跡を継いだ。その跡を継いだ源仁は護命から法相教学、ついで実恵から密教を学び真雅・宗叡に灌頂を分裂を纏めたが弟子の益信やくしんが広沢流う、聖法しょうほうか小野流をひらいて、以後東密はこの2流に分かれることになる。
 益信から伝法灌頂を受けた宇多法皇は、その法流を弟子の寛空かんぐうに伝え、さらに寛朝かんじょう、済信さいしんと受け継がれた。寛朝は宇多天皇の孫であり、済信は、法皇の曽孫である。

3. 主たる歴代法皇
 仁和寺が最も栄えたなは、平安時代中期から鎌倉時代にかけてで、多くの法親王を迎え、歴代の門跡もんぜき(皇族、公家の子弟等が住する寺院、門跡寺院の住職)と仰いだ。 なかでも三条天皇の第4皇子師明もろあき親王は法号を性信しょうしんと称し済信から伝法灌頂授けられ法流の全てを引き継いぎ、御室第二世となり、大御室と呼ばれた。 性信以後、仁和寺歴代はその時の天皇の皇子が継承することが鎌倉時代まで行われ、それ以後も明治初年にいたるまで、ほとんど宮家出身の人たちであり、皇室のつながりが強い寺としての性格が継続された。 
 ついで第三世覚行は白河天皇の第三皇子で資性英明にして世に中御室と言われた。 朝廷のため孔雀経等の御修法を十余会及び、康和こうわ元年(1099)法親王(出家後に親王になった者を言い、親王が親王のまま出家すると入道親王と言う)を賜った、これが法親王の始まりである。
 第4世覚法法親王は白河天皇第四皇子で高野御室と言われる。御流の奥義を究めるとともに声明道しょうみょうどう(お経に節をつけたもの)にすぐれ広沢流のを大成した。
 第五世覚法法親王は、鳥羽天皇第五皇子、晩年の紫金台寺に遷御され紫金台寺御室と言われる。そして後白河天皇第二皇子である第6世の喜多院御室守覚しゅうかくは中興の祖といわれ、著作を二百余巻も著し、真言密教の奥義を極めた。この真言密教の法流を御室御流と言う。守覚はまた、治承じしょう2年(1178)建礼門院徳子の御産に際して孔雀明王法をあげ、安徳天皇の誕生をみたため、高倉天皇よりの消息(手紙)が現存する。 
 平安時代後期には、仁和寺本寺を中心として、その周辺に院家いんげの子院として建立された堂舎は七十余を数えたと言う。 
 仁和寺は、皇族の尊崇と平安貴族の庇護をえて、天台宗とともに大いに繁栄した。 しかし平安中期頃から浄土教の思潮の浸透によって、次第に影響をこうむるようになった。加えて文治ぶんじ元年(1185)源頼朝が鎌倉に武家政権を確立し、政治の実権が武家の手に渡るとともに武家の気風にかなった禅宗が迎えられ、鎌倉中期ころから南北朝時代にかけて、建仁寺、東福寺,南禅寺、大徳寺など、豪壮な禅宗寺院が創建されたにいたった。
 ところで威容を誇った仁和寺の伽藍も、天永てんえい2年(1119)4月13日の大火災多くの堂舎が消失して、残ったのは、四西門、南御堂、円堂、総社そうじゃ、大湯屋おおゆや、蔵のみであった。消失した堂舎のうち、金堂、鐘楼はその年の1210日に、観音院、灌頂院、不動堂などは、保安ほあん2年(1121)に再建供養が行われているが、その他の東西回廊、経蔵、僧房、食堂などはやや遅れて保延ほうえん元年(1135)5月に再建供養が行われた。 
 その後、平安時代末期から室町時代初めまで、院家、子院の堂舎の消長は、個別的にはあったが、仁和寺全体としては、おおむね隆盛が続き応仁のらんまでは、仁和寺本寺の寺容は継続されている。

4.応仁の乱と寛永の再興
 応仁2年(1468)9月4日、応仁の乱が勃発した。西軍の兵が京都の西側に布陣し、仁和寺のその根拠地の一つになっていため、東軍によって攻撃され、そのため仁和寺は、御室を初め数百の堂舎はことごとく戦火により消失し、すべて焼け野原になってしまった。
 そして江戸時代の寛永の復興まで、法灯は双ヶ丘西麓に残った真光院でわづかに維持されたである。なお、真光院にも御堂、書院、護摩堂、塔、鐘楼、鎮守、経蔵が存在した。
 仁和寺の復興は、江戸時代初期、覚深かくしん法親王が第21世座主として迎えられてから実現した。同法親王は後陽成天皇の第一皇子で皇太子であったが、豊臣秀吉が死亡すると後陽成天皇は、突然良仁親王(覚深法親王)を皇太子から外し第3皇子政仁親王(後の後水尾天皇)皇太子した。これは徳川家康をはばかり豊臣政権に近い良仁親王を外したとされている。 
 寛永11年(1634)7月徳川三代将軍家光の上洛に際し、覚深法親王は二条城に山上し家光に、仁和寺の再興陳情したのである。家光は了承し、再興のため金20余万両を寄進した。
 その再建計画は、慶長年間(15961615)に内裏の建替えを行い、その取り壊した旧殿舎の多くを仁和寺に移築しようとするものであった。
 寛永18年2月幕府により仁和寺造営奉行が任命され3月から内裏の旧殿舎の引渡し作業が開始された。「仁和寺再興記」によれば、紫宸殿、清涼殿、常御堂などが仁和寺に寄せられたと記されている。紫宸殿は金堂に、清涼殿は御影堂みえいどうに移し改められた。金堂は、屋根が瓦葺になるなどの改変があるものの、おおむね御所の建物の原型と雰囲気を保持し、当時の宮殿建築の遺例として貴重である。しかし、御影堂は、部材には、清涼殿のものを示す墨書があるが、建物自体は大幅に変えられている。 なお常御殿は御室の宸殿に移されたが、残念ながら明治の火災で焼失した。
 そして寛永21年(1644)9月には金堂が、10月には二王門の金剛力士像も安置された。 正保しょうほ3年(164410月には造営が完成し、法親王は双ヶ丘の古御所より新御所に移り、1011日盛大な落慶供養が営まれた。これが現在の仁和寺である。
 創建以来、当寺に入られた御方は天皇(法皇)9方をはじめ入道親王27方、法親王23方、親王・内親王12方、皇族出身の僧侶19方、さらに皇后、中宮を加えると百方になり仁和寺は筆頭皇室縁故寺と寺歴を誇っている

5.仁清と乾山
  江戸時代の京都の焼き物は優麗典雅な風趣が強く、なかでも仁清と乾山は最も傑出した陶匠として著名であるがその二人とも仁和寺と深い関係がある。
 仁清は野々村清右衛門せいえもんと言い、丹波の国の野村から京都の粟田口あわたぐちにやってきた丹波焼きの陶工でした。江戸時代の初期には丹波は永い歴史を持った焼き物の産地で高度のろくろの技術を持った陶工が多くいた。一方、京都は茶の湯等が盛んで陶器の需要が多く、粟田口だけではなく八坂や清水、音羽といった京都東山山麓を中心に瀬戸風の高級陶器や唐物の写し、高麗茶碗の写しなどが盛んに作られ始めて、そんな動きを感じ各地から陶工が集まってきた、仁清もその一人であった。 
 洗練された焼き物を修行すべく粟田口にやって来た清右衛門ですが、粟田口での修行に物足りなさを感じ、粟田口の陶工のルーツである瀬戸まで腕を磨きにいった。 そこで数年過ごし、粟田口にもどった。そこに待ち受けていたのが金森宗和であった。
 金森宗和は飛騨高山城主金森可重よししげの嫡子であったが、大阪夏の陣で徳川方につく父を批判したことで廃嫡され、母と供に京都に隠棲する。大徳寺で禅を学び、剃髪して「宗和」と号した。武士でありながら祖父長近、父可重と同じく茶の湯に秀でていたこともあり、公家との交友を深めながら、やがて茶人として活躍をはじめる。
 宗和の茶風は千利休の「わび」に対しやわらかく、優美であり「姫宗和」と呼ばれる。優美な茶風を築きあげた。 
 宗和は自分の美意識にあった焼き物を作らせるために、きりかたと呼ばれる型紙を陶工にあたえて、粟田口の窯で茶器を作らせていた。そこで清右衛門を知ることになったのである。一方、永い間廃墟と化していた仁和寺は江戸時代初期に再興されると、仁和寺にかかわる美術好きの皇族が仁和寺の焼き物を焼く窯を求めていた。そうした背景の中で宗和に腕を認められていた清右衛門が仁和寺門前に窯を設け仁和寺のために焼き物をかくことになった。清右衛門は窯を開いた後もしばらくは作品に銘をいれることなく、作品は、御室焼や仁和寺焼として世にでていた。 
 仁清は開窯10年ころから自分の作品に「仁清」の印を捺し、これが自分の作品であることを宣言した。そうした意味で仁清は近代的な意味で「作家」「芸術家」としての意識をもった最初の陶芸家である。
 仁清の作品の多くは茶道具や懐石道具であった。仁清の作品の特徴は繊細さや優美さにあり、宗和の好みが大きく影響を与えている。またまだ未発達だった京焼の色絵の技法を完成させ、赤(濃赤)、萌黄(若竹色)、紺、紫、金、銀彩や蒔絵の手法を応用した仁清の上絵付けの色絵は「仁清手にんさいで」として他の産地の作品まで影響を与えた。
更に釉薬ゆうやくにも特徴がある。仁清釉にんせんゆうとも呼ばれ釉薬は、仁清が苦心して調合、焼成し実現させたもので、半透明で柔らかな釉肌に特徴がある。
 尾形乾山おがたけんざんは京都の富裕な2代呉服商雁金屋かりがねや尾形宗謙そうけんの三男。 淋派の画家尾形光琳の弟になる。遊び人で派手好きだった兄の光琳と対照的に内省的で、書物を愛し、隠遁を好んだ。兄が絵を志したのに対し弟は陶器に興味をもち、和歌や茶事を学び京焼きの祖野々村仁清に陶法を師事した。元禄12年(1699)37歳の時鳴滝(仁和寺の近く)に窯を開き、その位置が皇城の乾いぬい(西北)の方向にあることから乾山と号した。これは、かねてより尾形兄弟に目をかけていた関白二条綱平が山荘を与えたのである。乾山は光琳の協力と仁和寺及び二条家の支持を受け製陶に専念、書・陶・画の3者を総合した新しい型の陶器をうみだした。

6. 御室流華道

 
        御室流華道
 
       御室流華道

 仁和寺では御室華道として御室流を伝える。流祖は仁和寺の開祖宇多法皇である。 法皇は文化を愛され、ことに自然風物に親しむことを喜びとされた。なかでも桜を最も愛され、それは紫宸殿の庭前にある右近の橘、左近の梅を習いとしたものを、左近の桜に改めた。法皇は境内に多くの桜を植えた。花季の訪れるたびに一枝を禁中にお届け、また一枝を御室の瓶に挿されたところ、その花姿の中におのずと宇宙の真理があらわれることを悟られ、これこそ高尚優雅な精神を養う人心教化のための随一無二の法とされたことから御室流華道の発祥をみたのである。
 仁和寺の文化活動のひとつに、「御室流華道」があり、仁和寺の門跡を家元に、華道を通して芸術と宗教による人格の形成をめざしている。
 「御室流華道」その源流は9世紀末、仁和寺開創の宇多法皇までさかのぼります。
 風雅をこよなく愛した法皇は、桜一枝を御室の醍醐帝に届け、いま一枝を御室の宝瓶に挿して、人心教化の一法として挿花の道を示したといわれます。
 毎年5月には、流祖宇多法皇への献華式が寝殿で古式ゆかしく繰り広げられます。御室流華道のいけばなは、生花と自由花、創作花に大別されます。生花は、伝統的様式を伝えて、さまざまな決まりがある。その基本は、3本の役枝によって構成されます。役枝は、「体・相・用」(仏教で、人間の心に備わる3つのあり方をさす)と名づけられ、寸法や枝を曲げて形を整える時の角度などに厳密な決まりがあります。これに対し、自由花(盛花と投入花)は、制約が少なく、私たちが日常目にする色鮮やかな草花を自由に使えるものとして生み出されました。これは、「体・相・用」の概念は共通するものの、役枝の使い方などはより自由で、花材の選択・取り合わせも生花とまったく異なるなど、生花と別の色彩豊かな世界を表現することが可能となります。また、役枝を設けないさらに自由な生け花を、創作花と呼んでいます。

