京都と寿司・ 朱雀錦
  (26)「世界遺産・西芳寺」・行基菩薩

                                     西芳寺・黄金池
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Ⅰ・西芳寺

 1・西芳寺の沿革

 「苔寺」の名で知られる西芳寺は、京都市西京区松尾に広さ10万m(約3万坪)を占
める臨済宗の単独寺院である。

 聖徳太子(574622)御創業の別荘を、今から約1300年前、聖武天皇の詔みことのりによ
って行基菩薩が畿内
49院の一つとして寺院に建てかえたもので、現在も行基菩薩を西芳寺
の開山としてお祀りしている。 「西芳寺縁起」によると行基菩薩は自作の阿弥陀三尊を
本尊とされ、法相宗の寺院として開かれた。

 その後、平安時代、真言宗の開祖弘法大師が西芳寺(当時は西方寺と書いた)に入山さ
れ、人々の災難を救おうとして放生会
ほうじょうえの儀式おこなわれた。 放生会とは生き物
の命を大切にするために小鳥や魚野山や池に放してやる慈悲行で、西芳寺の黄金池で行わ
れたものが、放生会の始まりと言われている。 また、平城天皇の皇子で弘法大師の高弟
である真如法親王が西芳寺で修行されている。

その後数百年の間に、後嵯峨天皇や坂上田村麻呂、高僧がしばしば訪れ大いに栄えたが、
次第に衰退していった。

 しかし、建久年間(11901199)に入ると摂津守中原師員もろかずは浄土宗の開祖法然上人
を招き、西方浄土寺
さいほうじょうどと厭離穢土寺えんりえどじの二つの浄土宗寺院として復興した。
法然上人は開山の行基菩薩が作られた阿弥陀三尊の霊像を金泥で美しく荘厳しょうごん(仏
像等を美しく飾ること)された、これが今日西芳寺に伝わる御本尊である。

 また、親鸞聖人も西芳寺に留まって愚禿堂くどくどうを築いた。 続いて正嘉しょうか年間(1257
59)北条時頼が有名な桜堂おうどうを建てた。 このころの西芳寺は栄華を極めていたが。
 しかし、その後、度々兵火に合い、西芳寺は再び衰退の道を歩みだした。

 このように西芳寺が悲運に陥っていた頃、西芳寺の北に位置する松尾神社の宮司摂津掃
部頭
かもんのかみ藤原親秀ちかひでが西芳寺に籠もり修行していると霊夢を感じ、西芳寺再建の悲
願を立てた。 そして当時高僧として知られていた夢窓国師
むそうこくしに会い、西芳寺再建の
協力を懇願しました。 夢窓国師は喜んで藤原親秀の申し入れを引き受け、住居も西芳寺
に移して全力をつくして復興に当たられた。 また暦応
りゃくおう2年(1339)夢想国師は、
西方浄土寺と厭離穢土寺の二つの寺院を統一し、そしてそれまで西方寺と書いていたもの
を禅宗の初祖達磨大師
だるまだいしをさす「祖師西来五葉聯芳そあしさいらいごようれんほう」の意味から
「西芳精舎
さいほうそうじゃと改められ、今日の西芳寺の名称が生まれた。 奈良時代から続い
た音
おんは残しつつ、宗旨は浄土宗より禅宗の臨済宗になった。 
 夢窓国師は高僧であるが、一方、また林泉作庭において非凡な才能を持たれ、西芳寺の
庭園の造営にも尽力された。 夢窓国師の創意と工夫により西芳寺により西芳寺は天下無
類の名刹となります。 また、夢窓国師の権威とならびなき大智識の風格は六百数十年を
へてもなお、西芳寺にまざまざと偲ぶことが出来ます。 夢窓国師が
65歳の時で有ります。
 室町時代には時の天子や将軍、貴門顕紳の人々が駕籠や輿に乗って西芳寺を訪れる風景
は豪奢の限りであり、西芳寺の黄金期であった。 

 しかし、その後応仁、文明の乱(14671477)の兵火の余燼よじんは都の西辺の西芳寺に
も及び、七堂伽藍が焼け落ちた。 続く戦国時代には、寺運はふたたび傾いた。

 その間、足利義満、義政、蓮如上人等が復興に尽くした。 江戸時代に入りますと、寛
永、元禄年間(
16244416881704)に2度の渡り、洪水の被害を受けます。 
 そして明治初年の廃仏毀釈により、西芳寺の所有する全ての広い山林は国に取上げられ、
寺門の内外が荒廃したが、明治初期の天外和尚や恭道和尚が寺観の復興にあたり、价浩和
尚により、
 昭和
44年西芳寺本堂、西来堂が五百年ぶりに再建された。 昭和52年7月より、
今までの一般公開されていた庭園を閉止し、事前申し込みによる少数参拝制に改めら
れた。

 
2.庭園
(1)入門
  現在、一般公開はなく、事前申し込み制になっている。 自分の希望日を10日程並べ申
 し込みをしたと
 ころ、最短の1週間前の、希望日で入門許可の葉書が到着した。 

