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                              京都・朱雀錦
(28)世界遺産・金閣寺


世界遺産・金閣鹿苑寺

 金閣寺は、正式名称を北山鹿苑寺ほくざんろくおんじという。臨済宗大本山相国寺派に属しており、特例別格地として山外塔頭にはいっている。しかも本山と同じ夢窓正覚国師を追請開山としており、鹿苑寺は鹿苑院殿足利三代将軍義満公の山荘北山殿を母胎として成り立っている。
 義満は春屋妙葩しゅんおくみょうは禅師とはかって相国寺を造営し、学問を好み、高徳の禅僧について参禅弁道につとめ、また対明貿易を開いて、元寇以来中絶していた日中貿易を再開し、西園寺家から譲り受けた北山殿を営むなどしていわゆる五山文学の基礎を確立し、力強い北山文化を築いた。 金閣(舎利殿)が特に知られ、通称金閣寺知られています。 平成6年(1994)、世界物価遺産に登録されました。

1.北山金閣鹿苑寺
(1)義満と北山殿
1)北山の西園寺
 鹿苑寺の山号を北山ほくざんという。普通、寺の山号は三字であるが、当寺は二字となっている。これは左大文字山と衣笠山一帯が「北山きたやま」とよばれているので、それをそのまま山号としたのである。
 「北山」と言う地名は遠く平安時代の初期まで溯さかのぼるようである。平安時代の北山には霊厳寺、興隆寺、施無畏せむい寺、法音寺などの寺が建てられていた。「源氏物語」の若紫の巻に出てくる、源氏の中将の「瘧病わらわやみの祈祷」をした寺も北山である。この地は貴族たちが住むところではなく、公家たちの狩猟の地であり、又今でも残っている円融天皇、花山天皇、二条天皇などの陵墓りょうぼを初め数多くの塚が示すように、火葬が盛んに行われてたところである。現在、当寺の西に接したところを氷室ひむろというが、これは朝廷で夏秋二季に使う氷を蓄える氷室の跡だと言われている。平安時代には狩猟、製氷、造寺、葬送なさどの場所であったが、また農地としても利用されていた。
2)義満の周辺
 延文3年(1358)8月22日、足利二代将軍義詮よしきらを父に、石清水八幡宮検校通清けんこうみちきよの娘・紀良子きのりょうしを母として生まれた。良子は第84代順徳天皇の玄孫にあたる。足利義満は、公経に劣らず波乱に富んだ生涯をおくった。幼名を春王と呼ばれた義満が生まれる4ヶ月前に偉大な祖父尊氏が没し、また彼が生まれた4ヶ月ほど後に父義詮が二代目将軍を継いでいる。彼は生まれながらにして足利幕府を背負ってゆくべき運命にあったのである。
 南北両朝の抗争相次ぐうち、康安元年(1361)義満3歳の冬12月に楠正儀、細川清氏らは大挙して京都を攻めた。将軍義詮は近江に逃れたが、3歳の義満は従者に抱かれて建仁寺の蘭洲良芳らんしゅりょうほう13051385)のもとにのがれ、良芳和尚は僧衣をかぶせ5日間かくまい、ひそかに播州白旗城の赤松則祐のりすけ13141372)のもとにおくり届けた。幼い義満は、」はやくも試練に立たされたのである。しかしその翌年、無事教へ帰還の途中、琵琶塚のあたりの景色に目を奪われた義満は「この土地をかついで京へ運べ」と従者に命じたので、一同はその大物ぶりに感じ言ったという。幼時からすでに優れた器量の持ち主であったことがうかがえる。
 貞治6年(1367)9月29日義満は天龍寺において時の住持春屋妙葩しゅんおくみょうは13111388)より受衣じゅえ(禅宗で、弟子が師から法を受け継いだしるしとして、僧衣を受けて着ること)した。この時に春屋と義満の堅い絆が結ばれ、春屋は兄弟子義堂周信とともに終生変わらぬ精神的援助をし続けることになる。
 この年、父義詮が病気に倒れ、暮れにはついに帰らぬ人となってしまった。わずか10歳の義満に重大な責任がかかってきたのである。翌年、11歳で将軍職を継いだ義満の補佐役として父の遺言により管領細川頼之があたり、頼之は幼君を助けて将軍にふさわしい立派な人物に育て上げると同時に、幕府の権威を高めるべく懸命に務めた。もちろん春屋や義堂ら五山僧たちの精神的な援助も見逃すわけにはいかない。義満は周囲の人々の努力と期待に応え、次第に将軍として重きをなすにいたる。
 義満のなさねばならぬ仕事は、地方の有力な守護大名を制御して将軍の地位を確立するとともに幕府の基礎を固めることであった。応安4年(1371)、義満はなお強い勢力をもっていた九州の官軍を征服して九州を統一し、永和4年(1378)には室町北小路に造営中だった室町第を完成してここに幕府を移す。ここには一町以上もの池を掘って居賀茂川から水を引き、庭には四季の花を植えた。この時、近衛家から糸桜(枝垂れ桜)を譲り受けたという記録が残されている。それらの花が爛漫と咲き競うありさまを見て人々は「花の御所」と呼んだ。
 花の御所造営は、義満及び幕府の地位の安定と一応見ることが出来よう。が、しかしまだ義満は不安であった。そこで義堂、春屋などについて参禅弁道に励み、衆僧とともに座禅して明け方に及ぶこともしばしばであったという。そうした禅的讃仰さんごうの発現として。永徳2年(1382)9月29日、嵯峨の三会院においての夢窓国師の法要の際に、義演は一寺の建立を発願した。そして義堂、春屋らは励ましによって、それから十年間を費し、心血を注いで万年山相国承天禅寺を完成させたのである。相国寺は、かっての花の御所の東隣に今も当寺の偉容を伝えている。「相国寺」の寺号も、永徳2年に将軍として初めての「相国」(左大臣)となったことにより相国寺と命名したのであった。
 幕府が名実共に充実したのは、明徳2年(1391)に起こった山名氏の反乱を鎮圧してからである。山陰地方で12か国の守護を兼ね、強力な勢力を張る山名氏清が反旗を翻したのだが、義満はよく諸大名たちを美方任ひきいれて氏清・満・幸を打ち破り、大勝利を得た。さらに、明徳3年、その勢いに乗じて、かねてより宿願であった南北両朝の合意に乗り出しこれを成功させた。相国寺の落慶、南北朝の統一と同じ年に成功させた義満にとって、この年ほどうれしい年はなかったはずである。ところが、これからようやく安定した人生が送れるというこの時、義満は37歳の若さで突如として征夷大将軍を辞し、元服したばかりのわずか9歳の義持に将軍職を譲ってしまう。応永元年(13941217のことである。そして同月25日に太政大臣に任ぜられるが、これも翌年6月25日に、わずか半年ほどで辞し、同20日には空谷明応を戎師として出家してしまったのである。もちろん世捨て人として隠遁生活に入るためではなく、これには他に何らかの理由があったはずである。義満は、関白よりもさらに上の位を望んだのであるまいか。
 出家の前年に、日野慶子との間に義教、愛妾春日局との間に義嗣と二人の子供をもうけたのだが、義満は義嗣一人を異常に偏愛した。このことは少年義持の父への反感となって根強く残り、後に義持は父の政策に何かと反対するのである。
 それはともあれ、隠居し、出家した上は。新しい邸宅が必要となってくるそこで、諸方を物色した結果選ばれたのが、かって西園寺家の繁栄を誇った北山第であった。
3)北山殿の時代
 応永4年(1397)正月、河内国の領地と交換で入手した北山第の大改修がはじめられた。工事は諸国の大名たちに割り当てられたのだが、和泉の堺を領有していた大内義弘だけは「自分の部下は皆武士であって土木工事任でない」と許否したという。しかし、工事の方は4月6日に立柱上棟の式が行われ、着々と進んでいった。工事の費用は三十八万貫、完成された時にはざっと百万貫は超えていたはずだと言われている。百万貫と言えば現在の貨幣価値から計算すると優に百億円を超える大工事であったわけである。義満は工事完成の翌年からここへ移り住み、北山殿と称せられるようになった。この第は西園寺第を引き継いだため、当然ながら寝殿造りの遺構をそのまま受け継ぎ、それに武家的な造作を加えていったものと思われる。しかし残念なことに、その時の工事についてはほとんど資料が残っていないので、どのように改造したか何一つわからない。ただ創建当初のきた山第の堂の配置などについては、相国寺第42世端渓周鳳ずいけいしゅうほうの日記「臥雲日件緑」に記述がある。これとても創建当時から五十年ほどたつ文安5年(1448)8月19日の条に琵琶法師最一検校の話として出ている。それによると、楼閣は夜空の星のごとくに東西南北に点在し、その華美は天より降り地より湧き出たかの如くであり、管領斯波義将は義満に対して「この新第は西方極楽浄土にもまさえる美しさです」と言ったほどであり、第内には碧瑠璃をたてた池、珍木、奇岩、怪石を配置し、その中に護摩堂、懺法堂、宸殿、公卿間、舎利殿などが立ち並んでいたという。
 特に第内の建築で力をいれたのが舎利殿と天鏡閣であろう。この舎利殿が現在の「金閣」である。天鏡閣はその北の方向にあり、「日件緑と「北楼、天鏡閣との間に複道あり、舎利殿と相通じ、往来する者、虚を歩むに似たり」とある。また鹿苑院殿義満公の百年忌に「際し、相国寺第83世景徐周麟の陞座しんぞ法語に、「同4年北山に別業を剏はじむ。時に公40歳。万務を謝せんが為なり。その壮麗や古今に絶勝す。黄金台を築き、鉄鳳上に翊り、北楼に架拱して、長虹空に横はる」とあるのをみると、舎利殿、天鏡閣双方の二階には橋が架設されてあり、そこを渡ると、あたかも虚空を歩むような感じがしたということである。なお、周麟のいう「鉄鳳」は銅の誤りで。創建当初のものが今も大切に保存されている。
 舎利殿は当時から注目されており、応永6年(1399)6月15日に行われた相国寺大塔供養の記録「相国寺大塔供養記」によると「玉をしき金をのへてつくりととのへさせたまふ給付舎利殿なとは、まめやかにまはゆきまてに侍るとそうけ給る」とあり、また「足利治乱記」に「唐ノ倭ノ珍木材ヲ以テ巧ミハ古来本朝ノ見物ナリ。金泥ヲ以テ悉クタミタレバ、京童トモ是ヲ金閣トソ」ともてはやされたのである。
 宝形造り三層楼の金閣は一層と二層を和様の公家風にし、三層に唐様の禅宗建築を取り入れ、公武両方の融合を見せたのが特徴とされる。一層は阿弥陀三尊が安置され、二層は観音殿であり、義満が自ら書いた「観音洞」の額がかけられ、三層は仏舎利が奉安され、後小松天皇の勅額「究竟頂くつきょうちょう」がかかげられた。
 その他、第内には北山御院の南御所を初め、義満の愛妾あいしょう、侍童じどうなどの住居、公卿、門跡の居宅まで建てられ、侍や地下人らの一大住宅地となった。
 北山殿に移り住んだ義満は、それまで室町殿で行なわれていた一切の行事を、北山殿で行うように改めた。応永6年に行われた相国寺の7重大塔の落慶供養にも北山殿から出発し、帰りは夜になったので、相国寺から北山殿までの道に灯籠を掛けて人々を驚かせ、義満としては最後の部下追討になる大内義弘征伐も、この北山殿で、評定されている。いろいろな面でこの北山殿は、西園寺時代とは比較にならないほど重要な所となったのである。
 義満は対中国貿易を開くことお思いたち、応永8年(1401)5月に使者を遣わし,金千両、馬10頭、屏風三双」、剣」10腰などを贈ったのに対し、翌9年9月に、明の国書を携えた明使が到着すると、北山殿に彼らを迎え、また、応永10年、11年、12年、13年、14年にもそれぞれ北山殿で明使を引見している。これらの貿易で義満は巨利を得、また、唐,宋、元、明の各時代の書画軸、銅器、陶磁器などをもたらした。これらは現在国宝、或いは重要文化財として現存しており、その数は実に膨大な量に及んでいる。特に絵画の中の名品をよりすぐり、それらに「天山」「道有」などの鑑蔵印を押して所有し、現在知られるだけでも、徽宗きそう皇帝筆(北宋。在位)と伝えられるもの、牧谿もつけい(宋・元)、陳容ちんよう(南宋)、夏珪かけい(南宋)、梁楷りょうかい(南宋)などの宋・元時代の名筆たちの物は「天山」印二十数点、「道有」印を有するもの十数点に「も及ぶ。北山殿はまさに選び抜かれた美術の銘品の宝庫となったのである。
 応永13年(1406)の暮れに後小松天皇の生母通陽門院が崩御されたことに関わり、後小松天皇はすでに父後円融天皇の崩御にあい諒闇りょうあん(喪に服する期間)を経験しており、今度で二度目となる故、不吉として、外に准母じゅんぼ(仮母)を置くこととなった。関白一条経嗣つねつぐ13581418)の発議により、義満の妻康子が准母と決まり、北山院の女院号を宣下され、応永14年(1407)3月23日に、北山殿より入内始めを行った。っくして」義満は天皇の准国父となり、天皇と愛児義嗣は准兄弟となったのである。

