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                              京都・朱雀錦
(27-3)世界遺産・天龍寺


世界遺産・天龍寺・曹:源池
所在地 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
名 称 霊亀山れいぎざん臨済宗天龍寺派大本山(正式名・霊亀山天龍資聖禅寺)、
      京都五山第一位
本 尊 釈迦如来  創建年、康永4年(1345年)
開 山 夢窓疎石 、開基 足利尊氏

札所等 神仏霊場巡拝の道第88  
文化財 庭園(特別名勝・史跡)、絹本著色夢窓国師像3幅、絹本著色観世音菩薩像、
    木造釈迦如来坐像ほか(重要文化財)、世界遺産」

              
1.天龍寺の歴史
1.概要
 天龍寺は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒すすきノ馬場町にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。 山号は霊亀山れいぎざん。 寺号は天龍寺資聖禅寺てんりゅうしせいぜんじと称する。 本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓国師である。
 天龍寺の地には平安時代の初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子かちこが開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた壇林寺の地に後嵯峨天皇とその皇子である亀山天皇は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれに因んでいる。
 後醍醐天皇は暦応りゃくおう2年(1339)吉野で死去した。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺系の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の親政に反発して天皇に反旗を翻した人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば敵である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家や公家からも尊崇を受けていた夢窓国師であった。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことは著名である。
 天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約33万平方メートル、現在の京福電鉄帷子ノ辻かたびらのつじ駅辺りにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。 しかし、その後、度々の火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。 中世には延文えんぶん3年(1358)、貞治ていじ6年(1367)、応安おうあん6年(1373)、康暦こうりゃく2年(1380)、文安ぶんあん4年(1447)、応仁おうにん元年(1467)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化ぶんか12年(1815)にも焼失、さらに幕末の元治げんじ元年(1864)、蛤御門の変で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代以降のものである。 なお、方丈の西側にある夢窓国師作の庭園にわずかに当初の面影が伺える。
 夢窓国師作の庭園のこの庭園は国の史跡・特別名勝第一号に指定され、また天龍寺は平成6年(1994)古都京都の文化財の一つとして世界文化遺産に登録された。


 2.建武の親政
 後醍醐天皇(後宇多天皇の第二皇子)は、文保ぶんぽう2年(1318)持明院統の花園天皇の譲位を受けて皇位を継承した大覚寺統の天皇であるが、はじめから兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。 元亨げんこう元年(1321)父後宇多法皇の院政を廃し後醍醐天皇みずから親政を開始した。
  鎌倉時代後期には、元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活躍し、幕府は次第に武士層からの支持を失って言った。 その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立しており、相互に皇位を交代する両統迭立が行われていた。後醍醐天皇は、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の時世である延喜えんぎ・天暦てんれきの治を理想としていた。だが、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派と持明院統の双方と対立していた後醍醐天皇は自己と政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るために、両派の排除及びこれを支持する鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。後醍醐天皇の倒幕計画は正中せいちゅう元年(1324)の正中の変、元弘げんこう元年(1331)元弘の変と二度までも発覚する。元弘の変で後醍醐天皇は捕らわれ、隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳こうごん天皇が即位した。 しかし、後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の楠木正成や赤松則村らが幕府軍に抵抗し、更に幕府側の御家人である新田義貞や足利尊氏らが幕府から朝廷に寝返り、諸国の反幕府勢力を集めた。
 元弘げんこう3年(1333)に後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆国で名和長年に迎えられ船上山で倒幕の兵を上げた。 京都で足利尊氏の兵が六波羅探題を滅ぼし、新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府が滅亡した。
 
帰京した後醍醐天皇は、光厳天皇を廃し、いわゆる建武の親政を開始した。 また持明院統のみならず、大覚寺統の嫡流である邦良皇太子の遺児たちを皇位継承から外し、本来傍流であるはずの自分の皇子恒良親王を皇太子にたて、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占した。
 
建武の親政は、表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制をめざした。 性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既存権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする大内裏建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など、その政策の大半が政権批判とつながった。 武士勢力の不満が大きかっただけでなく、公家達の多くは政権に冷ややかな態度をとり、無能を批判され、権威を全く失墜した。
 足利尊氏は当初高氏と記していたが、武士の功労者の一位に評価され、鎮守府将軍に任命され、天皇の名「尊治」から一時を与えられ「尊氏」と改めた。
 建武2年(1335)7月、信濃国で高時の遺児北条時行が挙兵して鎌倉を占領する中先代の乱が起こると、尊氏は後醍醐天皇に時行討伐の征夷大将軍の任命を求めるが、後醍醐天皇は認めなかった。 尊氏は勅許を得ないまま、東国に出向き反乱軍を鎮圧した。 時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据え、乱の鎮圧に付き従った武士に恩賞を与え、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど親政から離反した。 後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏追討を命じたが、新田軍は、新田軍は敗北し、建武3年1月、足利軍は入京した。 後醍醐天皇は、比叡山に逃れるが、奥州から下向した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。 尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年九州で体制を建て直し、光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて新田・楠木軍は敗北し、正成は討死した。

3.南北朝時代
 足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明こうみょう天皇を新天皇に擁立し、建武式目17条を定めて政権のきほん方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。後醍醐天皇は、幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝が始まる。 後醍醐天皇は、抵抗を試みるが劣勢を覆すことげ出来ないまま病に倒れ、延元えんげん4年=暦応りゃくおう2年(1339)8月15日後村上天皇(義良親王)に譲位し、翌日朝敵討滅・京都奪回を遺言して死去した。 享年52歳。

4.夢窓国師
 夢窓国師は元徳げんとく元年(1329)執権北条高時の招きで、鎌倉円覚寺の住職となる。 鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は、足利尊氏に命じ、夢窓国師を鎌倉から呼び寄せ南禅寺の住職になるよう要請し、国師はこれを受けた。 入洛した国師は、宮中に招かれ説法をしたが、後醍醐天皇の態度から、この方は王法を高めるため仏法を利用していると悟った。 後醍醐天皇は、鎌倉に戻りたいと願う国師をなだめるため、嵯峨の臨川寺を私寺として与えた。 
 やがて、足利尊氏は後醍醐天皇の親政に離反し、二者が戦うことに、なるが、後醍醐天皇も足利尊氏・直義兄弟も共に夢窓国師に帰依していたため、政治の上では天皇の下にあるが、仏門で逆に三者とも夢窓国師の弟子であり、そのどちらにも加担できず中立を保った。
 暦応2年8月9日後醍醐天皇は病の床に就いた。 快復の兆はみえず死を覚悟した天皇は「玉骨はたとい南山(吉野)の苔に埋もるとも、魂魄こんぱくは常に北關ほくけつ(京都)の天を望まんと思う。 もし命に背き義を軽んぜば、君も絶対の君にあらず、臣と忠烈の臣にあらじ」と血を吐くような遺言をした。 8月15日、義良のりよし親王に皇位を譲り翌日16日崩御。 この報せを受けた夢窓国師は、吉野の後村上天皇と京都の光明天皇は最早争乱の調停能力はないと覚った。
 夢窓国師は、意を決して幕府の尊氏を訪問した。 「尊氏殿は、日本国各州に1寺一塔つくり、戦いの中で命を落とした者たちの魂魄を弔まつろうとなされた。今また、後醍醐天皇崩御に当たり、菩提を弔うための一寺の建立を上皇に奉請して頂きたい。尊氏殿は帝の敵であった。少なくとも世間はそう見ている。その敵が祈るので、この祈りこそ、天下に和平をもたらすもの。寺は帝ゆかりの亀山行宮あんぐうがよろしかろう。寺の規模はあまり大きくなく、尊氏殿の志を示すことが出来れば、寺の規模は問題ない、費用は建長寺船の故事に学び、唐船の対元貿易の利潤をあてればよい」と進言した。尊氏は後醍醐天皇の怨霊に悩まされていたとも言われていたが、夢窓国師の意見を素直に受け取った。
 後醍醐天皇の49日に当たる10月5日、光厳上皇が院宣を下し、寺名は暦応りゃくおう資聖禅寺に決まった。 ところが、年号を寺名にするのは最高位の寺院で、延暦寺だけに許された特権であると、延暦寺山徒が、暦応を寺名に使うことに猛反発した。 将来、比叡山の助力を得たいと下心のあった直義は、夢の中で金龍が南の河中から出たことにして天龍資聖禅寺とあっさり改称してしまった。
4)寺社造営料唐船じしゃぞうえいりょうとうせん 
 寺社造営料唐船は、14世紀前半(鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて)に、主要な寺社の造営費用を獲得することを名目として、幕府の許可のもとに、日本から元に対して派遣貿易船群のことである。 特に建長寺船・天龍寺船などが有名である。 日中関係史において、元寇による関係悪化(13世紀)と日明貿易(15世紀)の間の時期をつなぐ、半官半民的な交易船である。
 元寇で日元関係は決定的に悪化し、その後もクビライ(世祖)は3度目の日本遠征計画をたてていたが、海軍力の弱体化や国内の反乱などの理由により実行に移すことは出来なかった。 また当時出没し始めた和寇による海賊的私貿易を防ぐ意味からも、沿岸部の広州・温州、慶元などに市舶司を置き、日本との平和的な交易を望むようになっていた。
 鎌倉時代後期には、貨幣経済の浸透や分割相続制によって幕府を支える中小御家人の零細化・疲弊が進んでいた。 また幕府の支配に従わない悪党や海賊などの横行によって荘園・公領からの収入も滞るだけでなく、悪党討伐のための出費も幕府財政を圧迫していた。
 しかしその一方で、鎌倉新仏教の普及や、主要寺社の火災による損壊などから、むしろ鎌倉時代後半は、寺社の新築・改築の必要性が増しており、幕府はこれらの膨大な増税費用を確保するために、新たな財源として、貿易船による収入という手段に注目していた。 
 上記のごとく寺社造営料唐船は、幕府や寺社側の必要性から派遣されたというのが通説であった。 ところが、昭和51年(1976)韓国の全羅南道新安郡智島邑道徳島沖の海底から、大量の荷を積んだジャンク船が発見、引き上げられた(新安沈船)ことで、これまでの寺社造営料唐船の通説的理解は、大いに修正を迫られることになった。新安沈船から引き上げられた遺物には白磁、青磁の天目茶碗などおよそ1万8000点に及ぶ陶磁器や、約25トン、800万枚もの銅銭、そして346点もの積荷木簡が含まれていた。この船は東福寺造営を名目とした貿易唐船と見られるが、積荷木簡の中には「網司」(船長)という字を記すものが110点あり、その多くは「網司私」と記され、商人の私的交易品が多く含まれていたことが伺える。
 村井章介は、この船は博多を拠点とする貿易商人が主体となったもので、東福寺や幕府は多くの荷主の中の一つに過ぎなかったと推測する。 さらに新安沈船に限らず、この時期の寺社造営料唐船の多くは本来、博多を拠点とした商人が主体であったとする。 そんな中、競合商人が少しでも有利な条件で参入するために「寺社造営」という看板を掲げることで、日本の政治権力と提携したのが寺社造営料唐船お正体とみる。
 新安沈船の建材は中国江南地方産のタイワンマツと見られ、形式も中国南部でよく見られるジャンクであることから、綱司となった商人も中国人であったり、商船の建造が中国で行われた可能性もある。 しかし、当時、このような国境沿岸の貿易商にとっては、国籍はそれほど意味を持たなかったと思われる。 元側の史料では、綱司の出身国に関わらず、博多から来航した船は日本船(倭船)としてあつかわれている。
イ)      称名寺造営料唐船
  嘉元かげん4年(1306)、称名寺(横浜市金沢区)造営料獲得のため派遣。鎌倉幕府の重臣で
 あった金沢流北条氏が主体。称名寺の僧である俊如快誉が乗船したことが金沢文庫の子文書に
 見られる。 

ロ)極楽寺造営料唐船
  徳治とくじ3年(1308)に火災で焼失した極楽寺(鎌倉市)の修復費用の確保のため、正和
 4年(1315)頃派遣。 その後、極楽寺造営料唐船の帰国を喜ぶ書状が出されている。

ハ)東福寺造営料唐船(新安沈船?)
  韓国の新安で発見された沈船から引き揚げられた遺物の中に、大量の積荷木簡が含まれてい
 た。木簡の中には「綱司」「東福寺」「筥崎」などと記された物が多数あり、中国から博多へ
 向かっていた交易船が何らかの理由で沈没したと思われる。 「東福寺」と記された木簡の裏
 に「十貫公用」などの字が見えることから、この船は元応げんおう元年(1319)に焼失した東福
 寺の造営料を名目として派遣された唐船であることが推測される。この船は元亨げんこう3年
 (1323)に入元したと思われる。

ニ)建長寺船けんちょうじふね 
 正和しょうわ4年(1315)に火災にあった建長寺の造営捻出を目的に、鎌倉幕府の後援を受け
 て元に渡航した商船。正中せいちゅう2年(1325)7月頃出航し、翌年9月ころに帰国した。 
 国内航路に関しては、往路は筑前国守護代、復路
は薩摩国守護代にそれぞれ警固が命じられて
 いる。つまり、幕府が渡航を公認し、保護を加えることの見返りとして、帰国後に貿易で得た
 利潤のうち一定の額を建長寺造営費にあてるものであろう。

ホ)関東大仏造営料唐船
  年次不明{元徳げんとく元年(1329)が有力}の前執権北条貞顕の息子貞将あて書状に、翌春
 に関東大仏造営料唐船が渡宋する予定であると書かれている。しかし、実際に唐船が鎌倉大仏
 に造営費を納めたかはふめいである。

へ)住吉社造営料唐船  元弘げんこう2年(1332)摂津国住吉神社の造営料を得る目的で派遣さ
 れた唐船。 帰国後、実際に住吉神社が造営される際には鎌倉幕府は滅亡していたが、後醍醐
 天皇の綸旨りんじ(命令)によって造営費にあてられている。

ト)天龍寺船
  夢窓国師は小規模の私寺を進言したが、足利兄弟は大規模の国家事業に変質し、「太平記」
 では「前代未聞の壮観」ときしている。 足利尊氏は、寺領として日向国富荘などを寄進する
 ことをきめた。 また造営費用には当初、安芸・諏訪両国の公領からの収入を当てる計画であ
 ったが、成立間もない室町幕府は南朝との戦いにより財政的に逼迫した状況にあり、巨額の造
 営費をだすことは困難な状況にあった。

 そこで鎌倉幕府の例にならって寺社造営料唐船の派遣を検討する。 当時、元側でも1335年から1336年にかけての倭寇事件を契機に、慶元けいげん(後の寧波ねいは)に入港する日本船を海賊船とみなして、港の出入りを厳しく制限していたため、日元間の通航は途絶していた。しかし度重なる夢窓国師の要請により、暦応りゃくおう4年(13421223日直義は夢窓国師に対し、翌年秋に宋船2艘を渡航させ、交易で得られた利益を天龍寺造営に当てるよう提案する。 
 そこで夢窓はまず1艘を派遣することとし、博多の商人の至本を綱司(船長)として推挙。 至本は貿易の成否に関わらず、帰国時に現金5000貫文を納めることを約束し、予定通り翌康永こうえい元年(1342)8月に元へ渡航した。 
 10月に慶元に入港したが、予想通り海賊船と見なされて警戒を受けるが、結局上陸を果たし、交易に成功した。 日本からの寺社造営料唐船としては元弘げんこう2年(1332)に派遣された住吉社造営料唐船以来、10年ぶりとなった。 天龍寺船は膨大な利益を上げて帰国。この時の利益を元に天龍寺の建設が進められた。


               Ⅱ.境内
 天竜寺の境内東端には総門・勅使門・中門があり参道が西にのびており、その両側に塔頭が並び正面に法堂、その奥に、庫裏、書院、大方丈等がある。
 禅宗建築は、多くが南面、つまり建物の正面が南面に向いた形で建設されています。これは、中国から「王者南面」の思想が伝わったものが踏襲されたものです。
 中国では、「王者南面」という思想があり、宇宙の中心とされる、北極星の方角である北は、上座とされています。
 北極星は、地球の自転軸の北極側の延長線上の近くに位置している為、ほとんど動かず、北極星を中心に、星々が回転しているように見えることから、方角を知る上でも、重要な星とされてきました。
 儒教や、道教で、神格化された北極星は、天皇大帝と呼ばれ、日本の「天皇」という称号の起源となったという説があります。陰陽道でも、天皇のことを表す星は、北極星です。その為、天皇が座す位置は都の北で、東、南、西と見渡せるように、南を向いた御所が、建てられることになりました。
 中国の文化を積極的に取り入れていた、飛鳥時代や、奈良時代に建てられた神社仏閣の多くも、「王者南面」の考えに沿って、北を背に、南を向いた本殿が建てられています。
 では、神社仏閣の全てが、南向きに建てられているのでしょうか? 基本的に、南向きが多いのですが、次に、東向きも多く建てられています。これは、阿弥陀信仰が盛んになった時代に、建てられたものが多いそうです。
 禅宗寺院の多くは、「王者南面」の思想にもとづき、南向きに建築しますが、天竜寺の位置の関係から東向きに建てられています。
 
         総門表
 
          総門裏

1.総門
 総門は、屋敷の一番外側にある大門、禅宗の寺で、表門になり、天竜寺の総門は、渡月橋から延びる商店街通りに面しています。
 門の建築様式は高麗門です。高麗門は、文禄・慶長の役と時に改良された。比較的新しい形式の門です。鏡柱(本柱)と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施された]。江戸時代以降には、城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして多く築造された。
 構造柱の構造は、鏡柱2本と内側の控柱2本から構成されている。4本の柱は直立しており、2本の鏡柱上に冠木を渡して小さな切妻屋根を被せ、鏡柱と内側の控え柱の間にも小さな切妻屋根を被せる。慶長年間までは姫路城「への門」や名古屋城「本丸二の門」のように直接、冠木に屋根をかけていたが、江戸時代初期以降に、江戸城「外桜田門」の高麗門のように冠木の上に束が立てられ、小壁が立ち上がった姿のものが造られるようになった。神社や寺院の高麗門には建物の性質上、扉がないものが多い。
 文禄の役(15921593)で日本軍の鉄砲に対応できる武器はなく、日本軍に対抗する兵士は皆無で、日本軍が現れると、対抗することなく敗走した。日本軍は、調子に乗り、逃げる朝鮮軍を追いかけ、遂に中国・朝鮮の国境まで追い詰めた。ところが、戦線が伸びすぎ武器・弾薬・食料の補給路を断たれ苦戦した。慶長の役(15971598)では、文禄の役の失敗に懲り、城に籠城し責める敵を城から迎え打った。当時城のもんは、薬医門が多かった。薬医門の屋根が大きく、攻める敵軍が屋根影に入り攻撃ができなかった。そこで死角を小さくし改良したのが。高麗門である。高麗門のもう1つの特徴は。鏡柱と控柱の上に小屋根を付けたことです。

2.勅使門 「京都府指定文化財」
 勅使門は、勅使参向のときに勅使の通行に使われる門で通常、総門と並んで設置されている。通常の来客は総門から、天皇が寺院を訪れた時や勅使(天皇のお使い)が訪れた時だけ開かれ、天皇関係の重要な人物だけと通れる特別な門です。総門の南に境内に入り。境内の南側を進む道があるが、勅使門は通常使われなかったため、勅使門の道が南門に入る道に球種されたのでなかろうか。
 天竜寺の勅使門は、天龍寺最古の建築物で皇居から下賜されたものです。
創建年;推定15961615年(慶長元年~慶長20年)
「中井家文書」によれば慶長18年(1613)
移 動;寛永18年(1641)正式には「旧慶長内裏御門」と呼ばれる。元々天龍寺ではなく、慶長
    時代の御所「明照院」の御門を現在の場所に移築したものである。

建築様式・切妻
  ・総欅けやき
 ・四脚門しきゃくもん又はよつあしもん 
 ・付き・築地つきじ塀棟
 ・総延長 11.8
 ・鏡柱(親柱・円柱/控柱)・几帳面角材
 ・懸魚(拝懸魚、左下懸魚、右下懸魚3か所、鏑の三花懸魚、髭在り、六枼)
屋根
 ・銅板葺(創建当初は桧皮葺)/築地壁は本瓦葺
 ・二垂木(二軒)


    勅使門(京都府有形文化財)
 