7.江戸幕府末期
 徳川15代将軍慶喜よしのぶは、深く内外の形勢を察し、慶応3年(18671014日大政を朝廷に返した。しかし、当時の紛争状態はこの事を持って平和的に解決できる状態ではなく、慶喜は薩摩藩討伐を名目に大軍を率いて大阪城から京都を目指して兵を進めた。これが鳥羽伏見の戦いである。 
 慶応4年正月3日の夕刻、京都の南、鳥羽の関門を守る薩長兵の発砲によって火蓋が切られ、このときの京都周辺の兵力は新政府軍の5000名に対して旧幕府軍は15000名を擁していた。しかし、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突撃を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、前進をはばまれた。翌4日は一進一退の戦闘が続いた。 
 西郷隆盛は朝廷に対し錦の御旗と朝敵追討の節刀を賜るよう願いでた。その結果、伏見宮出身で当時仁和寺第33世門跡純仁親王に復飾を命じ、仁和寺嘉彰よしあきら親王と名乗り征夷大将軍を命じ、ついで軍事総裁となった。
 5日になると明治天皇が宮に仁和寺嘉彰親王に錦旗を与えた、新政府軍が官軍となった。その結果、幕府軍の士気が急激に低下したと考えられる。旧幕府軍は淀城に入り軍の建て直しを考えたが、現職の老中である淀藩主稲葉正邦は新政府軍と戦う意思がなく城門を閉ざし幕府軍の入城を拒んだ。 
 8日、開戦に積極的で無かったとされる慶喜は大阪城におり、旧幕府軍の敗戦が決定的となり、7日には慶喜に対して追討令が出たと聞くと、その夜僅かな側近及び老中板倉勝静、同酒井忠淳、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。
 旧幕府軍の総大将の徳川慶喜の退却と、新政府軍の砲兵力、新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面的敗北となった。
 現在、仁和寺の宝物間にその時の錦の御旗二流れや宮殿下着用の軍服節刀が保存されている。


                         Ⅱ.建造物庭園等
1.二王門 (重要文化財)

 
                二王門(重要文化財)

 
       金剛力士吽像
 
      金剛力士阿像

 仁和寺の二王門は、徳川三代将軍家光の寄進によって、寛永14年(1637)から正保しょうほ元年(1644)にかけて造営された。柱間五間うち三間に戸口、左右各一間に仁王像を安置する。 
 知恩院山門、南禅寺三門とともに京都三大門の一つに数えられている。門の種類は二重門である。2階造りで、下層に屋根のないものを楼門、下層にも屋根があるものを二重門とよんで区別します。二階造りの門を山門又は三門と呼びます。
山門と三門、読み方は一緒ですが文字がちがいます。三門とは「三解脱門さんげだつもん」の意味で、涅槃ねはんに入る際に迷いから抜け出るために、空・無想・無作の三つの門を潜らなければいけないとされています。禅宗の多くは本山の正門を三門と呼んでいます。
山門とはもともと寺院が山深い場所に建てられていたために付けられたのですが、後に平地に建てられた寺院でもそのまま山門と呼ぶようになりました。寺院全体や宗派全体を指す場合もあります。一般的に寺院の門は大門と呼ばれるものです。
 通常、大寺院の正門は仁王門又は南大門(南側にある場合が多い)と呼ばれるが、仁和寺では二王門と呼ばれています。読み方は同じ「におうもん」ですが、「仁王」ではなく「二王」です。仁王を安置する門でなく、王が二人いる門の意味になります。なぜそのようになったかは不詳のようです。

2.御殿
(1)本坊表門 (重要文化財)

 
   本坊御表門(重要文化財)
 
    御殿大玄関(有形文化財)

 建築様式は、一間薬医門。一間藥医門は、武家屋敷の標準的な門。基本は前方(外側)に2本、後ろ(内側)に2本の4本の柱で屋根は切妻本瓦葺。特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることです。したがって前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になります。当門は、ポピュラーの門であるが、禁中の御台所門を移したものと伝え、木割の太い、雄大な意匠からなる。いずれも貭が良く、伽藍の一環をなす重要文化財に指定されている。
 二王門を潜ると参道が真っすぐ北に延びています。すぐ左側に本坊表門があり、門をくぐると本坊(御殿)である。仁和寺の御殿(本坊)は、宇多法皇の御所があった辺りに建つことから「旧御室御所」とも呼ばれる。 白書院、宸殿、黒書院、霊明殿が渡り廊下で結ばれている。神社楼門、正法寺(いずれも登録有形文化財)などがある。御殿大玄関は、木造平屋建、桧皮葺、建築面積1272、渡廊下付き、御殿群南端に東面して建つ。桁行12メートル梁間7.0メートル、入母屋造桟瓦葺で、東正面に間口6.0メートル近い大きな唐破風造、桧皮葺の車寄を構えた大型の玄関であえる。明治23年(1890)建築。

3)白書院 

 
     白書院(有形文化財)
 
  白書院内部・福永晴帆(有形文)


 宸殿と大玄関の間に東面して建つ。桁行15.8メートル、梁間12.5メートル、木造建築、入母屋造桟瓦葺、建築面積1962、表と裏に三室ずつ配る六室構成で、正面広縁を吹放しとする。表側の室境は竹の節欄間とし、座敷に床と棚を備える書院である。
 明治20年(1887)焼失した時、仮宸殿として、明治23年(1890)建築したが、明治44年(1914)に宸殿が建築されると。白書院と呼ばれるようになった。
 襖絵は、昭和12年(1937)に福永晴帆ふくながせいはんに18831961)よって松を主題にした景色が描かれた。福永晴帆は明治時代から昭和時代に生きた日本画家です。自身の持つ漢詩や古典の知識を元にした南画や花鳥画などを描きました。森寛斎かんさい18141894)をはじめとしたさまざまな師からの教えや国々への留学経験により、幅広い絵や古典の技術を学び、自身の絵に独創性あふれる世界観を表現しました。福永の作品では仁和寺の襖絵がよく知られており、その迫力ある松の絵は現在も人々を魅了しています。

(4)黒書院

 
    黒書院(有形文化財)
 
    黒書院・堂本印象画伯襖絵


 明治20年(1887)に仁和寺御殿が火災で焼失すると。復旧のため、旧安井門跡の宸殿の遺構を移し、明治42年(1909)に「黒書院」として完成したとされている。
 宸殿西側に南面して並び建ち、桁行15.5メートル、梁間11.7メートル、建築面積1812、入母屋造桟瓦葺、宸殿と白書院の双方と、桧皮葺屋根の渡廊下で繋ぐ。平面は方丈型六間取で、西奥室には床の間、違い棚、つけ書院等の座敷飾を備える。周囲に舞良戸を建て、内向きの書院らく落ち着いた外観になる。
 黒書院の襖絵は昭和6年(1931)に宇多天皇1千年、弘法大師1千百年御忌の記念事業として堂本印象画伯によって描かれたもの。面数:襖46枚、腰障子貼付4枚、画題;竹図、柳図、松図、秋草図、草体の紙本墨画で、書院らしく落ち着いた雰囲気がある。白書院の松の幹が黒々として力強かったのに対して、黒書院は幹や枝が白く抜かれているように描かれているのに、かすれた筆跡、墨の濃淡によって質感を描写し存在感のある松になっている。
 堂本印象は、1891年(明治24)京都に生まれました。1910年(明治43)に京都市立美術工芸学校を卒業すると龍村平蔵の工房で図案制作にたずさわりましたが、日本画家になることを目指し、1918年(大正7)に改めて京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学しました。 そして、翌年には早くも第1回帝展に初入選し画壇に登場します。その後も西山翠嶂に師事し、次々と話題作を発表して画壇に確固たる地位を築きました。
 また、画塾東丘社を主宰、母校の京都市立絵画専門学校で教鞭を執り後進の指導にも尽力しました。1961年(昭和36)には文化勲章を受章し、1975年(昭和50)に没するまで近代日本画の発展の一翼を担いました。
 一方で、印象は日本画だけでなく、油彩による家族の肖像画シリーズ、旅先の風景を瀟洒にとらえたペン画なども描いたことに加え、茶道具類の絵付けから豪華婚礼衣装の下絵までジャンルを超えた様々な作品を手がけました。
 1966年(昭和41)に開館した堂本印象美術館も印象自身によるデザインです。本展では、印象の知られざる工芸品や商品デザインなど様々な作品を入り混ぜ、その多彩で華やかな活動の軌跡を紹介します。

(5)宸殿 登録有形文化財(建造物)

 
     宸殿(有形文化財)
 
    宸殿上段の間「桜花図」
 
    宸殿中の間「葵祭の図」
 
    宸殿下段の間「鷹野行幸」

 宸殿は江戸時代に仁和寺を再興したとき、京都御所から移設したとされている、明治20年(1887)仁和寺御殿の火災による焼失した。大正2年(1913)再建され、境内南西の御殿群中央に建つ。桁行19.7メートル梁間11.8メートル、入母屋造檜皮葺、建築面積257㎡である。寝殿造の外観、書院造の内部構成を組み合わせ、内外とも門跡寺院に相応しい優雅な意匠で、亀岡末吉の代表作のひとつである。
  宸殿は御殿の中でも最も重要な建物で、明治42年着工、大正3年に完成した。明治以降の木造建築としては、設計、施行ともに最高のものの一つとも言われ、亀岡末吉の代表作でもある。西から東に向けて、上段の間、中段の間、下段の間の三室によって構成され、三室を通じて四季の風物が原 在泉によって描かれている。部屋全体に金地が使われており、他の二つの建物と比べ一際豪華である。
 画題:遠山流水図、桜花図、葵祭之図、大堰川三船之図、鷹野行幸図など
面数:襖16枚、腰障子34枚、壁と小壁約42枚、帳台構4
材質技法:紙本着色
作者:原 在泉 制作年:1913年(大正2年)
 画家原在泉について。
 原在泉は10歳にして代々禁中の絵師を務めてきました京都原派の3代目在照の養子となる。父在照から原家流を学び研鑽を積み、13歳にして禁中御用画「秋草」を制作して以降様々な賞を受賞します。明治17年のバリ日本美術縦覧会や26年のシカゴ万博にも作品を出品、明治23年には第3回内国勧業博で妙技2等、30年には全国絵画共進会で3等を受賞、日本画家としてその名を広め宮中の御用画「明治天皇御大絵巻」などたくさんの御用画を残しています。

(6)霊明殿

 
    霊明殿(有形文化財)
 