(2)北山鹿苑寺
 1)初期の鹿苑寺
 鹿苑寺が禅寺なった最初の頃は、あまり正確にわかっていない。応永29年(1422)3月に義持が当寺を訪れたことがあり、その前後と推察できる。だが取り壊しの跡は庭石などを積み上げたまま放置され、庭木なども手入れされず、茂に任せる、と言う状態が長く続いたようである。
 瑞渓周鳳は、相国寺塔頭崇寿院、鹿苑院、寿徳軒などを歴任した後、文安5年(1448)から報徳元年(1449)まで鹿苑寺に住持下のだが、住持を止めた後もしばしば当寺を訪れていた。報徳4年(1453)6月7日、当寺において義満以来の寺宝、徽宗皇帝筆の画を公認の東岳和尚と共に鑑賞し、賛のうちの「一中」の語について論じ、享徳3年(1454)3月11日に東岳の招きに応じ来山し、開浴(入浴)点心(食事)の後、庭に出た際に荊棘いばらの中に、かって義満が植え、後小松天皇が行幸の折に鑑賞されたという梅があるのを見て嘆いた、などの記事がある。
 また「蔭凉軒日緑いんりょうけんにちろくは、永享7年(1435)に相国寺塔頭鹿苑院内の蔭凉軒主となり、鹿苑僧緑の任に当たった季瓊真蘂きけいしんずいが、同年6月1日から始め、嘉吉元年(1441)7月6日」、」暗殺された6代将軍義教の葬式の記事をもって一旦中断し、長禄2年(1458)1月から再び始まり、文正元年(1466)9月6日で季瓊真蘂の分は終わり、季瓊真蘂の弟子で、凉軒主となった亀泉集証が文明16年(1484)8月12日から、明応2年(1493)9月23日までの通算59年間の出来事を細かく記したものである。将軍義教よしのりより義稙よしたねまで6代。実に61冊にわたる日記で、足利時代随一の史料として史界の一大指南書といわれる貴重な筆録であるが、明治以後相国寺を出て東京大学の所有中、大正12年9月1日の関東大震災に同大学とともに被災してしまった。計り知れない損失であるが、その筆写が残ったのは不幸中の幸いです。
 さて、この「蔭凉軒日緑」に鹿苑寺が出てくるのは永享7年で7月29日に、「29日鹿苑寺御成伺之。8月7日定矣」とあるのが始まりである。僧緑職である季瓊真蘂が将軍義教の鹿苑寺参詣の日の伺いをたて、御成の日を8月7日と定め、8月7日に義教は」当寺へ参詣し、義満の霊前に古銅の香炉を寄進し、お斎とき(法事や法要が終わった後にもてなされる会食の)を呼ばれてかえった。住持の用中周本和尚が請取り状をかいている。その後、義教は暗殺されるまで毎年鹿苑寺へ参詣している。
2)応仁の乱前後
 将軍義教が殺されてからの当寺の経済状態は、他の五山禅寺同様に困難に陥ってゆく。大檀越である将軍家もかっての権威はなくなり、全国の寺院領に対して地元の豪族や守護大名たちによって侵略が始まり、土一揆が続出して、当寺将軍家の庇護のもとに比較的裕福だった禅院が、特に土民に狙われるようになった。それでも当寺は、八代将軍義政の時代にはまだかなり整っていたようである。義政も父義教にならい、鹿苑寺へしばしば参詣したが、義教の当寺参詣が不定期であったのに対し、義政は毎年1015日と定め、当寺の紅葉が最も美しい頃に参詣するようにしている。「日録」の寛正3年(14621015日の条に、その紋様が次のように記されています。すなわち、到着後ただちにお斎とき、お手水の後、方丈室中鏡の間において義満の遺影に焼香。 引き続き泉水ご登覧。仏殿並びに重々閣(金閣)ご焼香。閣上においてしばしば談笑。「四面皆山。楓葉錦の如し。西芳寺の風景にも勝る」と激賞したという。
 この頃の当寺は、前述の方丈、仏殿、金閣の他に法水院、泉殿、不動堂、護摩堂などがあつたのだが、間もなく京の大半は焼き尽くす応仁の大乱が勃発し、この乱で本山相国寺を初め天龍寺、南禅寺、建仁寺、などの禅寺は、焼討ち、掠奪の被害を被る。当寺も例外ではなく、応仁元年(1467)6月に早くも戦場となり、大損害を受けた。幸い、こうなるか金閣は、焼残り、泉水、石不動堂、護摩堂なども辛うじて焼失を免れたのである。京の大半が焼野が原と化してしまったなかで、都心を離れた鹿苑寺の美しい壮大な庭園、澄み切った鏡湖池に抱かれるように立つ金閣。これらは荒み切った人心にどれほどやすらぎを与えたことだろう。
 東西両軍の激戦がやや治まった文明6年(147410月2日、義政、日野富子、義尚の親子はそろって当寺を訪れた。永い戦乱の間の遠出は一切禁止されていたのだが、この時初めて郊外に出ることが許され、美しい紅葉に彩られた当寺でのひと時は、義政親子をどれほど慰めたことだろう。
 義政のみならず、公卿連中も、当寺を訪れることをどれほど望んでいたことだろう。文明7年(1475)6月5日に当時を訪れた三条西実隆は「石室の不動に詣でる。仏龕,堂舎、池水,庭木等、物毎に感有。将に帰路を忘れるのみ」となげいた。また、文明11年(1479)に一致度、12年に二度、来寺した近衛政家は、池水の辺で軽く一盃を傾け、舟で中島を回り、金閣上で酒宴を張り、石不動に参詣して帰っている。文明122月24日に東寺を訪れた中御門宣胤も「乱中の破壊はもってのほかだ。ただし山水は相変わらず残っており、稀代の見物である」と言っており、公卿たちにとっても以前の栄華の面影を残す泉水、庭園、また唯一の遺構を伝える金閣が残ったことは、せめてもの慰めとなったのであろう。
3)復興の努力
 これまでに荒れてしまった鹿苑寺を復興するには並大抵のことでなかった。時の住持は維馨凡桂いけいぼんけいで、すでに」82歳の高齢であったが、敢然として再建にとりかり、まず方丈の再建を手始めに少しずつ復興の緒に就いた。義政は、そのころ建設中の東山殿の会所建立の参考のために、文明19年3月10日に寺官を呼んで様子を尋ね、6月5日には、不意に当寺を訪れ、金閣を点検している。これは、東山殿の中に金閣と同様のものを建てる上の参考にするためであった。
 長享2年(1488)5月には、寺山の材木を伐り出して用いた客殿が完成し、中断されていた毎年1015日の将軍御成りを復活して客殿にお迎えしようとしたが、これは中止となった。やむなく相国寺の陶原、鹿苑院の維明などをまねき、新築の客殿で饗応している。
 この後、将軍の御成りも次第に行われなくなった。また、以前は御成りのたびに応分の賜りものなどもあり、寺側も歓迎したのだが、将軍家の権威が弱まるにつれて、おなりごとにかなり接待費の支出を要した寺側としては、様々な理由をつけて辞退するようになる。そして、将軍家に頼るよりも自分たちの手で財政立て直しをはかろう、と言う気運が強まり、維馨凡桂退院の後は、春英寿芳、泰甫などの手腕家が住して、納所寮、会所、方丈、小方丈、庫裏の新築などが完成していた。
 「蔭凉軒日緑」以後の史料としては、景徐周麟、梅叔法霖、有節瑞保らの日記「鹿苑日録」があり、それによると、文亀4年(1504)2月13日、第11代将軍義澄(14811511)が高雄に行く際、永らく絶っていた甲河の橋を当寺に命じて修理させている。義澄は永正元年(1504)4月24日に当寺に参詣しているのだが、この後、将軍の御成りはなかったらしく、これが最後となったのである。
 その後、鹿苑院の梅叔法霖が当寺を兼住する頃には、金閣が創建以来百四十年、方丈なども五十年経っており、屋根の葺き替え、建物の締め直しなどの大修理の時期が来ていた。ちょうど梅叔法霖が兼任した時、たまたま境内から見つかった鏡石に貴賤上下男女が競い合って参詣し、庶民の出資により黒木の鳥居が建てられたりして、その賽銭が日に20斤もあったという。
 この思わぬ収入に加えて梅叔和尚はじめ寺内の者たちが一丸となって節約を重ね、それらを基として、まず手始めに方丈の屋根葺き替えに着手し、次いで金閣の工事に移った。梅叔は常に工事を見回り、実に熱心に監督している。工事は天文7年(1538)6月12日無事終わる。工事は締めて31576文であった。乏しい財源のなかから、良くもやり遂げたとおどろかせている。」7月」8日本山相国寺の一山を招いて、修理の成った金閣において施餓鬼会せがきえを営み、方丈で設斎をし面目を一新した鹿苑寺を皆に披露しています。
4)西笑
 安土桃山時代の激変期には、いずこも同じく天下騒乱、気候の変遷にも気づかぬほどであったが、やがて徳川家康によってようやく平安な世の中になる。そして、その家康の命につて当寺に入寺したのが西笑承兌せいしょうじょうたいである。この西笑の住持以後、度弟院つちえんとなり独住住持となった。(主に禅宗などで、師匠が自己の得度させた弟子を住持とさせる寺。十方刹じっぽうさつに対していう)が復活し、その後は西笑の法系によって継承されるのである。西笑承兌は当寺の中興であり、独住の第一世である。
*独住制とは、輪住制に対する制度で西笑は豊臣秀吉、徳川家康の二人の政事顧問として重用され、数
 々の実績を上げて活躍し、「黒衣の宰相」と言われた人で、兌長老と呼ばれ、桃山時代の政治面に重要 な役割をはたした。文禄元年(1592)の秀吉の第1回朝鮮出兵の際、九州の名護屋城に同行しており、  慶長元年(1596)9月1日、明の使節が皇帝の国書以て講和のために来朝した時も、秀吉の前でこれを
 見上げている。この文中に「封爾為日本国王」(爾ナンジを日本の国王にしてやる)とあり、これをこ
 のまま読み上げればれば秀吉のみならず誰でも怒り出すに違いない。そこで、重臣小西行長は兌長老
 にこの部分だけ変えて読むように頼んだのだが、兌長老はこれと潔しとせず、原文の通り読み上げた。
 果たして烈火の如く憤怒した秀吉は、直ちに第二次の朝鮮派兵を断行したのである。

  この第2回の朝鮮出兵は全くの泥仕合となったのだが、この時、各地から参戦した大名たちは、これを
 西笑と同じく秀吉に重用されていた千利休の説く侘茶に共鳴し、競ってその弟子となり、利休の、中国産
 の端正な茶道具よりも朝鮮産の侘びた物の方が侘茶に適合する、という主張にしたがい、朝鮮各地にお
 いて喫茶用として使用可能な高麗茶碗を漁り、各地の窯場の陶器職人たちを多数日本へ連れて帰った
 。佐賀藩の唐津焼、島津藩の薩摩焼、毛利藩の萩焼など、諸窯が大いに起こり、我が国の陶磁器史上
 に一大転換期を迎えたのである。さらに、この時期に来日した李参平によって有田の磁器鉱が発見され
 るに及び、それまでの陶器に代わり、磁器が生産されるようになった。これらの製品は伊万里焼として各
 地へ出荷され、後には遠くに欧州各地にも輸出されるようになる。陶磁器王国の名を高からしめた発端
 は、兌長者(西笑承兌)の一言によって起きた第二次朝鮮出兵である、といえるのである。

6)明治以降
  貫宗長老の住持しておられた明治中頃は寺も随分貧乏で、門前へ5円、10円と借金に行ったのだが、しかもその借金で随分と什物を購入された。
*什物じゅうもつ 
  仏教教団が所有している日用品の種々の器具、生活必需品。元来は什は十、聚じゅと同義で、
 雑物の意。日用品は十を単位として数えるほど多く、雑多であることからいう。中国宋そう代以
 後に、おもに禅宗寺院で、修行生活に必要な公用物、仏具法器ぶつぐほうき類をさして用いられ
 た。日本では古くは『元興寺伽藍縁起并流記資財帳がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう
 のように、寺院所有の器物を資財とよんだが、のちには什物あるいは什器とよぶのが一般的に
 なった。また寺院秘蔵の宝物類も什宝と
よばれるようになった。
   明治27年大阪で共進会(今の博覧会)が開かれた際、貫宗長老は思い切って庭園の一般公開に踏
  み切り
     
京の金閣寺を拝見なしたか、ごろうじんしたか
     楠天井の一枚板に南天の床柱、萩の違い棚、名所名所
  という自分で作られた俚謡りよう(民謡)を、あちらこちらではやらせた。当初の拝観は方丈へ参拝して
  大書院の若冲の襖絵や什宝を拝見し、ここで、末茶を一服いただき、庭に出て金閣へ登り、鏡湖池を
  一周してもとの道へもどった。志納料は御茶共で十銭、庭園だけで五銭であったが、一日10人か20
  くらいの参拝客であったろうか。もちろん時期を限って公開したことであった。

   竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」の中に、由良之介の隠宅へ加古川本蔵の女房が娘を連れて主税と
  の祝言しゅうげん(結婚式)をなさんものと訪ねて来る場面で、「金閣寺の拝観なれば、良いつてがござる
  ぞへ」というところがあり、寛延元年(1748)竹本座初演であるから、その頃でも、よいつてがあれば拝
  観出来たらしい。いかし、拝観客が増加したのは、明治30何年かの京都での共進会開催以後のことで
  ある。

