23)世界遺産・平等院



平等院・鳳凰堂(世界遺産・国宝)

[]平等院の歴史
1.宇治の地
 宇治の地は大和から北方に通じる交通の要衝 として古くから重視された処で、平安京の時代になると、琵琶湖の水を集めて流れる宇治川が山峡を出て、西方に開けた平地に注ゞ地点に位置する宇治一帯は、夏は涼 しく、冬は暖かい点では、京内に比 べて格段の差があり、その上、山と水の景勝に恵まれていたため、貴族階級の別荘荘地となつていた。
 平等院の前身といわれるものは宇治郷にあらた左大臣源融みなもとのとおるの別業(別荘)である。融が寛平7 (895) 8月に没してから、かれの別業 は宇多天皇の所領となって『宇治院」と呼ばれた。承平じようへい元年 (931)7月 に宇多法皇崩御後の「宇治院」は、その子六条宮敦実親王に伝領 された。同親王の四男六条左大臣重信が引き継いだ。重信が長徳ちようとく元年 (995) 没 した。
 長徳四年 (998)その「宇治院」を重信の未亡人の手から左大臣藤原道長が買いとつた。道長が字治院を入手 してから、建物や庭国について修築を加えたようで、長保ちようほ元年 で(99989日 には移徒わたまし(貴人の転居)の儀をおこなっている。 以後、道長は字治殿に行つて、客人と共に、舟に乗つて詩を作りヽ管弦 ,聯句 ,和歌の会を催して楽しんだ。寛仁かんにん三年 (1019)3月 、道長が出家してからは、字治殿での行事も変えたようで、治安3年 (1023)811日 に、道長は、年来の漁猟の罪を懺悔するため法華八講を行っている。
 万寿まんじゆ4 (1027)12月 、道長が没すると、宇治殿はその子頼道伝えられた。 そして父の晩年の希望に従らて、同殿の寺院化が実現した。 永承えいしよう7 (1052)3 28日 、関白頼道は宇治殿を仏寺とし、平等院と号して供養し、僧六人を置いて初めて法華三味を行った。宇治殿の寝殿をそのまま平等院の本堂としたのか、寝殿 とは関係なく本堂を新造したのか、詳しくはわからない。 大僧正明尊を平等院執印に任じた。 その翌年の天喜てんぎ元年 (1053)に 落成したのが平等院の阿弥陀堂である。

2. 平等院鳳凰堂と藤原頼通
 永承えいしよう7 (1059は 、仏法が減亡する「末法まつぼう」初年に当たると予言された年であう。 『末法」とは仏陀入滅後に訪れる「正せい」「像ぞう」「末まつ」の三時さんじの思想である。 入減後の一時期は、「正法」の時代 と呼ばれ、その時代には教 (撃義)に したがうて行ぎよう(修行)すれば証 (覚 さとり)が得られる。 しかし、次の「像法」の時代には仏教は形式化し、教と行はあつても、証は得られず、最後の「末法」の時代は教のみあつてもはや行も証もなく真理は失われ、人心は荒廃 し、天変地異が繰り返して社会は乱れ、ついには暗黒の世界に落ち込んでしまうという思想である。
 平安時代中期には三時の期間は正、像各千年とするのが有力となり、仏陀の入滅年が紀元前 949年 とすると、永承 7年が末法の初年になるのである。 これまで仏法の知識に過ぎなかつた末法の思想は、社会情勢の変化もあつて貴族や僧侶を問わず人々の心に現実感を伴つて理解された。 救いのない時代が到来するという茉法の不安年におびえた人々の心を揺さぶつたのが、恵心僧都源信えしんそうずげんしんの「往生要集」である。極楽往生を希求する浄土信仰が多くの人々の心をとらえたのだつた。
 栄華の絶憤期にあつた藤原道長 (966 1028)を頂点とする藤原一門にとつては、現世の権勢が強固であればあるほど来世への不安は増幅したのであろう。 寛仁かんにん3 (1019)出家した道長は、治安じあん2 (1022)、 鴨川西岸に壮大華麗な法成寺ほうじようじを造営した、丈六じようろくの九体阿弥陀仏を本尊 とする九体阿弥陀堂や三丈二尺の大日如像を安置す る金堂などを建てた。 内装 も贅の限りを尽くした、さながら極楽の雰囲気が満ち溢れていた と言 う。
 藤原頼通 (992 1052)が父道長より伝領 した宇治の別業べつぎよう(別荘)を捨て平等院 としたのは、永承 7 (1052)3月 のことである。 かねてから抱いていた構想を、この年 (末法第一年)を期 して実現 したものであろう。 阿弥陀堂の造営とその中に安置する阿弥陀仏の造像が、造園と並行して行われた、翌年3月に落慶供養が営まれているから、造営には丸1年を要したことになる。
 頼通のこの事業には、33年前、父道長が造営した法成寺の存在が強く意識 される。 道長は大寺院の造営に当たり、荘園から資材や人夫を強制的に調達動員する一方、仏師も百人集め突貫工事で進めた、発願から完成まで 8ヶ月と言う短期間であつた。 頼通は父のやり方に関心しなかつた。 胸の痛みに耐えかねて俄かに造寺造仏を思いついた道長と、末法の到来をまって行った頼通の場合とではおのずから取組み方にも差がでることになる。
 前者が九体仏くたうぶつで多くの功徳を受けたいという道長の切実な願望が感じられる。 これに対し、後者の鳳凰堂は、地上に極楽浄上の出現を求めた頼道の理念の表れであってく造寺造仏にかける両人の思いが 異なつていた。 頼道は承保じようほ元年(1074)2月に83歳の長寿を全うしその生涯を閉じている。 治暦じりゃく3 (1067)に 弟教道のりみちに関自の地位を譲つて後はほとんど平等院にあり、この世で極楽浄土を観想 しつつ往生したものと 思われる。

3.頼通以後
 頼道没後、娘寛子が住まわれた。 永承えいしよう6 (1051)16歳で後冷泉天皇の皇后となり、天皇崩御後には皇大后の尊称を受け、主として学治にいて大治だいじ2 (1127)92歳で世を去った。 
 平等院はその出発におぃて、天台宗寺門派すなわち園城寺と深いつながりを持ちていた。第一代執印として 頼道が招請したのは前園城寺長吏ちょうり大僧正明尊.(後 天台座主になる)。 績道は彼に傾倒し、第6皇子責円を明尊のもとに出家させた。また、この覚円が後に園城寺長史になり、さらに康平こうへい7年(1064)に平等院第2代執印を兼務したした。かかる経緯もあって、平等院はその後も園城寺の下、一切経会などの仏事を研修するとともに、その執印も藤原一門 出身の 僧がなるのを建前とした。この点は12世紀末以降の鎌倉時代に入ってからも変わらなかった。

4:平等院の荒廃
 天台宗寺門派園城寺より任せられた平等院執印の名は、建武3年以降で途絶えていた。室町に入ってからは、三井寺円満院門主が平等院住職を兼務した。藤原氏末流の公家達の凋落とともに衰徹し、加えて寺門派の弱体化が進む中で円満院との関係も疎遠となり、遂に天正てんしょう10(1582)には途絶える。 その後真言宗の僧が一時期平等院に入り寺内を管理した。―方、庶民の間に大きな力を得てきた浄上宗に属する僧侶が寺内庵を建て布教に専念することになる。こうした中で、浄土宗と真言宗の間に長期にわたる平等院の管理権を巡る対立が続くのであるが、慶安2年(1649) にならって浄土宗と真言宗の間に平等院の称号を一山の総称とし、両宗和合し、平等院 を維持すべしとの裁定がなされた。
 しかし、間 もなく承応じょうおう3 (1654)になうて真言宗が選去し、再び天台宗が復活し今度は天台宗と浄土宗の間 で管理権争いが始まった。 長い争いの後、天和元年 (1681)寺社奉行によつて、慶安2年に定めた内容通りの裁定が下された。

5.現在の平等院
 所在地 京都府宇治市宇治蓮華 116
 現在の平等院は、浄土宗の浄土院と、天台宗の最勝院の2つの寺院が共同で管理している。 宗派は単立、山号は朝日山。平成 6 (1994)「 古都京都の文化財」の一部として世界文化遺産に登録されている。
 文化財
国宝      ①鳳凰堂、木造阿弥陀如来、木造天蓋、木造雲中供養菩薩、
         ⑤鳳風堂壁扉絵、⑥金銅鳳風 1対、梵鐘
重要文化財観音堂、木造十一面観音立像、養林庵書院 (非公開)
史跡・名勝  平等院庭園