       霊明殿内部


 明治44年(1911)建築。設計;亀岡末吉 木造平屋建、黒書院の北側に渡り廊下を介して南面して建ち、方三間、宝形造、一間向拝付、檜皮葺である。内部は一室で三間幅の仏壇を設け、折上小組格天井を張る。平安後期頃の様式を意識した構成としつつ、蟇股には亀岡末吉の得意とした唐草を図案化した彫刻を施す、面積53㎡。
 亀岡末吉の代表作の1つ。仁和寺宸殿・霊明殿の建築の見どころは、「①様式感への強い意識」と、「②建築された時代のあたらしい感覚」が共存して、それぞれが高い完成度で大きな規模で実現されているところだと思います。具体的には、
 ①柱・肘木・桁・垂木、隅木の面取、長い舟肘木、斗組のバランス
 ②宸殿の広々とした縁や霊明殿の長い向拝などダイナミックな構成、蟇股や欄間や錺金物の絵様(亀岡式と称される独特のデザイン)とはいえ、こまかいところを見なくても、渡殿や庇や縁などのすがすがしさ、庭園越しに見る五重塔だけでも楽しめます。
 霊明殿」内に安置されている霊明殿の本尊「薬師如来坐像」は康和5(1103)に円勢と長円によって造られた仏像で、二重の厨子の奥深く秘匿され厳重な秘仏とされていたようである。昭和61(1986)に学術調査のため初めて開扉されたが、保存状態のよいのに驚いたという。現在も厳重な秘仏になっており、直接の拝観は不可能で公開されることはない。この仏像は香木の白檀を用いた本来の意味の檀像であり、彩色は最小限にとどめられており、高さ10cm余りの小さな像であるが彫刻は極めて精緻で一切の手抜きがないという。
 この「薬師如来坐像」は国宝に指定されている。
 「霊明殿」正面中央奥には、本尊「薬師如来坐像」の複製像(左の写真)がお前立ちとして安置されている。

(7)庭園 
 世界遺産の『金閣寺』、『龍安寺』、そしてこの仁和寺を結ぶ“きぬかけの路”に面した大きな仁王門が出迎えてくれる仁和寺の歴史は平安時代にさかのぼります。8868年の建立直後、宇多天皇が初代住職として入寺し法皇に。それ以来代々皇室出身者が住職をつとめる門跡寺院となり、“御室御所”と呼ばれるように。
しかしやっぱり室町時代に応仁の乱の戦乱で大部分を焼失。国宝の金堂のみちょっと年代が早く1613年(慶長年代)に建てられた『京都御所』の宸殿を賜り移築したものですが、それ以外の仁王門・五重塔・御影堂・経蔵などは江戸幕府三代目将軍・徳川家光の援助により寛永年代の終わり頃(1644年頃)に再建されたもの。
 有料拝観エリアの書院(御殿)で各種庭園が見られますが、この御殿は明治時代の1887年に焼失がありそれ以後に再建されたもので、近代の建築になる大玄関、城書院、黒書院、霊明殿、宸殿などが国登録有形文化財。
  中でも宸殿は近代に社寺の修復などを手掛けた建築家・亀岡末吉の代表作と言われます。格天井の部屋の意匠もすごい。ちなみに伊勢の国重文の近代和風建築『賓日館』で名前を挙げた塩野庄四郎もこの仁和寺書院の再建プロジェクトに関わっているとか。その御殿の庭園は大きくわけて広大な白砂の広がる“南庭”、そして五重塔を借景とした池泉庭園“北庭”の二つに分けられます。 仁和寺庭園庭の概要
所在地 京都市右京区御室大内 電話075-461-1155
作庭年代 江戸時代中期~後期
作庭者 様式池泉式、露地
文化財指定・登録状況 令和2年国の名勝敷地面積4,106.5㎡(名勝指定部分)
境内の「御室桜」は国指定名勝。また書院の庭園は江戸時代以降に段階的に作庭されたもので、大正時代に七代目小川治兵衛(植治)により現在の姿へと整えられました。202011月に国指定名勝となりました。
公開状況 公開(有料)宸殿の庭(南庭、北庭、中庭、坪庭)のみ。(飛濤亭・遼廓亭は通常非公開。)
宸殿の庭と、「飛濤亭」「遼廓亭」の露地が一体として、令和2年(2020)に国の名勝に指定されています。仁和寺には有名な御室のサクラがあります。普通のサクラよりも背丈が低く、幹が何本にも分かれているのが特徴で、大正13(1924)に国の名勝に指定されています。
 宸殿から北東方向をみる。飛濤亭(中央手前)と遠方の五重塔が奥行きを感じさせる。 仁和寺は、双ケ丘の北に位置する寺院で、その起源は平安時代の仁和2年(886)に光孝天皇の勅願寺として起工されたことに始まります。光孝天皇は起工の翌年に亡くなりますが、次代の宇多天皇によって工事は進められ、仁和4年(888)に落成の供養が催され、年号をとって仁和寺と名付けられました。その後、退位した宇多上皇が出家、仁和寺第1世となって以後、代々皇族が門跡となった門跡寺院としても著名です。

 
    南庭(国指定名勝)
 
     北庭(国指定名勝)

1)南庭 (国指定名勝)
 南庭は白砂敷きの枯山水であり、左近の桜と右近の橘が植えられている。江戸時代までは、方丈南庭は大切な儀式を執り行うための場所とされ、白砂敷きであることが多かった。2020年京都市指定名勝から国の名勝に格上げされました。名勝には非公開の茶室“飛濤亭”“遼廓亭”の露地庭も含まれるそうですが露地庭は非公開(遼廓亭の露地庭は“霊明殿”へと至る回廊から遠目に眺められる)。一面の白砂の南庭の中には左近の桜・右近の橘が植えられ、正面の勅使門が存在感を放ちます。
 仁和寺宸殿の左に桜の木が、右に橘の木が植わっている。これを「左近さこんの桜、右近うこんの橘」といいます。平安遷都により都が奈良から京都に移った直後までは、左には梅があり、右に橘が植えてありました。
 なぜ「左近の梅」だったのか?それは内裏の正殿である紫宸殿の正面の、左に梅の木が植わっていました。また、天皇をお守りする兵隊を近衛兵と言い、その近衛兵が駐屯する場所(駐在所)・近衛府が紫宸殿の左右にあり、左右に梅と橘が植わっていたため。左右にある梅の木と橘が近衛府と重なり、左近衛府梅、右近衛府橘お略して 「左近の梅」、「右近の橘」と言われるようになりました。
 それではなぜ、紫宸殿の左右に梅と橘の木が植えられたのか。橘の木については大江匡房おおえまさふさ(学者・歌人)の「江談抄」(説話集)によると、秦川勝はたかわかつの旧宅を川勝の孫に当たる橘本太夫が朝廷に寄進しそこに橘があったという。秦川勝は聖徳太子と密接な関係があったが、橘に関する情報は少ない。
 桜は日本に普通に自生していました(国産)。だから上代においては、必ずしも珍重されるような花ではありませんでした。それに対して梅は、進んだ中国文化と一緒に日本に到来した外来種です。そのため都に植えられ、大切に育てられました 嵯峨天皇は中国好みで有名ですから、梅が尊重され、嵯峨天皇ゆかりの大覚寺の宸殿は現在も「左近の梅」です。
 ところが、天徳4年(960923日の内裏火災で梅の木は枯死した。醍醐天皇の第4皇子重明親王は、桜を植えました。これが梅から桜に変わった最初と考えていました。「捨芥抄しゅうがいしょう」(中世の百科事典)に、承和年間(83447)に左近の梅が枯た時、梅から桜に植えたと読める記事があり、通説では「承和年中」を「左近の桜」の初めと解釈されている。
2)北庭 (国指定名勝)
 北庭は、南庭とはまた違った趣で池泉回遊式庭園のお庭。北側の庭なので光が草木に反射して明るく感じますし、突き出した形に敷き詰めてある白川砂が美しさを引き立てています。石橋のさらに奥には滝石組が用意され耳心地が良いです。
 出島と大石による滝石組がある。大石による滝石組は平安時代の手法とされ、仁和寺から徒歩15分ほどの距離にある法金剛院の「青女の滝せいじょのたき」が、平安時代から残る大石による滝石組として特別名勝に指定されている。「青女の滝」は仁和寺の僧侶・静意じょういらによって造らたことより、仁和寺の滝石組も平安時代から残るものとも推測できるが確かな資料はない。また、平安時代の滝石組は池から離れた場所にあり、そこから流れや遣水で池泉に注ぐように造られ、つまり観賞用の滝ではない。
 視線を右側(東側)に向けると木々の奥には仁和寺の「五重塔」や茶室「飛濤亭」が顔を出していて味わい深いです。池に映る緑も美しいですね。
 江戸時代の元禄年間、16891692年頃より造営がはじまり、江戸時代のうちに一度完成をみたものの、先の明治時代以降の建物の再建に伴って小川治兵衛により整備され現在に至ります。 借景として眺め見ることのできる五重塔に国重文の茶室「飛濤亭」、手前の白砂、そして正面の大滝に北側には山々の風景…とビューポイントがいくつもある素晴らしい庭園。

 
     中庭(国指定名勝)
 
     坪庭(国指定名勝)

3)中庭 (国指定名勝)
 黒書院の前庭、苔の緑が美しい、周囲の楓が枝をのばし、全体が緑1色であるが、秋になれば、紅葉の赤と苔の二色の美しい庭になると思われる。
4)坪庭 (国指定名勝)
 黒書院と宸殿に挟まれ苔には。苔は世界中どこでの生育する植物であるが。その管理はい以外に難しく。この苔を庭の素材として取り入れたのは日本だけではなかろうか。苔類は植物学では蘚苔せんたい類といい、大きく分けると蘚類、苔類とツノゴケ類の三類です、ツノゴケは非常の少なく通常、通常我々の目に触れるのは蘚類と苔類です。そのうち苔類はゼニゴケと称し、美観が悪く、苔庭に使えるのは蘚類だけです。日本に生息する蘚類は約1000種あります。この蘚類は横に伸びるものと。スギゴケのように縦に伸びるものがあります。横に伸びるものは、成長速度が速く自然界でよく見られるのは横に伸びるコケです。スギゴケの様に縦に伸びるコケは獣毛観があり、目に優しいためコケ庭のコケはこの種のコケが使用されている。コケにも寿命があり数か月から3年くらいと言われている。手入れが悪いと枯たり寿命が短くなる。コケ類は草類と比べると成長が遅く、一度荒れたり枯死すると回復が遅い。雑草やゼニコケ等の害種のコケの除去作業が必要となる。外国でコケ庭がないのは、コケ庭の管理技術か確立していなかったことに原因があるのかもしれない。

(8)茶室

 
     飛濤亭(重要文化財)
 
      飛濤亭内部


1)飛濤亭(重要文化財)
仁和寺には宸殿庭園北東の高台に建つ「飛濤亭ひとうてい」と「遼廓亭りょうかくてい」という二つの茶室があります。いずれも重要文化財に指定されています。宸殿北庭の木立の中、綺麗な露地庭園の苔を踏まないように飛び石を注意しながら進んでゆきます。そして先ほど宸殿から見えていた飛濤亭に到着します。仁和寺第28世深仁親王の異母弟である第119代光格天皇(17711840)御遺愛の席と知られる茶室で、は寛政年間(17891801)頃のものとされています。入母屋造・茅葺の屋根で覆われています。内部は四畳半に台目がついた茶室と水屋の間、その北側に勝手と土間が造られています。四畳半の二方には杮葺こけらぶきの庇が回り、土間のたたきは赤と黒の小石を散らしている。入り口は躙にじり口のかわりに貴人口が設けられ、それと矩かね折りの壁面にも二枚障子口をあけ、茶道口も二枚襖の口として席中は明るく開放的な構成されている。天井は三段に構成されており、床は洞床ほらどこという侘びた構えで、全体に貴族好みの遊びのある雰囲気をつくりだしている。