*俚謡りよう 
   民謡の同意語。明治から昭和20年代まで用いられたが、今日では死語となっている。「民間で歌い伝
 えられた歌、さとうた、俗謡」をいい、田舎(いなか)らしい唄(うた)、田舎の唄、都会のように洗練されてい
 ない唄などをさす語であった。ところが、この語には、都会に対して田舎を一段下にみる差別用語的な感
 じがつきまとうため、NHKでは1947年(昭和2273日までは用いていたが、第二次世界大戦後の民主
 主義の急速な広がりのなかで廃止された。

*博覧会の歴史
 世界初の万国博覧会は、1851年にロンドンで開催された。それを皮切りに、欧米諸国を中心に万博ブー
 ムが起こり、各国で続々と開催されるようになる。日本が初めて正式に参加した万博は、1867(慶応3)
 のパリ万博である。明治時代に入ると、国内でも博覧会(内国勧業博覧会)が開催されるようになる。

  世界各国では近代技術の開発と都市の活性化のために幾多の博覧会が開かれて
きた。 日本は186
 7年(慶応3年)のパリ万国博覧会にはじめて参加したが、時は政情不安な幕末で、幕府と薩摩藩が国」 の代表を争うという変則的な参加であった。 そののち1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会には、政
 府として初めて正式に参加、生産技術や経済制度などを導入し、同時に日本の海外への紹介を通じて、
 産業発展に多大の影響をもたらした。 わが国でも1751年(宝暦元年)ごろから動植物や鉱物などの天産
 物を展示した「本草会」とか「薬品会」、または「物産会」と言って博覧会の原型が開かれていた。

  海外の万国博覧会参加を契機に、日本でも博覧会が開かれることになるが、江戸時代の物産会など
 の土壌が培われていたから、博覧会の導入も容易に受け入れられたものといえる。

  明治維新で東京遷都となつた京都は一挙に沈滞、その活性化対策として民間人が主催して開かれた
 のが、1871年(明治4年)の「京都博覧会」で、これが日本で初めての博覧会であった。これによって国内
 各地で小博覧会が相次いで開催されるようになった。 殖産興業を標榜する明治政府も1877年(明治
 10年)東京・上野公園で第1回内国勧業博覧会を開き、以後の博覧会の原型となった。

  この内国勧業博覧会は明治14年に第2回、同23年に第3回と上野公園で開催され、第4回は同28
 年京都へ移され、第5回は同36年に大阪・天王寺で開催された。このときは将来の万国博覧会の布石
 として、初めて海外の出展・参加を招請し、内国博というより、さながら万国博覧会の観を呈し、“明治の
 ミニ万国博”といわれた。

  このほか貫宗長老は、明治維新の変革期に際し、苦心して金閣寺保存会を設立して一般の文化財保
 護の関を高め、檀信徒による永続講を組織して正法護時の念をふかめられた。また本山相国寺にも執
 事として大いに貢献するところあり、現在の京都府立病院の基となる京都療病館の設立には、府下諸宗
 寺院とともに協力し、その幹事となって尽力し、相国寺も大いに資を投じて功を助けられたのである。明
 治26年に夕佳亭の隣に拱北楼を再建して隠棲、住職を寛道に譲られた。

  寛道和尚は明治37年(1904)から金閣の大解体修理をなし、同年に鏡湖池の浚しゅんせつをしたのだ
 が、この間、保存会、永続講などの多大な援助があったのである。ところが寛道和尚が明治4年に遷化
 せんげ
され、貫宗長老は再び当寺を見られる。明治4011月に開山夢窓国師五百五十年遠忌、開基義
 満公の五百年忌を厳修されたのち、翌41年2月に七十三歳をもって遷化された。当寺は貫宗長老をもっ
 て再興となす。


(3)金閣放火事件
 金閣寺放火事件きんかくじほうかじけんは、昭和25年(195072日未明に、京都府京都市上京区(現・北区)金閣寺町にある鹿苑寺(通称・金閣寺)において発生した放火事件である。アプレゲール犯罪の一つとされた。
 195072日の未明、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。当時の金閣寺には火災報知機が7箇所に備え付けられていたが、630日に報知機のためのバッテリーが焦げ付いていたため使い物にならなくなっていた。幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍足利義満の木像(国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点も焼失した。
 鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名・林養賢、京都府舞鶴市出身、1929319日生まれ)が行方不明であることが判明し捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。
1)動機
  当時警部見習いだった若木松一氏の回顧談の抜粋である。
 「住職さんはじめ関係者を集め出火当時のことを聞いたがいっこうに要領をえません。普段火の氣のない所です、行方不明の小僧のことを聞くと、部屋は空っぽで、小僧の放火が疑われる。その小僧の行状、性格、前夜の行動など聴取したが、住職さんも、小僧さんも、寺にいた人ぜんぶが、その小僧養賢の仕業だとは信じられんというのです。本人は前夜、住職さんの部屋にもきて、あんまもし、灸も手つだっていたし、近くの若狭の正法寺の和尚さんと碁も打って、火をつけるようなけはいはもちろんなく、正法寺の和尚さんが碁を終って、寝室へはいったのは12時すぎていたそうですから、それからあと、急に心が変わって、大それたことをやったことになる。信じられないというのが、大方の判断でした。しかし、本人がやらなかったら、金閣が燃えて、こんな大騒ぎになっているのに、出てこないのは変だ。やっぱり怪しい、ということになって、捜索がはじまりまいた。
  だが、どこへ行ったかさっぱりわからん。小僧の部屋の西側廊下に泥のついた草 履の足跡がいくつもありました。庭先から、小僧の持ち物がいろいろ発見され容疑が濃くなり、寺内に潜伏していつ気配ないので、昼すぎから山狩りすることになり、寺の人、消防団員もあわせ捜索隊をつくって、金閣寺をめぐる山裾そこいらじゅうを虱潰しに探しあるきました。午後4時ころやっと林が、山の中腹にいるという報せがきました。部下をつれて私は走りました。林は道にへばっていた、胸から血をながし、短刀で突いたことがわかりました。来ているのは丸首シャツに学生服ズボンです。そのほかに何もなく、近づくとうつろな眼で、私をにらみました。「林養賢」というと、うなずきました。正直、初めて林を見た時、こんな男だったか、とおもいました。つまり、金閣放火という大それたことをやった男なら、それなりの小僧の姿を空想していたのですが、予想をうらぎられた。凶悪な感じのしない、まじめな男なのでびっくりしました。「お前が火をつけたのか」と問うと「そうや」と正直に答える。とりあえず手錠をはめて本堂へ連行して詰問したところ、意識は朦朧としていますが、だいたいのことを供述しました。本人に罪状をかくす遺志はない様子がわかり、放火の動機や、12時すぎに正法寺の和尚を寝室におくってからの行動も、記憶違いのこともアリマシタガ、だんだん思い出してくれて、詳しくわかりました。私の印象は、カルチモンを百錠も飲んでいたために、支離滅裂なことを初めは言っていたが、段々にもどると、冷静になりました。精神障碍者という判断はもてませんでした。西陣署へ入ってからは、たいへんおとなしくて、私のさしだしたわら半紙に、文章をかきました。一番わすれないことは、林は住職に反感をもっていないことです。せけんでは小僧が住職への反感から火をつけたというふうにいわれていますが、私の印象は別でした。正直、私には、不思議な気がします。ああいう大きなお寺の内情はなにもわかりませんし、興奮してしゃべる言葉の裏側にこんな男を、こんな風に逆上させるようななにが原因があるに違いない、とおもってみるのですが、私にはわからないのです。新聞、雑誌がいろいろ書き立て、世間の人等もいろいろいいましたが、犯人逮捕にあたってから、拘置所へ」つくまで、ずっと身柄を見ていた私には、「こんな男が、どうしてあんな大それた罪をおかしたのか、不思議だ」という気持ちが強かったのです」。
 林養賢の供述から金閣寺を放火しなければ決定的な理由がみあたらないのです。
 世間ではこれをアプリゲール犯罪と呼んでいます。アプリゲールとは、第二次世界大戦後である。戦前の価値観・権威が完全に崩壊した時期であり既存の道徳観を欠いた無軌道な若者による犯罪が頻発し、彼らが起こした犯罪は「アプレゲール犯罪」と呼ばれた。
  この日本が世界に誇る国宝金閣寺の炎上という大事件で且つ不思議な事件を題材として数名の作家が作品を発表しています。中でも著名なのは三島由紀夫の「金閣寺」と水上勉の「金閣炎上」である。2作品の概要を述べてみる。
2)「金閣寺」(三島由紀夫作)
 第一章 幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
  私が生まれたのは舞鶴から東北の、日本海に突き出したうらさびしい岬である。
 父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽しらくである。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙な岬(成生なりう岬)の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子をもうけた。
 写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心のなかでは、父の語った金閣の幻の方が勝ちを制した。父は決して現実の金閣が、」金色にかがやいているなどと語らなかった。父によれば、金閣ほど美しい物は地上になく、又金閣というその字面じづら、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。
 もし私が謙虚な勉強好きの少年だったら、そんなにたやすく落胆する前に、自分の鑑賞眼の至らなさを嘆いたであろう。しかし私の心があれほど美しさを予期したものから裏切られた苦痛は、ほかのあらゆる反省を奪ってしまった。
 私は金閣がその美を偽って、何か別物に化けているのでないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということはありうることである。もっと金閣に接近して私の目に醜く感じられ障害を取り除き、一つ一つの細部を点検し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である。
 あれほど失望を与えた金閣も、安岡へ帰ったのちの日に日に、私の心のなかでまた蘇らせ、見る前よりもっと美しい金閣になった。どこが美しいという事ができなかった。夢想に育まれたものが、一旦現実の修正を経て、却って夢想を刺戟するようになったとみえる。もう私は、属目しょくもく(目に触れること)の風景や事物に、金閣の幻影を追わなくなった。金閣は段々に深く,堅固に、実在するようになった。その柱の一本一本、花頭窓、屋根、」頂の鳳凰なども手に触れるようにはっきりと目の前に浮かんだ。繊細な細部、複雑な全容はお互いに照応、音楽の一節を思い出すことから、その全貌が流れ出すように、どの一部を取り出してみても、金閣の全容が鳴り響いた。
 「地上でもっとも美しいものは金閣だと、お父さんが言われたのは本当です」と初めて私は父への手紙にかいた。
 折り返して、母から電報が届いた。父が、夥おびただしい喀血かつけつをして死んいた。
第二章
 父の死によって私の少年時代はおわる。駆けつけた時、父はすでに棺の中に横たわっていた。
…母は命日の前日に。金閣寺へきて一夜の宿りをゆるされる手はずになっていた。命日の日は、私も学校を休めるように、住職が手紙を書いてくれた。勤労動員は通いであった。前日私は鹿苑寺へ帰るのが気がおもかった。私がまるきり母にあいたくないというのは誇張になる。母が懐かしくないわけではない。ただ私は肉身の露骨な愛情の発露に当面するのがいやであった。それがわたしの悪い性格だ。
 -母はすでに来て、老師の部屋で話をしていた。私は縁先に膝まずき、只今帰りました、といった。老師は私を部屋に上げ、母を前にして、この子も良くやっている、というようなことをいった。老師はわれわれ母子に、部屋をさがってよいと言った。中庭に面した五畳の納戸が私の部屋である。母はリックサックから米を取り出した。老師に上げるのだといった。私は黙っていた。更に母は古い鼠いろの真綿に包んだ父の位牌をとりだして、私の本棚の上においた。「ありがたいこっちゃ。あしたは和尚様にお経をあげてもろうて、お父様も喜んでやろう」「命日がすんだら、成生なりうへ帰るのか?」母の答えは意外であった。母はあの寺の権利をすでに人に譲り、これからは身一つで、京都近郊の加佐郡の伯父の家へ身を寄せるように、話をつけてきた。
「ええか。もうおまえの寺はないのやぜ。先はもう、ここの金閣寺の住職様になるほかないのやぜ。和尚さんに可愛がってもろうて、後継ぎにならなあかん。ええか。おかあさんはそれだけをたのしみに生きてるのやさかい」
 私は動転して母の顔を見返した。しかし、恐ろしく正視できなかった。
第七章
 昭和年正月のことである。映画館で映画を見て帰るし、私は久々に新京極を一人で歩いた。その雑踏の中で、良く見知った顔に行き渡ったがそれが誰だか思い出せぬうちに、顔は人波に押し流され私の背後に紛れてしまった。その人はソフトをかぶり、上等な外套とマフラーを身に着けて、明らかに芸妓と分かる錆朱色のコートの女と連れ立って歩いていた。桃色のふくよかなの顔、普通の中年紳士には見られぬ異様な赤ん坊の様な清潔感、長めの鼻、…他ならぬ老師その人の顔の特徴である。巧みにすり抜けてあちこちの店さきに立ち寄った。
 しばらく歩いてそのときつやつやした車体のハイヤーが目の前に止まった。私は思わずその方を見た。女に続いて乗ろうとした男は、ふと私の方に注意してそこに立ちすくんだ。それは老師であった。どうして先刻私とすれ違った老師が、女とともに一巡して又私に巡り合う羽目になったのかわからない。ともかくそれは老師であり、先に車へ乗った女のコートの錆朱色も先ほど見た色の記憶が残っていた。
 今度は私も避けることができなかった。動転して口から言葉がでない。とうとう私はじぶんでも思いがけない表情をした。老師に向かって笑いかてたのである。だが、私の笑いを見た老師は顔色を変えた。
 「馬鹿者!私を追っ跡ける気か」そう叱咤した、忽ち老師は私をしり目に車に乗り、」ドアは音高く占められ、ハイヤーは走りさった。先ほど新京極であつた折も老師は確かに私に気付いていたということが、そのとき突然はっきりした。
 その年の11月のわたしの出奔しゅぽんした。すべてこれらのことが累積した結果である。私の出奔の直接の動機は、その前日、」老師が初めて決然たる口調で、「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今ははっきりそういう気持ちがないことをいっておく」と明言したその言葉に架かっていたが、宣告されたのはこれが最初とうはいえ、わたしはずっとまえからその宣告を予感し、覚悟していたはずである。にもかかわらず、私は自分の出奔が、老師のこの言葉に触発され、衝動によって行われたと考えたい。
第十章
 金閣の第一層法水院ほすいいんの入口は二つある。東西に一つずつ、いずれも観音開きの扉がついている。案内人の老人が夜、金閣に登って、西の扉を内側から締め、東の扉を外から締めて、それに錠前をおろすのである。しかし錠前がなくても金閣に入れることを私は知った。北側の板戸は老朽化しており上下の釘を6、7本抜けばたやすく外れるのである。釘はいずれも緩んでいて、指の力で楽に抜くことができる。そこで私は試みに、その2本を抜いておいた。抜いた釘は紙に包んで机の引出しの奥深く保存した。数日経った。誰も気が付いた様子はない。一週間たってもだれも気付く気配はなかった。二十八日の晩ひそかに2本の釘を元へもどした。老師のうずくまった姿をみて、いよいよ誰の力にも頼らない決心をした。私は千本今出川の西陣署近くの薬屋でカルモチン(睡眠薬)を買った。初め30錠入りと思われる小瓶を出したので、わたしはもっと大型のをくれ」と言い、百錠入り百円で買った。
 その日が北。昭和25年7月1日である。金閣の側の北側の板戸を外しに行った。釘は一本一本、柔土に刺さっていたようにたやすく抜けた。私は傾く板戸を体ごと支えていた。私は外した板戸を傍らの土によこたえた。私は漱清へ通じる西の西の扉を開いた。その扉から戸外へ身を踊らして、大書院裏へかけもどった。大書院の裏に重ねておいた荷を、4回にわたり金閣の義満像の前に運んだのである。最初に運んだのは蚊帳と敷布団、次が布団2枚である。次がトランクと柳行李、つぎが三束の藁である。胸は陽気に鼓動を打ち、濡れた手は微かに震えていた。あまつさえマッチは湿っていた。1本目は付かない。2本目はおれた。3本目は明るくもえあがった。藁のありかを探しているうちにマッチはもえつきた。私は今度は2本を束ねて擦った。火は藁の堆積の複雑な影を描き四方に伝わったが煙の中に日は身をかくした。
 私の頭はこの時はっきりと冴えた。マッチの数には限りがある。今度は別の一角に走って、1本のマッチを大切にして、別の藁のⅠ束に火をつけた。燃え上がる火は私を慰めた。法水院の内部には大きく揺らめく影がおこった。賽銭箱に火が移るのを見てもう大丈夫だと私はおもった。
 この火に包まれて究竟頂で死のうという考えが突然生じた。そして火から逃れて狭い階段を駆け上った。潮音洞へ登る扉がどうして開いたのか疑いはおこらない。煙は私の背に迫っている。私は更に階を登って、究竟頂の扉を開けようとした。扉は開かない。三階の鍵は堅固にかかっている。私は懸命にその戸をたたいた。私は煙にむせほとんど気を失いそうになった。それから。私は自ら何処へ行くとも知らず韋駄天のように駆けたのである。 …私は駆けた。どこをどう通ったか覚えていない、左大文字の頂まで来たのだ。ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と。
天に冲ちゅうしている火が見えるだけである。木の間をおびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂子を撒いたようである。
 ポケットをさぐると、小刀とカルモチンの瓶が出てきた。それを谷底めがけて投げ捨てた。別のポケットのたばこが手にふれた。私は煙草を喫んだ。一と仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私はおもった。
第8回・1956年読売文学賞 三島由紀夫代表作
 三島由紀夫の「金閣寺」の登場人物の名はほとんどは実在の人物名である。住職の名前は同じでも作品の中の住職は全くの別人「架空の人物」である。住職の浮気の現場を偶然見てしまった。このため将来金閣寺の住職の後継者なる夢が消え、金閣の放火に繋がったというストーリーになっている。登場人物名は実在の人物名であるが、内容はフィクションである。
 「金閣寺」は三島由紀夫の代表作であり。海外でも知られている。
3)「金閣炎上」(水上勉作)
  西徳寺のある京都府舞鶴市成生と水上勉の郷里福井県大飯郡本郷村(おおい町)は、県はことなるが、成生と旧本郷村は隣村であり、水上勉は以前、林養賢に合、会話したこともり、身近な関係であった。それだけに水上勉は金閣炎上事件について十分に調査し「金閣炎上」をノンフィクション物語として発表した。
 金閣の焼失以来四ヵ月余を経た十一月八日、林養賢は、京都拘置所の一室で、初めて接見禁止が解除され、村上慈海師と対面した。事件発生後、百三十日目であった。養賢は夏のままの着衣で、手錠をはめられ、面会室で、師と会った。養賢は、あとから入ってきて、待っていた慈海師の顔を一瞬、ちらと見ただけで、前に座ると顔はあげず、青黒い眼を伏せた。慈海師は、その養賢を見入りつついった。
 「少し落ち着いてきて、自分のやったことを考える余裕ができたかね」
 「…」養賢はだまっている。
「まだ、一面にだけこだわっているようだだが、真人間にもどるには、もう少し時間がっかりそうだな」
 言い終わるか終わらない間に養賢が」顔をあげた。
「わ、わ、わしは、裳、裳、申し訳ないことをした、と思っています。け、け、け、けど、いま、長老さんにも、世の中の人々にも、わびる気持ちはありません」
「しかし、その世の中の人々の血と汗のおかげで、建っていた金閣をお前は焼いたのではないか」と慈海師はいった。
「…」養賢はだまった。
 慈海師も顎をひいてだまった。養賢のかたくな溶けない我の塊を見た思いで去った。
 養賢は判決のあった十二月二十八日午後、京都拘置所を出て身柄を兵庫県加古川刑務所におくられた。
 加古川刑務所の林養賢の生活は、穏健で、至極真面目で、健康を取り戻し、労働日課も優秀なところから所外勤労に出される日が多かった。刑務所では、市内の軽金属工場や、土建事業所の要求に応じて、人夫に囚役者を向ける慣行があった。護送車で、朝早く事務所に着くと、看守の監視下で、手錠を外されて労働をやり、事業所の賄う昼食を取り、夕刻にいたって、また手錠をはめられいぇ、刑務所へ帰る。スキをみて逃亡狩野な所外労働だから、服務態度が良くないと仲間に入れてもらえない。
 慈海師に、加古川から養賢の手紙や来るようになったのは年があけてからえある。
 村上慈海師和尚猊下げんか(高僧に対する敬称) 不肖の弟子は、いまこころから、ふかく、ふかくおわびいたします。私がなしました罪悪は、何よりもまして深く、仏徒としてあるまじきこと、また人間の子としてあるまじきことをなしたことに氣ずき、只今はひたすら反省いたしております。猊下は、私が京都拘置所を去る時、一面を見て、全体を見なかったと仰せられましたが、まこと、私は人生、社会の一面のみを見てきたことに気づきました。わたしという小我を守って、他のかなしみや、美しさにきづかざる、まことにだいそれたことおしでかしたことの恐ろしさ。あの世のことが、いまひしひしと悔いられ、土に付したい気持ちであります。何卒なにとぞ、猊下、わたしの子の気持ちをお察しください。おゆるしください。おゆるしください。なにとぞおゆるしください。
 この作品はノンフィクションである。拘置所で、面接した折、侘びの意志はないと言いきっていた養賢の急な変容である。


