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                              京都・朱雀錦
(24)世界遺産・宇治上神社


世界遺産・宇治上神社(国宝)

宇治上神社 所在地 京都府宇治市宇治山田59
          御祭神 兎道稚郎子うじのわきいらつこ、応神おうじん天皇、仁徳にんとく天皇
宇治神社  所在地 京都府宇治市宇治山田1
      御祭神 兎道稚郎子うじのわきいらつこ

          1.宇治上神社及び宇治神社の概要
 当地は兎道稚郎子うじのわきいらつこの離宮(皇族の居住)「桐原日桁宮きりはらひけたのみや」があった場所とされている。神社としての創建年代は不詳である。平安時代、現在の宇治上神社と宇治神社を合せて宇治鎮守明神、離宮明神、離宮社とも称されていた。
 藤原頼道は、父道長から貰い受けた、宇治の別荘を平等院に改造すると離宮社(現在の宇治上神社及び宇治神社)を平等院の鎮守社として祭った。
  平安時代、離宮社の祭りは、平安貴族の援助もあり、盛大であったという。右大臣藤原宗忠の「中右記」長久ちょうきゅう2年(1133)5月8日に「末刻ばかりに、平等院透廊すいろうに行き向い見物す。座女・馬長うまおさ・一物ひとつもの・田楽。散楽さるがく、法のごとし」とその光景を記している。 この日だけは、都の貴人にとどまらず近在の郷民も祭礼見物に寄り集まり、宇治の地は貴賎をまじえて大いに賑わった。宇治川の川瀬には数千艘の小舟が浮かぶ様は壮観であったという。当社の祭礼である離宮祭は、田楽等の芸能が催され、平安後期から鎌倉時代に多くの人々が集まり大いに賑わいました。
 世が移り、平等院と藤原氏との関係が薄れてくるにつれて、離宮社も再び、地域の鎮守として地味ながら着実に歩んでいくことになった。宇治上神社はもともと離宮上社と称した。南に接する宇治神社はかっては離宮下社といった。両者は離宮社と総称されることもあるが、上社は、宇治川下流の中洲填島の、下社はその上流の宇治川を氏子の圏域とし、それぞれの歩みを続け、ともに明治になって社名を宇治上神社及び宇治神社に改めた。
 離宮社の後進である宇治上神社が再び脚光を浴びるのは、平成6年(19941217日「古都京都の文化財」の一つとして平等院とともに世界遺産に登録されてからである。

                        2.各祭神の概要

 
        兎道稚郎墓
 
          同左

(1)兎道稚郎子うじのわきいらつこ
 兎道稚郎子(生年不詳~312)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族、応神天皇の皇子で、母は和珥わに日触使主ひふれのおみの娘宮主宅媛みやぬしやかひめである。百済から来朝した学者で後に帰化した阿直岐あちき・王仁わにを師に典籍を学んで通達し、父の応仁天皇から寵愛された。応仁天皇40年(309)1月に二人の兄である大山守おおやまもり皇子と大鷦鷯尊おほさざきのみことを差置いて皇太子となった。翌年に天皇が報じたが、太子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに王位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったその処遇に不満を抱き、太子を殺そうと挙兵する。 大鷦鷯尊はこれをいち早く察知した。 太子は計略をもって皇子の軍をさけたが、逆に皇子は河に落ち流され没した。

 その後太子は、宇治に宮室を建てたものも皇位に就かず大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年。 永らくの空位が天下の災いになると思い悩んだ太子は互譲に決着を期すべく、自ら果てたとされている。兎道山上に葬られた。明治以降兎道丸山古墳(前方後円墳・全長80m)を兎道稚郎子の御陵と定め宮内庁の管理下にあるが、この地は宇治川右岸に近接していて「山上」と呼ぶに相応しなく、いまだその所在は不明である。
1-1)宇治の名称
 名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている。『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。
 地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ[3]、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られている。現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている。なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある。
1-2)系譜
 菟道稚郎子は、『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇と和珥氏わにうじ祖の日触使主ひふれのおみの娘 の宮主宅媛みやぬしやかひめとの間に生まれた皇子である。
 応神天皇と仲姫命なかつひめのみこととの間に生まれた大鷦鷯尊おおさざきのみこと:仁徳天皇)は異母兄にあたる。なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。
 第10代崇神すじん天皇 → 第11代垂仁すいにん天皇 → 第12代景行けいこう天皇
日本武尊やまとたけるのみこと 第13代成務せいむ天皇
14代仲哀ちゅうあい天皇
15代応神おうじん天皇
16代仁徳にんとく天皇 大山守王子 菟道稚朗子 稚野毛二派皇子わかぬけふたまのおうじ
18代履中りちゅう天皇 第17第反正はんぜい天皇 第19第允恭いんぎょ天皇 意富富杼王
市辺押磐皇子 
 (2)応神天皇
 第15代天皇 在位270年2月8日~310年3月31日 父仲哀天皇、母神功皇后。
 実在性が濃厚な最古の天皇。 神功皇后の三韓征伐の帰途に宇濔うみ(福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされている。 応神天皇元年(270)に71歳で即位、同41年(310)に111歳で崩御。 皇居は軽島豊明宮かるしまのとよあきらのみや(現在の奈良県橿原市大軽町)。皇后・妃は11人、皇子皇女は23人。
(3)仁徳天皇
 第16代天皇 在位;仁徳元年1月3日(313年2月14日)~同87年1月16日(399年2月14日)。 応神天皇の第4皇子。 母は品陀真若王の娘・仲姫命なかつひめのみこと
 皇居は難波高津宮なにわたかつのみや(現在の大阪市中央区)。
 人家の竈かまどから炊煙が立ち上がってこないことにきづいて租税を免除し、その間は倹約のために屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政としてしられる。

