京都と寿司・ 朱雀錦
       (25)「世界遺産・高山寺」


高山寺・石水院
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1・高山寺と栂尾
 高山寺こうざんじは、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町にある。
 栂尾は古くから「とがのお」と言われていた、中国から漢字輸入された時、該当する字が無く「戸加之尾」、「都賀尾」また木偏に都を並べて「とが」と読ませたものもあったがそのうち梅を「とが」と読ませ「梅尾」と書く風が盛んになった。 梅を「うめ」と読んだり「とが」読んだりしては混乱が起こる「栂(常緑喬木樹の一種)」と書いて「とが」と読せた。 すなわちわが国固有の文字国字の誕生である。 後に「とが」の呼び名が「つが」に変わった。 その他、国字としては、下記がある。
・栃とち:落葉喬木樹
・榁むろ:針葉喬木樹
・梻しきみ:モクレン科常緑小高木
・杣そま:植林山、きこり、山か切出した原木
・柾まさ:柾目、年輪が平行な木目
・杢もく:大工、木工、家具職人
・榀こまい:壁の下地に用いる竹や細木又はそれを組んだ物、垂木の上に渡す細木
・枡ます:定量器
・枠わく:細材で組んだ骨組又は囲み、物の周囲を取囲む物

                2・高山寺の歴史
(1) 高山寺の開創
 高山寺の開創は平安遷都以前、奈良時代の宝亀ほうき5年(774)光仁天皇の勅願によってひらかれ、最初神願寺都賀尾坊とがのおぼうと称した。 当時、仏教修行者は、高山、幽谷に修行の場を求め難行苦行し、禅観を修し、解脱げだつ・悟入ごにゅうを求め、あるいは呪験力じゅけんりょくを身得して災禍を祓はらい、願望の成就を図った。 
 奈良・平安初期にかけて有名無名の修行場が全国にわたり創始されやがて草堂が造られるようになり、それが後に寺院として成長を見るのである。
 こうした仏教界の発展過程の中に高山寺は山林修行の道場として開創されたのである。 高山寺の開創者は奈良の僧慶俊及び護命であると伝えられ、嵯峨天皇の弘仁こうにん5年(814)に都賀尾十無尽院とがのおむじんいんと改称した。
 ところで近接の高雄山寺がすでに平安遷都全の天応てんおう元年(781)に慶俊を発願主とし、和気清麻呂を奉行として創建されている。 そして、延暦えんりゃく21年(802)最澄が高雄山に来て、奈良諸大寺の学僧12人に法華一条の法門を講じている。 次いで、空海が入唐帰朝の大同だいどう4年(809)に高雄山に入住し、弘仁こうにん3年(812)に真言密教の潅頂壇を開き、最澄をはじ
145人に秘法を授けた。
 このように高雄たかお・槙尾まきお・栂尾とがおの三尾さんびの山々は日本仏教の新旧を含めた当時の偉才が集まる処であり、平安新仏教の揺籃の地となった。 元来この地は、平安都域の中心を離れること二里あまり、山また山に入った清滝川の渓流に沿って山容水態全てが山色清浄を感ずる霊境であった。
 都賀尾坊(高山寺)にあって貞観時代に般若経を持経として苦修練行していた僧賢一は後に加賀の白山に入り高名な験者となった。 また、貞観じょうがん18年(876)法性房尊意は11才にして都賀尾坊に入り、賢一につき修行、元慶がんぎょう元年(877)比叡山に上り、円珍・玄昭に師事し、延長えんちょう4年(926)には延暦寺座主となった。 
 その後、文覚もんがく上人が、再度の火災により荒廃して住むべき僧も無かった高雄山神護寺に入り、修造の大願を起こして事を始めた平安の末期に、栂尾は神護寺の一別院となった。 
(2)  明恵上人の誕生と修行
 明恵上人は、承安しょうあん3年(1173)正月8日紀州有田郡石垣庄内吉原村に生まれた。 父は伊勢平氏で伊藤党出身の平重国、高倉院の武者所に仕えていた武士であり、母は紀州の豪族湯浅権守藤原宗重の第4女であった。 両氏とも平治の乱に於いて一族郎党を率いて平清盛の為に戦い、清盛をして源義朝軍を打破し、平家の制覇を成就させた功臣であった。
 父の重国は嵐山法輪寺に詣で子息を祈請し、母は京都の四条坊門高倉より六角堂の観音に参り、観音経を読んで勤め、もし男子ならば、高雄の薬師仏にまいらせ仏弟子とします祈願を発しながらお堂の周囲を巡ること1万編。 やがて夢に金柑きんかん(ミカン科)を頂いふところに入れると、と妊娠していた。 そして正月8日の午前8時ころ、ちょうど日の出の時刻に上人は誕生し、幼名を薬師とつけた。
 薬師丸が8歳の治承じしょう4年(1180)正月8日、母が病死し、同年秋9月13日、父の重国は上総国かずさのくにに於いて源頼朝の軍と戦って戦死した。 薬師丸は孤児となり、暫く母の妹の夫である崎山良貞に養われた。 
 9歳の時、8月親類と別れて早くも高雄に上られ、文覚上人の弟子となった。 
 高雄の上人文覚ははじめの俗名は遠藤盛遠もりえんで、元は摂津源氏傘下摂津国渡辺党の武士であり、鳥羽天皇の皇女統子内親王に仕えていた北面の武士だった。 従兄弟で同僚の渡辺渡の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことから出家したと言う。
 荒廃しきっていた高雄山神護寺を再興するため後白河天皇に強訴したため、伊豆に配流された。 災い転じて福をなすという諺があるが、そこで同じ配流の身だった源頼朝に出会い、平家打倒の挙兵を促した。 頼朝が政権を取ると文覚は播磨の国を与えられ思うままに、高雄の神護寺及び東寺等を興隆し、同時代に東大寺を再興した俊乗房重源と共にじ英雄視された。 しかし、頼朝の知遇を笠に着て我がままの振る舞い多くさすがの頼朝も不愉快になり、戒告を発するほどであった。 正治せいじ元年(1199)正月、頼朝が没するやわずか2ヶ月ごの3月19日後鳥羽上皇に疎まれ佐渡国へ流され、一度は許され京都ね帰ったものの元久げんきゅう2年(1205)またも対馬へ流された。