 
       勅使門・屋根裏


          几帳面

          几帳裏

1)四脚門しきゃくもんまたはよつあしもん 鏡柱(親柱、本柱)丸柱2本と控柱4本から構成されており、控柱を脚と考え、四脚門と名称されている。1重の門では大きな門に属する。
 鏡柱は丸柱であるが、控柱は角で、几帳の面取りがなされている。
2)几帳面
 几帳面とは、間仕切りや風除けに用いられた家具「几帳」に由来し、几帳の柱の表面を削り角を丸くし、両側に鋭角に三角形を切取った面取りを「几帳面」と言う。また、もっと簡単に、しゃくり面を2回かけたような簡単な面も、几帳面と呼ばれています。
 几帳面は、床の間の床脇の違い棚の板と板の間の海老束の面も、几帳面が使われ「海老束几帳面」とも言われています。
 物事を正確に行い、いい加減にしなことを「几帳面」と言いますが、建築用語から由来し、几帳面の様な細かい装飾は、職人がきちんと正確に作業をしなければ、美しく仕上がりません。これが転じて、物事をきちんと行うまじめな人を、几帳面な人と言うようになった、と言われています。
3)几帳
 几帳きちょうは、平安時代以降公家の邸宅に使われた、二本のT字型の柱に薄絹を下げた間仕切りの一種。
 簾の内側に立てて二重の障壁とするほか、可動式の間仕切り・目隠しとして大きな部屋の仕切りに使ったり、参拝の折など高貴の婦人の身を衆目から隠す障壁、荷物などを見苦しくないよう隠しておく目隠しなどとしてわりに広い用途に用いられた。 変わった用途としては、女房が街道を歩くときに傍仕えの女の童二人に小型の几帳を持たせて顔を隠す「差几帳さしきちょう」がある
 几帳に用いる薄絹を「帷かたびら」、T字の上の部分に当たる横木を「手」、T字の縦棒に当たる柱を「足」、根元の台を「土居つちい」と呼ぶ。
 几帳の丈は土居の高さも含めて測り、簾の内側に立てる高さ四尺幅八尺・帷が長さ六尺幅五幅(薄絹五枚使用)の大型タイプ(四尺の几帳)と、室内用の高さ三尺幅六尺・帷が長さ五尺幅四幅(薄絹四枚使用)の中型タイプ(三尺の几帳)、皇族女子などが帳台の中に使う高さ二尺幅一尺五寸の小型タイプ(枕几帳)、の三種類がある。 枕几帳は横木を紫檀で表地を二陪織物で作る豪勢なものである。
 帷には普通は紐や表裏ともに平絹を使うが表地にのみ綾を使ったこともある、上部を筒型に縫って横木を通し縫った上刺しの紐の余りは蜷結びにして長々と垂らし、絹布一枚ごとに紐で吊るして中央に「野筋(のすじ)」という紅(後には黒と紅の分割)の飾り紐を垂らす。
4)欅材けやきざい 
 けやきは、ニレ科ケヤキ属の落葉高木。ツキ(槻)ともいう。
 高さ20 - 25mの大木になり40mを超す個体もある。葉の鋸歯は曲線的に葉先に向かう特徴的な形であり、鋸歯の先端は尖る。雌雄同株で雌雄異花である。花は4 - 5月頃、葉が出る前に開花する。
 秋の紅葉が美しい樹木でもある。個体によって色が異なり、赤や黄色に紅葉する。 葉の裏と柄に短毛の密生する変種をメゲヤキという。
 東アジアの一部と日本に分布。日本では本州、四国、九州に分布[2]し、暖地では丘陵部から山地、寒冷地では平地まで自生する。
 木目が美しく、磨くと著しい光沢を生じる。堅くて摩耗に強いので、家具・建具等の指物に使われる。日本家屋の建築用材としても古くから多用され、神社仏閣などにも用いられた。現在は高級木材となり、なかなか庶民の住宅には使えなくなっている。
 伐採してから、乾燥し枯れるまでの間、右に左にと、大きく反っていくので、何年も寝かせないと使えない。特に大黒柱に大木を使った場合、家を動かすほど反ることがあるので大工泣かせの木材である。また、中心部の赤身といわれる部分が主に使われ、周囲の白太は捨てられるので、よほど太い原木でないと立派な柱は取れない。
5)屋根
 現在は、銅板葺だが、創建当時(「明照院」)は桧皮葺であった。屋根にはランクがあり、奈良時代は瓦葺が最高位とされていたが、平安時代以降は、日本人好みにより桧皮葺が最高位とされ、皇居の建物のほとんどは桧皮葺になった。従って皇居にあった「明照院」の御門は桧皮葺になります。
 桧皮葺は我が国特有の特有の屋根で他国で見られません。
6)二垂木(二軒)
 民間の屋根は経済性が最重要であり、屋根には曲はなく直線て1垂木になっています。神社仏閣の建物は建築物の容姿が重要で、屋根に曲線をつけるため、二垂木(二軒にのき)になっています。屋根の曲線は地垂木と飛檐ひえん垂木の勾配の差を利用してつくります。

 
    中門(京都府有形文化財)
 
       中門・妻飾り

3.中門ちゅうもん (京都府有形文化財
 四脚門、切妻造、本瓦葺時代慶長7(1602)懸魚、拝蕪懸魚髭・六枼、左右下懸魚蕪懸魚・六枼「総門」を通って西の方向に数十メートル進むと、もう一つの門がある。これは「中門」(左の写真)になると思われる。「総門」から「中門」を通る参道の右側(北側)には塔頭が建ち並んでいる。塔頭は天龍寺前庭を挟んで参道の南側にも建ち並んでいる。参道左側(南側)は楓の木が植えられており、秋には見事に紅葉する。
1)懸魚げぎょ
 懸魚は妻飾りの一つである、が火災防止のお守りであり、神社仏閣の建物で懸魚を省略するところはなく、ほとんど建物に懸魚はあると考えてまちがいないであろう。中門の懸魚は蕪かぶら懸魚である。懸魚の数は1つの場合と3つの場合がある。1つの場合を拝おがみ懸魚という。左右の破風はふ(板)が、三角の妻面の頂点で接続しあすが丁度手を合わせた型になっており、拝んでいるように見えるのでこの位置を拝みといいます。拝みの位置に設置されるため拝懸魚といいます。左右の懸魚は左下くらり懸魚、右くだり懸魚といいます。懸魚には髭のつく場合と付かない場合があります。中門では、拝懸魚には髭がありますが、左右下懸魚には髭は在りません。
 懸魚には通常六角形の金属の飾が付きます。これを六枼ろくようといいます。六角形の場合は六枼、五角形の場合は五枼、四角形の場合は四枼と言いますが、ほとんどが六枼です。
 懸魚の種類は400種程度あると言われますが通常使用されるのは10種程度す。
2)筋壁
 筋塀すじべいとは、古来の日本建築における土塀の一種で、定規筋じょうぎすじと呼ばれる白い水平線が引かれた築地塀を指す。 元々は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として5本の定規筋を引いたのが始まり。そこから、定規筋の数が寺の格式を示すようになり、5本線が最高格式を表すものとなった。
 皇族や摂家などの御所に用いられた。皇室に由来する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本の種があり、五本を最高とする。皇族や摂家が入寺した門跡寺院などでも用いられその権威の象徴となったが、用材を下げ渡すという名目で由緒寺院などに与えられることがあり、直接の由緒をもたない寺院でも使用されていることがある。
3)禁門の変
  天龍寺中門は「諸堂再建覚書」によると江戸時代初期の1602年(慶長7年)に建立されたと言われています。天龍寺中門は江戸時代後期の1815年(文化12年)の火災や1864年(元治元年)の禁門の変で焼失を免れ、天龍寺山内で 古い伽藍のひとつと言われています。
  門の変は1864年(元治元年)に長州藩と幕府方が京都御所付近で行った戦闘です。1863年(文久3年)の八月十八日の政変により、尊王攘夷そんのうじょういを主張する長州藩は公武合体派の幕府方(薩摩藩・会津藩など)によって京都から追放され、翌1864年(元治元年)に長州藩が会津藩藩主で、京都守護職・松平容保まつだいらかたもりらを排除する為に挙兵し、京都市内で市街戦が繰り広げられました。京都御所の御門付近が激戦地だったことから禁門の変・蛤御門の変はまぐりごもんのへんと言われています。また元号から元治の変げんじのへんとも言われています。長州藩は京都御所を目指して進撃し、当初優位だったが、薩摩藩の来襲によって敗退し、長州藩は全面的に撤退ししました。天龍寺には長州藩の家老・国司親相(くにしちかすけ)、遊撃隊総督・来島又兵衛きじま またべえらが兵を集めて陣営を構えました。天龍寺は薩摩藩の砲火によって伽藍の大部分が焼失しました。なお国司親相は敗戦後の天龍寺で「はかなくも 風の前の 燈火ともしびの 消えゆることのみ 待つ我が身かな」と詠んだそうです。

4.放生池ほうじょうち 

 
       放生池と蓮

        放生池と水鳥

 勅使門から入った貴賓は放生池に架かる石橋を渡り、法堂の方に進む。これが禅宗寺院のスタイルのようだ。天龍寺スタイルで設計されている。
 放生池は放生会ほうじょうえの儀式を行うため準備されたものである。では放生会とは何か。放生会ほうじょうえとは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式である。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし、日本では神仏習合によって神道にも取り入れられた。福岡などでは「ほうじょうや」という。放生会は古代インドに起源をもつ行事で中国や日本にも伝えられた。 『金光明最勝王経』長者子流水品には、釈迦仏の前世であった流水(るすい)長者が、大きな池で水が涸渇して死にかけた無数の魚たちを助けて説法をして放生したところ、魚たちは三十三天に転生して流水長者に感謝報恩したという本生譚が説かれている。また『梵網経』にもその趣意や因縁が説かれている
(1)中国における放生会
 仏教儀式としての放生会は、中国天台宗の開祖智顗が、この流水長者の本生譚によって、漁民が雑魚を捨てている様子を見て憐れみ、自身の持ち物を売っては魚を買い取って放生池に放したことに始まるとされる。また『列子』には「正旦に生を放ちて、恩あるを示す」とあることから、寺院で行なわれる放生会の基となっている。
(2)日本における放生会
 日本においては天武天皇5年(677年)817日に諸国へ詔を下し放生を行わしめたのが初見であるが、殺生を戒める風はそれ以前にも見られたようで、敏達天皇の7年(578年)に六斎日に殺生禁断を畿内に令したり、推古天皇19年(611年)55日に聖徳太子が天皇の遊猟を諫したとの伝えもある。持統3年(689年)には近畿地方を中心とする数か所に殺生禁断の地が設けられ、定期的に放生会が開かれるようになった。聖武天皇の時代には放生により病を免れ寿命を延ばすとの意義が明確にされた。
 放生会は、養老4年(720年)の大隅、薩摩両国の隼人の反乱を契機として同年あるいは神亀元年(724年)に誅滅された隼人の慰霊と滅罪を欲した八幡神の託宣により宇佐神宮で放生会を行ったのが嚆矢で、石清水八幡宮では貞観4年(863年)に始まり、その後天暦2年(948年)に勅祭となった。
 明治元年(1868年)424日に神仏分離のため仏教的神号の八幡大菩薩が明治政府によって禁止され、719日には宇佐神宮や石清水八幡宮の放生会は仲秋祭や石清水祭に改めさせられた。本祭開催日も、古来より1200年以上、旧暦815日の祭礼として行なわれてきたが、明治の廃仏毀釈により、1010日(仲秋祭)に変更を余儀なくされた。
 現代では収穫祭・感謝祭の意味も含めて春または秋に全国の寺院や、宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡宮(八幡神社)で催される。特に京都府の石清水八幡宮や福岡県の筥崎宮のもの(筥崎宮では「ほうじょうや」と呼ぶ)は、それぞれ三勅祭、博多三大祭の一つに数えられ多くの観光客を集める祭儀としても知られている。また、これらの行事にはウナギの取扱業者やフグの調理師などが参加する姿が見られる。
1)放ち亀・放ち鳥等
 放生会には放ち亀や放ち鳥などの行事が行われる。放生会で亀や魚を逃がすために寺院等に設けられた池を放生池という。
2)放生会には放ち亀や放ち鳥などの行事が行われる。放生会で亀や魚を逃がすために寺院等に設けられた池を放生池という
 江戸時代の放生会は民衆の娯楽としての意味合いが強く、文化4年(1807年)には富岡八幡宮の放生会例大祭に集まった参拝客の重みで永代橋が崩落するという事故も記録されている。小林一茶の「放し亀 蚤も序(ついで)に とばす也」は亀の放生を詠んだ句である。
(3)インドの菜食主義と断食とカースト制度
 日本では仏教の教えから「殺生」は悪と考え、江戸時代前期徳川第五代徳川綱吉将軍が「生類憐みの令」をだし動物の殺生を禁止いたことがあるが。
 「生類憐み」の原点はインドである。インドでは、現在でも労役の終わった老牛が殺されることなく町村中や野原に開放されている。街のレストランでも窓をうっかり開けておくと、テイブルの御馳走をくわえて持って行ってしまる。雀も、人間がすぐ近くまで来ても飛び立たない。インドの動物は人間を恐れないようだ。インドでは、とくに上位階級者には菜食主義者が多い。また、上位階級者の多くは定期的に断食を行っており、インド上位階級者の特徴になっている。世界のベジタリアン比率の多い国は以下のとおりである。 

国名

インド

イスラエル

台湾

イタリア

オーストリア

ドイツ

比率

順位

38

1位

13

2位

12

3位

10

4位

9%

5位

9%

6位

 上記の数値はインド全知の平均値であるが、これを上位階級者にすれば数値は大きくはります。  日本では、古来より、唐天竺問、と言いもっとの知られた国であったはずであるが、現在では最も知られていない国の一つではなかろうか。インドを知るため、インドを理解するにはインドのインドのカースト制の理解が不可欠です。
1)インドカースト制
「カースト」という言葉はインドの言葉ではなく、ポルトガル語をイギリスが英訳し「カースト」よび植民地政策に利用し世界的用語になったのです。ヒンドゥー教における身分制度はヴァルナとジャーティと言い、インドでは現在でも「カースト」でなく「ヴァルナとジャーティ」と呼でいます。
 紀元前13世紀頃に、バラモン教の枠組みがつくられ、その後、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの4つの身分に大きく分けられるヴァルナとし定着した。

 

階級

民族

人口

階級

1

バラモン(司祭)

アーリア

不明

 

上位カースト

クシャトリア(王族・武士)

アーリア

不明

ヴァイシャ(平民)

アーリア

不明

シュドラ(奴隷)

タミール

不明

下位カースト

指定カースト

先住民族

1億6700万人

(16.2%)

カースト外

後進山岳民族

先住民族

8400万人

(8.2%)

 インドでは、1950年に制定されたインド憲法の17条により、不可触民を意味する差別用語は禁止、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記している。またインド憲法第341条により、大統領令で州もしくはその一部ごとに指定された諸カースト(不可触民)の総称として、公式にスケジュールド・カースト(指定カースト)と呼ぶ。留保制度により、公共機関や施設が一定割合(平均15 - 18%)で優先的雇用機会を与えられ、学校入学や奨学金制度にも適用される。制度改善に取り組むものの、現在でもカーストはヒンドゥー社会に深く根付いている。
 インドでは、憲法によってカースト制による差別は亡くなったと称しているが、実質おおきな変わりはないようです。カースト階級別人口の発表を拒否しているため。カースト階級内の人口は不明です。
 バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャの3階級は制服民族のアーリアが主体のようです。この3階級が上位階級となります。インドを語るとき、表に出てくるのはこの3階級です。3階級の人口は公表されず不明です。
 第4階級「シュドラ」はかってはインダス文明を築いた民族です。エジプト。メソポタミアと並び古代の3大文化を開いた民族です。後進国のアーリア人に征服され、奴隷階級に転落しています。人口は不明です。ここまでがカーストカースト階級です。しかし、このカースト階級の下にさらに2つの階級が存在したのです。それは、5位「指定カースト」と6位「後進山岳民族」です。「指定カースト」は、以前触ると汚れると言い、「不可触民」といわれたが民族を侮辱する言葉としたて憲法で使用が禁じられ、「指定カースト」と改名されわ。ところが5つの階級に入らない民族いたのですこれが「後進山岳民族」です
 インドの国勢調査は10年に一度実施される。2001年の国勢調査では、人口102,900万人、内「指定カースト」は1億6,700万人(16.23%)、「後進山岳民族」8,400万人(8.17%)、人口の24.4%が最貧困層であった。