                        [2]建造物

 
       平等院・表門
 
       平等院.・南門

1.平等院伽藍の構成
 平安時代中期から後期は浄土教が深く貴族たちの心を捕え、多くの浄土教寺院あるいは阿弥陀堂の作られた時期である。藤原頼道の建立した平等院は平安時代を代表する浄土教寺院であり、またその中心仏堂である鳳凰堂 (阿弥陀堂)は 日本の建築史上、最も華麗な建築の一つである。
 浄土信仰が阿弥陀堂という具体的な形を取って表現されるのは、頼道の父である藤原道長が寛仁 4 (1020)に 供養 した無量寿院阿弥陀堂が最初で、しかもこの堂は文六の阿弥陀像九体を安置する、いわゆる九体阿弥陀堂の初例でもあつた。
 無量寿院は、当初はこの阿弥陀堂と道長の住房とで出発したが、年毎に寺観を整えて名を法定寺と改め、道長の晩年には金堂以下十数宇の仏堂群によって構造される平安中期最大の寺院に発展した。
 平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)の供養は天喜元年(1053)で、法成寺金堂の完成より31年後のことである。その前年には本堂の供養が行われる。平等院の本願である藤原頼道の在世中に造られた院内の堂塔のうち、建立年代の明らかなものは以下の通りである。
  本道 永承7年(1052)3月
  阿弥陀堂 天喜元年(1053)3月
  法華堂  天喜4年(105610
  多宝塔  康平4年(106110
  五大堂  治暦2年(106610
  不動堂  延久5年(1073)8月
 これらのうち、多宝塔は頼道の女皇后寛子、五大堂は息子師実、不動堂は猶子源師房によって建てられているから頼道自身の手になるものは本堂・阿弥陀堂・法華堂の三棟と経蔵(建立年代不明)である。 次に浄土教寺院の先駆けともいうべき法成寺と、浄土教寺院の華と目される平等院を比較してみよう。平等院の営まれた宇治は古来より風光明媚の地として親しまれ、平安時代には多くの別業が建てられていた。平等院はそうした別業の一つを頼道が父道長より相続し、寺に納めたものである。敷地は宇治川の清流に臨み、東面して伽藍 を構える。本堂及び鳳鳳堂は水辺に近い平地に立地 し、鳳鳳堂の背後、つまり伽藍の西 と南とはやや小高い緑の木立である。往時の平等院は清澄な水と木々の緑に包まれ、穏やかな美 しい自然を背景として営まれたのである。
 一方の法成寺は道長の邸宅の一つ、土御門殿の東隣に造営された。形としては洛外であつたが、実質的には洛中に等しい、地の利に恵まれた場所である。その地に大土木工事を起こして池を掘り、植栽を整えて人工の自然を造 りあげ、その自然を包むようにして諸堂を西己置した。いわば閉ざされた中庭に、集約的に自然の美を造型 していたのである。平等院が抱かれる形で立地するのに対し、法成寺は自然を抱き込む形をとり、又平等院が宇治川の対岸からも望見できる開放的な伽藍であったのに対 し、法成寺は四面を築地で囲み、開鎖的であった点も大きく相違する。
 池との関係も両社は対照的である。法成寺は建築が池を取 り囲むが、平等院では阿弥陀堂は池の中島上に立地するから、水が建物を包む形である。法成寺的な池水の扱いは寝殿造庭園の延長上に考えられることであるが、中島に仏堂を造ると言 う発想には更に一段の飛躍が必要であった。平等院の池水には、宮殿が水に包まれる「極楽の池」としての位置付けが、当初から明瞭にあったであろう。
 つぎに伽藍の構成を見よう。法定寺の場合は大規模な仏堂が林立 し、それらがまさしく輸集りんかんの美を競い合つていた。 同時にそれらは廊下によつて有機的に結合 され、全体が群 として圧倒的な量感を伴う美を誇つていたのである。そこで阿弥陀堂 といえども際立つ存在ではなかった。これに対して、平等院の場合は各仏堂が広い伽藍内に分散配置されていた。鳳凰堂の背後に位置する愛染堂・五大堂・不動堂などは林立の中にひつそ りとたたずみ、鳳鳳堂とは決して競合しないような配慮がな されていた、と想像される。鳳凰堂はその美しい姿を水面に移しながら、院内に君臨していたのである。
 法成寺と平等院は引き続 いて建てられた浄土教寺院であるにもかかわらず、その伽藍構成の理念及び形態には対照的な点が多かったのである。そして浄土教伽藍としての完成度・成熟度か らみれば法成寺はその途上にあり、平等院に置いて初めて、阿弥陀堂を中核とする本格的な浄土式伽藍が誕生したとみてよいであろう。

2.鳳凰堂 (国 宝)
  平安時代中期から後期は浄土教が深く貴族たちの心を捕らえ、多くの浄土教寺院或 いは阿弥陀堂の造られた時代である。藤原頼道の建立した平等院は平安時代を代表す る浄土教寺院であり、またその中心仏堂である鳳凰堂 (阿弥陀堂)は 日本の建築史上、最も華麗な建築の一つである。
 鳳凰堂は入母屋造りの中堂と切妻造りの左右翼廊・尾廊の四棟からり、東面して立ち、周甲に池をめぐらす。左右に延びる翼廊は隅に宝形造の楼閣をあげ 、前方に曲がってを正面に見せる。

 
        鳳凰堂中堂
 
        鳳凰堂翼廊

 
       鳳凰堂翼廊側面
 
         鳳凰堂尾廊

左右の廊が前方に曲がって延びる形式は、基本的には中国建築の配置であり、日本でも官殿・寺院・寝殿にみられるものであるが、宮殿・寺院においては、廊は前面で閉じ、正面に門を開くのが普通で、平等院が創立されるすぐ前の法成寺において、初めて前面が開いた。 寝殿造では前面は開いているが、左右の廊は折れ由がらて長く廷び、先端に釣殿を設するのが正式で、法成寺においても、先端には鐘楼・経蔵が造られている。この廊はそれらの建物への通路であると同時に、南庭を区画するためのものである。 しか し、鳳凰堂では、現在は東に 高い堤防があり、垣があるが、当初は、川で 区画してはいるけれども視覚的には対岸までの広がりを持つ。川の向こうからも鳳凰堂
は望見でき、対岸まで含んだ一つの空間であった。
 鳳凰堂というのは江戸時代初期頃から使われ始めた俗称である。その名の起こりは中堂に左右の翼廊と背後に尾廊が取り付く姿が鳳凰を象ったものと見られたためで、全体を鳳凰造と名付けた地誌もある。地誌にはまた中堂の大屋根両端に飾る鳳凰に由来するとするものがある。
 堂の創建以後の一番早い改修は鳳凰堂建立後七年目の康平3 (1060)に行われている。これは中堂天井桁下面の蓮華座付き鏡飾の裏面に墨書されているもあで、天丼桁下面は現在緑系の繧繝うんげん(ぼかしの1)で彩色されているが、蓮華座をはずしてみると赤系の繧繝となつていた。赤と緑では暖色と寒色の関係から堂内の雰囲気は相当異なぅこととなるが、こうした早い時期に何故大きな変更がなされたのか、康平の改修は不明な点が大井。

                         3.中堂
(1)中堂
 中堂は東面して高い基壇上に建ち、正面三間、奥行き二間の母屋に裳階もこし(本来の屋根の下に付けた差し掛けの屋根)をつけて外観では屋根が二重となる。屋根は入母屋造、本瓦葺で、裳階は母屋の頭貫かしらぬきよりかなり下つた位置から葺き下ろすが、裳階屋根面上にめぐる縁高欄で母屋の柱頂部までかくされる。正面は、中未部分の裳階屋根を一段高め、中心度を強調する。
 天平時代の東大寺大仏殿と同じ手法である。堂の平面は、周囲裳階のうち母屋背面の三間分を室内に取りこみ、結局三間×三間の同内部を、吹放 しの裳階が三方から 囲む形 となる母屋の柱間寸法は桁行中央間一四尺、両脇間10尺、梁行二間各13尺、裳階は梁聞6.5 尺である。柱間装置は母屋の正面とも板扉で、このうち中央間は特に丈せいが高い。側面は母屋の前方間板扉、後方間連子窓、後端の裳階部は壁 とする。背面は裳階の柱筋で申央間のみ板扉、両脇間は壁である。内部は母屋の背後 中央二本の柱を菜趣柱とし、その前に須弥壇を設け本尊を安置している。裳階の床は基壇上面より転根太こらばしねだ (根 大を太 くして強度を上げ、大引けを省略する方法)分だけ上がつて低い簀子縁すのこえん張りとし、堂内もほぼ同 じ高 さの拭板敷ぬぐいいたじきとなる。
 鳳鳳堂が建築意匠上極めて優れた物であることは広く認められている。平安時代の阿弥陀堂が常行三味堂系統の正方形またはそれに近い方形プランものを典型とし、規模の大きな場合は横に細長い九体阿弥陀堂の形式をとつたなかにあつて、鳳凰堂が極楽官殿を思わせる異色の浄土教建築として現れる独創性も、しばしば指摘されるところである。しかしそればかりでなく、鳳凰堂は構造や建築細部の形式からみても平安時代に確立する和様建築の完成者であつた。
  中堂の軸組を見ると、柱を連結するのは頂部の頭貫だけで、横揺れや倒れるのを防 ぐのは、内外から打ち廻らされた内法長押に頼つている。そのため長押は断面が矩形で、後世の様な長押曳をした三角形 とはなつていない。こうした構造は天平時代そのままであり、頭貫や長押を各面とも一丁材で通 して強化に役立てたのが、僅かに平安的工夫と言 える程度ある。当時の貴族達の間では天平建築の華麗さにあこがれる志向が広まつていた。それは恐らく、平安時代の主流であつた密教建築が元来比較的簡素であり、普請好みで 目の肥えた貴族には飽き足らなく映つたためであろう。このように鳳凰堂は構造・意匠では天平建築を踏襲す るが細部では平安時代の特徴を発揮する。

 
            中堂・須弥壇・阿弥陀如来坐像

 平安様式の特徴も顕著な箇所は組物で、天平建築以来の三手先組物の整備が鳳鳳堂で完成する。鳳鳳堂外部の三手先組物の隅組手を見ると、柱筋前方の三手先の秤肘本はかりひじき (天粋状の肘木)と 隅尾垂木 上の三手先 日の枠肘木が連続 した長い粋肘本となつて、その上に並ぶ巻斗で実肘木・丸桁を受けなおこれとれと直角方向の二手先目、即ち支輸桁通 りの肘本の先が前へ伸び、その上の斗でこの長肘本を支えている。つまり長肘木は柱筋 2手先目の通り、隅肘木上の計三ヶ所の斗で支持 される。この形式は以後の三手先組物の定法となるが、風風堂はその最初の実例である。
 中世以降では斗棋ときよう (上部の荷重を集中して柱に伝 える役目をもつ部材の総称。組物とも言う)の出に基準寸法を設け二手目は基準尺の二倍、三手目は三倍となるのであるが、鳳凰堂では一手目の出が柱心から1.55尺 、二手先 目が 3.03尺 、二手日と三手 目の距離が 1.77尺であり、中世以降の法則がまだここでは確立 していないことがわかる。もつとも鳳鳳堂では垂本の間の数が10尺間で 11,13尺 間で 14 14尺間で 16となつていて、垂木間隔は柱間ごとにそれぞれ異なる、古代的な大らかさを多分にのこしている。したがつて中世建築にみる垂木寸法を基準尺 とする技法にはいまだほど遠いのは当然 といえよう。
軒の飛擔垂木ひえんたるきの出が地垂本に対して大きくなり、反 りも増 して優美感を強調するようになるのも平安様式の特徴で、鳳鳳堂はその傾向の最も早い例である。天平時代の建築は野屋根がなく、化粧垂木 (装飾した地垂木)上に直接瓦を葺くため、飛擔垂木の出が少なく、地垂木の出と飛擔垂木の出との比は 7 3程度である。平安時代にはいつて発見された野屋根の最古の 遺例である法隆寺大講堂 (990)ではまだ天平時代の形式が踏襲さされ、6.7 3.ま であつたがヽ鳳鳳堂では 6.4 3.6となる。この比はさらに時代が下る中尊寺金色堂 (1124)では6.2 3.8、鎌倉時代に入るとおおむね6 4程度のなつて飛摣垂本の出が増大するにつけて軒先は優美さを加え繊細さをます。こうした比例は野屋根の発達と平行して変化したが、鳳鳳堂は新しい動向の先頭に立つ建物であり、外観の優美さもこれに追う所が大きい。
 野屋根としては極初歩的な段階である。それにも関わらず大胆に飛擔垂木の出を増 しヽ軒を大きく張 り広げたのは、外観を最重視したこの建物ならではの技法であり、そうした結造め無理を承知しながらの造型に平安貴族の審美刊が うかがえる。
 構造上の無理という点では小屋組 (屋根になる骨組み)の また大きい。 鳳風堂は母屋だけで庇がなく一般の仏殿の入側柱に相当するものがいないので、尾垂木尻は組み入れ天丼の上に井桁状に渡す土居盤にとめる。通常なら用いる野梁も折上天丼があっていれるようがない。
 鳳鳳堂でこのような構造上の不安定さをあえてしているのは、屋根が元来本瓦ではなく、荷重のかるい木製の本瓦葺こがわらぶきでぁったのではないかと思われる。極めて大胆な推論であるが、鳳風堂はもともと本瓦でなく、木瓦葺の可能性が強いのであう。
 現在の鳳風堂に使用 されている軒先瓦の文様は、明治 29年に関野貞が鳳鳳堂を実測中に小屋裏から発見 したものによつている。しか し不思議なことに、昭和修理で基礎強化工事に伴つて基壇周囲をほぼ全面的に発掘 したにも関わらず、平安時代の瓦は堂周辺から殆ど発見されなかつた。
  日本建築で縁や廊下、あるいは橋につく欄干をいう。勾欄(こうらん)とも書く。高欄の横材は上から架木(ほこぎ)、平桁(ひらげた)、地覆(じふく)3本通り、平桁を通して地覆から架木を支える材を斗束(とづか)、中間で平桁だけを支える材を栭束 (たたらづか)という。高欄の隅は、架木、平桁、地覆を組み合わせるものと、親柱(おやばしら)を立てるものがあり、前者を跳(はね)高欄(刎(はね)高欄)、後者を擬宝珠(ぎぼし)高欄とよび、また、階段両脇(わき)につくものを登(のぼり)高欄、入口両脇につくものを袖(そで)高欄とよぶ。
 