 明恵上人は、13歳から19歳まで、金剛界の初行の時期になるまでは、毎日3回も高雄の金堂に入って7年間怠ることはなかった。 文治4年(118816歳で剃髪出家して、東大寺の戒壇院で具足戒ぐそくかい(僧として守る戒=僧になること)を受けた。
 建久けんきゅう4年(1193)華厳宗を興して盛んにするために朝廷が経典の講義のために出講せよとのお召しがあった、しかしこれは学閥派閥の争いが表面化し、朝廷に庇護応援を求めようとしたものであった。 上人はこの様なことは釈迦の本旨に合わず、仏法広流の役にも立つまい。 このような俗欲の強い僧どもから離れて、かねて希望とおり、文殊菩薩を信頼し、仏道の道に入りたいと高雄山寺を出て紀伊国へ向かった。
 紀伊国湯浅の栖原村すはらむら白上しらかみの峰に一軒の粗末な小屋を立ててここに入られた。
その峰には大盤石が並び立っていた。 その大岩の上に二間の小屋を造り、西南2段ほど下がった処にもう一軒の粗末な小屋をたてた。 これは志を同じくして入門した僧侶のための物である。 上人はここで座禅、行法に寝食を忘れて怠ることなく修行された。
 上人は母のように慕い手許を離さず終始拝んでいた「仏眼仏母画像」の前で、ある日決意した、抑え難き驕心を抑え、仏道に純粋に打ち込むために形を破ってその覚悟を新たにしようと、右の耳を切った。
 白上の庵で面倒なことがあり、場所変更を考えている時、文覚上人が重病であうとの知らせが届いたので、お見舞いのため高雄に帰られた。 ところが文覚上人の病気も多少軽く成った時に、文覚上人は言われた「自分に深く考えることがあるので、まげて聞いてもらいたい。 この寺の近辺には空き地も多いから草庵を建てて住みなさい。 この岩屋の向こうに様子が面白い巖がある、その上に庵を造って差し上げましょう、それでも不満なら栂尾に庵を造って上げましょう、あそこ程静かなところはない、運慶法師が作った釈迦尊像を付けて差し上げましょう」などと色々親切に引き止められた。 「自分は老人であり、何時果てるかもしれないのに、どうして私を見捨てられるのか」など諭され、全ての僧が希望したので辞するわけにも行かなかった。 
 建久9年(1198)秋の終わりに、高雄にちょっとした騒動があり、不愉快であると言い、紀州白上の峰に帰趣られた。 しかし、白上は以前より人家が近づき、その上3,4町下に大きな道が付き煩くなったので、石垣山の奥、人里から30町余り離れた筏立に移った。 ここは趣のある神聖な土地で上人の伯父湯浅兵衛尉ゆあさひょうえのじょう宗光むねみつの領地で、そこに簡単な小屋を建てて上人を迎えた。 
 上人はここに移ってから、座禅の修行に専心する傍ら、「唯心観行式ゆいしんかんこうしき」、「解脱門義げだつもんぎ」、「信種義しんしゅぎ」を著作しまた「随意別眼ずいいべつがんの文もん」も同様に集められた。 また建仁けんにん元年(1201)には「如心偈にょしんげの釈しゃく」及び「唯心義ゆいしんぎ」2巻を作られた。
 ある日、上人が話された「私は、死後極楽にありたいとは言わない。 ただこの世で、己の分に従ってそれを生かしきって、あるべき姿でありたいと願うのである。 釈尊の教えの中にも修行すべきは修行し、挙動すべきは挙動せよと説いてある。 この世はどうでもよい、死後だけ極楽往生と説かれた経典はないのである。 ……。 だからこそ『あるべきやうは(それぞれの分に応じてのありようは)』と言う七文字をまもる。 これを守ることを善とする。 人が悪いことをするのは、わざと悪いことするのである。 間違って悪いことをするのではない。 分に応じたありかたに違反して無理にまげてこれをするのである。 この七字の教えを心がけて守るならば、世の中に悪いことが現れるはずがない」
(3) 明恵上人と高山寺
 明恵上人は高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされている。 上人34歳多年の行学が熟し、上下四方の人々の帰依を得つつあった建永けんえい元年11月8日、後鳥羽上皇から栂尾の地を賜う。 これをもって永く華厳宗興隆の根本道場と定め、藤原長房の筆による「日の出光照高山之寺ひいでてまずこうざんのてら」の勅額を賜った。 高山と言うのは華厳経を象徴した言葉であり、高山寺とは華厳の寺を意味し、以来、高山寺の名を持って呼ばれるようになった。
 我が国にあって華厳の教学は奈良東大寺を中心としたのであるが、高山寺は」後鳥羽院の院宣に基ずき、華厳宗を根本とし、戒密禅兼修の寺として京都の中心となったのである。
 仏法興隆のための安定した道場を得た上人は集まってくる同法や弟子、存俗の求道者に講経や法談、受戒、写経などをもってしたが、同時に自己の研修を怠らず禅観(雑念を除き、無念、無想、無我になる)に勤めた。
 文覚上人の教えによって上人は、紀州の庵を捨て、栂尾に住まわれた最初の頃は、松柏が茂り感じ深い山であったが、そこでごく粗末な草葺の庵を造って最初の間は上人のお付の僧とただ二人だけで住まわれた。 翌年の春頃から極めてねんごろで親切に希望する連中があったので4人になり、そのうちの一人が喜海であった。 全てことを放棄しただ仏教を実践する努力以外には何もせず夜眠りにつくのも夜中の1刻(2時間)、髪を剃り、爪を切ったりする暇も日中わずか1刻。 この昼夜それぞれ1刻(2時間)以外は、全く他事に触れなかった。 その修行の厳しさはこの上もなく、中途半端は志では耐えられるはずがなかった。 その後、この仲間に入りたいと強く希望する者もあってだんだん人数も増し7人になった。 その後は、噂を聞き訪れて仲間に入りたいと願い出るものも多かったが上人はお許しにならず、そのためにある者は門の外の石の上に座り込み6,7日もの間食事も取らず、ある者は庭先の泥の中に立ったまま3,4日動こうともしなかった。 さすがの上人もお許しがでたので3年間で18人になった。 このように年数が経過し、10年以内に50人余になった。