5.法堂「選仏場」(坐禅堂)
 寄棟造、四間五間、鏡天井、桟瓦葺、二軒

 
          法堂
 
    雲龍図・加山又造画伯

(1)寄棟造
 寄棟造よせむねづくりは、建築物の屋根形式のひとつで、4方向に傾斜する屋根面をもつものをいう[1]。広義では同様の屋根をもつ建物のことを指す。屋根の形式を指す場合には、単に寄棟ということも多い。四注しちゅうともいう。日本では、切妻造に次いで多く用いられている形式である。寄棟造は、世界各地の住宅などで見られる一般的な屋根の造りである。
 日本では、最上部に大棟をもち、長方形の平面である屋根を日本語で寄棟造というのが一般的である。歴史的には、東日本に多く見られ、明治時代の一時期には、宝形造も混同して呼ばれていたことがある。
 屋根の構造
 典型的な構成の寄棟造の屋根は、4方向に勾配を持ち、長方形の平面で妻側の三角形の屋根と平側の台形の屋根からなる。4方に傾斜を持つことから、切妻造と比較して、雨の流れがよく雨仕舞いに優れる。その一方で、屋根部に垂直面がないために、切妻造や入母屋造と比較して小屋裏の換気が悪くなりがちである。また、複数の寄棟が組み合わされて、複雑な形状の屋根が造られることもある。
(2)かがみ天井
 鎌倉時代に白木の天井板を平面にならべて張り,格縁などの装飾的な部材をいっさいもたない簡素な天井である。禅宗建築の鏡天井が渡来した。鏡天井は、一切の凹凸がなく平面の板だけで造られている天井です。平面を活かして法堂には雲龍図が描かれます。
(3)龍
  りゅう、りょう、たつ、龍)は、神話・伝説の生きもの旧字体では「龍」で、「竜」は「龍」の略字であるが、古字でもある。「龍」は今日でも広く用いられ、人名用漢字にも含まれている。中華人民共和国で制定された簡体字では「」の字 体が用いられる。
 英語の dragon(や他の西洋諸語におけるこれに相当する単語)の訳語として「竜」が用いられるように、巨大な爬虫類を思わせる伝説上の生物を広く指す場合もある。
1)中国の竜
 中国の竜は神獣・霊獣であり、『史記』における劉邦出生伝説をはじめとして、中国では皇帝のシンボルとして扱われた。水中か地中に棲むとされることが多い。その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔すると言われ、また口辺に長髯をたくわえ、喉下には一尺四方の逆鱗があり、顎下に宝珠を持っていると言われる。秋になると淵の中に潜み、春には天に昇るとも言う。
 中華人民共和国内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃に存在した紅山文化の墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。
 恐竜など大型動物の化石は竜の骨(竜骨)と信じられ、長く漢方の材料として使用された。 竜を意味する辰は、十二支における12種類の動物の一つである。また、竜生九子という9つの子を産んだという。
 青木良輔は、竜の起源は、古代に長江や漢水に残存していたワニの一種(マチカネワニ)であり、寒冷化や人類による狩猟により絶滅した後、伝説化したものだと主張している[3]。これは現在残っている竜の図像の歴史的変化からも窺えるとのことである。
 一方、東洋における竜やマカラは、ギリシャ神話におけるケートスに影響を受けたという意見もある
2)日本の竜
 様々な文化とともに中国から伝来し、元々日本にあった蛇神信仰と融合した。中世以降の解釈では日本神話に登場する八岐大蛇も竜の一種とされることがある。古墳などに見られる四神の青竜が有名だが、他にも水の神として各地で民間信仰の対象となった。九頭竜伝承は特に有名である。灌漑技術が未熟だった時代には、旱魃が続くと、竜神に食べ物や生け贄を捧げたり、高僧が祈りを捧げるといった雨乞いが行われている。有名なものでは、神泉苑(二条城南)で空海が祈りを捧げて善女竜王(清瀧権現)を呼び、雨を降らせたという逸話がある。
(4)法堂建築
  法堂はっとうとは、仏教寺院において、僧侶が仏教を講義する建物のことである。「法堂」は主に禅宗寺院で用いられ、そのほかの宗派では講堂こうどうと呼ばれることが多い。
 法堂の成立はインドではなく、中国であり、仏教が貴族階級に浸透し始めた南北朝時代(439589)には既に成立していたものと思われる。
 仏舎利を祀る塔、仏像を祀る仏殿(金堂)とともに、伽藍を構成する最重要の建物であり、日本においてのその位置関係は、時代によってそれぞれ異なるが、仏殿の次の重要な建物として位置づけられるようになり、大抵は寺院の中心に設置されている。
 住職や講義僧がここで経典の講読や説法を信者や他の僧侶に向けて行い、特に禅宗では、ここで法席に昇って説法することを「上堂説法」といい、そこで話された内容を上堂語といって、『臨済録』などの語録に収録されている
 なお、現在学校などにある講堂は体育館などと兼用となっていることが多い。また、大学などで通常の授業を行う建物の一部に部屋として設置されている場合は、講義室・大教室などと呼ばれることがある。
 天竜寺の法堂は勅使門の後方(西)と方丈池ほうじょうちの向こうにある。五間四間、一重、寄棟造、桟瓦葺さんかわらぶきの新建築である。東を正面とし、そこに「選仏場」の額を掲げている。すなわち旧選仏場、座禅堂を移したものである。内部は広々としている。床はせんしき、天井は禅宗様の定型である鏡天井である。鏡天井は床板のように平たい板を並べて張った天井で、禅宗の仏堂ではそこに、丸龍がんりゅう、雲竜あるいは天人や迦陵頻伽かりょうひんが(人頭鳥身で美声の持ち主)あるいは鳳凰、楽器などを描くことが多い。
 この法堂は、中心堂宇としては珍しい寄棟造単層の建物である。禁門の変(蛤御門の変)で薩摩藩の兵火にかかり、天龍寺の建築物の大半が焼失したなかなんとか残った塔頭・雲居庵の禅堂を、当時の管長・峨山禅師が移築し、1900年(明治33年)に法堂兼仏殿としたもの。2000年(平成12年)の秋に開山夢窓国師650年遠諱の記念事業として耐震性も考慮して修復された。法堂正面須弥壇には釈迦三尊像を安置し、後の壇には光厳上皇の位牌と歴代住持の位牌および開山夢窓疎石と開基足利尊氏の木像が祀られ、仏殿としても使用されている。法堂正面には、雲水が座禅修行するための禅堂だった名残である、「選佛場」と書かれた額が掲げられている。
(5)「雲竜図」
  天井画の雲龍図は1899年(明治32年)、鈴木松年によって和紙に描いてから天井に貼付する方法で製作されたが、損傷が激しかったため1997年(平成9年)加山又造により八方睨みの龍の雲龍図(どこから見ても、鑑賞者のほうを睨んでいるよう見える。八方とは、四方と四隅のこと)が製作された。法堂の天井中央にて、厚さ3センチメートルの杉板159枚を貼り合わせ、全面に漆を塗り、さらに白土を塗った上に直径9メートル二重円相に直接墨色で描かれた。
 鈴木松年による雲龍図の一部は大方丈に保存されており、毎年2月に大方丈にて一般公開されている。
 甎せんは、本来建築に用いられた煉瓦(れんが)。正方形や長方形の厚い平板で、中国周代に始まり、漢代に発展、城壁・墓室などに用いられた。日本では主として飛鳥(あすか)・奈良時代に用いられ、表面に唐草模様・天人・鳳凰などを浮き彫りにしてある。現在では、土間や地面に敷く固焼きのものをいう。
・加山 又造かやま またぞう1927 2004)は、日本画家、版画家である
 1927年、京都市上京区西陣織の図案家加山勝也の子として生まれる。京都市立美術工芸学校、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。山本丘人に師事。1950年、春季創造美術展に「自画像」「動物園」が初入選、研究会賞を受賞。摩美術大学教授、東京芸術大学教授、東京芸術大学名誉教授。日本画の伝統的な様式美を現代的な感覚で表現し、「現代の琳派」と呼ばれた。1970年代末からは水墨画にも取り組んだ。1997年文化功労者に選ばれ、2003年文化勲章を受章。「雲龍図」霊亀山天龍資聖禅寺(天龍寺)法堂天井画(1997)も代表作の1つである。
(6)逆遠近法
 禅宗寺院の鏡天井に雲龍図が描かれているところが多い。例えば、南禅寺、建仁寺、相国寺、東福寺、大徳寺、妙心寺、万福寺等があります。これらの龍は、観光客が何処にいても睨み付けているように見えるとところから八方睨みの龍と呼ばれています。この原理は逆遠近法の原理を利用したものです。そこで、簡単に述べてみます。
1)逆遠近法
 逆遠近法は、逆遠近法、発散遠近法、またはビザンチン遠近法とも呼ばれます。逆遠近法は、シーンに描かれたオブジェクトが投影点と表示面の間に配置される遠近法描画の形式です。近いオブジェクトが大きく見える従来の線形遠近法とは対照的に、表示平面から遠いオブジェクトは大きく描画され、近いオブジェクトは小さく描画されます。 遠近法の反対の方法です。
2)遠近法
 視覚芸術における遠近法えんきんほうは、視覚的に遠近感を表現する手法の総称である。狭義には、遠近表現法のうち、平行線の収束を用いた透視図法(英: perspective drawing)を指す
◎概要
 ヒトは絵や画像といった2次元平面から空間の奥行きを感じられる。視覚芸術において、本来空間が存在しない2次元平面に空間を感じさせるすなわち遠近感をもたらす手法が遠近法である。透視図法、別名線遠近法はその代表的な一種であり、しばしば遠近法とも呼ばれる。透視図法によって描かれた図のことを透視図という。英語では「遠近法」「透視図法」「透視図」などを総称して (パースペクティブ)といい、日本では遠近法、透視図のことをパースと称することが多い。(例:「建築パース」「パースがきつい」など)
 透視図法では「ヒトの目には奥へ伸びる平行線が一点へ収束して映る(透視投影が起きている)」ことに起因するヒトの奥行知覚を利用し、収束する平行線を描くことで遠近感をおこさせる。平行線が奥へ行くにつれ幅が短くなるため、透視図法を用いた視覚芸術では「同じ大きさの物でも視点から遠いほど小さい」「同じ長さでも視点との角度により長さが異なる (短縮法)」といった特徴が現れる。
 透視図法を実現する方法は様々ある。絵画や漫画では消失点を設定して特定方向の平行線を収束させる点透視図法がしばしば用いられる。3次元コンピュータグラフィックスでは平行線のみならず空間全体を行列演算により2次元平面へ落とし込み透視投影図を得ることが多い。写真はヒトの目と同様に1つの視点を持ち投影図を撮るため透視投影図になっており、構図として平行線が存在すれば透視図法が成立する。透視図法以外の遠近法として、近くを明確に描き遠くを不明瞭かつ沈んだ彩度で描く空気遠近法がある。
3)逆遠近法の例

 
           玄奘三蔵(国宝)
  
 
  世親菩薩立像
 

 逆遠近法は何時使用されたか、遠近法には歴史があるが、逆遠近法には明確な歴史がない。しかし、逆遠近法の作品は存在するのである。いくつか事例を紹介しましょう。
 「人間は逆遠近法ので世界を見る」
 新聞の情報欄に面白い図像がありました。国宝 玄奘三蔵絵です。そこに描かれた法典が放つ光の方向と、建物の奥行きを示す線の方向の対比が興味を引きます。もし、描かれた光の方向と建物の線を一致させれば、我々が馴染んだ遠近法(透視法)による絵になりますが、そうは描かれていません。
  この絵は鎌倉時代後期の作といわれていますが、平安絵巻に比べても建物の奥行きを示す線は平行どころか、逆「ハ」の字になっています。こうした表現を(平行の表現も含め)西洋の遠近法(透視法)と対比させて、逆遠近法と呼ばれます。
 我々が廊下に立ち、前方を眺めれば廊下の両線は「ハ」の字に見えます。「ハ」の字ということは遠方へ行くほど大きく見えるということになります。
 「ハ」の字に見える場合といえば、本来的に対象を光学的に捉えた場合に限られ、又、それに気付く必要があるのです。つまり写真機の原理で捉えることであり、固定した片目から見られる風景です。でも、それだけではダメです。その対象を透過する透明スクリーンになぞり、図に起こして気付くことにより初めて、その図は見えた通りの「ハ」の字が描かれていると知覚、認識できるのです。又、こうした特殊な手続きにより描かれた絵や写真が流通することにより、多くの人が、描かれている「ハ」の字は見えた通りであると知覚、認識できるのです。つまりそうした手続きが踏まれない限り、我々は廊下に立ち前方を見ても「ハ」の字には見えなかった、知覚、認識されなかったのではないか、と思っています。
 上の画像は運慶の作といわれる世親菩薩立像です。運慶といえば平安末期から鎌倉初期に活躍した仏師ですが、その作風は当時の絵に比べ非常にリアルです。そして絵にくらべてのリアルさというのは古代中国の仏像彫刻にもあてはまり、ギリシャ、ローマ彫刻、ゴシック彫刻にもあてはまります。当時、その文化において、描かれていた絵より、彫刻の方が一様にリアルといえるのです。こ測が用いられたからではないかと私は推測しています。モデルから直接寸法を取り、像に起こすのです。そして日本においては鎌倉仏像彫刻以降、モデルの計測による制作は衰退し、その創作原理は記号論的進化をするのですが…。現在の美少女フィギュアーは運慶に対極をなす、記号論的進化の賜物であり、創作原理としてはモデルの計測より遥かに高度であると私は思っています。
 つまり彫刻におけるモデルの計測というのは、光学的に平面化する透視法とはまるで異なっているのです。石膏デッサンの単眼視計測(註1)とはまるで違うものです。
 実際に存在するモノや人物を立体で起こそうとする場合、寸法を取って起こすのが合理的で人の機能にも適っており、それに経験的です。基本的には物差しなどの器具も要りません。目や手や呼吸を使って計測するのです。
 一方の絵は、計測されずに描かれたから彫刻に比べ、リアルでなかったのか、というとそんなことはありません。同時期の仏像彫刻が計測され、絵巻が計測されずに描かれたということは無いと思います。仏像制作と同じように計測されたと思います。この玄奘三蔵絵や平安絵巻に描かれている建築物などは、目や手や呼吸で計測された、つまり知覚、認識された客観的世界であると思います。仏像彫刻に比べリアルでないと思うのは、光学的な遠近法(透視法)や写真に慣れ親しんでいる我々の一方的な見方でしょう。遠近法(透視法)を用いず、仏像彫刻と同じ方法で、現実の建物などを直接計測(認識)し、それを平面に移すと、自ずと遠近法とは真反対の逆遠近法になるのです。
4)逆遠近法の歴史
 いわゆる遠近法とは逆の視点で捉えた遠近法のことで、前景に置かれた対象を目から遠ざかるほどに拡大する、つまり後景に行くほど逆八字形に開くように描く技法を指す。西洋では、特にルネサンス以前の絵画に頻繁に用いられ、ビザンティン美術の影響を受けたオットー朝美術のミニアチュールなどに作例が認められる。つまり中央消失遠近法が受け入れられるようになる以前は逆遠近法が主流であったわけだが、一見科学的に誤りのようにも思える逆遠近法も、われわれの視覚的経験に基づくものと考えられる。それは、実際にわれわれの眼は、手前に置かれた物を平行線に対して奥方向に短縮して見ることはなく、平行のまま、ないしは拡散して捉える傾向にあるという点である。
 またこの技法は、中央消失遠近法の登場によりその役目を終えたためか、西洋美術よりも広くアジア地域、特に東洋の美術において多く用いられる傾向にある。古代インド美術や中国、日本の美術に見られ、中国では、俯瞰図法を補充する技法として後漢末~魏晋時代の頃に登場し、主に人物の背景を広く表現するために用いられた。やがて、権威を表わす表現として身分の高い人物の肖像画などに用いられるようになり、以降も仏画の一部に見られるなど総じてモニュメンタルな印象を与える表現方法のひとつとして使用されていたようである。日本においては、やまと絵、その俯瞰図法の一端を担うことからとりわけ絵巻物に適していたが、浮世絵や琳派の作品にも確認できることから、東洋的、日本的な空間表現には最も適した技法であったことがわかる。(著者: 小野寛子)

(7)龍の爪
 中国では、龍は皇帝のシンボルとして皇帝以外のものは、龍のデザインの使用をさしひかえた。日本でも龍は皇帝(天皇)のシンボルと異なるシンボルにしなければならないと考えた。朝鮮の龍の爪は4本である。日本では、0,2,4,9、は凶数で、運勢が悪く、1,3,5,6,7,8、は吉数で運勢が良いことから、にほんでは4を捨て3を選んだ。天龍寺では、今まで許されなかった。五本爪の龍を加山又造画伯は選んだのです。その由緒ある名前(天龍寺)に誇りを持っていることを表しているのか、また寺が生まれるきっかけとなった後醍醐天皇への敬礼の念が込められているのでしょうか。従来の慣習を破る画期的なことです。

 
         庫裏
 
 
      庫裏内部・達磨衝立

6.庫裏
 桁行6間。梁間8間、切妻造、煙出し櫓付き、二垂木、瓦葺、二受講料大瓶束、拝三花懸魚・髭あり。
 奥行(桁行)が6間に対し、梁間が8間と変則的な切妻造である、梁間は軒も高く、妻面積もおおきくなり。風格が出てくる。屋根は、二垂木を用い。これが禅宗寺院の特徴になっている。屋根は二垂木で緩い曲線を描き、おとなしく優しい屋根だある。これが中国であれば。屋根の先端が急角度の曲線を描、日本人の悪趣味に感じるが、これは国民性ちがいであろう。妻飾りは、二重虹梁大瓶束、広い白壁に柱が整然と並びさわやかである。これも禅宗寺院の特徴だる。懸魚は拝おがみに三花懸魚髭付きがあり、左右下りにはない。中に入ると、受付があり、参拝客の入口となっている。一種の玄関であるが、玄関という言葉は、「玄妙な道に入る関門」という意味で出入口という意味がないのである。
 天龍寺庫裏は1899年(明治32年)に建立されました。なお庫裏は煙出し櫓がある切妻造です。 一般的に庫裏(庫裡・庫院)は寺院の僧侶の居住する場所や食事を調える場所です。庫裏は禅宗寺院で、仏像を安置して礼拝する仏殿・三解脱門(さんげだつもん)である三門(山門)・仏道修行に励む僧堂・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・浴場である浴室・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられました。庫裏は大規模な寺院では独立した建物として建立されるが、一般的な寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多くなっています。
1)達磨
 天龍寺庫裏には平田精耕老師(元天龍寺派管長・天龍寺住職)筆の達磨だるま図が描かれた大衝立、火盗双除伽藍守護を祈願して韋駄天(いだてん)像が置かれています。ちなみに天龍寺では方丈の床の間などに同じ達磨図があります。
 菩提達磨ぼだいだるま(ボーディダルマ)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。
 弟子の曇林が伝えるところによると、菩提達磨は西域南天竺国において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に宋境南越にやって来たとされている。  北宋時代の景徳年間(1004 - 1007年)に宣慈禅師道原によって編纂され禅宗所依の史伝として権威を持つに至った『景徳伝燈録[5]』になると、菩提達磨は中華五祖、中国禅の初祖とされる。この燈史によれば釈迦から数えて28代目とされている。南天竺国香至王の第三王子として生まれる。中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで道育、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗りょうがしゅう(楞伽経にちなむ)と呼ばれた。
 普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。921日(1018日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。この書では梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。
「朕は即位して以来、寺を造り、経を写し、僧を得度すること数え切れない。どんな功徳があるだろうか。」
 師は言った。「どれも功徳はありません。」
………………
 帝はその意を理解できなかった。師は機縁が合わなかったと知り、この月の19日にひそかに江北に帰った。
 後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。 達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる『坐禅の定義』などに継承されている。
 大通2129日(52914日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。
 永安元年105日(528112日)に150歳で遷化したとされる。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。諡は円覚大師。
影響
 達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖慧能にまで伝わったことになっている。さらに臨済宗、曹洞宗などの禅宗五家に分かれる。日本の宗教にも大きな影響を及ぼした。 禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。
 達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができた。これは『福だるま』と呼ばれ縁起物として現在も親しまれている
2)韋駄天
  韋駄天は仏教を守護する天部(てんぶ)の善神です。韋駄天は持国天(じこくてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)とともに四天王に数えられ、南方を守護する増長天(ぞうじょうてん)の八将の一神で、四天王下の三十二将中の首位を占める天部の仏神です。韋駄天は伽藍を守る護法神とされ、日本の禅宗では厨房や僧坊を守る護法神として祀られています。なお韋駄天は夜叉(やしゃ)がお釈迦様の遺骨・仏舎利(ぶっしゃり)を奪って逃げ去った際に追って取り戻したとも言われ、よく走る神・盗難除けの神として知られています。また韋駄天はお釈迦様の為に食物を駆け巡って集めたとも言われ、御馳走(ごちそう)の由来になりました。

7.大方丈
 入母屋、桟瓦葺、方丈型式、六間取、表三室、裏三室、左右各24畳、室中しつちゅう48畳)、周囲広縁、落縁、二垂木、狐格子。
1)屋根
 屋根は入母屋造いりもやずくり、桟瓦、二垂木です、寺院の瓦は本瓦が多いがここでは本瓦の改良型・桟瓦を使用しています。屋根は曲線を付けるため二垂木にしてあります。屋根の曲線は、庫裏の屋根とほぼ同じ程度の非常にゆるい曲線になっていなす。大工の間では、カラスと大工は屋根でなくという言葉があるそうです。カラスは屋根に止まって「かあかあ」となきます。大工は屋根の曲線をどうするかに泣くそうです。屋根は人間の顔に相当し、最大のビュー・ポイントです。どんな曲線にしたら良いか一番力を入れるところです。そのノウハウはマル秘事項で多言せず、直径の弟子にしか教えなかったようです。また、この曲線は計算尺の裏表を使ってだすようですが、この計算も結構難しいようで、その両面から、カラスと大工は屋根で泣くという言葉が出来たようです。
2)妻飾り
 妻飾りは、妻面の屋根でできる三角の部分の装飾で切妻屋根と入母屋屋根にできます。庫裏の妻飾りは二重虹梁大瓶束でしたが、大方丈の妻飾りは狐格子となっています。縦横の桟を細かく正方形に組んだ格子の裏に板を張ったもので、入母屋の妻飾りにはよく利用されるが。切妻には利用されない。懸魚は拝おがみ三花懸魚髭ありが1つある。
 懸魚は魚を懸かけると書きます。懸魚は妻飾りの1つであると同時に水な関係のある魚をかけ火災防止のお守りでもあるのです。懸魚には400種類ほどあるそうですが、通常で会うのは10種ていどです。

 
       大方丈東側
 
        大方丈西側

 
       大方丈南側
 
      大方丈北側(ジオラマ)

3)方丈様式
 建築様式は方丈型式です。方丈型式は中世の建築様式で壁はなく、柱間はすべて開口装置(障子・襖・板戸)で仕切られます。
 これは古代の寝殿造の姿をのこし、後に客殿建築、書院造しょいんづくりへと連なり、さらには近世の武士階級の住居に大きな影響を与えるつくりの建物です。 表三室、裏三室の六間取で構成され、左右の各室は24畳、表の室中しつちゅうは48畳あります。
 表の三室は襖を外すと1室の大部屋となり。大勢の人が集まる式典や会議に使用できるよう設計されています。このため、襖の上の仕切りは欄間となっています。
 裏の三室は襖の上の仕切りは壁となっており、個室として設計されています。
 天竜寺と言えば、法堂天井の雲龍図が有名ですが、大方丈にも雲龍図があります。それがこの大広間の雲龍図です。大方丈はこの大襖で東西に仕切られる構造になっています。

 
      大方丈表側(東側)
 
      大方丈裏側(西側)

 
     本尊「釈迦如来坐像」
 
       「方丈」扁額

4)「方丈」の扁額
 天竜寺の大方丈の入口には「方丈」と書かれた扁額が掲げられています。この扁額は天龍寺第8代管長の「関牧翁老師」(19031991)によって書かれたものです。 関牧翁(旧姓岩井)は、慶應義塾大学医学部に入学したが、在学中に作家・文化人の武者小路実篤が進める「新しき村」に共鳴、開拓生活に身を投じた。その後瑞岩寺岡部洪水宗和尚に出会い仏門に入った。京都・妙心寺を経て、1930年、天龍寺専門道場で関精拙せきせいせつに師事い、後に養子となる。1946年、精拙の後を継ぎ、関牧翁せきぼくおう(関巍宗ぎそう)は、1946(昭和21年)、天龍寺住持、天龍寺派第8代管長になる。それから87歳で亡くなる1946年(平成3年)まで45年間天龍寺館長を務められた。
5)釈迦如来坐像
 天竜寺のご本尊は阿弥陀如来ざぞうです。大方丈に安置されています。平安時代の作です。室町時代創建の天龍寺よりはるかに古いものです。しかし、ぶつぞうが、何時誰が制作したか、具体的な年代はふめいです。ほんぞんは、右手で「施無畏」、左手で「与願印」をむすび、「お願い事があれば…何でもいってごらんなさい」と言っています。
 本尊「阿弥陀如来坐像」の概要
 作 成 平安時代後期(年代不明)
 素 材 檜材、寄木造
     部と体幹部が一材掘り出し、耳の後ろから前後に割萩矧わりはぎされている。膝前は
     別材。螺髪らはつは彫り出し、彫眼、漆箔仕上げ

  像 高 88.5
 台 座 光背なし(過去にあったものと考えられる。)

 
       大方丈妻飾り
 
         式台


6)若狭成業わかさせいぎょう18871957
 近現代の何画家。名は忠太郎、別号を如岳、物外道人もつがいどうじん。秋田県生まれ、はじめ小野如水・高橋晁山に入門した。東京芸術学校を卒業、寺崎広業、山元春挙に弟子入りする。山元と自ら絶縁し、京都の富岡鉄斎門下の山田介堂に学んだ。中国へ歴遊し、王一亭・呉昌碩と親交し影響を受けた。巽画会会員。
 1957年に方丈襖絵を描いた。4か月後に没し、「画龍院如意物外居士」の法名が付けられた。71