          親高欄
 
      跳高欄・組高欄


 
        野屋根構造
 
        野屋根実例

(2)須弥壇
 須弥壇しゅみだんは高さ床上約 2,0尺、正面 15 78尺、側面 1602尺 のほぼ正方形の規模を持ち、その前縁は堂の側面中柱筋よりも前方にはりだしている。この隅壇は普通の檀上積形式の木造須弥壇のように見えるが、本尊の台座は中央に積まれた切石の上に載 り、本造部はこの石積みを開むだけで、石済みとの間には幅約 2尺の板張りの床を別に設けたものである。壇の側廻りは正・側三面が上下の框かまち (化粧横木・障 子等の外枠)と 束つか (短柱)およびその間を開ざす羽目板 (板を平坦に張つた物)で 組み上げた木造檀上積だんじょうずみの形式(周囲に羽目石、地覆石、束石などを積み上げ上面に瓦や石を敷いた基盤)で 、須弥壇の背後に在る来迎壁の両側面の来迎柱らいごうばしら際には木階もくかい又はきざはしを備え、框かまち上に組高欄、木階両側に登り高欄を据えている。
  木階の登高欄 下端には擬宝珠柱がたつている。高欄の部材:ま 壇上積材 より新 しく、台飽だいかんなが使われてい るか ら近代 に取 り換 えられたものであろ う。しか し全体 としての本割は太く、擬宝珠の頭部がやや伸び加減で、腰の締 りも緩やかではあるが、占式を示 している。隅組手の跳ね出しも重厚で勢いがあり、当初でないに してもそれに近いものを踏襲 して作られたものと思われる。
 この側廻り部分と中心の石積との間の板床部分化、全て江戸時代以降の後補材であるため、旧規を知ることは困難である。この板床は側廻 りや中央の石積壇とは全く分離して組み立てられている。
 中央部の石積壇は、昭和修理前は凝灰岩切石を高 さ 3.8尺、一辺 11.3尺の方形に 6段整層積ぬのづみとしていた。 この石材はすべて当初の外部周囲檀上積基壇からの転用で、石の目地には少量の漆喰土が使われ、上面も漆喰土で平坦に塗り固めていた。この仕事は寛文修理時のもの考えられる。このことか ら中部は本来土壇であつた可能性が高い と推測されている。

 
      三手先組物構造
 
      三手先組物実例

4.翼廊及び尾廊
(1)翼廊
 翼廊は左右全く対称の一重 2階造の単廊形式で、中堂母屋の前端間に柱筋を揃えて南北両脇に建つ、そのため下層の梁間は中堂柱間と同 じ13尺 とする。桁行は妻柱を中堂基壇の両脇石階下端に立て、南北にそれぞれ四間ずつ延びて五間目で折れ曲がり、前方へ各二間張り出す。桁行柱間寸法は外回りではかつて、折れ曲り延長八間のうち、南北四間が各8尺 、隅は13尺で、東へ張出す部分は各 9尺と広くしている。中堂裳階柱と翼廊妻柱との距離は芯番々9.11尺である。
 屋根は本瓦葺、切り妻造りで、中堂両脇 と折れ曲がった前端部 とに破風板をつけ妻飾をみせる。隅のの屋根裏上には腰組をもつ方三間、宝形造の楼閣を置く。廊は上下層 とも各間吹放しで、屋根上の楼閣のみ四周を扉と連子窓で囲っている。
  廊の周囲は葛石かずらいし(縁取石)をめぐらせるだけで、内部は土間となり、土間より二寸上がりに円形造出し付きの礎石を据えて下層の柱を立てる。柱は円柱で直径 1.15尺 、頭貫かしらぬき.飛貫ひぬき・腰貫こしぬきを備える。腰貫は廊内を通行する便宣上、南北棟の両端間と中堂際の東西面各一間及び入隅部西端一間には通さない。飛貫・腰貫はいずれ も後補である。
 柱上の組物は外側を二手先として上層の縁葛えんかづら(縁板の一方を受ける横本)を うけ、内部は一手でその縁葛 と直交する天丼桁 を受ける。
 廊の外部を三斗みつと(斗供の最下部にある大きな方形の斗ます)と 間斗束かんとうづか (斗棋 と斗棋の間にあつて上の斗を乗せる束)の意匠を統一するため、通常ならば梁行方向の構造がそのまま現れる中堂際 と折れ曲がつた前端の妻柱筋、およびこれらと見通しになる隅の矩折かねおれの間では内部を虹梁墓股としながら、小壁の外側を他と同 じ間斗束形式に変えている点で、いわゆる片蓋造かたふたづくり (装飾 して片方だけだ した斗扶)の最古の例である。
 上層は床板上に土居盤を井桁に組に廻らせその上に柱を立てる。 周囲は内部床板 と同高の簀子縁で、その端に組高欄をおく。そのうち中堂際の妻側部分だけでは高欄の中央部を欠いて出入日風に見せ、中堂と翼廊との連絡の意を現している。上層の柱も下層と同じく円柱で経一尺とやや細い。柱盤を含めて床板から柱頂まで3尺 しかなく、上層の内部はとうてい通行できない。天丼は垂木を表した化粧屋根裏とする。
 廊の折れ曲り部の屋根上にある楼閣は、方三間、総幅 10,3尺で、中央のみ 3.75尺 とやや広くする。柱は円柱、径は 8.6寸で、廊の上層屋根裏にかけて登梁のぼりはり(水平でなく斜めに渡される梁)上に士居盤を巡 らせて立つ頭貫・内法長押・縁長押を備え、下方は柱に挿した二手先の腰組で支 えられた簀子縁がめぐる。縁長押は側面に小穴を突いて賓子縁の板掛けも兼ねている。
 内部は内法長押・縁長押・腰長押を外部と同様にめぐらせるが、床板を張 らず、また天丼もない。楼閣は昇降の出入口もなく、廊の屋根上に据えれた全くの飾である。
 浄土変相図にこれと類似の回廊・楼閣が見え、また宮殿建築では平安宮大極殿の左右廻廊に蒼竜 白 虎の両楼がつき、同朝堂院応天門の東西回廊が南折れして栖鳳さいほう。翔鸞の二閣を備えるなどの形式が、これと相通ずるものである。しかし、回廊:ま 通常単層で、鳳凰堂の翼廊の様な二階廊が我が国で立てられた先例は応天門東西廊以外、今のところ見当たらない。
(2)尾廊
 尾廊は中堂裳階背面に接して建つ、切妻造、本瓦葺の建物で、西方に7間延 びた梁間一間の板敷き廊下の形式となる。梁行の柱間寸法は中堂の中央間と同じ 14尺、桁行は接続の間が裳階柱より11.3尺 、他 は 9尺等間で、ただ後端より第二間のみ 10尺 である。後端 より第二間 と第三間は池の上に懸けられ、前端は中堂基壇上に載る。後端の妻柱筋中央に板扉を備えて出入口とするほか、側面の各間は花頭窓や格子窓をあけ、前端は裳階柱筋まで桁を伸ばして堂の背面扉口に直接連続している。
  廊の周囲には葛石 をめぐらし、円形造出し付きの礎石上に直径 1.18尺の丸柱をたてるが、後端より第三柱筋は池中に据えた丸い束石が基礎となる。中堂 との取合いは、裳階柱より、1.3尺の位置に大面取り角材があり、それより10尺間で最初の丸柱が立つ。 この丸柱は中堂基壇外面から6.0尺離れており、翼廊の妻柱位置より2.2尺遠い。柱頂は頭貫で固め、それに接して内法長押を内外にめぐらせ、やや下方に飛貫 を入れる。梁行に大引おおびき (床の構造の一部、根太を支 える横木)、桁行に根太(ねだ) (床板 を支える横木)を通して床を組み、中堂基壇上では転根太ころばしねだ (根太の強度を上げ大引を省略したもの)とする。長押下に無目むめ (柱間に収まる水平材)、 床上に無 目敷居が備わる。しかし、尾廊は明治 28年の関野貞の実測図では土間となつており、床廻りは古材も見当たらないので、床は明治修理時に新しく設けたことがわかる。
 組物は平三斗、大斗上に大虹梁を架し、二重虹梁墓股の架構で棟本・母屋桁を うけることは翼廊上層の構造と全く等しい。天丼は化粧屋根裏で、軒は二軒繁垂木ふたしげたるきとするのは同 じである。大棟は戻斗のし瓦積 (重ね積)み。後端の妻飾は二重虹梁墓股、破風板には猪目懸魚いのめげぎょをつける。