 上人は、高山寺において、仏堂の他に、藤原一門の氏神である春日明神を鎮守として祭った。 摂政・関白家たる藤原一門は上人に帰依し、同時に春日社を崇敬した。 関西には、奈良に春日神社、摂津に枚岡神社があるが、いずれも遠隔地で参詣に便が悪く、京都における唯一の祖神として高山寺の春日社信仰を篤くし、藤原氏の長者になった者は先ず第一に高山寺の春日社に参詣して藤原一門の繁栄を祈願した。
 また近衛と高山寺との係りは、関白近衛基通もとみちが上人に帰依し,承元じょうげん2年(1208)の秋、上人を戒師として出家して法名を行理と改めた時に始まる。 更に鷹司家との関係は、初代鷹司兼平が兄兼経としばしば当山に参詣していた。
               ┌ 九条兼実(初代)─良経─ 道家
 藤原忠通 ┴ 近衛基実(初代)─基通─ 家実 ┬ 兼経  ─  基平
                                          └ 鷹司兼平(初代)
(4) 栄西禅師と明恵上人
 栄西禅師は再度の入宋後、建仁けんにん2年(1202)に建仁寺を建立し、修行意思のあるものを集め講座を開き、新い中国渡来の禅定ぜんじょう(精神状態をある対象に集中させ宗教的な精神状態に入る事)を修(学問・技術を身につける)した。 入門した一人に明恵上人がいた。 上人は禅師から印可いんか(終了証明書)を受け取る際、この宗派を受け継ぎ、発展に協力してもらえないかと勧誘された。 しかし、上人は「さる子細あり」と辞退された。 しかし、死期が近づいた栄西禅師は、元来後継者に申し送りすべき品である師匠である大宋国の東林懐敝えしょうから受け継いだ相伝の法衣を頂いた。
 また、栄西禅師の心の表われとして宋土伝来の茶種の授受があった。 その容器は漠柿形茶入おやのかきべたのちゃいれと言って高山寺寺宝として伝存する。 茶入には茶種3粒あり、栂尾ふかいせ三本木に植えられた。 ここは地味がよく、優れた茶を産したが徐々に山裾に広げられ、仁和寺、醍醐、宇治、葉室はむろ、般若寺、神尾寺に移された。 
 他方、栄西禅師は「喫茶養生記」を書いて、茶は仙薬であり、人の寿命を延ばす妙術備えたものであると説いたので、喫茶の効能が広く認識され、全国に普及した。 鎌倉、室町期を通じて、栂尾の茶は本茶と言われ毎年宮中及び将軍家へ献上された。
(5) 明恵上人と北条氏
 承久じょうきゅうの乱は、鎌倉時代の承久3年(1221)ん、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱である。 
 治承じしょう・寿永じゅえいの乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝を棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心に諸国に守護、地頭を設置し、警察件を掌握していたが、西国は支配しきっておらず依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態であった。 
 承久元年(1219)3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺され、源氏の後継者断絶した。 後鳥羽上皇は好機到来と兵を挙げた。 京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。 しかし、上皇の予想に反し、東国武士の結束は非常に固かった。 兵力に劣る院軍は、連戦連敗で敗走し、6月14日宇治川で最後の防戦するも利無く、院方は戦意を失い洛中に逃げ帰った。 ところが幕府側は更に追跡を続け、遂に栂尾山中於いて探し捕らえ、落人を隠匿した上人も罪人として共に、泰時の陣営六波羅に連行された。 しかし、以外にも泰時は仰天して自分の座を離れ、上人を上座に据えた。
 泰時は上人の徳望について前年によく承知していたからであろう。
 上人「高山寺に落人を多く隠したことが理由でしょう。 ごもっともです。 しかし、この山は三宝が居る所で殺生禁止の地である。 従って、敵から逃れ、命ばかり助かりたいと木や岩陰に隠れている者を、情け容赦もなく、追い出し、あなた方に捕らえられ、命を奪われたらどうなります。 昔御釈迦さんは鳩に変身して飢えた鷹の餌になり又あるときには我が身を飢えた虎にあたえた。 隠す場所として袖の中でも、袈裟の下にでも隠してやりたい。 政治を収める者にとってそれがだめと言うのであれば愚僧の首を刎ねるるかよい。」といわれた。 泰時はこのお言葉を聴き、深く感じて申し上げた。
 「詳しい事情も知らない田舎ものが、命令も無く入り込んで、乱暴した事はまことに申し訳ございません。 その上、上人をここまで引き立てた事、恐縮至極でございます。 今度も無事に上京した折には最初に、栂尾に参上致し、生死の大事についてご指導賜りたいと以前から願っていましたが、ただいまの大事変に邪魔さて出来ませんでしたが、今日このような形で面会できたのも、仏のお計らいかもしれません。 それでお尋ねいたします。 どのようにして」生死の迷いから離脱できましょう。 またこのような裁判に、少しの私曲もなく道理のまま裁くのであれば罪にならないのでしょう」と、上人の答えは「少しでも道理から外れて行動する人は、来世のことは言うまでもなく、現世でまもなく滅亡するものであります。 そのことは申すまでもないが、たとえ正しい道理に従ってなされても、それぞれの分に応じての罪は逃れられぬこともありましょう。 生死の助けなどとはとんでもないことです。 山中の僧侶でもやはり仏の教えの奥深い道理に合わない3界六道に迷いの生死を続けると言う苦しみから逃れるわけにも行かぬ。 まして俗世間の欲心から出発して種々の雑念に縛り付けられて、仏の教えすら知らないで毎日を送っている人はなおのことです。 世間に大地獄というものが現れるのは以上のような人が落ちるために外ありません。 ……。 …しばらくの間どんなことでもみなすてて真っ先に仏のみ教えを信じ、その仏法の真理を充分に理解して政治を執り行われたら、自然と宜しくなるでしょう」といわれた。