8.式台しきだい 
 庫裏の玄関の左側に位置する。式台とは武家屋敷などにおいて表座敷と玄関の間にあって取次の儀礼などがおこなわれたり、家来が控える部屋の事をいう。
 玄関先で来客が地面に足をつけることなく籠に乗れるように設けられた1段低い板敷部分である、「敷台」に由来するという。 現在部屋の中には、住職が宮中参代や登城、あるいは寺院行事の際に現代の公用車のように任用したという。江戸時代の「朱塗り網代駕籠(寺駕籠)」が展示されている。

 
       書院南側
 
       書院南西側

 
       書院内部
 
      書院「庭屋一体」

9.書院(小方丈)
 入母屋造、銅板葺、二垂木、狐格子、拝蕪懸魚髭、六室取(表三室、裏三室、6室、表側(南側)(15畳1室、122室)、裏側(北側)(101室、82室)
1)屋根
 入母屋屋根、銅板葺、屋根の曲線は大方丈、庫裏と同程度の緩い曲線。三つの屋根の設計は同一と考えられる。
 宮大工の間では、カラスと大工は屋根で泣くと言う言葉があるという。カラスは屋根に止まり、文字通りカアカと鳴きますが、大工は屋根の曲線をどうしたら良いか、苦労して泣くそうです。屋根の曲線は。軒から軒先まで直線の地垂木ちたるきと地垂木より急勾配の飛檐ひえん垂木で作るV形谷を利用し屋根の曲線をつくります。建築物の屋根は人間の顔に相当するビューポイントで、大工が最も力を入れる場所である。その設計図は最大のマル秘事項で他者には一切みせず、弟子にも直系の弟子にしか見せなかったという。また、その計算方法も曲尺かねじゃくの裏と表を使いうかなり難しい不法でその両面から、カラスと大工は屋根で泣くと言われたようです。
2)「庭屋一体ていおくいったい
 天竜寺では、法堂と大方丈が東面、つまり東側に正面のある造りとなっています。これに対し、小方丈(書院)は南面、南側に正面があります。そして、そして正面となる南面に有名な曹源池そうげんち庭園が広がっています。そして曹源池庭園自体が、建物の中から眺めることを目的としている庭園です
 縁側近くに立って、視界の中全てに庭園を収めるのもよいですが、座敷のなかから屋根や柱、障子に切り取られた庭園を眺めることで、日本ならでわの雰囲気を味わうことができなす。日本の古人はお月様を直接みるよりも池に移る月をみて喜びました。
 このような雰囲気を「庭屋一体ていおくいったいと呼ぶのです。写真を撮影するなら、建物の中から、床や屋根をフレームインしたアングルで、庭園の写真を撮影することをお勧めします。
3)書院
 天龍寺の大方丈は有名ですか。曹源池庭園側から大方丈の建物を見るとき、小方丈の建物も視線に入るはずです。池の正面に大きなつぁて物、大方丈が見えますが、大方丈から左につながるやや小さい建物が小方丈です。 天竜寺の小方丈は書院造になっています。
 書院造しょいんづくりは、日本の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称である。その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。

 
      茶室「祥雲閣」
 
       茶室「甘雨亭」

 
        廊下
 
       多宝殿西側

4)祥雲閣、甘雨亭
●天龍寺祥雲閣・甘雨亭は1934年(昭和9年)に管長・関精拙(せきせいせつ)老師が南朝初代で、第96代・後醍醐天皇の木像が安置する多宝殿を建立した際、同時にその記念事業として関精拙が建てました。
 天龍寺祥雲閣は表千家の茶室・残月亭を写したものです。残月亭は元々千利休が聚楽屋敷(じゅらくやしき)に建てたものです。
   残月亭は千利休が聚楽屋敷に建てた色付(いろつけ)九間書院を写したものと言われています。色付書院には二畳の上段と付書院のある四畳の中段があり、四畳の中段は化粧屋根裏になっていました。残月亭の名称は関白・豊臣秀吉が上段の柱(太閤柱)にもたれ、四畳の中段の突上窓(つきあげまど)から名残の月を眺めたと言われていることに由来しています。
  表千家は茶道流派のひとつで、裏千家(うらせんけ)・武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)とともに三千家に数えられています。表千家は千利休(せんのりきゅう)による千家流茶道の本家であり、千利休が建てた茶室・不審庵(ふしんあん)を受け継いだ
 千利休の孫・千宗旦(せんそうたん)の三男・江岑宗左(こうしんそうさ)に始まります。不審庵は元々大徳寺の門前に建てられ、その後度々焼失し、1914年(大正3年)に現在の不審庵が再建されました。
●天龍寺甘雨亭の名称は裏千家14代・淡々斎(裏千家14代・千宗室)が命名しました。
  裏千家は茶道流派のひとつで、表千家(おもてせんけ)・武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)とともに三千家に数えられています。裏千家は千利休(せんのりきゅう)の孫・千宗旦(せんそうたん)が建てた茶室・今日庵(こんにちあん)を受け継いだ千宗旦の四男・仙叟宗室(せんそうそうしつ)に始まります。裏千家は茶室・今日庵が通りから見ると表千家の茶室・不審庵(ふしんあん)の裏にあることから言われるようになりました。今日庵は1646年(正保3年)に建てられ、1788年(天明8年)の天明の大火で焼失し、その直後に現在の今日庵が再建されました。
5)廊下
 天龍寺の諸室参拝は、庫裏から入り、大方丈、小方丈を通過して、小方丈の奥から多宝殿に向かって廊下を歩くことにならみす。
 小方丈の一番奥に、この多宝殿へと向かう廊下があります。この廊下から美しい庭園や天龍寺の境内にある。諸堂参拝では中を見ることが出来ない「詳雲閣」「甘雨亭」と言った建物がみられます、

 
       多宝殿(南面)
 
      後醍醐天皇陵(北面)

 
     多宝殿・後醍醐天皇像
 
      後醍醐天皇像

10.多宝殿 
建 築  1934年(昭和9年)
 建築様式 八幡造(前面拝殿、後面に祠堂を相の間でつなぐ)、二垂木(向拝は3垂木)、
      銅板葺、狐格子、拝蕪懸魚髭無

 多宝殿本尊 後醍醐天皇造;木造、像高;124.2㎝、作者;不詳
 開 基  足利尊氏
 開 山 夢窓疎石
1)建築
 多宝殿の建築様式は、寺院では珍しい八幡造はちまんづくりである。これは後醍醐天皇が吉野で南朝を開かれたとき、天皇がお住まいになられた時の住宅建築様式の建築様式を採用したためとのことである。八幡造の代表例は宇佐神社。北野天満宮である。江戸時代東照宮がこの様式を採用して以後、権現様式と呼ばれるようになった。前殿(ぜんでん)・後殿(こうでん)と呼ばれる建物を平入の2つの建物を前後に連結させ、中間に1間の相の間(あいのま)が付く。
 屋根は、現在銅板葺である、以前は檜皮葺きであったようである。何故桧皮葺から銅板葺に変わったか、正確なことは知らないが、多分供給量の関係であろうと推定されます。
 屋根材にはランクがあり、奈良時代までは瓦葺が最高位であったが。日本人の好みにより平安時代以後は、桧皮葺が最高位とされ、御所関係の建築物の屋根に殆どが檜皮葺きとなった。
 しかし、檜皮は、樹齢70年以上の檜から矧ぐが、樹齢70年以上の巨木が減少し、需要量を賄うことが出来ない状況にある。国宝、重要文化財の建築物の屋根には供給可能であるが、それ以下の檜皮葺き屋根の全部には供給できない状況にあり、一部の屋根は桧皮葺から他の屋根材の変更しななればならない状況にあり、多宝殿もそのような事情であったと推定されます。尚、桧皮葺は世界の他の国にはない、日本特有の屋根である。
2)多宝殿の歴史。
  龍寺が建立されたには、1339年(暦応2年)のこと(落慶は1345年)、
 足利尊氏は、後醍醐天皇との争いに勝利したものの、後醍醐天皇の死後その怨霊おんりょうにくるしめられ、怨霊鎮めと世相の安定を目論んで天龍寺を建立した。そして天龍寺は現在に至るまで、後醍醐天皇尊像をお祀しているわけですが、その場所がこの「多宝殿」です。
 多宝殿の奥にある祠堂しどう(霊をまつる所)では、後醍醐天皇の尊像が安置され、鎮魂を祈ってお祀りされています。
 天龍寺に後醍醐天皇が祀られたのは、夢窓疎石が足利尊氏に「後醍醐天皇の霊を祀って天下の平和をもたらすように」と進言したためと言われています。
 しかし、この後醍醐天皇像自体が何時、誰が作成したのかは、なぜか伝わっていません。天龍寺はそもそも平安時代に檀林寺と言う寺院があった所を檀林寺没落後のに天皇家が離宮として使用していた場所でした。
この離宮は、1255年(建長7年)に後嵯峨上皇の息子・亀山上皇が、1274年(文永11年)の譲位後、離宮を営んだところで亀山離宮、亀山殿、嵯峨殿等と呼ばれていました。
 その後、後醍醐天皇が学問所として使っていた場所が、現在の多宝殿であると、伝えられています。また、多宝殿の建築様式は、後醍天皇が吉野に南朝を営んだ時代の紫宸殿の様式をそのまま踏襲した建築です。
 後醍醐天皇は、南北朝時代に吉野に王朝を置きながら、執念深く京都の奪還を念じていました。通常天皇陵は「天子南面」(皇帝は南向きという古代中国の風習)の鉄則にのっとって南面して造営されるのですが、後醍醐天皇陵に関しては別です。
 後醍醐天皇陵は、吉野の地に、京都の方向に、つまり、北面を向いた状態で造営されています。これは、

玉骨はたとひ南山(吉野)の苔に埋まるとも、魂魄こんぱく(霊魂)は北闕ほっけつ(京都)の天を望まんと思う

という後醍醐天皇の遺言に従ったものである。
 後醍醐天皇陵は南朝のあった吉野の地に、奈良県吉野町に存在しています。一方、天龍寺多宝殿は「天子南面」のとおり、南向きに造られています。
 多宝殿では、全面に杯堂、後面に祠堂があり、相の間で接続して1つの建物としていますが、この形式は神社建築の八幡造やわたずくりと同系です。八幡造では、全面の拝と後面の本殿を相の間で結ぶ神社建築様式です。江戸時代東照宮でこの様式を採用するようになってから権現様式と通称されるようになりました。天龍寺は後醍醐天皇の鎮魂の寺として創建された。

11.庭園
 尊氏・直義が天龍寺創建に託した強い思いは、やはり鎮魂、さらに踏み込んで後醍醐帝の怨霊鎮魂が第一であったといえよう。天龍寺は13世紀に後嵯峨天皇が亀山離宮を設けたところ。もともと別荘に相応しい風光に優れた地であるが、幼少時をここで過ごした後醍醐天皇にとっては特に思い出深い場所と思われ、そんな天皇ゆかりの地を選んで寺が建立されれば鎮魂の意図はそれだけで十分に果たされる。庭の構成や意匠を取り立て鎮魂の目的に合わせずとも自然に追悼の意は表せる。
 天竜寺には、方丈前庭、方丈裏庭(曹源池庭園)、百花苑、望京の丘の4つの庭園がある。

 
  大方丈前枯山水(特別名勝・史跡)
 
        同左


(1)大方丈前庭(特別名勝・史跡)
 天龍寺の正面は東向きである。禅宗寺院本堂の多くは南向きであり、 中国の古い言葉に「天子は南面す」という言葉があります。中国では、北極星を天帝のシンボルとしており「天子は南面す」というのは、天子が天帝の住む北極の座につくことで、天帝の意を汲んで政事(まつりごと)を行う事を指しています。そのため、紫禁城(現在の故宮博物館)の皇帝の椅子は北に置かれ、真南を向いています。禅宗寺院の多くの本堂は、中国の故事に倣い、南むきであるが、天龍寺大方丈は場所の関係から、東向きになっています。
 大方丈前庭は石庭です。何もない真っ白な砂浜、大海原を表しているのだろうか、はるか彼方に大きな島、4大陸を、表しているのだろうか、それとも禅宗の無の世界を
 枯山水かれさんすい、かれせんずいとは日本庭園や日本画の様式・風のひとつである。仮山水かさんすい、故山水ふるさんすい、乾泉水あらせんすい、涸山水かれさんすいともいう。
 庫裏に向かった左側に庭園参拝者の入口がある。門を潜ると白い砂浜と緑の子苔島が目に飛び込んでくる。白と緑の対比が美しい。日本庭園、日本が完成させた日本の芸術である。
 枯山水は水のない庭のことで、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式。例えば白砂や小石を敷いて水面に見立てることが多く、橋が架かっていればその下は水である。石の表面の模様で水の流れを表現することもある。
 抽象的な表現の庭が室町時代の禅宗寺院で特に用いられ発達した。従来の庭園でも技法として庭園の一部に用いられ、寝殿造庭園でも枯山水の部分を含み大名屋敷に造られていく回遊式庭園も枯山水を含んでいることがあったが、禅宗寺院で用いられて以降、独立した庭園として造られるようになった。日本庭園は水を得られる場所に築くものであったが、枯山水様式の登場後は必ずしも水を使わなくとも造園が可能になった。
 西芳寺(下の方は池のある池泉回遊式庭園で上の方に枯山水庭園がある)や大徳寺の庭などが有名である。龍安寺の石庭は草木を用いず塀に囲まれた庭に白砂と15個の石組のみで表現した特異なもので、ひとつの場所からでしか全ての石が見えない構図になっており、その解釈を巡っては様々な説が唱えられている。
 以上はいずれも砂庭を基本とする枯山水であるが、太山寺の安養院庭園のように砂を用いず石組だけで風景を表現する枯池式と呼ばれる枯山水も存在する。

 
       大方丈南苔庭
 
          同左

(2)大方丈南苔庭(曹源池庭園の一部)
 枯山水庭園を通り南進すると大方丈南庭園にぶつかります。白い砂地に大きな小判状の苔庭、ここは曹源池庭園の一部になるかもしれませんが、曹源池庭園とは趣が異なり、むしろ大方丈前庭との関連が考えられます。 コケを庭に取り入れたのは日本だけです。
 日本は地形的に南北に長く、多雨であり、海岸から標高3000mを超す鉱山まで、多様な環境があって、世界でも有数の苔植物の豊富な国である。そのため日本では古来コケ植物を庭園に植えて鑑賞するという世界でも珍しい文化を持った国民です。
 コケの分類学的な研究は17世紀に欧米の研究者によりはじめられたが、日本人による研究が始まったのは20世紀になってからである。しかし、日本における戦後の苔学の発展は目覚ましく、日本産、外国産合わせ40万種を超える標本を所蔵し、現在の日本は世界でもっともコケ学が発達した国となっている。
1)コケ植物
 コケ植物とは、陸上植物かつ非維管束植物であるような植物の総称、もしくはそこに含まれる植物のこと。多くは緑色であるが、赤色や褐色の種もある。大きな群として、蘚類・苔類・ツノゴケ類の3つを含む。
 植物体は小型で、多くは高さ数cmまで。体制から茎と葉が明瞭な茎葉体(けいようたい)と明瞭でない葉状体(ようじょうたい)とに分けられる。茎葉体の場合、双子葉植物のように軸と葉の区別がつくが、構造ははるかに簡単である。いずれにせよ、維管束はないが、その役割を代用する細胞は分化している場合がある。胞子体の頂端の胞子嚢に作られる胞子によって繁殖する(ただし、コケ植物では胞子嚢を蒴(朔、さく)と呼ぶ)。蒴の形態や構造は重要な分類上の特徴である。 繁殖は、胞子によるもののほか、無性生殖として植物体の匍匐枝や脱落した葉より不定芽を出しての増殖を行なう。一部の種では、特に分化した無性芽という構造体を作るものも知られている。

 
    蘚類・スギゴケ
 
    苔類・ぜにごけ
 
    ツノゴケ類

2)コケの分類
・ツノゴケ類は日本で6属17種が確認されているが希少種で出会う機会は少なく、妨害種である
 か、話題にならない。

・苔類はゼニゴケの名でしられ、コケ庭の妨害種である。
・コケ庭に使用するコケは蘚類である。

(3)曹源池庭園
 天竜寺は室町時代に時の将軍・足利尊氏が開いた寺院である。その後、応仁の乱や幕末の蛤御門の変とう前後8回の火災に見舞われたため、境内の建造物は比較的新しく明治時代~昭和にかけてのもの。その中で室町時代の面影をよく残していると言われるのが曹源池庭園である。嵐山・亀山を借景とした池泉回遊式庭園は夢窓疎石作庭(文献派)と伝わる中でも最も規模が大きく(4000m2)優美・雄大な代表作で、日本国内で最初の国特別名勝・史跡の内の1つである。曹源池の名称は国師が池の泥を挙げたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところからなづけられました。
1)曹源池庭園の作庭者
 曹源池庭園の作庭者は誰か、それには、天龍寺開山の夢窓疎石と中国の僧蘭渓道隆らんけいどうりゅうです。
 日本庭園史は戦前から今日まで、思考方式を異にする文献派とこれに対抗する様式派の両派によって、それぞれの立場から研究されてきました。文献派は、文献通り、文献のみを基礎として当時の事情を研究する方式です。これに対し、様式派は全国の主要な庭園を実測、調査し、地割や石組を各時代別に区分して特徴や共通点を抽出し、その時代を中心とする前後の庭園の関連性雨や変動お総合的に研究した。
2)和流と唐様
 文献派は、苔寺庭園は夢窓疎石の作庭であるという。様式派は、それを調べるのに、その側面的な調査方法とし天龍寺庭園と比較しながら研究した。
 竜門瀑は天龍寺庭園の中心的な造形であり典型的な北宋山水画的構成である。北宋山水画は、鎌倉初期以来禅宗文化の1つとして中国より舶来した。在来の大和絵と対立する新しい造形思想の絵である。天龍寺の竜門爆は従来その例を見ない北宋画的構成であるために、この系統の石組を嵯峨流と称している。これに対して伝統的な大和絵的絵画構成の苔寺を四条流という。本書(日本庭園史新論)は、市場流を和流と呼び、嵯峨流を唐様と称する。」
 庭石を新しい発想に基づいて唐様を三角形、和洋を四角形であると最も簡素な原理を立ててみた。三角形の庭石は鋭角であるため峻嶮しゅんけん(高く険しい)な感じがする。」こけに対し四角形の庭石は鈍重な感じであるがその反面力強さを内蔵している。
 北宋画に範を求める唐様石組が従来の線を強調して峻嶮さを表現している。たとえば個の石を組む場合に、一番高い石を中央にたて、その両側に低い石を据えて三角的な構造方式をとる。この三角形的な基本形を保煮ながら連続的に発展させて行く、この典型が天龍寺の龍門瀑であり、嵯峨流(唐様)石組の手本となっている。
 これに対して和洋は3個の石を組み合わせる場合でも高低差のない石ばかり平面的に」構成することを特徴としている。そのため集団であっても立体的でもなければ奥行のない構成となる。
 以上のような観点から見ると苔寺の池泉の岩島や潭北亭跡の発掘石組などは和様石組の好例といえる。

 北宋画を石組によってそのまま立体化したような唐様式の天龍寺滝組と大和絵を石組化したような苔寺の対極的な石組とは造形思想が根本的対立している。苔寺と天龍寺とは四条流(和様)と嵯峨流(唐様)のそれぞれの第一作である。
3)作庭記流
 「作庭記」の著者は藤原道長の孫、すなわち関白頼道の子、橘俊綱であるというのが定説である。時は平安中期の末葉でいわゆる藤原文化生成期である。従って寝殿造建築に即応した造園書であり、当時の造園手法を詳しく記してある。その影響は大きく、平安中期はもちろんの事、鎌倉初期にまで及んだと信じられ、造園史研究の原点として「聖書」のような存在であって、平安後期の庭園を作庭記流庭園とか大和絵的構成の庭とよんでいる。
 作庭記流の特徴は以下の通りです。
  ① まろやかな曲線で囲まれた大きな池泉が庭の中央を広く占めている。
  ② 中島は円形か小判型ですこしも角張ったところがなく、低い姿勢を示している。
  ③ ふっくらと盛り上がった野筋(女性の乳房のような形の低い築山)が緩やかな傾斜線をし
   めしている。

  ④ のどかな傾斜線が、そのままなだらかな池底へ繋がっていく。従って池岸もゆるやかで、
   急角度で深くならない。

 その最後の条文に「屋の軒近くに3尺(90㎝)に余れる石を立事殊に憚るべし。三年のうちに主変事あるべし、また石を逆さまにたつること大いに憚るべし」と記してある。
 以上のように庭石を据えるにあたってあれも悪い、これも悪いと手も足も出ないように禁止するので、迂闊にされないことになる。