  西芳寺の前を流れる西芳寺川を遨月橋ようげつきょうより渡ると若い僧侶が門番の様に立って
 いる。 僧侶に許可書の葉書を見せ衆妙門
しゅみょうもんをくぐるとコケ庭が始まり目の前に大
 きな大仏次郎の文学碑が立っている。 本堂の西来堂の参道両側に亀島と鶴池が配されてお
 り、亀島にはしだれ桜、鶴池には大賀蓮
おおがはすが春に花をつけると言う。 大賀蓮は別名
 2千年蓮と呼ばれる。 大賀蓮は、戦時中東京都は燃料不足を補うため、千葉県花見川下流
 の湿地帯に眠る豊富な草炭に着目し発掘を開始したところが昭和
227月採
 掘現場からから1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出した。 このことから慶応義塾大学、東洋
 大学と日本考古学研究所が加わり、
24年には更に2隻の丸木舟が発掘され、「縄文時代の船だ
 まり」であったと推定され落合遺跡と呼ばれた。 さらに昭和
26年3粒の蓮の実が発掘され
 た。

  大賀博士が発掘された3粒の蓮の実の発芽育成を試みるも2粒は失敗したが、最後に発掘し
 た1粒が育成に成功し、昭和
27年(1952)7月18日ピンクの大輪を咲かせ、世界的大ニュース
 となり、博士の姓をとって「大賀ハス」と命名された。

  本堂別棟の玄関から入り受付で入門許可の葉書を提出し、拝観料3000円を納入すると引き換
 えに般若心経等と薄板の短冊が渡された。 待合室で待機、定刻が近づくと若い僧侶が現れ
 我々を本堂へと導いた。 その日の拝観希望者は
20人強(外人も数人含まれる)であったが、
 本堂には
100近い写経用の小机が並べられていた。 
  本堂(西来堂)は昭和
44年の再建で内部には日本画家堂本印象画伯の襖絵が104面入ってお
 り圧巻であった。
  始めに若い僧侶が西芳寺の説明を行い、続いて住職を含む三人の僧の読経がはじまった。
 中番以降から般若心経か繰り返され同時に拝観希望者も読経を進められた。 この日は写経は
 なかったが、受付で頂いた板の短冊の表に願い事を書き、裏に住所と名前を書き、本殿前の
 机の上に納めた。

(2)  黄金池
  いよいよ、庭園の見学です,若い僧侶に観音堂前まで引率され、そこで簡単な説明を聞いた
 後自由行動になった。
  
西芳寺はまさに苔の庭、庭を見ると言う苔を見ると行った方がいいかも知れない。 現在
 の西芳寺の役割はなんといっても苔であり、この寺が一般的に苔寺と言われるのはもっとも
 である。 コケの種類は専門家の話によると約
200種、日本蘚苔せんたい1000種の約5分の
 1が存在するが、主要なコケは、ホソバオキナゴケ(西芳寺ではビロードゴケと呼んでい
 る)、オオスギゴケ、ヒノキゴケの3種であると言う。

  西芳寺の庭園に入ってまず目に付くのは黄金池です。 下段の庭園の大部分を占める林泉で、「朝日の
 清水」と「夕日の清水」を源泉にして天然の清水がこんこんと湧き出ております。 特に「夕日の清水」
 は毎春4月
19日の右京区嵯峨の清涼寺の国宝釈迦如来像の御身拭いの浄水として今も使われている。
 「夕日の清水」は本堂玄関の前当たりから沸き出、少庵堂の下を通り金剛池に入り一部は直
 接黄金池に入り、他の一部は金剛池を経由して黄金池に入る。 金剛池は観音堂の左下にあ
 り、池には石が点々と二列並ぶ夜泊石
やはくいしがある。 「朝日の清水」は黄金池の南端、湘
 南亭の前当たりから湧き出ている。
  黄金池には3つの島が浮かぶ。 北に夕日が丘、中央に朝日が丘、南にやや小さめの長島
 がある。 再現映像をみると、作庭当時、これらの中島は白砂青松の景観を呈していたが、
 今ではすっかり蘚
こけに覆われている。 
  夢窓国師が入寺して改造する以前の池泉ちせん庭は、多分に浄土式の池泉であったと思われ
 る。 池の北側に御堂を建て、池の中央に大中島を配し、南岸より南北に二橋を架す。 こ
 こに舟を浮かべて遊宴する。 平安・鎌倉時代の代表的な様式であるが、西芳寺の池も同様
 の形が見えてくる。 夢窓国師は、この舟遊による遊興的な池泉庭を禅観の環境にふさわし
 い、散策を中心とした回遊式庭園に改造した。 池の周りを散策して巡るという回遊式庭園
 はこの西芳寺庭園に始まったとも言われる。

  西芳寺庭園の特徴の一つは園路の美しさがある。 園路の上り下り、曲がり、方向などに
 よって、景観が実に変化して美しく見えるように工夫されている。 

  黄金池をめぐる池泉回遊式の庭園を回ると三つの茶室がある、最初に右手に見えるのが少
 庵堂で大正9年に建てられた茶室。 名の通り、千利休の次男で宗旦そうたんの父に当たる
 少庵の木造が安置され、内部は二畳中板の茶室になっているという。 この少庵堂の近辺に
 は多くの楓があり、初秋なで美しく色づいています。 