 泰時は上人の話を聞き、心に深くとめられた。 やがて輿を用意し、上人を乗せ門の近くまで泰時自身が見送った。
 かかる場面に遭遇した、秋田城介安達景盛の心は痛く動揺した。 景盛は戦いに勝つことが武士の生活信条あり、勝利者こそ最高者であると考えていた。 ところが承久の戦いの勝利者泰時ですら膝を屈し、その前に頭を下げざるを得ない仏陀の教え、慈悲行のあることを発見した。 まもなく安達景盛は出家して上人の弟子となった。
 元仁げんにん元年(1224)二代執権義時が亡くなり、泰時が三代執権となった時、丹波の国庄園1箇所を高山寺に寄進された。 しかし、上人は「このような寺に領地は不要です。 僧侶どもがどんなでたらめでも寺領のお陰で、生活も安定し、衣装も工面できると思って仏法の志のないならず者どもが入り住んで、ますます道理から外れて行くようになる。 寺が経済的に恵まれとそれに甘え、稚児を置いて酒をくみかわして楽しむとか、武器を持ってとんでもない行動にでるとか、何をするかわかりません。 僧侶は貧乏で、他人から尊敬されることだけでやってゆけば、自然とでたらめ行為もありません。 …。」と言って返還されたのである。
 泰時はいつも人に会って語られた。
「自分は不出来な人間でありながら、辞退せずに執権となり、政務を執って天下を治めることのできたのは、もっぱら明恵上人のお陰です。 なぜかと言うと、承久の乱後、京都に行った時には必ず、上人にお目にかかった。 あるとき『どのような手段で天下を治めたらよいか』とお尋ねしたとき、上人が仰せられるには『七転八倒して苦しみ抜いている病人でも、名医はその患者を診てこれは寒が原因である。 この病人は熱が原因であると、それぞれの病気の起こった根本を知って薬を与え、灸を据えれば、病気が全快するように、国家が乱れて平和でないのは、何が原因かとまず、根本原因を突き止めなければならぬ。そうでなくその場その場にぶつかって賞罰を与えるのでは、ますます人の心はねじけて世の中が乱れる。 これは、ちょうど藪医者が、感熱の原因をつきとめもせず、病人の痛がる所に灸を据え、患者の希望通りやたらと薬を与えるようなものです。 …。』と言われた。 泰時が申すには『この教え大切ですから私自身は全力をつくして教えを守りましょう。 しかし、他人がこの教えを守らせるのは難しいと思いますが、どうしたら良いでしょう。』 上人はこたえられた『それは簡単です。 為政者の心次第です。 昔、人の体が真直ぐであれば影は曲がらない、政治が正しければ国は決して乱れないと言う言葉がある。 この正しいとは、無欲ということである。 また、為政者が自分の室で仕事に当たっても、立派な事をしている時には、千里より』遠い地方の者までも皆その指示に従うものです。 ただ、為政者である貴方お一人が無欲になりきったら、その徳に感化されて、国中の人々皆が自然と欲が薄くなるでしょう。 …』といわれた。 」
 承久の乱は、北条氏政権確立の機会となった反面、3上皇の遷幸と言う無道も敢て行われた。 同時にこれに関係した京都方の公卿将兵の多くは戦死あるいは罪を問われて厳罰に処せられた。 乱後の緊急、重要な問題は、戦争被害の婦人、戦争未亡人の救済であった。 
 ここにおいて上人は、一つには故人の菩提を弔うため、二つには謀反人の妻女として世間から白眼視されていた彼女達の余生を安穏ならしめるために善妙尼寺ぜんみょうにじを作って、暖かい救いの手を差し伸べた。 上人の善妙尼寺創立に当たっては後援者も少なくなかったが、その一人に中御門中納言宗行の後室禅尼がある。 宗行は元蔵人頭であり、北条氏討伐の院宣を認めた件で捕らえられ鎌倉へ護送中、承久3年(1221)7月14日処刑された。 禅尼は悲惨な死を遂げた夫の菩提の為に善妙尼寺倒立の本願主となり、自ら他の戦争未亡人と共に出家した。
(6) 明恵上人と島津忠久
 薩摩藩島津家の先祖島津忠久公は、上人の薫陶を受けて、成人したひとである。 父は源頼朝、母は頼朝の武将比企能員ひきよしかずの妹、丹後局である。 丹後局の妊娠を知った正室の北条政子は、これを殺さんとしたので、頼朝はひそかに回路西国に逃げさせたのである。 治承じしょう4年(1180)正月近衛基通公は恒例により摂津浪速の住吉神社に年賀の参拝をした。 社頭に於いてはからずも丹後局の一行に逢い、これを伴って京都へ帰りここに丹後局は目出度く男子を出産したのである。 鎌倉頼朝より「三郎と命名」の親書が届いた。 
 近衛基通は上人の信者でかつ弟子でもあったので、三郎丸は成人し、上人の教えである「あるべきやうは」の精神を体得したのである。 建久けんきゅう8年(1197)元服して島津三郎忠久と名乗り、近衛家の荘園島津之荘(薩摩、大隈、日向)の守護職に就いた。 その時、師の明恵上人に報恩報徳の思いを込めて肖像がを納めた。
(7) 明恵上人入滅
 上人は寛喜かんぎ4年(1232)死去満58歳。まもなく喜海をはじめとする弟子たちが上人の影像を掲げて、上人が生前に使用された数々の品をそろえて、尊師、在世のごとくつかえ、いわゆる御影堂信仰が始まり、今日の開山堂に発展した。 上人の御影は弟子の恵日房成忍が、上人の目耳等の寸法を測り、心を尽くして筆を執ったものであった。 御影の前に一脚の机を置き在りし日の上人の持経、香炉、打鳴、などをそのまま置いた。 更に朝食の粥、昼食や湯薬、燈燭などまさに生前に上人に奉仕するがごとくであった。
(8) 南北朝以降の高山寺
 高山寺諸院、諸坊は後花園天皇、六代将軍義教の頃(1440)までは相当の面目を保っていた。 ところが、後土御門天皇、八代将軍義政の時応仁年代に入って戦国時代を迎えると、応仁の乱(1467)の影響を受けること甚大で、当初は山名方に、後には細川方、時としては時代的交互の占拠が行われ、高山寺は荒廃にまかせた。