5. 中堂の建築装飾
(1)概要
 塔の外部は総体丹塗りで、肘木・斗ますなどの本口は黄土塗と、窓の連子子れんじこと高欄の横連子とは緑青で塗る。このあたりは通常の塗装であり、軒の支輪板 (折り上げ天丼を支える湾曲した竪木)に自下地を施して極彩色の蓮華 と宝相華ほうそうげ文様を描くのが装飾的であるが、類例は既に天平時代の東大寺大仏殿等にある。母屋。裳階 ともに垂木類など軒下で前方へ伸び出す部材の木口に透彫 りの飾金具を打つのも古代 の格式高い建築での常法である。四隅の隅木下面には風鐸を下げたと思われる吊り金具も残存す る。
 この堂では屋頂に金銅の鳳凰形を飾るのが異色で、外観を引き締めると同時に見る人の心を天空へ誘う演出をしている。鳳鳳は瑞鳥ずいちようとして中国では戦国時代末ころから尊重された。漢時代には鳳風を棟に飾った殿閣があつたことが文献や画像石か ら知られ、敦違石窟の壁面にも鳳鳳をのせた宮殿図がある。その影響をうけて日本でも鳳輦ほうれんゃ高御座たかみくらなどの儀式用具の屋頂に天皇の象徴として飾 られた。したがって鳳凰堂が我が国最初の例と言い、当時 目をそばだたせた装飾であつたたことは間違いない。
 また外部では現在丹塗りとなつている扉が当初は朱塗であつたことも注目される。 このように外観の装飾では天平建築とさほど変わらず、むしろその伝統をほぼ全面的に受け継いだと見られる鳳風堂も、内部は一変して豊富な色彩と華麗な漆芸による燦然たる荘厳を現出する。堂内は背面の裳階部も含めて足元の地覆長押から天丼に至るまで、床板を除くすべての部分に彩色装飾が施され、須弥壇・天蓋、格子戸には漆が塗られ螺鈿らでんがはめこまれた。現在白塗りになつている内法長押上小壁も、古くは当然壁画が存在したとみられる。
  これらの文様は宝相華文ほうそうげもん(ィンドの花文が東進につれ複雑華麗になつたもの)を主調とし、それぞれに段数の多い繧繝うんげん彩色が用いられて、従来よりはるかに豊麗かつ濃密な色相を造り出した。柱は文様帯によつて内法長押の上を一区、下えお四区、計五区に区切るが、そのうちそのうち旧状がうかがえる上方の三区では緑青を交互に配 した地いろの上にのびやかな宝相華唐草文が描かれている。
(2)彩色装飾
i建築部材の装飾
 中堂内部の、壁・扉の各面と床を全部材には、発達した繧繝彩色による優れた文様の痕跡が残存し、それは外部の軒支輸にまで及んでいる。建立当時、この華麗な彩色文様は、他の荘厳に用いられた漆箔・螺鈿・金具などの輝きと渾然と融和していたと思われる。その装飾の主題としては、当時流行の宝相華文が主に用いられている。この宝相華文は、六弁花を代表とするが、当堂では牡丹・柘榴・葡萄・蓮華などの要素を含む複雑な花型も認められ、対称形花文の中心は四弁花と六弁花を用いる場合が多く、唐草はゆるやかな曲線を描く蔓に巻込みや反転する葉を伴うことが多い。この形状は優美にして豊麗、生気さえも強く感 じられ、盛唐時代の宝相華文が我が天平時代に伝播して以来、平安時代前期を経て当代に至り始めて国風化の極に達したことを示している。
 緩綱彩色は、天平2 (730)の 薬師寺二重塔内部の装飾に見られるとおり、天平時代に置いて、すでに発達した形で伝播を受けるが、平安時代寛平四年 (892)の和歌山県慈尊院弥勒仏像連弁装飾では4種、3段ないし5段 となる。その後百六十年を経た当堂においては、経編の種類・段数。用法と,も極度に発達し、一部の部材では花文内繧繝が五種、四段ないし六段となる。
ⅱ 顔料 (色料)の特色
 当堂の彩色に使用された顔料は、模写当時の判断では、岩白群・岩群青・岩白緑・,岩緑青・朱・黄土・朱土・藍・藤黄とうおう・臙脂えんじ(つよい赤)・ 白土・墨などと、他に金・銀箔が考えられた。このように、きわめて限られたものを駆使することによって、各も華麗な彩色表現が行われていた。
ⅲ 彩色技術
 当初の中堂の彩色文様は、すべて本地上に白上の下地を施し、その上に彩色が行われている。文様の下絵付けは、念紙ねんし(日本画で、下絵を壁に写し取る紙)を用いず、白土上に溶墨をもつて自存に施されている。文様の彩色は、下絵の線描を基準としながらも、かならずしも下絵の形態によらずむしろ、それを整えつつ行っていることが彩色の剥落箇所より認められる。このため、対称系の花文であっても、寸法的には左右に大きな差異があるばかりでなく、細部の形態が全く異なる場合も多いのである。このような手法であるため、文様の形態は硬直せず、当代の特徴である高雅な趣を表すことになる。ただし、珠文には、コンパスを使用したことが認められている。
(3)須弥壇・格子戸の漆芸
i須弥壇の装飾
  須弥壇の側面三方は平塵地螺鈿へいじんじらでんで飾られていた。すなわち上下框・束・羽目板・木階は全体を平塵地とし、そこに宝相華文ほうそうげもん螺鈿 と部分的に蝶文螺鈿が嵌装がんそうされ、宝相華文の花芯には玉が点飾された。今は螺鈿は全く見る影もなく、その痕跡を残すのみであり、辛うじて北木階の最下段の蹴込み中央と左耳框の下面等に、宝相華文の一部が残つている。玉は南面の南面の螺鈿彫込み跡の中に青緑の2㎜角の破片が付着するのみで、地の平塵地も残存する部分は僅かである。
 平安時代の螺鈿技術は五種類が知られるが、須弥壇の螺鈿技術はこのうちの 「文様彫込み法」で行われている。ここでみられる螺釦技法は、まず布着せを行う。その上に螺鈿文の下絵を書き、概形を彫込む。この点が天蓋に技法と異なるところであつて、天蓋では螺鈿は初めは素地きじの上に突出するが、文様彫込み法による須弥壇では逆に螺鈿が素地に埋め込まれる。両者を技術的に比較すると、螺鈿を張り付けるだけの天蓋の技法に比し、螺鈿概形を彫り込む須弥壇の技法は、多大の労力が必要であり、その分丁寧な仕事といえる。この技法が須弥壇に行われたことは、それが最も正統的な螺鈿技法であった ことを示すと言ってよかろう。

 
    夜光貝
 
   アワビ貝
 
 螺鈿漆花文箱
 
 螺鈿漆器小箱

日本における螺鋼の発達は8世紀から始まり、その遺品は正倉院に多く蔵されるが、これらの遺品は主に工芸品に限られ、以後も文献で窺うかきり大規模な加飾が行われた形跡がなくもっぱら仏具・家具・儀杖具等の小品を飾っていたにすぎない。鳳風堂の須弥壇・天蓋のような大面積のものに螺鈿を飾るここは平等以前の遺例が 無く、法成寺造営のころから始まったのであろう。十一世紀から十二世紀にかけて螺鈿による須弥壇の荘厳はまま行われた、小規模なものである。
ⅱ須弥壇の漆技法|
 ① 螺鈿文様影込み内の木片
 麦漆 (生漆に小麦粉を混ずた接着剤)は殆ど剥離している掘り込み内に小さな本片が多数残つている。螺鈿の原材料の夜光貝は当時、高価な輸入品であつたため、原貝から効率よぐ螺鈿を採取するためには、厚さの不均一な部分も文様形に取込まざるを得なかつた。厚味調整のための木片と考えられる。
 ②平塵地螺鈿:
 十二世紀までの蒔絵の地蒔きには、塵地ちりじ、平塵地ひらちりじ、沃懸地いかけじが知られている。塵地、平塵地、沃懸地の実際の技術上の区別は、文献上明らかにそきない。いま一般的には、塵地というのは粗目の蒔絵粉を塵のように蒔きっぱなしとしたもの、平塵地というのは、蒔いた上に漆を塗りかけて研き出したもの、沃懸地は、平塵地と同様蒔いた上に漆を塗り、金、銀の粉を時き固めたものと考えられている。このうち平塵地は10世紀と考えられる蒔絵遺品にすでに使用されている 。
  一方螺鈿は「仁和寺御室御物実録」に「漆地螺鈿」等が挙げられてるが 「平塵螺釦」のような技法を示すものはまだ登場 していなく、10世紀では、まだ蒔絵螺鈿のような新技法が芽生える兆は感 じとれない。11世紀でも平塵地螺鈿に留まつていたと思われる。
 平塵地という技法は沃懸地とははつきりと境をくぎることの出来ない技法と言つてよい。 技術的には金粉を粗く蒔くか密にまくかの違いだけ、この濃淡は感覚的なものである。

 
         鳳凰(国宝)
 
        鐘(国宝)