                3.宇治の地
 今からおよそ1万年前、日本列島は静かで大きな一歩を踏み出そうとしていた。 それまでは気候の変動が大きく、寒冷期には北方の大陸や高い山地は厚い氷で覆われそれにあわせて、海水面が100メートル前後も上下し、まわりの海の範囲も伸縮を繰り返していた。 また地盤の変動や火山活動も著しく瀬戸内域が陥没して海になり、反対に六甲山地が隆起するなど、大地は激しく変動した。 それらの変動が一段落し、山や海がほぼ現在の様になり、日本列島の原型が造られた頃大地の歴史がはじまった。
 現在大阪湾に注ぐ淀川は、西日本で最大の河川である。 近畿地方の主要な平野は、大和水系に属する奈良盆地以外、殆どが淀川水系にぞくする。 その中で最もかなめの位置にあるのが山城盆地である。 淀川の源流は大きく分けて、北の丹波山地、東の琵琶湖を中心とする近江盆地、その南の笠置伊賀山地の三地域にあるが、山城盆地は、各々の源流から流れる桂川・宇治川・木津川が淀川本流として大阪湾に注ぐ前にいったん合流する場所であった。
 三つの河川は盆地西端の天王山と東端の男山丘陵の間に開いた狭い出口で合流したが、広大な流域の水を集めるのには狭すぎ、河川が氾濫し盆地中央部に湖水が再現されることがあった。 さらにこの三つの源流には明らかな性格の違いをもっていた。 すなわち比較的短い流れの桂川など丹波山塊から下る川は、盆地北端への出口に砂礫を扇状地を形成した。 これが現在の京都市街地である。 一方、笠置や伊賀の山から下る木津川は盆地南端から川沿いに南山城の広い平野を造りだした。 これに対して宇治川は流域面積は広いものの全ての源流が一旦琵琶湖に流入し、その湖盆から溢れた水で河川水に含まれる土さは少なく、平野を作り出す力はそうたいてきによわかった。
 
宇治川の流路周辺は盆地で大量の水が滞留全体に広く浅い遊水池を呈したこれが巨椋池である。やがて氷河期の名残りも消え、暖かい気候を好む樹木が茂るようになるところ、我々の遠い祖先が活動を開始した。 世界最古の土器文化である縄文文化やそれに先立つ石器文化は、南山城でも数箇所発見されている。 それは城陽市富野森山遺跡等木津川を見下ろす台地や内陸の小盆地などにあり、この時代の人々はまだ平野を生活圏としていないことをしめしている。  しかし、稲作農耕を持つ弥生文化人々は平野に低地に居住するようになる。
 稲作を基盤とする新しい文化が列島各地に浸透し終わり、主要な平野の開発も軌道にのったほぼ4世紀ころ、畿内の先進地域であった大和川水系にぞくする河内や大和では、巨大な前方後円墳が築かれ、古代国家の成立へ向けて王権の統一が進みだした。 これに対し淀川水系ではやや遅れて、古墳文化が展開し、南山城、木津川沿岸、乙訓の丘陵などに早い時期の古墳が見られるようになる。 これらは、小さな地域政権の首長であろうが、共通する鋳型の鏡などの副葬品から、大和の大王とも繋がっていることがうかがえる。
 兎道稚郎子は応神天皇と宮主宅媛のあいだに生まれた。 そもそも応神天皇と宮主宅媛の出会は、応神天皇が近江へ行幸した時である。 応神天皇が宇治川を渡り木幡の村で土地の豪族の美しい娘に出会う、それが宮主宅媛であった。 木幡は古くから「許乃国このくに」とよばれる土着の勢力が居住していたところであり応神天皇にとっては要地宇治をおさめるためには、この豪族と関係を深める必要があったのであろう。 宮主宅媛は妃となり兎道稚郎子を生んだ。 兎道稚郎子は聡明で次第に応神天皇の寵愛を集めた。 ついにその晩年、年長の大山守皇子や大鷦鷯尊をおいて皇太子に立てた。 しかし、その処遇に不服であった大山守皇子は応神天皇の死後、皇太子を襲う。 皇太子は計略を使い皇子の軍勢をの退け、皇子は川に流され没する。 しかし、その後皇太子は宇治に宮室をおこしたものの、大鷦鷯尊との葛藤に悩み自ら命を果てたと、記紀に記されている。 しかし、何らかの後継争いに巻き込まれたものとの推定もある。
 大和のみならず摂津や河内からの水陸の道も宇治に向かっている。 宇治から近江に抜けると、その先は、北陸と東国の世界が開ける。 宇治の渡しは、畿内の東西南北の軸の上で極めて重要な要衝になっていた。 畿内全域を治める者にとっては不可欠であった。
 この地にいたのが兎道稚郎子であった。 しかし、いかに要衝といえど、点は点でありそれ自体が恒常的な力を蓄えることは出来ない。 点が意味を持つのは、それを支える協力な力がある時に限られている。 兎道稚郎子は結局、河内大和を広く掌握している大鷦鷯尊にかなわなかったものと思われる。
 兎道稚郎子が皇居と考えた宮室はかなり大きな建造物であったと思われる。663年百済の要請で朝鮮出陣した日本軍は白村江の戦で新羅・唐連合軍に敗れた。 国内では新羅や唐の襲来を恐れ九州沿岸に防御設備の建設をはじめ、また都を難波から後方の近江に移そうとした。 正式な遷都は、667年であるが、遷都の一年前である666年の冬唐の使節として劉徳高が来訪したとき、宇治で軍隊の観閲を挙行している。 近江の都は建設中で見せたくなく、宇治が最適な場所であったと思われる。おそらく使節は船で淀川を遡り、巨椋池に入り更に宇治川遡り宇治で上陸し、天智天皇は近江を出て、宇治で使節を出迎えたと思われる。天皇が唐の正使を迎えるには当然国賓を迎えるのにふさわしい公的な施設がなければならない。それは多分兎道稚郎子建てた宮室であったと推定される。
              4.皇紀と天皇の在位

 代数 天皇名 在位  崩御齢  在位期間  存在性 
 1 神武じんむ天皇  76年 126歳  紀元前660年~前585年   
 2  綏靖すいぜい天皇   32〃   82〃  紀元前581 ~前549  × 
 3  安寧あんねい天皇   38〃   57〃  紀元前549 ~前511   ×
 4  懿徳いとく天皇   33〃   76〃 紀元前510 ~前477    ×
 5  孝昭こうしょう天皇   82〃  113〃  紀元前475 ~前393   ×
 6  孝安こうあん天皇  102〃  137〃  紀元前392 ~前291   ×
 7  孝霊こうれい天皇   76〃  128〃  紀元前290 ~前215   ×
 8  孝元こうげん天皇   57〃  116〃  紀元前214 ~前158   ×
 9  開化かいか天皇   60〃  110〃  紀元前158 98   ×
 10  崇神すじん天皇   60〃  119〃  紀元前  97 69  
 11  垂仁すいにん天皇   99〃  139〃 紀元前  29    70  
 12  景行けいこう天皇   60〃  130〃      71   130   ×
 13  成務せいむ天皇   59〃  107〃      131   190   ×
 14  仲哀ちゅうあい天皇   8〃  不詳     192   200   ×
 15  応神おうじん天皇   40〃  109〃     270   310   〇
 16  仁徳にんとく天皇   86〃   83〃     313   399   〇
 17  履中りちゅう天皇    5〃   56〃     400   405   〇
 18  反正はんぜい天皇    4〃   74〃     406   410   〇
 19  允恭いんぎ天皇   41〃   77〃     412   453   〇
       