 
    遼廓亭(重要文化財)
 
       遼廓亭内に

2)遼廓亭(重要文化財)
本坊の北西、庭の奥まったところにひっそりと建つ遼廓亭は、もと尾形乾山の住居習静堂の屋敷から移築された数寄屋建築である。
 尾形乾山は、寛文3年(1663)、京都有数の呉服商・雁金屋の三男として生まれる。尾形光琳は5歳年上の兄。兄弟仲は良かったようだが、乾山が25歳のときに父が亡くなり、その遺産を相続する。27歳で御室仁和寺に近い双岡付近に習静堂を建てて隠棲した。乾山が同地を選んだ理由のひとつには、古くから閑雅な別荘地であった環境のほかに、野々村仁清の窯が仁和寺門前にあったことも挙げられよう。元禄12年(1699)年、乾山は鳴滝泉谷に窯を開き、作陶で生計を立てていくことになる。正徳2年(1712)、鳴滝の窯を閉じて、五条や粟田口など市中にある窯を借りて陶器制作を続ける。この鳴滝窯時代の終わりから、尾形兄弟の合作(兄・光琳が絵付け、乾山が器形と書)が数多く誕生した。光琳没後は江戸に下り、入谷に開窯して作陶を続け、43(寛保3)年没。晩年およそ20年の活動は、酒井抱一という江戸の琳派形成の土壌をつくったと言えるだろう。
 内部は二畳半台目の茶席、四畳半の水屋、広間、控えの間、勝手の間で構成からなります。葺下ふきおろし屋根の下に袖壁をつけ、その中に躙にじり口を開きます。また、壁は黒に近い錆壁や長いすさが散らされる所など、全体の意匠は織田有楽斎好みの「如庵」ともにています。

 
     勅使門(有形文化財)
 
     勅使門・蟇股と透かし彫り

 大瓶束と蟇股
 
   大瓶束笈形
 
     蟇股
 
   透彫り

3.勅使門 (登録有形文化財)
仁和寺勅使門は1887年(明治20年)に焼失し、1913年(大正2年)に京都府の技師・亀岡末吉かめおかすえきちの設計によって再建されました。仁和寺勅使門は西本願寺にしほんがんじの唐門を模した形式で、壁面や桟唐戸さんからどなどに花菱はなびし・鳳凰ほうおう・唐草からくさなどを図案化した透彫りがあります。一般的に勅使門は天皇の使者・勅使が寺院に参向した際に出入りに使われる門です。ちなみに使者は上皇の場合に院使いんし、皇后の場合に皇后宮使こうごうぐうし、中宮の場合に中宮使ちゅうぐうし、皇太后の場合に皇太后宮使こうたいごうぐうし、女院の場合に女院使にょいんしと言われます。
 仁和寺勅使門は間口約5.2メートルの四脚門で、入母屋造いりもやづくりの檜皮葺ひわだぶきです。仁和寺勅使門は前後に唐破風からはふがあり、左右に袖塀付です。
  入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇ひさしがついています。京都御所の紫宸殿ししんでんのように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根しころやねとも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺ほうりゅうじの金堂・唐招提寺とうしょうだいじの講堂に採用されています。
 檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜ひのきの樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の天智天皇7年(668)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺すうふくじの諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
  唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造きりづまづくり・入母屋造いりもやづくりの屋根の妻の三角形の部分です。

4.中門 (重要文化財)
 応仁の乱で焼失したあと江戸時代前期、寛永年間(164145)再建された。切妻造・本瓦葺・柱間三間の八脚門。
 二王門をくぐると北側に延びる参道の彼方にピンク色をした門が見える。これが「中門」である。江戸初期に建てられたものだ。重要文化財に指定されている。門の内部には、二王門を背にして向かって左側に多聞天たもんてん、右側に持国天じこくてんの像が安置されている。多聞天は夜叉を従え、右手に宝棒、左手には宝塔を持ち、天の邪鬼を踏みつけている。毘沙門天とも言われる多聞天は闘いの神だ。四天王の内の二王である多聞天と持国天はそれぞれ北と東を守護している。

 
     中門(重要文化財)
 
       中門・多聞天


1)毘沙門天
 毘沙門天びしゃもんてんは、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされる。また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある。
 インドでは、ヴェーダ時代から存在する古い神格であり、財宝神とされていた。中央アジアを経て中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊たる武神・守護神とされるようになった。毘沙門という表記は、ヴァイシュラヴァナを中国で音写したものであるが「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天たもんてんとも訳された。帝釈天の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方に住んでいた。夜叉や羅刹といった鬼神を配下とする。また、密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされる。
 毘沙門天の姿には、宝棒(仏敵を打ち据える護法の棍棒)と宝塔を持つという規定以外に、はっきりした規定はなく、様々な表現がある。日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。中門の多聞天は左手に宝塔、右手に三叉戟を持つ姿である。
2)持国天
  持国天じこくてんは、仏教における天部の仏神。増長天、広目天、多聞天と共に四天王の一尊に数えられる。持国天は四天王の一体、東方を護る守護神として造像される場合が多く、仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則である。
 その姿には様々な表現があるが、日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。
 持物は刀の場合が多い。例えば胎蔵界曼荼羅では体色は赤く、右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で描かれる。また、中国の民間信仰に於いては白い顔で琵琶を持った姿で表される。右図は鎌倉時代作の四天王像のうちの持国天像で、足下に邪鬼を踏みつけ、刀を持つ右手を振り上げて仏敵を威嚇し、左手を腰に当てる姿に表されている。

 
                   金堂(国宝)
 
        三軒
 
        金堂内部

5. 金堂 (国宝)
 現在の金堂は、「現存最古の紫宸殿の遺構」です。仁和寺の中心建物・金堂は、慶長年間造営の内裏宸殿を賜り、寛永19年(1642)から21年にかけて移築した建築物です。一方、現在の御所・紫宸殿(即位大礼などが行われる建物)は、安政2年(1855)建立なので仁和寺金堂の方が古く、「現存最古の紫宸殿の遺構」として貴重な建築物になります。
 現状は桁行七間、梁間五間、一間の向拝付き、入母屋造、本瓦葺でさる。外観では屋根が檜皮葺から瓦葺に変わった以外ほぼ同じで、門跡寺院らしい佇まいを醸し出している。しかし、堂内は、新たに板扉を設けて内陣と外陣を区切り、前者の密教道場としての隔絶性を確保する。 結局、この金堂は紫宸殿の姿をまことによく伝えている、もと宮殿建築であるが、そ天井の構架式にもよくみられる。すなわち水平な天井でなく、山形の化粧屋根裏天井で、大虹梁の上、桃山時代の特色をよく出した蟇股二個を置き、二重虹梁上は亥扠首いのこさす(∧型の中央に束をたてた構架式)としてきわめて雄大な天井であり、古式を伝えているものである。また外部で軒の垂木は通常二段の「二軒ふたのき」であるが、この金堂の軒は三段の「三軒みのき」で京都御所の紫宸殿、と同じである。
 平安後期以後、屋根上の雨水対策と屋根の美観向上を目的に野屋根が開発されました。平安後期以降の美観向上の目的(屋根に曲線をつけるには二垂木は不可欠)で二垂木が採用されている。紫宸殿等朝廷建築では「三軒」を採用しているが民間では奈良興福寺、南、北円堂等少数はあるが、3が吉数であり2より3が選ばれたものと思う。
 垂木が一段の地垂木のみであるのを「一軒(ひとのき)」と言います。天平時代になると垂木は上下二段にある「二軒(ふたのき)」となります。下部の垂木を「地垂木(じだるき)」、上部の垂木を「飛檐垂木(ひえんだるき)」と呼び地垂木の断面は丸型(円型)、飛檐垂木の断面は角型で、この様式を「地円飛角」といい中国から伝来した建築様式です。  中国には天は丸、地は角である「天円地方」の思想がありましたが、天の丸が下で、地の角が上と逆になっておりますのには深い訳があることでしょう。
(1) 金堂、本堂、仏堂
 仏教が中国に伝来し、寺院が建立され始めた紀元前2世紀には、既に寺院を構成する建物として仏舎利を祀る塔と共に仏堂が建立されていたようである。以降、仏教の浸透と共に、塔が伽藍の中心から周辺部へと次第に追いやられていくのに対し、仏像を祀る仏堂は寺院において最重要な建物となり、基本的に寺院の中心部に建立されるようになった。
 仏堂は1つの寺院内に多数建立される場合も多く、その性格、寺院内での位置、安置する仏像の名称などによって、「金堂こんどう」、「本堂」、「釈迦堂」、「薬師堂」、「阿弥陀堂」、「観音堂」、「文殊堂」、「地蔵堂」などさまざまな名称で呼ばれる。
 日本では一山の本尊を安置する、寺院の中心的な堂を指して「本堂」あるいは「金堂」という場合が多い。
・「本堂」は日本の仏教寺院の中心堂宇としてもっとも一般的な名称である。
・「金堂」という名称は、飛鳥時代から平安時代創建の寺院で多く使われている。なお、奈良時代創建の寺院でも、新薬師寺、西大寺のように現在は「本堂」という名称を使用しているところもある。また、室生寺、當麻寺のように「金堂」と「本堂」が別個に存在する寺院もある。
・「仏殿」という名称は、『日本書紀』にも見え、仏堂一般を指す語として用いられる場合もあるが、日本では主に禅宗寺院の本尊(多くは釈迦如来)を安置する堂の名称として使われている。ただし、泉涌寺のように禅宗以外の寺院でも「仏殿」を称するところもある。また、禅宗寺院においても中心堂宇を「本堂」と称する例があり、特に方丈形式の建築を指して「本堂」ということが多い。
・他に萬福寺のような黄檗宗寺院や長崎の唐寺などでは、大陸風の「大雄宝殿」(だいおうほうでん、だいゆうほうでん)という名称を用いる場合もある。