(4)鳳凰 (国宝)          像高 (北像‐92.l ㎝、 南像‐94.3)
 鳳風堂の中堂大棟おおむねの南北両端に据えられた 1対の金錦製鳳凰で、天喜元年 (1053)鳳凰堂造立時に製作 したものと考えられる。創建以来大棟に上げられていたが、昭和 43年、大気汚染の影響を避けるため銅製の複製品と変えて本像 1対は棟 より降ろし、宝物館に保管 されるようになった。もと北にあつたものを北像、南にあつたものを南像 とする。
 南北二体の鳳鳳は、ほぼ同形同工の作である。その形姿は猛禽類をおもわせる鋭い嘴をもち、太い眉毛をもつ厳し眼つきをした風貌をし、芳珠付きの首輪をはめた頸をやや引いて前後にうねらせ、胸を張り、両翼と尾羽を大きく広げてはばたいてお り、両脚はやや開き、右足第一指を左足第一指の上に重ね、円座上に真正面を向いて直立 している。
 鶏冠・肉垂にくすい、蹴爪けづめをもつ脚、翼・尾羽など鶏の特徴 を良く捉えており、全体の姿は雄鶏おんどりを写したものと思われるが、耳・目・後髪、全身を包む鱗、首輸に結ぶ宝珠などは、竜の持つ特徴と一致しており、空想鳥らしい風格を示している。
  その構造をみると、本体は鋳鋼製で、頭部 と、頸・胴・翼・脚・台座からなる主部 と尾根部の二つの部分からなり、頭 と首とは首輸の位置で、また尾根部は尻のところで、それぞれ嵌合し、銅鋲によって留められている。また銅側面には膨らみをつけるため、尻に近い胴の両側面に柄穴ほぞあなをつくり、ここに別製の銅片を嵌めている。には銅製の毛形を付けた跡が見られ、北像の後髪に当初のものと思われる銅の毛形一本が嵌めこまれ残つている。
 台座はやや厚手で甲盛のある形をし、裏面に四カ所爪形を下向きに作りだしている。鳳凰の主体は鋳銅製であるが、―鋳ではない。胴 の内部は空洞である。脚・腿・腰などに笄こうがい (髪止め具)がみられる。両脚は蹴爪」の当たりまで、それぞれ下から鉄心をとおしており、台座の下で支軸と接続させちる。
 鳳凰の鋳造は鶏冠・肉垂など、ふくよかな表現をしており、蠟型鋳造と思われる。しかし、鳳鳳の形姿は真正面向きで、動きが無く、蠟型鋳造らしい 自由な造形性が見 られ ないこと、頭 と銅 とを一鋳 とせず別々に鋳造し、柄ほぞによつて嵌合させていること、尻脇の側板 嵌合部や尾根の接合箇所など、木造製品の木組に似た構造を示していることなど、木彫像における寄本造 を思わせる物がある。

6. 梵鐘 (国 宝) 鋼製総高 : 199,2 ㎝、 日径 123,6 cm
 この梵鐘は、従来は鳳風堂の南丘に立つ鐘楼にかけられていたが、大気汚染による錆害を防ぐため、現在は宝物殿に収蔵され、鐘楼には替わりに本鐘を模した新鐘が懸けられている。
 本鐘は総高、199.2㎝ 、口径 123.6mもある洪鐘である。全体に豊麗な装飾文様が鋳出されており、その趣きが朝鮮鐘に通ずるところから、和鐘の中で特異な存在である。鐘身は銅丈に比 して口径が大きく、豊かな張りをもたせた整斉な形姿を頂上に置く竜頭りゅうずはたてがみを立て、目を怒らせた力強い造形を示し、その鼻先の下方に撞座を置く。笠型はやや甲盛りで、圏条を巡 らしている。鐘身、宝相華唐草文を地文 とし、その上に龍・鳳凰・天人などえを薄肉に表現 した縦帯 と横帯および圏条によつて上下三段、周囲四区に分け、上段の乳の間四区には、それぞれ内郭ないかくを巡らし、中に4 7列 計 28個 の茸形お乳を付けており、合計 112個 となる。中段の池の間四区には蓮華を棒持し雲中に天衣をなびかせて飛舞する飛天の図と、華盤けばんを棒げる飛天の図との二つの異なつた図様を交互にはいしている。また草の間四区には、若方に向かって雲中を走駆する獅子の図 と、左方に向かって走駆しながら後ろを振り向く獅子の図を交互に配 している。
 本鐘は形式面からみると、笠形に圏条を具えていること、乳の間に内郭があること、、鐘身に対する鐘座の高さの比率が、33.3%と 撞座の位置が高いことなど、平安前期の特徴が認められる。しか し撞座の位置が竜頭の長軸方向と一致すること、即ち 竜頭の鼻先の下方に撞座が配さているのは、12世紀後半以降盛行する形式で新様を示すものである。また乳の形状が茸形であること、竜頭の意匠が左右の頭を合わせた上に蓮華座付の宝珠を安置することも鎌倉時代に多くみられる形式である。とすればこの梵鐘は平安時代前期の古様と後期以後の新様とを合わせ持つ過渡的傾向を示しているといえよう。
 この梵鐘は我が国の梵鐘の中でも、特に整斉な形姿を示すものであるともに、豊麗な装飾文で全体飾るところから、東大寺鐘、園城寺鐘とともに天下三鐘の一つにあげれている。このような著名な鐘であるが、無名であり、製作年代 もあきらかでない。

 
       灯籠(平等院型)
 
      藤棚(樹齢270年)

7.灯篭
 鳳鳳堂の正中線上、園池 との間に立つ。献灯のための器具である石灯篭は、このように堂の正面中央に一基だけ立てるのが古い方式である。この石灯籠は江戸時代以来平等院型 と呼ばれて名高い。基礎は京都における最古、平安時代後期最後唯下の遺品で時代の特色を良く現 しているが元来は金灯篭の土台であつたとする説が有力である。また後補ながら比較的均整のとれている竿 より上は、竿・中台・笠が鎌倉時代末期、火袋と宝珠は桃山時代 ころ、基礎は近世のものと見るのが従来の説である。

 
     観音堂(重要文化財)
 
      鳳翔館(日本芸術院賞)

8.観音堂 (重要文化財)
 表門から平等院境内に入 ると、まず 目に入るのが観音堂です。観音堂は、鳳鳳堂の東北に建つ古調を持つ建物で「釣殿」とも言われ る。七間四間、一重、寄棟造、本瓦葺、で、全体の感 じは奈良の古建築を思わせるものがある。現在、縁は無いが、もと縁が付いていた痕がある。外回りでまず注意 されるのが二棟ふたのき (垂本が上下二段になるもの、奥のを地垂木じだろきと言う)の地垂木が精円形の断面を持つことで、鳳凰堂中堂地垂木が円形断面などと同類である。柱頭は大斗だいとと肘木からなる大斗肘木の簡単なものである。内部に一間通りが外陣、その中が組入天丼の内陣、中央に聖観音菩薩立像を安置する。鎌倉初期の建築。
 平安時代の当初は、今の様な堤防も無 く、直接宇治川に面いていた本堂から回廊が伸び、釣り殿へ と続き、対岸から渡つてきた船が釣り殿にこぎつけられた と思われあす。観音堂は鳳凰堂と共に三度の大火による消失を奇跡的に免れ、その姿を今にとどめている。

9.鳳翔館 鳳翔館 日本芸術院賞、 日本建築学会作品選奨受賞
 平成 13 (2001)3 1日 開館の鳳翔館 は、国宝の美術工芸品を良好な状態 に収蔵・公開す るとともに、鳳凰堂を中心とした境内環境の一部 として整備 されています。平等院は、数々の国宝 を有するとともに、国の史跡名勝地に指定 されているほか、世界遺産 にも登録 されています。また、現存す る鳳凰堂は、建築、彫刻、絵画、工芸が一体化 し、国宝が密度高 く集積 した空間になっています。更にその周囲には国内で も数少ない浄土庭園の遺構がひろがり、建築 と庭園が融合 した歴史的環境 を今 日に伝 えています。
 経観を考慮 して、鳳翔館は鳳鳳堂に隣接した小高い丘に位置し、ボリュウムの大半を地下に配置しています。粟生明氏による設計で、地上部は高さを抑え、鳳興堂の建築要素を屋根や鉄骨梁に抽象表現 し、建築とランドスケープを一体的に計画 し、平等院境内とその周辺景観と融合できる建物 となつている。地下の展示室には雲中供養菩薩26駆 、鳳鳳 1対、観音菩薩立像、梵鐘といった国宝、重要文化財、発掘出土品なのが展示 されています。
 地上階は対照的にガラス張りの明るい空間となっていて、ミユージアムショップ、レファレンススペース、レス トスペースなどが設けられています。
 展示に置いては、国内最大と言われるガラスウォールケース (高さ5メー トル)な どを設置し、鳳鳳堂では、高所にあつてはつきりと見ることが出来なかつた雲中供養書薩などもF35近 で見ることが出来るようになりました。また施設内ではデジタル技術によつて描き出された創建当初の鳳風堂内の際限映像が 150インチスクリーンで放映され、地上階のレファレンススペースには、約 3億画素 とい う超高精細画像による国宝検索システムがあり、拝観者が自分で捜査 して最大 40000%ま で拡大 し微細な構造まで見ることが出来る。