 明治5年以降、昭和20年頃まで、日本では西暦ではなく「皇紀」を使用した。 皇紀とは日本の建国から数え始めた紀年法のことで、紀元ともいった。 
 神武天皇は辛酉しんゆう年に即位したとされている。 西暦の紀元前660年になる。 干支かんしの辛酉は天命が改まる年、王朝が交代する革命の年になる。 
 日本の紀元前660年頃は、縄文時代の晩期になり、日本に耶馬台国等の国家権力らしきものが発生したのは、2世紀以降である。したがって神武天皇は伝説の人であり、実存が疑問視されている。第1代神武天皇から、第16代仁徳天皇の在位を見ると神功皇后の狭間に入った仲哀天皇を除くとそれぞれその在位は数十年と長く、孝安天皇は100年を超えている。また崩御齢を見ると、非常に高年齢で100歳を超える天皇が16人中11人いる。以上その実在が疑問視される。
 第2代綏靖天皇から第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇、第5代孝昭天皇、第6代孝安天皇、第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇、第9代開化天皇までの8人の天皇は実在せず後世の「記紀」編纂最終段階に実在した天皇の称号に似せて造作したと言う疑いが濃厚で、欠史八代天皇と称されている。 
  10代崇神天皇と第11代垂仁天皇は実在を否定出来ないが、存在した証拠がない。
 12代景行天皇、第13代成務天皇、第14代仲哀天皇の3人の天皇は、実在せず、造作された天皇と考えられている。
 15代応神天皇は実在性が濃厚な最古の天皇と言われる。ただし、一人の天皇ではなく当時の王統の有力者を合成してつくられたものと考える説がある。在位が40年と永く、また、即位した時の年齢に在位を足すと崩御齢は109歳になり、一人の人間ではかんがえられない。また、皇后・妃11人、皇子・皇女23人も一人の天皇では多い。
 16代仁徳天皇も、在位86年は異常に永く、一人の天皇では、考えられない。 崩御齢83歳は在位の永さよりすくなく矛盾している。また、異なる二つの系譜があり、いずれかの系譜が造作されている。応仁天皇と同様複数の王統有力者結合した者と考えられる。とくに、大雀天皇と難波高津宮天皇の事跡を一人に合成したとのかんがえもある。

 
       宇治上神社鳥居
 
        宇治上神社門

(1)鳥居(第一鳥居)
 宇治上神社に訪れ最初に出会う建物は鳥居である。鳥居とりいとは、神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界けっかい)であり、神域への入り口を示すもの、一種の「門」である。鳥居を立てる風習は、神社の建物が造られるようになる前から存在した。古来日本では、屋根のない門と言う意味で「於上不葺く御門うえふかずのみかど」ともいった。
 鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源についてははっきりしたことはわからないが、単に木と木を結んだものが鳥居の起こりであると考えられている。文献に徹すれば「於不葺御門」(皇大神宮儀式帳)と称して、奈良時代から神社建築の門の一種としている。いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立している。そのほか主要な説として天照大神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥とこよのながなきどり」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説、日本の冠木門かぶきもん、インドの仏教やヒンドゥー教寺院に見られる門・トーラナ、イスラエルの移動型宸殿、雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族の「村の門(ロコーン)」など海外に起源を求める説がある。
 語源についても同様に不明である。鶏の止まり木を意味する「鶏居」を語源とする説、「とおりいる(通り入る)」が転じたとする借字説、トーラナを漢字から借音し表記したとする説などがある。
 宇治上神社の鳥居は標準的な明神鳥居です。鳥居は、2本の柱の上に笠木かさぎ2層の水平材とする場合に上層の笠木に接して島木しまぎを渡す。その下に貫ぬきを入れて柱を固定したのが一般的な鳥居の構造である。他に、貫と笠木の間に額束がくづかを建てることがあり、柱下部に亀腹かめばらを施したり、掘立であれば根巻き着や根巻き石ねまきいしを施すことがある。笠木と柱の間に台輪だいわという円形の保護材を付ける例もある。鳥居の分類は大別すると、柱や笠木など主要部材に「転び」や「反り」(柱架構を含まない曲線)が有るか無いか、台石や樂束有無で神明鳥居しんめいとりい系と明神鳥居みょうじんおとりい系に大別されている。
 神明鳥居系は非常に簡易な構造が特徴で、最上部が笠木かさぎ1本で成り立っており。島木しまぎがありません。Simpe is the Bestです。神明鳥居系には、黒木鳥居、白木鳥居、清国鳥居、鹿島鳥居、宗忠鳥居、伊勢鳥居、内宮源鳥居、外宮宗鳥居等があります。
 明神鳥居系は非常に装飾的な構造を採っており、最上部が笠木と島木しまぎからなる二層構造を採っております。また笠木の両端が反り上(反り増し)がって、流線型的なフォームを採ることが多く、中央に額束がくつかなどの社名が示されることがよくあります。明神鳥居系には、八幡鳥居、春日鳥居、台輪鳥居、中山鳥居、住吉鳥居、宇佐鳥居、山王鳥居、両部鳥居、奴禰鳥居
 鳥居は基本的にこの二種類に大別され、各部の作りの違いで更に細かく分類されます。神社の本殿建築様式と鳥居の形式は全く関係なく明確な決まりはありません。
 明神鳥居は標準的な鳥居です。神明鳥居が柱は垂直、笠木は水平で簡素な造りでした。それに対し明神鳥居は、柱はやや内側に傾き、笠木には反りがあり、装飾てきで安定感のある鳥居です。柱の位置の地面に台石を置き、鳥居が台風や地震で倒れないように沓石くついしまたは亀腹かめばらで柱を固定します。柱は安定化のため若干内側に倒しますが、この傾を転びといいます。設置した2本の柱の上に笠木と島木を水平に設置しますが、この時笠木と島木の両端は笠木。島木共に襷墨の形状を採っています。二材の下に貫を入れ柱の両側から楔を打ち固定します。明神鳥居は標準の鳥居であり多くの鳥居がこの様式に該当すると考えられる。