  参道をはずれ湘南亭の北側にしめ縄をした影向石えいこうせきがある。 その昔、暦応年間
 (
13381342)松尾明神がこの石の上に安座して夢に松尾大社の宮司藤原親秀に告げまし
 た。「我、素より此処に跡を垂る。 我が社殿を営むことなかれ」。 翌朝、藤原親秀が子
 の石を調べるとしめ縄が残っていた。 この故事にのっとり現在も毎年正月に、しめ縄を飾
 りかえています。 

  影向石の南に西芳寺で最も古く、且つ重要文化財の湘南亭しょうなんていがある。 観光客の列
 はコケに見とれ湘南亭を見ずに通り過ぎる者がおおかった。 この建物は、夢窓国師が創建
 されて後、豊臣時代に利休の次男少庵によって、老朽化した建物を茶室に改造された物です
 。 湘南亭は立ち入り禁止で外から見るだけであるが、この茶室はかぎ形に曲がった平面を
 もっており上り口、四畳台目、月見台で出来ている。 屋根は檜皮葺でさっぱりした建物で
 あるが、泥塗り天井が珍しい。

  明治維新には岩倉具視いわくらともみがここで幕府の難を逃れた。 当時の西芳寺住職神湫しん
  しゅう
は岩倉具視の従兄弟と言う親しい間柄であった。 岩倉具視は文久ぶんきゅう2年(1862
 9月
13日の夜、西賀茂の霊源寺に難を避けておりました。 しかし、まだ、不安を感じて、同
 月
15日の夜、姿を黒染めの僧形そうぎょうに変えて「丹波山国村の常照皇寺じょうしょうこうじに行
 く」と偽って西芳寺の湘南亭にこっそりと隠れた。 
 西芳寺に逃れている間は寺男の姿に身を落とし、水汲みや田畑の耕作をして暮らした。

  湘南亭の右斜め前方、池の南東の所に東西に長い長島(霞島とも言う)がある。 その南
 正面の護岸に三尊石組みがある。 この石組の様式が金閣寺及び銀閣寺庭園に取入られ共に
 池泉園の中心の石組みになっている。 池の東岸を北へ進むとこの当たりから長島の北岸の
 護石組み、朝日ヶ島や夕日ヶ島等を眺めた池の景色は非常に美しい。

  池の東岸に立ったまま頂く変わった茶室潭北亭がある。 この潭北亭も夢窓国師の建てた
 潭北亭ではなく全く関係ない近年のものである。 

(3) 枯山水石組
  これまで下段の黄金池を回ると向上関こうじょうかんと言う門に来る。 この門は上段の庭園の上
 り口になる。 夢窓国師は、西方浄土寺と厭離穢土寺の二つの寺院を西芳寺の一つの寺院に
 統合したが、その時下段の庭は西方浄土寺、上段の庭は厭離穢土寺の庭でこの二つの庭を合
 わせ二段式の庭園とした。 池泉庭と枯山水の二部構成は、後の日本庭園の構成の一つの基
 本と成った。 以後銀閣寺等がこの様式を採用している。

  向上関をくぐり急な階段を登る。 このつづら折の戒壇を通宵路つうようろと言う。 階段を
 登って西へ山道うを進むと、左側に亀石の石組みがある。 かって禅僧梵僊
ぼんせんの「西芳
 寺記」の石碑が建てられ、それを覆う亭があったところです。 亀石組より北へ山路を登る
 と西芳寺の開山堂である指東庵
しとうあんに出ます。 ここは、真如親王の庵の跡とも言われ
 、厭離穢土寺の中心でもあった。 指東庵は夢窓国師にとって、最も神聖な座禅の場所でも
 あり、将軍足利義満も何度か座禅をしていると言う。 指東庵の東に豪放な枯山水の石組み
 がある。 この石組みは六百数十年前に夢窓国師によって築営されたもので日本最古の石組

 みだといわれている。 この枯滝石組みは三段滝でそこに一匹の鯉が存在することから「鯉
 の滝登り」すなわち「登竜門
とうりゅうもん」(流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍
 になる)にちなんで「龍門瀑」といわれている。 するどい稜線の石で組まれ、ほとぼそる
 滝の音が聞こえてくるようだ。 また、芸術性にも優れた石組みは当初の人々に衝撃と感動
 を与え、作庭家としての夢窓国師の名を広く世に知らしめた。 指東庵を挟んで「龍門瀑」
 の反対側に座禅石がある。