 
        大極殿
 

        大内裏


(2)大極殿・大内裏・内裏・紫宸殿
 1)大極殿だいごくでんは、古代の日本における朝廷の正殿である。宮城きゅうじょう(大内裏だいだいり)の朝堂院の北端中央にあり、殿内には高御座たかみくら(天皇の玉座)が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われた。中国の道教では天皇大帝の居所をいう。「大極殿」の名は、万物の根源、天空の中心を意味する。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である。
2)大内裏
 推古天皇の小墾田宮おはりだのみやでは、大内裏の最も重要な施設であり、大極殿、朝堂ちょうどう、朝集殿ちょうしゅうでん3種の殿舎からなっていた。 正殿である大極殿には天子の玉座である「高御座」たかみくらが据えられており、儀式や謁見の際に天皇が着座した。そこから左右に中庭(「朝庭」という)を挟むようにして朝堂が並び、南に東西朝集殿が建っていた。
 朝堂は、天子が早朝に政務をみる朝政をはじめとする庶政や臣下参列のもと国儀大礼をおこなう重要な庁舎で、聖武天皇の代の後期難波宮(難波京)と長岡宮では8堂、藤原宮・恭仁宮および平安宮では12堂であったが、前期難波宮(難波長柄豊碕宮)では少なくとも14堂以上の朝堂があったことを確認している。平城宮の朝堂院は前半・後半を通じて2つのタイプが並列しており、1つは12堂の従来型の朝堂区域ともう1つは饗宴など朝儀に特化したであろうと推定される4堂からなる朝堂区域である。8堂以上の朝堂をもつ朝堂院は、いずれの場合も中軸線をはさんでL字状ないし逆L字状の線対称に朝堂の殿舎が配置され、全体としては「コ」の字状の平面形となった。
 朝集殿は、有位の官人が朝政等に参集する際の待機の場として設けられた施設であり、大化・白雉期に営まれた難波長柄豊碕宮の発掘調査において確認されており、以後、平安宮にいたるまで、諸宮の朝堂院にも引き継がれた。
 その後、長岡宮にいたって大極殿は朝堂の正殿としての機能を強め、ここに大極殿・朝堂・朝集殿の全体を一体化してとらえる「朝堂院」の語が成立
 平安時代、平安京にいたって、内裏と朝堂院は完全に離れ、天皇の私的空間と公的空間の分離がはかられたが、大極殿と朝堂のあいだにあった回廊は取り払われて、両者は「朝堂院」として完全に一体化した。朝堂院全体の入り口として設けられた門が応天門である。
3)機能の変化
 藤原宮の頃を頂点として、次第に政事庶務の中心が朝堂院から周辺官衙に移っていき、朝堂院での政務そのものは儀式化の傾向が進み、主として朝賀や即位、饗宴など、主として朝廷の盛典、儀礼に用いられるようになった。また、それにともなって朝堂一郭の規模は、藤原宮を頂点に時代を下るごとに縮小化の傾向がみられた。儀式化した政務に陣定などの評定や訴訟が複合していったが、これらは総称して公事とよばれた。
 朝堂殿舎のつくりをみると、平城宮を頂点に四面庇から二面庇へ、さらには庇なしへ、屋根構造も入母屋または寄棟から切妻へと、簡素化の傾向がみられる。これは、朝政の盛衰と深くかかわる変化であろうと推定される。
 朝堂配置の面では、平城宮までは天皇の起居する内裏と朝堂院は接していたが、長岡宮にいたって完全に分離するいっぽう、本来は内裏の前殿であった大極殿がむしろ朝堂の正殿としての性格を強め、平安宮では大極殿前面の回廊が取り払われて、大極殿と朝堂一郭が完全に一体化した。大極殿・朝堂・朝集殿の全体を呼称する「朝堂院」の語も長岡京の時代に生まれた。
 こうして公的な政務の場である朝堂院と天皇の私的空間である内裏は分離されたが、律令体制の変質によって、以上のような平面変化がかえって内裏を政治の新たな中心の場とし、朝堂院はむしろ全体として儀式の場としての性格をいっそう強く帯びることとなった。院政を経て武士政権が成立すると、朝堂院が担ってきた役割や機能にもはや積極的な意義は見いだせなくなった。それが安元の大火以後、ついに朝堂が再建されなかった理由であると考えられる。
4)紫宸殿
 紫宸殿ししんでんは、内裏の正殿。天皇元服や立太子礼、譲国の儀、節会などの儀式が行われ、のちには即位礼の舞台となった。「南殿」や「前殿」、古くは「紫震殿」とも。
殿舎の南には南庭が広がり、北には仁寿殿が位置する。天皇の普段居住する殿舎である清涼殿に対し紫宸殿は公的な意味合いが強かった
 紫宸殿は本来天皇の私的な在所である内裏の殿舎の一つであったが、平安時代中期以降、大内裏の正殿であった大極殿が衰亡したことにより、即位の礼や大嘗祭などの重要行事も紫宸殿で行われるようになった。
 内裏は鎌倉時代に火災にあって以後、再建されることはなかったが、紫宸殿は臨時の皇居である里内裏で再建され、現在の京都御所(これも元は里内裏である)にも安政2年(1855年)に古式に則って再建されたものが伝わっている。

 
     御影堂(重要文化財)
  
       御影堂内部

6.御影堂(重要文化財)
 五間五間、正方形平面の一重、宝形造(ピラミット型の屋根)、桧皮葺の御堂で全面に一間の向拝が付く。この御堂も建暦けんれき元年(1211)に出来て以来、幾変遷を経て、現在の建物は、寛永18年(1641)内裏造営にあたって慶長度の清涼殿の古材を賜りこれを再用して現在の姿にしたものと考えられる。 
 正面五間とも蔀に高蘭付の縁という姿はいかにも宮殿風にできている。 柱頭も舟肘木ふなひじきで、粗く配置した垂木に木舞裏こまいうら(垂木の上に直交する材を木舞と言い、これを用いた軒裏のことをいう)で、住宅らしく軽快にできている。 側面は板扉と舞良戸まいらど(横に細かく桟の入った引戸)を用いている。 内部は正面5間1間が外陣で、小組格天井、その奥が内陣とみるべく、前方二間を広く開けて、中央三間一間を正面は扉、その他を壁で区切り、内部に須弥壇を築き壇上唐破風をもつ厨子をつくり、弘法大師の影像を安置する。 このような仏堂的施設は清涼殿時代の物でなく、御影堂みえいどうとして営まれたときに造られたのは言うまでもない。 しかし、蔀やその他の建具、あるいは長押などは桃山とみられるものもあって、これらの金具なども清涼殿時代のものであろう。 しかし、向拝まわりは完全な江戸時代様式をあらわしている。
 この御影堂は、昭和に屋根の葺き替え工事が行われた際、垂木に「せいりょうやうでん(清涼殿)と書かれた墨書きが発見されています。つまり、現在見ることのできる御影堂は、かって御所に存在した清涼殿である証拠の1つとなります。
 仁和寺の金堂は、かって紫宸殿であった。紫宸殿は前述のとおり、国家の威信にや存亡にかかわる重要な儀式を催行する場所であった。平安時代初期には。仁寿殿が天皇の居住の場所であったが平安時代中期には清涼殿が天皇の居住の場所となり通常の儀式や会見が行われた。

 
     観音堂(重要文化財)
 
        観音堂内部

 
        観音堂壁画
 
   同左
 
  千手観音


7. 観音堂 (重要文化財)
 正側面とも柱間五間、前後に向拝をもつ。 一重、入母屋造、創建は延長えんちょう6年(928)。 現在の建築は寛永中興あたって造営されたものである。 外観では特別に取り立てて言うほどのものではなく、やや建ちの高い近世初期のお堂と言うようにみえる。 しかし正面柱間全部板扉、内部に入って内外陣境の正面も全部板扉と桟唐戸になっているのは珍しい。 軒の組物は二手先で和様系、その積み上げが低いのも時代様式の然らしむところであろう。
 内部は前方五間二間が外陣、奥の五間二間が内陣、その奥1間通りは後陣あるいは裏堂というべき部分である。 全体的に見て平面はまわり一間通りが廂で、化粧屋根裏でまわるべきであろうが、内陣から奥は平たい鏡天井を張っていて「後陣」も同じである。 そしてこれらの内陣は外陣組入天井、内陣小組格天井となっている。 内外陣境は正面両端板扉、中央三間が桟唐戸で、上部に欄間があり、扉を閉めれば内外陣は厳重に区画される。 これは密教仏堂に古くから行われた型で、たとえ時代が降ってもこの古い伝統様式が堅く守られてきたのである。 
 内陣正面は禅宗様の混じった三間にわたる長い須弥壇が築かれ十一面観音菩薩を初め諸菩薩を安置、前に大壇その他が置かれている。 来迎壁や内陣周りの柱、側まわりの板壁などに仏菩薩・雲・高僧などが極彩色描かれていて、ここでも密教仏堂内の雰囲気を深く感ずるものである。

 
   仁和寺鐘楼・袴腰造(重文)
 
      吹放形・東大寺

 
 法隆寺鐘楼・国宝
 
  中国西安鐘楼
 
   教会の鐘1
 
   教会の鐘2

8.鐘楼
 鐘楼建物形式、入母屋造袴腰付、本瓦葺、横幅約4メートル、奥行約6メートル、寛永21年(1644)の建立、 上部は朱塗で高欄を周囲に廻らせ、下部は袴腰式覆いが特徴的な建築物である。江戸時代でも、時計を持つ者は少なく、僧が鐘を突き時刻を知らせていた。
 鐘楼しょうろうとは、寺院や教会などにおいて鐘を設置するために設けられた施設。ただし、「鐘楼」と称していても東洋の鐘と西洋の鐘には様式に違いがあるほか、建築学の文献等では教会建築のカンパニーレ(鐘塔)と呼び、鐘楼と別様式となる。
 東洋の鐘楼、鐘楼しょうろう、しゅろうは寺院内において梵鐘を吊るすために設けられた建物をいう。釣鐘堂、鐘つき堂、鐘楼堂とも言う。また、梵鐘は撞くかねであり撞楼しゅろうという字をあてることもある。 梵鐘ではなく太鼓を吊るした建物は鼓楼という。ただし、鐘楼や鼓楼のすべてが楼造というわけではない
1)中国の鐘
 中国、北魏から唐代の頃には宮殿内に鼓楼と共に配置されていた。著名なものに西安の鐘楼があり、陝西省西安市の城内の中心の東西南北4条の大街が交差するところに建てられている。明朝初期の洪武帝の時代の1384年に建てられ、西安市のシンボルとなった。当初は広済街にあったが、1582年に現在の場所に移された。中国国内では有数の大きさである。鐘楼には、唐時代かの、青銅製の鐘も多く存在している。楼は正方形で、高さは36メートルで、そのうち基壇の高さが8メートルある。
2)日本の鐘
 日本の奈良時代の伽藍では経蔵と東西に向き合うような形で建てられた。しかし平安時代以降になると伽藍での配置はさほど厳格ではなくなった。室町時代になると、山門と一体化し、鐘門となった事例もある。鐘をつくことは供養であるとされ、中宮寺の天寿国曼荼羅に入母屋造の鐘楼がある。その中には鐘が吊るされ、人が撞木でそれを撞くところが描かれている。古い例に法隆寺西院のものがある。切妻造、腰には組こうらんがめぐらされている。のちに、法隆寺東院、新薬師寺、石山寺のような袴腰造、東大寺のもののような吹き放ちのものも現れた。
3)西洋の鐘楼 カンパニーレ
「鐘楼」の語はカンパニーレのような教会建築において鐘を設置するための塔を指しても用いられる。独立して建てられた鐘楼については、他言語でも多くイタリア語のcampanileの語が用いられる。
 鐘塔しょうとうとは、教会などにおいて鐘を収めるために独立して建てられた塔。日本語では仏教寺院などで梵鐘を吊るすために設けられる建物と同じく「鐘楼」と称することが多いが、建築学の文献等では教会建築のカンパニーレ(鐘塔)は鐘楼と別に立項されることもあり様式的には違いがある。
4)打鐘方法
 東洋の鐘の打鐘方法は、鐘を外側から3種類の鐘突き棒のいずれかでたたきます。
•撞木しゅもく:丁字の形をした鐘つき棒
•橦木しゅもく:真っすぐな形の鐘つき棒
•鐘木しゅもく:釣鐘を打ち鳴らすための棒
 西洋では、洋鐘は内部に吊り下げた舌という分銅を鐘の内面を打つ。

 
   水掛不動・三十六不動霊場札所
 
    水掛不動・・菅公腰掛石

9.水掛不動
  不動明王ふどうみょうおうは、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。大日如来、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、金剛愛染明王らと共に祀られる。
 近畿三十六不動尊霊場では勿論のこと、全国各地にある不動尊霊場には身代わり不動や水掛不動は多く、健康や病気回復を願った人々が日参あるいは月詣りを続けられています。とりわけて、ご近所の人たちを含めた信者さんなどにより、所願の成就を祈って尊像に水をかけるといったことはよく見られる習俗です。
  特に経典などに「お不動さんに水をかける意味合いについて」の典拠はありませんが、信仰のスタイルとして、水をかけるとともに「願」をかけることが定着したのかと思われます。それゆえ、こちらの「御室 水かけ不動尊」も一願不動さんとしても親しまれ、お参りに来られた方々も、手を合わせて、さい銭を投げ、水をかける、といった動作を伴ってより信仰の気持ちを高めておられるようにお見受けいたします。
 不動明王が立っている岩は「菅公腰掛石」と呼ばれ、太宰府に左遷された菅原道真が、仁和寺の宇多法皇に挨拶に訪れたとき、この石に腰を掛け宇多法皇の勧行が終わるのを待っていたのだという。
 近畿三十六不動尊霊場きんきさんじゅうろくふどうそんれいじょうは、大阪府・兵庫県・京都府・和歌山県・滋賀県・奈良県にある不動尊(不動明王)を祀る36箇所の霊場。霊場の選定にあたっては、宗派に囚われず、一般の人々からの立場からの意見を取り入れて、1979年(昭和54年)に古寺顕彰会が中心となり選定した。日本で最初の不動尊霊場である。 36の数の由来は、不動明王の眷属が三十六童子であることによる。また、人間の煩悩三十六支を表し、三十六か寺を巡拝することによって煩悩を消除する意味も含まれている。