(2)門
 鳥居を潜りしばらく進むと小川があり、石橋がかかっています。石橋を渡るともんです。門は寺院の様式で、神社の門は鳥居です。初めの鳥居を第一鳥居、この門を鳥居にすればここは第二鳥となるしょう。これは神仏習合の影響です。
 神仏習合しんぶつしゅうごうとは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象[1]。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
 当初は仏教が主、神道が従であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。日本で仏、菩薩が仮に神の姿となったとし、阿弥陀如来の垂迹を八幡神、大日如来の垂迹が伊勢大神であるとする本地垂迹説が台頭し、鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が発生するが、神道側からは神道を主、仏教を従とする反本地垂迹説が出された。江戸時代に入ると神道の優位を説く思想が隆盛し、明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。

 
             宇治上神社拝殿(国宝)・世界遺産

(3)拝殿(国宝)
 設立年代;鎌倉時代前期(1185~)、年輪式推定法により、1215年と推定されている。単層切妻造、妻庇付、桁行六間、梁行三間。檜皮葺。妻飾りは狐格子。懸魚は鰭ひれなしの猪の目。屋根は縋破風すがるはふです、屋根の先端は直線ではなく、セキレイの飛び形のようし、ツートン、ツートンと波打つています、これは平安時代の貴族住宅に用られた古い様式です。床は板張り。天井は組入天井。
 わが国最古の住宅建築である。奈良時代の建築には床はなく、縁もなかった。平安時代になって床が張られ、縁が付いた。しかし、平安時代の住宅建築の遺物はなく、鎌倉時代以降の様子を知ることの出来る貴重な建築である。天井は組入天井になっている。
 しかし、当初の建物に板床や天井があった同か不明である。なぜならば、縦切鋸が普及したのは室町時代半(15世紀半ば)ばと言われている。それまでは、建築材として柱や桁、梁あるいは板類などは箭割やわりという楔を打ち込む技法で割っていた。
 このため、箭割で製材した床板非常に高価なものとなり。床板や天井の普及は15世紀半ば以降と考えられる。
 しかし、一方、吉川金治氏(鋸の研究家)は6世紀の古墳や8世紀の住居あとから出土した鋸が縦引き鋸歯であるとし、文献や絵画には発見できないが、初め小型だった縦引き鋸が平安時代から鎌倉時代を通じて大型の横引きとして発達して使われたと、寺社に残された鋸や鋸の挽跡から主張し、日本には室町半ばまで縦引き鋸はなかったという通説に疑問を投げかけています。 また、鎌倉時代後半に描かれた兵庫県にある極楽寺が所蔵している地獄を描いた「六道絵」の中に大鋸らしき鋸があることから、大鋸が大陸から伝来したのは、もしかすると約100年遡る可能性があるとの指摘もある。
 屋根は雨露を防ぐ機能を持つと同時に日本建築では、外観上最も重要な要素の一つである。建築物における屋根は、人間の顔に相当し、大工が最も力を入れる箇所である。直線的な切妻造りの妻に庇を付け縋破風すがるはふにし美しい曲線美を出している。最も美しい屋根の一つとして、高い評価を受けている。 
 小組格天井は最上級の折上小組天井」が用いられ始めたが、これは当初のものでなく室町時代後期以後の改造と考えられる。 

 
       拝殿向拝(国宝)
 
       拝殿妻飾り(国宝)

 
        本殿(国宝)
 
       本殿妻飾り(国宝)

(4)本殿(国宝)
 設立年代;11世紀後期、年輪式推定法により、1060年と推定されている。
 本殿[内殿三社(一間社流造、檜皮葺)]
 覆殿;流式、桁行5間、梁間3間、桧皮葺 
 宇治上神社のすぐ手前には宇治神社があるが、明治時代に入る前までは宇治神社を離宮下社、宇治上神社を離宮上社として、二社合わせて宇治離宮明神などと呼ばれていた。離宮という名が付くのは、かつてこの地に応神天皇の子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の居住があったとされているためだ。菟道稚郎子は応神天皇の寵愛を受け皇太子となるものの即位はせず、異母兄弟である仁徳天皇に皇位を譲るべく自害を果たした人物であり、今も宇治上神社の主神としてこの地に祀られている。
本殿及び覆殿は現存する日本最古の神社建築。左殿・祭神菟道稚郎子うじのわきいらつこ応神天皇の皇子、中殿・第15代応神天皇・菟道稚郎子の父、右殿・第16代仁徳天皇・菟道稚郎子の異母兄。内殿三社は平面的に大きさ、様式が細部において、わずかながら異なる。左殿(向かって右)と右殿はほぼ同形式でありのに対し、中殿は最も小規模且つ構造も簡素であり左右両殿が構造の一部を覆屋と共通に用いるのに対して、独立の形式をとっている。 
 覆殿は内殿を保護するため、内殿をすっぽりと覆う通常の覆殿ではなく、左右両殿の側面と屋根は覆殿と共通になっており、当初から内殿と覆殿は一体の物として企画された特徴的な建築様式である。軒は、裏面二垂木、正面三垂木である。 通常寺社建築物は二垂木までであるが、長いスロープと下に降りるほど反りを強くするため三垂木になっている。
 妻飾りは豕扠首すのこざす式、破風は流れ破風懸魚は鰭ひれなしの猪いの目。両殿の梁には透かし蟇股がある。

 
    本殿・:左殿(兎道稚郎子)
 
     本殿・右殿(仁徳天皇)

 
     春日社(重要文化財)
 
      住吉社・香椎者

(5)春日神社(重要文化財) 摂社
 祭神 武甕鎚命タケミカヅチノミコト、天児尾根命アメノコヤネノミコト藤原一族の守護紳を祭る。
 平等院鎮守社である離宮社の境内に一族益々の繁
栄を願って築造されたものと思う。建築年代は鎌倉時代と思われる。 一般に春日神社系の建造物は春日造であるが、ここでは本殿の流造に合わ せ、一間社流造である。檜皮葺。三垂木。妻飾りは豕扠首すのこざす式、破風は流れ破風。 懸魚は鰭ひれなしの猪の目。