                           Ⅱ.境内
 閣寺庭園は標高約201メートルの衣笠山きぬがさやまを借景に鏡湖池きょうこちを中心とした池泉回遊式庭園ちせんかいゆうしきていえんです。庭園は面積約28千坪(約92,400平方メートル)で、鏡湖池だけでも面積約2千坪(約6,600平方メートル)もあります。庭園は鏡湖池を中心に葦原島(あしはらじま)・淡路島・5つの亀島・3つの鶴島などの島や畠山石・赤松石などの奇岩名石が配され、九山八海(くせんはっかい)を表現しています。なお鏡湖池の名称は鏡のように金閣を映し出すことに由来し、鏡湖池に映る金閣は「逆さ金閣」と言われています。
  池泉回遊式庭園は大きな池を中心に築山や池の中に小島・橋・名石などを配し、池の周囲に設けられた園路を回遊して鑑賞します。池泉回遊式庭園では休憩所・展望所・茶亭・東屋なども設けられます。なお回遊式庭園は室町時代に禅宗寺院、江戸時代に大名によって多く作庭され、日本庭園の集大成とも位置付けられています。


            黒門
 
        門前休憩所
  

1黒門
 西大路金閣寺道のバス停から数分、金閣寺黒門に着く。門に各種の様式がある。もっとも簡単な様式に冠木門かぶきもんがある。 二本の柱の上部に冠木かぶきと称する横木を貫き渡した門である。本来は屋根のはいもんであるが。飾り目的で冠木の上に小さな子屋根を乗せるばあいもある。この黒門は、冠木もんから、冠木を省略した形になっています。柱だけでは通常門とは言わない。しかし、この黒門は柱2本だけであるが門としての風格があり、門として認知されているようである。門を潜ればそこは金閣寺です。

2.門前庭園
 敷地内で建物の無い空間を庭と呼んだ。この場合は、通路も軒下も庭になる。通称は通路や軒下を除き植物が植わっている空間や人間や動物の遊場や、洗濯物を干したり、軽作業をする場所も庭と称している。室内であっても土間を庭という場合があり、その場合、庭を外庭と呼び区別している。
庭園ていえんは、見て、歩いて楽しむために、樹木を植えたり、噴水・花壇を作ったりなど、人工的に整備された施設。日本では、自然を模して川・池・築山などが作られ、木や草が植えられているものもある。庭を大きくしたのが庭園でぁる。
金閣寺の敷地は広い、2万8千坪(やく92,4002)ある、黒門を潜り、総門までかなりの距離である。門の前は門前という。従て総門の前の庭園は門前庭園と言える。この門前庭園のトイレが2か所、売店および休憩所が二か所ある。そのうち1か所は入園者用であり、他の1か所は観光が終わった観光客用とおもわれる。
門前庭園は手入れの行き届いた苔庭である。コケは草類より適用範囲が広く世界中に存在するが、コケを鑑賞物として庭や庭園に利用しているのは日本だけである。
 コケ類と草類(種子植物草本類)の違いはなにか、第一、コケ類には植物根に相当する根はない、草類は根から、水分や窒素(N)、リン酸(P)、カリ(K)当の肥料を吸収するが、コケ類には物に付着するためのものはあるが、水分や栄養分を吸収するための根は存在しない。コケはコケ体表面から水分を吸収し植物体を構成するため必要な成分は、光合成反応により体内で合成するため肥料等の水以外の物質は必要としない。
第二特徴はコケの成長速度は草類に比べて非常に遅いことである。
 庭園は森ではない。木の植えている密度は疎で、太陽光線が地面に届く状態にあります。このような状態は草類もコケ植物も共に生育できる環境にあります。このような環境では草類の成長速度は速く、コケを覆い、いつかコケの存在は忘れされてしまいます。スギゴケ等日光を好むコケは、自然界ではこのような状態で生存していのです。門前のコケ庭はほとんど雑草は生えていません。これは日頃からこまめに草取りをし充分な庭園の維持管理が行われていることを意味しています。

 
                    境内図

 
     世界遺産金閣鹿苑寺
 
         総門

3.総門
 総門の前に「世界遺産・金閣鹿苑寺」の堂々とした自然石の石碑がの野面積の基台の上に置かれている。その左に金閣寺の由来を記した看板がたてられています。
 門の医薬門です。薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食やぐい」からきたと言われています。また、かつて医者の門として使われたことからとも。門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれていますが、この構造でなければならない理由はなさそうです。
 基本は前方(外側)に2本、後ろ(内側)に2本の4本の柱で屋根を支えます。特徴は、屋根の中心の棟が、前の柱と後ろの柱の中間(等距離)に位置せず、やや前方にくることです。したがって前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になります。
 屋根は切妻、二垂木にたるき(二軒にのき)、本瓦葺、懸魚げぎょは拝みの位置に蕪懸魚かぶらげぎょ髭有が1つあります。懸魚は屋根飾りであると同時に火災防止のお呪いでもあります。
 通常の一般建築地垂木の上に瓦を乗せますので、屋根は反りが無く直線になります。寺社建築は屋根に反りを入れるため。地垂木の上に長さの異なる束を乗せその上にの垂木を載せます。野垂木の先端を飛檐ひえん垂木と言います。二種類の垂木を使いますので二垂木または二軒といいます。
 懸魚の取り付け位置は3か所あります。妻面の最上部は、三角形の頂点になります。ここは、破風いたが手を合わせる形になっているためこの位置うは拝おがみと呼ばれています。拝みの左右に各1ヶ所合計3か所ある。
 壁には白線が5本あります。これは筋塀すじべいと言います。筋塀は、古来の日本建築における土塀の一種で、定規筋じょうぎすじと呼ばれる白い水平線が引かれた築地塀を指す。 元々は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として5本の定規筋を引いたのが始まり。そこから、定規筋の数が寺の格式を示すようになり、5本線が最高格式を表すものとなった。