 山名宗全は、禁制礼を出し高山寺を保護した、したがってその対敵である細川軍から敵城視された。 天文16年(1547)7月細川輝元が高雄を攻略した時、高雄の伽藍と共に高山寺の金堂、十三重塔などの伽藍の多くは灰燼に帰し、仏像等の貴重な寺宝が多数消失し、わずかに石水院、御廟、経蔵又は鎮守社、仁王門、院坊、三坊の七つの建物が残存した。 
(9) 江戸時代の高山寺
 復興の行は江戸時代初期の寛永1113年(163436)頃、秀融上人、永弁上人等により始められ、金堂、開山堂が復興した。 現在の金堂は、仁和寺の子院真光院の本堂を移築したものである。 仁和寺本堂及び諸堂は応仁の乱で略全焼したが双ヶ岡の子院真光院だけ戦火の被害を免れ、ここに全機能が一時的に避難していた。 
 仁和寺の代21世座主覚深法親王は、徳川三代将軍家光に仁和寺再造を願い出、それが受入られ、再興後、不要になった真光院の本堂を移築した。 覚深法親王は高山寺復興に際し、高山寺に置文を定められた。 この地に山内の遊芸の禁止、広沢流を本流とすべきこと、東西経蔵の遠方借出の禁止等高山寺に居住する僧の守るべきことが18条にわたって定め置かれている。
 寛永13年(1636)から宝永ほうえい5年(1708)に至る72年間に復興した堂坊は、石水院、仁王門の旧存のものに新築を加えて、金堂、春日(石水院)、御廟、開山堂、禅堂院と報恩院、賢首院、善財院、十無尽院、宝性院、三尊院、中坊観院が新しい。
 享保きょほ2年(1717)御廟、開山堂、護摩殿、禅堂院、その後宝性院焼失、開山堂及び御廟再建するも、善財院焼失した。
10) 明治以降の高山寺
 明治に入り、新政府の仏教政策が次々とうちだされた。 明治の神仏習合の破棄。 更に4年寺院は境内地を除く寺領・寺有地全ての上地を命ぜられ、土地に経済的基盤をおいていた寺院は大打撃を受けた。 高山寺も例外ではなかつた。 寛喜2年の境内図では広大な山域をゆうしていたが現在は約16町歩に縮小されている。
 当初、高山寺は華厳宗本山高山寺称していたが、明治5年大政官第174号により、真言宗所轄となった。 これは、同明治5年に、法相、華厳、律、融通念仏各宗の廃止、天台、」真言、禅、浄土、日蓮、真宗、時宗の7宗に統一し「一宗、一官長の制」によるものである。
 明治14年4月25日白雲橋対岸の民家の火災による飛び火により、塔頭住坊坊が全焼した。 特に惜しむべきは仁王門であった。
                        3・高山寺の建築
(1) 石水院 (国宝)
 石水院の構造建築は、正面3間、背面4間、側面3間、正面1間通り、一重、切妻造り妻側庇付、杮葺。 垂木は相当荒い疎垂木で二軒ふたのき、しかも垂木の下側は大きく面とりがしてある。 屋根は緩くそり、女性的で、派手さがなく、落ち着きのある美しい日本建築である。
 この建築は創建以来、移築と改造とを何回も繰返し、最後は昭和(22年)になって現地に移された。 上人は釈尊を敬慕される心が強く、山中で静かに座禅を組む厳しい修行を旨とし高山寺の山中でもこれを各所に求めた。 鎌倉時代、建保けんぽ3年(1215)練若台れんにょくだいと名付ける三間一面の座禅行法の庵室が出来たが、上人の健康上によくない場所だった。 それで2年後にはこれを解体して移し「石水院」とした。 翌建保6年上賀茂社の北の神山下の別所に移られるが、ここでは賀茂の神主能久が庵室や経蔵を寄進され「仏光院」とし、その中で上人の居室を「禅堂院」と呼んだが、これを移築したのが現在の「石水院」であるとの2説がある。 従って現在の「石水院」は、練若台以来の旧石水院の一部の部材と上賀茂の禅堂院の一部の部材から出来ていると考えられる。
 安貞あんてい2年(1228)石水院の後方が水害を受けたので金堂の東に移動し「禅堂院と名付けた」、明治22年5月京都府の指令で現在の位置に移動した。
 奈良時代の建築には床が無く、平安時代になって床が出来た。 しかし、平安時代の住宅建築は残存せず、鎌倉初期が最古の住宅建築になる。 したがって石水院は宇治上神社拝殿と共に最古の住宅建築になる。
 石水院は明恵上人に関係する唯一の建築である。 この建築は西向き、正面は蔀戸しとみど、両横は引き違い戸を二枚たて、南側は菱格子戸ひしこうしどとしている。 その内部は化粧屋根裏で縁側と同じような構造になっている。 床は板敷き、正面と南に比較的初期と思われる透かし蟇股をいれる。 中央に富岡鉄斎筆の「石水院」の額を上げている。
 石水院は古くから春日住吉両社の画像が安置されて知名の人達の参拝もあった。 画像はこの庇の間の内側に祀られていたのでこ庇は拝殿の役をなしていた。
 正面から左へ南にまわれば南側も一間通りが化粧屋根裏となっている。 こkは現在畳が敷かれ、外部との境は蔀とその内部に障子を立てる。 正面側の部屋の天井は山形をなす船底天井となっていて、珍しい。 他には、三千院の往生極楽院がしられている。 他の部屋は正面と同様板面の屋根裏天井となっている。 
 この天井板はもと屋根に葺かれていた厚い板で、桧皮葺の下に残っていたのを裏返しにして用いたものです。 今の室内の柱、床柱、床框とこまがち、鴨居などにこれが持ちられている。 
(2) 金堂
 仁和寺にあった堂を移したものである。 三間三間、一重入母屋銅板葺、釈迦如来を本尊とする。 正面1間の向拝付、建具は蔀戸、両側面に前から引違舞良戸まらいど(枠に細い桟を入れた戸)、板戸、壁、背面には中の間だけ諸折両開桟唐戸もろおれりょうびらきさんからと、両脇壁で、四方縁付きである。 建築年代は桃山時代から江戸初期と思われる。
 内部は三間二間が外陣、残りが内陣で外陣の天井は格天井、内陣は小組格天井で中央本尊上のみ折上小組格天上。
(3) 宝篋印塔ほうぎょういんとう (重要文化財)
 宝篋印塔は塔婆の一形式。 宝篋ほうぎょうとは宝経を蔵する箱のこと。 陀
羅尼だらには梵名ダーラニーで呪文の一種。 通常訳さずサンスクリット語を
漢字に音写したものを唱える。 宝篋印塔は陀羅尼を納めた箱であった。 
通常陀羅尼を書写し、読誦どくしょうするか、この陀羅尼を納めた宝篋印塔を礼