Ⅱ・行基菩薩
                          第1 出家と修行
 西芳寺開山行基菩薩は668年河内国大鳥郡(現在の堺市家原寺町)の母の実家で生まれた。 
父は高志才智
こしさいち、母は蜂田古爾比売はちだこにひめ。 高志は五世紀の半ば応神朝の頃古代朝
鮮から渡来氏族王仁
わにの子孫で、現在の高石市高師浜を本拠とする中級の帰化氏族であった。
 高志たかし氏は書ふみのおびと(首は姓)から分派した氏で、書首は王仁の子孫である。 王仁帰化後その
子孫は繁延し、栗栖
くりす首、武生かけふ縮禰すくね、桜野さくらの首、古志こし(=高志)連等に分派し
た。 行基の父方の高志
たかし氏は古志氏と同一氏である。 高志は高師の地名に関係していると
考えられている。
 母は蜂田首はちのたのおびと虎身とらみの娘である。 蜂田氏も帰化人で和泉に住むものが多く知れ
れている。
 壬申の乱で勝利を得て飛鳥に即位した天武天皇は、律令体制下で厳しい政策を進
め、寺院や僧尼に対しても厳格な統制を行った。 

 天武8年(67910月の勅で僧尼に対し「常に寺の内に住み、以って三宝を護る」ことが本務
であることを強調した。 天武10年(681)2月飛鳥浄御原令の編集が始められ、天皇中心の厳
しい
国家体制が築かれ、僧尼や寺院も厳重な取締りの中に置かれた。
 行基菩薩が出家したのはその翌11年(68215歳のときである。 律令制では一般人は容易に僧
尼となることは出来ないのが原則で、出家しても自由な行動が認められなかった。 僧尼にな
る者を出す家は豪族や上層農民、あるいは学問や仏教に関係深い氏族であった。 行基は、5
位の国守をだしている帰化人の中級豪族高志氏に生まれ出家の資格は十分きたしていた。

 行基が出家した場所は「元亨釈書げんこうしゃくしょ」では薬師寺になっているが、彼が出家した
天武
11年には得度とくどが行われていなく。 行基が出家した場所は不明である。 得度を受け
た後、行基は
24歳で具足受戒し、戒師は高宮寺徳光禅師であると「行基菩薩伝」にきされてい
る。 「行基菩薩伝」によると初め法興寺(飛鳥寺)に住む。 次に薬師寺に移り法相宗を学
ぶとあり行基伝には「初めて出家せし時、瑜伽唯識論をも読みてその意を了
りょうしぬ」ときす
。 
道昭は帰化人で河内国丹比郡船連ふねのむらじの出身である。 653年遣唐使の一員で入唐、法
相教学を学び、帰国後、法興寺(別名飛鳥寺)の一隅に禅院を建立して住み、法相宗を伝える
と同時に天下を周遊し、路の傍らに井戸を掘り、各地の津や渡し場に船を備えたり、橋を架け
たりし、
72歳でなくなった。 死後、遺言により火葬しにた。 これが日本で初めての火葬で
ある。

 年代的にみても行基は道昭に飛鳥寺で会うことは出来たであろう。 行基に道昭の影響があ
ったかどうかは、歴史の上では確認できない。 ただ、道昭は全国を巡り、各地の津や渡し場
を備えたり、橋をかけたりしたこと、更に山城国の宇治橋も道昭によって初めて作られた橋寺
で発見された断碑に記されており。 こう言う行為は後の行基のそれと似ている。

                            第2 民間仏教
(1) 山林修行時期
  奈良時代と言えば、東大寺や国分寺の造営に代表される鎮護国家の仏教が盛んな時代と知られている。
 ところがこのような国家仏教の一方で、奈良時代には、民間にも仏教が
浸透し、いわゆる「民間仏教」
 が行われていた。 この奈良時代の民間仏教の担い手として、最も良く知れれているのが、
 行基である。
  養老期の行基については次のような理解が一般的であった。
 「官時の束縛を脱し、課役の
 徴発によって荒廃した池溝を共同作業によって開発し、貢調運脚のための布施屋を建営する
 など、民衆奉仕を通じて布教に挺身した行基とその弟子達の行動は、圧制に苦しむ農民の苦
 悩に答えるものとして、多くの土豪や農民を引きつけていたが、そのような行基の活動にた
 いしてもみだりに罪福を説き、百姓をまどわすものとして厳しく弾圧を加えた。」
しかし、
 このような理解は今日の行基研究の水準ではすでに過去のものになっていると言う。 その
 最も重要な点は、彼が政府から弾圧を受けた時期と池溝の開発などの社会事業を行った時期
 が重ならないということである。

  養老元年(717)4月23日に出された詔しょう(天皇の命令書)には、「おおよそ僧尼は寺家
 に寂居
じゃっきょして教えを受け道を伝え。 令に准ずるに言う。 其の、乞食こじきすること有
 らば、三綱
さんごう(僧正、僧都、律師)連署して午前に鉢を捧げ告げ乞へ。 此れに困って更
 に余物を乞ふこと得ざれ。 古今まさにいま
小僧しょうそ行基、抺びに弟子ら、街衢がいく(町)に零
 畳
みちかさなりて妄みだりに罪福を説き、朋党ほうとうを合せ構へ、指臂ゆびひじを焚やき剥ぎ、歴門
 どごと
に仮説いつわりごときて強いて余物を乞ひ、詐いつわりて聖道と称し百姓を妖惑ようわくす。 道
 俗は擾乱
じょうらん、四民は業を棄つ。 進みては、釈経に違たがひ、退きては、法了を犯す。
 」
とみえる。 行基が弾圧されねばならなかった理由は、この詔の内容で明らかなようにこ
 こに挙げられている項目は全て当時の僧尼統制法である僧尼令に規定されているものである
 。 だが、その中でも主眼となっているのは寺院外で行う違法な乞食行為(托鉢)である。
 このように養老元年段階においては、行基とその弟子らの集団を違法な乞食集団とみなして
 いた。