 
         庫裏
 
          唐門

4.庫裏くり 
 寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の時食を調える、つまり台所も兼ねる場合がある。なお現代では、その多くは僧侶の居住する場所をいうことが多い。
 庫裏は大規模寺院では独立した建物であるが、一般寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多い。一般の民家とよく似た建物も多い。禅宗の寺院では、伽藍の守護として韋駄天が祀られていることがある。
 禅寺では、学僧を中心として住僧以下の僧侶や仏前に供える食事を調理する場所で僧堂と兼ねる。これを大庫裏(大庫院)という。これに対し、方丈建築の近傍に設けられるものを小庫裏(小庫院)といい、住持の内侍や客院などの厨房を指す。
  創建   慶長7年(1602) 再建;天保6年(1835
  建築様式 切妻造(玄関棟;入母屋造)、屋根は桟瓦葺、二垂木
 妻飾り  本棟は二重虹梁蟇股、懸魚は拝みに1か所三花みつはな懸魚が取り付けられている。本棟の二重紅葉蟇股は標準でなく異形である。下段の虹梁の反りがすくなく、通常の梁に近い、上の虹梁は左右2つの蟇股で支えられるが、ここでは真ん中に1つか蟇股があり、その左右に大瓶束だいびんずかがある特異な形である。
 玄関棟の妻飾りは、狐格子きつねこうしで、懸魚は本棟と同じ三花懸魚が拝みに一か所取り付けられている。当庫裏は、西笑承兌さいしょうじょうたいが慶長7年(1602)、方丈と共に建設したもので敷地面積は444.3m2あり、禅院の庫裏としては最大す。
 笑 承兌(15481607)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての臨済宗の僧。相国寺承兌、泰長老とも呼ばれる。号は月甫、南陽。豊臣秀吉や徳川家康の顧問・外交僧的役割を務め、伏見城下の指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老)に屋敷を構えたという。特に諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。

5.唐門
 唐門からもんは、屋根に独特の唐破風があることから呼ばれます。破風とは一般に切妻屋根の側面にある三角形の合掌の部分をさしますが、唐破風は弓を横にしたような形をし、中央が高く、左右になだらかに流れる曲線をもつものです。
 唐門のうちで、唐破風が正面にあるものを向かい唐門または向こう唐門といい、唐破風が側面にあるものを平唐門ひらからもんといいます。
 唐門というと中国から入ってきたように思われがちですが、日本で生まれ、平安後期からのようです。唐破風のカーブは時代がさがるほど急になっているということです。
 金閣寺の唐門、建設時期不明、四脚門、向唐門、屋根は杮葺きである。4本柱のもんには、薬医門と高麗門があるが、四脚門は4本柱でなく6本柱である。本柱が2本に、控え柱4本合計6本の柱で構成されている。本柱の前後も控え柱が置かれるが、控えはしらが人の足に似ていると考え四脚門という。

 
         鐘楼
 
     天然記念物・イチイガシ

  6.鐘楼
  金閣寺鐘楼は、昭和30年(1955)に再建されました。鐘楼は鎌倉時代前期に鋳造され、西園寺家さいおんじけ由来の梵鐘を釣っています。梵鐘の音色は雅楽ががくの黄鐘調おうしきちょう(雅楽六調子の一つ。黄鐘の音(イ音)を主音、すなわち宮音とする旋法。)と言われています。
  一般的に鐘楼は梵鐘を吊るす堂塔です。鐘楼は金堂こんどう・塔・講堂・経蔵・僧坊・食堂じきどうとともに七堂伽藍しちどうがらんと言われています。鐘楼は寺院で時刻や非常を告げる施設として設けられ、梵鐘の響きは功徳くどくになるとされました。鐘楼は古くは金堂の背後に経蔵と対し、一般に太鼓を置いた鼓楼ころうに対して伽藍の両翼を建立されました。鐘楼は古代中国の様式を模し、上下2層からなる楼造たかどのづくりの法隆寺ほうりゅうじ西院伽藍の鐘楼(平安時代)が唯一残された古式の鐘楼遺構と言われています。その後法隆寺東院の鐘楼(鎌倉時代)のように下層が裾すそ広がりの袴腰造はかまごしつくりや東大寺とうだいじの鐘楼(鎌倉時代)のように四隅に柱を立て、四方を吹き放した吹放ふきはなしなどの鐘楼が現れました。鐘楼は現在、高い土台の上に四本柱を立て、四方を吹抜きにしたものが一般的です。なお鐘楼は鐘撞堂・釣鐘堂などとも言われる。
 金閣寺鐘楼は切妻造の本瓦葺です。 切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平ひら、棟と直角な面を妻つまと言います。

7.櫟樫イチイガシ ・京都市指定天然記念物
 推定樹齢400年以上、他かさ約20m、幹回り、5.3
 鹿苑寺(金閣寺)境内にあるイチイガシの巨樹である。現在の境内が再建,整備された330年ほど前に植えられたものとも思われるが,通常イチイガシは境内などには植えられないものなので,自然植生と考えられ,かつて存在した極相性のカシ林の残 存木とも考えられる。樹高19.5m,胸高幹周4.93mに達し,幹の基部は1mくらいまで根上りして板根(幹の支持のために,幹の基部から張り出している根)状になっている。
 イチイガシはブナ科コナラ属の常緑高木。
 本州(関東以西の太平洋側)・四国・九州・済州島・台湾・中国に分布する。神社に植栽されることが多く、特に奈良公園で多く見られる。
  大きいものは高さ30mに達する。樹皮は黒っぽい灰色、非揃いに剥がれ落ちる。葉は倒非針形から広倒非針形、先端が急に尖り、縁は半ばから先端にかけて鋭い鋸歯が並ぶ。葉はやや硬く、若いうちはその表面に細かい毛を密生、後に無毛となり深緑になる。また、裏面は一面に黄褐色の星状毛を密布する。雌雄同株で45月頃に開花する。
 シラカシはごく一般的で、山でも多く見られるほか、都市の緑化樹木としても多用されていて、広く親しまれている。また、その材は鉋(かんな)台など各種大工道具の素材として、また各種道具類の柄の素材として最も一般的である。
 これに対してアカガシは局所的に原生的な自然が残された森林などでしばしば見られる程度で、その材に関しては、木刀、鑿の柄、高級鉋の台等に使用されている素材で赤味のあるものはアカガシなのであろうと信じられている。
さらに、イチイガシとなるとさらに印象が薄くて、九州でも宇佐神宮などの神社やごく一部に残された原生的な森林でしか見られない。まれに都市緑化木として単木的に植栽されてもの見かける程度である。また、その材はかつては槍の柄として、あるいは和船の艪材として最適であったとの伝説を耳にするものの、身近にはそれらしき製品は見られない。個人的にも、これがイチイガシだとして知り合いが講釈する柄物を手にして、やや軽いなという認識を持った程度であった。
・関東南部より西の暖地に自生するカシの仲間。日本のカシでは最も南方に分布し、四国や九州でカシといえば本種あるいはアカガシを示す。暖地の林地で普通に見られるが、都市部では奈良公園に数多い。日本以外では韓国の済州島、台湾、中国本土に分布する。
7.1 イチイガシの実
 イチイガの実はドングリです。ドングリ(団栗)とは、広義にはブナ科の果実の俗称です。ドングリは、一般に渋みがあって生で食することが出来ません。渋みの原因はタンニンが含まれているからです。
 タンニンとは、タンパク質と反応し強く結合して難溶性の塩を形成しまいます。この時、渋みを発するものです。これは動物に食されることを防ぐためと考えられています。タンニンは皮なめしに使用する薬品です。
 皮なめしは、皮膚に含まれるたんぱく質とタンニンが化学反応し、難溶性の強固な物資である革かわに変化することです。
 このドングリの中で固有名詞を持つものがあります、それは「栗くり」と「椎しいの実」のの2種類はタンニンが少なく、渋抜きすることなく生で食することができます。この2種はドングリと区別し「栗」、「椎の実」とよんでいます。
 一方、カシ類はタンニンの多い果実であるが、どういう理由は不明であるが、イチイガシだけはタンニンの含有量が少なく、栗や椎の実と同等生で食することが出来るのである。

 
       舟形一文字蹲踞
 
         参拝門

8.舟形一文字蹲踞つくばい 
 建物の前にあれば前庭、中にあれば中庭、入園門前庭、建物の位置に庭の名称はかわる。入園門の前にあれば前庭となる。この前庭も門前の庭と同様手入れの行き届いたコケ庭がある。この前庭内には、鐘楼、休憩所、便所、京都市指定天然記念物イチイガシがあり、さらに舟形一文字蹲踞がある。写真で見ると蹲踞の中に樹木が植えられ、蹲踞がプランタン役をしているように見えるが、実際には樹木の前に蹲踞が置かれているのである。蹲踞つくばいは、茶道で低い位置で蹲踞そんきょの姿勢で手を洗う小さな手水鉢のことである。舟形一文字蹲踞は位置も高く位置も手水鉢の置かれるばしょでない。
.1蹲踞そんきょ
 蹲踞そんきょとは、体を丸くしてしゃがむ、または膝を折り立てて腰を落とした立膝をついた座法を言う。相撲や剣道等においては、礼儀として試合をする直前に対戦する相手と仕切り線をはさみ、腰を下ろして向かい合う姿勢のことも言う。
・相撲では爪先立ちで踵(かかと)の上に尻を載せて腰をおろし、膝を開いて上体を起こした状態を指す。 ・剣道では相撲と同様の姿勢、または片膝を床に着けて立ち膝で上体を起こして姿勢 を正した状態を言う
 。ときに竹刀を正眼に構えた状態で蹲踞する場合もある。伝統的な剣術では片膝を床につく折敷という
 礼法であったものが、剣道になった際新たに爪先立ちで踵の上に尻を載せる礼法が制定されたもので
 ある。

・日本拳法では、立礼・座礼と合わせて、三法と呼ばれている
8.2蹲踞つくばい 
 つくばうには平伏・平身低頭する意味、踞こごむは屈み込んだ状態を指し、腰をかけたり中腰の状態の踞ぐ(しりうたぐ)を指すことから転じて貴人が通行する際にしゃがんだ状態で礼をするさまを言う。
 (つくば)って使う手水(てみず)の形式を蹲踞つくばいという。伊勢いせ神宮の五十鈴(いすず)川で手水を使うのも一種の蹲踞で、桂(かつら)離宮松琴しょうきん亭茶室前の「流れの手水ちょうず」(桂離宮)もまったく共通したくふうである。通常は立ち使いのできないよう低く水鉢を据える。手水構えを不可欠の施設とした茶の湯の露地ろじで、この蹲踞が発達した。蹲踞そんきょして手水を使うことは、茶の湯にふさわしい謙譲の所作であったからである。茶の湯は「出世間しゅっせけん」の世界である。潜くぐりや蹲踞は世俗を超えるための結界けっかいである。亭主が自ら運び入れた水を、客がくむ。客にとってもっとも厳粛な所作であり、茶事における主客の心の最初の触れ合いがある。露地が奥山寺へ通う山中の情景を理想としたように、蹲踞も岩清水をくむような幽邃ゆうすいな趣おもむきを求めた。そのため手水鉢には自然石を利用したものが多いが、また各種のものが用いられてきた。

9.参拝門
 参拝門を潜れば、入園料を支払って見学する庭園になる。門の様式は総門と同じ藥医門である。総門よりやや小形、4本柱で扉は開放されている。ここは一方通行、戻ることは出来ないはできないが、薬医門の様式とおり、潜戸はついている。庭園内の歩道は、車道の様に広い、両側に竹垣が続いているが、その竹垣は金閣寺垣ではない。

10.浄蔵貴所塔
 しばらく進むと右側に浄蔵貴所塔があらわれる。看板に下記のように書かれている。 平安時代の天台密教僧・浄蔵(891964)の供養塔。浄蔵は幼い頃から聡明で7歳より仏門を志し、12歳にして出家した。加持祈祷にすぐれ、神通力で八坂の塔の傾きを治すなど、様々な軌跡を起こしたことで有名である。 この塔にお参りすると浄蔵の不思議な力によって願い事が叶うとされています。

 
       浄蔵貴所塔
 
         園内歩道

 
                  金閣絶景ポイント

11.コケ庭
 看板の表示によれば、浄蔵(891964)は平安時代初期の人である。北山鹿苑寺を開いた足利三代将軍義満(13581408)は、室町時代初期の人である。北山鹿苑寺の前に山荘を開いた・西園寺公経さいおんじきんつね11711244)は、鎌倉時代初期の人で、山荘をひとで、その時点には既に、浄蔵の供養塔存在していたことになります。
 歩道を左側が開けます。芝生を思わせる大きなコケ庭である。
 山口県山口市に水墨画家作庭通称「雪舟庭」といわれる常栄寺庭園(国指定名勝)がある。この庭園は木立もほとんどなく石とコケだけの大きな庭園である。木立がない点では常栄寺庭園と同じであり、その広さも常栄寺庭園と1,2を競うおおきさかもしれません。
 芝は成長も早く維持管理も容易で世界中何処へいっても見ることができます。しかし、コケの成長速度は草類の数分の1、維持管理も非常に難しく、世界でコケ植物の維持管理技術を習得したのは日本だけ、コケ庭を見ることができるのは日本だけです。
 歩道をさらに進むと鏡湖池に突きあたりますその辺りは金閣絶景ポイントです。