 
     平等院庭園宸殿造和様
 
      天龍寺曹源池唐様
 
       壺口滝
 
        龍門
 
                曹源池の龍門瀑

 4)龍門瀑
 屈曲や凹凸の少ない天龍寺の池泉は、円形に近い輪郭を特徴とする。これに対して、巨大な龍門瀑や石橋や岩島などは、模範的な北画的構成である。このように、池泉は和様の円形であるが、石組は唐様という異質の取り合わせは、全く奇妙なことである。
 この龍門瀑がいつ頃誰によって構築されたのかについて「元亭釈書げんこうしゃくしょ」巻第六によると「(建長寺に)居ること13年にして京都建仁寺に遷す……後嵯峨上皇は道隆のほまれを聞かれて、宮中に招き…」と述べている。道隆とは、中国より渡来僧蘭渓道隆らんけいおうりゅうのことである。もともと道隆が鎌倉より上洛して建仁寺の住職となったのは勅請である。上皇のお召しに応じて、おそらく文永元年(1264)宮中(嵯峨仙宮)に伺候し、禅問い奏答申し上げ、叡感を彼ったことがある。その時期と亀山に住す仙洞御所が造営された時期とが完全に一致する。 「新抄」の弘長4年(1264)1月26日の条に「上皇嵯峨殿に幸し当分御所たるべきの命なり」とあり、また「新抄」の文永2年(1265)4月28日の条には「今日、亀山殿新御所の御移徒行わる」と記されている。従って新御所の建築及び庭園も完了したと解釈できる。この年に蘭渓は住職の座を弟子の義翁に譲 って鎌倉にかえった。
 現在中国に龍門瀑という滝は存在しない。中国第二の大河黄河の中流、陝西省潼関せんせいしょうどうかんのやや北に、中国で2番目の大滝「壺口滝」がある、付近には、出世の関門とされ、故事に出る「龍門」があり、壺口滝を竜門瀑と呼んだようである。
5)蘭渓道隆らんけいどうりゅう 
 蘭渓道隆は、宋国西蜀、現在の四川省涪江ふこうの人、生まれた土地を蘭渓といったので、後に蘭渓と称するようになった。13歳の時入寺、無準師範むじゅんしはん、痴絶道沖ちぜつどうちゅう、など日本にもその名が轟いた名僧について学び、さらに陽山に行き無明慧性むみょうえしょうに参学して大悟した。その後明州の天童山に登り寄寓した。たまたま我が国の入宋僧月翁智鏡げつとうちきょうから日本の話を聞き、日本に渡る決心をした。
 寛元4年(1246)既に旧知の間柄であった京都泉涌寺せんにゅうじの月翁智鏡うを頼り、弟子の義翁紹仁じょうにん、龍江応宣ら数人とともに、日本船で三月博多に上陸し、大宰府の丹覚寺に止宿した。この時蘭渓は33歳の若さであった。翌宝治元年(1247)上京して泉涌寺に入った。院主月翁は一行を厚くもてなした。月翁は鎌倉へ行くように勧めた。蘭渓は月翁の言葉に従い、鎌倉に赴いた。博学高徳な蘭渓の来鎌を喜んだ北条時頼は、大船の常楽寺を住寺にあて、住職とした。蘭渓が常楽寺を主宰するようになってから、その徳を慕い百人の僧が常在し、禅を修めた。そのような理由で常楽寺が手狭となり、時頼は、建長元年より建長寺の建立にかかり同5年(1255)に建長寺を開創し、道隆を初代住職にした。
6)蘭渓道隆の天龍寺作庭説
 文献派は天龍寺の竜門瀑も夢窓疎石の作と主張しているが、これは明確に否定できます。なぜなら、龍門瀑という中国特有の題材について、また北宋画的構成(雪舟画参照)であること。さらに日本離れの重厚冷厳な構造であることが指摘」されます。従って大陸より来朝者が創作する以外に日本で自然発生する「理由はないとかんがえられる。
 結論として蘭渓道隆天龍寺作庭説は以下となる。
 ① 天龍寺の竜門瀑を北宋画的造形であると規定する場合、龍門瀑の創作を中国人に求めるこ
  とは極めて自然な考えである。

 ② 龍門瀑という題材から作庭者を中国人とすることは合理的である。
 ③ 龍門瀑の規模が日本的な枠を大きくはみ出し、構造の重厚冷厳さは非日本的である。
 ④ 上皇の崇敬を得ているだけでなく、蘭渓道隆は、日本絵画に、重大な影響を与えるだけの
  見識を持っているので、作庭能力を持って何時だけでな
く、作庭した可能性が大きい。
 ⑤ 蘭渓道隆が、後嵯峨天皇仙洞御所に参上したのが、折よくも御殿の竣工時期であった。
 これらの諸条件に、蘭渓道隆がことごとく適合しているだけでなく、諸条件が特殊であるほどで蘭渓道隆以外に適合者なくなってゆく。
                           (「日本庭園史新論」より)

7)曹源一滴そうげんのいってきすい 
 曹源池の名称は夢窓疎石が池の泥をあげた時池中から「草原一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。
 「曹源」とは、曹渓の源泉の意味で、曹渓とは、六祖慧能えのうのこと。達磨るま、慧可えか、僧粲そうさん、道信どうしん、弘忍ぐにんと続いて来た禅の流れが、六祖慧能禅師によって大成し、臨済りんざい雲門うんもん、洞山どうざん、潙山いさん、法眼ほうげんという禅匠たちによって、臨済宗、雲門宗、曹洞宗、潙仰宗、法眼宗の五家と、これに臨済宗の二派、楊岐ようぎ派と黄龍おうりょう派を加えて五家七宗に分化発展し、日本にも二十四流の禅として伝えられ現在に至っているわけです。この源をさぐれば、すべて「曹渓」の一滴水から流れ流れて来たものにほかなりません。故に転じて禅の根本を「曹源の一滴水」といい、禅の真髄、正伝の禅法を「一滴水」といいます。
  一滴水といえば、このような話があります。
  明治の初め、京都嵐山の天龍寺の管長になられた滴水てきすい宜牧ぎぼく禅師は、修行時代を岡山、曹源寺そうげんじの儀山禅師の下に過ごします。ある日の夕方、師が入浴中、滴水に問います。
 「わしが風炉から出たら水をどう始末するのか」
 「老師の次の人が入ります」
 「それがすんだら」
 「私たち小僧たちが入ります」
 「それがすんだら」
 「捨てます」
  答えるが早いか、儀山の大喝だいかつ一声いっせいが飛んでまいります。
 「バカモノー、なぜ木の根にかけぬ。一滴の水をも粗末にしてはならぬ」
 この一声が心底に徹して、益々修行に励みます。そしてついに五十歳の若さで、天龍寺の管長に推されます。よほどそのことを肝に銘じたのか、以後、号ごうを「滴水」と改め、七十八歳の生涯を閉じるまで、「水は仏の御命である。一滴の水をもムダにせぬように」と口グセのように言い続けて信者たちの教化に尽くされました。

 
             大和絵
 
  北宋画・雪舟
 
           龍門瀑石組
 
  同左拡大

8)曹源池庭園のみどころ。
 京都五山の第一位「天龍寺」は、後醍醐天皇を供養するために室町初期(1339年)に臨済宗として創建。開基(資金提供)は足利尊氏、開山(初代住職)は、臨済宗の禅僧・夢窓疎石(むろうそせき)である。夢窓疎石が堂舎を建て、池を整備したことは確かだが、作庭までの行った確証はない。
① 世界遺産「天龍寺」にある曹源池庭園。庭園を語る上で外せない名園である。借景となる亀山は、後嵯峨天皇や亀山天皇が亡くなられたあとに火葬された聖地でもある。曹源池の由来は、夢窓疎石が池の整備時に「曹源一滴」と記された石碑が見つかったことから名付けられた。
② 大和絵から北宋画風庭園に
 平安時代寝殿造庭園は女性の乳房のような野筋とすり鉢のような池で構成されていました、これを大和絵と言います。大和絵なだらかな曲線の女性的な絵です。倉時代になると禅宗の普及にともない、北宋画が伝わりました。北宋画は、角張った岩や山がありたくましく男性的な絵で大和絵と対称てきです。平等院庭園は、大和絵画様・和様です。それに対し、天龍寺曹源池の竜門瀑は北宋画風・唐様です。
 天龍寺の魅力は、日本庭園最高峰の滝石組にある。戦前までは水が流れていたが、現在は枯れている。大方丈からは遠く、薄暗くほぼ肉眼では造形美を観賞するのは難しい。遠くの景色や室内の仏像をはっきり見た人は望遠鏡で見るとよくみえます。
③ 龍門瀑の説明
 登龍門とうりゅうもんは、成功へといたる難しい関門を突破したことをいうことわざで、鯉の滝登りともいわれ、鯉幟のぼりという風習の元になっている。 この諺は『後漢書』李膺伝に語られた故事に由来する。それによると、李膺は宦官の横暴に憤りこれを粛正しようと試みるなど公明正大な人物であり、司隷校尉に任じられるなど宮廷の実力者でもあった(党錮の禁を参照)。もし若い官吏の中で彼に才能を認められた者があったならば、それはすなわち将来の出世が約束されたということであった。このため彼に選ばれた人のことを、流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説になぞらえて、「龍門に登った」と形容したという。
 それは古代中国の「急流の滝を登りきる鯉は、登竜門をくぐり、天まで昇って龍になる」という故事がありました。
 なお「龍門」とは夏朝の君主禹がその治水事業において山西省の黄河中流にある龍門山を切り開いてできたとされておるが龍門という場所がある。この龍門から下流は河幅も広く流れは緩やかになるが逆に龍門の上流は川幅も狭く流れも急になっている。さらにその先には幅3050m、落差20mの中国で2番目に大きい壺口瀑布がある。
 多くの魚の内龍門からの急流をのぼり、滝口まで辿り着けるのは鯉だけであった。さらにこの滝を登りきることが出来た鯉は龍は龍に変身に天上までのぼることができるという。
 滝石組の説明をします。まず、最も注目に石が鯉魚石りぎょせきAです。Aは非常に見えにくいので拡大図をつけました。
 鯉魚石とは、中国の鯉が滝を登ると龍になるという故事「登竜門」にちなんだ鯉を石に見立てたものである。天龍寺の鯉魚石は、鯉が滝を登り龍へと変化する瞬間を表現したきわめて珍しいものである。もちろん鯉が滝を登るようなことはできないが、ひたすら修行を繰り返すという禅の理念を石組で表したのを「龍門瀑(りゅうもんばく)」と呼びます。
 一番下に大きな立石が少し間をあけ2つ並んでいます。向かって右の大きな石はDで、水そのものを形容しています。水落石は縦にじぐざぐに並んでいます。「三段の滝」を表しています。拡大写真では上の水落石は隠れています。
 鯉魚石は、水落石の中心から外れていますが、滝の幅は広く鯉は滝の中にいると考えたらいいでしょう。鯉魚石の右の輪郭ははっきりしていますが。左の輪郭は苔の色が同色輪で輪郭が不明確です。鯉魚石の多くは、一番下にいますが、この滝では滝の途中まで登っています。
 Cは遠山石で、不老不死の仙人が住む蓬莱山も表している。
 Bは三枚の石橋であり、自然石で作られた橋として、庭園に使用したは日本最古の例である。青石が使われ、細く上品な造形である。青または緑色の岩石。緑泥片岩などで、庭石に使う。秩父青石・伊予青石などが有名。
  Eは鶴の首のような島であるが、池東岸から龍門瀑を眺めると、鶴の首のような島(E)は独立した岩島である。鶴島ともいわれる。
 竜門瀑の前の岩島を鶴島、北側の小さな中島を亀島と言い、鶴亀がセットになっている。これは作庭者が意図して鶴亀の島を設計したのでなく。のちの不特定の評論家の作ったものと考えられる。なぜなら、作庭家が鶴島、亀島を意図して作庭した最初の庭園は江戸時代前期、小堀遠州が南禅寺の塔頭・金地院の鶴亀庭園が最初であるという。
 また、庭園は、屋内から見るようにも設計されています。大方丈から目線をあげてながめるとまた印象が異なります。

 
      東南より曹源池庭園
   
 
       書院より庭屋一如

④ 庭屋一如ていおくいちじょ 
 庭と建物の調和の取れて一体になるように設計された空間が広がこと。古来より、日本では庭に自然を再生するように造られ、四季折々の情緒を楽しんできた。さらに庭を造り暮らしの中に光や風、植物を取り入れることにより快適な空間が作られてきている。額縁庭園という言葉がある。これは、室内から庭園見た時の風景が額縁にい)ると考えられる。

(4)百花苑ひゃっかえん 
 百花苑は、多宝殿から北門への遠路で、北門開設と同時に昭和58年整備された庭園。自然の傾斜に沿って遠路が作られており、北門を抜けると嵯峨野の観光名所である竹林の道、大河内山荘や常寂光寺じょうじゃこうじ、落柿舎などへ通じる。
 植物庭園である。その特徴は、①コケ庭であること、②日本を代表する桜と③椿がおおいこと。④日本を意識した植物は選択されていることです。

 
      茶室前コケ庭
 
      多宝殿南コケ庭
 
     多宝殿南の枝垂れ桜
 
       多宝殿西の枝垂れ桜

1)コケ庭
 庭園に、コケを取り入れたのは、日本だけであり、日本庭園は日本が世界に誇る庭園であると考えている。苔については(1)に述べたので省略する。
2)桜
 サクラは、バラ科サクラ亜科サクラ属(国によってはスモモ属に分類)の落葉広葉樹の総称。一般的に春に桜色と表現される白色や淡紅色から濃紅色の花を咲かせる。
① 概要
 サクラはヨーロッパ・西シベリア、日本、中国、米国・カナダなど、主に北半球の温帯に広範囲に自生しているが、歴史的に日本文化に馴染みの深い植物であり、その変異しやすい特質から特に日本で花見目的に多くの栽培品種が作出されてきた。このうち観賞用として最も多く植えられているのがソメイヨシノである。鑑賞用としてカンザンなど日本由来の多くの栽培品種が世界各国に寄贈されて各地に根付いており、英語では桜の花のことを「Cherry blossom」と呼ぶのが一般的であるが、日本文化の影響から「Sakura」と呼ばれることも多くなってきている。
 日本では桜の花の美を尊び鑑賞性を高める改良が続けられたが、他の国では食用として実に関心がもたれ、ヨーロッパではチェリー、中国では杏子として改良された。
② 野生種の分類
 サクラ類をサクラ属に分類するか、スモモ属に分類するか国や時代で相違があり、現在では両方の分類が使われている。日本ではヤマザクラなどサクラのみ約100種をサクラ属として分類するのが主流である。
日本における栽培品種と品種改良
 日本に自生する野生種のサクラは上記の10種、もしくは11種(species)であり、世界の野生種の全100種(species)から見るとそう多くはない。しかし日本のサクラに関して特筆できるのは、この10もしくは11種の下位分類の変種(variety)以下の分類で約100種の自生種が存在し、古来からこれらの野生種から開発してきた栽培品種が200種以上存在し、分類によっては最大で600種存在すると言われており、世界でも圧倒的に多種多様な栽培品種を開発してきた事である。
③ 品種改良

 日本人はこれら野生の種が他の種と交雑したりしながら誕生した突然変異個体と優良個体を選抜・育成・接ぎ木などで増殖してそれを繰り返すことで、多種の栽培品種を生み出してきた。エドヒガンやヤマザクラ、オオシマザクラなどは比較的に変性を起こしやすい種であり、特にオオシマザクラは成長が速く、花を大量に付け、大輪で、芳香であり、その特徴を好まれて結果として栽培品種の母親となって多くのサトザクラ群を生み出してきた[15][16][17][11]2014年に発表された森林総合研究所の215の栽培品種のDNA解析結果により、日本のサクラの栽培品種は、エドヒガンから誕生したシダレザクラのように一つの野生種から誕生した存在は稀で、多くがオオシマザクラに多様な野生種が交雑して誕生した種間雑種であることが判明した。なおソメイヨシノはオオシマザクラを親とするが父親なのでサトザクラ群には含めない。
④)シダレザクラ
 シダレザクラは、バラ科サクラ属の植物の一種、広義では枝がやわらかく枝垂れるサクラの総称で、狭義では特定のエドヒガン系統の枝垂れ性の栽培品種。
 広義のシダレザクラ、シダレザクラは広義では枝がやわらかく枝垂れるサクラの総称。野生種のエドヒガンから生まれた栽培品種のシダレザクラやベニシダレやヤエベニシダレが有名である。他には野生種のオオヤマザクラの下位分類の品種のシダレオオヤマザクラ、野生種のカスミザクラの下位分類の品種のキリフリザクラがあるほか、野生種のヤマザクラから生まれた栽培品種、もしくはオオシマザクラ由来の栽培品種のサトザクラといわれるシダレヤマザクラ(センダイシダレ)などがある。枝が枝垂れるのはイチョウやカツラやクリやケヤキなどでも見られるが、その原因は突然変異により植物ホルモンのジベレリンが不足して枝の上側の組織が硬く形成できず、枝の張りが重力に耐えられなくなっているからと考えられている。枝垂れ性は遺伝的に劣性のため、シダレザクラの子であっても枝垂れない個体が生まれる場合がある。

 
     藪椿赤
 
    藪椿白
 
     雪椿
 
     太神楽
 
    乙女椿
 
     日本誉
 
     加茂本阿弥
 
     鶯神楽
 
      侘助

3)椿
 ツバキ(椿)またはヤブツバキ(藪椿)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。照葉樹林の代表的な樹木。
1)名称
 和名ツバキの語源については諸説あり、葉につやがあるので「津葉木」とする説や、葉が厚いので「厚葉木」と書いて語頭の「ア」の読みが略されたとする説などがあり、いずれも葉の特徴から名付けられたとみられている。
 植物学上の種であるヤブツバキを指して、その別名として一般的にツバキと呼ばれている。日本内外で近縁のユキツバキから作り出された数々の園芸品種、ワビスケ、中国・ベトナム産の原種や園芸品種などを総称的に「椿」と呼ぶが、同じツバキ属であってもサザンカを椿と呼ぶことはあまりない。
 「椿」は日本で作った文字のつもりであったが、中国では、紅山茶(こうさんちゃ)という植物にあてていた。この場合「椿」を国訓こくくんである。
 「椿」は日本ンで作った文字であるが、中国では「椿」の字に別な植物を当てはめていた。音読みは「チン」でる。
分布・生育地
 日本原産。日本では本州、四国、九州、南西諸島から、それに国外では朝鮮半島南部と台湾から知られる。本州中北部にはごく近縁のユキツバキがあるが、ツバキは海岸沿いに青森県まで自然分布し、ユキツバキはより内陸標高の高い位置にあって住み分ける。主に山地に自生する。北海道の南西部(松前)でも、各所の寺院や住宅に植栽されたものを見ることができる。自生北限は、青森県津軽郡平内町の夏泊半島で、椿山と呼ばれる1万株に及ぶ群落は、天然記念物に指定されている
形態・生態
 常緑性の高木で、普通は高さ5 - 10メートル (m) 前後になり[4]、高いものでは樹高15 mにもなる。ただしその成長は遅く、寿命は長い。樹皮はなめらかで灰白色、時に細かな突起がまばらに出る。枝はよくわかれる。冬芽は線状楕円形で先端はとがり、円頭の鱗片が折り重なる。鱗片の外側には細かい伏せた毛がある。鱗片は枝が伸びると脱落する。
 葉は互生し、長さ8センチメートル (cm) 、幅4 cmほどの長楕円形で、先端は尖り、基部は広いくさび形、縁には細かい鋸歯が並ぶ。葉質は厚くて表面は濃緑色でつやがあり、裏面はやや色が薄い緑色で、表裏面ともに無毛である
 花期は冬から春にかけて(2 - 3月ごろ)、早咲きのものは冬さなかに咲く。花は紅色の5弁花で、下向きに咲かせる[4]。花弁は1枚ごとに独立した離弁花だが、5枚の花弁と多くの雄しべが合着した筒形になっていて、花全体がまとまって落花する。 果実は球形で、中には黒褐色の種子が入る
園芸品種
 他家受粉で結実するため、またユキツバキなどと容易に交配するために花色・花形に変異が生じやすいことから、古くから選抜による品種改良が行われてきた。江戸時代には江戸の将軍や肥後、加賀などの大名、京都の公家などが園芸を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、たくさんの品種が作られた。なお、「五色八重散椿」(ごしきやえちりつばき)のように、ヤブツバキ系でありながら花弁がバラバラに散る園芸品種もある。
 17世紀に日本から西洋に伝来すると、冬にでも常緑で、日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた。ヨーロッパ、イギリス、アメリカで愛好され、現在でも多くの品種が作出されている。