 
    平等院庭園・史跡名勝
 
    平等院庭園・史跡名勝

10.平等院庭園 史跡名勝
(1)概要
 平等院の庭園は、鳳鳳堂の優美な姿を水面に映す仏堂前池という形式のものである。その鳳鳳堂は大きい中島の上に東向きに建っている。 しかし、いわゆる中島という感 じよりは、童の後ろまで水面がめぐっていると言つた方がふさわしい。池の汀線はゆるやかな曲線を描いているが、
 南東部が深く入り込み、東岸は中央部がやや南よりに張り出して、出島状をなしている。ここには早くから小御所と呼ばれた建物があつた。小御所の規模 は明らかでないが、池をへだてて阿弥陀如来を拝めるようになつていた。本尊の礼拝のためには、中堂に相対して真正面に建てられたはずである。とすれば、この出島は中堂の中心か らやや南に寄つており、い ささか不 自然である。従つてこの部分は、後世、池の泥上げや護岸の改修等により、形が変わつたかと思われる。
 この池は「阿字の池」と呼ばれているが、文献の上ではそう古くまで遡れない。元禄 15 (1702)の 序のある「山洲名跡志」に「堂前の池形を阿弥陀仏の種子になす。恵心僧都の所作也」とあり、安永 9 (1780)刊「都名所図会」には「阿字池、鳳鳳堂のめぐりにあるいけなり。恵心僧都の作り給う」と同様の説をのべているから、この頃か ら一般 1予 阿宇の池と言われたことがわかる。
 しかしこれらは密教的解釈による名称で、池の形が必ずしも梵字のアやバンになつてはいない。そう解釈することによって、そのように見えるということである。 ともあれ梵字池と言われるものは、おおむね単純な大らかな形をしているのが特徴といえる。これは禅宗的解釈による心字池が、出入りの多い複雑な形態を持つのとは対照的である。
 平等院庭園は数少ない貴重な平安時代の庭園である。平安時代の庭園の特徴は、庭石による造形が極めて消極的で、女性的である。石組が女性的であるためには石組みを受ける地形、即ち野筋のすじ (女性の乳房房のような形の低い築山)の起伏や池汀の輪郭も当然単純無変化でなければならないというのが平安時代の庭園の特徴である。
 現存する平安時代の庭園には、平等院庭園の他、浄瑠璃寺庭園 (京都府木津川市)、 法金剛寺(京都市)、 円城寺 (奈良市)、旧大乗院 (奈良市)、 毛越寺 (岩手県平泉市) 6か所 ある。
(2) 洲浜の整備
  平等院は平安時代後期、永承 7 (1052)に 創建 された。しかし、平等院庭園の意匠は創建は当初から大きく変容していた。そこで宗教法人平等院は創建 950年を迎える平成 14 (2002)を 目標として庭園の意匠を往時の姿に復元すると同時に 。寺宝の修理、老朽化した宝物殿の建て替え、防災施設の整備を完成させるとい う一大プロジエクトに取り組むことになつた。
 i発掘調査の成果概要 と整備方針
 字治市教育委員会による8年間に及ぶ調査の結果、創建期には中島の周囲や対岸に宇治川から採取した礫を流麗に敷き詰めた州浜が存在したことが明らかにされた。鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂の南北 2つの翼廊は当初この州浜に柱をたてて水中楼閣の様相を呈していたようであるが、のちすぐに基壇が設けられ、これに打ち寄せるように州浜がとりつく。池底は鳳鳳堂の南西部が最も高く、ここに湧き出す水は一旦ためられて二つの堰からながれていく。一つは尾廊付近で音をたてて落ち、中堂と北翼廊の背後を流れる。今一つは南翼廊の脇を静かに流れる。
 中島の周囲の洲浜は宇治川の河原石を敷き詰めた物である。石の大きさや形状は水流の上流部では大きく荒く、下流に当たる鳳凰堂前面部では丸みを帯びた扁平なものが大きな割合を占める。これは水位の変化によってあらわれる浅瀬や背落ちの姿ともども自然の河川の州浜を表している。現在も宇治川の中にこれらとそつくりな意匠を目にすることができる。浜に使用される河原石の石質は砂岩・頁岩けつがん・チャー トが主でその構成比は鳳鳳堂全面部でおよそ 5:4:1と な :つており、一定の割合で使用 されていることから、その意匠設計が綿密であつたことが窺える。特に色目石 と呼ぶ赤色チャー トが均等に蒔かれていることは特筆されよう。
 水位を含め境内全域が平安時代の生活面くより高くなつている現在、往時の遺構を露出させようとすれば境内全域の地盤 を掘 り下げなくてはならず、その排水が接続する灌漑用水をも改修する必要が生じてしまう。平安期の遺構の上部に残存する中世の遺構を保存することも考慮 され、結論 として遺構を埋め戻 し、その直情に平安期の州浜を再現するという整備方針が、整備委員会によつて決定された。整備地盤高は医構面プラス 40㎝を基準とし、州浜の勾配や汀線を極力再現し水の流れも整備すること、翼廊には基壇を復元する事 となつた。今回の整備事業では中島周辺の州浜中心に整備し、阿字池の形状復元は今後の課題 とされた。

11. 藤棚
 観音堂の南側庭園に、名物藤棚がある。平等院にゆかりの深い藤原氏に因むとされる樹齢約 2704本の藤の木が400平方メートルの藤棚にびつしりと枝が張り、毎年5月初旬には 1メ ー トル前後の紫色の花房が多い年では約一万五千個垂れ下が り、参拝者の人気を集めている。

 
         扇ノ芝
 
        源頼政の墓

12. 扇の芝と源頼政の墓
  治承 4 (1180)5月、源頼政と以仁王もちちとおうは諸国の源氏 と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を作成し、源行家を伝達の使者 とした。だが 5月 にはこの挙兵計画は露見した、危険を感じた以仁王は園城寺ヘ脱出した。 5 21日 に平氏は園城寺攻撃を決めた、頼政は自宅を焼くと一族を率いて園城寺に入 り、以仁王と合流 した。挙兵計画では、円城寺の他に延暦寺や興福寺の決起を見込んだが、延暦寺は中立を保つて動かず、危険を感じた頼政は、25夜、頼政は以仁王 とともに南都興福寺へ向かうが、夜行の行軍で以仁王が疲労して落馬したため、途中の宇治平等院で休息をとつた。 そこへ平氏の大軍が攻め寄せた。
 26日に合戦になり、頼政軍は宇治橋の橋板を落して抵抗するが、2 8千の平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は以仁王を逃すべく平等院に立て籠もつて抵抗するが、多勢に無勢で、子の伸綱や宗綱や兼綱が次々と討死し、頼政も辞世の句を残 し、境内に軍扇を敷いて 自刃したと伝え、その地は「扇の芝」として平等院境内に記されている〔享年 77歳 辞世の句埋 もれ木の花咲 く事もなか りしに 身の成る果てぞ哀れなりける。
 以仁王は脱出したが、追いつかれて打ち取 られた。 以仁王と頼政の挙兵は失敗したが、以仁王令旨の効果は大きく、これを奉 じて源頼朝 。義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承 。寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる。
 源頼政の墓は、最勝院境内南側の入口の左手奥に塔が建つ。 石造宝筐院塔、高さ約 2m、江戸時代のものと言われる。
 
                   [3]寺宝
                A.像

 
             阿弥陀如来坐像(国宝)・定朝作

1. 阿弥陀如来坐像 (国宝) 座高 278.4㎝ 定朝作
 丈六しようろくの阿弥陀如来坐像 阿弥陀の定印じよういんを結び蓮華坐上に結跏趺座けっかふざ (最も尊い座り方、両足を組合せ、両膝の上に乗せる)する阿弥陀如来坐像で、顔の造りは限りなく円満そのものである。漆箔うるしはく、桧材、寄木造で、我国平安時代仏像の最高峰をしめしている。
 正面から見ると相好円満といわれるように満月形をしているが、横顔をみると、頬に穏かな張りがあり、慈悲深く、優しい眼差しのなかにも仏の威厳を称えている。
 天喜てんぎ元年 (1053)2 19日 の夜中丑うしの刻 (午前 2)京都を出発した像高 3mに近い阿弥陀如来坐像が新たに造営された宇治の平等院阿弥陀堂に正午ころやつとたどり着き、その仏壇に安置された。
 これが現在の鳳凰堂本尊阿弥陀如来坐像である。その距離およそ15kmの道程を 10時間ほどで運んだのは、徒歩で人が4時間かかるのにくらべて、これだけ大きな仏像を便利な輸送手段のない平安時代の音に、予想外の速さで運んだとおもわれるが、実はこの仏像内部を広く内割しているので、見掛けより軽く出来ているためである。
 この日早朝仏壇に魔障が入り込まないよう園城寺前長吏大僧正明尊によって真言が唱えられた。そして盛儀に参列 した人々が待ち受けていた本尊いよいよ仏壇上に安置されると、この仏像の周りを行道ぎようどう (列 を作って読経 しながら本尊や仏堂の周りを右に回って供養率L拝すること)が行われ、業人たちが参入 して妙なる雅楽が吹奏 されるうちに、この仏像の作者である仏師法眼定朝ほうげんじょうちょうに柳色の直垂ひたれ(衣類)一領が賞として贈られたと定家朝巨の日記にきされている。寺伝で定朝作の仏像の数は大変多いが、史料的に定朝作と判明できる唯一の像である。
 丈六は一丈 6 (30,3cm×16≒ 4851n)の 略でおよそ 5mだか ら、丈六像は、像高 5mのことである。 坐像の場合は、丈六の像が座るとその半分になり、像高 8尺の坐像を丈六像という。ところが丈六の計り方に色々あり、正しくは髪際はくさい(髪の生え際)から計る。 このような丈六像は特に法丈六 と呼ぶが、平等院の阿弥陀像はまさに法丈六像なのである。この大きさの仏像は 、奈良、鎌倉の大仏のような特殊なものを除けば、日本で最大級の仏像である。
  定朝はこの寄木造を大成した仏師 として知られている。 このような寄木造の技術は、定朝を待たずにすでにその師の康尚こうしようがもちいた形跡がある。 京都東福寺塔頭同どう・じ いんに康尚作と言われる不動明王坐像は 、寛弘かんこう3 (1006)に 藤原道長が旧 法性寺に建立したものとつたえられる。 この仏像の木の寄せ方も鳳凰堂の阿弥陀像 とほぼ同様である。 定朝の寄木造りが康尚の寄本造りと異なる点,ま 、内割が一層発達 し、しかもそれが平滑に仕上げられ、仏像の表面も内側もともに一層美しく整えられた。
 定朝によって始められた仏像の形式を定朝様 じようちようようと呼ぶが、それは、荘厳具を含めた仏像全体をみる優美な形をさしていう。 特にその仏像の整ったプロポーションを意味する場合が多い。それが天平彫刻と 異なるのは、同じく均整美を表現 しても、天平彫刻は 男性美を狙い、定朝は女性美を狙 つたと区別することが出来る。
 阿弥陀像の一つ一つを眺めてみよう。肉警にくけい (頭の頂上の肉の盛り上った部分)はおおきく、螺髪らはっ(巻員の様な形の粒を並べた髪)に細かく整然と並ぶ。顔は満月のように丸く、頬は穏やかなはりがあり、日は半眼で、比較的大きく見開き、拝する者に慈悲のまなざしをそそぐかのように、美しく弧を描く眉、適度の肉付きを施した鼻、口など、顔の造作は、いずれも理想に近い形にまとめられている。 体にまとう衣のひだは、穏やかな起伏で穏やかにながれ、膝のひだは、膝頭では全く見えず、やがて徐々に数本の大きなうねりを表し、足に至って、浅く細い線となってまとめられる。左肩から下がる衣のひだも同じよう起伏を作って下肢部を経て右脇下に流れている。 胸のふくらみと、両肩のはり方は、いずれ も極端をさけ、頭部に比べると体の奥行浅く、正面観を主にした形である。膝は左右に低く長く伸び、穏やかに結跏趺座けっかふざする。日本人好みの自然的なやさしい仏一いわゆる和洋の仏像が完成したのである。