(6)末社4社
  a.香椎社 祭紳 神功皇后、武内宿禰
   b.住吉社 祭紳 上筒男命、底筒男命
   c.厳島社 祭紳 市杵島姫命
   d.稲荷社 祭紳 倉稲魂命

 
      桐原水「宇治七名水」
 
          同左

(7)桐原水
 拝殿の東南に、かって「宇治七名水」の一つに数えられていた「桐原水」が湧き出ている。七名水のうち現存するのはこの「桐原水」だけである。時代が室町時代に入り、宇治茶が隆盛を極める様になると、茶園を象徴するものとして「宇治七茶園」なるものが造られた。宇治の地は水が豊富で水質が良かったため茶の湯に適する水として「宇治七名水」が作られた。「桐原水」はその一つであった。

 
       天降石(岩神さん)
 
      宇治市銘木「ケヤキ」

(8)天降石てんこうせき(岩神さん)
 宇治上神社の本殿の東隣にある。天降石てんこうせきとして祀られ、岩神さんの異名も伝わる。巨石信仰の磐座いわくらでなころうか。磐座とは、古神道における岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。
 日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)であり、基層信仰の一種である。神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭祀の中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。

(9)けやき「宇治市銘木」
 高さ:27m、幹周;4.8m、推定樹齢;300年 宇治市銘木100撰にえらばれる。


          6.宇治・宇治上神社の文化財
(1)宇治上神社本殿扉絵(重要文化財)
 本殿は、一間社流造の内殿三棟を左右一列に並べ、これを共通の覆屋に入れてある。向かって右端の第一殿の扉内側に唐装束の二童子像、向かって左端の第三殿の扉内側に笏を持つ二人の随神像がそれぞれ描かれている。いずれも顔料の剥落が甚だしい。童子は赤い上着を着て板椅子に腰掛け足を組んでいる。 髪は美豆良みずら(左右に分け両頬の位置で括った形)に結い。 右手に翳(長柄の付いた団扇状の物)を持つ。随神像の方は板椅子に腰をかけ、束帯して笏を持つ官人の姿で、背後には衝立障子が置かれている。 その製作年代は12世紀初頭を下るものではなく、仏教関係以外の大型の人物画として奈良時代最古の例である。

 
 宇治上神社本殿蟇股
 
  上醍醐薬師堂蟇股
 
  中尊寺金色堂蟇股

(2)    蟇股かえるまた 
 本殿(第一殿、第3殿)に2種類の蟇股があり、形が美しいことと、透かし蟇股で最古の物であり、この2点で有名である。
 蟇股は古建築を見る人にとって最も親しみ深い物である。なぜなら原始的蟇股古建築を鑑賞する上において一番眼に着き易く、時代鑑別が出来るからである。蟇股は、二本の水平材の間にあって斗と共に上の荷重を支えるためにあるのであるが同時に装飾的な面もあって、意匠的にも工夫がされている。初期の物を板蟇股と言う。
 
飛鳥時代から奈良時代の前期にかけて遺例がなく不明であるが、奈良時代後期になると幾つかの遺例がある。この時代の蟇股は上下の高さより厚さが大きく上方の荷重を受けるだけの丈夫さと同時にその輪郭の曲線によって装飾の美をかねている。 現存する最古の物は法隆寺東大門の蟇股である。
 
平安前期には遺例がないが、平安後期には平等院にある。奈良後期のものに比べて背は高くなり厚みは逆に薄くなり、デザイン的には肩の巻き込みが多くなる。
  平安後期になると、板蟇股と平行して透かし蟇股が現れる。宇治上神社のが最古の透かし蟇股である。第一殿の蟇股は脚がよく伸び力があり、多に飾りのない原始的なものである。脚の中の彫刻は後世に付けられた物とされている。第三殿の蟇股も第一殿の蟇股と同形であるが、脚内にヒラヒラ程度の簡単な彫刻がしてある。 しかし、このヒラヒラ程度の彫刻が鎌倉時代以降大いに発達することになる。この時代の蟇股は刳り抜きではあるが左右二つの木を中央で合わせいるので、本当の刳り抜きは鎌倉時代になってからである。透かし蟇股は本蟇股または繰抜蟇股といわれるが、もはや荷重を支る力は全くなく、装飾のみを目的とする様になる。
  室町時代ではさらに脚が立ち、内部の彫刻も平面的から立体的、図案調から絵画的となる。桃山時代になると、彫刻技術は発達するが、単純性、力強さは失われる。江戸時代は、さらに前代の傾向を引き継ぐ傾向をしめす。
 宇治上神社本殿蟇股は、上醍醐薬師堂、中尊寺金色堂蟇股とともに日本三蟇股と読まれています。

(3)妻飾り
 古建築を鑑賞する場合、妻側に3つの鑑賞点がある。それは、妻飾り、破風、懸魚である。妻と言うのは建物の両端で、入母屋造、切妻造の時に、三角形の空虚な所ができる。その場所の構造を「妻飾り」と言う。
 
宇治上神社本殿(覆殿)の妻飾りは「豕扠首式いのこざすである。豕扠首式は古くから現在に至るまで用いられ、住吉大社をはじめ法隆寺でも用いられている。鎌倉時代唐様が中国から輸入されると妻飾りも影響された。しかし、この「豕扠首式」だけは影響されず、古来の素朴な風を現在にいたるまで伝えている。主に神社建築にもちいられているが、摂社春日神社及び宇治神社も豕扠首式である。
 「二重虹梁蟇股式」は奈良時代後期に流行り、奈良時代後期建築の特徴となった。 しかし、平安時代以降も平等院等使用例はある。
 「狐格子きつねごうし」は和様の住宅建築に用らける。最古の遺例は宇治上神社の拝殿にある。盛んに用いられたのは、室町時代以降。