 花色は赤色と白色があり、それぞれ紅椿、白椿と呼ばれるほか、作出されたツバキには一重咲きから八重咲き、斑入りの品種もあり、その数は極めて多数ある。ワビスケ(侘助)というツバキは、茶花としてよく知られているが、これはトウツバキ(唐椿)と同様に中国原産種の栽培品種である。

 17世紀に日本から西洋に伝来すると、冬にでも常緑で、日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られた。ヨーロッパ、イギリス、アメリカで愛好され、現在でも多くの品種が作出されている。

 花色は赤色と白色があり、それぞれ紅椿、白椿と呼ばれるほか、作出されたツバキには一重咲きから八重咲き、斑入りの品種もあり、その数は極めて多数ある。ワビスケ(侘助)というツバキは、茶花としてよく知られているが、これはトウツバキ(唐椿)と同様に中国原産種の栽培品種である。

 
    硯石
 
     平和観音と愛の泉
 
     一滴之碑

4)硯石 
 百花苑の庭園に巨大な硯が立っています。様々な草花を観賞してきて、突如、巨大な硯が出現するので、初めて天龍寺を訪れた方は驚くかもしれません。この硯は、硯石と呼ばれており、拝むと書画が上達すると伝えられています。
 法堂の天井に描かれた現在の雲龍図は、加山又造画伯の筆すがその前の雲龍図は鈴木松年画伯の作品でしい。巨大な硯は、その時鈴木画伯が使用した硯です。
 60人の修行僧が墨をすり、鈴木画伯が大筆で一気に書き上げたとのことです。庭園に置かれている硯石は、鈴木松年画伯の遺徳を偲ぶものです。そして、誰が言い出したのかわかりませんが、硯石を拝むと書画が上達すると言われるようになり、今では全国各地から人が訪れるようになっているとのこと。
 硯石が庭園に置かれて、まだそれほど年月を経ていませんが、天龍寺は春と秋の観光シーズンに多くの参拝者で賑わうので、書画が上達するという噂が短期間に一気に広まったのかもしれません。書道や水墨画、その他の書や絵画をされている方は、硯石を拝みに天龍寺に参拝するとご利益を授かれそうです。
5)平和観音と愛の泉
 硯石の隣に「愛の泉」という小さな池があります。 池から顔を出している大小のカエル像が何ともいえない。カエルの周りに沢山のコインがまかれています。トレビの泉とまちがえたのかな。 案内板の説明によると80mしたの地下水湧き出ているようです。案内板の説明は以下のとおりです。

平和観音と愛の泉

天龍寺開山夢想国師の母は観音菩薩の霊夢を蒙り国師を生む。

  国師は成長の後、常に観音菩薩を信仰し念持佛とせられる。

この観音像はむかし中国より伝来したものです。国師は南北両朝の和平につくし、いつの世にか平和観音と称するに至った。

この泉は八十米の地下より湧き出づる霊泉にしてこれを喫する者は「愛と幸」を受くると伝えられ「愛」の泉と称します。

6)一滴之碑
 1998年(平成9年)に「一滴会」発足を記念して建立された石碑。
 2000年(平成12年)10月に天龍寺の開山・夢窓疎石国師650年大遠諱だいおんきを迎えるにあたって行われた大事業に参画した篤志者たちにより集い結成されたもので、国師が曹源池と題して「曹源涸れず直ちに今に臻あつまる一滴流通して広く且つ深し」の一節、あたかも一滴一滴の水が集まって谷を作り皮となり終には洋々たる大海になるになぞらえて命名された。
 碑は、望京の丘参拝コース入口龍門亭前にある。

 
     望京の丘頂上部
 
      望京の丘より


(5)望京の丘
望京の丘参拝コースは、曹源池の南を通り、曹源池西の小高い丘をのぼる。望京の丘より、東方向を望む、天龍寺境内全景及び京都を望むことがでます。
 境内の西側は、なだらかな斜面となっています。その斜面にはコケがびっしりと生えており、また、様々な種類の木も植えられていますよ。石段を上っていくと、紫色の花をたくさん咲かせたミツバツツジが青空の下で美しい姿を見せてくれました。石段を上り、最も高い所にやって来ました。この辺りは、望京の丘と呼ばれ、その名のとおり京都の街を眺めることができますよ。眼下には、ミツバツツジと枝垂れ桜。
 望京の丘の北側にやってくると、多宝殿を見下ろせる場所があります。桜が見事に咲いています。望京の丘からは、無数の枝垂れ桜を見下ろすことができます。丘の上の方に植えられている枝垂れ桜が特に立派です。望京の丘からは、無数の枝垂れ桜を見下ろすことができます。丘の上の方に植えられている枝垂れ桜が特に立派です。

12.塔頭等
(1)宝厳院

 
      コケ庭
 
      紅葉

大亀山宝厳院は臨済宗大本山天龍寺の塔頭寺院で、寛正2年(1461)室町幕府の管領細川頼之公により天龍寺開山夢窓疎石の第三世法孫聖仲永光禅師を開山に迎え創建された。
 創建時は、京都市上京区にあり、広大な敷地を有した寺院であった。応仁の乱により焼失したが再建され、その後変遷を経て天龍寺塔頭弘源寺境内に移転の後、現在地に移転再興された。
 本堂には、本尊十一面観世音菩薩、脇仏には三十三体の観世音菩薩、足利尊氏が信仰真こしたと寺伝にある地蔵菩薩が祀られており、西国三十三所巡りに等しい功徳があると伝えっれている。また、田村能里子画伯筆による「風河燦燦さんさん 三三自在」と題された襖絵五十八面がある。
 「獅子吼ししく(大いに雄弁を振るうこと)」-この庭園は、室町時代に中国に二度渡った禅僧策彦周良さくげんしゅうりょう禅師(150179)によって作庭され、嵐山を巧みに取り入れた借景回遊式庭園で、江戸時代に京都名所名園を収録した「都林泉名勝図会みやこりんせんめいしょうずえ」にも収録された名園である。獅子吼とは「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴くことによって人生の真理、正道を肌で感じる。これを「無言の説法」と言うが、心が大変癒される庭である。年間を通じ苔の緑はすばらしい、これは日本庭園の特徴でもあります。さらに、秋の紅葉は美しく年間を通して楽しめる庭園です。
1)獅子吼ししくの庭

 
     ①三尊石
 
    ②船石
 
    ③龍門瀑
 
    ④碧岩
 
    ⑤獅子岩
 
    ⑥響岩
 
    ⑦長屋風山門
 
    ⑧青嶂軒
 
    ⑨無畏庵
 
    ⑩蓑垣
 
    ⑪豊丸垣
 
    ⑫嵐山羅漢

宝厳院は、天龍寺敷地にある塔頭寺院である。「獅子吼の庭」の作庭は室町時代だが、平成14年にこの地に移転された古くて新しい庭園である。受付を済ませてまず出会うのがこの枯山水である。
①三尊石 奥にある立石を中心とした石組は三尊石である。解説によると、先を競って丸い石で
 表現された「苦海」を渡り、釈迦如来を見立てた「三尊石」のもとに説法を拝聴しに行く獣「
 獣石群」を表している。苦海と陸の間にある石が「獣石群」である

②船石 苦海には「舟石」が据えられている。苦海を渡りきれない人のために舟を配している。
 細やかな演出である。

③竜門瀑 こちらは天龍寺 曹源池庭園にもみられる龍門瀑りゅうもんばくと鯉魚石りぎょせきである
 。解説を繰り返すと、鯉魚石は、滝を登る鯉を表現しており、もちろん鯉が滝を登るようなこ
 とはできないが、ひたすら修行を繰り返すという禅の理念を石組で表したのを「龍門瀑」と呼
 ぶ。

2)巨石
④碧岩 苑路を進むと行く手を阻むかように現れるのが碧岩みどりいわである。碧岩は龍安寺の山
 手から産出してきたものであり、2億年前の海底に堆積した微生物などが水圧で圧縮されて出来
 た「岩石」とのこと。
碧岩越しに庭園を眺める。かなり硬度が高い岩石であり、艶やかであり
 ながら気品がある。

⑤ 獅子岩 碧岩と同じ石質で、見た目が獅子の顔に似ているという獅子岩と呼ばれている。こ
 の獅子岩は、「都林泉名勝図会」という江戸時代(寛政11年)に刊行された京都の名所や名園
 を収録した書物にも登場する。
⑥ 響岩 響岩は本堂の近くを流れる大堰川おおいがわと命名された遣水やりみずの脇にあります
 。外から庭園に入れる水を遣水といいます。その遣水の名称が、大堰川となっています。現在
 通称亀岡市から上流を大堰川、亀岡市から嵐山までが保頭川、保頭川から伏見の鴨川の合流地
 点を桂川といっています。以前は大堰川でしたが。明治29年(1896)行政上の表記が桂川に変
 更されました。

3)家屋及び垣
⑦ 長屋風山門
 宝蔵院は、現在では非常に数少なくなった茅葺の長屋風山門で、自然との調和を意識した⑦素朴な正門で天龍寺境内の南東に位置しています。
⑧ 茶席「青嶂軒せいしょうけん
 日本古来の建物である茅葺屋根の建物は減少しましたが、この茅葺屋根は江戸時代中期までは主流でした。茅葺屋根の最大の欠点は火災に弱いことだす。
 江戸では大火が100回余りあり、23年に一度は大火に見舞われた。 中でも被害の大きさから、「明暦の大火」「目黒行人坂の大火」「丙寅(ひのえとら)の大火」を江戸の三大大火といいます。このため江戸中期に瓦葺を奨励しました。丁度そのころ三井寺の瓦職人西村半兵衛が、丸瓦と平瓦の二種類の瓦を使用する本瓦を。丸瓦と平瓦を接続し一種類の瓦としました。これを桟瓦といいます。桟瓦の発見により、瓦屋根が急速に普及し、現在茅葺屋根は貴重な存在となっています。しかもこの宝厳院では、受付の長屋風山門、無畏庵とこの青嶂軒の三つもあるのです。
 茶室青嶂軒せいしょうけん)は、大正時代の建築。2003年に修復されています。
⑨ 無畏庵
 庭園西側にしつらえてある、茶室無畏庵むいあん)では実際にお抹茶を頂くことができます。無畏むいには、「仏が教えを説く際の、何ものをも畏(おそ)れないさま」という意味があります。
⑩ 蓑垣
 竹の小枝を下向きに重ねた垣。怡も昔の田植えの光景に藁や麦わらで作って着ていた蓑に似ている事から蓑垣の名称がある。耐久力を増すために上部に屋根をつけたのがオリジナルで、宝厳院垣と呼称している。垣根越しに延びるアカマツの木肌、曲姿も見事で年代を感じさせる。獅子吼の庭は、細い竹をつるした垣根が周辺を取り囲みます。
 この垣根の構造は宝厳院特有のもので、次の「豊丸垣」とあわせて宝厳院垣ほうごんいんがきと呼ばれています。
⑪ 豊丸垣
 竹箒たけぼうきを逆さにしたような独特な垣である。蓑垣とともな宝厳院垣とも呼ばれている。
4) 嵐山羅漢 
 羅漢らかんとは、釈迦の教えを広めるお弟子さんたちのこと。宝厳院の周辺や境内には、日本各地の企業や個人から奉納された羅漢像が祀られ、神秘的な雰囲気を醸し出しています。

(2)弘源寺

 
     弘源寺庭園
  
 
       同左

 弘源寺は臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の塔頭寺院。永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川右京太夫持之公が天龍寺の開山である夢窓疎石の法孫にあたる玉岫英種ぎょくしゅうえいしゅ禅師を開山に迎え創建した。持之公の院号をとって弘源寺の寺号とした。細川家は清和源氏の流れをくみ、足利家より分かれた細川家九代が当寺の開基持之公である。創建時は小倉山の峰に位置し、北は二尊院、南は亀山に至る広大な寺領を有していたが、幾度かの火災に遭遇し変遷を重ね、明治15年に末庵である維科軒と合寺した。本堂からの眺望は雄大で、嵐山を借景にした枯山水庭園が春の桜、秋の紅葉と調和する景色は嵐山屈指である。
 本堂は客殿形式で寛永年代の造営。正面中央には本尊観音菩薩、右側に開山である玉岫禅師造、左側に開基である細川右京太夫持之公の位牌を祀る。柱に残る刀傷は、幕末の「禁門の変(蛤御門の変)」(1864)に際し、天龍寺に陣を構えた長州藩の軍勢が試し切りをしたものである。
 開山玉岫禅師画像、開基細川右京太夫持之公像と後水尾天皇和歌、十六羅漢像のほか多くの寺宝を所蔵する。とくに、京都四条派を伝える日本画家竹内栖鳳とその一門「上村松園・西山翠嶂・徳岡神泉・小野竹喬・池田遙郵」(文化勲章受章者)ほか30数人の作品群本堂を飾っている。が毘沙門堂の正面扁額は弘法大師の直筆。毘沙門天立像(重文)は、初め比叡山無動寺に」あったが、変遷を経て開山玉岫禅師が当寺にお向かいした。天井には日本画家初代藤原孚石筆による四季草花四十八面の絵画が描かれている。

 
     ③友雲庵
 
    ④龍門亭

(3)友雲庵ゆううんあん 
 龍門亭の東側に天龍寺の研究棟である精耕館(天龍寺史編纂所)をはさんで建つ建物。ここでは現在毎月第2日曜日に午前9時から1時間の坐禅会と禅の講義である提唱が午前10時から1時間行なわれており、一般に開放されて無料で体験することができる。(予約不要)

(4)龍門亭(篩月)
名庭、四季折々の風景にかこまれながらいただく精進料理。鎌倉時代・禅宗の教えとともに中国から伝えられた料理です。
 精進料理、それは禅宗の修行の一つ(食べること)の精神と自然の調和から生まれる心の自由を味わうために完成された調理法であり、厳選された新鮮な四季折々の素材を心を込めて整えることから始まり動物性の素材を一切使用せず野菜・山菜・野草・海草類を主にした素材で健康に優れた料理法といえます。
龍門亭は曹源池庭園の南側にある建物で2000年に建てられました。ここでは天龍寺が運営する篩月の精進料理をいただくことができます。頂くには予約が必要で、2人以上から予約可能。

 
    ⑤妙智院
 
   ⑥寿寧院
 
    ⑦等観院
 
    ⑧永明院
 
    ⑨松厳寺
 
    ⑩慈済院

(5)妙智院
 天龍寺境内の勅使門の南東に塔頭・妙智院みょうちいんがある。 臨済宗天竜寺派。本尊は釈迦牟尼仏(薬師如来像とも)。天龍寺七福神めぐりの一つ、宝徳稲荷を祀る。商売繁盛、五穀豊穣の信仰がある。
歴史年表
 室町時代、1453年(亨徳2年)、開山・竺雲等連じくうん-とうれんが創建した。その寿塔とされた。堺の貿易商人・雲栖軒奇峯道夏居士の外護による。当初は現在の宝厳院の地にあった。
 天文年間(1532-1555)3世・策彦周良さくげん-しゅうりょうが住持になる。策彦は当院で没した。江戸時代、1788年、御朱印91182合を得る。(「天竜寺末寺帳」) 1864年、焼失する。庫裏の一部は焼失を免れた。
 近代、1877/明治期(1867-1912)、華蔵院に妙智院が合併され、華蔵院を妙智院と改め現在地に再建される。禅昌院の合併後、その跡地は惣門内の広場に改められた。また、宝()徳院、華蔵院、逸休院、禅昌院、性智院などが合併され再建されたともいう
◎庭園 かつて、庭園は名庭といわれ、『都林泉名勝図会』にも記された。その後、破却され、「獅子吼の庭(ししくのにわ)」「獅子巌」は、天龍寺塔頭・宝厳院の庭に移された。
◎湯豆腐 境内に、嵯峨野で一番古い湯豆腐店といわれる「西山艸堂(せいざんそうどう)」が営業している。妙智院の直営であり、豆腐は嵯峨の老舗「森嘉」の豆腐を使う。
(6)寿寧院じゅねいいん 
天龍寺の境内、勅使門の南西に塔頭・寿寧院じゅねいいんがある。かつて、対州書役・朝鮮書契御用を多く輩出した。臨済宗天龍寺派。本尊は薬師如来像。
 天龍寺七福神めぐりの一つ、6番、赤不動明王(見守り不動)が祀られている。交通安全、病気平癒の信仰がある。
歴史年表 南北朝時代、貞治年間(1362-1368)、龍湫周沢りゅうしゅう-しゅうたくの創建による。かつて臨川寺の子院であり、三会院6塔頭の一つだった。  その後、衰微する。
  近代、1885年、栖林軒すりんけんの廃寺に伴い、その跡地に再建された。
◎坂本竜馬の妻・楢崎龍ならさきりゅうの
 楢崎龍ならさき-りょう1841-1906)。お龍おりょう、京都の生まれ。父は青蓮院宮の侍医・楢崎将作の長女、母は貞()1862年、勤王家の父が安政の大獄で捕らえられ、赦免後病死し、家族は離散する。お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働く。1864年頃、龍馬と出会い、親戚筋の知足院の仲介により金蔵寺で内祝言を挙げた。伏見・寺田屋のお登勢に預けられ、「お春」と名乗る。1866年、龍馬は寺田屋に投宿し、お龍の機転により伏見奉行配下の捕吏より脱出した。(寺田屋事件)。龍馬の刀傷治療のためにともに薩摩へ下る。お龍は途中の長崎で下船し、小曾根英四郎家に預けられた。1867年、下関の伊藤助太夫家に妹・起美と過ごす。
  龍馬暗殺(近江屋事件)後、1868年、土佐高知・坂本家に移り、妹・起美の嫁ぎ先の安芸郡・千屋家(菅野覚兵衛の実家)へ移る。1869年、寺田屋のお登勢を頼る。1875年、東京の呉服商人・西村松兵衛と再婚し、「ツル」に改名して横須賀に暮らした。妹・光枝がお龍を頼る。松兵衛と光枝が内縁関係になりお龍は別居した、64歳で死去。
 お龍没後、松兵衛は、信楽寺(横須賀市)に墓を建立する。墓石には「贈四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれた。妹・光枝を建立者、松兵衛は賛助人としている。また、楢崎家菩提寺の西林寺にも分骨されたという。
  2005年、子孫により八瀬に移転した西林寺の無縁墓地より、天龍寺・寿寧院墓地に移された。

(7)等観院
天龍寺之境内、勅使門の南西に塔頭・等観院とうかんいんがある。「等観」とは、仏教語で「ものごとを見極め、何事も等しく観る」ことを示すという。臨済宗天龍寺派。本尊は十一面観世音菩薩を安置する。 
 歴史年表 南北朝時代、1386年、管領・細川満元が建立したという。開山は徳叟周佐による。また、徳叟の開基の退隠寮、正持庵(しょうじあん)を復興したという。
  近代、1877年、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃する。1885年、正持庵が廃寺になる。1921/1919年、峰山・吉村の志願により、天龍寺境内の現在地に移して復興された。

(8)永明院ようめいいん 
 天龍寺境内、法堂の南東に塔頭・永明院ようめいいんはある。 臨済宗大本山天龍寺派。天龍寺七福神めぐりの一つ、5番、恵比寿を祀る。商売繁盛、交通安全の信仰がある。
 歴史年表 室町時代、1413/1414年、太岳周祟たいがく-しゅうそうが創建した。  1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失する。安土・桃山時代、1593年、常滑とこなめ藩主・水野守信(1577-1637)が父・堅物の名誉回復、菩提を弔うために再興した。以後、水野家の菩提寺になる。江戸時代、1864年、蛤御門の変の兵火により全焼失した。1865年、再興される。
  近代、大正期(1912-1926)、実業家・山口玄洞の大寄進を受け再興される。1987年、境内墓地の宝塔6基が、水野一族の墓所と確認された。
 山口玄洞 江戸時代後期-近代の実業家・山口玄洞(やまぐち-げんどう、1863-1937)。広島県の生まれ。医業と副業の醤油販売業・山口寿安の長男。1871年、9歳で愛媛の漢学塾「知新館」に学ぶ。1877年、父急死により、尾道で行商を始める。1878年、大阪の洋反物店「土居善」に丁稚奉公に出る。1881年、倒産により鳥取で商う。1882年、大阪で洋反物仲買「山口商店」を開業し、輸入織物のモスリンを扱い成功する。1896年、山口家4代目として玄洞を襲名した。1904-1906年、高額納税者のため、貴族院勅任議員に互選される。三十四銀行取締役、大阪織物同業組合初代組長、大日本紡績(現ユニチカ)・大阪商事などの役職を兼ねる。1917年、引退し、京都の本邸で隠居、仏教を篤く信仰する。資産の多くを公共・慈善事業、寺社に寄付し、表千家も後援した。
◎建築 現在の庫裏・本堂は、大正期(1911-1926)、実業家・山口玄洞によって再興された。
◎修行体験 夢坐禅会(毎月第1日曜日、坐禅10:00-11:00、法話11:00-11:308月は休会)