  行基が弾圧をうけた慶雲けいうん~養老年間(705723)の行基の活動は社会事業を主体とし
 たものでなかったと言う。 この時期に建立した院は大和及び河内に位置している、 即ち
 吉田晴雄氏によれば、生馬
いこま院は現在の竹林寺にあたるが、この寺は生駒山の東麓の丘陵
 にある標高
140160mの位置にある。 また、恩光院は平群郡の北部丘陵地に比定でき、隆福
 院も丘陵地に位置し、石凝院も生駒山の西麓の山房であったと思われる。 このように考え
 ると、行基は生駒山系に山寺の性格をもつ院を建立しつつ平城京で乞食活動に従事していた
 らしい。 すなわち「行基年譜」には「菩薩、少年より
37歳に至るまで、山林に棲息する」
 とあり、行基の初期の行動は山林修行であったと考えられる。
(2) 神亀・天平時期
  行基の神亀じんき・天平てんぴょう年間(724749)の活動を特徴づけるものが社会事業で、大別する
 と、交通施設と灌漑施設の建設である。 これ等の社会事業は、その大半が仏教の福田
ふくでん思想に基づ
 くものである。 福田とは、福徳を生じる田の意で、もともとは布
施(他人に施を与えること)の受
 者を指したが、やがて布施の様々な行為を意味するようになった。
  その福田思想は阿含経
あごんきょう(初期仏教の経典)に既にみえ、大乗経典では福田行は菩
 薩行として種類も増広されている。 吉田晴雄氏はそれを井戸、園果、樹陰、橋梁、渡船、
 浴室、僧房堂閣、旅客舎、道路、飯食、医薬、圊厠
せいし(便所)、水路の13種にまとめ、行
 基は、そのうちの橋梁、渡船、僧房堂院、旅客舎、道路、飯食、水路の7種を満足していた
 。 ここで注目しなければならないのは、福田行には灌漑使節が含まれていないことである
 。
 このように、行基の活動は山林修行の乞食者という形態から、福田思想に基づく社会事
 業を主とするものに移行して行った。 即ち、行基は一代にして二つの形態の民間での仏教
 活動を行ったのである。 この意味で行基をもって奈良時代民間仏教の代表者とみなすこと
 が出来る。

(3)社会事業
   このような事業は、勿論僧尼の単独の力で成されるわけではない。 事業形態としてはや
 なり人々の結縁
けちえん(仏教と縁を結ぶこと)によるもの、即ち知識ちしきによる事業であった
 と思われる。 知識とは、「僧尼の勧化
かんげ(寺社等の建造・修理のための寄付行為)に応じ
 て結縁のために財物を浄捨し、それによって現世安穏往生浄土を願うもの」のことで、これ
 らの知識が団体を結成することを知識結
ちしきゆいといいそれによって造寺、造仏、架橋等の
 事業が行われた。

  「天平13年記」にみえる、橋、直道、池、溝、船息せんそく、堀、布施屋があり、その性格
 は福田思想に基づいた事業(橋、直道、船息、布施屋)と彼独自の灌漑事業(池、溝、樋)
 に大別できる。 地域的には、①和泉地方、
②摂津・猪名野、③淀川中流域、④淀川河口部
 (難波)にまとまった施設が見られる。そのうち和泉地方では主に池による灌漑、猪名野で
 は池と溝による灌漑、淀川中流域では、樋や溝による茨田堤
まんだのつつみなどの堤防内の排水
 、淀川河口部では堀川などの水運を中心となっている。
  行基は天平13年までに49院を建
 立しているが、その分布を見ると①和泉地方が8院、②摂津・猪名野は2院、③淀川中流域
 は3院、④淀川河口部(難波)は2院となり、それ以外に大和国、山城国がある。 特に山
 城の国は、京都盆地周辺に7院と多いが、この地域は事業の記載が少なく、院のみの建立さ
 れたに留まる。

  a・大野寺の土塔
   行基の事業形態を伺ううえで重要なのが、神亀5年建立という大野寺に現在に残る土塔
  である。 土塔は一辺が
53.1m、高さ8.6mの四角推の頂部を切取った様な形をした仏塔は
  、周囲から夥しい瓦が出土していることから、、元々は
13段のピラミッドような形をした
  瓦葺の土製の塔だったと考えられる。