 
    阿弥陀如来坐像近正面
  
     阿弥陀如来坐像側面

定朝によって始められた仏像の形式を定朝様 じようちようようと呼ぶが、それは、荘厳具を含めた仏像全体をみる優美な形をさしていう。 特にその仏像の整ったプロポーションを意味する場合が多い。それが天平彫刻と 異なるのは、同じく均整美を表現 しても、天平彫刻は 男性美を狙い、定朝は女性美を狙 つたと区別することが出来る。
(1-1)鳳凰堂内部 と阿弥陀如来 (国宝)・ 定朝作
 阿弥陀像の一つ一つを眺めてみよう。肉警にくけい (頭の頂上の肉の盛り上った部分)はおおきく、螺髪らはっ(巻員の様な形の粒を並べた髪)に細かく整然と並ぶ。顔は満月のように丸く、頬は穏やかなはりがあり、日は半眼で、比較的大きく見開き、拝する者に慈悲のまなざしをそそぐかのように、美しく弧を描く眉、適度の肉付きを施した鼻、口など、顔の造作は、いずれも理想に近い形にまとめられている。 体にまとう衣のひだは、穏やかな起伏で穏やかにながれ、膝のひだは、膝頭では全く見えず、やがて徐々に数本の大きなうねりを表し、足に至って、浅く細い線となってまとめられる。左肩から下がる衣のひだも同じよう起伏を作って下肢部を経て右脇下に流れている。 胸のふくらみと、両肩のはり方は、いずれ も極端をさけ、頭部に比べると体の奥行浅く、正面観を主にした形である。膝は左右に低く長く伸び、穏やかに結跏趺座けっかふざする。日本人好みの自然的なやさしい仏一いわゆる和洋の仏像が完成したのである。
(1-2) 阿弥陀如来坐像の光背[二重円相部] (国 宝)総高330.3cm
 定朝によって創案されたと伝えられる形式に、光背では、飛天光、台座では七重蓮華座が挙げられる。飛天光とは、胴の後ろにある円形の身光 (光背の一種、仏像の背後にある光を造形化した長楕円形の装飾)、頭の後ろにあたる円形の頭光ずこうを重ねた、いわゆる二重円相光背を中心とし、そのり調囲の縁光部に飛雲形 (後補)を散し、その頂上に大日如来 (後補)、左右に天衣てんね (肩 にかける帯状の布)を上方に翻して舞う 12体 の飛天 (た だ し、この うち6体 は当初の像、他は後補)を取り付け、全体の型は先の尖つた縦に長い優美な舟形とした形式である。
(1-3) 月輸および蓮台 (国宝附つずし) 総高 18.8cm
 七重蓮華座 とは、上から蓮華座、敷茄子なす、反花かえりばな、框座かまちざよりなる古代以来の台座を二つ重ねたような形式で上から蓮華座、上敷茄子、華盤けばん、下敷茄子、受座、反花、・~座 の順で構成されている。れはともに定朝の創案 とはいえないが、その形式が完壁に整つた形式に完成 されたのは、定朝による。
 月輸は、本尊阿弥陀如来坐像の像内に納入されていた、梵字で阿弥陀大呪及び小呪を記 した白色の円盤 とそれを安置 した華麗な蓮台であるこ円盤は、密教で言う心月輸しんがつりんに相当す るものである。
(1-4) 阿弥陀如来座像の天蓋 (国宝)
 天蓋もまた類のない見事なもので、その本体は、漆地に金箔を貼つた長方形天蓋 と円形天蓋を組合わせた形式である。しかし、下から仰ぐと長方形天蓋の天丼の折上小組格天丼と本堂内陣の格天丼が重層になり建物 と一体 となつた一層豪華な天蓋を形成 している。
 長方形天蓋は四辺に宝相華ほうそうげ (空 想上の花模様)を透彫した吹返板ふきかえしいたを斜め上向きに上げるとともに宝相華唐草文 (宝相華を混ぜた唐草文様)を透彫 した垂板を下げる。
 円形天蓋は中心に鏡を置いた人弁の蓮華があり、その周囲に透彫宝相華唐草文を配 し、さらにその周囲に斜め上向きに透彫宝相華唐草文の八葉形吹返しをつけている。

 
    雲中供養菩薩南2号
 
    雲中供養菩薩北262号


 
     同南1号
      同南4号  
     同南12号


 
     同南17号
 
     同南20号
 
     同北10号

2. 雲中供養菩薩諸像 (国宝)
 ① 南 1 17 10
  鳳凰堂の本尊阿弥陀像を安置する母舎もや (庇を除く部分)の 長押なげし上の小壁に、二段に配置された小菩薩の群像である。 52 (2008年に追加指定された 1体を含む)全てが国宝に指定されている。いずれも雲にのり、あるいは阿弥陀を讃嘆 し、あるいは奏楽し、歌舞する姿を、上半身を丸彫、下半身と雲を浮き彫に彫刻していた。すべて桧で、一本造、寄木造りである。各像のポーズは変化に富み、琴,琵琶、縦笛、横笛、笙、太鼓、鼓、鉦鼓などの楽器を奏する像が27体あり、他には合掌する者、幡や蓮華などを持つ者、たって舞う者などがある。 菩薩形の像が主だが、僧形の像も5体ある。本尊阿弥陀如来坐像と略同時代の作とされるが、補修はかなり多く、頭部が明治時代の修理で補修されるもの、像全体が鎌倉時代の補修であるものが各数体ある。現在52体だが、当初何体あつたかは定かでない。52体のうち半数の26体は鳳翔館に移されている。
 ① 雲中供養菩薩像南 1号 国宝 平安時代 木造 像高 62.lm
 飛雲 上の蓮華座に右膝を立てて左膝をつき、両手で拍板はくばんを奏でる菩薩をあらわす。目鼻立ちは古様である。拍板とは10数枚の小板を重ねて紐で結び、両手でうちならして拍子をとる占楽器である。
 ② 雲中供養菩薩像南 17号 国宝 平安時代 木造 像高 72.l cm
 右膝を立てて安座し、右手の肘を曲げて掌を見せ、左手に未敷蓮華みぶれんげを持つ姿である。頭部の天冠台上に他の菩薩には見られない豊かな頭飾りを表し、衣の処理の仕方なども卓越した技量が窺え、本群像製作の指導的な立場にあつた人物の作になるものであろうと指摘されている。
 ③ 雲中供養菩薩像北 10号 国宝 平安時代 木造 像高 87.O cm
 飛雲の上の蓮華座に腰を左に捻り右足をかろやかに浮かして立ち、こちらに背中を見せて微笑顔を右に向け、右手に機ばちをとり、左手に大衣てんねを掴んで舞う姿をあらわす。鳳凰堂の柱絵の中にも同様の姿の書薩が描かれていつ。
 ④  雲中供養菩薩像南 21号 国宝 平安時代 木造 像高61.2 cm
 飛雲の上に左膝を立てて安座し、両手で笙しようを持して奏する菩薩である。他の書薩像に比べて天冠台上の前面に頭飾 と花飾、両側面に花飾りを豊かにあらわしている。像の背後に「金岡1光」と墨書があり金剛光菩薩あるいは金岡1光明菩薩として造 られたことがわかる。
 ④南21 12 2
 ⑤ 雲中供養菩薩像南 12号 国宝 平安時代木造 像高 50.9
 雲中供養菩薩像のうち、僧形が 5躯存在する。そのうちの一つで、雲上にのり合掌す る姿にあらわされるが、指が見えないのは衣で蔽われているためである。わずかながら衣に裁金きりがね文様、顔の部分に肉色を表す丹の具がまだ残つており、当初の華麗な姿が しのばれる。
 ⑥ 雲中供養菩薩像南 2号 国宝 平安時代木造 像高 59.7
 天蓋を捧げる菩薩である。丸彫りした頭を胴に差し込み、体部は左上下膊かはく・右上膊じようはあく。雲正面部分まで縦一材でつくり、背刳せぐり(背面から内刳す ること)し た うえで背面に背板をあてている。首を右にか しげ、右膝 を少 し浮かせ、飛行する雲の上で軽やかなバランスを取つているさまが、いきいきと表現 されている。
 ⑦ 雲中供養菩薩像南 20号 国宝 平安時代 本造 像高 77.3
 飛雲の上に立ち、軽やかに舞う菩薩像である。頭・両手下膊半ばまでの体全部・下方の雲 (雲尾を除 く)を含めて縦一材でつくり、両肩を割矧わりはいだうえ、頭 と体を割矧ぎ、体部は雲まで通 して、頭部は耳の後ろを通る面でともに前後に割矧ぎ、各部を内刳うちぐりしている。ここに割矧ぎというのは、初め一本で製作した仏像の各部をいつたん割り、千割ひわれを防ぐため、内部を内刳したあと、また各部各部を接合するやり方で矧目はあるが別財を寄せる寄木造りとはちがつている。裳背面に「満月」と読める墨書があり、この菩藤の名を書いたものと思われる。
 この菩薩の穏やかなに整つた秀麗な顔・腰を経て足先に至る二段の美しい曲線のながれ、両手で天衣を持ち、左あしを軽く上げ、腰を右に捻つて、しなやかに舞う一分の隙もない身のこなし方などには、定朝一門の名だたる名仏師の作品と推定されるみごとな彫技が認められる。
 ⑧ 雲中供養菩薩像南 4号 国宝 平安時代木造 像高 606 cm
 金属製らしい楽器を打つ菩薩である。上半身は丸彫、左腰以下は板状になり、左を向いて雲に乗る。頭は前後矧ぎで胴に押しこみ、体は両足下で雲まで縦一材で作り、前後に割矧いで内割する。斜め上を見上げた下膨れの顔には、いかにも妙なる楽の音に陶酔 しているかのような表情が浮かび、両膝を揃えて座る斜め向き下半身の奥行き感を、巧妙な技術で彫りだしている。
 これも雲中供養菩薩中屈指の名作に数えられるであろう。背面に「金剛薩」の墨書があり、この書薩の名 と思われるが、これを金剛菩薩薩とする説と金剛薩睡さつたとする説がある。
 ⑨ 雲中供養菩薩像北 26号 国宝 平安時代木造 像高 62.0
 太鼓を打つ菩薩である。頭 と体を左上膊 。右足およびその下の雲を含めて縦一材で作り、頭と体を割矧わりはぎ、体も前後に割矧いで内刳うちぐりしている。太鼓は別の雲に乗つて菩薩の前を飛ぶ。壁扉画のうちにも太鼓を打つ菩薩が描かれているので、この菩薩も来迎する聖衆の一つなのであるろう。雲中供養菩薩のなかには、定印を結んで瞑想する密教像としての阿弥陀仏を讃嘆供養する菩薩もあるであるうが、この例のように、来迎する聚衆としての菩薩も多いように思われる。