(4)破風はふ 
 破風の起源は、神明造の妻側の垂木の一部で、つまり屋根面より上に突き出した部分が千木ちぎとなり、下の部分が破風となる。主な破風以下の通りである。
・照り破風てりはふ 破風板の流れの線が下向きに反っているの。
・起り破風むくりはふ 照り破風と反対に球状に上向きに反っているもの。
・直破風すぐはふ 破風板の流れの線が直線状のもの
・流破風ながれはふ 左右破風の一方が短く、他方が長いもの。
 宇治上神社本殿(覆殿)、春日神社及び4つの末社、宇治神社および七つの末社のいずれも流破風であり、且つ宇治上神社最古のものになる可能性がある。
4切妻破風きりずま 切妻造につけられたもの 入母屋破風いりもや 入母屋造につけられたもの。
・千鳥破風ちどり 屋根の流れの上面うえあつらい取り付けられた切妻破風
・唐破風からはふ 唐破風は日本は特有の形式で、切妻の屋根に陣笠様曲線を重ねた派風板がつけられる。古いものほど勾配が緩やかで、新しいものは勾配が急になる。平安時代には既にあったと思われるが、現存する最古のものは石上神社(奈良県)摂社出雲建雄神社の拝殿(鎌倉時代)のがある。装飾性が良く城郭、寺院や役所の玄関とうにもちいられているる。宇治神社の拝殿にも軒唐破風がある。
 唐破風には、向唐破風と軒唐破風の二つの形式がある。向唐破風むこうからはふは、出窓のように独立して葺き下ろしの屋根の上に造られる。軒唐破風のきからはふは軒の一部に付けられる。
 縋破風すがるはふ母屋の軒先は水平でなく、セキレイの飛び形のように波打形である。 宇治上神社拝殿に付けられている。

(5)懸魚げぎょ 
 懸魚は、破風の中央や左右に桁先を隠す目的で吊るした彫刻物で、中央の物を拝懸魚おがみげぎょ、左右の物を降懸魚くだりげぎょと言う。尚、細部を見ると懸魚の上部に六葉ろくようと呼ぶ六弁花の彫刻を付ける。また、両側の飾りを鰭ひれ、下方の巻き込んだ部分を蕨手わらびてと言う。また、唐破風には懸魚の代わりに兎の毛通うのけどおしがが付く。
 宇治上神社本殿、拝殿及び摂社春日神社及び宇治神社本殿の懸魚は、鰭なしの猪の目懸魚である。宇治神社拝殿は鰭ありの猪の目懸魚がついている。 懸魚は、飛鳥時代から既にあったと考えられるが、懸魚は破風以上に腐食の激しい位置にあり、現存する最古のものは鎌倉時代のものであり、鎌倉時代は総て猪の目懸魚である。 宇治上神社拝殿、摂社春日神社及び宇治神社本殿はいずれも鎌倉時代前期の建設で最古の猪の目懸魚になる可能性がある。宇治上神社の建設は平安時代後期で更に古いが、腐食のため更新されているものと考えられている。
 猪の目懸魚いのめげぎょ 猪の目懸魚はハート形をしているが、これは猪の鼻に似ていることで命名されたようである。鎌倉前期は鰭がないが、後期になると鰭が現れ、さらに、蕪懸魚、三つ花懸魚が始める。また、唐破風の兎の毛通も現れる。
 蕪懸魚かぶらげぎょ 蕪懸魚は、猪の目懸魚二つを重ねて図案化したもの三つ花懸魚みつばなげぎょ 三つ花懸魚は、猪の目懸魚を三つ重ねて図案化したもの。
 室町時代以降もほぼこの傾向は続くが、さらに、梅鉢懸魚うめばちげぎょ、結綿懸魚ゆいわたげぎょ、貝頭懸魚かいかしらげぎょ、雁股懸魚かりまたげぎょ、二重懸魚にじゅうげぎょ、切懸魚きりげぎょ等が現れる。

             7.神社建築
(1)神社建築の歴史
 神社の建築物は神を祀る本殿を中心に、幣帛へいはく(神前に供える物の総称)を捧げる幣殿へいでん、祝詞のりとの奏上をする祝詞舎のりとや、神饌みけを供える神饌殿しいせんでん、参詣者の参拝の場である拝殿はいでん、神楽かぐらなどを奉納する舞台となる舞殿ぶでん、参拝の前に手を清めるための手水舎ちょうずや、社務所、物忌みのために籠もる参籠所さんろうしょ、氏子集会所などさまざまな建物からなる。 
 神社の規模によって建築物の数は一様ではないが、常設の神社建築げ出来る前には、磐座いわくらや神籬ひもろぎがあった。磐座は自然信仰で巨岩や山、湖に神が宿るとする思想である。 例えば、奈良県の大神神社おおみじんじゃや長野県の諏訪神社すわじんじゃには拝殿だけで本殿がない、山や湖を祭っているからである。 
 神籬ひもろぎとは、神道において神社や神棚以外の場所において祭りを行う場合、臨時に神を迎えるための依り代よりしろとなるもの。 形式は、八脚台という木の台の上に枠を組み、その中央に榊の枝を立て、紙垂しでと木綿ゆうを取り付けたもの。
  古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿ると信じ、信仰の対象としてきた。 そのため、古代の神道では神社を建てて神殿の中に神を祭るのではなく、祭の時はその時々に神を招いてとり行った。その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保った。古くはその場を神籬と呼んだ。
 
日本最初の寺院である元興寺がんこうじ(通称飛鳥寺)が建立されたのが588年である。 その後仏教が飛躍的に広まった。おそらくこの時代頃から神社独自の建築様式が固定されたのではないか。そして伊勢神宮の式年遷宮が始まったのが、天武朝(673686年)の頃と推定される。天武天皇の時代には伊勢神宮の神明造しんめいづくりに代表される社殿建築の様式が固定していたと思われる。
 神社建築の発展の歴史の中で注目すべきことは、時代を経るに従って社殿建築の規模が拡大して言ったことである。 中世以後、神社を神の宮殿と見なす傾向が一般化した。 これは神の擬人化が進み、神にも皇族や貴族のような壮麗な住居が必要だと考えれれるようになった。 その結果、社殿の規模は拡大し、簡素な板敷きが基本だった社殿の内部も貴族の住宅に準じた様相を呈するようになった。