 
       経蔵(重要文化財)
 
       経蔵内部・輪蔵


10. 経蔵 (重要文化財)
 仁和寺の経蔵は、三間四面の宝形造、瓦葺の建物で、寛永181641)~慶安元年1648)頃に建立された禅宗様式の建築物である。内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)が置かれ、天海版の『一切経』が収蔵されている天海は、徳川家康の側近として江戸幕府の政策に関与した天台宗の僧。
 天海版の『一切経』は、三代将軍徳川家光の支援を受けて慶安元年1648)に完成したもので、上野の寛永寺で刊行されたことから「寛永寺版」とも呼ばれる。
 経蔵きょうぞうとは、仏教寺院における建造物(伽藍)のひとつで、経典や仏教に関する書物を収蔵するものである経堂・経庫などとも称され、仏教寺院の主要伽藍である七堂伽藍のひとつに上げられることもある。
形式特に定まった形式はないが、経典などの書物を収蔵することが目的であることから、古くは高床式のものや校倉造のものもある。なお、回転式の書架に経典などを納める輪蔵りんぞうと呼ばれるものもある。
 輪蔵は、中国南朝時代(439589)、梁りょう王国の傳大士ぶだいしと言う僧が創案したという伝説がある。中国の文献によると宋元時代(9601279,12711368)における仏教寺院では、大蔵経の発行と共に、輪蔵の増設は非常に盛んであった。一方、日本では、鎌倉時代(11851333)に、中国南宋(11271279)から禅宗仏教を輸入し、それを契機として、輪蔵が禅宗寺院の一部として、日本に将来された。
 輪蔵は、仏教寺院内に設けられる経蔵の一種である。経蔵の中央に、中心軸に沿って回転させることが可能な八面等に貼り合わせた形の書架お設け、そこに大蔵経を収納した型式、すなわち回転式書架である。一般には、この経蔵を回転させると、それだけで経典全巻を読経したのと同等のご利益が得られるものと信じられている。その起源は傳大士によるものと伝えられており、輪蔵の正面には、傳大士とその二子による三尊像が奉安されている。
 大蔵経とは、一切いっさい経経ともいい、中国における仏教経典の総集の呼称である。 江戸時代、黄檗山が一切経を発行しました。そのため、大蔵経を所有する寺院が急増し、それを契機な、輪蔵の需要が一時急増し、小規模の輪蔵が流行したという。輪蔵の蔵書としての機能は軽視され、回転機能が増強されました。

 
     五重塔外観(重要文化財)
 
     五重塔内部
 
   三手先
 
   二軒
 
  尾垂木の邪鬼
 
  サンスクリット額

11. 五重塔 (重要文化財)
 仁和寺の五重塔は、寛永21年(1644)、徳川三代将軍家光の寄進によって建立された。塔身32.7m、総高36.18m。
 東寺の五重塔と同様に、各層の屋根がほぼ同一の大きさで、細身で優美な姿に造られ、江戸期の五重塔の特徴をよく表しているという。内部には大日如来と、その周りに無量寿如来などの四方仏を安置し、初層内部は、一面極彩色で飾られ、柱や壁面には真言八祖、菊花文様などが描かれている。近世五重塔の代表作といわれる五重塔(重文)は、相輪までの高さ約36mで各層の屋根がほぼ同じ大きさの細身で優美な姿。
 構造形式は他の五重塔一般と全く同じで、「三間五重塔婆」であるが、地方における近世以後の五重塔が初重に廻縁をもつのが普通であるのに、ここでは東寺の塔と同じく、基壇の上に縁をつくらず、古寺の塔としての貫禄をしめしている。軒廻りにしても和様の堅実な三手先組物で、垂木も上下二段の「二軒ふたのき」で軒を構成する他は装飾彫刻をほとんど用いない古式で出来ている。
 
初重内部は型通りに中心の礎石からたつ心柱とこれを囲む四天柱があり、四天柱の内が内陣で、各四方仏を安置する。心柱が四方から板で覆われているのは醍醐寺の塔と同様であるが、この覆い板をはじめ、四天柱、長押、天井まわり等、一面の彩画で荘厳されている。しかもよく保存されて甚だ華やかであり、同時に曼荼羅を見ているような気がする。たとえば四天柱は珠分帯しゅもんたいと円内に仏菩薩、側柱かわばしらや心柱まわりの天井には雲や龍、側柱上の長押には赤白交互の牡丹唐草、内外陣ないげじん境の長押には天人や幾何模様といった具合で、これらはみな極彩色である。二重以上は次第に小さく、縁がめぐり、最上部はこれも定型通りの相輪を挙げる。全体の均斉美しく、遠くで見てよく、近づいて古式を味わうのもよく、この塔は御室のシンボルである。
 
1)三手先 日本建築の特徴の1つです。
 組物とは中国由来の伝統的な木造建築において屋根を支えるために柱頭に設ける部材の一群です。 前後または左右に腕のように渡した横木で上からの荷重を支える肘ひじき(栱とも)と、桁や肘木を受ける方形の斗 ますとで構成され、斗組ますぐみとも、斗と栱から成る事から斗栱ときょうともいう。 また、三手先などでは尾垂木おだるきも用いられることがある。 しかし、中国と日本では三手先の使用目的が異なりました。中国は三手先をデザインとして活用したのに対し、日本は、雨の室内への吹き込み防止のため屋根を延ばし、屋根を大きくするのに利用しました。
2)二軒ふたのき 
 垂木が一段の地垂木のみであるのを一軒ひとのきと言います。天平時代になると垂木は上下二段にある「二軒ふたのき」となります。下部の垂木を地垂木じだるき、上部の垂木を飛檐垂木ひえんだるきと呼び地垂木の断面は丸型(円型)、飛檐垂木の断面は角型で、この様式を「地円飛角」といい中国から伝来した建築様式です。
  中国には天は丸、地は角である「天円地方」の思想がありましたが、天の丸が下で、地の角が上と逆になっておりますのには深い訳があることでしょう。
 垂木が上下3段にあるのを三軒みのきと呼び、地垂木が1段で飛檐垂木が2段と なります。例としては興福寺の南、北円堂です。 しかし、中国と日本では二軒の内容が異なります。日本では平安時代の後半に野屋根が開発されました。一軒の場合、地垂木の上に瓦が載ります。野屋根は、地垂木の上に野垂木を置き、野垂木の上に瓦等の屋根材を置いた。野垂木の先が飛檐垂木である。従って野垂木と地垂木の間に空間があり、屋根の勾配や曲線が自由に描けた。
 建築する場合、屋根は人間で言えば顔に相当し、最も重要な手段であった。
3)尾垂木と邪鬼
 尾垂木の上の邪鬼が屋根を押し上げています。尾垂木は屋根の重力を利用して梃子の力を利用して、屋根の下垂を防ぐ役割をしています。通常尾垂木の上に束を入れ 屋根の下の丸桁をささえますが、ここでは束の役割を邪鬼が行っていま。 これは、観光客に楽しんでもらうための遊び心でしょう。
4)サンスクリット語の額
 サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族の原点である。インド・ヨーロッパ語族の南ロシアから最初に移動を開始し、インドに止まったのがアーリア人であり、インド原住民と混血してインド人となった。アーリア人が使っていた言葉がサンスクリット語であり、アーリア人が作った文字がサンスクリット文字である。これはインド・ヨーロッパ語族が作った最初の文字になる。
 最初に移動したアーリア人の別のグループはインドを通らず、さらに西のイランまで進みイラン人となりました。そして他の一派さらに西に進みギリシャまで行きギリシャ人となりました。そして、ギリシャ人がギリシャ文化の花を開いたのです。そしてギリシャ人が作った文字がラテン文字です。
 インド・ヨーロッパ語族の第二のグルーブはゲルマン民族です。しかし、ギリシャ文明が衰退するとローマ人がギリシャ人に変わり古代ローマ文化の花を開いたのです。ローマ文化を開いたのは、ケルト人でした。ところが、このケルト人は一派だったのです。そしてもう一つのグループはスラブ民族です。スラブ民族はほとんど移動をしなかったのです。すなわちインド・ヨーロッパ語族民族は大別すると、アーリア民族、ゲルマン民族、スラブ民族になります。
 さて、五重塔初重の額ですが、仏教では記号を付ける場合、対称の物をサンスクリット語に直し、その頭文字を記号とする習慣があります。その額の文字は、五重塔をサンスクリット語に直し、その頭文字を書いたものと思われます。

 
   九所明神本殿(重要文化財)
 