拝すれば、罪を滅し、三途さんず(地獄、餓鬼、畜生を三途又は三悪と言う)
の苦を免れ、長寿なると言う。
 宝篋印塔は、中世に実際に陀羅尼を納めた例はあるが、一般的には、舎利
塔として用いたり、墓塔や供養塔として造立される。

 宝篋印塔の構造は、相輪そうりん、笠、塔身とうしん、基礎の4つの部分からな
る、相輪は、最上部の棒状の部分で、頂部に宝珠ほうじゅ、受花(請花)うけばな
、九輪くりん、伏鉢ふせばちなどと呼ばれる部分がある。

 笠の四隅には馬の耳をした装飾(隅飾すみかざり)突起を造り、上部には6段
の段形になり最上部が路盤ろばんになる、また軒下には二段の段の掘り出しを
もつ。 この四隅の耳は時代が古いほど垂直で時代が下がるほど傾斜が付く。 

 笠の下の方形の部分は塔身とうしん、更にその下の方形の部分は基礎と言われる。
 この塔身部の四角に四角の輪郭が刻まれず、基礎部の格座間こうざまが一つ
の型が関西式と呼ばれる基本のかたである。 塔身に四角の輪郭を刻り、基礎
部に格座間が二つあるものは関東式と呼ばれている。 また、基礎の下に反花
座(礎盤)を敷いたものもある。

 塔身は素面又は梵字や像刻む。 像は金剛界4仏が一般的である。 梵字は東西南北の仏を表しているため方向は正確でなければならない。
  ウーン(阿閦如来あしゅくにょらい=東)、   タラーク(宝性如来ほうしょうにょらい=南)、
  キリーク(阿弥陀如来あみだにょらい=西)、 アク(不空成就如来ふぐうじょうじゅにょらい=北)
 高山寺の宝篋印塔は京都市右京区梅ヶ畑にある為因寺いいんじのものと並んでわが国の宝篋印塔中最も古い様式でいずれも重要文化財に指定されている。 両宝篋印塔は、作者が同じでないかと思われるほどよきにている。
 為因寺は、現在阿弥陀如来を祀った本堂と庫裏のみの浄土宗の小さな寺であるが、もとこの地にあった高山寺の別院善妙寺(善妙尼寺)を継いだ寺と伝える。 善妙寺は早く廃亡し、天正てんしょう7年(1579)に再興されたのが為因寺である。 即ち、為因寺の宝篋印塔はもと高山寺の子院善妙寺の宝篋印塔であった。
(4) 如法経塔にょほうきょうとう (重要文化財)
 御廟前にある如法経塔は、如法供養した法華経を埋納した上に立てられている。 如法経塔は、基壇、立方体の塔身、宝形造の屋根とその路盤の宝珠からなる一重の塔で、割りに珍しいものである。 高山寺のは正面に「如法経」と彫られ、屋根のなだらかな曲線や鎌倉時代の特徴を見ることが出来る。 鎌倉期の傑作である。
(5) 開山堂  非公開
(6) 御廟   非公開

                      4・高山寺の寺宝
   A 絵画
(1) 鳥獣人物戯画 (国宝)  東京国立博物館「甲・丙」、京都国立博物館「乙・丁」
         甲巻31.4cm×1148.0m  乙巻30.6cm×1189.0m
              丙巻30.9cm× 993.5m  丁巻31.2cm×1130.5m
 鳥獣戯画ちょうじゅうぎがともよばれるが、鳥と獣ばかりが描かれているのではない。 無論猿がいて蛙がおり、狐、兎、猫、馬、鹿、鷹が次々に登場するし、そもそも甲巻の猿や蛙は、そのもの独自の特性において描かれているわけではなく、人間の姿態動作を模倣する擬人化された鳥獣である。 鳥獣の姿態は人間をモデルにしている。
 モデルはほとんど全てが遊んでいる人間(又は鳥獣)である。 双六や囲碁,相撲の勝敗や追っかけごっこに一喜一憂する動物達。 乙巻の綱引きや首引きの力自慢。 丙、丁巻までくると武芸を競う。
 動物達が人間の遊びを行うような絵巻が描かれるには何かのピントが必要であったと考えられる。 その一つに風流が考えられる。 風流とは、祭礼の飾や装束、あるいは踊りの趣向である。 祭りが近づくと、人々はそうした趣向に知恵を尽くしたが、12世紀に描かれた年中行事、絵巻の賀茂の風流笠に猿と兎が鹿や狐に乗って競馬している様が作り物として描かれている。 鳥獣戯画の筆者はそれを見たか、評判を聞いた可能性がある。 甲巻の動物達は実に屈託がなく、のびのびと遊んでいる。 平安時代の絵画は、人間が描かれても決して歓喜苦渋の表情は描かれないが、動物が主人公になるとそうした特徴が一層徹底されるようであった。 
 成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため、12世紀―13世紀(平安時代末期~鎌倉時代初期)の幅のある年代に複数の作者によって個別の作品として製作され、鳥獣人物戯画として編集したものとされる。
 これらの絵巻は、鳥羽僧正覚猷かくゆう10531140)の手によると伝えられる。 鳥羽僧正覚猷は、源隆国の第9子として生まれた。 若年時に出家し、四天王寺別当、法成寺別当、園城寺長吏を経、113847世天台座主となったが3日で辞任し、厚い帰依を寄せていた鳥羽上皇が住む鳥羽離宮の証金剛院に住み同離宮の護持僧となつり、以後鳥羽僧正と呼ばれた。 鳥羽僧正は、日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績残した。
(2) 明恵上人樹上座禅像 (国宝)145cm×59cm「京都国立博物館」
  赤松の幹に藤の蔓が絡まり、枝枝に花房がさがり、季節は初夏と思われる。 丁度、座禅をするにに都合の良い木株に座った明恵上人の傍らつがいの小鳥が飛び交う。 自然のなかに融けこんだ上人の姿が余すところなく描かれている。 上人の傍らの小枝に提げた高炉からうっすらとくゆる煙をみれば、一陣の風さえない静かな世界がえがかれている。
 本画の上部に「高山寺楞伽山中 縄床樹定心石」と明恵上人と思われる筆跡がある。 本画はまさに縄床樹じょうしゅじゅに座禅するところを描いたものである。 
(3) 絹本著色仏眼仏母像 (国宝)195cm×127.9cm「京都国立博物館」
 明恵上人は、19歳の時、師興然阿闍梨から金剛界を受法して以来、この仏眼仏母像を本尊とする仏眼法をまいにち2回勤行することを業とした。 