12.方丈
 金閣寺の本堂にあたり客殿ともいわれる。1678(延宝6)に後水尾天皇の寄進により再興される。一重、入母屋いりもや造桟瓦葦。仏間には本尊聖観世音菩薩坐像、夢窓国師像、足利義満像、文雅慶彦像などが安置されている。
 金閣寺方丈庭園は室町時代に絵師・相阿弥そうあみが作庭したとも言われる枯山水庭園です。方丈庭園には第108代・後水尾天皇お手植えの侘助椿わびすけつばきが植えられ、女龍石・布袋石・走馬石・蟠龍石・露盤石などが配されています。なお方丈庭園は通常非公開だが、特別公開される場合があります。
 第108代・後水尾天皇は文禄5年8(1596629日に第107代・後陽成天皇と女御・中和門院ちゅうかもんいん・近衛前子このえさきこの間に第3皇子として生まれ慶長16年(1611327日に第107代・後陽成天皇から譲位されて第108代・後水尾天皇になりました。その後江戸幕府による公家衆法度・勅許紫衣法度ちょっきょしえはっと・禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっとの制定や東福門院とうふくもんいん・徳川和子とくがわまさこの入内・およつ御寮人事件およつごりょうにんじけん・金杯事件などにより、後水尾天皇は1629年(寛永6年)118日に江戸幕府への通告しないまま第2皇女・興子内親王(第109代・明正天皇)に譲位し、第109代・明正天皇、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇、第112代・霊元天皇後見人として院政を行いました。また後水尾天皇は承応2年(1653)から修学院離宮しゅがくいんりきゅうの造営を開始し、承応4年(1655)に完成しました。なお後水尾天皇は延宝8年(1680911日に85歳で崩御しました。
枯山水は池や遣水やりみずなどの水を用いず、地形や石・砂礫(されき)などで山水の風景を表現する庭園様式です。枯山水は水がない庭で、石で滝、白砂で水などを表現する石組みを主体とし、植物が用いられてもごく僅かです。枯山水は中国の庭園や中国の宋そう・明みんの山水画(破墨山水はぼくさんすい)などの影響を受け、南北朝時代(1336年~1392年)から室町時代(1336年~1573年)に禅宗寺院を中心に発達しました。禅宗寺院では方丈前庭などに多く作庭されました。枯山水は最初実景の写実的な模写が多かったが、次第に象徴化・抽象化が進み、石の配列による空間構成の美が重視されるようになった。枯山水は仮山水かさんすい・故山水ふるさんすい・乾泉水あらせんすい・涸山水かれさんすいなどとも言われています。

 
         方丈
 
         陸舟の松

13・陸舟の松りくしゅうのまつ 
 方丈の隣りにある書院の庭に「陸舟の松」と呼称される名松がある。 この陸舟の松りくしゅうのまつは「善峰寺の游竜の松」「大原宝泉院の五葉の松」と並んで京都三松の一つに数えられている名松で、 当主であった足利三代将軍義満が、自ら育てていた盆栽を地植えにし、それを舟形に仕立てたゴヨウマツであるという。 陸舟の松の舟先は金閣のある西の方角を向いているのだが、これは、この船で西方浄土に向かおうという発想からこの形に仕立てられたのだろうという。 義満が盆栽から育てたということならば、樹齢はおよそ600年という老松なのだが、樹勢は良く若々しくすら見える。 京都三松が、三本共にゴヨウマツが選ばれているのは偶然なのであろうか?

 
                  金閣全景南側

14.金閣
 「金閣寺」の名は今では知らぬ人無き有名な寺院の1つであるが、この禅宗寺院(相国寺塔頭)がかくも有名になったのは庭園の池畔に「金閣」あるがためであり、「銀閣寺」も同様である。しかもこの両寺は昔から名高い寺である。
 当地では「…金閣寺に銀閣寺、拝見なればよい手があるぞえ」とか「金閣寺を拝見為したか御覧じ為したか、楠天井の一枚板に南天なんてんの床柱とこはしら萩の違い棚」などと母から気化されたものである。そのように、金閣寺・銀閣寺は昔から観光面でもあこがれの寺であった。
 さて金閣寺の通称をもつ鹿苑寺ろくおんじは室町時代初期、応永4年(1397)に足利義満が西園寺家の北山殿を得て建築、造園の工事を起こした大邸宅がもとで、金閣のほかに寝殿・会所などの主要殿舎や付属建物が庭園と共に営まれ、金閣もその中の一つで、もと舎利殿と呼ばれていた。これらの多くの殿舎が滅びたなかで、金閣ののみは昭和25年7月まで」健在であったが、その二日夜、寺僧・林養賢により放火され全焼した。しかし幸いにも明治37年(1904)から2年にわたる武田五一博士を主任とする解体修理があり、その時作られた詳細な図面が多数あったので、それを最良の手がかりとして元の姿に復元されたのが今の金閣寺であり、それは昭和27年3月から同30年9月に行われた喪のである。古い金閣寺が出来たのは応永5年(1398)頃でその後、度々の屋根葺き替えや大小の修理が加えられて来た。明治修理以前は各層の下まわりに多くの支柱が添えられて外観も良くなかったが、これらは皆取り除かれて瀟洒なすがたを池に写していた。
 鏡湖池のほとりに建つ三層閣、金閣は池に臨んだ、いわゆる庭園建築として銀閣・飛雲閣などと共に二階以上の住宅風建築として特異でさる。もっとも金閣・銀閣では三層、二層が仏殿風になり、下層は住宅風と様式が違っているが、すこしの不調和も感じさせない。当時、二層の庭園建築が足利氏関係の邸内におこなわれ、また西芳寺舎利殿も二層の建築だったが、金閣はこれを模したと言われ、しかも多分初めてと思われる三層の庭園建築とされて新機軸が出されたのである。その上、一層上部は縁だけで各層に屋根がなく、三層は内外とも金箔置きという新意匠であった。ただし一層・二層と縁が重なり、屋根がない造りは唐招提寺鼓楼がそうであり、金箔を置くのも古く中尊寺金色堂に先例がある。この三層閣は初・二層が矩形で同形同大、即ち東西が約11.7m、南北が8.5mで、柱間はしらまは南の正面が広縁で、三間だが、奥の中心部では五間、両側面は広縁の一間を入れて四間で、西側に方一間の「漱清そうせい」という吹き放し(壁・扉などがない)の突き出しがある。第三層は方三間の正方形平面で屋根は宝形杮葺きである。全体の姿極めて軽快で気が利いており、水辺に軽く泊まって羽を休めている鳥の様なかんじである。

 
      金閣第一層「法水院」
 
       金閣第二層「潮音洞」

14.1 法水院ほうすいいん 
  一階は寝殿しんでんづくりで、「法水院ほすいん」といいます。寝殿造は、平安時代中期10世紀後半)から中世にかけて使われた貴族の住宅建築様式です。放水は、衆生の煩悩ぼんのうを洗い清める水のことです。舟遊びもでき、舟着き場もあった。なかには釈迦如来像と第三代将軍足利義満像が安置されている 釈迦(しゃか)は一般的に「らほつ」と呼ばれるパンチパーマのような髪形をしています。ところが、平安時代に密教が盛んになりました。密教の思考の仏さまは大日如来です。大日如来は宝冠をかぶっておられます。この影響を受けた宝冠をかぶるお釈迦さんが誕生したのです。
正面広縁の前は四本しか柱がなく、しかもそれが吹き放しで、一間けん入ったところに五間とも全部格子型のつり上げ式である蔀しとみをいれる(下半分は取り外せる式で、この形を半蔀はじとみという)。このように、広縁奥の五間、即ち柱6本に対して前は三間の四本としたのは思い切ったやり方で、それまでにほとんど採られなかった新方式であり、現代人なら台風のとき懐になって危ないとかなんとか言って心配するかも知れない。しかし、柱も細く18センチの面取り方柱であるのに、それでも五世紀半もの間無事だったのである。方柱に蔀戸しとみど、それは平安時代からの貴族住宅、寝殿造りの一部を受け継ぐものであり、古い伝統につながるものである。しかし、縁上の天井には二層の広縁及び三層内部を通して平面上の鏡天井である。」これは禅宗様系である。なお側・背面の柱間は、壁または板扉である。広縁の下に低い落縁があり、そこには現代住宅にでもあるような簡素な高欄(手摺)をつけている。そして初層室内には広い一室で北側西よりに仏壇を築いている。
  初層と第二層とは挿肘木さしひじきで持ち出された幅広い縁でわけられる。もしこれが縁でなく屋根であったなら、おそらく気のきかない鈍重なものとなったであろう。宴には細い簡素な高欄を組み、それが全体の調子を和らげている。
14.2 潮音洞ちょうおんどう 
この二層は「潮音洞ちょうおんどう」と呼ばれています。菩薩(ぼさつ)の広大な慈悲が海の音のように遠くからやってくるといういみです。室町時代後半から出来た武家の建築様式です。板壁(金箔置き)や舞良戸まらいど(横に多くの桟をもつ戸)などを用い、一階の蔀とは変わった扱いをしている。内部には岩屋観音と四天王像が安置されています。岩屋観音は固有名詞であり、金閣潮音洞に安置する観音像を岩屋観音像とよびまつられた。