 
    十一観音菩薩立像
 
    地蔵菩薩立像
 
    不動明王立像

3. 本造十一面観音菩薩立像 (重要文化財)像高 167.6
 観音堂の本尊で、頭上の小面 と合わせて顔が十一面あるところか ら十一面観音 と呼ばれる変化観音の立像である。観音立像 には、直立像 と腰を捻じって片足を浮かせる姿の二通りがある。前者は天平時代の乾漆像かんしつぞうに多く、後者は平安時代から始まる木彫もくちょう像に多いと言える。この観音像は右足を少し浮かせ、腰もそれにともなつて少し左ヘ捻じつているが、ほとんど直立した姿で、どちらかと言えば前者の形に近い。その上、軽くうねって延びる上瞼・突き出した小さな唇、みずみずしい頬の張り具合、肩幅が広く両腕を外に張り出して豊かな胸を見せる上半身の表現などは、この付近にある観音寺 (京田辺市三山木)の平安時代の十一面観音とよく似た奈良様の観音像の特徴が現れている。この観音像は観音寺の十一面観音と同様童顔だが、観音寺像が若々しい気分の内に、慄然たる威厳と力強さを示しているのに対して、これはあくまで優しく可愛らしく、藤原彫刻の特徴を発揮している。おそらく鳳風堂創建当時に近い製作であろうが、鳳凰堂阿弥陀像とは違う奈良系.仏師の製作と思われる。

4.地蔵菩薩 像高 165
 観音寺に安置されている像で、体が著しく細く、両腕をぴつたり体の側面にくつつけて、窮屈そうに直立している。これは両腕まで一材から彫出したためで、背面下半身に内刳がある。表情に引き締まつたところがあり、また下半身がx状に流、そのひだが、翻波式ほんばしきといって、大小の波を交互に繰り返し、しかもその波に縞がたつている点などに、古い形式の名残りが認 められる。10世紀末の製作であろう。

5.不動明王像 平安時代 本造 像高 87.9 cm
 観音堂に安置されていた不動明王立像で、巻髪として頭長に莎髻しゃけい(莎は植物の名、髻はもとどり)があり、左目を眇すがめ、日を硬く結んで左上牙、右下牙とし、右手を屈臂くつびし(ひじを曲げる。臂は肩から手首までの部分)して剣を握 り、左手羂索を下げる姿にあらわされる。桧の一本造で内刳を施さず、両腕は別材を矧ぐ。典型的な天台宗系の不動明王であるが、伝来を明らかにしない。ただ平安時代以来平等院の執印には園城寺や延暦寺系の貴顕の僧侶が任 じられていることを考えれば、平等院伝来の仏像と考えてもよかろう。

B.絵画.


   九品来迎図・上品中生図(模写) 
 
  九品来迎図・上品下生図(模写)


1. 九 品来迎図 (国宝)
 鳳凰堂の扉と板壁に有名な九品来迎図が描かれている。その配置を見ると、正面 (東側) 3つの扉に上品上生 (中央)、上品中生 (北より、正面内側から見て向かつて左入 口扉)。上品下生 (南より、正面内側からみて右入口扉)3図 、北側側面に中品上生 (東とり入口扉)。中品中生 (中央板壁) 2図 、南側側面に下品上生・下品中生の2図 が各図上に設けられた色紙形の賛によって知ることができる。中品下生図があるはずなのに、現在何処にも見当たらないが、下品下生図を描いた本尊後壁裏側の剥離がひどく、現在下品下生図の色紙形のみ辛うじて認められる程度であるところからみて、もとは下品下生図と並んで中品下生が描かれていたのであろうと思われる。
 いずれにしても長年の汚損剥離に加えて、無数の心無い落書きのため、その絵柄が極めてわかりにくくなつている。しかし、幸い上品中生 。上品下生 。中品上中生下上品上生図の四扉絵は、近年、松元道夫氏によつて復元模写図が完成した。
 原図と模写図とを並べてみることによつて、鳳昌堂創建当時の壮麗な扉絵の様子を街彿と思い浮かべることが出来るであろう。扉は現在模造品に代わり、当初の分は取 り外されて収蔵庫に収められている。[1] 上品中生図 (国宝)374.5㎝× 106.6
 九品来迎とは、人が生涯に果たした善根の多生に応じて、阿弥陀如来の来迎の仕方に九種あることをいい、これを上品上生じようぼんじょうしよう、上品中生じょうぼんちゆうしよう、上品下生じょうぼんげしよう、中品ちゆうぼん上生、中品中生、中品下性。下品げぼん上生、下品中生、下品下生の九種に別れるのである。現存する扉絵 と壁面にようと、観無量寿経 (以下観経と略す)に説く9種の来迎の仕方を忠実に描いたとは思われず、阿弥陀聖衆の聖衆の数はほぼ二十体くらいで、あまり変化は見られない。
 東側正面にある三組の扉の中央には上品上生で、江戸時代の補作である。上品中生図には、阿弥陀聖衆の来迎する様が描かれている。谷間をぬって来迎する角度は急だが、 阿弥陀如来聖衆の姿勢はゆったりとして、来迎院を結ぶ阿弥陀如来と、雲中供養菩薩のように奏楽 し讃嘆供養する優婉ゆうえんな菩薩群を描く。左端上部に色紙形があり、ここに観経から引用した上品中生の要文をかいている。筆者は源兼行と推定 されるが、兼行は当代第一の能書であった。

[2]上 品下生図 (国 宝)375 ㎝×93.5 cm
 阿弥陀聖衆が往生者を迎え取って極楽に帰る「帰り来迎」を小さく描ぃている。阿弥陀は横向きで、極楽にさして先頭を飛び、その後ろに金色の大きな未敷みぶ蓮華が見える。その回 りを菩薩 と僧形がとり囲み、これに続いて多くの奏楽の菩薩が天衣てんねを翻してじようしようする。この未敷蓮華こそ来迎のとき観音が蓮台で、往生者を迎えると、その蓮華が閉じて未敷蓮華となり、虚空を飛んで極楽世界に到達すると、阿弥陀聖衆の前にある蓬池か ら生えだして花を開き、そこから往生者が赤ん坊になつて新生する。
 下界は上方に大和絵独特のさざ波のたつ大海原が描かれ、その下に群青 と緑青の穏やかな山波 と緑青の樹木が幾重にも続き、高く聳える松などを点在させる。往生者の去った家は、瓦葺屋根の下に見える草葺の家屋で、半蔀はじとみを引き上げたままひつそりと静まりかかえつてまつていた。

 
   九品来迎図・中品上生図(模写)
 
   九品来迎図・下品上生図(模写)

[3]上品中生図 (国 宝)374.5 cm× 106.6 cm
 逢かに見える山の尾根に沿うように徐々に表れた阿弥陀聖衆が、蛇行しながら斜め右下方向に向かつて来迎する様を描いている。恵心僧都 の描いた来迎図には、僧形が多く菩薩が少ないといわれる。上品中生図には5人 、下品上生図には4人を数え、この図にも阿弥陀の後ろに僧形 4人を数える。阿弥陀聖衆の総数は 20人程だが、僧形が多いとは言えない。
 阿弥陀の剥離は特にひどいが、幸い顔・胸。右手が残り、当初の美しさを想像することができる。聖衆の様々な姿態は事に美しく、上方に翻る天衣のする様も見事である。観音、勢至は先行し、すでに往生者の家の軒先近くに到着していた。家は寝殿造で、御簾みすを垂れれているので、往生者の姿を見ることが出来ない。

[4]下置:上 生図 (国 宝)374 cm×X 136.cm
 左方向に向かつて山の尾根伝いに降下した阿弥陀が画面左端で向きを変え、斜め右 下方を指 して来迎する様が描かれている。この来迎図はこれまでの扉絵の来迎図がすべて急角度で来迎しているのに比べると、その角度はゆるい。阿弥陀の表情は特に女性の様に優しく美しく、聖衆もまたあでやかである。そのうえ、阿弥陀の光背には切金文様の残るのが認められ、来迎図に関する限り、中品上生図よりも出来まえも保存もよい。阿弥陀のすぐ上で太鼓を打つ菩薩の姿は、長押上の雲中供養菩薩に同形の書薩があるのを思い出させ る。往生者は烏帽子をかぶり、仰向けに寝て合掌し、必死に念仏を称える様子で、阿弥陀か ら出た光が往者を指している。枕元に巻物を棒げた一人の僧が座り、几帳の陰に一女性の悲しむ姿を描いている。兼行が書いた色紙形の下品上生の観経要文によると、
 「下品上生とは、あるいは衆生あつて、衆もろもろの悪行をつくつて断愧ざんき(自分の言動を反省 し、恥ずかしくおもうこと)あ ることなし、命終らんとするとき、善知識の大乗十二部経の首題名字を讃ぜんとするに遭い、かくのごとき諸経の名を聞くをもつての故に、千劫極重の悪業を除却す。知者また教えて合掌叉手しやしゆ(歩く時の手の作法。左手を、親指を内にして握り、手の甲を外に向け、胸に軽くあてて右手の平でこれを覆う)し 、南無阿弥陀仏を称せしむ、仏名を称するの故に、二十億劫生死の罪を除く、その時彼の仏、即ち化仏・化観世音・化大勢至を遺わして、行者の前に至らしめ、讃えていう、善男子よ、汝仏名を称するの故に、諸罪消滅し、我汝に来迎す、かくのごとき語なし終り、行者即ち化仏を見れば、光明その室に遍満す、見終わつて歓喜し、即ち命終り、宝蓮花に乗り、彼仏に随つて後に、宝池中に生る。」
 とあり、瀬死の男が僧に進められて、合掌して南無阿弥陀仏を唱えている。しかし、観経では悪人の往生を説く下品の三生のいずれも阿弥陀の直接の来迎を解かないのに、この上生と中生とが、ともに阿弥陀聖衆の来迎を描いている。しかし、この来迎図の最後尾に、合掌する二菩薩をしたがぇた、もう一体の阿弥陀が、雲の上に描かれているのをみのがすことができない。この阿弥陀は両手を胸前で組、その上に衣をか:す ているので、これが化仏を表すものとわかる。従つて、この三尊は色紙形の観経要文が説くところの化仏・化観世音・化大勢至を表し、華やかに描かれた阿弥陀聖衆が、実は化仏・化観世音・化け大勢至の如来で象徴的に表現している。

 

参考文献
*古寺巡礼   京都8・平等院 著  者 宮城宏     発行所 株式会社淡交社
*新版古寺巡  京都13・平等院 著   杉田博明     発行所 株式会社淡交社
*平等院大観第一巻建築     編集者  太田博太郎多 発行所  ()岩波書店
*平等院大観第二巻彫刻      編集者 西川新次‐‐ 発行所 ()岩波書
*平等院大観第三巻絵画     編集者  秋山光和    発行所
*平等院庭園における洲浜整備  著  者 仲 隆 裕 
 

 

 

 


















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