(2)神社建築の様式
 神社の中心である本殿の建築様式は、次の八つの典型に分類できる。 すなわち神明造しんめい、大社造おおやしろづくり、住吉造すみよし、流造ながれづくり、春日造かすがづくり、八幡造はちまんづくり、日吉造ひよしづくり、八棟造やつむねづくりである。
1)神明造しんみいづくり 
 伊勢神宮正殿に代表される建築様式である。ただし、伊勢神宮の内宮と外宮の正殿はそれぞけ多少かたちが違っている。外宮の物を「唯一神明造」といい、これを簡略したものが一般の神明作りである。広さ、正面三間、側面二間。床を高く造り、正面中央に板扉を取り付ける。建物の周りは床と同じ高さの高蘭つきの回縁を巡らせ、正面板扉の位置に階段を取り付ける。壁は板壁。また両側面に棟木を直接支える棟持柱むなもちばしらを立てる。
 屋根は切妻造の萱葺で、掘立柱、正面に入口のある平入り(棟の平行面を平入り、屋根の切断面を妻入りと言う)。破風を延長して千木ちぎ(屋根の両端で交差させた木)とし、棟上に障泥板あおりいた(大棟の両脇に設ける、雨押えの板)などを置き、堅魚木かつおぎ(屋根の上に棟に直角になるように何本か平行に並べた木)を並べる。 すべて白木造りとし、簡素で直線的な構成を特徴とする。
 こうした建築様式は弥生時代の倉様式を取り入れ、洗練された技術で再構成したものである。現存する最古の神明造は、長野県大野市の仁科明神宮の正殿で江戸時代(1636)の建設・国宝
2)大社造おおやしろづくり 
 出雲大社の本殿に代表される社殿建築様式である。神明造りと共に最古の神殿建築様式である。正面側面共に二間の正方形。屋根は切妻造で置千木おきちぎ(千木を単に屋根の上に置いた飾りの千木)と堅魚木を置く。柱は掘立柱、棟と垂直方向、妻側に入口がある。妻の中央に柱があるため、入口は一方に片寄って付けられている建物の周りには高欄つきの回縁が巡り、入口の板扉前には、高い階段をかける。
 室内中央には心御柱しんのみはしらがあり、その側を板壁で仕切る。この間仕切りの後の一番奥まった所に内殿を造り、西向きに神座を設ける。
 そして最大の特徴はその巨大さである。現在でも本殿は千木先までの高さが八丈(約24m)あるが、中古には16丈(約48m)、創建当初は32丈(約96m)有ったと伝えられているから、その偉観は想像を絶するものがある。
*千木:千木の起源は、日本の古代住宅(三本の木材を交差させたものを二組作り、それを建
 物の両端に立てて、その交差部分に棟木を架け渡した構造)の建築様式からきたとされてい る。この建築様式の場合、交差した木材の先端は屋根よりも高く突き出ています。その部分が、後に千木と言われる様になった。千木は本来屋根を支える重要な構造材だった。しかし、現在では、ほとんどの神社の千木が、一種の装飾的な意味合いの強い置千木になっている。
 尚、千木の先端が垂直に切られている場合は、男神を祭っていることを示し、水平にきられている場合は、女神を祭っていることを示すと一般的にいわれている。
3)住吉造すみよしづくり
 大阪の住吉大社本殿に代表される社殿建築様式。住吉大社には四棟の本殿があり、どれも同形式に造られている。正面二間、側面四間と前後に長細く、前半を外陣、後半を内陣とする。内陣、外陣ともに前面に板扉を設け、内陣は外陣よりも一段高くなって正面に階段を設けてある。柱は土台の上に立つ。
 周りに縁を持たず建物に接近して瑞垣みずがき(一番内側のものを瑞垣と言いそれ以外を玉垣と言う)と玉垣が二重に取り囲む。屋根は切妻造の妻入で桧皮葺といて屋根に置き千木と五本の堅魚木を置く。 
 神明造や大社造が白木造であるのに対し、外部の軸部は丹塗り、板壁は胡粉塗りにされている。ただし、内部は白木のままになっている。垣も丹塗りであるが頭部のみ黒塗りになっている。 
4)流造ながれづくり
 京都の上賀茂神社、下鴨神社に代表される社殿建築様式。春日造と共に最も一般的な社殿建築様式である。ただし、春日造が春日信仰や熊野信仰に関係ある神社のみ用いられるのに対し、流造は祭神や信仰に関係なく広く用いられている。
 上賀茂、下賀茂の両社は奈良時代にすでに広くその名を知られ、皇城鎮護の神として朝廷の崇敬が篤かった。 両社の本殿は、奈良時代から平安時代のはじめに成立して今日に伝えている形式と考えられる。 
 上社では東に本殿、西に同形の権殿、下社では同形式の二棟の本殿が東西に並ぶ。いずれも正面三間、側面二間の広さで、柱は土台の上に立ててある。 切妻の平入りで、屋根は檜皮葺。千木、堅魚木は載せない。神明造と同様、高欄つきの回縁を巡らせ、正面に階段を設ける。 最大の特徴は前方の屋根をなだらかに曲線を描かせて延長し、庇にしていること。これが流造の名の由来にもなっている。庇の片流れの屋根は四本の角柱で支え、庇の下には低い床を張ってある。
5)春日造かすがづくり 
 奈良の春日大社本殿に代表される社殿建築様式だある。春日大社は、奈良時代に藤原氏の氏神神社として創建されたもので、四棟の小型の社が東西に並ぶ。現在の本殿は文久3年(1863)に再建されたものである。この神社も伊勢神宮と同様、かっては式年造替が行われており、その古体を良く保つ。一間四方の小型の社殿は、井桁に組んだ土台の上に柱を立てて造られている。 正面に扉をつけ、前面のみ高欄つきの縁があり、前方に階段をつけている。 
 屋根は切妻造の檜皮葺とし、屋根上には、装飾化した細い置千木と二本の堅魚木を置く。階段の上には階隠(階段部分を覆う屋根)を構え、二本の角柱で支える。 階隠の屋根は母屋の屋根と美しい曲線で結ばれ、優美な形式にまとめ上げられているのが特徴である。 木部の多くは丹塗りとし、堅魚木は黒塗りとする。
6)八幡造はちまんづくり 
 大分県の宇佐神社に代表される社殿建築様式。宇佐神社では同形式の三つの本殿が西から東に近接して並ぶ。各殿とも前殿と後殿の二棟からなる。前殿は正面三間、側面一間、後殿は正面三間、側面二間。両殿とも切妻造の平入で、前殿正面に階段を設け、両殿の周囲に高欄つきの回縁が囲む。正面の檜皮葺の一部を延長して階隠にし、階段の外側に立てた角柱で支える。屋根には千木、堅魚木は置かない。 
 また、両殿の中間に相の間を設け、前殿の床を後殿の前まで延長して敷き、内部は前後二室がつながった形になっている。両殿の屋根の谷間に樋を設ける。
7)日吉造ひよしづくり  
 滋賀県の日吉大社に見られる特殊な建築様式で聖帝しょうたい様式とも言われる。 日吉大社には「山王1社」と呼ばれる大小の社殿が一山に点在しているが、中でも西殿(大宮)と東殿(二の宮)が主要なので、両社の本殿はほぼ同形式で造られている。この両殿の建築様式が日吉造の典型である。
 正面三間、側面二間の神殿は前面と左右の屋根に庇を取り付けた入母屋造だが、背後には庇がなく切り落とされた形になってる。前面中央と庇の両側の前に扉をしつらえる。又、回縁を巡らし、正面中央に階段を付ける。 日吉造は平安初期には成立していたと考えられ、内部空間を広げる工夫がなされている。
8)八棟造やつむねづくり 
 八棟造は、権現造とも言う。この様式は桃山時代末期から始まったもので、慶長13年(1608)に新築された京都市北野神社本殿にそれが現れている。現在の本殿がそれである。江戸時代になると、日光東照宮本殿をはじめ、各地の東照宮権現は好んで採用したので、別名を権現造りと言う。
 八棟造は、必ずしも棟が八あると言うのではなく、棟数がおおいこと、即ち、複雑な屋根の組合わせになっていることを意味している。 