 上人は8歳の時に両親を亡くし、孤児になった。 この両親に代わるっものとして、仏の母(人は真理を見つめて世の理を悟り、仏即ち「目覚めた者」となる。 真理を見つめる眼が仏を生む)である仏眼仏母像をははのごとく恋慕し、また釈迦を慈父として熱烈な信仰を寄せた。 
 しかし、一方、自らの修行が進まないことに苦しみ「形をやつくして人間を辞し、志を硬して如来のあとをふまむことを思」と仏眼仏母像の前で、右耳を切り落とした。 それは、明恵上人24歳、建久けんきゅう7年(1196)紀州白上の頃であった。
(4) 紙本著色華厳宗祖師絵伝 (国宝)   「京都国立博物館」
   各縦31.5cm 全長、巻1 1583.0cm巻2 1219.0cm、巻3 154.5 cm
                   巻4 1420.0cm、巻5 1531.0cm、巻6  865.0 cm

 粗筋 新羅僧義湘と元暁は入唐を志し、相連だって新羅を出発した。 途中、雨を避けるためある塚に雨宿りした。 翌日その塚が墓であることがわかったが、降り続く雨にやむを得ず、今一夜とまったところ、元暁の夢に鬼物が現れた。 元暁は、諸法みな同じで師を尋ねる必要がないとさとり、そこから引き返したので、義湘だけ唐に向かった。
 唐に就いた義湘はある富裕者の門口で托鉢出てきたのは美貌の娘善妙である。 善妙は美男の僧義湘に憧れ、自分の恋心を伝えます。 けれども義湘は自分は僧であるから、恋を受入れることは出来ない。 その心をもっと広く持って仏法を支える気持ちになさいと諭した。 善妙は先の邪心を翻してながく義湘の影のごとく添って不一需品を供給することを誓った。 義湘はその後、至相大師のところに行き学問を修め、新羅に帰るのだが、すでに出発したことを聞いた善妙は海に身を投げ、龍と化し義湘を守護するのである。
 新羅に帰った義湘は華厳宗を興隆した。 一方、元暁は内外の本を読みまた道端で琴を弾いたり、山水の辺で座禅を行い、狂人の様と言われた。 その後。時の皇后が病気に罹り、使者が医者を探しに唐に向かう途中、龍神のお告げがあり大安聖者と元暁の力によって病が治ると言う話がえがかれている。
(5) 絹本著色菩薩像                                             (重要文化財) 「非公開」
(6) 絹本著色華厳経海会諸聖衆紙本墨画              (重要文化財) 「非公開」
(7) 絹本著色熊野菩薩紙本墨画                            (重要文化財) 「非公開」
(8) 紙本墨画藤原兼経像                                       (重要文化財) 「非公開」
(9) 絹本著色不空三蔵像                                       (重要文化財) 「非公開」
10) 紙本墨画高僧像達磨宗六祖師像                     (重要文化財) 「非公開」
11) 紙本墨画将軍塚絵巻                                      (重要文化財) 「非公開」
12) 絹本著色五色聖紙本墨画                               (重要文化財) 「非公開」
13) 絹本著色明恵上人像                                      (重要文化財) 「非公開」
   B 書籍典籍
14) 冥報記めいほうき           (国宝)   「非公開」
    各縦28.2cm、上巻339.3、中巻557.7 cm、後巻672.7cm
 我が国には、中国の古書で、既に中国では滅失しているにもかかわらず、日本に現存している貴重な典籍が幾つかある。 本書もその一つである。 
 冥報記めいほうきとは表題の通り、因果応報にまつわる話を収録した物で、唐の永徽年中(56056)中部尚唐臨の撰になるものである。
 高山寺本は唐代の写本で包紙に「円行阿闍梨将来唐入書建長2年義淵上人注進」と墨書されておいる。
15) 玉篇巻第二七(前半) 20.6 cm×915.1cm   (国宝)   「非公開」
 
玉篇ぎょくへんとは中国の梁代の顧野王が編集した字書のことで、後漢に成立した、字書、説文解字、を敷説明した書物で30巻からなる。 中国にはなく、我が国では早稲田大学、神宮、京都府大福光寺、石山寺などにある。そのうち高山寺本は、石山寺本と合わせると巻第27の全巻がそろうことになり、原本の体裁を伺う点がとりわけ貴重である。 
16) 篆隷万象名義てんれいばんしょうめい 20.0 cm ×12.1cm  (国宝)   「非公開」
 本書は内題に続いて「東大寺沙門大僧都空海撰」とあるように弘法大師によって撰述された我が国最古の字書である。 本書は現存する唯一の古写本として貴重である。 体裁は一部30巻を六冊の冊子に仕立ててあり、各々粘葉装でっちょうそう(文字の書かれた面を内側に入れて折り目の外側を糊付けした書物)である。 
 本文の内容は、まず最初に篆書ていしょ(漢字の書体の一つ。 秦代に使われていた)と言って、現在も印章に用いられる。次に同じく秦代に篆書てんしょを簡単にして考案された隷書れいしょ(今日の楷書に近い)をきし、更にそのもじの音と文字の釈義を注記している。
17)華厳宗一乗開心論 巻下                                   (重要文化財) 「非公開」
18)華厳孔目章巻第1、第2、第3、第4              (重要文化財) 「非公開」
19)華厳伝音義                                                     (重要文化財) 「非公開」
20)義天録巻第1、第2、第3、2巻                     (重要文化財) 「非公開」