   この塔から多数の人名を記した瓦が発見されており、判明する者人でも44人の名前が
  えるという。 そして、これ等の氏名は、「和泉国大鳥郡を中心に河内地方の一部を包括
  していた。」(井山温子)これから分かるように、この塔は郡や氏族の枠を超えた枠を超
  えた多くの人々からの瓦寄
 進を受けていたのである。
   このように行基の活動の担い手は地元の人々であった。 このことは彼がこの地方の出
  身者であることに無関係ではない。 それは氏族を越えた多くのひとの結縁によって成さ
  れ、それには行基と豪族の係わりがある。 行基と豪族との係わりは、彼独自の社会事業
  である灌漑事業が、三世一身法を契機に豪族の開発志向と結びついて行われたとの解釈が
  有力である(栄原水遠男)

    土塔は全国的に珍しく、これに良く似た遺構に、奈良市高畑に残る石積みがある。
  b・ 狭山池
   狭山池の造営は天平3年(731)に狭山池院が建てられたことから、その頃と思われる。
  注目すべきは、一年後の天平4年12月に国家によって狭山下池築かれたことである。 当時
  、国家によって行われた造池を「続日本記」にみると、みな旱魃の後に行われている。 

    このように和泉地方での行基の活動は旱魃対策にあったので、彼と豪族の関係もこのよ
  うな面から考えられる。

  C・ 猪名野
    猪名野については、この地域に院1、池5、溝3が集中して設置されている。 現在も
  この地域には水鳥の楽園として知られ昆陽池
こやいけがあり5つの池の一つに相当するものと
  思われる。
   この池の開発目的は、天平
13年記に「是を以って、為原野いなのを請い、給孤独園きつこどく
   えん
と為す」とあり、この給孤独園は「日本後記」弘仁3年(813)8月発西条に「摂津国に在
  る惸独田一百五十町」に相当するもので会って、ここで経営されているのは身寄りのない
  人々を給するための田園であった。

                            第3 東大寺大仏
(1) 聖武天皇
   聖武しょうむ天皇は大宝たいほう元年(701)紋無文武もんむ天皇の第一皇子として生まれた。 母
 は藤原不比等の娘藤原宮子 
7歳の時父文武天皇が崩御したが、幼少であり、母宮子も心的障
 害に陥り、文武天皇の母である元明
げんめい天皇が中継ぎの天皇として即位した。 和銅7年
 (
714)元服が行われ正式に立太子されたも病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原
 氏との対立もあり、即位も先延ばされ、文武天皇の妹である元正
げんしょう天皇が中継ぎ
 の中継ぎでとして皇位をつぎ、
24歳の時、元正天皇より皇位を譲られ、神亀元年(724)平
 城京にて即位し
,この日に長屋王を左大臣とした。
  聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していたが、まもなく
 長屋王の変が起こり失脚した。

 a 長屋王の変
    長屋王の変は藤原4兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の陰謀だと言われている。 今までも
  皇親勢力と外戚藤原氏との勢力争いがあった。 皇親勢力の代表が元明天皇と長屋王であ
  った。 元明天皇は、藤原氏系の皇子である聖武天皇が即位すると、長屋王の出世が遅れ
  るため、聖武天皇に譲位せず、中継ぎとして自分の娘である元正天皇に譲位した。 元正
  天皇は、不比等が亡くなると、聖武天皇に譲位し、同時に不比等に代わり、長屋王を右大
  臣に抜擢した。

      聖武天皇の治世の初期は皇親勢力の長屋王が政権を担当していた。 この当時、藤原氏
  は藤原氏出身の光明子の立后を願っていた。 しかしながら皇后は夫の天皇亡き後に中継
  ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であった
  おとから、長屋王が反対し成立しなかった。 
   光明子の基皇子は病死し、藤原氏と血縁関係のない安積親王の誕生という事態に対し、
  勢力保持のため必要と考えていた。

   西暦729年2月10日平城京の住人である従7位下の漆部造君足と無位の中臣宮処連東人
  らが朝廷に密告。 「左大臣・正二位の長屋王は、密かに左道を学んで国家を傾けようと
  している」とている。

   2月10日 密告の在った夜、聖武天皇は勅令を発し、使者をつかわして、奈良の都と東
  国を結ぶ三つの関所を封鎖させた。
 
   2月
11日 式部郷従三位藤原朝臣宇合うまかいをトップとして全六軍を出動させ、長屋
  王の屋敷を包囲した。 長屋王は妻子と共に自殺した。

 b・ 恭仁京遷都
   天平12年(7401215日聖武天皇は、恭仁京の造営を開始した。 そして天平13
  (
741)天皇が初めて恭仁宮において朝賀(新年の挨拶)を受けた。 しかし宮垣がま
  完成していなかったので帷帳
いちょう(屋外に張り巡らせた幕)をめぐらせて垣の代わりに
  した。
   この日五位以上の官人を内裏に招き宴を開き、地位に応じて禄をたまわった。 
正月15
   
日、聖武天皇は恭仁京遷都を宣言し、平城京におかれる留守居の大野東人と藤原豊成らに
  対し天皇は「今後、五位以上の者は勝手に平城京に住んではいけない、もし、事情があっ
  て平城京の家に帰る必要の出来た物は太政官の符を受けて、その後に許可せよ。 平城京
  に現在いるものは今月中に恭仁京にむけて出発するように催促せよ。 それ以外の所にい
  る者にも急いで呼び返せ」と言う
一体、恭仁京とはどの程度の規模であったのであろうか
  。 恭仁京や宮の規模などを
巡って、想定案が示されている、近年の発掘成果によって宮
  の範囲がほぼあきらかになった。 
   宮城の南北の距離は約
740m、東西は約560mと推定できる。 平城宮が約850m四方ので
 、面積で比較すると平城宮の約6割弱になる。 しかし、恭仁京の都市の規模については不
  明である。