(9)松厳寺しょうげんじ 
 天龍寺の境内、総門より入る参道の北側、その西端に塔頭・松巌寺がある。  臨済宗天竜寺派。天龍寺七福神めぐりの一つ、第4番、福禄寿を祀る。人望を高めるという霊験がある。
 歴史年表 南北朝時代、1353年、晦谷祖曇まいこく-そどんの開山による。開基は公家・四辻善成よつつじ-よしなりによる。当初は、天龍寺の庭園背後にあった。
 江戸時代、亨和年間(1801-1804)、建物を売り借財にあてる。以後、荒廃した。1864年、禁門の変で焼失する。近代、1877/明治期(1868-1912)初期、塔頭・南芳院(1870年に廃寺、その後再興)の跡地に移る。真乗院を合併し、再建された。また、南芳院と合併し、寺号も松巌寺と改めたという。 現代、1952年、現在の福禄寿殿が建てられる。
◎龍馬像 墓地入口正面奥に坂本龍馬(1836-1867)の像が立つ。1867年、龍馬が長崎より上京する船中で、同乗した後藤象二郎に示した8カ条の新国家構想「船中八策」の碑が立てられている。 ◎墓 脚本家・比佐芳武、歌舞伎の3代目・市川寿海、女優・浪花千枝子の墓がある。

10)慈済院じさいいん 
 天龍寺の境内、総門から入る参道の北側中ほどに塔頭・慈済院じさいいんはある。  臨済宗天龍寺派。 天龍寺七福神めぐりの一つ、3番、弁財天(水摺大弁財天)を祀る。
 歴史年表 南北朝時代、1363年、無極志玄むごく-しげんを開基にする。当時の朱印高は975斗あり、塔頭の中で最高の石高だった。当初の境内地は現在地の南東、斎明神社の南にあった。
江戸時代、寛永年間(1624-1645)、焼失し、境内を移した。宝暦年間(1751-1763)、財政逼迫し荒廃する。1792年、焼失する。 文化年間(1804-1818)、焼失した。  近代、1930年、福寿院を合併する。
 建築 建物は度重なる火災により失われた。現在のものは、江戸時代の建立による。慈済院の建造物は山内で最も古く5つの施設で登録有形文化財の指定をうけている。
〇「表門」(登録有形文化財)は、 江戸時代、1615-1661年に建立された。山内最古級の表門になる。本柱頂部を繋ぐ冠木を男梁と女梁で挟み、男梁上の板蟇股で棟木を受ける。軒は二軒疎垂木、間口2.8m、一間薬医門、切妻造、本瓦葺、東に潜戸付。慈済院には、「表門」と「弁天堂の門」の2つの門がある。
〇「弁天堂の門」は、来福門と呼ばれ、唐様になる。
〇「本堂」(登録有形文化財) は、江戸時代、1816年に建立された。六間取の方丈形式で、室中を含む前3室は境に竹の節を設け、3室通しの棹縁天井を張る。上間後室の西側に床、付書院がある。南面する。四面広縁、木造平屋建、瓦葺、建築面積238㎡。
「庫裏」(登録有形文化財)は、本堂東側に玄関廊で繋がる。江戸時代、1799年に建てられた。妻入正面は、舟肘木で受け、妻梁上の中央に蟇股、虹梁大瓶束、両脇に海老虹梁を飾る。東の土間は大黒柱、梁組がある。木造平屋建、切妻造妻入、瓦葺、平面はほぼ正方形、建築面積101
〇弁財天 弁天堂には、天龍寺七福神めぐりの一つである弁財天(水摺大弁財天)を祀る。
 毎年、巳成金みなるかねの大祭の日に墨では無く、香水によって刷った弁財天像を信者に授与していた事から通称『水摺福寿弁財尊天みずずりふくじゅべんざいそんてんともいわれている。
 
※巳成金とは、弁財天と習合した宇賀神が蛇体であるのにちなんで十二支の「巳」、十二直の「成」、そして二十八宿の「金」に当たる日の事で、この日を『実の成る金』と言って、お金等を紙に包んでおくと富むという故事があるそうです。9月の巳(み)の日。

 
    ⑩来福門
 
    ⑪三秀院
 
    ⑫八幡宮
 
    ⑬飛雲観音菩薩
 
   同左
 
   ソ連抑留者慰霊碑

11)三秀院
 天龍寺境内、総門より入った参道の北側、東端に塔頭・三秀院さんしゅういんがある。臨済宗天竜寺派。天龍寺七福神めぐりの一つ、第1番、東向大黒天を祀る。開運福徳の信仰を集める。
歴史年表 南北朝時代、1363年、不遷法序ふせん-ほうじょを開基として創建された。当初の境内地は、霊庇廟の南にあった。江戸時代、1769年、焼失し、廃寺になる。寛文年間(1661-1672)、第108代・後水尾天皇により中興された。元治年間(1864-1865)、焼失する。その後、現在地に移される。
 近代、1872/1876年、塔頭・養静軒ようせいけんを合併し、現在地に再建された。また、養清軒に三秀院を合併し、寺号を三秀院と改めたともいう。1879年、瑞雲院(山城国乙訓郡大山崎)を合併する。1965年、現在の本堂が再建されている。
◎建築 現在の本堂は、1965年の再建による。天井に彫金の「鳳凰図」(2m四方、重さ2)が飾られている。
◎茶室 茶室「任有亭(にんゆうてい)」がある。
◎庭園 露地庭がある。苔地に自然石の飛石、長石、外露地と内路地の間に枝折戸、四ツ目垣(横竹3)による仕切りがある。

◎天龍寺七福神 天龍寺七福神めぐりの一つである大黒天を祀る堂がある。東向大黒天(東向き大黒天さん)とも呼ばれ、大柄で左手に大袋、右手に小槌を持つ。第108代・後水尾天皇の念持仏だったという。日本三大黒天(ほかに延暦寺、寛永寺)のひとつに数えられる。江戸時代、寛永年間(1624-1643)に嵯峨人形師により作られた。1864年の山内火災にも焼失を免れ、霊験が知れ渡った。
 天龍寺七福神めぐりは、節分(23)に天龍寺の総門前、法堂前で福笹を受け、境内塔頭7か寺を巡る。七福神が開扉され、お札を授かり一年の幸福を祈願する。三秀院(東向大黒天)、慈済院(水摺大弁財天)、弘源院(三国伝来毘沙門天)、松厳寺(福禄寿)、妙智院(宝徳稲荷)、寿寧院(赤不動明王)、永明院(恵比寿)7塔頭になる。
◎墓 映画監督・森一生の墓がある。

12)八幡社大菩薩
 庫裏へ続く参道の北側、塔頭松厳寺の西にある八幡大菩薩を祀る天龍寺の総鎮守社。1344年(康永3年)に開山夢窓国師が見た霊夢により建立。天龍寺十境の一つ「霊庇廟れいびょう」として元々は亀山山頂に祀られていたが、1875年(明治8年)に現在地に移された。
八幡神やはたのかみ、はちまんしんは、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命ほんだわけのみこととも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩はちまんだいぼさつと称され、神社内に神宮寺が作られた。
1)八幡神社概要
 現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕じけん(神仏が種々の姿でこの世にあらわれる)したと伝わる。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。また、八幡三神のうち、比売神ひめかみ(女神)や、神功皇后に代えて仲哀ちゅうあい天皇や、武内宿禰たけしうちのすくね、たけのうちのすくね、玉依姫命を祀っている神社も多くあり、安産祈願の神という側面(宇美八幡宮など)もある。
2)比売神
比売神はアマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命たぎつひめのみこと・市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと・多紀理姫命たぎりひめのみことの三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている。宗像三女神は宗像氏ら海人集団の祭る神であった。それが神功皇后の三韓征伐の成功により、宗像氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされている。
3)神功皇后応神天皇は母の胎内ですでに皇位に就く宿命にあったため「胎中天皇」とも称されたことから、皇后への信仰は母子神信仰に基づくと解釈されることもある。
4)皇祖神
八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされていた。
5)神仏習合
東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781年)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。

13)飛雲観音菩薩
飛雲観音ひうんかんのんは、東京芸術大学の西村功朝氏の作で、1980(昭和55)に建立されました。 元々は、アジア・太平洋戦争期の特攻隊などの航空戦で命を落とした日本兵のために建てられるはずでしたが、国籍や宗教を問わず、広く航空受難者一般の供養のためにこの像は建てられることとなったそうです。
 雲観音碑文碑文 「一九四一年に始まった太平洋戦争は、有史以来の戦争の様相を大きく変えた。それは、本格的な航空戦が加 ったゆえである。無限の広がりを持つ新しい空の決戦場は、多数の飛行機搭乗員を必要とした。高度な飛行技術と強靱な精神力を求められる搭乗員は、年少期よりの専門教育が至情とされるところから、厳しい訓練に耐え 得る鋼のような肉体と純真でひたむきな学習力を持つ青少年に、国を挙げての期待が集まるのは当然の成り行 きであった。空はまた、青春の心を捉えて止まない魔力を備えていた。かくして若者は、学業なかばにして次々と 飛行機乗りの道を選び、熾烈な空の戦いに参加して多くの者が散華していった。彼らには、名利や栄達への欲望など一切なかった。祖国を呑み込もうとする怒濤の前に、己が生身を投げ出す事が、平和の礎になるものと 信じて疑わなかった。同じ思いをわかち合いながら、紙一重の差で戦後を生かされた空の仲間達は、先駆けた 友の霊を慰め、その願いを後世に伝えるよすがとして観音像の建立を発願したが、砲火を交えた異国の人々に も思いを巡らす時、同じ空の戦いに散った翼の友として、彼我の別なく追悼する事に異論の有ろう筈もなかった。さらに航空殉難者も合わせ回向する旨を広く世に問うたところ、胎内に収める写経三万巻と浄財が寄せら れ、世界の平和と航空安全の本尊として、飛雲のおん名を奉る観音像がここに建立された」

14)ソ連抑留死没者慰霊碑 
 チタ州フカチャーチャ収容所から帰還した我らは昭和441010日ようやく同収容所で永眠した千余柱の英霊を初め、ソ連地区抑留死没者並びに帰還後死没者の合同葬儀をここ天龍寺にて執り行うことが出来た今、我らはこれらの同胞の遺品と過去帳をここに収めて世界の永遠の平和を念じつつこの碑を建てる。                  昭和4610月9日ヤゴタ会


                        Ⅲ.寺宝
1.彫刻
木造釈迦如来坐像(重要文化財)
 仏像崇拝を積極的に行わない禅宗で、釈迦如来像は例外的に本尊として祀られることが多い。 釈迦は慈悲と知恵の二徳を備え、悟りを開いて広く衆生を済度さいど(迷い苦しんでいる衆生を救って、悟りの彼岸に導くこと)した仏教の祖。
禅宗で礼拝される像は禅定相で表される像が普通である。 禅定は、心を統一して瞑想し、真理を観察すること。 またそれによって心身ともに動揺することが無くなった、安定した状態をさす。 印相も定印じょういん(坐像で、両手の手のひらを上にして膝上で上下に重ね合わせた形である。 これは仏が瞑想に入っていることを指す印相)の者が多い。 
 この方丈に安置されている像は、右手は施無畏せむいいん(手を上げて手のひらを前に向けた印相。 「恐れなくともよい」と相手を励ますサイン)、左手は膝の上にのせている。 像は木造寄木造りで内刳が施されて畏る。 顔は丸く平面的で、切れ目と眉、わずかに微笑を含む様に唇がわずかに丸味を帯びている。 額は美しく光るが玉眼は嵌めてない。体のもつ印象も平板で、胸の張りも組まれた足も厚みに掛ける。 衣文の彫りもやや浅いが、形から腹の部分の線の流れは美しい。 像高は1m弱の小像であるが、比較的大きく見せる。 藤原時代末期の製作。
その他の像
 イ)毘沙門天立像(重文)平安時代  木像 像高119.6cm   弘源寺蔵
 ロ)夢窓国師像     南北朝時代 塑造 像高123.3cm   臨川寺
 ハ)後醍醐天皇像    時代不詳  木像 像高124.2cm   多宝殿
 二)足利尊氏像     室町時代  木像 像高  76.0cm   法殿
 ホ)聖観世音菩薩立像  平安時代  木像 像高111.2cm   大方丈
2)絹本著色夢窓国師像(重文)夢窓の自賛あり南北朝時代 111.2×57.2cm

  左斜め向き半身像

3)絹本著色夢窓国師像(重文)夢窓国師晩年椅子に座す106.5×58.0cm
4)絹本著色夢窓国師像(重文)南北朝時代全身像116.5×54.5cm
5)絹本著色観世音菩薩像(重文)元時代165.4×56.7cm
6)絹本著色清涼法眼禅師像(重文)南宋時代114.5×78.5cm
  その他の絵画
  ・夢窓国師像(重文)     南北朝時代 120.1×64.5cm 妙智院
  ・策彦周良和尚像(重文)   明時代    125.6×49.2cm 妙智院
  ・策彦帰朝図(重文)     室町時代   82.1×66.7cm 妙智院
  ・足利義持像(重文)     室町時代   109.2×56.8cm 慈清院
7)遮那院御領絵図(重文)鎌倉時代153.6×154.9cm
  図の上方を西し、南流する太堰川が描かれ、領有する人物名によって境界が示される
8)往古諸郷館之絵図(重文)鎌倉時代1917.0×215.0cm
  地図上南、亀山、亀山殿、浄金剛院が描かれる
9)応永釣命絵図(重文)240.0×272.0cm
  四代将軍義持の命により臨川寺住持月渓中珊が書いた天龍寺周辺絵図
10)東陵永璵墨蹟(重文)南北朝44.7×89.4cm
11)北畠親房消息(重文)32.0×47.5cm

B・夢窓礎石 
1.幼年期と天台宗
 父は宇多天皇の流れをくむ滋賀の佐々木氏系で、伊勢国安濃郡片田郷井戸に住む地頭佐々木朝綱ともつな、母は北条政村の娘。 建治けんじ元年(1275)に生まれる。 幼名は寿王丸じゅおうまる。 4歳の時、隣接する土地の支配権を巡る争いで破れた。 父は牧の荘の領主二階堂行藤ゆきふじを頼って甲斐国に移住した。 母は敵矢に当たり重症、父の一行とは別に駿河国江尻の慈心という御家人の家で養生し、遅れて甲斐に到着した。 しかし、その時すでに父は、母は助からないものと思い、行藤の妹と再婚していた。 父は母との再会を拒み、離婚を申しわたし、白雲山平塩山寺の預けの身となった。
 平塩山寺は国府の聖堂でこのあたりでは珍しい大寺で、その和尚空阿くうあはこの地方では国博士と呼ばれ、密教の導師としてだけでなく、国学でも人望を集めていた。 また医学書「和剤局方」に詳しい医師くすしでもあった。 温かく迎えられた母ではあったが、心の衝撃があまらにも深かったため、名医空阿の治療にも関わらず、体は衰弱する一方で、寝たきりになり、ついに死亡した。 金堂で今日も空阿と寿王丸が須弥檀に向かって真言を唱えてる。 護摩を焚き、もうもうと立ち上る白煙、わずか四歳の童子は頭をさげて一心に祈っている。 この童子は只者ではない、乱声の銅鑼どらにも微動だにしない寿王丸をみて空阿は舌を巻いた。 
 母が亡くなると二階堂行藤が現れ、四歳で母を亡くした寿王丸を哀れんだ。 朝綱に自分の妹を娶わせた結果母「茜」がこのような姿になったのは自分に責任がある。 今は末世、武士にするのも哀れ、仏道に入るのも良かろう。 9歳になるまで自分が引き取ろうと、それまでの間の養育を地獄谷の名主権之介に命じた。
 弘安こうあん6年(1283)9歳の時、白雲山平塩山寺空阿の室に入る。 最初の法名は智かく(日+霍:辞典にない)と言った。 仏教の教えは、知恵と慈悲じゃ。 智は知恵。 かつ(日+霍)は苦しんで発する声のこと。 苦しみ抜いて智を得てみよ。
 智かつとなった寿王丸の怜悧な天性は、日ならずして空阿を驚かせた。 仏典だけではなく孔孟老荘の学を乾いた土が水を吸うように空阿から学んだ。 正応しょうおう5年(129218歳で、奈良に赴き、東大寺・戒壇院で受戒した。 智かくが受ける具足戒ぐそくかいは小乗律に規定する完全な戒律で比丘びく(男僧)は250戒、比丘尼びくに(尼僧)は348戒であった。 三重になっている戒壇上には、多宝塔が安置してある。 正しく戒を受ける役の戒和上わじょう、表白と羯磨こんま
の文を読む羯磨師、威儀作法の教師の三師さんじと、証明役の七尼の証明師(立会比丘)が居並ぶ。 これを三師七証と言った。 戒和上は慈観律師である。 羯磨師が進み出て透る声で言った。「智かくは慈観律師を和上として具足戒を受けようと志願し心身潔白にして歳18に満ち、三衣と鉢の準備が整い、受戒の資格が出来たが、これをお許しください」

磨師は三師七証に三回、同じことを聞いた。 三度とも沈黙が答える。 同意承認は沈黙であった。 これを白四羯磨びゃくしこまと言った。 この日、具足戒を受けたのは智かくの他二人であった。 東密の子弟教育制度では、具足戒を受けた後、山家さんけ(天台宗)で三年間修行し、三業さんごうのうち一つを選び、学ぶことになっていた。 三業とは、金剛頂教の系統を研究する金剛頂業、大日経系の退蔵たいぞう業、真言ダラニの暗礁をする声明業しょうみょうぎょうの三つである。 しかし、智かくは平塩山寺に帰ることにした。 目をまるくしている従者の孫次郎に向かって言った。 「考えてもみよ、試験のあとは、六年間の籠山が控えている。 具足戒を受けて僧侶の格好をしたとしてもたいしたことはない。 試験の同格者の数で各寺の勢力増大のために利用されるのが空しいのだ。 このようなことに時間を費やしておればあっと言う間に年寄りになってしまう。 私は、生きることの意味や死とは何かを知りたい」
 ある時期、高僧道穎が平塩山寺に滞在した。 10日前、道穎が脚に怪我をしたまま風呂に入った。 その日は何もなかったが、翌日から熱が出て、傷が無惨にに腫れ上がった。 数日して上に安座することも出来なくなった。 数日すると昏睡状態と幻覚を繰り返すようになった。 その後、「…なんで、わしだけがしなねばならないのか! わしの命が数日だと! 納得できぬ。 わしはまだ生きたい! 生きている間に女子を抱きたい! 女子を不浄なものと言いふらした釈迦が恨めしい。…」と怒り、恨みを口走りながら死の恐怖をうったえながら死んでいった。 あのような、多門博学の坊様でも死ぬのが恐ろしいのか。 生死に臨んで、一つとして役に立たなかった、あの方が、一生掛けた修行とはなにだったのであろう。 報いられようとする修行は既に、根本において不純なものがある。 口先のみで解っていても行えないものは真にわかっていない。 