    九所明神拝殿
 
    内陣
   織部石灯籠  
    千木
 
    置千木

12.九所明神本殿 (重要文化財)
 五重塔の北西に3棟の社殿が。並び建つ。 仁和寺初代別当、幽仙か勧請した伽藍鎮守で、今の建物は寛永18年(1641)~正保2年(1645)の伽藍再興に伴って建立された。九所明神には以下のような九柱の神様がお祀りされています。
中殿(石清水八幡宮;八幡三神)
 ・応神天皇(誉田別命)*主神
 ・相殿神;比神(比売大神)
 ・相殿神;神功皇后  *応神天皇の母
左殿(東側)
 ・加茂下上 *4下加茂神社・上賀茂神社
 ・日吉   *日吉大社西本宮
 ・牛頭天王ごずてんのうぎおん*祇園社(現・八坂神社)
 ・稲荷大神 *伏見稲荷大社
右殿(西側)
 ・松尾大明神 *松尾大社
 ・平野大明神 *平野神社
 ・小日吉明神 *日吉大社東本宮
 ・木嶋坐天照魂神社このしまにますあまてらすみたまじんじゃ *木野嶋天神
 以上9柱の神様は仁和寺の鎮守神として祀りされています。尚、仁和寺の寺伝「御室相承記おむろそうしょうき」(国宝)の記述によると鎌倉時代以前からお祀りされていたことが、明らかにされていまう。
1)九所明神の歴史
 創建当初からこの3棟の殿舎が現在の場所にあったわけでなく、鎌倉以前は境内の西側に造営されていたことが上述の「御室相承記」に記載されています。その記述によれば建暦2年(1212)に現在の場所に新たに造営された事実が記されています。
 現在見ることのできる殿舎は。寛永18年(1641)から正保2年(1645)の間に造営されたものです。
2)建築様式
 中殿のみ置千木が2か所据えられていますが左右の殿舎は置千木はなく坊主屋根になっています。本来の千木は、垂木に相当する部材を屋根の両端で交差させたものです。古代では千木は古代、屋根を建造する際に木材2本を交叉させて結びつけ、先端を切り揃えずにそのままにした名残りと見られる。現在も伊勢神宮や仁科神明宮では,破風板を上までのばして千木としているが,他の多くの神社では破風板や垂木とはまったく別の交叉した材を大棟の上に置き,いわゆる置おき千木としている。 千木の先端のそぎ方は伊勢内宮正殿では水平,外宮正殿では垂直にしている。水平の物を女千木、垂直の物を男千木と呼んでいる。 九所明神の千木は水平のようであるが、神様の男女とは関係ないようである。
 殿舎は御垣で囲まれており一般の参拝者が内側に立ち入ることは出来ません。本殿の建築様式は流造です。神社建築で最も多い建築様式です。
 九所明神本殿前に、三つの石灯籠が並んで建っています。これは、桃山時代の茶人・古田織部が創案した織部型石灯籠が、重要文化財に指定されています。織部型石灯籠には次の3つのの特徴がああります。
•灯籠の竿を、直接土中に立てる埋め込み型
•四角形の竿、火袋(ひぶくろ)、中台(ちゅうだい)を持つ
•断面が長方形で、上部が十字形または膨らみを持った竿
 竿(さお)を直接グサッと地中に埋め込むことにより、高さを調節することができた織部型石灯籠。いずれにせよ、上部に膨らみを持つ竿は、紛れもなく織部型石灯籠の特徴を表現しています
 上部が十字架を思わせるっ膨らみがあり、キリシタン灯籠の異名を持つ織部型石灯籠です。
3)拝殿
 拝殿の屋根を正面から見ると、ちょうどセキレイやヒヨドリの飛び方のように波打って見えますこの屋根の形状を「縋る破風」といいます。これは平安時代の寝殿造に用いた古い様式です。拝殿の建築は江戸時代以降の比較的新しい建築であるが、様式は、現代的な新しいものでなく古い様式を採用しています。
4)ロケの舞台
  現在の社殿は、(164145)頃に建立された立派な社殿です。境内はかなり広く、映画やテレビの時代劇でしばしばロケ地として使われるとか 九所明神は仁和寺を守護する九柱の神が勧請され祀られているやしろ。金堂の東の林間に鎮まる。
 あるときは悪者から逃げてきた娘がやしろの前で一息ついていると、塀の向こうからならず者がへっへっと笑いながら現れる。あるときは人目を避けて怪しげな取引が行われる。お庭番や忍者がツナギをとっているのもよく見かける。気に食わぬ者を連れ込んでヤキを入れようとする一団もいる。設定の場所は江戸のことが多いが、地方や洛中のこともある。
 ほどよく褪色した玉垣、憎い配置の織部灯籠、まるで時代劇のためにセットしてくれたかのような場所なのである。ここは仁和寺ロケ中かなり使用頻度の高い場所です。

 
      御室桜(名勝)
 
      御室桜(名勝)


13.御室桜 (名勝)
 毎年春、仁和寺は満開の桜で飾られます。金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇ります。その中でも中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があります。
 御室の桜が世に称せられるに至った由来は非常に古く、すでに平安時代の和歌に詠まれている。しかしその応仁の乱に焦土と化し去ったから、今の桜は、仁和寺が近年に至って再興された正保しょうほ頃(16448年)のことであろう。 寛文かんぶんの頃(166173年)には既にその美がたたえられ、毎年上皇を初め親王、諸宮家や貴顕の人々の観桜があったことが、寺の記録にみえている。 しかし一般の花見客の来遊が増えるにしたがい、高貴の方々の観桜はとりやめられ、変わりに寺より宮中へ花枝を献上することになり、その後恒例になった。
 ところがこの御室桜には不思議がある。 それは何年たっても大きくならないのである。
 桜は大別すると、山桜と里桜である。 山桜は人の手を加えない野生のさくらである。 里桜は人が園芸用として改良した桜で、その代表がソメイヨシノ桜である。 御室桜は里桜です、植わっている桜の種類は時代時代により変わるようだが現在は主として「車返くるまがえし」や「有明」など白色系が多く遅桜おそざくらである。 どの桜の種類を植えても、何十年経っても大木にならず、せいぜい3メートル止まりで、樹形がつつじのように横にひろかる。 土壌が堅く根が伸びない大木にならないと言う説もある。
 しかし、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが解りました。ただ、粘土質であっても土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根をのばせない要因の一つにはなっているようです。あながち今までの通説が間違いと言う訳ではなさそうです。

14. 御室八十八ヶ所霊場
 御室八十八ヶ所霊場は文政ぶんせい10年(1827)仁和寺門跡第29世済仁法親王の要望で、当寺の侍医久富遠江守に四国八十八霊場を巡拝させ、各霊場の御本堂の下の御砂を持ち帰らせ、大内山の成就山に四国八十八ヶ所を模した霊場を開いた。 本四国の霊場巡拝は全道程1200kmもあり、昔は50日を要し、老人子女にとっては大変であったが、御室八十八ヶ所でな巡拝距離約3kmで、所要時間2時間で巡はいできる。 
 また、近年では年6回の「仁和寺・成就山八十八ヶ所ウォーク」が企画され、各霊場でスタンプが押してもらえ四国八十八霊場めぐりの気分を味わうことができる。


                Ⅲ・寺宝
   A 像
(1)    阿弥陀三尊蔵 (国宝)
 宇多天皇が仁和寺造営を進めて、翌年の仁和4年8月17日、金堂の落慶供養行われた。
 その本尊とされるのが「阿弥陀如来像」と脇侍の「観音・勢至菩薩立像」である。 阿 弥陀は右肩に衣がかかる偏祖右肩へんだんうけん(右肩を出して法衣を着ること、古代インドお習慣)で、左右人差指を背中合わせに立てる弥陀定印みだじょういんを組み、11世紀世紀半ばの平等院像につながる阿弥陀如来像の最古例注目されている。真言密教寺院の本尊をこのような阿弥陀如来とした背景については浄土思想を胚胎はいだ(みごもる)しつつあった天台宗の影響とみ、仁和寺の初代別当の幽仙が天台僧だったことに求める説がある。 いずれにせよ金堂供養が光孝天皇一周忌御斉会を兼ねていることから推しても、阿弥陀三尊が先帝の追善供養を企画する宇多天皇の意思を反映したものであることにまちがいない。
  木造阿弥陀如来坐像 像高 89.5cm
 観音・勢至菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊の最古例として知られる。 桧の一木造で胸から左脇にかけて見られる乾漆の盛上げ、高い肉髻にくけいや切れ長の目は平安時代前期の密教仏の特徴をよく示すが、全体に醸し出された穏かさは西方浄土の仏ならでわであろう。 
 観音・勢至菩薩立像 観音・勢至菩薩であるが、頭上にそれぞれ化仏けぶつ、水瓶すいびょうを持つ通常の形を取らないのでどちらが観音・勢至とするか説が一定しない。
 宝冠や腕の釧くしろ(古代飾りとして手首や肘にはめた輪)は金銅製で、薄い銅板を透彫りし細部を打出して立体感をだす。 
(2) 木造薬師如来像 (国宝) 像高10.7cm
 霊明殿の本尊。 元は仁和寺北院の本尊で、空海請来と伝える像が焼失したので、康和こうわ5年に本像が再興された。 仏師は法印円勢えんせいと長円。 白檀による檀像たんぞうで光背・台座も当初の製作となり、半肉彫りの7仏薬師、日光、月光両菩薩,十二神将には彩色を施す。 長らく秘仏だったので、素地も歳月を感じさせず、金箔を漆で押した截金きりがね文様が光彩を放つ。 光背、後屏背面の薄肉彫り装飾文様も見所で、宝相華ほうそうげ唐草は半世紀前の平等院鳳凰堂阿弥陀如来の光背・天蓋のそれを受け継ぎさらに繊細さを増している。

(3) 木造増長天・多門天立像 (重要文化財) 像高108.2cm109.1cm
 もともと金堂本尊阿弥陀如来三尊の四方を護った四天王の増長天・多門天とみなされる・ 一木で頭から邪魔までを彫り出し、内刳うちぐりを施さない、至って古風な製法で、頭部を大きめに作り、ややずんぐりとした体躯の姿も、九世紀後半の阿弥陀と同時期の作であろう。

(4) 木造文殊菩薩座像 (重要文化財) 像高10.7cm
 右手には剣を持ち、左手には何ももっていないが、もとは経巻を載せた開敷蓮華(開いた蓮華)の茎を持っていたと思われる。 この文殊の像形は中国五台山の文殊を天台宗の円仁が請来(購入希望の外交製品を購入して持ち帰ること)したことに始まる。 もともと本像は上半身の衣の端を腹上で締め、腰布を細く波形にするなど、鎌倉時代に導入された宋風彫刻の要素が明確である。 鎌倉時代半ば、院派仏師の作とする見解がある。

(5) 厨子入木造愛染明王坐像 (重要文化財) 像高51.7cm
 愛染明王は、頭上に獅子冠をかぶり、憤怒相に三目六臂さんもくろっぴ、即ち両目の上、眉間にも一眼を表し、6本の腕をもって各々に金剛鈴などの持ち物を執る。 頭と体部を一木で作った後に割り放って腕や膝を組み合せる割剥造わりはきづくりにより、怪異な中にもふっくらと穏かな雰囲気を漂わせて、平安時代後期に遡る希少な作品例となる。 その名の通り、愛欲の煩悩を断つ仏で、男女和合や子の誕生、敬愛法、増益法として信仰された。

(6) 木造吉祥天立像 (重要文化財) 像高166.6cm
 平安時代、木造彩色。 吉祥天は、「金光明最勝王経」にその功徳が説かれ、これを本尊として、鎮護国家・厄災消除・五穀豊穣を願う法会が、奈良時代以来全国各地の寺々で営まれた。 唐服をまとい、左手に宝珠を持つ姿は通例通りだが、先の尖る冠を被るのは珍しい。 頭から足先までを一木で作る古様な製作法をとりながら、彫り浅く動きの少ない作風から、平安時代半ば10世紀の作品と見られている。

(7) 木造悉達太子像 (重要文化財) 像高540.2cm
 鎌倉時代 木造彩色截金 美豆良みずら(古代男子の髪型)を結って静かに座る青年の像は、仁和寺で長く聖徳太子像と伝えていたが、胎内に納入された文章により建長けんちょう4年(1252)に大仏師院智が製作した「悉達太子しつだたいし像」であることが判明した。 悉達とは釈迦の出家前の名、悉達多しつだったのことで、日本では早くから聖徳太子のイメージに重ねられてきた。 着衣に截金で地文を描き、彩色で丸文を散らすことや、襟や肩の曲線の表現、臂を複雑にひるがえすなど宋風表現は本像の時代性を端的に物語る

   B 絵画
(1) 孔雀明王像 (国宝) 北宋時代 絹本著色 168.8cm×103.3cm
 仁和寺では、平安時代以来、旱魃や疫病、天変地異、天皇中宮の出産などがあると、歴代門跡が孔雀経法という密教修法を挙げ、効験絶大なることが聞こえていた。 
 この修法の本尊が孔雀明王像で、空海の伝えた画像が用いられていた。 本像は北宋に遡る貴重な品である。 三面六臂の明王が孔雀に乗って来る様子を描く。 顔や装身具、孔雀の細部に至るまで、色彩の階調を微妙に変えつつ描きこむ写実性と金泥による線描写の荘厳性があいまって拝する人に幻想に近い強い印象を与える
(2) 絹本著色聖徳太子像 (重要文化財)
(3) 絹本著色僧形八幡神影向図 (重要文化財)
(4) 紙本白描及び著色密教図像17点 (重要文化財)
(5) 紙本墨画高僧像1巻 (重要文化財)
(6) 紙本墨画四天王図像1巻 (重要文化財)
(7) 紙本墨画弥勒菩薩画像集1帖 (重要文化財)
(8) 紙本墨画薬師十二神将像1巻 (重要文化財)
(9) 紙本墨画別尊雑記(図像入)57巻 (重要文化財)