21)金剛頂瑜伽経巻第1、第2、第3                     (重要文化財) 「非公開」
22)倶舎論中不染無知断位料簡                               (重要文化財) 「非公開」
23)釈迦五百大願経上下                                          (重要文化財) 「非公開」
24)古華厳経54                                                  (重要文化財) 「非公開」
25)新訳華厳経音義                                                (重要文化財) 「非公開」
26)貞元華厳経38                                               (重要文化財) 「非公開」
27)貞元華厳経恩義                                                (重要文化財) 「非公開」
28)梵天火羅図1帖                                                (重要文化財) 「非公開」
29)明恵上人詠草                                                    (重要文化財) 「非公開」
30)華厳信種義明恵上人筆                                      (重要文化財) 「非公開」
31)大唐天竺里程書明恵上人筆                               (重要文化財) 「非公開」
32)入解脱門義上下明恵上人筆                               (重要文化財) 「非公開」
33)大法炬陀羅尼経要文集明恵上人筆                     (重要文化財) 「非公開」
34)弥勒上生経石川年足筆                                      (重要文化財) 「非公開」
35)史記巻第3、第4                                             (重要文化財) 「非公開」
36)論語巻第4、第8                                             (重要文化財) 「非公開」
37)論語巻第7、第8                                             (重要文化財) 「非公開」
38)荘子7巻                                                           (重要文化財) 「非公開」
39)宋刊本斎民要術巻第5、第8                            (重要文化財) 「非公開」
40)宋版華厳三昧章 法蔵述                                   (重要文化財) 「非公開」
41)宋版金光明文句護国記如湛述 4帖                 (重要文化財) 「非公開」
42)宋版金剛記外別解笑庵観復述 4帖                 (重要文化財) 「非公開」
43)宋版法蔵和尚伝崔致遠結                                   (重要文化財) 「非公開」
44)高弁夢記1巻1,9通,2帖,2冊,3幅                 (重要文化財) 「非公開」
45)高山寺典籍文書類、9290                              (重要文化財) 「非公開」
46)神尾一切経蔵領古図2幅                                   (重要文化財) 「非公開」
   C 彫刻                               
47)乾漆薬師如来座像                                             (重要文化財) 「非公開」
48)木造狛犬1対                                                    (重要文化財) 「非公開」
49)木造狛犬3対                                                    (重要文化財) 「非公開」
50)木造鹿1対、馬1駆、犬1駆                            (重要文化財) 「非公開」
51)木造善妙神立像                                                 (重要文化財) 「非公開」
52)木造白光神立像                                                 (重要文化財) 「非公開」
53)木造明恵上人                                                    (重要文化財) 「非公開」
   D 工芸品
54)阿字螺鈿蒔絵月輪形厨子                                   (重要文化財) 「非公開」
55)黒漆机                                                               (重要文化財) 「非公開」
56)木製彩絵転法輪筒                                             (重要文化財) 「非公開」
57)輪宝羯磨蒔絵舎利厨子                                      (重要文化財) 「非公開」

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