   平城京より規模が小さく、建設開始してから一年も満たない恭仁京に、なぜ緊急に恭遷
  都しなければならなかったのであろうか。

   これには長屋王の変が関係しているのではなかろうか(私見)。 長屋王の変後大きな
  事件が下記のように頻発している。

  天平 元年(729) 長屋王の変にて長屋王自殺
  天平 6年(734) 大地震発生、
  天平 7年(735) 大宰府で疫病流行
  天平 8年(736) 大不作、四国、近畿の田租を免ずる。
  天平 9年(737) 藤原4兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)
  天平10年(738) 聖武天皇このころより頻繁に恭仁地域行幸を繰り返す。
  天平12年(740) 恭仁京造営開始
  天平10年(741) 恭仁京遷都開始
           藤原弘嗣の乱発生
    聖武天皇の恭仁京遷都は桓武天皇の長岡京遷都に似ている。
    長岡京造都の責任者である藤原種継が、遷都反対者によって暗殺された。 実行犯や共
  犯者は捕らえられ、死罪となったが、桓武天皇の実弟早良
さわら親王も疑惑をかけられ、
  罪となり淡路に流される途中無罪を主張して自殺した。 その後災害や疫病が流行したが
  、これは、早良親王の怨霊であるとの占いがで、略完成していた長岡京を捨て平城京に舞
  戻るった。
    長屋王の変は藤原四兄弟の陰謀との噂がある、その4兄弟が天平 9年(737)に揃っ
  死亡した。 聖武天皇はその翌年の天平
10年(738)より、頻繁に恭仁地域を行幸してい
  る。 これら一連の事件を長屋王の怨霊解釈し、恭仁京遷都を真剣に考える出したのでは
  なかろうか(私見)。 しかし、その恭仁京も、都として完成しないまま天平
15年(743
  の末に京の造営は
中止されて武天皇は紫香楽宮に移り、天平16年(744)難波京に遷都、
  さらに天平
17年(745)都は平城京にもどされた遷都は何らかの理由で失敗したと思われ
  る。 

(2) 東大寺大仏
  聖武天皇は天平13年(741)国状の不安定を鎮撫するため各国に国分寺と国分尼寺の建立
 を命じた、これは、恭仁京遷都の年である。 更に2年後、国分寺建設がまだ起動していな
 い天平
15年(743)に大仏(盧舎那仏)造立を決定した。 天平12年(740)~天平17
 (
745)の6年間で平城京→恭仁京→紫香楽宮→ 難波京→平城京と4回の遷都を行い、そ
 の間、全国の国分寺建立と大仏の造立と言う歴史的大事業を短時間で決定している。 何が
 、彼をこのように急きたてたのだろう。
  私は、長屋王の怨霊をおそれての行為と 思われる(私見)。

 a・ 紫香楽宮
   聖武天皇は河内国知識寺の大仏を見て発願し、紫香楽地域に寺地をもとめた。 聖武
  皇は行基
を高く評価し大仏造立事業の勧進職に起用した。 
   慶雲~養老年間の行基は小僧とけなされ、僧尼令に違反する者として政府から弾圧さ
  た。 しかし、社会事業が軌道に乗ると、むしろ民衆の力、行基の力を頼りにした。
 行
  基の民間伝道の様子が「続記」に次のように記されている。

   「『都鄙とひ(都)に周遊して衆生を教化す。 道俗化を慕ひて追従する者、動ややもす
  れ
ば千を以って数ふ。 所行ゆくの処、和尚の来るを聞けば巷に居人なく、争いて来たり
  て礼拝す。 器に随いて誘導し、尽く善に趣かしむ。』と記されている。 さらに『時の
  人、号に行基菩薩と言う。 留上する処に皆道を建つ。 其の畿内の凡そ冊九処諸道にも
  また住にして在り』」とみえ、行基菩薩と言う名は官から与えられた称号でなく、民間よ
  り呼ばれた名称であったところに、民衆が救済者として迎えたことが示されている。行基
  の伝道が社会に投じたのは、抑圧と貧困からの開放を望む民衆のために池、溝開発などの
  社会事業を営みながらの活動したからである。
   「続記」に「親
みずから弟子を率いて諸もろもろの要害の処に於いて橋を造り堤つつみを築く
  に聞見の及ぶ所はことごとく来たりて功を加え。不日にして在り」と記されている。 行
  基の説法を聴聞する人達は、また行基の社会事業に労力を提供した。