  C 工芸品
(1) 宝相華蒔絵宝珠箱ほうそうげまきえほうじゅばこ (国宝)平安時代 20.6×15.5
 豪華な蒔絵を施した披蓋かぶせふた式の類で、舎利を入れた宝珠を収めた箱。 細かな金粉を厚く撒きつけた沃懸地いかけじ(蒔絵技法の一つ。 金銀分を一面に撒き漆をかけて研ぎ出し金地又は銀地に仕立てあげたもの)でその文様は10世紀末の春日大社蔵・黒漆彩文麻笥こくしつさいもんおけ11世紀の延暦寺蔵・金銅経箱の宝相華文様に極めて近い。
 箱内には宝珠の御守りと思われる板製彩絵の四天王像が入っている。

(2) 宝相華迦陵頻伽蒔塞冊子箱ほうそうげかりょうびんがまきえそくさっしばこ (国宝)
 国宝・三十帖冊子を納めた箱で蓋に「納真言根本阿闍梨空海入唐求得文冊子之筥」と文字が蒔絵さsれる。 当時蔵の「東宝記」に「三十冊子を納めた革筥」が延喜えんぎ19年(919)内裏より下賜かしされたとの記述があり、この冊子箱に当たると考えられる。 
 ただ、素地がソク(土へんに塞)(乾燥)と呼ばれる、麻布を漆で重ねた乾漆製で「革筥」でないことから上の見方を疑問視する向きも一部にはある。 

(3) 住吉蒔絵机(重要文化財) 桃山時代 90.3×37.9×25.2
 寺伝によると、豊臣秀吉が後陽成天皇に奉納し、その後仁和寺の下賜されたという文机である。 天板には、金梨地に金銀の金具と截金で反橋と社殿、松原に雲えお描く。  鳥居こそ見えないが、これらの意匠要素から室町時代以来好んで描かれた住吉図とわかる。 

(4) 色絵瓔珞文花生いろえようらくもんはないけ (重要文化財)
 野々村仁清ののむらにんせいの作品。 この花生はないけは仏具の尊形花瓶に倣った形で、瑠璃・七宝を彷彿とさせる金彩と赤・緑・青の色絵で表した瓔珞文も仏器にふさわしい。 

(5) 銅製舎利塔・三鈷鈴・九頭竜鈴 (重要文化財)
 金銅火焔宝珠舎利塔は、釈迦の遺骨である舎利と願いを意のままにかなえる力をもった如意宝珠を同体とみ、舎利を込めた宝珠である。 この宝珠を祀る修法は、11世紀頃から醍醐寺周辺の僧がはじめた。 仁和寺も、第6世守覚法親王がこれを受け伝えた。
元~明時代、、銅鋳造三鈷鈴;高14.3cm、口径6.3cm、三鈷鈴;高17.2cm、口径7.0cm九頭龍鈴;高25.0cm、口径9.6cm、 真言宗寺院で修法に用いる密教法具は、平安時代初期に空海等入唐僧が持ち帰った法具の形を引き継いでいる。 ところがそれとは別に、宋時代頃からチベットで起こった密教に基づく別種の法具が、日本と中国・高麗間を往復した僧や商人の手で少なからずもたらされた。 

(6)    日月蒔絵硯箱じつげつまきえすずりばこ (重要文化財) 桃山時代
木造蒔絵 28.2cm×24.4cm×5.7cm  金粉を密に蒔いた濃梨地こいなしじ 蓋表は金の金貝かながい(文様形の金属薄板を貼る技法)で大きな日輪と銀金貝で雲を表し、蓋裏には銀金貝で月輪と雲をあらわす。 また側面には、龍を描く。 日月の意匠は天界の二大要素と考えられ、とくに室町時代には山水図などとも組み合い、森厳な宗教性を込めた図様としてよく描かれた。

(7) 宝珠磨文錦横被 (重要文化財) 鎌倉時代 絹 198.8cm×79.4cm
 九条や七条の袈裟を左肩から着用した際、一方の右肩を覆うのが横被おーひである。 紅蓮の火炎を背にした三面宝珠と蓮台を、中央を境に天地逆に整然と配している。 背景の紺地には羯磨かつま(密教の法具)を用いている。 
 本品は第2世性信法親王の所用と伝えられているが、三面宝珠は真言密教で如意宝珠への信仰が高まった12世紀以後一般化した意匠で、紅と紺の鮮烈な配色などからも、鎌倉時代初め頃まで降下させて考える向きが強い。 しかし、中世期まで遡ごく希少な袈裟の作例である。

D 書籍典籍
) 三十帖冊子 (国宝)
 弘法大師空海が延暦えんりゃく23年(804)から大同だいどう元年(806)までの入唐中に長安・青龍寺の恵果けいか阿闍梨から伝授相承した密教経典の儀軌道ぎき(密教の儀式規則)を書写し持ち帰ったもの。 空海の自筆以外に唐の写経生が書写し、同時に入唐した橘逸勢たちばなのはやなり筆と伝える部分も含む書道史上の至宝で、最古の粘葉装でっちょうそう冊子として知られている。 第14帖んお空海自筆目録によればもとは38帖あった。 東寺から一時高野山に出て、再び東寺の秘法として護持された。 文治ぶんじ2年(1186)守覚法親王がこれを借覧して以来仁和寺経蔵に納められることになった。 

(2) 医心方いしんぼう (国宝)
 宮内省典薬寮の針博士・医博士を歴任した丹波康頼(912995)が天元てんげん5年(982)に撰述を終え永観えいかん2年(984)に朝廷に献上した日本最古の医書で、本書はその最も古い写本。 隋・唐の医書百数十部を引用するが、それら底本の大半が失われているので、東洋医学史上に占める価値は計り知れない。 写本には仁和寺本と半井家本の2系統ある。

(3) 新修本草しんしゅうほんぞう (国宝)
 唐・高宋の顕慶4年(659)に李勣りせきや蘇敬らが撰述した医書で、薬草から薬効、薬石まで850種にもおよぶ本草を記録している。 早く奈良時代には日本へもたらされていたことが知られ、本来は54巻からなるが、うち11巻しか現存しない。
 仁和寺本は、鎌倉時代の書写による5巻である。 本書や「医心方」「」「」などの医書が仁和寺に伝わるには、子院の心蓮院に丹波家出身の僧がいたため説がある。 

(4) 黄帝内経明堂こうていないけいめいどう (国宝)
 中国伝説の皇帝である黄帝と名医岐伯きはくの問答形式で書かれた医書「黄帝内経」の注釈書で、とくに医学理論を論じる。 これは典薬頭てんやくのかみを襲った医家・丹波家に伝来した古書本23巻で「医心方」を撰述した康頼の7代の孫、頼基の書写になる。 
 仁和寺には、太素たいそのほかに鍼灸など臨床の治療について注釈した「黄帝内経明堂」も2巻伝来する。 これも丹波家で書写された。

(5) 高倉天皇宸翰消息 (国宝)
 高倉天皇の中宮平徳子出産時、仁和寺第6世守覚親王は。安産祈願の孔雀経法執り行い、無事に皇子が生まれた(後の安徳天皇)。 この消息(手紙)はお経の効果とそれに対し感謝とお礼の手紙である。 18歳で父親になった天皇(後白河天皇の第7皇子)は、兄である守覚法親王(後白河天皇の第3皇子、第一皇子は二条天皇)に対し率直な喜びと感謝を表す。 
 その高倉天皇からの手紙に対し守覚法親王は「宸翰消息を賜った栄誉に対し、不覚の涙を禁ず、永くこの『天書』を後の門跡の鑑かがみとして伝えん」と述べる。

6) 御室相承記 (国宝)

 仁和寺門跡初代の宇多天皇から第7世道法親王まで歴代門跡の事跡を記録した年代記。 各門跡1世毎に巻が当てられ、第6世守覚法親王の巻を欠く全6巻が伝わる。 巻によって内容傾向に差があるものの、平安時代から鎌倉時代初期までの仁和寺の動向を知る最重要史料である。

(7) 後嵯峨天皇宸翰 (国宝)
 後嵯峨天皇が寛元かんげん4年(1246)に仁和寺第9世道深どうしん法親王に送った手紙。 前年の陰陽道で太歳たいさいと太陰たいいんと客気かくき(ものにはやるこころ)の三神が合う厄年「三合之厄運」で、更に前年正月と3日に客星かくせい(何時もは見えず一時的に見える星)の彗星が出現した。 手紙では、この大凶の年を法親王が挙げた孔雀経の効験により無事に切り抜けることがき感謝している。 
 天変地異・凶事に対して仁和寺門跡の孔雀経法への朝廷の期待がいかに大であったかを窺がいしれる。
(8) 絹本墨書尊勝陀羅尼梵字経 (重要文化財)
(9) 紺紙金泥薬師経 光格天皇宸翰 (重要文化財)
10) 孔雀経 (重要文化財)
11) 十地経並十力経・廻向輪経 (重要文化財)
12) 法華玄義 (重要文化財)
13) 如意輪儀軌 (重要文化財)
14) 般若経理趣品 (重要文化財)
15) 理趣釈 淳祐筆 (重要文化財)
16) 仁和寺黒塗手箱教 (重要文化財)
17) 淡紫紙金泥般若心経 桜町天皇宸翰 (重要文化財)
18) 秘密曼茶羅十住心論 (重要文化財)
19) 摧邪輪 (重要文化財)
20) 万葉集注釈 (重要文化財)
21) 後鳥羽天皇作無常講式 (重要文化財)
22) 後宇多天皇宸翰消息(5月11日) (重要文化財)
23) 後宇多天皇宸翰消息(徳治2年9月) (重要文化財)
24) 後醍醐天皇宸翰消息(何事候) (重要文化財)
25) 後醍醐天皇宸翰消息(去夜心閑) (重要文化財)
26) 孔雀明王同経壇具等相承紀請文 (重要文化財)
27) 承久三、四年日次記残闕、(重要文化財)
28) 消息(高野御室、華蔵院宮法印、返事)(重要文化財)
29) 貞観寺根本目録 (重要文化財)
30) 法勝院領地公験紛失状 (重要文化財)

E 参考資料、歴史資料
(1)    日本図 (重要文化財) 鎌倉時代 紙本墨書 34.2cm×121cm
  日本地図を初めて作成したのは奈良時代の高僧、行基ぎょうぎであると語られている。彼の書いたと伝える「行基図」は、68の国を重ね続けるように描く独特の描写法をとる。 本図はその最古の例で、奥書に諸国名を列記したあと「行基菩薩御作」ときしてある。

(2) 仁和寺境内出土品 一括 (重要文化財)
 2-1 銅経筥・銅板経 平安時代 
   銅経筥 16.2cm×55.2cm×25.8cm 銅板経 22.823.1×25.525.9
   銅経筥野中に銅板経が120枚収められた状態で金堂跡から発見された。
   紙本経を納めた経塚は全国に多数みられるが、銅板経はわずかすうれいに過ぎない。なか
  でも仁和寺銅板経は枚数が最大規模で、かつ最古のものとみなされる。

  2-2 金銅輪宝・橛 平安時代 
   車輪形をなす輪宝りんぽう(車輪形をした密教の仏具)と蓮弁を飾った柱状の橛(くい
  )は、本来密教修法を壇の安鎮と結界に用いる法具であるが、仏道建立
に際し、地鎮めの安
  鎮法にも用いる。 


 参考文献
  *古寺巡礼京都22 仁和寺
  *古寺巡礼京都11 仁和寺
  *探訪日本の古寺仁和寺
  *日中輪蔵の型式分類について
  *日本建築における野屋根の発生について

 

 

 

 









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