                B.宇治神社

 
                  宇治神社・第二鳥居

〇 本殿 (重要文化財)
   設立年代;鎌倉時代初期
   三間社流造、桁行3間、梁間2間 檜皮葺 
    軒は、裏面二垂木、正面三垂木。 妻飾りは豕扠首すのこざす式、流れ破風懸魚は鰭ひれなしの
   猪の目。 両殿の梁には透かし蟇股がある。

  〇 末社7社
    a.伊勢両宮社 祭紳 天照皇大神、国常立命 
    b.高良神社 祭紳 武内宿禰
    c.松尾神社 祭紳 市杵島姫
    d.広田神社 祭紳 蛭子
    e.住吉神社 祭紳 底筒田命、中筒男命、上筒男命、神功皇后
    f.日吉神社 祭紳 大山昨命
    g.春日神社 祭紳 武甕鎚命、斉主命、天児屋根命
  〇 桐原殿(拝殿)
    入母屋造、桁行3間、梁間3間 檜皮葺 軒唐破風付き

1.概要
 宇治神社は、京都府宇治市宇治山田にある神社。式は、京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は府社。隣接する宇治上神社とは対をなす。

2.祭神・菟道稚郎子
 菟道稚郎子命うじのわきいらつこのみこと『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。本殿には、菟道稚郎子像と伝える神像(国の重要文化財)が祀られている。

 
       宇治神社中門
 
   宇治神社本殿(重要文化財)

 
    宇治神社・末社3社
 
     宇治神社・末社4社

3.創建
 創建年代などの起源は明らかではない。宇治神社のすぐ近くには宇治上神社があるが、宇治神社とは二社一体の存在であった。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる。

4.歴史
 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される[1]。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。後に近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
 明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神」・「宇治離宮八幡宮」と総称された[1]。 明治に入って宇治上神社とは分離し、1911年(明治44年)府社に昇格した。
2018年(平成30年)には台風第21号で大鳥居が土台部分から折れて倒壊する被害に遭った。

 
  宇治神社拝殿(桐原殿)(府文化財)
 
     宇治神社第一鳥居

5.境内 
・本殿(重要文化財) - 三間社流造、檜皮葺。鎌倉時代後期の造営とされる。
・拝殿(桐原殿、京都府指定有形文化財)入母屋造、桁行3間、梁間3間、檜皮葺。
・中門、・絵馬堂、・神楽殿、・神輿蔵、・社務所 - 2階は参集殿になっている。

6.文化財
1)本殿 1棟(建造物) 鎌倉時代後期の造営。(重要文化財)
2)木造莵道稚郎子命坐像 1軀(彫刻) 平安時代の作。(重要文化財)
 宇治神社本殿は鎌倉時代に建てられた物と言う。 中に祀られる兎道稚郎子命像と伝える等身大の男神像は衣冠をつけ、笏を持って座る俗体像で、両脚部に別材を用いた一木造の彩色像である。左膝、腰、肘など各部に節がある。本来不適な彫刻材をあえて用いたのはとして、霊木か神木であったと推定されている。
3)拝殿 1棟(京都府指定有形文化財)
4)末社春日社本殿 1棟(京都府指定有形文化財)
5)末社日吉社本殿 1棟(京都府指定有形文化財)
6)末社住吉社本殿 1棟(京都府指定有形文化財)
7)白色尉面(雪掻きの面) 1面(彫刻)安土桃山時代の作。(宇治市指定文化財)
 平安時代後期に行われた、宇治離宮祭は宇治、宇治上神社両者合同の祭事で、田楽法師の諸座が祭礼に奉仕し、化粧、散楽、馳せ馬など多彩な祭りが行われた。また、中世には宇治猿楽の諸座が出来、近郊のみならず奈良や洛南の各寺社の楽頭職に就き広く活躍した、その時に使用された「雪掻きの面」と呼ばれる翁面が宇治神社に奉納されている。
8)宇治神社木造狛犬一体(宇治市指定文化財)
 宇治神社本殿の前に安置(現在は宇治市歴史資料館)してあった狛犬は木造の堂々とした大作である。前足をふんばって胸を張った緊張感のある姿勢、たてがみのそよぎや面部の肉取り、背筋が立ち肋あばらをあらわに引き締まった体など、各所に鎌倉時代の写実的な表現が見られる。阿形(獅子)と吽形(狛犬)は当初から獅子・狛犬一対として神像守護の霊獣として造られたものであるが、彫技においては阿形が優れ、おそらく吽形は弟子の手になるものと思われる。 






参考文献
   宇治市歴史資料館著「宇治上神社文書・収蔵文書調査報告書4」
   宇治市歴史資料館・宇治市教育委員会編集・発行「宇治の歴史と文化」
   宇治市歴史資料館・宇治市教育委員会編集・発行「宇治の仏たち」
   瓜生中調「古建築の見方楽しみかた」(PHP研究所)
   川勝政太郎著「古建築入門講和」(スズカケ出版部)
   松浦昭次著「宮大工千年の知恵」(祥伝社)
   西和夫著「図解古建築入門」(彰国社)
   前久夫著「古建築のみかた図典」(東京美術)
   関美穂子編著「古建築の技ねほりはほり」(理工学社)







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