 
              金閣第三層「究竟頂」

14.3 究竟頂くぎょうちょう 
  この上に正方形平面の三階が乗るが、これを「究竟頂くぎょうちょう」という。禅宗様の仏殿を初・二層の住宅風意匠に合うように変形させながらも、禅宗様から離れないように努め、かつ軽快に造られている。花頭窓や桟唐戸さんからと、組物やまわりの高欄などみな禅宗様である。内部は一室、全部に渡って金箔をおく。天井は平面の鏡天井で、前述の民謡の「楠天井の一枚板」とはこれをいったものである。屋根勾配はすべたすべてごくごく緩く、屋上には金銅の鳳凰をおく。鳳凰の姿は平等院鳳凰堂のそれを受け継ぎ、首には宝珠をつけているが全体に世紀に乏しく鳳凰堂のもんお様な迫力はみられない。
  三階は禅宗仏前造で「究竟頂」といいます。「究竟頂」には、「究竟くきょう」「究竟くっきょう」「究竟きゅうきょう」3つの読み方があり、その読み方によって意味も異なってきます。
14.3.1究竟くきょう」の意味は「究極にたっすること」です。
  「究竟」を「くきょう」と読むときは仏教用語で、主な意味は「究極に達すること」です。物事が最高の、また極めつけの状態に達することで、お経などにも使われている言葉です。「究極に達すること」という意味が転じて、特に武芸において「ちからや技術が非常に優れていること」または「大変都合がいいこと」という意味もありいます。
14.3.2「究竟くっきょう」
 という読み方は、「くきょう」に促音化させてよみことで意味を強調しています。そのため「くっきょうと読ませるときの「究竟」の意味は。「究極的な状態にたっした究極の境地」になり、きわめてすぐれた状態を指します。「くっきょう」のばあいにも「武芸に大変にすぐれていること」という意味とともに「大変都合がいいこと」という意味もあります。
14.3.3「究竟」を「きゅうきょう」と読むときは「究極」や「最高の状態」という意味があります。また副詞に使い、「結局」や「つまるところ」という意味もあります。「究竟」とは仏教用語として「究極に達すること」という意味。あまり一般的に使われる言葉でありませんが。究極という言葉と類似しています。
14.4舎利殿(普通名詞)
  この建物は通称「金閣」と呼ばれていますが正式名称は舎利殿です。「舎利」とはお釈迦さまの遺骨のことです。しかし2千数百年前に亡くなった釈迦の遺骨を入手することは不可能です。そこで、日本では舎利(釈迦の遺骨)に似た物を舎利としてお祀りしているのです。ところが日本に本当の舎利殿があるのです。
  それは、ヨーロッパの探検家がインドの旧舎利殿の発掘調査をしたところ。舎利の入った壺が現れたのです。その壺を時の首相であったネール首相にお届けしたのです。インドは仏教発祥の国ですが、現在はヒンズー教の国で、仏教徒はほんのわずかです。ネール首相から舎利の一部が進呈されたのです。
 ネール首相から送られた舎利を使った本当の舎利殿の1つが、富士山の正面にあ
る静岡県御殿場平和公園の舎利塔です。
  金閣寺は金色です。金が貼られています。す昭和25年(1950)の放火による焼失前の金閣寺は、当時少なくとも三階部分には金箔が残っていました。(二階部分については金箔が貼ってあったかどうかは議論中です)
  焼失後の大改修では、二階と三階部分に金箔が貼られますが、10年程ではがれてしまいました。これは金箔にある目に見えない穴から紫外線が侵入し、下地の雨うそを侵食したことが原因でした。これを克服すべく、1986年から翌年にかけてこな割れた「昭和の大改修」では、それまでの5倍の厚さの金箔が用いられました。大きさは約10.8㎝四方で、これが約20万枚使われました。使われた金の重量は20㎏、現在の価格で約1億円くらいです。
14.5 杮葺き
金閣寺の屋根は杮葺きです。杮葺こけらぶきは、屋根葺手法の一つで、木の薄板を幾重にも重ねて施工する工法である。日本に古来伝わる伝統的手法で、多くの文化財の屋根で見ることができる。
 なお、「杮(こけら)」と「柿(かき)」とは非常に似ているが別字である。二つの違いとしては、右の部分「市」です。
 「柿(かき)」は「市」=「亠(なべぶた)」+「巾」で、「柿(こけら)」は「市」=「市」です。「柿(かき)」はなべぶたと巾の間に隙間がありますが、「柿(こけら)」には隙間はありません。「柿こけら」は8画ですが、「柿かき」は9画です。ただし、両者はよく混用されたています。 2020年「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」がユネスコ無形文化遺産に登録され、この中に「檜皮葺・杮葺」が含まれている。
1)概要
  板葺の一種であり、薄く短い板を重ねて葺く。曲線的な造形も可能で、優美な屋根をつくることができ、主に書院や客殿、高級武家屋敷などに用いられた。 耐用年数は25年程度とされる[2]。また、瓦葺の下地として用いられることもあり、土居葺あるいはトントン葺と呼ばれる。  用いる杮板こけらいたの厚さにより以下の種類がある。
① 杮葺こけらぶき、最も薄い板(杮板)を用いる。板厚は2 - 3ミリメートル。ふつう一枚ずつ釘で打ち付ける 。
② 木賊葺とくさぶき、杮板よりも厚い板(木賊板)を用いる。板厚は4 - 7ミリメートル。最も格の高い葺き方 とされ、仙洞御所などで用いられたが、現在ではほぼ使われない。
③ 栩葺とちぶき、最も厚い板(栩板)を用いる。板厚は1 - 3センチメートル。東北地方でよくみられる。
2)材料
  ヒノキ、サワラ、スギ、エノキなど、筋目がよく通って削ぎやすく、水に強い材木が用いられる。地方によってはクリやマキも用いられる。木賊葺や栩葺にも、トクサ(木賊)やクヌギ(栩)が材料として用いられるわけではない。
   原木を30㎝程度の輪切り(玉取り)にし、刃物でまず耐水性に劣る辺材を落とし、次に6ないし8等分に放射状に割る(ミカン割り)。次に柾目取りに割り裂いて3㎝程度の厚板を取る(分取り)。板幅をそろえた(脇取り)後に決まった板厚に割り裂いて仕上げる(小割り)。板を裂いて作ることから、板を重ねたときに間に適度な隙間ができ、毛細管現象により水を吸い上げることを防ぎ耐久性が増す。このように原木を割り裂いていくため、節があるような原木では杮板は作れない。材料の確保には手の行き届いた森林が必要であるが、林業の衰退により難しくなってきている。
3)葺き方
  軒先に軒付板と呼ばれる化粧材で厚みをつくった上から平葺きする。葺足(ふきあし・上下の板をずらす間隔)3㎝程度を基本とし、左右の板の継ぎ目は上下で重ならないようにする。板は二枚重ねごとに竹釘で止める。この際、耐久性を向上するため銅の薄板を挟み込むことがある。箕甲(みのこう・破風際の曲線)では撥型に成型した板を用いる。
  木目方向に割って作成した板材をつかった杮葺きは通常40年程度の耐久性があるといわれている。4)歴史
  初期の杮葺は板葺に檜皮葺の技術を取り入れたものと考えられる。大山祇神社本殿や厳島神社摂社大元神社は、創建当初に檜皮葺と杮葺の両方の技術的な特徴がみられる、板葺から杮葺への過渡期と思われる葺き方であったことが修理で確認されている。杮葺という名称が確認できる最古の文献史料は『多武峰略記』(1197)で、現存最古の杮葺は法隆寺聖霊院(12世紀前半)内の厨子であるとされる。   江戸時代までは栩葺・木賊葺も社寺建築に使用されていたが、板が厚く直線に近い屋根しか葺くことができないことから、薄板で自在性が高い杮葺へと次第に移っていった。三仏寺本堂のように、建立当時は栩葺や木賊葺であったが後世の修復で杮葺へ変わった建築物も数多い。よって、現存する板葺の文化財は多くが杮葺で、栩葺・木賊葺は少なく屋根職人も殆どいない。

15.鏡湖池 

 
               鏡湖池と葦原島

❶ 葦原島 金閣の前の大きな島が葦原島である。
❷ 九山八海石 葦原島の下あるのが鶴島です、鶴島の先にある石島が九山八海石です(見難い)。
❸ 亀島 鶴島の下の島が亀島と思えます。共に1本松です。
 京都の世界遺産に登録をされている金閣寺は、その美しさはもちろん、金閣寺の目の前にある美しい湖畔に線対称に映し出される光景もまた美しいものです。
 この池の名前を鏡湖池といい、「きょうこち」とよみます。この漢字に込められている通り鏡のように金閣寺を映し出すことから、その名前が付けられています。鏡湖池に写った金閣は「逆さ金閣」と呼ばれ、写真家などにも愛されています。
 鏡湖池に込められているものとは、鏡湖池は浄土世界にある七宝の池を模して造られたといわれています。七宝の池は金・銀・瑠璃・水晶・珊瑚・赤真珠・深緑色の玉の七種類の宝石でできており、池には金の砂が敷かれているといわれています。七宝の池の水は八つの功徳を持っていると考えられています。この八つの功徳とは、甘い、冷たい、柔らかい、軽い、清らか、くさくない、飲むときにのどをいためない、飲んでお腹をこわさないをいう、少し不思議な言い伝えです。
 金閣と鏡湖池。鏡湖池はどの角度から見ても金閣が湖面に映るように設計されているといわれ、鏡湖池に映った金閣の光景は金閣寺を代表するビュースポットとなっています。鏡湖池は金閣の前に広がっており、風が無く良く晴れた日には鏡に映し出されたような逆さ金閣が見えることで有名です。
 金閣寺庭園は鎌倉時代の西園寺さいおんじ)時代と室町時代の北山殿きたやまどの時代を経て、改修前の池泉舟遊式庭園ちせんしゅうゆうしきていえんから池泉回遊式庭園に改修されたとも言われています。特に金閣前の葦原島は3倍程度大きく改造されたようです。
  西園寺は鎌倉時代の元仁元年(1224)に太政大臣・西園寺公経さいおんじきんつねが真言寺院として創建し、鎌倉幕府と西園寺家が緊密だったことから鎌倉時代に隆盛したが、鎌倉幕府が滅亡すると衰退し、室町時代に室町幕府3代将軍・足利義満あしかがよしみつ金閣寺の前身である山荘を譲ると室町(上京区竹園町付近)に移転しました。
 北山殿(北山第きたやまてい)は応永4年(1397)に室町幕府3代将軍・足利義満あしかがよしみつが河内の領地との交換によって西園寺(北山殿)を譲り受けて北山殿を造営しました。鏡湖池南側の雑木林は室町時代中期頃(14世紀末)に造られた池跡(東西約115メートル・南北約80メートル)で、未完成のまま造営が中断された可能性が高いと言われています。室町時代中期頃(14世紀末)は足利義満が北山殿を造営した時期と重なります。なお北山殿は御所に匹敵する規模だったが、応永15年(1408)に足利義満が死亡すると応永16年(1409)に室町幕府第4代将軍・足利義持あしかがよしもちは北山殿の一部を破却し、応永26年(1419)に足利義満の妻・北山院(日野康子ひのやすこ)が死亡すると金閣(舎利殿)以外の建物などは解体され、南禅寺なんぜんじ・建仁寺けんにんじに寄贈されました。
 金閣寺庭園は足利義満が施主となり、西園寺公経が施主となって策定した北山第きたやまていを改造し現在の金閣寺庭園になしました。しかし現在の金閣寺庭園は、室町時代作庭の庭園様式より、鎌倉時代時代の作庭様式近いとされていづ、それでは「古寺巡礼」文例をのべる。
  鎌倉時代の庭園は、先の平安時代の庭園と同じく浄土式の池泉庭園でありながら、初期の段階では池泉舟遊式であったものが、後に回遊式となっていく。広い池庭に蓬莱島や鶴島、亀島などを配し、そしてまた西芳寺の枯滝石組や夜泊石,鹿苑寺における蓬莱島その他における石組において、三尊石組の手法がでてきたりという変化がでている。特に三尊石組による非常に豪快でありながら,卓越した意匠が残されている。次の室町時代の庭園手法に対する付箋でもある。このような変化は初期の段階では、寝殿式、すなわち作庭記流の庭に対して、書院式の要求による武家好みの別派が起こって、革新的な庭に対する要求がでてきたためである。

 
       三尊石と細川石
 
        島・石島の位置図

15.1芦原島(蓬莱山)
 金閣寺(鹿苑寺)の鏡湖池きょうこちには大小10の中島と15を超える岩島がある。池の中央に位置する最大の中島が「蓬莱島ほうらいじま」であることは一般にもよく知られているが、ここ鏡湖池では「葦原島あしはらじま」とも呼ばれている。
 「蓬莱」は中国道教の思想で「方丈ほうじょう」「瀛州えいしゅう」とともに東方の三神山のひとつであり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。転じて、この三神山は日本を指す言葉に使われてる。 神仙思想は紀元前3世紀頃から、中国の山東半島を中心に広がったもので原始的な宗教であるアニミズムの一種と考えられる。不老不死の神仙(仙人)が実在するとし、人間が神仙になることを信じている。4世紀に晋の葛洪(かっこう)が著した『抱朴子』では、不老不死になるためには修行によって生を養う養生術と、丹(または金丹)という薬を作って服用するという錬丹術がある、としている。神仙思想は後に道教に取り入れられ、民間に広がる。不老不死を願った始皇帝、徐福を日本に派遣?
  山東半島のはるか東の海中に蓬莱山などの神仙境があり、そこには不老不死の仙 薬があると信じられていた。秦の始皇帝も不老不死を願って仙薬を求め、徐福を蓬莱山に派遣した。徐福は数千人の童男童女をつれて、蓬莱山に向かったという。この徐福の目指した蓬莱山とは日本のことで、徐福が日本に来たという伝説が残っている。丹後半島の東南海岸(京都府)にある新井崎神社は、この徐福を祀る神社だという。<福永光司他、『日本の道教遺跡を歩く』1987 朝日選書 p.94
  葦原島には鎌倉時代庭園で重視された三尊石もある。三尊とは、寺院などでまつる中心となる仏で、本尊とその左右にひかえる二脇侍の菩薩の三体のことで、阿彌陀如来と観音・勢至、釈迦如来と文殊・普賢、薬師如来と日光・月光などがある。葦原島の三尊いし変わっている。望遠レンズで確認しないとわからないが4つ目の石がある。小堀遠州作例金地院の鶴亀の庭の礼拝石とみえる。その近くに細川石もある。  葦原島とは古代日本では、我が国、日本を指す言葉である。その他我が国を表わす言葉は①大八洲おおやまくに,②葦原中国あしはらなかくに、③豊葦原千五百秋瑞穂国とよあしはらのちほあきのみずほのくに、④豊葦原千五百秋秋瑞穂国とよあしはらのちほあきのみずほのくになどがある。 鏡湖池に浮かぶ小さな葦原島は、日本列島を表したているのです。すなわち鏡湖池は地球の全面積です。古代日本では、地球上に人間の住む国は日本しか無かったのです。

 
        九山八海
 
        九山八海

15.2 九山八海石
 この九山八海石は、将軍・足利義満が中国から運ばせた名石であり、小さいながらも葦原島と並ぶ主景となっている。
 「九山八海くせんはっかい」とは古代インドの仏教における宇宙館で、世界の中にそびえる須弥山しゅみせんを中心に、九つの山と八つの海が取り囲んでいるとする。 須弥しゅみは、サンスクリット語「Sumeru」の音を写したもので、中国では「妙高」(妙高山)などと訳される。須弥山は下から空輪空輪・風輪ふうりん・水輪すいりん・金こんりんの四輪しりんによって支えられており、山麓には九山八海が交互に取り組み、いちばん外側の海を鉄囲山でっせんが囲んでいる。最上層をなす金輪の最下面が大地の底に接する際となっており、これを金輪際こんりんざいという。また金輪・水輪・風輪の三つのみを指して三輪とも呼ぶ。
 この海外の四方に四大州が広がり、その南の州である南閻魔浮堤なんえんぶだい(閻浮えんぶしゅう)に人間が済むという。さらに須弥山は金・銀・瑠璃・玻璃はり(水晶)の四宝からなっており、頂上の宮殿には帝釈天が、中腹には四天王や諸が住み三十三天を形成している。九山八海とはこの須弥山のことをさしており、九山八海を配した庭は、九山八海即ち小世界を表したものとされる。
 この古代インドの宇宙観は日本にも早くから伝わっており、記録によれば、推古天皇の20年(612)に宮殿南庭に須弥山およびそrに架かる呉橋を築いたとする。
15.3 夜泊石よどまりいし 
  夜泊石よとまりいしは、 池泉庭園において、数個の石を直列に配置した石組のこと。蓬莱思想などからきたもので、神仙島である蓬莱島ほうらいしまには、仙薬財産があるために、それらのものをもとめるために、夜、海に停泊している舟の姿をあらわたもの。
 金閣(舎利殿)の東側に平石が敷き詰められ舟の係留場(船着場)が設けられ、係留場に平衡に数個の石が配置されている。これも鎌倉時代作庭庭園に多い石組です。 金閣の北面は2階建ての渡廊下で天鏡閣に接続され1階及び2階から自由に出入りができたもよう。天鏡閣は大きな建物で宴会うぃyが行われたもよう。