2.禅宗と高峰顕日
 永仁えいにん2年(1294)大覚禅師の高弟徳照人の紹介で建仁寺に入った。 臨済禅には、入室参禅につしつさんぜんという師から貰った公案と呼ばれる問題を師の部屋に入り答える修行がる。 礎石の資質を見抜いた無隠円範むいんえんぱんが与えた公案は臨済録の「随処に主と作れば、立つ処皆真なり」であった。 これにはさすがの礎石も唖然とした。 意味は「今自分が置かれているところで、純粋に没入すればたとえ何処におかれても真実のいのちにめぐり合える」というのである。 しかし、礎石は僧堂での座禅ひとつとっても正念の一貫相統は到底出来ぬ自己を見て全く絶望的になっていたからであった。 毎日無隠円範は黙って鐘を鳴らし続けた。 礎石は引き下がり、出直すしかなかった。
 ―今宵もだめなら修行を止めようー 磐石上に座し、半眼となった礎石の脳裏に平塩山寺の裏にある亡き母の墓の風景が浮かんだ。 …女を不浄とした涅槃経、法華経、楞伽経りょうかきょうなど大乗経典は釈尊の教えを誤って伝えたものだといえよう。 生きとし生けるものは平等だ。 私は本日から大乗経典をすてることにした。
 翌日、礎石の境地を聞いた無隠円範は会心の微笑を浮かべて深く頷き、公案の透通を認めた。 この日から礎石は今までとは別人のように一単たん(畳一枚の自分の席)に端座して堂を一歩も出なかった。 寝るまで僅かな閑ひまには、禅宗の語録を読み漁った。 
 松島の天台宗寺院円福寺(現在の瑞巌寺)を訪れた。 もと平塩山寺にいた観照慶春から温かく迎えられ、先代の住職が造った美しい石立いしだて(庭)を見せてもらった。 先代が多くの石立僧を指揮した泥まみれの姿が今でもはっきり思いだされる。 府書院の棚には今でも秘伝書がある。 橘俊綱たちばなとしつな「前栽秘抄」せんざいひしょうや「山水並野形図」せんすいならびにのすがたずで、「前栽秘抄」の前栽とは平庭に草花や低い潅木を植えた状態を言う。 この二冊は平安末期から鎌倉初期にかけて編集されたもので、大伽藍の選地や建築でかこむ苑池の地割や造成のとき、その規範とされていた。 
 橘俊綱は関白藤原頼道の子で、俊綱の兄弟藤原師実もろざねが平泉の藤原清衡きよひらと入魂じっこんの仲であったことから、平泉の作庭に京都の相似の理由が浮かびあがる。
 「前栽秘抄」と「山水並野形図」に礎石は釘付けになった。 「なんと…これは中国の陰陽五行説とこの国の迷信・呪術を組合わせただけのものではないか。 これが規範だと空恐ろしい気がする」礎石は呻いた。 山を築くには陰の山と陽の山をつくり、流れや滝を合わせる。 …まさに南宋と日本の呪術の集大成である。 それでも礎石は「池もなく、遣水やりみずも無き所に石をたつる事あり…」という枯山水の項に興味を抱き、750行にわたり「前栽秘抄」の筆写することを観照に申し出許された。
 一山一寧(日覚和尚)のもとを去り、嘉元かげん元年(130329歳、礎石は乾明山万寿寺の高峰顕日こうほうけんにちを訪れた。 高峰顕日は後嵯峨天皇の皇子で無学祖元(南宋の来朝僧)の法嗣ほうし(法統を受け継ぐべき人)である。 「一山一寧の示すところを申せ」、礎石は「我が宗に語句なく、また一法の人に与えうるなしと申されました。 しかし名が日常の一山一寧は…」、礎石は一山一寧の矛盾する言動を累々怒りをこめて述べた。 高峰顕日は深く頷いていった。 「この世の中に命がけで怒るようなことはない。 そなたは何ゆえ聞き返さなかったのだ『……』とな。 そなたの心にはどうでも良いことが一杯詰っている。 無一物無尽蔵ということは、自由なるが故に生々しい創造が出来ると言うことなのだ」。 
 翌朝、礎石は袈裟行李こうりの中から、片時も離さなかった「円悟心要」「大慧書」「林間録」の三冊を燃やして、陸奥へと旅立った。 
 鎌倉を出て3年目陸奥を回遊した礎石は、還元3年(1305)鎌倉の浄智寺、磨き抜かれた板敷を踏みしめて僧堂に入る。 一つの灯影に老僧がぼんやりと映し出される。 礎石が座ると、抜き打ちに高峰顕日の鋭い声が飛んだ。 「古人はこう言われた。 深い山に入らぬと見地を脱することは出来ぬと。 そちは深い山に入ったがどうして見地を脱することはできぬのか」。 礎石は微笑んでゆったりと、口を開いた。 「もともと、見地など持ち合わせていません。 それゆえ、脱するとか、脱することができないとかは論ずる必要がありません」、「そなたは何処へ修行に行って居ったのか」、「座禅中にうとうとし、夕陽が空よりはいったので目を覚ましました。 場所は西の方です」、「天と地がまだまだ分かれていないとき夕陽は何処にあるのか」、礎石は噴出し、大声で笑った。 高峰顕日は、きっとなって更に問う、「笑いの裏には刀がある。 それは殺人の刀か活人の刀か」、「私の宝庫には刀などございません」、礎石は高峰顕日が仕掛ける数々の思考の罠わなを苦もなく覆していった。 数々の問答を終えて高峰顕日は礎石の高い境地を認めざるをえなかった。 深く頷く師に向かって礎石は反撃した。 「この問答にどのような意味がありまっしょう」、高峰顕日は額に汗を光らせ、ついにたちあがり、軽く頭をさげ礼をして礎石に敬意をあらわした。 
 翌日高峰顕日はもう一度、礎石を呼び寄せた。 「良くぞ、ここまで来た。 達磨は何ゆえ、西にやってみたのか!ということを解したようだ。 これからも確りとかみ締め徹底さすようにしてもらいたい」 高峰顕日は拘束から自由を得た礎石を法嗣ほうし(法統を受け継ぐ後継者)として印可いんか(許可)した。
 礎石、31歳,十余年振りに甲斐に帰る。 その情報を聞き、二階堂行藤の息子貞藤(政所執事)が急遽鎌倉から駆けつけた。 「夢窓礎石殿でございますか。 始めてお目にかかります。 父行藤は、あなた様が高僧になられた暁には寺を寄進することを口癖にしておられた。 牧山の別業べつぎょう(別荘)を寄進いたすゆえに、寺としてお使い下さるまいか」「御奇特なこと、お受け致そう」。 貞藤の別業は常牧山浄居寺じょうごじと名付けられた。
 
茅葺の屋敷はそのままで仏殿、方丈として使うことにした。 礎石は方丈の南側にある馬場を庭にしたいと考えた。 「古人が考えた庭ではなく、見る者に安らぎを与え“何かを気付かせる”庭を創りたい。 何処かの風景を移すのではなく“自然そのもの”をだ。 “人の物差し”で考えるところに安心はない。 “天地の物差し”で生きることの大切さを気付かせたい。 全ての人が悟ることが出来るなら、そこは浄土となる。 その方便としての庭だ」
 応長おうちょう元年(1311)の春、心ならずも師の許を去った礎石は、甲斐の諏訪村を遠く臨む龍山庵を建立し隠棲していた。 明けて正和しょうわ元年(1312)高峰顕日から書状が届いた。 「関東の大禅林である上野長楽寺の住持となれ」とあったが、断り旅に出た。 浄居寺を出た礎石には元翁本元げんおうほんげん、不二祖用ら7人の雲水と孫次郎が従った。 正和2年(1313)滝の音に誘われて降りた礎石は、「天開図画てんかいとがの幽致ゆうち」とも言うべき風景を見出して呆然と佇んだ。 あの巨岩を梵音厳ぼんおんがんと名づけそのかたわらに庵を結ぶことにした。 ここを古渓こけい(虎渓山永保寺)と呼ぶことにした。

3.北条高時
 虎渓山永保寺として寺域が整備されるにつれて、入門する修行僧の数は増加した。 正和5年1020日高峰顕日死亡、幕府から葬儀に出席するよう連絡があるも辞退した。 幕府に庇護される禅寺には自由はない、権勢とは一線を画すというのが理由であった。
 文保ぶんぽ2年(1318)正月堺の湊から船出し、阿波に渡り、土佐の室戸岬を行脚した。 空海が若き日の久修練行くしゅれんぎょう(長くて苦しい修行)をした跡を見るためである。 土佐の五台山に辿り着いたのは暑い夏の日盛りであった。 やむなく礎石は竹林寺の西に吸江庵を編み、住み着いた。 最初は好奇の目で見ていた里人達も三日もすると手に手に食べ物を持って庵を訪れるようになり、秋風が立つ頃には各地の土豪達が先を争って参禅するようになり、庵は賑わった。
 翌元応げんおう元年(1319)4月、浦戸の湊に大船がはいってきた。 覚海円成尼の使者松田秀憲ひでかねを主将とする四百の軍兵が急な坂道を登ってきた。 「口上をお聞かせください。 それがしは夢窓礎石でございます」、「執権、北条高時並びに覚海円成尼には御坊が速やかに鎌倉へお戻りあるようにとの仰せでござる。 我らに同道頂きたい。 御坊が命に従わずば、やむを得ません、軍兵と共に土佐を切り従えるのみ…ご返答賜りたい」、夢窓礎石はもはやこれまでと腹をくくった、「お受け致そう、土佐の人々に迷惑をかけてはならぬ、明朝、貴殿に同道いたすであろう」
 礎石は、鎌倉に戻り、勝栄寺に仮寓した。 覚海円成尼の頼みというのは、礎石に雲厳寺への復帰であった。 「それは出来ません。 たとえ遺言であっても、あの寺には、高弟の太平妙準がいます。 それがしが入寺すれば、いらぬ争いの根源となります」
 北条高時「禅師は今まで一度も予の命令に従ったことがない。 命じた寺に住持として入寺せぬ理由を申せ」、「住持にはなりたくないからいやじゃ」、「この高時に向かってその言い方は無礼であろう…」、「それがしは求道者、入寺についての指図は受けぬ」、「なんと…。 この高時にむかってよくもぬけぬけと…」、「狼藉、お許しくだされ」、「改めて禅師に参禅いたしたくぞんずる。 お許しくださいますか」、「許すも許さぬもない。 好きになさるが良い。 仏の前では師も弟子も平等じゃ。 区別などない。 それがしが一つの寺に永くいないのは、教団を作りたくないからでござる」、「それは異なことを耳にいたす。 古の祖師方はみな教団をつくられ、多くの信者を育て為されたが…。そのために権門とも手をむすばれた」、「教団は魔党でござる。 それは秩序をもうけ、人を枠に嵌めることになり、本質から限りなく遠ざかる。 教団の中には争いが生まれ、あたかも俗人の家督相続をめぐる争いとなんの変わりもない。 それゆえそれがしは一つの寺に定着せぬことにしております。 それがしが何れかの寺に居る時、気軽においでください」、高時は礎石を上座に据えて自らは下座で深々と頭を下げた。 この日を境にして高時は田楽や闘犬にうつつを抜かすことをぴたっと止め、座禅三昧の日々を送り、周囲の人々を驚かすことになった。 
 翌年、元徳げんとく元年(1329)8月礎石は、高時の願いを受け衰退の兆のある円覚寺に入った。 礎石の名声はよほど高くなったと見え、貿易商らは喜んで多額の寄進を惜しまず、円覚寺は忽ち往時の隆盛に甦った。 しかし、礎石は高時に願い出て円覚寺を辞し、甲斐に旅立った。 天徳2年(1330)鎌倉をでて行方知れずとなった礎石が甲斐・牧の荘の東に庵を編だことを知った道蘊どううん(二階堂貞藤が剃髪して道蘊となる)は、馬を走らせた。 大寺を建立したいと言う道蘊の申し出を受けて礎石は、寺は要らぬが庭を創りたい、といい道蘊は喜んで協力した。
 今まであった雑木林と池をそのまま生かし、礎石の庭は夥しい群集の力で見るきるうちに姿を現し始めた。 庭は石組みの上段と樹々と池の下段に分かれている。 左手の丘の向こうには乾徳山を望み、手前には枝垂れ桜を植えた、下段には行きとし生けるはつながりの中に存在している。このことを主眼とした虎渓山の庭であった。


4.後醍醐天皇と足利尊氏
 元弘げんこう3年鎌倉幕府を滅亡した後醍醐天皇は、足利尊氏に命じて夢窓礎石を鎌倉から呼び寄せた。 7月に入洛した礎石は禁中に招かれ説法をしたが、後醍醐天皇の態度から、瞬時にして全てを読み取った。 この方は、王法を高めるために仏法を利用しておられる。 …理想と思うておられることは空想に近い。 7月23日、南禅寺にいて、鎌倉に戻りたいと言う礎石をなだめる為に後醍醐天皇は嵯峨の臨川寺を与えた。 
 建武2年(1335)7月中先代なかせんだいの乱が起る。 信濃の諏訪頼重が当時7歳前後の北条時行を擁立すると、失政を繰り返す新政権に失望する武士達が続々と集まり一大勢力になった。 時行は、勢いに乗って鎌倉を攻め占領した。 建武の新政の中にあって尊氏は徹底して中枢から遠ざけられ、俗に言われる尊氏なしと浮いた存在であったから、この好機を見逃さなかった。 直ちに時行追悼を名目にして、征夷大将軍に任命してくれることを帝に願い出た。 帝はその願いを聞き入れなかったが、尊氏は、仔細かまわず8月2日京都を発し。8月18日相模川の合戦で時行軍を粉砕して鎌倉入りをはたした。 尊氏はかって源頼朝がやったように幕府を作り鎌倉に留まった。 しかし、帝は尊氏が鎮定後も鎌倉に腰を落として征夷大将軍として功績のある武将らに論功行賞を行っていると聞き激怒した。 新田義貞に尊氏追悼を命じたが、全国的に足利支持の挙兵が続発していたので帝はひとまず時を稼ぐことにした。
 1011日京の人心を収攬するために、国師号を生前では異例であるが、夢窓礎石にあたえた。 夢窓礎石
 ようやく軍備の整った義貞は、六万七千余の大軍を率いて関東へ下った。 一進一退の激戦の末、新田軍は敗走し、尊氏、直義は京に上った。 しかし、陸奥の北畠顕家が義良親王を報じて入京し新田軍と合流するに及んで形成が一変、尊氏は破れて九州へと落ちていった。 九州での尊氏の声望は高く宗像氏らが協力すると、尊氏支持の群生は日増しに膨れ上がった。 延元えんげん元年(1336)、3月2日多々良浜の激戦で菊池武敏勢を打ち破り、九州を平定した尊氏は自らは海路、弟直義は陸路をとり、京に向けて大軍を動員した。 5月25日兵庫湊川で楠木正成を敗死させ、新田義貞軍を追払った。 後醍醐天皇は神器を以って比叡山延暦寺に移り、戦う意志をしめした。 京都に入った尊氏は光厳上皇の院政を認めた上で、弟豊仁親王に王位を譲り光明天皇こうみょうてんのうとした。

5.西芳寺
 戦いがなくなると礎石が高弟無極志玄に臨川寺を譲り引退を考えていることを知った藤原親秀ふじわらちかひでは、礎石に西方寺の再建をお願いした。 礎石は、「わしは若き日より、西山におわすという亮座主の風を慕うものでござる。 いま西山の居を得ることは望外の喜びである。…」と意欲をもやした。 この西山は、もと京の死者を捨てる風葬する場所であった。 聖武天皇時代に行基を開山とする寺があり後に平城天皇の東宮真如親王が隠棲したことがあった。親秀の四代前の中原師員が荒れ果てた寺を浄土教の寺に改め、法然上人を招いて西方浄土寺と厭離穢土寺おんりえどじという二つの寺を造った。 広大な敷地に浄土式庭園があった。 低地の穢土寺は度重なる洪水で荒廃し、丘陵の上に建つ西方寺も火災で基礎だけを残す有様であった。 
 礎石は図面を描く。 「本尊は阿弥陀仏。 西山を今日より洪州で隠れ住んだ亭座主にちなみ、洪隠山こういんざと名つける。 頂上付近に宿遠亭、中腹に指東庵しとうあんをつくり、座禅石を設ける」、 礎石は、西方寺という名を、祖師西来五葉連芳そしさいらいごようれんぽうから西芳寺さいほうじとした。 祖師である達磨が西から中国にやって来て、五っの花弁が」順に開いて花が咲くように、一つ一つの悟りを開いた故事から付けた。
 雪解けを待たずに始めた工事は、洛中洛外が数千の河原者たちが雲集し、信じられぬほどの進捗ぶりであった。 荒廃した浄土式庭園は対話する庭園に変貌し始めた。 

6.天龍寺
 延元4年(1339)8月9日、吉野の後醍醐天皇は病の床に付いた。 快復の兆しは見えず死を覚悟した天皇は、「玉骨はたとい南山(吉野)の苔に埋るとも、魂魄こんぱくは常に北闕ほくけつ(京都)の天を望まんと思う。 もし命に背き義を駆るんぜば、君も絶対の君にあらず、臣と忠烈の臣にあらじ」と血を吐くような遺言をした。 8月15日義良のりよし親王に皇位を譲り、翌延元4年(暦応2年)8月16日に崩御。 
 礎石は、意を決して幕府の尊氏を訪問した。 「今また、後醍醐天皇崩御に当たり、菩提を弔うための一寺の建立を上皇に奉請して頂きたい。 尊氏殿は帝の敵であった。 少なくとも世間はそう見ている。 その敵が祈るので、この祈りこそ、天下に和平をもたらすもの。 寺は帝ゆかりの亀山行宮あんぐうがよろしかろう」と進言した。 尊氏は後醍醐天皇の怨霊に悩まされていたとも言われていたが、夢窓国師の意見を素直に受け取った。
 後醍醐天皇の49日に当たる10月5日、光厳上皇が院宣を下し、寺名は暦応りゃくおう資聖禅寺に決まった。 ところが、年号を寺名にするのは最高位の寺院で、延暦寺だけに許された特権であると、延暦寺山徒が、暦応を寺名に使うことに猛反発した。 将来、比叡山の助力を得たいと下心のあった直義は、夢の中で金龍が南の河中から出たことにして天龍資聖禅寺とあっさり改称してしまった。 
 翌暦応3年(1340)4月21日に木作始きづくりはじめが行われ、仏殿、法堂、書院、僧堂など70余の建造物からなる巨大な規模の寺院であつた。 当初、日向国富荘などを寺領としてを寄進し、造営費用には当初、安芸・諏訪両国の公領からの収入を当てる計画であったが、成立間もない室町幕府は南朝との戦いにより財政的に逼迫し工事の進行が遅々として進まなかった。 そこで礎石は尊氏に寺社造営料唐船の派遣を強く進言した。 幕府内に意見もあったようであったが、暦応りゃくおう4年(13421223日、夢窓国師に対し、翌年秋に宋船渡航の許可が出た。 当時、元側でも1335年から1336年にかけての倭寇事件を契機に、日本船を海賊船とみなして、港の出入りを厳しく制限していたため、日元間の通航は途絶していた。
 
そこで夢窓はまず博多の商人の至本を綱司(船長)として推挙。 至本は貿易の成否に関わらず、帰国時に現金5000貫文を納めることを約束し、予定通り翌康永こうえい元年(1342)8月に元へ渡航した。 10月に慶元に入港したが、予想通り海賊船と見なされて警戒を受けるが、結局上陸を果たし、交易に成功した。 日本からの寺社造営料唐船としては元弘げんこう2年(1332)に派遣された住吉社造営料唐船以来、10年ぶりとなった。 天龍寺船は膨大な利益を上げて帰国。 この時の利益を元に天龍寺の建設が進められた。
 こうして、康永こうえい元年(1342)には五山の第二位に位置付けられ、翌2年には仏堂、法堂、山門などが完成し、3年には霊庇廟(後醍醐天皇霊廟)も落成した。 この完成により、翌康永4年(1345)8月み、光厳上皇と光明こうみょう天皇の臨幸を仰いで 、落慶法要と後醍醐天皇七回忌法要を行おうとした。 しかし、これを見た延暦寺の僧侶が妬み、礎石の流罪と天龍寺の破棄を強訴したため、上皇と天皇は法要当日の強行を取りやめ、翌日に行幸して礎石の説法を聴聞した。
 尊氏は子孫一族家人など、末代に至るまで天龍寺への帰依の志が変わることないことを誓い、また光厳上皇と光明天皇など朝廷からも天龍寺は篤い帰依をうけている。

7.
 どれほど眠ったのか、礎石は障子の外におびただしい人の群れを感じて、目を開いた。 渾身の力を振り絞り起き上がった。 「周慈よ、何事ぞ」「おお、これは…お気づきなさいましたか。 境内には、数日前から、僧尼士庶、あらゆる方が、飲まず食わずで、雲集なされておりまっす。 礎石様に人目お会いして師弟の結縁を望まれ…」「なんと有難いことであろう。俺のごとき者の処へ、求法の方々がまいられるとは」、半刻後、床に座した礎石は障子お開放させて、一人一人に受戒を行った。 水準は低くとも、純粋な求法者に対しては、僧俗の区別をせず、身を乗り出して臨んだ。 この日、周慈が簿記した者は、2490名に上った。
 9月1日「わしに残された日はわずかとなった。 疑問がある者は問うが良いぞ」と出家と内弟子の入室参禅を許した。 眼は落ち窪み、眼球のみ光る礎石であったが、その声は若き日と少しも変わらなく、凛として響き渡った。 夜が更け、体を気づかう周慈らに礎石は笑顔で答えた「わしはいい人達と出会いの縁により、今日に至った。 俺に会うことが、これらの人々にとり、良き縁となるなら、望外の幸せだ」
 翌朝、光厳と光明両上皇から派遣された医師が到着。 しかし、礎石は怒鳴った「これは老病でござる。 老病は自然なり、医薬の救うところではない」
 観応かんおう2年(1351)9月30日臨川寺にて示寂、77
 これまで、夢窓礎石化益けやくを受けた人々は、僧俗合わせて13045人であった。 礎石はこれらの人々と結縁を結んだが、同時に大きい心配の種でもあった。 礎石の志を覚る者は等しく弟子と認めたが印可証は与えなかった。 弟子はその道心の深さにより量るべきものとし、差別をしなかった。 資格付けすることを嫌った。
 生涯にわたり、夢窓国師、正覚国師、心宗国師、普済国師、玄献国師、仏統国師、大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜物与され、七朝帝師とも称される。

 

参考文献
1)[新版]古寺巡礼京都9・天龍寺「淡交社」
2)古寺巡礼京都4・天龍寺「淡交社」
3)日本庭園を行く3・京都洛西の名庭1「小学館」
4)夢窓礎石 (土岐信吉著)「河出書房新社」
5)日本庭園史新論
  原稿・12p、22ページ






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