   当初、聖武天皇は甲賀宮国分寺で大仏を造立する予定であったが、山火事が頻発したた
  め大仏の体骨柱まで立っていたと言う建設工事を中止した。 奈良に帰りたい臣下達が放
  火したとの噂がある。 其の場所どこであったか、大正
15年史跡に指定された「紫香楽宮
  跡(黄瀬地区)を調査した結果金堂跡、講堂跡等が現れ、現在は甲賀寺跡が有力視されて
  いる。 
   現在では国史跡・紫香楽宮の北1
kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡や税納入を
  示す木管が大量に出土したことから、ここが宮跡の有力地となっている。

 b. 東大寺大仏
    天平17年(745)5月11日都は再び平城京に戻って来た。
    大仏の造営は平城京の東、金鐘寺きんしょうじの地で再開された。 8月23日聖武天皇自
  ら土を袖に入れて運び、皇后、官人も土を運んで大仏の御座を突きかためた。
   行基の勧進により多くの、寄進があったと思われる。 天平
19年(747)9月河内国
  俣人麻呂(大初位下)が銭
14貫、越中の礪波志留志(無位)が米三千石を大仏造営のため
  に寄進し、共に外従5位下が授けられた。 
    大仏鋳造の指揮をとったのは、国中公麻呂くになかのきみまろや高市連大国、高市連真麻呂
  、柿本小玉といった人物である。 国中公麻呂の祖父、徳率国骨富は、天智朝に渡来した
  百済人で、公麻呂は大仏の鋳造に功があって造東大寺次官となった。 国中の姓は大和」
  国葛下郡国中村に居住したことによる。 高市連大国と真麻呂は大仏の鋳造にあたり大鋳
  師と言う称号を与えられている。 この頃金鐘寺は東大寺と呼ばれるようになる。

    行基の天平1819年には活動記録がなく、20(748)は菅原寺にいて81歳であった。
   
天平 21年(749)2月2日82歳病気で死亡した。 遺体は遺言により、直接の師であ
  ったかどうか不明であるが道昭に習い火葬にした。 
「続日本記」には次のように書かれ
  ている
「大僧正行基和尚が遷化した。 和尚は、薬師寺の僧である。 俗姓は高志で、和
   国の人である。 和尚は性格が純粋で、人より優れた才能に恵まれ、人の模範と成る徳
  が早くから現れた。 初め出家したとき瑜伽と唯識論を呼んで、すぐにその意味するとこ
  ろを理解した。 早くから都や地方を周遊して、多くの人々を教化した。 僧侶や俗人で
  教化を慕って従う者は、ややもすれば千人に達することもあった。
   和尚の来ることを聞けば、巷に人がいなくなるほど争ってやってき、礼拝した。 それ
  らの人々の器量に従って導き、皆を善に向かわせた。 またみずから弟子を率いて、いろ
  いろな要害のところに橋をつくり、堤を築いた。 その評判を聞いて、多くの人々がやっ
  てきて、労働を」提供したので、瞬く間に工事は完成した。 人民は今に至るまでその恩
  恵をこうむっている。

     聖武天皇は行基を大いに敬い、重んじ、大僧正の位を授け、400人の出家を許した。
   和尚は、不思議な神がかりてきなことを幾度なくした。 時の人は行基菩薩と号した。
   滞在した所には全て道場を建てた。 畿内におよそ
49箇所、畿外の諸道ところどころあ
  った。 弟子たちが継承し、行基の教えをまもり、今に至るまで住持している。」。

   さて行基が死んだとき大仏がまだ完成していなかった。 歓進に巧みな手腕を持つ行基
  重宝な人物であった。 しかし、翌
22日陸奥国守百済王敬福から小田郡で黄金が出た言う
  報告が朝廷に入った。 この報告で前途が急に明るくなった。 4月1日聖武天皇は東大
  寺に行幸し黄金の出現を大仏に報告した。 

     10
月に大仏の鋳造が終わり、12月から螺髪らほつ966個の鋳造が始まった。 勝宝4年
  (
752)2月に大仏の銅座の鋳造が始まり、大仏全体の鋳造に要した銅は、73950
  (
44370kg)に及ぶ3月から仏体の塗金が始められたが、まだ終わらないうちに大仏開眼
  の日取りが決められたのは、聖武天皇のために急がれた。 
21日開眼会の導師らに招請状
  を発せられた。
  皇帝敬請す。  菩薩僧正4月8日を以って斎を東大寺に設け、盧舎那
  仏を供養し、敬しみて辺眼を開元せんと欲す。 朕が身は病弱にて便ならず。 其れ朕に
  代って筆を執るべき者は和上一人のみ。 仍
って開眼師に請す。 乞う、辞することな
  く扮受せよ。 敬白。
  景静は行基の弟子で、行基は開眼会を待たずに死んだのでその弟
  子が法会に招かれたのである。





参考文献

     京の古寺から「西芳寺」著者;藤田秀岳

     探訪日本の古寺「京都四」著者;矢内原伊作

     日本庭園をゆく「京都洛西」著者;小学館

     寺院神社大辞典 編集;平凡社

     行基(吉川弘文館発行)著者;井上薫

     天平の僧行基 著者;千田稔、

     大阪の歴史と文化 著者;井上薫

     滋賀県教育委員会文化財保護課「資料」(紫香楽宮跡)


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