 
         夜泊石
 
          榊雲


15.4
 漱清そうせい
 
漱清そうせいは、金閣(舎利殿)の初層の西面につき出た小亭です。鏡湖池に張り出しす、方1間、切妻造、吹き放しの建物で、船着場にもなっている釣殿です。
 漱清の前の島は出亀島。その前に入亀島があり両島は向い合っています。
16.榊雲 
 金閣の見学を終わる。歩道はなだらかな坂道に変る間もなく茅葺屋根の売店が現れる。なかなか趣のある売店である。売店の後方10段程度登った先に榊雲神社がある。この神社は、」西園寺時代からここで祭祀されており、北山の山の神と言われている。
 西園寺家は、藤原家の本流である北家の藤原公実きんさね四男藤原通季みちすえを祖とし四代目公経きんつねが西園寺を設営して以後西園寺を名乗っていますが、立派な藤原家です。藤原家の氏神は春日神社であり、西園寺家に神社であれが神社の建築様式は春日神社様式でなければならない。しかし、榊雲社は片流様式である。途中で、春日建築様式から片流れ建築様式変更があったのではなかろうか。

 
         銀河泉
 
          巌下水

17.銀河泉 「義満公 御茶の水」
 現在は、わずかに水が湧きでる程度であるが、銀河泉という名前からすると相当豊富な湧水でたようなイメージであるが。この地形から考えると大量な流水には疑問である。

18.厳下水 「手洗い用の水」
 人が手を洗うに適した水溜まりといういみであろう。手洗いの習慣を持っているのは。世界で日本だけでなかろうか。これは、神社でお参りするとき手水舎で手を洗い口をゆすいでからお参りしますが、この習慣が日本人の生活習慣に取り入れられたのコモしれません。外国には手洗いの習慣がほとんどありません。世界て洗いに日がさだめられ、これは日本ユニセフ協会の提案で決まったのです。

 
        龍門滝
 
       壺口瀑布

19.龍門滝
 滝を登り切った鯉が龍に変身するという中国の故事に由来しており、高さ2.3mの滝と鯉に似た石があります。
  「後漢書李り膺よう伝」に出て来る話から。中国の黄河には、ここを登り切った鯉は竜となるという言い伝えがある、「竜門」と呼ばれる急流があります。紀元前二世紀、後漢王朝の時代の中国でのこと。李膺という政治家は、当時の乱れた風潮の中で、正しい政治を守り続けていました。そこで人々は、李膺と親しい関係になった者のことを、黄河の急流にたとえて「竜門を登る」と呼んでいたということです。後に唐王朝の時代になると、このことばは、科か挙きょ(官僚を登用するための試験)に合格することを指して使われ、出世の糸口を意味するようになりました。
 実は、中国には龍門という滝はないのです。黄河中流に中国三大瀑布の1つ壺口瀑布がある。壷口瀑布は陝西省の北部にある川幅約400mの大きさで緩やかに流れるの黄河の河床が急に狭まり、滝幅50m、落差30mの巨大な滝つぼに流れ落ちる様子にちなみ「壷口」と名付けられました。 李膺りようという政治家が龍門瀑といったのです。
 なお中国三大の他の2つは、黄果樹瀑布こうかじゅばくふ(幅101m、落差67m)、特天跨国とくてんここく大瀑布(幅約100m、3段合計70m)

 
    安民沢への石段と金閣寺垣
 
        安民沢

20. 安民沢への石段と金閣寺垣
 厳下水と龍門滝の間の石段、安民沢方向に続いています。両側の竹垣は、金閣寺垣です。この石段は通行止めで接近できませんが、これから進む夕佳亭の周囲も金閣寺垣ですのでそこでじっくりご覧下ださい。
 金閣寺垣は、背の低い透かし垣として代表的な竹垣がこの金閣寺垣です。通路と庭の境目や小さな庭の装飾として、この金閣寺垣はよく使用されます。金閣寺にある垣が原型とされ、名付けられたと言われています。

21.安民沢
 金閣寺(鹿苑寺)には二つの大きな池があります。金閣(舎利殿)の前面に広がる鏡湖池と、金閣の北側の一段高いところにある安民沢あんみんたくと呼ばれている池です。この安民沢は左大文字のある大文字山から流れ出る水を受けとめる鏡湖池の沈砂池としての機能があります。大雨が降るとたくさんの出水があり、土砂が流入するからです。
  鏡湖池は岸や中島に景石を多用している池泉回遊式庭園ですが、安民沢は景石も少なく、西園寺公経が鎌倉時代に造営した池と想定されています。安民沢は東西約 80m、南北約 40 mの大きさがあり、東寄りに白蛇塚と呼ばれる中島があります。白蛇塚の上には五輪塔の笠を5段重ねた石塔が建っています。

 
      白蛇の塚
 
        中島

22.白蛇の塚 
 池の中央には白蛇を祀った「白蛇の塚」が建てられています。白蛇は古くは水神様として信仰されており安民沢にも守り神として白蛇の塚が建てられているのです。なお池の中央に水神を祀る風習は日本各地でよく見られ、日本各地の神社境内の池の中央に弁天堂があるのも水神信仰の一環です。平安、鎌倉の頃は水神=白蛇だったそうですが、後に白蛇は水神である弁天様の使いとされ、池の中央に祀るのも白蛇から弁天様に変わっていったと推測されています。
 対岸のこの丘に白蛇の塚は移動したのではなかろうか。 白蛇しろへびとは、白化現象を起こした蛇である。その希少性により日本各地で縁起のいい動物として信仰の対象となっている。

 
                 夕佳亭

23.夕佳亭せきかてい 
 金閣寺には夕佳亭せっかていという古い茶室があります。夕佳亭は江戸時代前期に鹿苑寺住持・鳳林承章ほうりんじょうしょう15931668)が修学院離宮しゅがくいんりきゅうを造営した後水尾上皇(第108代・後水尾天皇)をお招きするの為に武将で、宗和流茶道の祖・金森宗和かなもりそうわに造らせました。しかし明治元年(1868)に焼失し、明治7年(1874)に再建されました。夕佳亭の名称は眼下の金閣が夕日に映える景色がことに佳いことから名付けられたそうです。
 鳳林承章は文禄2年(1593223日に父である准大臣じゅんだいじん・勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)と母である刑部卿ぎょうぶきょう兼陰陽頭おんようのかみ・土御門有脩つちみかどありながの娘の間に六男として生まれ、禅僧になって西笑承兌せいしょうじょうたいの法を嗣ぎ、金閣寺(鹿苑寺)の住持になりました。江戸時代前期の寛永2年(1625)に金閣寺の本坊で、臨済宗相国寺派大本山・相国寺しょうこくじに入って相国寺第95世になりました。
 金森宗和は天正12年(1584)に飛騨高山藩主・金森可重かなもりありしげの長男として生まれたが、1614年(慶長19年)の大坂の陣で徳川方(東軍)につく父・金森可重らを批判して廃嫡され、母(遠藤慶隆えんどうよしたかの娘)とともに京都に隠棲しました。その後臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺だいとくじで禅を学び、剃髪して「宗和」と号しました。金森宗和は祖父の金森長近かなもりながちかや父の金森可重と同様に茶の湯に秀でていたことから茶人として活躍し、利休七哲に数えられた茶人で、織部流茶道の祖・古田織部ふるたおりべや作庭家として知られる遠州流茶道の祖・小堀遠州こぼりえんしゅうの作風を取り入れ、「姫宗和」とも言われる宗和流茶道の祖になり、江戸幕府3代将軍・徳川家光とくがわいえみつに招かれました。

 
     富士形手水鉢
 
       貴人石

231 数寄屋造・茅葺屋根
  夕佳亭の特徴の一つである建物の構造は寄棟造よせむねつくり茅葺かやぶき屋根の茶室です。大きさは三畳・「茶人金森宗和かねもりそうわ」好みの「数寄屋造り」になります。「数寄屋造り」とは、その時代の流行などに感化されず「己の好みや趣向に沿って建造された家」のことで
232 富士形手水鉢
 茶室の前には手水鉢が置かれています、これは「富士形手水鉢」と呼ばれています。現在、日本各地で富士形手水鉢を見かけますが、この夕佳亭の「富士形手水鉢」がモデルになっているようです。そして上の高い所が白くなっていますがこれは富士の高嶺の白雪をあらわしています。そしてこの「富士形手水鉢」は、この金閣寺を建てた第三代将軍足利義満の孫である八代将軍義政が愛用していた遺愛の品だそうです。
23.3 貴人榻きじんとう(貴人こしかけ)
  茶室夕佳亭の横に、支柱と屋根だけの吹き放しがある。その下に「貴人榻きじんとうと呼ばれる石が置かれている。椅子に似た自然石です。しかし、この「貴人榻」はその名の通り、貴人が座り、椅子とされたことから「貴人榻」の名前が付されています。この「貴人榻」は室町幕府の御所から移されたという。加工の無い自然石で、椅子としてはおそまつ。座ってみても座り心地が悪い。これは、実用性より鑑賞でなかったのでなかろうか。

 
        夕佳亭南天柱
 
 柴又帝釈天大客殿南天柱

 
      萩の違い棚
 
       夕佳亭平面図


23.4 南天の床柱と萩の違い棚
  夕佳亭でまず目につくのが茶室正面の「南天床柱」と床の右脇にある「萩の違い棚」である。床の間の横にある三角形の飾り棚は、萩の違い棚と呼ばれています。棚の構造は、上から立体的に見ないと分かりません。
 南天は「難を転じる」など縁起の良い木とされています。南天常緑低木樹で通常高木にはなりません。樹齢数百年の巨木に出会えるのは奇跡中の奇跡です。
 金閣寺の夕桂亭の中柱は、南天の柱では日本一といわれていますが、諸説あります。 岐阜県の山中で推定樹齢1500年の、大正8年(1933)、東京柴又帝釈天が入手、昭和4年(1929)大客殿頂経の間の南天の床柱大客殿が新築された時に使われたもので「日本で最大の南天」と昭和37年の植物研究雑誌に取り上げられています。
 帝釈天の南天は樹齢1500だそうですから、この2本も推定樹齢800と言ってもいかもしれませんいずれにせよ古木であり特殊な銘木であることは間違えありません大客殿は本堂裏に位置し、昭和4年(1929年)の完成です。 東京都の選定歴史的建造物になっています。 座敷と庭の間にガラス障子を立て込んだ廊下が細長く続いています。この座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は根元から8本に分かれた枝ぶりが天井に届くまでの大きさを誇り、 角柱の前に添えてあるため、床柱というかなんというか・・・座敷を貫通している様は、木そのものといった大胆さ!

 
       不動堂
 
       茶所


24.不動堂
 入母屋造り、妻入り、向拝付き、二垂木、桟瓦葺、三花懸魚髭有3か所不動堂ふどうどうは金閣寺山内の最古の建物とも言われています。不動堂は茶室・夕佳亭の東南にあります。不動堂は桟瓦葺の入母屋造です。なお不動堂には弘法大師・空海が造ったとも言われている本尊・石不動明王を安置しています。また鎌倉時代に造られた不動明王立像(重要文化財)も安置しています。 
  不動堂は金閣寺創建以前の1225年(嘉禄元年)公卿・西園寺公経さいおんじきんつねが山荘・北山第きたやまていを造営し、その後創建した浄土宗の氏寺・西園寺に建立されていたとも言われています。また不動堂は1458年(長禄2年)頃に建立されたとも言われています。ただ応仁の乱応仁元年(1467)~文明9年(1477)の兵火によって焼失し、天正年間(1573年~1592年)に豊臣政権の五大老の一人だった宇喜多秀家うきたひでいえが再建しました。不動堂は金閣寺山内の最古の建物とも言われています。1962年(昭和37)には解体・修理が行われました。なお不動堂は不動明王を安置する石室礼堂として建立されたとも言われています。
24.1不動堂 石不動明王
 石不動明王は不動堂の本尊として安置されています。石不動明王は真言宗の開祖である弘法大師・空海が造ったとも言われています。石不動明王は1年に2回、節分の日と五山送り火が行われる日(816日)だけにしか開扉されない秘仏とされています。石不動明王は首から上の病気、特に眼の病気にご利益があると言われています。なお石不動明王は西園寺公経が創建した氏寺・西園寺の遺仏とも言われています。
 不動明王は密教の根本尊である大日如来の化身とされ、五大明王の中心となる明王です。不動明王はヒンドゥー教の最高神・シヴァ神が起源とされ、804年(延暦23年)に遣唐使として唐に渡った空海が806年(大同元年)に密教とともに唐から不動明王の図像を持ち帰ったと言われています。
24.2 不動明王立像
 木造不動明王立像(重要文化財)は石不動明王とともに不動堂に安置されています。木造不動明王立像は西園寺公経が創建した氏寺・西園寺の護摩堂に安置されていた遺仏とも言われています。
24.3 不動堂開扉法要
  金閣寺不動堂開扉法要かいひほうようは年に2回、節分の日と五山送り火の日に行われます。開扉法要では不動堂の本尊で、秘仏とされる石不動明王が開扉されて公開されます。なお開扉法要では大般若経の祈祷が行われます。節分は元は季節の節目で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を差していたが、江戸時代以降は立春の前日だけを指すことが多くなりました。なお季節の節目には邪気が生じるとされています。

25.茶所
 見学の後、寛げる場所、お茶をいただける場所です。

 




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